最終更新日 2025-09-25

津山城普請開始(1604)

森忠政は1604年、徳川家康の西国経営戦略の一環として津山城の普請を開始。戦国技術の粋を集め、実戦本位の巨大城郭を築いた。これは戦国の終焉と近世津山の誕生を告げ、後の津山藩発展の礎となった。
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津山城普請開始(1604年)の深層:戦国の論理と徳川の天下が交差する刻

序章:戦国の終焉、新たな秩序の礎

慶長九年(1604年)、美作国鶴山において、のちの津山城となる巨大城郭の普請が開始された。この年は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた翌年にあたり、歴史の区分上はまぎれもなく「江戸時代」に属する。しかし、その時代を覆う空気、人々の思考様式、そして軍事技術の粋を集めた城郭の設計思想は、依然として戦国乱世の延長線上にあった。関ヶ原の戦いからわずか四年、豊臣家が大坂に健在し、天下が未だ完全に泰平とは言えぬこの時期は、まさに「戦国の論理が支配する平和の黎明期」というべき過渡期であった 1

この特異な時代に開始された津山城の築城は、単なる一地方大名の居城建設という事象に留まらない。それは、関ヶ原の戦勝によって得た覇権を確固たるものにしようとする徳川幕府の国家戦略と、戦乱の世を生き抜いた一人の武将、森忠政の野心とが交錯する、新時代の到来を告げる象徴的事業であった。津山城の設計思想には、過去の戦乱で得た教訓と、未来に起こりうる反乱への徹底した備えという、二重の動機が色濃く反映されている。破風などの装飾を一切排した実戦本位の天守や、城内を埋め尽くすかのように配置された六十余の櫓は、この城が平時の統治拠点であると同時に、潜在的な敵対勢力、とりわけ西国に睨みを利かせるための「戦うための城」として構想されたことを雄弁に物語る 2

本報告書は、この1604年の津山城普請開始という一点を深く掘り下げ、その背景にある徳川の天下経営、築城主森忠政の生涯、そして普請開始に至るまでのリアルタイムな動向を時系列で解き明かすものである。それは、戦国の終焉を宣言し、力によって維持される新たな支配体制を物理的に示すための壮大な装置が、いかにして生まれようとしていたのかを検証する試みである。

第一章:天下普請の奔流――徳川の覇権と西国経営

慶長八年(1603年)に江戸幕府を開府した徳川家康は、その権力基盤を盤石にするため、全国規模で大規模な土木・建築事業を展開した。これは「天下普請」と呼ばれ、江戸城や名古屋城、二条城といった幕府の重要拠点の築城や改修を、全国の諸大名、特に豊臣恩顧の外様大名に命じるものであった 3 。この国家プロジェクトの目的は、単にインフラを整備することだけではなかった。普請にかかる莫大な費用と人員を大名に負担させることでその財力を削ぎ、軍事力を平和的事業に動員させることで、幕府への忠誠を強要し、中央集権体制を確立するための高度な政治戦略だったのである 5

天下普請は、徳川の威光を全国に示すとともに、大名たちの力を幕府の管理下に置くための巧みな装置として機能した。特に、関ヶ原の戦いで西軍についた、あるいはその動向が不透明であった西国大名に対する圧力は強かった。姫路城主となった池田輝政のように、徳川家と姻戚関係を結び、西国外様大名の監視という重要な役割を担う大名も配置された 7 。徳川の支配は、このような巧みな大名配置と天下普請という巨大事業によって、徐々に、しかし確実に日本全土へと浸透していったのである。

この文脈において、森忠政による津山城築城の位置づけは極めて重要である。津山城は、複数の大名が動員される公式の「天下普請」ではなかった。しかし、その築城は徳川幕府の西国経営戦略と密接に連携した、いわば「準・天下普請」とも言うべき性格を帯びていた。その最大の理由は、築城主である森忠政自身が、幕府が主導する他の天下普請に次々と動員されていたという事実にある。忠政は、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、江戸城などの天下普請に駆り出されたため、自らの居城である津山城の完成が大幅に遅れ、普請開始から実に十三年もの歳月を要することになった 8

