最終更新日 2025-09-23

柳川城改修(1601)

関ヶ原後、田中吉政は筑後柳川三十二万五千石を拝領。慶長六年より柳川城を大改修し、五層天守を築き、城下町を惣構とした。掘割を治水・水運・防御に活用し、慶長本土居を築くなど、筑後国経営の礎を築いた。
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慶長六年のグランドデザイン:田中吉政による柳川城改修と筑後国経営の全貌

序章: 関ヶ原の戦塵、筑後へ

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原における天下分け目の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。この一日が日本の権力地図を劇的に塗り替え、戦国の世は終焉へと向かい始める。戦後、家康は新たな天下人として、戦功のあった者への論功行賞と、敵対した者への処罰を断行した。この戦後処理は、単なる恩賞や報復に留まらず、徳川の覇権を盤石にするための、冷徹な国家再編であった。

この巨大な権力移動の奔流は、九州の筑後国柳川にも及んだ。関ヶ原において西軍の主力として奮戦した勇将・立花宗茂は、その武勇を家康にさえ称賛されながらも、西軍に与した責めにより所領を没収される 1 。豊臣秀吉によって独立大名に取り立てられ、柳川の地を治めてきた英雄の退去は、領民に大きな動揺と不安をもたらしたことであろう。

その空位となった筑後三十二万五千石の新たな国主として白羽の矢が立ったのが、三河岡崎十万石の領主、田中兵部大輔吉政であった 2 。吉政は、豊臣恩顧の大名でありながら、早くから家康の器量を見抜き、東軍に与して関ヶ原本戦で多大な功績を挙げた。特に、西軍の首魁であった石田三成を捕縛するという大手柄は、彼の評価を決定的なものとした 2 。岡崎十万石から筑後柳川三十二万五千石への三倍以上の加増は、家康による豊臣恩顧の取り込み戦略と、吉政の功績への正当な評価が合致した結果であった 2 。しかしそれは同時に、九州における反徳川勢力を抑え、徳川の支配体制を確立するための重要な戦略的配置でもあった 5

慶長五年(1600年)十一月十八日、田中吉政は新領地である筑後国へ入国する 6 。その際、群衆の中に、かつて若き日の吉政に「一国一城の主となる」と予言したという盲目の人物を見つけ、再会を喜び、手厚く庇護したという逸話が伝わっている 6 。この逸話は、吉政の情に厚い一面を伝えると共に、まさに予言を成就させ、一国を担う大名として筑後の地に立った彼の、輝かしいキャリアの頂点を示す象徴的な出来事であった。

旧領主が去り、新領主が着任した柳川。その地で、慶長六年(1601年)より開始される柳川城の大改修は、単なる居城の整備ではなかった。それは、田中吉政がこれまでの生涯で培った全ての知識と経験を注ぎ込み、筑後国という新たな「国家」を創り上げるための、壮大なグランドデザインの幕開けだったのである。

第一部: 新国主・田中吉政 ― 「土木の神様」と呼ばれた男

柳川城改修という巨大事業を理解するためには、まずその指揮者である田中吉政という人物の類稀なる能力と経歴を深く知る必要がある。彼は単なる武勇に優れた戦国武将ではなかった。むしろ、卓越した都市計画思想と高度な土木技術を併せ持つ、近世的な「テクノクラート大名」と呼ぶべき存在であった。彼の筑後における事業は、その場限りの思い付きではなく、近江八幡と岡崎で積み重ねた成功体験の集大成であり、論理的な帰結であった。

第一節: 近江から岡崎へ:都市計画家としての覚醒

吉政の出自は、近江国の農民であったともいわれる 6 。彼は宮部継潤に仕えることで武士としてのキャリアを開始し、やがて豊臣秀吉に見出される 5 。秀吉の甥である豊臣秀次(後の関白)の筆頭家老に抜擢されたことで、彼の行政官、そして都市計画家としての才能が開花する 7

