春日山城下町整備(1570)
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1570年春日山城下町整備の総合分析:戦国期国家総力戦体制への移行
序論:1570年、「春日山城下町整備」の再解釈
元亀元年(1570年)に越後国春日山で行われたとされる「城下町整備」は、従来「寺社配置と町割による政庁機能の強化」という、土木事業的な側面から語られることが多かった 1 。しかし、この事象を1570年前後の上杉謙信を取り巻く内外の情勢と照らし合わせることで、その様相は大きく異なってくる。本報告書は、この「整備」を単一の都市計画事業としてではなく、謙信が直面した未曾有の戦略的危機に対応するための、より広範な
権力基盤の再編・強化プロセス として捉え直すことを目的とする。
「1570年に大規模な城下町整備が開始された」と明確に記した一次史料は、現存するものが極めて限定的である。そのため、本報告では、春日山城の構造的特徴、1570年前後の政治・軍事情勢、そして上杉氏の経済基盤に関する複数の情報を統合・分析することで、「整備」の実態を立体的に再構築するアプローチを採用する。具体的には、家臣団の城内集住の進展、政庁機能の二元化(山上の本丸と山麓の御館)、経済拠点(直江津港)の掌握強化、そしてそれらを精神的に支える寺社の戦略的配置といった、複数の要素が連動した複合的な事象としてこの「整備」を解明していく。
この分析を通じて浮かび上がるのは、「1570年の整備」とは、具体的な土木事業の開始年を指すというよりも、謙信を取り巻く戦略環境が劇的に変化し、本拠地の機能強化が焦眉の急となった**「画期」としての象徴的な年号であるという可能性である。この年、謙信は長年の宿敵であった武田信玄のみならず、畿内で急速に台頭する織田信長という新たな脅威に直面した 2 。この状況下で進められた春日山の機能強化は、単なる都市計画ではなく、来るべき総力戦に備えた
領国経営体制の抜本的改革**であり、その開始を告げる宣言であったと解釈できるのである。
第一部:激動の1570年 – 整備をめぐるリアルタイム・クロノロジー
ユーザーが求める「事変中のリアルタイムな状態」を明らかにするため、本章では1570年前後の謙信を取り巻く国際情勢を時系列で再構成する。これにより、「整備」が如何なる戦略的圧力のもとで行われたのかを詳らかにする。
第一章:束の間の安定と新たな脅威 – 越相同盟から織田・武田包囲網へ
永禄12年(1569年)に成立した北条氏康との越相同盟は、謙信にとって長年の懸案であった関東戦線を一時的に安定させる効果をもたらした 2 。これにより、謙信は甲斐の武田信玄への対応に戦力を集中できる戦略的優位を得たかに見えた。しかし、この束の間の安定は、畿内における織田信長の急速な台頭によって、わずか1年で根底から覆されることになる。
年月 |
謙信・越後の動向 |
織田・畿内の動向 |
武田・甲信の動向 |
北条・関東の動向 |
特記事項・分析 |
1569年 |
北条氏康と越相同盟を締結。対武田戦線に集中できる環境が整う 4 。 |
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信玄の駿河侵攻が本格化。これに対抗するため北条氏が謙信に接近 2 。 |
謙信と越相同盟を締結。対武田で共闘体制を築く 2 。 |
越相同盟は、信玄の脅威に対抗するための北条氏の外交戦略であり、謙信は関東管領としての権威を背景にこれに応じた。 |
1570年6月 |
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姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利し、畿内での覇権を固める 3 。 |
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信長の畿内制覇は、謙信にとって西からの新たな脅威の出現を意味した。 |
1570年7月 |
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信長、信玄に対し「上杉と武田が開戦した場合は信玄に味方する」旨の書状を送る 2 。 |
信長から対上杉戦における支援の約束を取り付ける。これにより対上杉強硬路線へ傾斜 2 。 |
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織田・武田の連携が明確化。謙信は東西から挟撃される潜在的危機に陥る。これが春日山強化の直接的動機となった可能性が高い。 |
1570年10月 |
信玄との和睦を破棄。両者の緊張が再び高まる 2 。 |
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信長の後ろ盾を得て、上杉との和睦を破棄 2 。 |
