最終更新日 2025-09-28

清洲越し(1590)

「清洲越し」は1590年には不可能で、1610年に徳川家康が天下確立後に実行。旧時代の清洲を解体し、水害に強く防御に優れた名古屋を新拠点とした。天下普請で大名を動員し、財力を削ぎ忠誠を試す政治戦略であり、先進的な都市計画で名古屋を創造した。
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尾張の中心、動く ― 「清洲越し」の全貌:徳川家康の都市構想と名古屋誕生の軌跡

序論:清洲越しの時代的再定義 — 1590年から1610年へ

日本の都市史において画期的な出来事とされる「清洲越し」は、一般に慶長15年(1610年)から元和2年(1616年)頃にかけて実行された、尾張国の中心地を清洲から名古屋へと移転させた一大事業である 1 。しかし、この事業が1590年の出来事であるという認識は、歴史的文脈において重大な誤解を招く。この20年という時間の隔たりは、単なる年代の差異に留まらず、事業の主体、目的、そしてその歴史的意義を根本的に変容させる決定的な意味を持つ。

1590年(天正18年)は、豊臣秀吉が小田原征伐を成功させ、天下統一を成し遂げた年である。この時点での徳川家康は、関東に移封された一大大名に過ぎず、尾張国に対する直接的な支配権は有していなかった。したがって、1590年に家康が尾張の中心地を動かすことは政治的に不可能であった。

一方、事業が開始された1610年(慶長15年)は、関ヶ原の戦い(1600年)から10年が経過し、家康が征夷大将軍として江戸に幕府を開き、日本の実質的な支配者としての地位を確立した後の時代である 3 。この時期、家康は徳川による盤石な支配体制を全国に構築する過程にあり、清洲越しもその壮大な構想の一環として位置づけられる。つまり、清洲越しは単なる都市機能の移転ではなく、織田信長、豊臣秀吉と続いた旧時代の中心地であった清洲を解体し、徳川の威光を天下に示す新時代の拠点・名古屋を創造するという、極めて高度な政治的デモンストレーションであった。1590年には不可能であったこの事業が1610年に実現したこと自体が、日本の権力構造が豊臣から徳川へと完全に移行したことを雄弁に物語っているのである。

本報告書では、この歴史的文脈を基軸に、「清洲越し」の全貌を詳細かつ時系列に沿って解き明かす。清洲の繁栄とその脆弱性、家康の深謀遠慮、名古屋の先進的な都市計画、そして世紀の大移転の具体的な様相を多角的に分析し、この事業が日本の近世史に与えた影響を考察する。

第一章:尾張の中心・清洲の栄華と脆弱性

戦国期における清洲の重要性

清洲は、室町時代後期の15世紀末から江戸時代初頭に至るまで、尾張国の支配の中心地として比類なき繁栄を誇った 4 。1478年(文明10年)に守護所が置かれて以来、京鎌倉往還と伊勢街道が合流する交通の要衝として、政治、経済、司法の中心機能を担ってきた 5

その名は、戦国時代に一層輝きを増す。1555年(弘治元年)、那古野城主であった織田信長が、主家である清洲織田大和守家を打倒し、この清洲城を本拠地とした 5 。信長はここから桶狭間の戦い(1560年)に出陣して今川義元を破り、天下統一への第一歩を踏み出したのである 8 。信長が1563年に小牧山城へ拠点を移すまでの約10年間、清洲は彼の飛躍の舞台であった 7

信長の死後も、清洲の重要性は揺るがなかった。1582年(天正10年)には、信長の後継者を決める歴史的な「清洲会議」がこの城で開かれ、日本の運命を左右する議論が交わされた 5 。その後、城主となった信長の次男・織田信雄によって城は大規模に改修され、東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な城塞都市へと変貌を遂げた 5 。関ヶ原の戦い後、徳川家康の九男・徳川義直の時代には、城下町の人口は約6万人に達し、朝鮮通信使の記録に「関東の巨鎮」と記されるほどの栄華を極めた 5

清洲が抱える地理的・軍事的欠陥

しかし、その栄華の陰で、清洲は構造的な脆弱性を抱えていた。最大の問題点は、その地理的条件にあった。清洲城とその城下町は、五条川沿いの低湿地に位置しており、古くから洪水や水害の危険性が常に付きまとっていた 12 。城自体は微高地に築かれていたものの、6万人もの人口を抱える広大な城下町全体を水害から守ることは困難であった 13

この地理的弱点は、軍事的な脆弱性にも直結していた。平城である清洲城は防御施設が手狭であり、特に敵からの水攻めに対して極めて弱いという致命的な欠陥を抱えていたのである 12 。戦国時代が終焉し、大規模な土木技術を駆使した戦術が可能となった近世において、この弱点は為政者にとって看過できない問題となっていた。

