神田山切崩し着手(1607)
慶長12年、徳川家康は江戸改造のため神田山切崩しに着手。日比谷入江埋め立ての土砂確保が主目的で、市街地創出、防御強化、治水を兼ねた。天下普請で大名を動員し、財力を削ぎ忠誠を促す政治戦略であり、後の東京の骨格を形成した。
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天下普請の黎明:神田山切崩しと江戸創造のリアルタイムクロニクル
序章:慶長12年、神田山に響く槌音
慶長12年(1607年)。この年が日本の歴史において持つ座標は、極めて特異な緊張感の中にあります。天下分け目の関ヶ原の合戦から7年、徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸に幕府を開いてからわずか4年という歳月しか流れていません 1 。大坂には依然として豊臣家が健在であり、世はまだ戦国の気風を色濃く残していました。この、新たな時代の秩序が形成される黎明期において、江戸の神田山に響き渡っていた槌音は、単なる土木作業の音ではありませんでした。それは、武力による支配の時代が終わりを告げ、それに代わる「普請」という新たな統治構造によって国家を建設する時代の幕開けを告げるファンファーレだったのです。
本報告書は、「神田山切崩し着手(1607年)」という事象を、一般に流布するイメージから一歩踏み込んで解き明かすことを目的とします。通説では「神田山切崩し」という言葉が、目的も時期も異なる二つの巨大事業を包括して語られがちです。すなわち、①慶長年間に行われた「日比谷入江埋め立てのための土砂採取(削平)」と、②後の寛永・万治年間に行われた「神田川(仙台堀)を通すための台地掘削(開削)」です。この二つは明確に区別されるべきであり、本報告書では特に前者に焦点を当てます。
そして、1607年という一点を切り取ることで、神田山が削られる一方で、江戸城の大手門が築かれるなど、複数の国家プロジェクトが同時進行する巨大な建設現場としての江戸の姿を浮かび上がらせます 2 。この「同時進行性」こそが、徳川の権威が如何にして確立されていったかを物語る鍵となります。本報告書は、この事象を「戦国時代という視点」から、すなわち、普請を武器とした新たな天下統一事業として再構築し、そのリアルタイムな実像に迫ります。
第一部:創造前夜 ― 家康入府以前の江戸
徳川家康による江戸の大改造が始まる以前、この地はどのような姿をしていたのでしょうか。大規模な地形改変がなぜ必然であったのかを理解するためには、まず、ありのままの江戸の地形と環境を知る必要があります。
第一章:武蔵野台地の末端、日比谷入江を望む土地
家康が入府した当時の江戸は、広大で平坦な都市を築くには多くの課題を抱えた土地でした。その地理的特徴は、大きく「台地」「入江」「河川」の三つの要素から成り立っていました。
武蔵野台地と本郷台
江戸の西側に広がる武蔵野台地は、古多摩川が形成した扇状地であり、その東端に舌状に突き出しているのが本郷台地です 3 。神田山とは、この本郷台地の南端部分、現在の御茶ノ水駅周辺を頂点とする丘陵地帯の俗称でした 5 。標高は約20メートル前後で、北西から南東へ緩やかに傾斜しており、この高台が後の「山の手」の原型となります 6 。しかし、この台地の存在は、江戸城の北側を守る天然の要害であると同時に、市街地の拡大を阻む物理的な障壁でもありました。
日比谷入江と江戸前島
当時の江戸城の眼下、南東方向には「日比谷入江」と呼ばれる広大な浅瀬や干潟が広がっていました 1 。現在の皇居外苑、日比谷、有楽町、銀座、新橋あたりまでが海だったのです。太田道灌が最初に江戸城を築いたのは、この入江に半島のように突き出した「江戸前島」という微高地の上でした 9 。この地理的条件は、水運の便に恵まれ、海産物も豊富であった一方、城下町として多くの武士や町人を住まわせるための平坦な土地が絶望的に不足していることを意味していました 5 。
平川の流れ
そして、後の神田川の前身である「平川」という自然河川が、本郷台地の南麓をなぞるように流れ、江戸城の東側、現在の大手町付近で日比谷入江へと注ぎ込んでいました 9 。この川は、生活用水や水運に利用される一方で、ひとたび大雨が降れば容易に氾濫し、周辺を低湿地帯に変えてしまう治水上の大きな課題を抱えていました 11 。