秀次が近江八幡城主となると、吉政はその城下町整備を実質的に主導した 9 。彼の最大の功績は、内陸の城下町と当時日本最大の物流網であった琵琶湖とを繋ぐ運河「八幡堀」の開削である 5 。この運河は、物資輸送を劇的に効率化し、全国から商人を呼び寄せた。八幡堀の周辺に形成された商人町は、後に全国で活躍する近江商人が生まれる揺り籠となった 7 。ここで吉政は、水運を都市の経済的血脈として活用し、商業の発展を促すという、彼の都市計画の基本理念ともいえる「田中メソッド」の原型を確立したのである。

天正十八年(1590年)、小田原征伐の功により、吉政は徳川家康が関東へ移封された後の三河岡崎城主(当初五万七千四百石、後十万石に加増)となる 2 。家康生誕の城という、いわば徳川の聖地ともいえる場所で、吉政は再びその手腕を振るう。彼は旧態依然としていた岡崎城を、石垣を多用した近世城郭へと大改修した 5

彼の岡崎における事業の真骨頂は、城郭そのものよりも城下町の再編にあった。まず、城下の七つの町を堀で囲む「田中堀」を築造し、防御機能を高めた 5 。さらに、城の西側に広がる低湿地を埋め立てて町を拡張し、それまで郊外を通っていた日本の大動脈・東海道を、意図的に城下町の中心部へと引き込んだ 6 。この新たな東海道は、敵の侵入を遅らせるために意図的に屈折を多くした「岡崎の二十七曲がり」として知られる 5 。これは、城下の防衛力強化と、街道の往来を城下に滞留させることによる経済振興を両立させる、極めて高度な都市設計思想の現れであった。また、矢作川の堤防を築くなど治水工事にも取り組み、領地の安定化に貢献している 5

近江八幡での「水運と商業の結合」、そして岡崎での「街道の引き込みによる経済活性化と防御の両立」。これら二つの成功体験は、来るべき筑後国経営のための貴重な経験となり、彼の能力を絶対的なものへと高めていった。

第二節: 戦功と論功行賞:石田三成捕縛の功

都市計画家としての顔を持つ一方、吉政は戦場における武将としても有能であった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍の主力として参陣。西軍の小西行長や島津義弘の部隊と対峙し、激戦を繰り広げた 2

彼の名を戦国史に不滅のものとしたのは、本戦終了後の働きであった。敗走した西軍の総大将・石田三成の捕縛を家康に申し出たのである 6 。吉政は三成と同じ近江の出身であり、地域の地理に明るかった 6 。また、二人は旧知の仲であったとも伝えられている 3 。吉政の捜索隊は、伊吹山の山中にて三成を発見し、捕縛することに成功する 4

この捕縛劇には、人間味あふれる逸話が残されている。吉政は旧交を重んじ、捕らえた三成を罪人としてではなく、丁重に扱ったという 3 。三成もまた「自分を捕らえたのが吉政でよかった」と語り、感謝の意として豊臣秀吉から拝領した名刀を吉政に贈ったとされる 16 。一方で、これは三成を油断させて武具や財産の隠し場所を聞き出すための吉政の策略であったとする説もあり、彼の現実主義的な一面も垣間見える 6 。いずれにせよ、敵軍の総大将を捕らえるというこの比類なき功績が、筑後一国三十二万五千石という破格の恩賞に繋がる決定的な要因となったことは間違いない 2

吉政の人物像は、こうした逸話からも多面的に浮かび上がる。侍になる際に家紋を間違えられても咎めずそのまま用いたという大らかさや、城下の見回り中に道端で弁当を広げる気さくさを持つ一方で 6 、目的のためには策略も厭わない冷徹な戦略家としての一面も併せ持っていた。この実用性を重んじ、物事の本質を見抜く闊達な性格こそが、前例にとらわれない壮大な国づくりを可能にした原動力であったと言えよう。