興味深いのは、清洲の繁栄と脆弱性が表裏一体であった点である。交通の要衝として経済的繁栄をもたらした川沿いの立地こそが、同時に水害と軍事的弱点の根源でもあった。この根本的な矛盾は、長らく尾張の中心であり続けた清洲が、絶対的な権力と新たな都市構想を持つ徳川家康の時代において、抜本的な改革の対象となる運命を決定づけたのである。

第二章:天下人の決断 — なぜ名古屋だったのか

徳川家康の深謀遠慮 — 政治的・軍事的意図

慶長14年(1609年)、家康は九男・徳川義直と共に清洲城に入り、名古屋への遷府を正式に表明した 13 。公式な理由は、前述の清洲が抱える水害の危険性であったが 13 、その背後には家康の老練な政治的・軍事的計算が幾重にも張り巡らされていた。

第一に、対豊臣戦略としての意図である。関ヶ原の戦いは終わったものの、豊臣家は大坂城を拠点に依然として大きな影響力を保持していた。家康は、江戸と京・大坂を結ぶ東海道の要衝に、徳川の威光を示す巨大な城郭を築くことで、西国大名、とりわけ豊臣家に対する強力な軍事的圧力と監視の拠点とすることを狙った 15 。清洲という旧時代の象徴を捨て、徳川による新たな城を築くことは、時代の支配者が誰であるかを天下に示す強烈なメッセージでもあった。

第二に、御三家筆頭となる尾張徳川家の基盤構築である。家康は、信頼する九男・義直に尾張62万石という広大な領地を与えた 13 。彼が率いる尾張藩を徳川宗家の盤石な支えとするためには、旧来のしがらみが残る清洲ではなく、全く新しい徳川の城と城下町こそがふさわしいと考えた。新都市・名古屋は、義直とその後の尾張藩主が、徳川の権威を背景に強力なリーダーシップを発揮するための揺るぎない土台となるはずであった。

移転候補地の比較検討

遷府の決定にあたり、移転先の候補地として那古野(名古屋)、古渡、小牧が検討された 13 。その中で最終的に那古野台地が選ばれた背景には、義直の傅役であった山下氏勝の進言があったと伝えられている 13 。彼は、かつて織田信長が居城としたものの、信長の清洲移転後は廃城同然となっていた那古野の地に、新城を築くことの利点を家康に説いた 13

那古野台地が選ばれた理由は、多角的に見て他の候補地を圧倒していた。

  • 防御面: 堅固な台地上に位置するため、清洲のような洪水のリスクが皆無であった 12 。これは遷府の最大の目的を達成する上で不可欠な条件であった。
  • 経済面: 南に位置する伊勢湾の要港・熱田の湊に近く、物流の拠点として高い潜在性を秘めていた。さらに、後述する堀川の開削計画により、城下と湊を直接水運で結ぶことが可能であった 12
  • 交通面: 鎌倉街道をはじめとする主要街道へのアクセスも良好で、陸上交通の利便性も確保されていた 14
  • 拡張性: 広大で平坦な台地は、将来的な都市の発展を見越した大規模な城下町を計画的に整備するのに最適であった。

これらの要素を総合的に判断した結果、家康は那古野の地に新時代の尾張の中心を築くことを決断したのである。

項目

清洲

名古屋(那古野台地)

地理的条件

五条川沿いの低湿地

堅固で広大な台地

防御能力

平城で手狭。水害・水攻めに脆弱

台地上に位置し、防御に優れる

経済的潜在性

陸上交通の要衝

熱田湊に近く、堀川開削による水運確保が可能

将来の拡張性

周辺が低湿地で限定的

広大な台地が計画的な都市開発を可能にする

第三章:「天下普請」としての名古屋築城と先進的都市計画

「天下普請」の本質 — 財力の削剥と忠誠の証明

名古屋城の築城は、徳川家康の命令一下、全国の大名、特に西国の豊臣恩顧の大名たちに労働力や資材の提供を義務付けた「天下普請」として実行された 13 。これは、単に築城の労力を分担させるという実務的な目的だけでなく、大名たちの財政を圧迫して軍事力を削ぎ、徳川家への忠誠心を試すという、極めて巧妙な政治戦略であった 15

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興といった名だたる大名たちがこの普請に動員された 15 。伝えられるところによれば、過大な負担に不満を漏らす福島正則に対し、加藤清正が「それほど築城が嫌であれば、国元に帰って一戦の準備をされよ。それができぬなら黙って務めよ」と諌めたという逸話は、この事業がいかに大名たちにとって大きな負担であり、逆らうことのできない絶対的な命令であったかを物語っている 15 。家康はこの天下普請を通じて、徳川の権威に逆らう者はいないことを天下に示し、支配体制を一層強固なものとしたのである。