この事実は、単に忠政が幕府に忠実な大名であったことを示すだけではない。重要な城の普請役を任されるということは、その築城手腕を幕府から高く評価されていたことの証左に他ならない 9 。藤堂高虎のような築城名人が天下普請で重用されたように、家康は森忠政を「築城技術に優れた専門家」として認識し、その能力を徳川の支配体制強化のために最大限活用しようとしたのである 4 。西国の要衝である美作国に、その専門家である忠政を配置し、巨大城郭を築かせる。これは、彼の専門技術を徳川の威光を示すために利用するという、家康の深謀遠慮が込められた戦略的人事であった。津山城の築城は、忠政個人の事業でありながら、その実態は徳川の天下戦略の一翼を担う国家的使命を帯びていたのである。

第二章:森忠政、美作へ――戦国を生き抜いた武将の決断

津山城の築城主、森忠政(1570~1634年)は、戦国乱世の激動をその身一つで体現したかのような生涯を送った武将である 10 。彼は、織田信長の寵臣として知られ、本能寺の変で信長と運命を共にした森蘭丸(成利)の末弟として美濃国金山に生まれた 11 。父・可成、兄・長可、そして蘭丸ら兄弟の多くが戦場で命を落とす中、忠政は生き延び、織田、豊臣、そして徳川と、目まぐるしく変わる天下人に仕え続けた。その処世術は、単に時流に乗るだけではない、自らの家と血脈をいかにして存続させるかという、戦国武将としてのしたたかな生存戦略に貫かれていた。

そのキャリアの転換点となったのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いである。豊臣秀吉から受けた恩義と、もはや徳川に傾きつつある天下の大勢との間で、忠政は苦悩した。「秀吉公には恩義があるが、世の大勢は既に定まっておる。森家を存続させるためには…」 12 。この葛藤の末、彼は東軍に与することを決断し、徳川秀忠軍に属して信濃上田城攻めに参加するなど戦功を挙げた 13 。この決断が、森家の未来を大きく左右することになる。

戦後、徳川家康による論功行賞で、忠政はそれまでの信濃川中島十三万七千石から、美作国一国十八万六千五百石へと大幅な加増転封を命じられた 14 。これは、関ヶ原の戦いで西軍の主力であった宇喜多秀家や、西軍に与した毛利輝元らの勢力が根強く残る中国地方の要衝に、信頼できる武将を楔として打ち込むという家康の明確な戦略的意図に基づいていた。美作国は、西の毛利、南の宇喜多旧領、そして京・大坂へと繋がる交通路を扼する、地政学的に極めて重要な位置にあった。この地を忠政に与えたことは、彼への信頼の証であると同時に、西国大名への監視と牽制という重い責務を課したことを意味する。

さらに、この美作への転封は、忠政個人にとって「過去との決別」を促すという側面も持っていた。彼は美濃の出身であり、信濃川中島時代には、かつて兄・長可を裏切った一族を探し出して処刑するなど、過去の因縁に根差した強硬な統治を行っていた 14 。これは彼の激しい気性を示すと同時に、新たな統治において軋轢を生む要因ともなり得た。家康は、彼を縁もゆかりもない美作国へ移すことで、こうした過去のしがらみを断ち切らせ、その情熱と能力を、純粋に「徳川のための西国鎮撫」という新たな任務に集中させようとしたのである。これは、忠政の能力を高く評価しつつも、その潜在的な危険性を巧みに管理する家康の老練な統治術の表れであった。こうして森忠政は、戦国武将としての過去を清算し、徳川政権下における近世大名として、美作国という新たな舞台に立つことになったのである。