表1:田中吉政の経歴と主な実績年表

年代(西暦)

石高(推定)

役職・地位

主な実績(特に土木・都市計画関連)

天文17年(1548)

-

-

近江国浅井郡にて誕生 6

天正年間初期

7石2人扶持

宮部継潤家臣

武士としてのキャリアを開始 6

天正13年(1585)頃

5,000石

豊臣秀次 宿老・筆頭家老

近江八幡城下にて「八幡堀」を開削、城下町を整備 5

天正18年(1590)

57,400石(後10万石)

三河国岡崎城主

岡崎城を近世城郭に改修。「田中堀」を築造し、東海道を城下に引き込む「二十七曲がり」を整備 5

慶長5年(1600)

325,000石

筑後国主

関ヶ原の戦いで石田三成を捕縛。戦功により筑後一国を拝領し柳川城主となる 2

慶長6年(1601)

325,000石

筑後国主

柳川城の大規模改修に着手。五層天守を建立し、城下を惣構とする 5

慶長7年(1602)

325,000石

筑後国主

有明海沿岸に「慶長本土居」の築堤を計画 20

慶長14年(1609)

-

-

参勤交代の途中、京都伏見にて死去。享年62 20


第二部: 柳川城大改修 ― 水城の変貌と近世城郭の誕生(慶長六年~)

慶長六年(1601年)、筑後国主となった田中吉政は、その本拠地である柳川城と城下町の大改造に本格的に着手する。これは、単なる居城の修繕や拡張ではなかった。彼が目指したのは、筑後三十三万石の政治・経済・軍事の中心地として、また新たな時代の統治者の権威を内外に示す象徴として、全く新しい城郭都市を創造することであった。吉政の改修は、戦国時代以来の城の概念を根底から覆す、防御思想のパラダイムシフトを体現するものであった。

第一節: 改修以前の柳川城:蒲池・立花時代の遺産

吉政が手を入れる以前の柳川城も、決して凡庸な城ではなかった。筑後川がもたらした土砂によって形成された広大な低湿地帯に位置し、その立地自体が天然の要害をなしていた 22 。歴代城主、特に蒲池氏は、この地形を最大限に活用し、城の周囲に無数の掘割を縦横に張り巡らせた 22 。これにより、柳川城は「水城」としての性格を強め、敵の接近を容易に許さない堅城として知られるようになった。

その防御力は、「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」(柳川城を攻め落とすには三年かかるが、肥後の城なら三月、肥前・筑前の城は朝飯前だ)という戯れ歌がうたわれるほど高く評価されていた 22 。事実、蒲池鎮漣が城主の時代には、龍造寺隆信率いる二万の大軍の猛攻にも耐え抜いた実績を持つ 22 。吉政の前任者であった立花宗茂が治めた時代も、この戦国期以来の堅固な防御機能は維持されていた。

しかし、吉政の目には、この城は二つの側面で見えていた。一つは、水に守られたその卓越した防御ポテンシャル。そしてもう一つは、戦国時代の「籠城」を前提とした受動的な防御思想に基づいており、新たな時代の国全体の統治拠点としては規模も機能も不十分であるという現実であった 5 。彼は、この城が持つポテンシャルを継承・発展させつつ、全く新しい概念の城へと昇華させることを決意したのである。

第二節: 慶長の普請:天守の建立と惣構の形成

慶長六年(1601年)頃から、吉政の指揮のもと、大規模な普請が開始された。まず、従来の城郭に隣接する西側に新たに本丸を設け、城全体の領域を大幅に拡張した 5 。そして、中世的な土塁主体の城から、石垣を多用した近世城郭へとその姿を大きく変貌させた。現存する本丸跡の石垣は、当時の面影を今に伝えている 25

