盛岡城築城(1598)
慶長三年、南部信直は豊臣政権の助言で盛岡城築城を開始。総石垣の織豊系城郭は南部氏の近世大名化を象徴し、九戸政実の乱後の領国安定と伊達政宗への牽制を担った。盛岡の礎を築いた巨城である。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
北奥の巨城、盛岡城の誕生 ― 戦国末期、南部信直の戦略と築城のリアルタイム分析
序章:天下統一の奔流と北奥の雄、南部氏
日本の歴史が大きく動いた16世紀末、天下統一の奔流は中央から遠く離れた東北地方、北奥の地にも容赦なく押し寄せていた。この時代、伊達、最上、蘆名といった大名が激しく覇を競う中、後の岩手県から青森県東部にかけて広大な領域を支配していたのが南部氏である。盛岡城の築城という巨大事業を理解するためには、まず、この南部氏が置かれていた極めて複雑かつ厳しい政治的状況を解き明かす必要がある。
南部氏は、その広大な領土とは裏腹に、強力な中央集権体制を確立した大名ではなかった。その実態は、三戸(さんのへ)の南部氏を宗家としながらも、八戸(はちのへ)、九戸(くのへ)、七戸(しちのへ)といった有力な一族が「郡中」と呼ばれる連合体を形成し、同族連合によってかろうじて統治が成り立っているという、構造的な脆弱性を抱えていた 1 。
この危うい均衡の中で当主となったのが、第26代・南部信直である。彼は南部家の庶流である石川高信の子として生まれ、宗家当主・南部晴政の養子となる形で家督を継いだ 2 。しかし、その継承過程は決して平穏ではなく、一族内には信直の当主就任に不満を持つ勢力が根強く存在した。特に、最強の分家と目された九戸政実は、信直にとって最大の脅威であり、彼の治世は常に内外の敵との緊張関係の中に置かれていた。
このような状況下で、信直は早くから中央政権の動向を鋭敏に察知していた。地方の武力のみで領国を維持する時代の終わりを予見した彼は、豊臣秀吉の家臣である前田利家などを通じて中央との関係構築を模索する 3 。これは、自らの統治の正統性を、外部の絶対的な権威によって補強しようとする、極めて高度な外交戦略であった。信直が中央との連携を急いだ背景には、二つの差し迫った理由があった。第一に、九戸政実をはじめとする一族内の反対派を抑え込むこと。第二に、かつては家臣筋でありながら独立し、南部領を侵食していた大浦(津軽)為信に対抗するための大義名分を得ることである。
しかし、この外交競争において、信直は宿敵・津軽為信に後れを取る。為信はより迅速に秀吉に謁見し、津軽地方の領有を公的に認められてしまったのである 4 。この「出遅れ」は、信直にとって痛恨の外交的敗北であり、彼のその後の行動に大きな影響を与えることとなった。南部氏が強力な中央集権体制を築けていなかったが故に、内部の有力者を完全に抑えきれず、外部の敵の独立を許してしまった。この内憂外患を打開するため、信直は自前の権威ではなく、豊臣政権という外部の力を利用せざるを得ない状況に追い込まれていった。これこそが、後の奥州仕置への対応、そして盛岡城築城という壮大な計画へと繋がる全ての物語の起点となるのである。
第一章:築城前夜 ― 奥州の動乱と南部氏の決断(〜1591年)
天下統一の総仕上げとして豊臣秀吉が断行した「奥州仕置」は、東北地方の勢力図を根底から塗り替えるものであった。そして、それに続く南部氏史上最大の内乱「九戸政実の乱」は、皮肉にも、新たな時代の拠点となる盛岡城建設の直接的な引き金となった。
天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が行われると、信直はこれに参陣し、宇都宮において秀吉から南部七郡の所領を安堵する朱印状を与えられた 3 。これにより、彼は単なる地方の豪族から、豊臣政権が公認する「近世大名」へとその地位を変えた。しかし、この新たな秩序は、旧来の勢力との間に深刻な亀裂を生じさせる。これまで宗家と比較的対等な立場にあった八戸氏や九戸氏といった有力一族が、信直の「家臣」として明確に位置づけられたからである 1 。これは、九戸政実らにとって到底受け入れられるものではなかった。
翌天正19年(1591年)、奥州仕置に対する不満が各地で一揆となって噴出する中、ついに九戸政実が五千の兵力で挙兵する 3 。南部氏の精鋭を率いた九戸勢の力は強大であり、信直の支配は根幹から揺さぶられた。この危機に際し、信直は極めて冷静かつ現実的な判断を下す。独力での鎮圧を早々に断念し、秀吉に援軍を要請したのである 3 。これは、彼の「堅実」な性格を示すと同時に、自軍だけでは対処不能なほど事態が深刻であったことを物語っている。