第三章:慶長八年(1603年)、美作入封――波乱の幕開け

森忠政の美作国支配は、平穏な幕開けとは程遠い、血塗られた事件から始まった。この普請開始前夜の約一年間は、忠政の冷徹な決断力と、新時代の領国経営にかける強い意志が示された、まさに激動の期間であった。そのリアルタイムな動向を時系列で追うことで、津山城築城という巨大事業の背後にあった生々しい人間ドラマと政治的対立が浮かび上がる。


表1:津山城普請開始に至るまでの時系列(1600年~1604年)

年月

出来事

場所

関連人物

概要と意義

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い

全国

森忠政, 徳川家康

忠政は東軍に与し戦功を挙げる。これにより徳川政権下での地位を確立。

慶長8年 (1603) 2月

美作国拝領

伏見城

森忠政, 徳川家康

関ヶ原の功により、信濃川中島から美作一国18万6500石へ加増転封となる 13

慶長8年 (1603) 春

美作国入封

美作国 院庄

森忠政

播州杉坂越えで美作入り。古代からの国府であった院庄に仮の拠点を構える 17

慶長8年 (1603) 春~夏

築城地選定を巡る対立

院庄

森忠政, 井戸宇右衛門

当初の築城予定地であった院庄を巡り、忠政と重臣・井戸宇右衛門の間で意見が対立 19

慶長8年 (1603) 5月頃

院庄事件(井戸氏誅殺)

院庄

森忠政, 井戸宇右衛門, 名古屋山三郎

忠政は寵臣・名古屋山三郎らを使い、普請現場で井戸宇右衛門とその弟らを暗殺 19

慶長8年 (1603) 後半

築城地を鶴山に決定

美作国

森忠政

院庄事件により院庄での築城計画は破棄。新たな築城地として鶴山が正式に決定される。

慶長9年 (1604)

津山城普請開始

鶴山(津山)

森忠政

鶴山の地名を「津山」と改め、大規模な築城工事に着手する 20


慶長八年(1603年)二月、伏見城において徳川家康から正式に美作一国を拝領した忠政は、春には入国を果たした 13 。彼が最初に拠点を構えたのは、古代から美作国の国府が置かれていた院庄であった 17 。当初、忠政はこの伝統ある政治の中心地に新たな城を築く計画を進め、普請奉行には重臣の井戸宇右衛門を任命した 19 。しかし、この築城地の選定を巡って、両者の間に深刻な亀裂が生じる。

この対立は、単なる個人的な不和や城地の優劣を巡る技術的な議論に留まるものではなかった。それは、近世的な城郭都市建設における「思想の対立」であった可能性が高い。院庄は、律令制以来の行政の中心地であり、伝統と権威の象徴であった。一方、忠政が新たな候補地として考えていた鶴山は、吉井川と出雲街道という水陸の交通路を見下ろす、軍事・経済の戦略的要衝であった 21 。井戸は旧来の権威を重んじ、伝統的な国府に城を構えるべきだと主張したのに対し、忠政は新たな時代に即した軍事合理性と経済的実利を追求した。

この思想的対立は、ついに悲劇的な結末を迎える。慶長八年五月、忠政は非情な決断を下す。寵臣であった名古屋山三郎らに命じ、院庄の普請現場で井戸宇右衛門を暗殺。さらにその弟二人にも刺客を放ち、井戸一族を根絶やしにしたのである 19 。この「院庄事件」は、戦国の気風が未だ色濃く残る時代の非情さを示すと同時に、忠政が自らの領国経営ビジョンを断行するためには、いかなる障害も力で排除するという強い意志の表れであった。この粛清によって、旧来の価値観を代表する勢力は一掃され、美作国の中心が伝統から実利へと移行する道筋が、血によって切り拓かれたのである。

事件後、院庄での築城計画は完全に白紙となり、鶴山が新たな築城地として正式に決定された。忠政は、自らの理想とする近世城郭都市の建設に向けて、一切の障害を取り除き、ついにその第一歩を踏み出す準備を整えたのであった。