この改修のハイライトは、本丸南西部に築かれた五層五階の天守の建立であった 5 。幕末期に撮影された古写真などの資料から、この天守は複合式層塔型であったと推測されている 19 。最上階には廻縁を雨戸で覆う内縁高欄を備え、その破風の配置は徳川大坂城天守などにも類似する、壮麗で威厳に満ちた姿であったと考えられている 22 。この天守は、単なる防御施設ではなく、筑後一国を支配する国主・田中吉政の権威を可視化するモニュメントであった。

さらに吉政は、岡崎城の「田中堀」で得た経験を応用・発展させ、城郭本体だけでなく、城下の武家屋敷や町人地をも含めた広大な範囲を、新たな堀と土塁で囲い込む「惣構(そうがまえ)」の形態を導入した 19 。これにより、柳川は城と城下町が一体となった、巨大な要塞都市へと生まれ変わった。これは、敵の攻撃を城の門前で食い止める「点」の防御から、城下町全体を防御領域とする「面」の防御への転換を意味する。有事の際には、水門を閉ざすことで城下町一帯に水を溢れさせ、町全体が難攻不落の「水城」と化す、恐るべき防御システムが構築されたのである 23

第三節: 掘割の再編:都市の血脈を築く

吉政の真骨頂は、既存の掘割網を再編し、全く新しい価値を与えた点にある。彼は、掘割を単なる防御施設としてではなく、平時における都市機能の中核をなす多機能インフラへと昇華させた。

再編された掘割網は、以下の複数の役割を担う、まさに都市の生命線であった。

  1. 治水・利水機能 : 筑後川水系の水を巧みに引き込み、城下や周辺農地の灌漑用水として活用。同時に、大雨の際には余剰な水を一時的に貯留し、洪水を防ぐ遊水池の役割も果たした 23
  2. 生活用水機能 : 上水道が整備される以前、掘割の水は領民の貴重な飲み水であり、生活用水の源であった 23
  3. 水運機能 : 掘割は物資を運ぶための運河網としても機能し、城下の経済活動を支える大動脈となった 24
  4. 防御機能 : 有事の際には、前述の通り城を守る最大の障壁となる 23

吉政は、城濠堰(しろほりせき)などの水門や堰を巧みに配置することで、この複雑な水系の水位を自在にコントロールするシステムを構築した 24 。また、定期的に堀の水を抜いて清掃する「水落し(みずおとし)」の仕組みも整備されており、水質の維持管理にも配慮が見られる 24 。これは、自然の地形を利用しつつも、高度な土木技術によって人工的な制御を加える、極めて先進的な思想の現れである。

この改修は、戦争が日常であった戦国時代から、統治と経済が重視される江戸時代への移行を象徴するものであった。吉政は、防御インフラを平時の経済・生活インフラとしても活用する「デュアルユース(両用)」の思想を導入したのである。軍事施設に平時の経済的・生活的価値を付与するという彼の設計思想は、戦時と平時を一体のものとして捉え、限られた資源を最大限に有効活用しようとする、合理的な精神に貫かれていた。

この吉政によって再編・整備された掘割網こそが、四百年の時を超えて今日の「水郷柳川」の美しい景観と独自の文化を形成する直接的な起源であり、彼の最大の遺産の一つとして今なお生き続けている 9


表2:柳川城改修の概要比較(改修前 vs. 田中吉政改修後)

項目

改修前(蒲池・立花時代)

改修後(田中吉政時代)