この要請に対し、豊臣政権の反応は迅速かつ大規模なものであった。関白・豊臣秀次を総大将に、浅野長政(長吉)、蒲生氏郷、石田三成といった歴戦の武将たちを含む総勢六万ともいわれる大軍が奥州へと派遣された 1 。これは、この反乱が豊臣政権にとって天下統一事業の最終段階における最後の組織的抵抗であり、これを見せしめとして鎮圧しなければ、日本の完全統一が成し遂げられないと認識されていたからに他ならない。圧倒的な物量の前に九戸城は落城し、政実は降伏後、処刑された。
九戸政実の乱は、信直にとって最大の危機であったと同時に、最大の好機でもあった。彼は自らの力で内乱を鎮圧することはできなかった。しかし、その「弱さ」を逆手にとり、中央の絶大な軍事力を領内に引き込むことで、結果として誰にも成し得なかった領内の一元支配と権力集中を達成したのである。
乱の終結後、この鎮圧劇を監督した豊臣軍の軍監、浅野長政と蒲生氏郷は、信直に一つの重要な助言を与えた 3 。それは、「これまでの本拠地である三戸や、乱後に移った九戸(福岡と改名)は、広大な南部領の北に偏りすぎている。領国全体を効率的に支配するためには、より南方の要衝である不来方(こずかた)の地に新たな城を築くべきだ」という、極めて戦略的な提言であった。この助言は、単なる親切心から発せられたものではない。それは、豊臣政権の東北支配を安定させるための「駒」として、南部氏をより効果的に機能させるための戦略的指導であった。南部氏が安定した統治を行わなければ、この地は再び不安定化し、豊臣政権の負担となりかねない。また、南に国境を接する野心家・伊達政宗への牽制という側面も含まれていた可能性が高い 3 。
かくして、盛岡城の壮大な構想は、南部氏の内部統制という内的要因と、豊臣政権の対東北、対伊達という外的要因が交差する地点で、極めて政治的なプロジェクトとして産声を上げたのである。
第二章:不来方の地 ― 戦略的要衝の選定と城郭設計(1592年〜1597年)
九戸政実の乱の後、南部信直は新たな拠点として不来方の地を選定した。なぜ「不来方」だったのか。そして、そこにどのような城を築こうとしたのか。その選択と設計思想には、戦国末期を生き抜くための明確な戦略が込められていた。
文禄元年(1592年)、信直は秀吉の朝鮮出兵命令に従い、肥前名護屋城へと出陣する。この遠征からの帰国後、彼は本格的に不来方への本拠地移転を具体化させ、整地を開始したとされる 3 。それまでの拠点であった三戸城は、馬淵川と熊原川に挟まれた比高約90メートルの丘陵に築かれた広大な山城であり、天然の要害ではあった 12 。しかし、その構造は防御一辺倒の中世的なものであり、領国全体を統治し、経済を発展させる拠点としては、交通の便が悪く時代遅れになりつつあった。
これに対し、不来方の地はいくつかの決定的な地理的優位性を持っていた。第一に、北上川と中津川の合流点に位置し、水運の要衝であったことだ 2 。これは、今後の領国経済の発展を見据えた、極めて近代的な視点からの選択であった。第二に、城を築く丘陵とその周辺が、良質な花崗岩を豊富に産出する地帯であったことである 7 。壮大な石垣を築く上で、資材調達の容易さは絶対的な利点であった。そして第三に、軍事的な意味合いである。新たな領地となった和賀・稗貫郡を確実に支配下に置き、南に境を接する伊達政宗の脅威に直接対峙する最前線拠点としての役割が期待された 3 。
そして、この戦略的要衝に計画された城の基本設計(縄張り)は、助言者である浅野長政の意向が強く反映され、当時の最先端軍事技術の結晶である「織豊系城郭」そのものであった 7 。土塁が主流であった東北地方の城郭の中にあって、主要な曲輪(くるわ)を全て石垣で固めるという総石垣の構想は、まさに画期的であった 10 。これは西国で発達した最新技術の導入であり、南部氏が豊臣政権と直結した先進的な大名であることを内外に誇示するものであった。
さらに、その防御思想も徹底していた。城の出入り口である虎口(こぐち)は、敵を方形の空間に誘い込んで四方から攻撃し殲滅する「枡形(ますがた)」構造が採用された 15 。また、城壁のライン(塁線)には随所に「折(おり)」と呼ばれる屈曲部が設けられ、城壁に取り付く敵兵に対して側面から攻撃(横矢)を加えられるよう、死角のない設計がなされていた 15 。