豊臣秀吉は江戸を「形勝の地」と評したとされますが、それは海と台地に囲まれた防御上の利点を指したものでしょう 12 。しかし、その実態は、湿地が多く、良質な飲料水の確保さえ困難な土地でした 13 。この自然地形がもたらす根本的な弱点を克服し、土地の潜在能力を最大限に引き出すことこそ、家康に課せられた壮大な挑戦でした。神田山と日比谷入江は、まさにその挑戦における「課題(山)」と「解決策(埋立地)」を象徴する、運命的な一対だったのです。
第二部:天下人のグランドデザイン ― なぜ神田山は崩されねばならなかったのか
神田山を切り崩すという、一見単純な土木事業の背後には、徳川家康の深謀遠慮が隠されていました。それは、新たな時代を統べるための政治的支配術であり、数十年先を見据えた壮大な都市計画でもありました。この巨大事業は、政治、軍事、そして都市機能という三つの側面から、必然性をもって計画されたのです。
第二章:戦国の終焉と「天下普請」という名の支配
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれても、徳川の天下はまだ盤石ではありませんでした。大坂城には豊臣秀頼が依然として勢力を保ち、関ヶ原の合戦で徳川に与しなかった外様大名も全国に多数存在していました 1 。彼らの力をいかにして削ぎ、徳川の支配体制に組み込んでいくか。その答えが「天下普請」でした。
天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命じて行わせた大規模な公共土木工事の総称です 14 。その目的は単なるインフラ整備に留まりません。第一に、大名たちに普請費用(人件費、資材費、運搬費など)の全てを負担させることで、その財力を消耗させ、軍事的な謀反を起こす経済的余力を奪うこと 1 。第二に、工事監督のために大名自身を江戸に長期滞在させ、人質である妻子が住む江戸屋敷と合わせて、実質的な支配下に置くこと。そして第三に、江戸城や城下町を壮麗に造り変える巨大事業を諸大名の手で成し遂げさせることで、徳川の圧倒的な権威と支配の正統性を天下に示すことでした 14 。
各大名は、保有する石高に応じて動員され、工事区画を分担する「割普請」という方式で作業にあたりました 15 。これは、戦場での手柄争いにも似た競争原理を巧みに利用したシステムであり、戦国の気風が残る武将たちを、武力ではなく土木工事の場で競わせるものでした。まさに天下普請は、鋤や鍬を武器とした「新たな戦」であり、戦国の終焉と新たな支配秩序の到来を告げる、極めて高度な政治システムだったのです。
第三章:江戸改造の三大目的 ― 陸地の創出、防御の強化、治水の実現
神田山切崩しは、この天下普請という枠組みの中で、江戸が抱える根本的な課題を複合的に解決するために計画されました。その目的は、大きく三つに集約することができます。
目的①【市街地の創出】日比谷入江の埋め立て
最大の目的は、圧倒的に不足していた市街地、特に幕府を支える大名や旗本のための広大な武家屋敷地を確保することでした 1 。そのためには、眼前に広がる日比谷入江を埋め立てる必要があり、そのための膨大な量の土砂を確保しなければなりません。江戸城からほど近く、大量の土砂を効率的に供給できる神田山は、この「土取り場」として最適の場所でした 1 。この事業によって切り出された土砂が、後の大名小路(現在の丸の内・大手町)、さらには日本橋、京橋、銀座といった日本を代表する商業地の土台を築いていくことになります 1 。
目的②【防御機能の強化】外堀の造成構想
慶長年間の切崩しは、直接的には後の神田川(外堀)を開削する事業とは異なります。しかし、この時点で家康が、江戸城と城下町全体を巨大な堀で囲む「の」の字型の「総構え」を構想していたことは間違いありません 18 。まず神田山の上部を削って平坦にし、いずれその平地をさらに深く掘削して外堀を通すという、二段階にわたる長期的な計画が存在したと考えられます。つまり、慶長期の切崩しは、将来の江戸城防衛線強化のための壮大な布石でもあったのです。
目的③【治水と水運】平川の流路改変
頻繁に洪水を起こし、江戸城下を脅かしていた平川の流れを、城から遠ざけて直接隅田川に放流することは、都市の安全確保に不可欠でした 2 。神田山を切り崩して平坦な土地を造成することは、将来的にこの地に新たな放水路、すなわち後の神田川を開削するための準備作業でもあったのです 5 。