城郭構造

中世的な平城。土塁が主体。

近世的な平城。石垣を多用し、城域を西側に拡張 5

天守

なし

五層五階の複合式層塔型天守を本丸南西に創建 22

縄張り

城郭単体を防御する構造。

城と城下町を一体で防御する「惣構」を採用 19

掘割の役割

主に防御施設(水堀)。

防御に加え、治水、利水(農業・生活用水)、水運など複数の機能を持つ多機能インフラへと再編 23

石垣の使用

限定的。

本丸、諸櫓などに大規模に導入 5


第三部: 筑後国改造計画 ― 城から国へ広がるビジョン

田中吉政の視座は、柳川城という一つの拠点に留まるものではなかった。彼は筑後国全体を一つの経営ユニットとして捉え、治水、交通、軍事、産業の全てにわたる総合的な国土開発計画を、城郭改修と並行して強力に推進した。柳川城が「首都」であるならば、これから述べる事業は、その首都機能を支え、国全体を有機的に結びつけるための国家規模のインフラ整備であった。これは、吉政が単なる城主ではなく、まさしく国家の創設者としてのビジョンを持っていたことを示している。

第一節: 慶長本土居:有明海との闘い

筑後入封後、吉政が直面した最大の課題の一つが、有明海の高潮被害であった。広大な筑後平野は豊かさの源泉である一方、その低い標高ゆえに常に水害の脅威に晒されていた 23 。この根本的な問題を解決し、領国の経済基盤を盤石にするため、吉政は前代未聞の巨大プロジェクトを計画する。それが「慶長本土居」と呼ばれる大堤防の建設であった。

慶長七年(1602年)頃から計画されたこの事業は、大川市の酒見から、柳川市、みやま市高田町の渡瀬に至る有明海沿岸、実に全長三十二キロメートルに及ぶ長大な潮止め堤防を築くという壮大なものであった 8 。その目的は二つ。一つは高潮や洪水を防ぎ、既存の農地と集落を守ること。もう一つは、堤防の内側に広がる広大な干潟や低湿地を干拓し、新たな水田(新田)を開発することであった 6

この大工事には、驚異的な逸話が残されている。第一期工事として着手された二十五キロメートルの区間を、わずか三日で築き上げたというのである 20 。これは文字通りの日数ではないにせよ、彼の卓越したマネジメント能力を象徴する伝説である。実際には、約109メートルごとに工区を分け、それぞれに奉行を配置して現場を指揮監督させ、領民を効率的に動員する工法がとられたと分析されている 35 。それでもなお、その実行速度と規模は驚嘆に値する。一部の難工事では、庄屋が自ら人柱になったという悲しい伝説も生まれ、事業の過酷さを物語っている 36

この慶長本土居の完成により、有明海沿岸には広大な新田が生まれ、筑後平野は九州屈指の穀倉地帯へと変貌を遂げる基礎が築かれた 7 。これは、領国の食糧生産基盤を飛躍的に安定・拡大させ、田中家の財政を潤すとともに、民生の安定に大きく貢献した、まさに国家百年の計であった。

第二節: 領国を繋ぐ道と支城網

広大な筑後国を実効支配するため、吉政は軍事と交通のネットワーク構築にも着手した。彼は、本城である柳川城に加え、領内の戦略的要所に十の支城を配置した 5 。筑後北部の拠点である久留米城には次男の吉信を、南部の拠点である福島城(現在の八女市)には三男の吉興を置くなど、一族や譜代の重臣を城代として配置し、領国を面的に支配する体制を確立した 18

そして、これらの拠点を結びつけるために、交通網の整備を進めた。その象徴が、本城・柳川と最重要支城・久留米を結ぶ約二十キロメートルの幹線道路「柳川往還」の建設である 35 。この道は、領民からその功績を称えられ、通称「田中道」と呼ばれ親しまれた 8 。田中道は、有事の際に迅速な軍隊の移動を可能にする軍用道路であると同時に、平時においては物資を輸送し、人の往来を促す経済の大動脈でもあった。吉政は単に道を造るだけでなく、慶長八年(1603年)にはその沿道に土甲呂町や津福町といった新たな町を興し、諸役を免除することで商工業の振興を図った 18

柳川城(首都)、支城網(地方拠点)、田中道(交通網)、そして慶長本土居(国土保全・食糧生産基盤)。これらはそれぞれが独立した事業ではなく、一つの有機的なシステムとして相互に連携し機能するように設計されていた。吉政の頭の中には、筑後国という国家のハードウェア(インフラ)とソフトウェア(統治機構)を同時に構築する、明確な青写真が存在していたのである。