第四章:慶長九年(1604年)、普請開始――巨大城郭の誕生

院庄での粛清を経て、森忠政の絶対的な権力のもと、美作国の新たな中心地を創造する一大事業が、慶長九年(1604年)にその幕を開けた 20 。これは単なる土木工事の開始ではなく、森氏による美作支配の始まりと、徳川の威光がこの地に及んだことを内外に宣言する、壮大なセレモニーでもあった。

普請開始に際し、忠政はまず、この地の名を旧来の「鶴山(つるやま)」から「津山」へと改めた 19 。これは、古くからの名を変えることで過去の歴史と決別し、この地が自らの手によって生まれ変わることを示す、支配者としての強い意志表明であった。地鎮の儀式が厳かに行われ、鶴山の地形を最大限に活用した縄張(設計)が確定した。山全体を石垣で覆い、山頂に本丸を、中腹に二の丸、三の丸を階段状に配置する「梯郭式平山城」の基本設計は、この時に定められたものである 21

初期工事の主眼は、城の土台となる膨大な石垣の構築にあった。石材は、城下近郊の大谷や金屋といった石切場から切り出された 26 。石山寺の境内に今も残る矢穴(石を割るために楔を打ち込んだ跡)の痕跡は、当時の過酷な作業の様子を静かに物語っている 26 。切り出された巨石は、多大な労力をかけて鶴山まで運ばれ、専門の石工集団によって積み上げられていった。発掘調査では、石垣の角を強固にするための「算木積み」と呼ばれる当時の最先端技術が用いられていたことが確認されており、津山城が極めて高度な技術で築かれたことを示している 27

この巨大城郭の設計思想の根底には、戦国時代を通じて培われた徹底した実戦主義があった。その象徴が、城の中心に聳え立つ天守である。外観五層、内部五階建ての巨大な建造物でありながら、屋根には破風などの華美な装飾を一切持たない、極めて質実剛健な「独立式層塔型」であった 2 。これは、豊臣秀吉の大坂城に代表されるような権威を見せつけるための城から、徳川の時代の「戦うための城」へと、城郭建築の思想が転換したことを明確に示している。その実戦性は、壁面に穿たれた無数の狭間(さま)にも表れている。鉄砲狭間が百一ヶ所、矢狭間が五十九ヶ所も設けられており、これは戦国末期に発達した火器による戦闘に完全に対応した設計であった 2

さらに、津山城の縄張りは、極めて具体的な軍事シミュレーションに基づいていた。城の東側は宮川の断崖を天然の防御線として活用する一方、平野に面した南・西・北側は幾重にも巡らされた堀と石垣、そして六十を超える櫓によって厳重に固められていた 21 。この非対称な防御計画は、敵の主攻撃方向を、交通の要路である出雲街道が通る南側と、西国方面からの侵攻が予想される西側と想定していたことを示唆している。つまり、津山城の設計は、毛利氏をはじめとする西国の潜在的敵対勢力の侵攻を強く意識した、明確な戦略的意図の産物だったのである。1604年に始まったこの普請は、戦国の知恵と技術のすべてを注ぎ込み、徳川の天下を西から支えるための巨大な軍事要塞を誕生させるための、壮大な序曲であった。

第五章:城は町、町は城――城下町の同時形成

津山城の普請開始は、単に軍事要塞を建設する事業に留まらなかった。それは、藩の政治、経済、そして社会の新たな中心を創造する、壮大な「都市開発」の始まりでもあった 12 。森忠政の構想において、城と城下町は軍事・統治機能において不可分の一体であり、築城と同時に極めて計画的に形成が進められた 22

この計画都市・津山の最大の特徴は、城郭を中心に、武家地、町人地、寺社地という異なる機能を持つ区域が、明確な意図をもって配置(ゾーニング)された点にある 22 。城の西側に隣接する田町や北側の椿高下などには、藩士たちの屋敷が建ち並ぶ武家地が置かれた。これらの武家屋敷群は、城の防衛線を幾重にも形成する役割を担っていた。