このように、神田山切崩しは、単なる土砂採取事業ではありませんでした。「市街地の創出」「防御の強化」「治水の実現」という、都市が存立するための根源的な三要素を同時に解決しようとする、極めて合理的かつ野心的なグランドデザインの一部だったのです。それは、家康の都市計画が、場当たり的なものではなく、数十年先を見据えた長期的視点に立っていたことの何よりの証左と言えるでしょう。
第三部:リアルタイム・ドキュメント ― 神田山切崩しの実像
慶長12年(1607年)前後の江戸は、どのような状況にあったのでしょうか。ここでは、あたかもドキュメンタリーのように、普請の現場で何が起きていたのかを具体的に描き出します。まず、混同されやすい神田山と神田川をめぐる事業の全体像を、以下の年表で整理します。
表1:神田山・神田川関連事業 年表
年代(和暦) |
主な出来事 |
目的・内容 |
主な担当大名(推定含む) |
関連資料 |
1590年(天正18年) |
徳川家康、江戸入府 |
江戸を新たな本拠地とする |
- |
5 |
1603年(慶長8年) |
徳川家康、征夷大将軍就任。江戸開府 |
第一次天下普請の本格化 |
諸大名 |
1 |
1603年頃~ |
神田山切崩しと日比谷入江埋め立て開始 |
市街地(武家地・町人地)造成のための土砂確保 |
西国大名などが中心か |
1 |
1606年(慶長11年) |
第一次天下普請、本格的な江戸城増築開始 |
江戸城本丸、天守閣などの築城 |
黒田長政、山内一豊など |
13 |
1607年(慶長12年) |
江戸城大手門などの枡形門築造 |
江戸城の正門整備 |
藤堂高虎、伊達政宗 |
2 |
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣 |
豊臣家との対立激化 |
- |
21 |
1620年頃~ |
神田川開削の開始(元和期天下普請) |
江戸城外堀の一部としての機能、水運路確保 |
- |
21 |
1636年(寛永13年) |
第三次天下普請(外堀普請) |
江戸城外堀の完成(「の」の字の総構え) |
毛利家、森家、蜂須賀家など |
22 |
1650年代~1661年 |
神田川(仙台堀)の難工事区間開削 |
本郷台地の分断、外堀の最終的な完成 |
伊達家(綱宗、綱村) |
25 |
この年表が示す通り、1607年は神田山の「削平」と江戸城の「築城」が同時進行していた、天下普請のダイナミズムを象徴する年でした。
第四章:第一次天下普請の胎動(慶長8年~)
慶長8年(1603年)の江戸開府と同時に、江戸の都市改造は国家プロジェクトとして本格的に始動しました 1 。家康はまず、西国大名を中心に動員をかけ、最優先課題であった日比谷入江の埋め立てに着手させます 13 。神田山の頂から、無数の人夫たちの手によって土砂が切り出され、もっこや荷車で次々と日比谷の海岸へと運ばれていきました。当時の光景を想像すれば、そこには掛け声とともに汗を流す人々の姿、土煙を上げて往来する荷車の列、そして日ごとに後退していく海岸線があったことでしょう。この時点での作業は、後の神田川となる谷筋を深く掘り下げるものではなく、あくまで山の頂から順に削り取り、平坦な土地を造成していく「削平」作業が中心でした。
第五章:慶長12年(1607年)の現場 ― 複数の普請が交錯する江戸
本報告書の中核となる慶長12年、江戸はまさに巨大な建設現場そのものでした。その喧騒は、複数の普請が同時進行することで、より一層増幅されていました。
神田山の現場
神田山の普請場では、各藩から動員された人夫たちが、鍬や鋤簾(じょれん)といった道具を手に、人力で山を崩していました 27 。近代的な重機など存在しない時代、頼りになるのは人間の力のみです。崩された土は、「もっこ」や「畚(ふご)」と呼ばれる縄で編んだ運搬具に入れられ、天秤棒で一人で担ぐか、二人一組で担いで運ばれました 27 。現場には、工事を監督するために各藩から派遣された家老級の重臣が「惣奉行」として采配を振るい、その下で多くの家臣たちが人夫の管理にあたっていたことでしょう 31 。
大手門の現場
その一方で、江戸城の正門である大手門の普請現場では、全く異なる光景が繰り広げられていました。ここでは、築城の名手として知られる藤堂高虎と、奥州の覇者・伊達政宗が指揮を執り、巨大な石垣を組み上げる作業が進められていたのです 2 。伊豆半島などから切り出され、船で江戸湊まで運ばれてきた巨石が、修羅(そり)や「ころ」と呼ばれる丸太の上を、大勢の人夫たちの力でゆっくりと引き上げられていきます。石工たちのノミの音と、力を合わせるための掛け声が響き渡る中、堅固な枡形門が姿を現しつつありました。