信直が、これほどまでにコストと高度な技術を要する最先端の城にこだわったのは、単に防御力を高めるためだけではなかった。それは、この城が持つ「見せる」という機能、すなわち政治的プロパガンダとしての役割を重く見ていたからに他ならない。壮大な総石垣と複雑な縄張りは、圧倒的な権威と技術力の象徴となる。これは、外交で後れを取った津軽為信に対する意地であり、「田舎大名と侮られたくない」という強烈な自負の表れでもあった 15 。盛岡城の石垣の高さは、南部氏のプライドの高さと、戦国末期における大名の生存戦略を物理的に表現したものだったのである。旧拠点からの移行が、単なる移転ではなく、統治思想そのものの革新であったことは、以下の比較表からも明らかである。
表1:盛岡城と三戸城の比較分析
項目 |
三戸城(旧拠点) |
盛岡城(新拠点) |
立地 |
山城(比高約90m) 12 |
平山城(河川合流点の丘陵) 2 |
主構造 |
土塁、一部石垣 14 |
総石垣 15 |
縄張り |
中世的(自然地形活用) 14 |
織豊系(枡形虎口、折) 15 |
機能 |
軍事・防御中心 |
軍事・政治・経済の複合拠点 2 |
象徴性 |
南部一族連合の伝統的拠点 |
豊臣政権公認の近世大名の城 |
第三章:巨城、北奥に立つ ― 慶長・元和の普請とリアルタイムの様相(1598年〜1615年)
盛岡城の築城は、計画から完成まで約40年を要した長大なプロジェクトであった。その過程は決して平坦な道のりではなく、当主の交代、天下分け目の戦い、そして内乱といった、時代の激動と常に隣り合わせであった。以下の年表は、築城が進行する中で南部氏と中央がどのような状況にあったかを示している。
表2:盛岡城築城関連年表(1590年〜1634年)
西暦 |
元号 |
中央の動向 |
南部氏の動向/築城の進捗 |
1590 |
天正18 |
小田原征伐、奥州仕置 |
信直、所領安堵。津軽領は認められず 4 |
1591 |
天正19 |
|
九戸政実の乱。豊臣軍の支援で鎮圧 1 |
1592 |
文禄元 |
文禄の役(朝鮮出兵) |
信直、名護屋へ出陣。不来方の整地開始 3 |
1597 |
慶長2 |
|
嫡子・利直を総奉行とし、鋤初めの儀 8 |
1598 |
慶長3 |
豊臣秀吉死去 |
築城本格化。普請奉行に内堀伊豆 9 |
1599 |
慶長4 |
|
南部信直、死去。利直が家督相続 9 |
1600 |
慶長5 |
関ヶ原の戦い |
利直、東軍に属す。岩崎一揆勃発 26 |
1603 |
慶長8 |
徳川家康、江戸幕府を開く |
|
1615 |
元和元 |
大坂夏の陣 |
主要部ほぼ完成。「盛岡」へ改名 9 |
1633 |
寛永10 |
|
全城竣工。3代・重直が入城 18 |
1634 |
寛永11 |
|
本丸が落雷で焼失 18 |
慶長2年(1597年)、信直の嫡男である利直を総奉行として、新城建設の鍬入れにあたる「鋤(すき)初めの儀」が執り行われ、歴史的な工事の幕が切って落とされた 8 。翌慶長3年(1598年)には、豊臣秀吉の死去という激動の中で、築城は本格化する。実際の築城指揮は、普請奉行に任命された内堀伊豆(頼式)が執った 9 。彼は近江の出身で、浅井氏、次いで前田利家に仕えた経験を持つ、いわば築城の専門家であった 27 。工事は、担当区域を複数の組に分けて競わせることで効率化を図る「割普請(わりぶしん)」という、これもまた豊臣政権下で広まった先進的な工法で進められた 7 。
しかし、そのわずか1年後の慶長4年(1599年)、この巨大プロジェクトの創始者である南部信直が病に倒れ、帰らぬ人となった 9 。若くして家督を継いだ利直は、父の遺志を継ぎ、この巨大事業を完遂するという重責を一身に担うことになった。
追い打ちをかけるように、翌慶長5年(1600年)には天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。利直は徳川家康率いる東軍に味方するという正しい政治判断を下し、戦後、所領を安堵される 9 。しかし、この中央の政変に乗じ、かつて信直に所領を奪われた和賀・稗貫の旧臣らが一揆(岩崎一揆)を起こした。この予期せぬ内乱により、利直は築城工事を一時中断、あるいは規模を縮小し、その鎮圧に兵力を割かざるを得なかったと考えられる 26 。築城現場は、緊張と停滞に見舞われたであろう。
藩内がようやく安定を取り戻すと、工事は再び本格化する。特に、城の威容を決定づける石垣の普請が精力的に進められた。石材は城内や周辺で産出される良質な花崗岩が用いられ、「矢穴(やあな)」と呼ばれる楔を打ち込む技法で巨大な石が切り出された 8 。そんな中、一つの伝説が生まれる。三の丸の造成工事中、掘っても掘っても底が見えない巨大な岩が出現したのである 9 。その姿が武士の烏帽子(えぼし)に似ていたことから、この岩は「烏帽子岩」と名付けられた。利直はこれを吉兆の証とみなし、破壊せずに神聖なものとして保存することを命じた 30 。この神秘的な出来事は、洪水や積雪など、困難を極めた工事に従事する人々の士気を大いに高めたに違いない。