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謙信は、東の北条、南の武田、西の織田という三方面からの脅威に直面。この「対上杉包囲網」の形成が、本拠地機能の抜本的強化を不可避とした。 |
1570年 |
入道し、名を「輝虎」から「謙信」に改める 5 。 |
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政治的・軍事的危機に対応するため、信仰と権威を統合し、領国を精神的に結束させる狙いがあったと考えられる。 |
この時系列が示すように、越相同盟がもたらした安寧は、信長という新たなプレイヤーの登場によって瞬時に崩れ去った。謙信は、武田信玄との長年の対立に加え、信長という強大な勢力とも敵対する可能性に直面したのである。この**「対上杉包囲網」の形成**こそが、1570年における本拠地・春日山の機能強化を不可避とした最大の外的要因であった。
さらに分析を進めると、越相同盟は謙信に関東管領としての名目的な権威を維持させつつも、結果的に彼の行動を関東に縛り付ける「足枷」として機能した側面が見えてくる。謙信が関東問題に手を取られている間に、信長は畿内を平定し、信玄との同盟関係を強化した 2 。結果として、越相同盟は謙信から戦略的自由度を奪い、西方の脅威への対応を遅らせるという意図せざる副作用をもたらした。この外交的苦境が、内政、特に本拠地の防衛体制と政治的中枢機能の強化へと彼を駆り立てたのである。
第二章:「輝虎」から「謙信」へ – 信仰と統治の再定義
元亀元年(1570年)、上杉輝虎は入道し「謙信」と号した 5 。この改名は、単なる個人的な信仰心の表れに留まらず、内外の危機に対応するための高度な政治的決断であったと解釈できる。
謙信は自身を軍神・毘沙門天の化身と信じ、その信仰は彼のカリスマ性の源泉であった。出陣前には必ず春日山城内の毘沙門堂に籠って戦勝を祈願したと伝えられ、この行為は家臣団を結束させる強力なイデオロギーとして機能していた 7 。
この年に行われた入道と改名は、この信仰をさらに政治的に活用しようとする意図の表れであった。俗世の権力者「輝虎」から、仏法に帰依した「謙信」へと自己を昇華させることで、彼の戦いは単なる領土争いではなく、「正義と仏法を守るための聖なる戦い」へと意味づけられる。これは、織田・武田という強大な敵を前に、家臣の士気を最大限に高め、領民の結束を促すための絶大な効果を狙ったものであった。
この文脈において、謙信が幼少期を過ごした菩提寺・林泉寺の存在は極めて重要である 7 。林泉寺は、謙信の精神形成の根幹をなす場所であり、彼の権威を裏付ける聖地であった。したがって、1570年の「整備」における寺社配置の重視とは、この**「国家の聖化」戦略**の物理的な表現であり、春日山城下を単なる政治・軍事拠点から、信仰の中心地、すなわち一種の「聖都」へと変貌させる意図があったと考えられる。増大する軍事的脅威に対し、「俗」の論理(軍事・外交)と「聖」の論理(信仰・権威)を統合して対抗しようとする、謙信独自の国家総力戦体制構築の一環が、この改名とそれに伴う寺社の再配置だったのである。
第二部:春日山城下町の構造分析
「整備」の舞台となった春日山城と城下町の物理的構造を、考古学的知見、絵図、そして文献史料から多角的に分析し、その機能と設計思想を明らかにする。
第一章:要塞都市・春日山城 – 「城・町一体」の縄張り
春日山城は、標高約180mの山に築かれた、典型的な中世山城の様相を呈している 7 。しかしその実態は、単なる軍事拠点ではなく、政治・経済・居住の機能を山全体に内包した、戦国期における**「城・町一体型」要塞都市**と呼ぶべき特異な構造を持っていた。
城の縄張りは、自然の地形を巧みに利用し、無数の曲輪(くるわ)、空堀、土塁を配した難攻不落の城塞として知られる 1 。最大の特徴は、城内に上杉家の重臣たちの屋敷が配置されていたことである。直江兼続、柿崎景家、そして謙信の養子である上杉景勝や上杉景虎といった中枢の人物たちが、城内の主要な曲輪に屋敷を構えていた 11 。これは、家臣団を城内に集住させることで、有事の際に即応できる臨戦態勢を維持するとともに、彼らの力を中央で厳格に管理する強力な統制策であった 8 。1570年の「整備」は、この家臣集住をさらに推し進め、組織化したものと考えられる。
さらに、山の裾野には延長約1.2kmにも及ぶ堀と土塁で構成された**総構(そうがまえ)**が築かれていた 1 。総構は、城本体だけでなく、その麓に広がる居住区や生産区域までをも一体的に防御する思想であり、春日山が単なる城ではなく、一つの都市として設計されていたことを示す強力な証拠である 8 。
この春日山城の構造は、上杉家の統治イデオロギーそのものを空間的に表現していた。山頂の本丸に城主(謙信)が位置し、その下に広がる尾根や斜面に、身分や重要度に応じて重臣や中級家臣の屋敷が配置される。この**「垂直的な身分秩序」**の可視化は、物理的な距離が政治的な近さを反映する設計思想に基づいている。1570年の「整備」における「町割り」とは、単なる区画整理ではなく、増大する家臣団をこの秩序の中に配置し直し、上杉家中の新たな序列を確定させる高度な政治行為であった。この「見える身分制」は、謙信を頂点とする絶対的な権力構造を家臣に日々意識させ、組織の結束力を高める上で極めて有効な統治技術だったのである。