一方、城の南側には、藩の経済を支える大動脈として、東西に「出雲街道」が貫通するように設計された 22 。この街道の両側には、商人や職人が住む町人地が碁盤の目状に整備された。特に城の大手口に近い京町や二階町には有力商人が集められ、城下町の経済的中心地としての機能が与えられた 30 。これにより、城は軍事・政治の中心であると同時に、経済活動の中心地ともなり、商人たちが集まることで町は繁栄していった 31

そして、城下町の西端や東端といった外縁部には、寺社地が集中的に配置された。これは、有事の際には町の外からの攻撃に対する緩衝地帯となり、寺社の堅牢な建物や塀が最終防衛拠点として機能することも想定された、戦国時代以来の城下町設計の定石であった 22

このような計画的な都市設計は、森忠政がそれまでのキャリアで得た経験の集大成であったと考えられる。彼は、織田信長や豊臣秀吉という、当時最も先進的な都市計画を実践した天下人の下で、その手法を目の当たりにしてきた 12 。信長の安土城下町に代表される、城と町を一体化させ、街道を整備して商業を振興させる「楽市楽座」的な思想は、津山の町づくりにも色濃く反映されている。身分ごとに居住区を明確に分けるという封建的な支配体制を維持しつつも、街道沿いに商業機能を集約させて経済の活性化を図るという手法は、封建社会の秩序と近世的な経済合理性を両立させようとする、当時の先進的な都市計画思想の表れであった。1604年の普請開始は、堅固な城だけでなく、その後の津山藩の繁栄を支える機能的な都市が誕生した瞬間でもあったのである。

結論:津山城普請開始の歴史的意義

慶長九年(1604年)における津山城の普請開始は、日本の歴史が大きな転換点を迎える中で行われた、極めて象徴的な出来事であった。単なる一城郭の建設という枠を超え、それは徳川の天下、戦国の終焉、そして近世津山の誕生という、三つの重層的な意味を持つ画期であった。

第一に、津山城は「徳川の天下の礎」であった。関ヶ原の戦いを経てなお、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在し、徳川の支配は盤石ではなかった。その中国地方の喉元に、信頼篤く、かつ築城の名手である森忠政を配置し、西国随一と称されるほどの巨大城郭を築かせたことは、徳川幕府による西国監視網の重要な結節点を構築する国家的事業の一環であった。津山城は、力による平和を志向する徳川の覇権を、西国に物理的に示すための巨大な楔だったのである。

第二に、津山城は「戦国技術の結晶」であった。その縄張り思想、実戦本位の天守、無数の櫓群が織りなす高度な防御システム、そして城と一体化した計画的な城下町の設計は、応仁の乱以来百数十年にわたって日本全土で繰り広げられた戦乱の中で培われ、洗練された軍事・統治技術の集大成であった。それは、戦国という「動」の時代が生み出した技術と知恵の、最後の、そして最も壮麗な輝きの一つであったと言える。

第三に、それは「近世津山の誕生」を告げる号砲であった。森忠政による築城と城下町の建設は、美作国という地域に、近世的な政治・経済・社会システムをもたらす起点となった。計画的に配置された武家地、出雲街道沿いに繁栄した町人地は、その後二百七十年にわたる津山藩の繁栄の基礎を築いた。1604年の槌音は、現代に続く津山の都市構造の原点を形作ったのである。

結論として、1604年の津山城普請開始は、戦国という時代が終わり、江戸という新たな秩序の時代が始まる、まさにその狭間に打ち込まれた歴史的モニュメントであった。その高く積み上げられた石垣の一つ一つに、乱世を生き抜いた武将たちの知恵と、新たな時代を築こうとする確固たる意志が刻まれている。津山城は、過去と未来が交差する一点において、その雄大な姿を現し始めたのである。

引用文献

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  5. 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
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  28. 【岡山県】国史跡の津山城跡で石垣修理工事見学会を実施しました。 - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000418.000023972.html
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  30. 津山城・津山の城下町 - 津山瓦版 https://www.e-tsuyama.com/report/2018/01/post-899.html
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