そして慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川の世が盤石となったこの年、盛岡城は総石垣の城として、その主要部がほぼ完成の域に達した 26 。これを機に、利直は城と城下町の地名を、古くからの「不来方」から「盛岡」へと改めた。「盛り上がり栄える岡」という、未来への力強い願いが込められたこの改名は、過去との決別と、利直自身の時代の幕開けを領内外に宣言する象徴的な行為であった 9 。
築城過程における一連の危機は、若き当主・南部利直にとって、単なる障害ではなかった。父の死は彼に「遺業の継承者」という使命を与え、関ヶ原での政治判断は徳川体制下での南部家の存続を保証し、岩崎一揆の鎮圧は武力によって新領地を完全に掌握したことを示した。そして烏帽子岩の出現は、この事業が天に祝福されたものであるという「物語」を生み出した。城という物理的な構造物が完成していく過程と並行して、南部家が中世的な一族連合体から近世大名へと生まれ変わっていくという、政治的・精神的なプロセスが進行していた。これこそが、盛岡城築城の「リアルタイム」な様相の核心なのである。
第四章:城と城下町の誕生 ― 盛岡の礎を築く(1615年〜1633年)
慶長20年(1615年)の主要部完成は、盛岡城にとって一つの到達点であったが、それは終わりを意味するものではなかった。むしろ、城と一体となった新たな都市「盛岡」の本格的な始まりであった。
主要部が完成した後も、三の丸や淡路丸といった外郭部の石垣普請は続けられた 8 。そして、築城開始から約36年の歳月を経た寛永10年(1633年)、三代藩主・南部重直の代に、ついに全城が竣工し、名実ともに南部氏の公式な居城となった 18 。しかし、その喜びも束の間、わずか翌年の寛永11年(1634年)に本丸が落雷によって焼失するという悲劇に見舞われる 18 。この出来事は、巨大な城郭を維持管理していくことが、完成後も続く大きな課題であったことを物語っている。
城の建設と並行して、あるいはそれ以上に重要だったのが、城下町の整備であった。盛岡城築城は、城単体の建設に留まらず、城と城下町を一体のものとして計画・開発する、近世的な都市計画の先駆けだったのである 23 。
その計画は壮大であった。まず、中津川以北に広がっていた広大な湿地帯を埋め立て、新たな市街地を創出した 9 。町割りは、軍事的な防御、商業活動の活発化、そして交通の円滑化を考慮して、碁盤の目状に整然と行われた 32 。城を取り囲むように環状の市街地が形成され、これが現在の盛岡市中心部の骨格となっている。交通の動脈として、中津川には上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋という三つの重要な橋が架けられた 9 。特に、上ノ橋に取り付けられた青銅製の擬宝珠(ぎぼし)は、旧都・三戸から移設されたものであり、新たな時代の始まりの中にも、南部氏の伝統を継承するという意思が込められていた 9 。
新たな都市の担い手として、三戸城下からも多くの商人や職人が移住させられた 33 。彼らが新たな町で商いを始めることで、城下町は急速に活気を帯びていった。近世大名の統治は、家臣団や商人・職人を城下に集住させ、一元的に管理することで成立する。盛岡という都市は、まさに城の存在なくしては生まれ得なかった。城は都市の核であり、防御の中心であると同時に、政治権力と経済活動を集中させる強力な磁石の役割を果たしたのである。
やがて、水陸交通の要衝という立地を最大限に活かし、盛岡は北奥羽屈指の商都として大きく発展していく 2 。南部鉄器に代表されるような伝統産業も、この城下町で花開き、根付いていった 2 。盛岡城は、明治維新に至るまでの約250年間、南部氏の居城として、そして盛岡藩の藩庁として、この地の政治・経済・文化の中心であり続けたのである 16 。盛岡城の壮大な石垣が藩主の権威の「象徴」であるならば、その麓に広がる整然とした城下町は、その権威が及ぼす統治システムの「実体」そのものであったと言えるだろう。
結論:盛岡城が持つ歴史的意義と後世への影響