第二章:二つの政治拠点 – 山上の「本丸」と山麓の「御館」
春日山城下における政庁機能は、単一の施設に集約されていたわけではない。有事の司令塔である山上の**「本丸」 と、平時の政務・外交儀礼の場である山麓の 「御館(おたて)」**という、二元的な体制で運営されていたのが大きな特徴である。
山上の本丸は、頸城平野と日本海を一望できる戦略的拠点であり、軍事と信仰の中枢であった 1 。毘沙門堂や、渇水時にも枯れることがなかったと伝えられる大井戸がここに位置し、まさに城の心臓部を形成していた 7 。
一方、山麓に設けられた「御館」は、もともと謙信が保護した関東管領・上杉憲政のために建設した居館であったが、後に謙信自身も政庁として使用した 1 。東西約120m、南北約150mに及ぶ広大な敷地を持ち 8 、平時の政務や他家からの使節の応接など、対外的な儀礼の場として機能したと考えられる。この二元体制は、山城の居住性の低さを補い、平時の政治効率と有事の防衛能力を両立させるための合理的なシステムであった。
この「御館」の存在は、謙信が単なる越後の一国人領主ではなく、 関東管領という「公的権威」の継承者 であることを内外に示すための、極めて重要な政治的装置であった。1570年、織田・武田という新たな脅威に対抗する上で、謙信は軍事力だけでなく「大義名分」を必要とした。関東管領という権威は、特に関東の諸将を動員する上で不可欠なものであった。したがって、「政庁機能の強化」とは、単なる事務効率の向上に留まらず、「御館」を舞台とした外交儀礼や政治的パフォーマンスを通じて、謙信が関東管領としての権威を再確認・強化するプロセスそのものであった。春日山は、越後の城であると同時に、 関東管領府 としての顔を持つ必要があったのである。
第三章:経済の動脈 – 越後府中と直江津港の掌握
上杉謙信の度重なる遠征を可能にした強大な軍事力は、盤石な経済基盤によって支えられていた。その中核をなしたのが、日本海交易の拠点であった 直江津港 と、その周辺に広がる**越後府中(府内)**の支配である。
府内は古くからの越後の政治・経済の中心地であり、海陸交通の要衝として栄えていた 17 。特に、高級織物「越後上布」の原料となる特産品・**青苧(あおそ、カラムシ)**の取引が盛んで、全国から商人が集まる一大拠点であった 17 。
謙信はこの経済の動脈を完全に掌握し、莫大な利益を上げていた。その財源は主に二つあった。一つは、直江津港に入港する商船から徴収する港湾税**「船道前(ふなどうまえ)」である。この税収だけで年額4万貫(現代の価値で数十億円規模)に達したとの記録もある 19 。もう一つは、青苧を扱う商人に結成させた同業者組合「青苧座」から徴収した営業税
「座役(ざやく)」**であった 20 。これらに加え、佐渡の金銀山からの権益も上杉氏の財政を潤していたと考えられている 21 。
この観点から1570年の「整備」を捉え直すと、そこには春日山城の政治・軍事中枢と、府中・直江津の経済中枢を、より緊密に連携・一体化させる**「経済の要塞化」 という側面があったことが見えてくる。1570年の危機的状況において、軍事費の安定確保は最優先課題であった。そのためには、経済の心臓部である府中・直江津を敵の脅威から守り、そこから得られる利益を確実に吸い上げるシステムを強化する必要があった。春日山城の総構は、物理的な防衛線を山麓まで広げることで、府中・直江津へ至る街道の起点や、そこに集積される富を保護する意図があったと考えられる。つまり、「整備」とは、単に城を堅固にするだけでなく、その城を支える 経済基盤そのものを、城の防衛・管理システムの中に組み込む**戦略であり、長期戦に備えるための極めて重要な布石だったのである。
第三部:比較史で見る春日山城下町
春日山城下町の独自性と戦国城郭史における位置づけを明らかにするため、同時代の他の有力大名の本拠地と比較分析を行う。
城郭名 |
春日山城 |
躑躅ヶ崎館(武田氏) |
小田原城(北条氏) |
一乗谷朝倉氏遺跡 |
立地形態 |
山城 11 |
平城(居館) 24 |
平山城 25 |
山麓居館+山城 26 |
防御思想 |
拠点防御(城・町一体) |
拠点分離(館+詰城) |
面防御(巨大総構) |
線防御(谷全体を要塞化) |
家臣団居住 |
城内・山腹に集住 8 |
城下町に集住 |
城下町に集住 |
谷内の侍屋敷に居住 27 |
政庁機能 |
二元体制(本丸+御館) 1 |
居館に集中 24 |
城郭内に集中 |
居館に集中 27 |
主要経済基盤 |
港湾税・座役(交易) 20 |
金山経営・領国経営 |
領国経営・商業 |
領国経営・文化交流 |
文化的性格 |
軍事・信仰色が強い |
政治・経済色が強い |
政治・商業都市 |
貴族的・京文化色が強い 28 |