近世城下町の理想形 — 名古屋の都市計画

名古屋の都市計画は、家康の理想都市建設への強い意志を反映した、当時としては極めて先進的かつ合理的なものであった 16

名古屋城を台地の北西の核として配置し、その周囲に武家地、町人地、寺社地が計画的に区分けされた 14 。特に注目すべきは、城の南側に広がる町人地である。ここは「碁盤割(ごばんわり)」と呼ばれる整然とした碁盤の目状の区画で整備された 14 。このグリッド・パターンは、商業活動の効率化を図ると同時に、火災の延焼を防ぐ防火帯の役割や、有事の際の治安維持を容易にするなど、防災と統治の両面を考慮した優れた設計であった。

一方で、寺社は城下町の東と南の外縁部に集中的に配置された 14 。これは「寺町」と呼ばれ、平時には人々の信仰の場として、そして有事の際には敵の侵攻を食い止める防御拠点としての役割を担うことが意図されていた 18

この都市計画は、単なる物理的な区画整理に留まらなかった。それは、徳川が目指す厳格な身分制社会を、都市空間という形で具現化する試みでもあった。武士、町人、そして寺社という異なる身分の居住区を明確に分離・配置することで、社会秩序を可視化し、統治を円滑に進めるという高度な政治的意図が込められていた。家康が描いたこの都市の青写真は、単なる防御や経済効率のためだけでなく、新たな時代の社会構造そのものを設計する壮大な社会実験だったのである。

第四章:世紀の大移転 — 清洲越し、そのリアルタイムの様相

清洲から名古屋への遷府は、数年にわたる壮大な国家プロジェクトであった。その過程は、周到な計画と驚異的な実行力によって推進された、まさに「リアルタイム」で進行する都市創造のドラマであった。

西暦

和暦

主要な出来事

1609年

慶長14年

徳川家康が清洲城にて名古屋への遷府を正式に表明 13

1610年

慶長15年

名古屋城の築城工事(天下普請)が本格化。堀川の開削が開始される 12 。清洲越しが始まり、築城関係者や一部の武士が移住を開始 14

1611年

慶長16年

武士、町人、寺社の大規模な移転が本格化。

1612年

慶長17年

名古屋城天守の石垣が完成。移転のピークを迎える。

1613年

慶長18年

名古屋城天守が竣工。武士や町人の屋敷配置がほぼ完了し、新城下町の骨格が定まる 7 。清洲城は正式に廃城となる。

1616年

元和2年

一連の移転事業がほぼ完了。徳川家康、没。

慶長14年(1609年):遷府の決定

この年、大御所・徳川家康は清洲城において、尾張の中心を那古野台地へ移すという重大な決定を公式に発表した 13 。長年尾張の中心として栄華を誇った清洲の武士や町人たちの間には、大きな衝撃と動揺、そして新都市への期待が入り混じった複雑な感情が走ったことであろう。天下人の決定は絶対であり、彼らは故郷を離れ、新たな土地で生活を再建するという運命を受け入れざるを得なかった。

慶長15年(1610年):事業の始動

年が明けると、計画は直ちに実行に移された。名古屋の地では天下普請による築城工事が本格的に開始され、西国大名たちが動員されて巨大な石垣が組まれ始めた。時を同じくして、都市の生命線となるインフラ整備も進められた。福島正則の指揮のもと、熱田の湊と城下を結ぶ物流の大動脈「堀川」の開削が開始されたのである 12 。この運河は、物資輸送の効率を飛躍的に高め、新都市・名古屋の経済的発展を支える基盤となった。そして、この年から「清洲越し」が始まった。まずは築城関係者、一部の武士、そして刀や鉄砲などの職人たちが、先行して名古屋へと移住を開始した 14

慶長16年~17年(1611年~12年):移転の本格化と社会の変容

この2年間は、清洲越しのピークであった。武士、町人、職人、そして彼らの家族に至るまで、巨大なコミュニティが丸ごと移動するという、日本史上類を見ない規模の集団移転が繰り広げられた。

対象

規模

人口

約60,000人

町数

67町

寺社数

約100社

(出典: 14

この大移動の様子は、当時の人々の間で「おもいがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と詠われた 13 。この歌には、生まれ育った故郷が寂れていくことへの哀愁と、突如として現れた新都市への驚きや期待が込められている。

この移転の徹底ぶりを象徴する逸話が、橋の移設である。清洲の五条川に架かっていた「五条橋」が解体され、部材ごと名古屋の堀川へと運ばれ、同じ名前で再建された 12 。その証拠に、橋の擬宝珠(ぎぼし)には堀川開削の慶長15年よりも古い「慶長七年」という銘が刻まれており、これが清洲からの移築を物語っている 20 。これは単なるインフラの再利用ではない。人々の記憶や生活に根付いた都市の象徴物、いわば都市の魂までも新天地へ移そうとする、家康の徹底した意思の表れであった。