盛岡城の築城は、単に一つの城が建設されたという事実にとどまらず、戦国時代の終焉と近世の幕開けという日本の大きな歴史の転換点において、東北地方で起こった極めて象徴的な事象であった。その歴史的意義は、以下の四つの点に集約することができる。
第一に、 南部氏の近世大名としての地位を確立させた一大事業 であった点である。この城の完成と城下町の整備を通じて、南部氏は中世的な一族連合体の盟主から、強力な中央集権的な権力基盤を持つ近世大名へと名実ともに脱皮を遂げた。盛岡城は、その変革を成し遂げた権力の物理的な象徴であった。
第二に、 豊臣政権から徳川幕府への移行期における、地方大名の城郭戦略の好例 である点だ。南部信直は、中央の最新技術と思想(織豊系城郭)を積極的に取り込み、それを自らの領国経営の安定化と、周辺大名(伊達・津軽)に対する威信の確立に巧みに結びつけた。これは、激動の時代を生き抜くための、地方大名の巧みな生存戦略を示す典型例と言える。
第三に、 東北地方の城郭史における特異性と先進性 が挙げられる。会津若松城や白河小峰城など、東北には他にも名城が存在するが、盛岡城の壮大な総石垣と、枡形虎口や折を多用した徹底的な織豊系の縄張りは際立っている 15 。それは、東北の築城史における一つの到達点であり、西国の先進技術が北奥の地に移植された貴重な事例である。
そして最後に、 現代に続く都市「盛岡」の原点としての価値 である。明治維新後、城内の建造物は破却され、その姿を失った 16 。しかし、今なお残る壮麗な石垣と、城を中心に形成された城下町の骨格は、400年以上の時を経て、現在の盛岡市の礎として生き続けている 32 。今日、「盛岡城跡公園」として市民や観光客に親しまれるこの場所は 9 、単なる史跡ではなく、戦国の動乱を乗り越え、北奥の地に新たな時代を築こうとした人々の夢と情熱、そして壮大な都市の歴史を今に伝える、生きた証人なのである。
引用文献
- 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 盛岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/moriokajo/
- 「南部信直」南部家中興の祖は、先代殺しの謀反人!? 庶流ながら ... https://sengoku-his.com/470
- 盛岡藩の基礎を作った南部信直の「堅実」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41353/2
- 盛岡藩の基礎を作った南部信直の「堅実」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41353
- 南部信直(1546―1599) https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x080.htm
- 北の名城「盛岡城」に東北屈指の壮大な石垣が築かれた理由とは ... https://serai.jp/hobby/197197
- 盛岡城跡の石垣と長岡の石切丁場 - 紫波歴史研究会ネット http://gorounuma.jp/p-moriokajho.pdf
- 盛岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E5%9F%8E
- 「 盛岡城 」南部藩10万石の居城 - Found Japan(ファウンド・ジャパン) https://foundjapan.jp/1908-morioka_castle/
- ||| 櫻 山 神 社 の 烏 帽 子 岩 ||| http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/iwa_eboshi/eboshi.htm
- 三戸城跡 国史跡指定への取り組み https://www.town.sannohe.aomori.jp/soshiki/kyouikuiinkaijimukyoku/rekishi_bunka/1/2816.html
- 三戸城(さんのへじょう・青森県三戸町) - いわての文化情報大事典 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/cs7
- 三戸城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/ouu/sannohe.htm
- 圧倒的な石垣に魅せられる北の名城・盛岡城、完全な織豊系近世 ... https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/85766