第一章:武田信玄の躑躅ヶ崎館(甲府)との比較
最大のライバルであった武田信玄の本拠地・躑躅ヶ崎館は、甲府盆地の中心に位置する平地の居館であった 24 。有事の際は背後の要害山城に籠もる計画であったが、館自体は政治と経済の中心地としての性格が強く、防御を山城に全面的に依存する春日山とは対照的である。この違いは、常に臨戦態勢にあり、軍事指導者としてのカリスマで領国を統治した謙信と、平時の領国経営と官僚機構による統治を重視した信玄の、統治思想の差異を如実に示している。
第二章:北条氏の小田原城との比較
春日山城と同じく、城下町全体を防御線に取り込む「総構」を持つ点で小田原城は比較対象となる。しかし、その規模は春日山の1.2kmに対し、小田原は豊臣秀吉の来攻に備えて築かれた周囲9kmに及ぶ巨大なものであった 1 。小田原の総構が、北条氏100年の統治の集大成として計画的に築かれたのに対し、春日山の総構は、山城という既存の拠点から拡張していく形で、より漸進的に形成されたと考えられる。両者は「城下町全体で防衛する」という戦国後期の先進的な思想を共有しつつも、その発展段階と規模において大きな差が見られる。
第三章:朝倉氏の一乗谷城下町との比較
同じく山城を背後に持つ城下町として、朝倉氏の一乗谷は興味深い比較対象である。一乗谷は、川沿いの谷間に朝倉氏館、侍屋敷、町屋、寺院が計画的に直線的に配置された**「線形都市」であった 27 。谷の両端は城戸(きど)と呼ばれるゲートで固められ、谷全体が要塞化されていた 31 。これに対し、春日山は山頂から山麓にかけて立体的に諸施設が配置される
「垂直都市」**であり、政治・居住・防衛の各機能がより混然一体となっている。この構造の違いは、春日山が常に戦闘を意識した、より軍事色の強い拠点であったことを示唆している。
これらの比較から、戦国大名の**「国家観」 が城下町の形態に色濃く投影されていることがわかる。春日山は謙信の生涯を象徴するような 「軍営国家」 、小田原は安定した領域支配を目指す 「領国都市国家」 、そして一乗谷は京文化への憧憬がうかがえる 「館を中心とする貴族政庁都市」**としての性格をそれぞれ反映している。1570年の春日山城下町整備とは、謙信が自らの「軍営国家」観を、直面する危機に対応する形で、より先鋭化させ、物理的に再構築する試みであったと結論づけることができる。
結論:1570年整備の歴史的意義とその後
本報告で詳述してきたように、「春日山城下町整備(1570)」は、単発の土木事業ではなかった。それは、織田・武田の脅威という未曾有の国難に直面した上杉謙信が、自身の本拠地である春日山城を中心に、政治・軍事・経済・信仰の各機能を統合・再編し、 領国を総力戦体制へと移行させた一連の戦略的行動の総体 であった。
その歴史的意義は、家臣団の城内集住による権力集中、政庁機能の二元化による効率と安全の両立、経済基盤の確実な掌握、そして信仰による国家の精神的統合を同時に推し進める、複合的な領国改造であった点にある。その結果として生まれた「城・町一体型」の巨大要塞都市は、戦国期山城の一つの到達点を示すものであり、謙信の卓越した戦略思想を体現するものであった。
しかし、この高度に集権化された権力構造は、謙信というカリスマを失った後、激しい後継者争いである「御館の乱」の舞台となり、城下の一部は戦火に焼失した 8 。跡を継いだ上杉景勝、そして慶長3年(1598年)に上杉氏が会津へ転封となった後に春日山城主となった堀秀治は、それぞれ城の改修を行った 33 。特に堀氏は総構の普請など近世的な改修を加えたが、山城の不便さから、最終的に慶長12年(1607年)に平城である福島城を築いて居城を移し、春日山城はその歴史的役目を終えた 33 。
だが、春日山で培われた集権的な家臣統制や、城下町の計画的な配置といった思想は、失われたわけではなかった。それらは、会津、そして米沢へと移った上杉家、特に直江兼続による米沢城下の町づくりに、思想的な遺産として明確に受け継がれていったのである 36 。春日山城下町整備は、上杉謙信一代の事業に留まらず、近世大名としての上杉家の統治体制の原型を形作った、重要な歴史的画期であったと言えるだろう。
引用文献
- 春日山城跡 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち、新潟県上越市公式観光情報サイト https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=133
- 新発見!信玄の信長宛て書状から読む戦国大名の外交戦 - 今につながる日本史+α https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2020/01/16/173331
- 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
- 越相同盟(えっそうどうめい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F-1277391