江戸の喧騒
神田山での土木工事と、江戸城での石垣工事。これら複数の巨大プロジェクトが同時進行する江戸の街は、凄まじい活気と喧騒に包まれていたはずです。全国から動員された武士や人夫たちで人口は急増し、彼らのための仮設の小屋(作事小屋)が立ち並びました 28 。資材を運ぶ船が江戸湊や河岸を埋め尽くし、陸路では荷車が絶えず往来する。そして、昼夜を問わず、槌音、石を曳く音、人々の掛け声が江戸の空に響き渡る。慶長12年の江戸とは、まさに未来の大都市が産声を上げる、混沌とエネルギーに満ちた場所だったのです。
第六章:関わった大名たち ― 伊達政宗の視点
この巨大な国家事業に動員された戦国大名たちは、何を思っていたのでしょうか。慶長12年に大手門の普請にあたっていた伊達政宗を例に、その立場と心理を考察します。
政宗は、奥州62万石を領する大大名でありながら、この時期は江戸に滞在し、徳川の命令一下、土木工事の現場監督という任務に従事していました 2 。これは、戦国の世であれば考えられないことであり、徳川による新たな支配秩序が確立しつつあることを象徴しています。
天下普請の費用は、人件費から資材の運搬費に至るまで、全て担当大名の自己負担でした 15 。これは藩の財政を著しく圧迫するものであり、政宗も例外ではありませんでした。仙台藩の記録には、普請費用を捻出するために幕府から米を借り受けたことさえ記されており、その負担の大きさがうかがえます 33 。
しかし、稀代の野心家である政宗が、ただ黙って財産を削られていたとは考えられません。彼にとって天下普請は、服従を強いられるだけの苦役ではなく、新たな政治状況を生き抜くための高度な駆け引きの場でもありました。普請役を忠実にこなすことで家康や二代将軍秀忠の歓心を買い、伊達家の安泰を図るという現実的な計算があったはずです。同時に、江戸に滞在することで幕府の中枢に食い込み、最新の築城技術や政治の機微に触れる貴重な機会とも捉えていたことでしょう。普請に従事しながらも、常に江戸城の弱点を探っていたという逸話は 34 、彼が戦国武将としての軍事眼を失っていなかったことを示唆しています。
1607年の江戸普請は、政宗にとって、徳川への服従を示すと同時に、自らの価値をアピールし、新たな時代のパワーゲームを有利に進めるための、重要な政治的パフォーマンスの場だったのです。後に、神田川開削における最大の難工事を伊達家が任されることになるのも、この時期の忠勤が評価された結果であった可能性は十分に考えられます。
第四部:地形改変の連鎖と遺産
慶長12年(1607年)の神田山切崩しは、始まりに過ぎませんでした。この事業は、次の巨大事業へと連鎖し、江戸、そして現代の東京の都市構造に決定的な遺産を残すことになります。
第七章:第二の巨大事業 ― 神田川(仙台堀)の開削
慶長期の「削平」事業によってある程度平坦になった神田山の跡地で、数十年後、第二の巨大事業が始まります。それは、江戸城外堀を完成させ、治水と水運機能を確立することを目的とした、本格的な「開削」事業でした 21 。
この事業は、主に三代将軍家光の時代である寛永期から万治期にかけて行われました。特に、本郷台地を南北に分断する区間は、標高約20メートルの硬い地盤を約1.4キロメートルにわたって掘り抜く、天下普請の中でも屈指の難工事でした 5 。この最も困難な工区を担当したのが、政宗の子孫である仙台藩伊達家でした。三代藩主綱宗の時代に始まり、四代藩主綱村の治世である万治4年(1661年)にようやく完成したと記録されています 25 。この伊達家の多大な貢献にちなみ、お茶の水から万世橋に至るこの区間は、いつしか「仙台堀」と通称されるようになりました 5 。現在、私たちがお茶の水駅のホームから目にする深い渓谷は、自然の造形ではなく、まさしく伊達家と多くの人々の血と汗によって創り出された、巨大な人工物なのです。
第八章:江戸の骨格、東京の礎へ
神田山をめぐる二段階の地形改変、すなわち慶長期の「削平」と後の「開削」は、江戸、そして東京の都市構造に決定的かつ永続的な影響を与えました。
第一に、神田山の土砂によって、広大な土地が「創造」されました。日比谷入江は埋め立てられ、そこに大名屋敷が立ち並ぶ大名小路が生まれ、さらにその東側には日本橋、京橋、銀座といった町人地が形成されました 5 。江戸の、そして日本の商業・経済の中心地は、文字通り神田山の土から生まれたのです。