慶長18年(1613年):新都市の完成と旧都市の終焉

この年、名古屋城の壮大な天守が完成し、武士や町人の住居配置もほぼ完了した 14 。碁盤割の町並みが整い、新都市・名古屋はその骨格を現した。これに伴い、清洲城はその歴史的役割を終え、正式に廃城となった 7 。しかし、その存在が完全に消え去ったわけではない。解体された清洲城の部材は、名古屋城の御深井丸西北隅櫓などに再利用された 6 。この櫓が「清洲櫓」とも呼ばれるのはそのためである。旧時代の権威の象徴を解体し、新時代の城の一部として組み込むこの行為は、歴史の継承と旧体制の終焉を同時に示す、極めて象徴的な出来事であった。

元和2年(1616年)頃:事業の完了

徳川家康がその生涯を閉じたこの年、一連の移転事業はほぼ完了した。かつて葦の茂る荒れ地であった那古野台地は 21 、わずか数年のうちに、壮麗な城郭と整然とした町並みを持つ、尾張徳川家の拠点として完全に機能する大都市へと生まれ変わっていた。家康の壮大なビジョンは、彼の死と共に次世代へと引き継がれ、新都市・名古屋の歴史が幕を開けたのである。

第五章:清洲のその後と名古屋の誕生

清洲の衰退と再生の物語

清洲越しの後、かつて「関東の巨鎮」とまで称された清洲の町は、その輝きを完全に失った。人口の大部分が流出し、町は急速に荒廃した 22 。まさに「花の清須は野となろう」という歌の通り、一時的には寂れた宿村へと姿を変えたのである 4

しかし、清洲の歴史はここで終わらなかった。江戸時代に入り、徳川幕府が全国の交通網を整備する中で、東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ重要な脇街道として「美濃路」が設定された 24 。家康はこの美濃路の宿場町として、かつての中心地であった清洲を「清須宿」として再生させたのである 22 。これにより、清洲は新たな役割を得て、再び賑わいを取り戻した。大名の参勤交代や朝鮮通信使なども利用する重要な宿駅となり、美濃路の中でも最大級の本陣が置かれるなど、新たな形で繁栄した 25

この清洲の再生は、徳川幕府の極めて合理的な国土経営思想を反映している。旧来の拠点を完全に放棄・破壊するのではなく、新たな交通インフラの中に戦略的に組み込み、その機能を再定義して活用する。これは、国土全体の資源を無駄なく効率的に運用し、支配体制を強化するという、徳川の統治哲学そのものであった。政治的中心としての役割は終えたが、交通の結節点として、清洲は近世を通じて生き続けたのである。

新都市・名古屋の発展

一方、清洲越しによって人工的に誕生した名古屋は、尾張藩62万石の拠点として、目覚ましい発展を遂げた。徳川御三家筆頭の城下町として、江戸、大坂に次ぐ大都市へと成長し、日本の政治・経済・文化において重要な地位を占めるに至った。

特筆すべきは、徳川家康が描いた都市計画の先見性である。名古屋城を中心に広がる碁盤割の町並みや、計画的に配置された道路網は、その後の時代の変化にも柔軟に対応し、現代に至るまで名古屋市中心部の骨格として生き続けている 14 。本町通や広小路といった現在の主要な通りも、この時に整備されたものである 14 。400年以上前に描かれた都市の青写真が、現代の大都市の基礎となっている事実は、家康の類稀なる構想力と計画性の証左と言えよう。

結論:清洲越しが後世に遺したもの

「清洲越し」は、単に水害対策を目的とした都市機能の移転という事象に留まるものではない。それは、徳川幕府による新たな支配体制を盤石にするための、軍事的、政治的、経済的、そして社会的な意図が凝縮された、一大国家プロジェクトであった。

この事業は、織田・豊臣という旧時代の中心地を秩序正しく解体し、徳川が理想とする新たな社会秩序に基づいた近世城下町をゼロから創造するという、徳川家康の天下人としてのビジョンと卓越した実行力の集大成であった。西国大名を動員した「天下普請」による権威の誇示、対豊臣戦略を念頭に置いた軍事拠点の構築、身分制社会を反映した先進的な都市計画、そして約6万人の人民と都市インフラを数年で移転させた驚異的な行政手腕。その全てが、徳川による長期安定政権の礎を築くという一つの目的に向かって収斂している。

清洲越しによって誕生した名古屋は、その後250年以上にわたる「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を支える西国の拠点として発展し、その都市構造は現代にまで受け継がれている。この壮大な事業は、一人の為政者の強力な意志が、いかにして都市を創り、時代を動かし、後世にまで続く遺産を遺しうるかを示す、不朽の歴史的実例として、今なお我々に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

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  10. 清洲城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/toukai/kiyosu/kiyosu.html
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