- 上杉謙信(ウエスギケンシン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1-33780
- 長篠の戦いからみる、武田信玄と織田信長の関係とは? - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f9
- “越後の龍”こと上杉謙信の春日山城と、高田藩の城下町を歩く【1泊2日モデルコース】 | トレたび https://www.toretabi.jp/zipangclub/page/plan_shun2310_higashi.html
- 春日山城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-kasugayama-castle/
- 林泉寺 | 春日山城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/51/memo/683.html
- 林泉寺 - 新潟観光ナビ https://niigata-kankou.or.jp/spot/8449
- 新潟県/春日山城 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/niigata/kasugayama-jo/
- 春日山城跡 - 新潟観光ナビ https://niigata-kankou.or.jp/spot/8428
- 【春日山城】城そのものが伝説!上杉謙信の足跡と遺構を解説!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=94RHU7Y33NA
- 越後 春日山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/kasugayama-jyo/
- 謙信の居城「春日山城跡」を写真と動画で探訪(新潟県上越市) | 雪国ジャーニー https://www.yukiguni-journey.jp/6341/
- 御館公園(御館跡) - 新潟観光ナビ https://niigata-kankou.or.jp/spot/44192
- 越後府内 えちご ふない - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2021/04/14/002221
- 府内(越後府中) - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/minato1/funai-echigo.htm
- 上越立ち止まりスポット9-②(青苧:あおそ)|Gustav Papa - note https://note.com/ishimasa/n/n8bb970d10def
- 戦国屈指の名将・上杉謙信 「義」に満ちた男は物流マンとしても一流だった! https://merkmal-biz.jp/post/29138/2
- 戦国大名と金銀山 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%A8%E9%87%91%E9%8A%80%E5%B1%B1/
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- 一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/hokuriku/ichijyoudani/ichijyoudani.html
- 遺跡散策 - 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/walk
- 府中八幡宮 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち、新潟県上越市公式観光情報サイト https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=270
- 春日山城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Hokuriku/Niigata/Kasugayama/index.htm
- 堀秀治(ほり ひではる) 拙者の履歴書 Vol.366~父の遺志継ぎ越後治める - note https://note.com/digitaljokers/n/nc127a60be0d7
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- 直江兼続 ~米沢の土台を築いた智将~ - 置賜文化フォーラム http://okibun.jp/naoekanetugu/
- 旅 す る 城 下 町 。 旅 す る 城 下 町 。 https://www.city.okinawa.okinawa.jp/documents/1485/yonezawajp.pdf