第二に、神田山が切り崩された跡地は、新たな高台「駿河台」として「誕生」しました 5 。ここは見晴らしの良い高燥地として、多くの大名屋敷や旗本屋敷が建ち並ぶ高級住宅街となり、そのブランドは現代にまで受け継がれています。明治大学がこの地にキャンパスを構えるに至ったのも、この家康の地形改変が遠因となっていることは、歴史の興味深い連鎖と言えるでしょう 5 。
そして第三に、神田川の開削によって、本郷台地は物理的に「分断」されました。これにより、江戸は川の北側に広がる台地の「山の手」と、南側に広がる埋立地の「下町」という、明確な二項対立の都市構造を獲得しました。この地形的な骨格は、単に土地の高低差に留まらず、そこに住む人々の身分や文化、気質に至るまで影響を及ぼし、多様性に満ちた大都市・東京のアイデンティティを形成する根源となったのです。
神田山という一つの地形に対する「削平による創造」と「開削による分断」。この二つの作用が、結果として現代東京のDNAを設計したと言っても過言ではありません。
終章:土木が語る時代の転換
慶長12年(1607年)の「神田山切崩し」は、徳川家康が構想した「江戸創造」という壮大なビジョンを実現するための、象徴的な一事業でした。それは、湿地と入江に閉ざされた土地を、100万人が暮らす世界有数の大都市へと変貌させる、壮大なプロジェクトの序曲でした。
この事業の本質は、武力による制圧の時代(戦国)から、土木事業と経済力による統治の時代(近世)への歴史的な転換点であったことにあります。家康は、戦場で槍を交える代わりに、大名たちに鋤と鍬を持たせました。城を攻め落とす代わりに、山を崩させ、海を埋めさせました。天下普請というシステムは、戦国のエネルギーを、破壊から創造へと巧みに転換させる、画期的な発明だったのです。
一人の天下人の揺るぎない構想力。それを実現させた天下普請という統治システム。そして、その下で動員された伊達政宗のような大大名から、歴史に名を残すことのなかった無数の人夫に至るまで、多くの人々の労働力。その全てが結集した時、江戸の地形は書き換えられ、新たな時代の礎が築かれました。神田山に響いた槌音は、戦国の終わりと、徳川の泰平の世の始まりを告げる、力強い産声だったのです。
引用文献
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- 文京区本駒込周辺の地形を読み解く: 本郷台の成り立ちと洪水・地震ハザード - 深田地質研究所 https://fukadaken.or.jp/data_pdf/24_87.pdf
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- 超入門!お城セミナー 第116回【鑑賞】もうひとつの江戸城!? 東京中心地に残る「見附」を歩く https://shirobito.jp/article/1363
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- 土木工事のようす - 国土づくりを支えた技術 - 技術の歩み - 大地への刻印 - 水土の礎 https://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/15.html
- 御手伝普請とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%A1%E6%89%8B%E4%BC%9D%E6%99%AE%E8%AB%8B
- 超入門! お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何? - 城びと https://shirobito.jp/article/668
- 三 大坂城御手伝い普請と山家清兵衛 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8126
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- 神田川は、江戸の上水の確保と江戸城の防御のため、本郷台地を開削して造られた人工河川です。 https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/13529541