- 【ホームメイト】岩手県の著名な城4選 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/254/
- 盛岡城 / 陸奥国・南部氏 石垣が築かれた盛岡藩20万石の巨城 https://kokudakamania.com/shiro-70/
- ブログ2021年12月18日:盛岡城 - その歴史と現状(その1) - エム・システム https://msystm.co.jp/blog/20211218.html
- 第95回:盛岡城(東北の誇る壮大な石垣) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-99.html
- 超入門! お城セミナー 第53回【構造】一度入ったら逃れられない!? 恐怖のキルゾーン「枡形虎口」って? - 城びと https://shirobito.jp/article/680
- 岩手県/盛岡城 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/iwate/morioka-jo/
- 近世こもんじょ館 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=topics&mode=details&code_no=134&start=
- 岩手県盛岡市の基本情報 - 認定都市の基本情報|『歴まち』情報サイト ―歴史的風致維持向上計画『認定都市』アーカイブ―|国土交通省国土技術政策総合研究所 https://www.nilim.go.jp/lab/ddg/rekimachidb/city_070.html
- 盛岡城跡 - いわての文化情報大事典 - 岩手県 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/hist103
- 盛岡城跡公園(岩手公園)|盛岡市公式ホームページ https://www.city.morioka.iwate.jp/kurashi/midori/koen/1010491.html
- 東北三大石垣のお城【盛岡城の歴史】をまるっと解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/moriokacastle/
- 国史跡盛岡城跡 ―第 40 次調査― - 盛岡市 https://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/450/moriokajou40ji-gensetsu-shiryou.pdf
- 内堀若狭家 - 近世こもんじょ館 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50364
- 盛岡藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9
- 盛岡城三ノ丸の烏帽子岩 https://hm-yamaneko.hatenablog.com/entry/2021/09/07/125105
- 盛岡のパワースポット烏帽子岩 :: さわや書店|SAWAYA Official Web Site http://books-sawaya.co.jp/kyodostory/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90%E5%B2%A9/
- 南部氏 26 代信直公の盛岡城の築城に始まります。 https://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/036/219/honpenhajimeni-02.pdf
- 南部利直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%88%A9%E7%9B%B4
- 盛岡城(もりおかじょう・盛岡市) - いわての文化情報大事典 - 岩手県 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/cs14
- 第1章 盛岡市の歴史的風致形成の背景 1 自然的環境 (1) 位置 盛岡市は,岩手県の中央部北寄 https://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/024/890/1syou.pdf