表3:田中吉政が整備した筑後国の支城一覧

城名

所在地(現在の自治体)

城主/城代(推定)

戦略的役割・特記事項

久留米城

久留米市

田中吉信(次男)

筑後北部の最重要拠点。柳川往還(田中道)の起点 8

福島城

八女市

田中吉興(三男)

筑後南部の拠点。矢部川の水運を利用した経済の中心地 8

赤司城

久留米市

田中清政(舎弟)

久留米城の南方を固める要衝 18

城島城

久留米市

重臣

筑後川下流域の支配拠点 8

榎津城

大川市

重臣

筑後川河口の港湾都市。水運の要 8

猫尾城

八女市

重臣

山間部への入り口を抑える要害 8

松延城

みやま市

松野主馬

筑後南部の防衛拠点 8

江浦城

みやま市

重臣

有明海沿岸の支配拠点 8

鷹尾城

柳川市

宮川才兵衛

柳川城の南方を守る支城 8

中島城

柳川市

重臣

柳川南部の水路の要衝 8


第三節: 産業と民政:国を豊かにする施策

吉政の国づくりは、土木事業や軍事体制の構築に留まらなかった。彼は、領民の生活を豊かにし、国の産業を振興させることにも熱心であった。

彼は筑後十郡の庄屋や百姓に対し、積極的に新田開発を行うよう奨励した 6 。これは、慶長本土居による大規模な干拓事業と連動するものであり、課税対象となる耕地を増やすことで藩財政の基盤を強化する狙いがあった 35 。また、米だけでなく麦作も奨励し、食糧生産の多様化を図った 36 。さらに、隣国の佐賀藩主・鍋島直茂に依頼して陶工を招き、柳川焼を創始させるなど、新たな地場産業の育成にも力を注いだ 6 。これらの施策は、筑後地方の伝統産業の礎を築いたと評価されている 8

宗教政策においては、柔軟で寛容な姿勢を見せた。自身も洗礼名を持つキリシタンであったともいわれ、領内のキリスト教信者を保護し、宣教師たちのために天主堂の用地を寄進するなど、西洋の知識や文化を積極的に学ぼうとした 6 。その一方で、熱心な浄土宗の仏教徒でもあり、戦乱で荒廃した善導寺の復興に尽力するなど、伝統的な仏教寺院の保護にも努めた 6 。この寛容な政策は、領内の安定と多様な人材の活用に繋がったと考えられる。

吉政の筑後経営は、軍事、土木、産業、民政の全てが連動した、極めて近代的で総合的な地域開発であった。彼の視線は常に、目の前の問題解決だけでなく、その先にある国家の持続的な発展に向けられていたのである。

終章: 田中時代の終焉と不滅の遺産

慶長十四年(1609年)二月、田中吉政は参勤交代の途中、京都・伏見の宿にて六十二年の生涯を閉じた 20 。筑後国主としての治世はわずか八年余り。彼が描いた壮大なグランドデザインは、まだ道半ばであった。しかし、彼が遺したものは、その短い治世からは想像もできないほど巨大で、永続的な影響を後世に与え続けることになる。

第一節: 二代二十年の治世と立花宗茂の復帰

吉政の跡は、四男の忠政が継承した 38 。忠政も父の遺志を継ぎ、領国経営に努めたが、元和六年(1620年)、世継ぎとなる男子がないまま三十六歳の若さで病没する 38 。これにより、筑後国主・田中家は無嗣断絶となり、幕府の命により改易。吉政の入封からわずか二十年で、その治世は幕を閉じた 7

田中家の退去後、柳川の歴史は劇的な展開を見せる。かつてこの地を追われた旧領主・立花宗茂が、大坂の陣での戦功などを徳川幕府に認められ、奇跡的に柳川への大名としての復帰を果たしたのである 19 。石高は十万九千石余と、田中時代よりは縮小されたものの、宗茂は再び柳川城主となった。

柳川に戻った宗茂と立花家は、吉政が築き上げた統治システムをほぼそのまま受け継いだ。壮麗な天守が聳える近世城郭、惣構に守られた城下町、そして都市の血脈として機能する掘割網。これら全てが、その後の二百五十年にわたる立花藩の統治の盤石な礎となったのである。

その事実を象徴するのが、城下における二つの菩提寺の存在である。立花家の菩提寺である福厳寺に加え、田中吉政を祀る菩提寺・真勝寺も、立花藩政下で手厚く保護され、存続が許された 9 。旧領主が、自らの領地を奪った新領主の功績を認め、その菩提寺を庇護し続けるというのは、極めて異例なことである。これは、稀代の武人であった立花宗茂が、同じく非凡な為政者であった田中吉政の残した事業の偉大さを深く理解し、敬意を払っていたことの何よりの証左と言えよう 9

第二節: 現代に息づく吉政の都市計画

明治維新後、柳川城は時代の大きな変化の波に呑まれた。慶長以来、筑後の地に威容を誇った五層の天守は、明治五年(1872年)に原因不明の火災によって焼失 27 。さらに、堅固な石垣の多くは、明治七年(1874年)の台風で決壊した海岸堤防の補修資材として転用され、その姿を消した 22 。現在、往時の城郭を偲ばせるものは、柳川高校・柳城中学校の敷地内に残る本丸跡の土壇とわずかな石垣のみである 25

しかし、建物や石垣が失われてもなお、吉政が遺した最大の傑作は生き残った。それは、都市の骨格そのものである、掘割網である。戦後の高度経済成長期には、生活様式の変化から一時は汚泥が溜まるなど荒廃の危機に瀕したが、市民と行政が一体となった再生への努力により、その美しい姿を取り戻した 23

現代において、この掘割は「川下り」を楽しむ観光船が行き交い、「水郷柳川」の象徴として国内外から多くの人々を魅了している 9 。だが、それは単なる観光資源ではない。今なお農業用水や防火用水を供給し、大雨の際には水を貯留して洪水を防ぐなど、四百年前に吉政が設計した多機能インフラとしての役割を果たし続けているのである 23

結論として、田中吉政の柳川城改修とそれに連なる筑後国経営は、単なる一地方大名の領地経営に留まるものではない。それは、戦国から江戸へと移行する時代の転換点において、一個人が描き、そして実行した、最も先進的かつ成功した総合的地域開発の事例であった。彼の治世はわずか八年、田中家の統治も二十年で終わった。しかし、彼がこの地に刻んだグランドデザインは、その後の立花藩の歴史を規定し、四百年後の現代柳川のアイデンティティそのものを創り上げた。柳川の掘割を流れる水は、今もなお、「土木の神様」と呼ばれた男の壮大なビジョンを静かに語り継いでいるのである。

引用文献

  1. 戦国の出世頭・田中吉政とは?名バイプレーヤーのちょっといい話を紹介! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/165946/
  2. この戦いは聖戦なり 「田中吉政」(東軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21690
  3. 家康に代わり岡崎城主となり、関ヶ原の戦いで石田三成を捕える|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【田中吉政編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1025706/2
  4. 「関ケ原の戦い」 ₋ 最新の研究から - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2024/07/M%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9FV%EF%BC%94-20240710.pdf
  5. 田中吉政の遺産1 | 樋口法律事務所 https://ahiguchi.com/stroll/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E9%81%BA%E7%94%A3%EF%BC%91/
  6. 田中吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
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  8. 終焉四百年記念 田中吉政 時代展 (PDFファイル - 八女市 https://www.city.yame.fukuoka.jp/material/files/group/33/tanakayoshimasazidaiten.pdf
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