臼杵城石垣整備(1592)
1592年、文禄の役で大友義統が失態。臼杵城は豊臣直轄地となり、福原直高、太田一吉により近世城郭へ大改修。石垣技術の変遷は時代の転換を物語り、中世の砦は支配・行政拠点へと変貌した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
豊臣政権の西国支配と臼杵城大改修 ―「1592年」を起点とする近世城郭への転換―
序章:問いの再設定 ―「臼杵城石垣整備(1592)」の本質
「臼杵城石垣整備(1592):城郭を近世様式に改修し威容を増す」という事象は、単一の土木事業として捉えるべきではない。それは、戦国時代の終焉と新たな中央集権体制の確立という、日本の歴史における巨大な地殻変動を象徴する、政治的・軍事的激動の必然的な帰結であった。本報告書で起点とする「1592年」という年は、石垣工事の槌音が響き始めた年ではなく、その大改修の引き金となった豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち「文禄の役」が勃発し、城主であった大友義統が失態を犯すという、臼杵城の運命を決定づけた年である 1 。
この「1592年の政変」を起点として、鎌倉時代以来の名門大友氏が築いた中世の海城は、豊臣政権の代理人である福原直高、そして太田一吉という新たな支配者の手によって、全く新しい思想と当時の最新技術で「造り変えられていく」。本報告書は、この劇的な変貌のプロセスを時系列に沿って詳細に解明し、あたかもそのリアルタイムな変化を目撃するかのように描き出すことを目的とする。臼杵城の石垣は、単なる石の構造物ではなく、時代の転換期に刻まれた歴史の証言者なのである。
第一章:前史 ― 大友宗麟が築いた海上の要塞「丹生嶋城」
後の近世城郭としての臼杵城を理解するためには、まずその前身である大友氏時代の姿を把握する必要がある。弘治2年(1556年)、九州六ヵ国を治めたキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)は、臼杵湾に孤立して浮かぶ島「丹生嶋」に新たな城を築いた 4 。この丹生嶋城こそが、臼杵城の原型である。
その最大の特徴は、丹生嶋という地形を最大限に活用した点にあった。四方を海に囲まれ、切り立った断崖絶壁が天然の城壁をなしていたため、大規模な石垣や堀を人工的に築く必要性が薄かった 5 。これは、構造物の組み合わせによって能動的な防御空間を創出する近世城郭とは異なり、あくまでも地形の利に依存する中世的な城郭の思想に基づいていた。城の機能は、府内(現在の大分市)にあった大友館と、詰城であった高崎城の役割を統合したものであり、宗麟の政治拠点であると同時に、南蛮貿易の玄関口としての役割も担っていた 5 。イエズス会宣教師の記録によれば、城内には礼拝堂も設けられ、臼杵は府内に次ぐキリシタン布教の根拠地として栄えたとされる 8 。
この丹生嶋城の防御思想が実戦で証明されたのが、天正14年(1586年)の豊薩合戦である。九州統一を目指す島津家久の大軍に包囲された際、宗麟がポルトガル商人から購入していた最新兵器、フランキ砲「国崩し」が火を噴き、その絶大な威力と轟音で島津軍を混乱させ、撃退に成功した 5 。この戦いは、丹生嶋城が難攻不落の要塞であったことを示すと同時に、その強さが「地形」と「特定の兵器」という二つの要素に大きく依存していたことを物語っている。城郭全体が体系的に連携し、多角的かつ重層的な攻撃を可能にする織豊系城郭の思想とは、本質的に一線を画すものであった。大友氏の城は、敵を撃滅するための攻撃的な要塞ではなく、ひたすらに守り抜くための受動的な砦だったのである。
第二章:激動の引き金 ― 文禄の役と大友氏の改易(1592年~1593年)
丹生嶋城の運命を根底から覆したのが、天正20年(1592年)に始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵、すなわち文禄の役であった。宗麟の跡を継いだ大友義統は、6,000の兵を率いて朝鮮半島へ渡海した 2 。しかし、翌文禄2年(1593年)、明軍の猛攻に晒された平壌城の小西行長から救援要請を受けた際、義統は行長が戦死したという誤報を信じ込み、持ち場を放棄して敵前逃亡するという致命的な失態を犯してしまう 2 。
この報に接した秀吉は激怒した。義統の振る舞いを「臆病者」と断じ、即座に豊後一国を没収、改易処分としたのである 1 。これにより、鎌倉時代から約400年にわたって豊後を支配してきた名門・大友氏は、歴史の表舞台から姿を消すこととなった 1 。
この大友氏改易という厳しい措置は、単なる一個人の失態に対する懲罰にとどまるものではなかった。そこには、秀吉の冷徹な国家戦略が隠されていた。没収された豊後国は、他の大名に与えられることなく、豊臣政権の直轄領である「太閤蔵入地」に編入されたのである 2 。当時、秀吉は九州全土を朝鮮出兵における兵站基地と位置づけており、蔵入地を増やすことで兵糧米の集中管理と補給体制の強化を図っていた 12 。つまり、秀吉にとって、義統の失態は、豊後という良港を持つ戦略的要衝を、信頼性の低い旧来の大名から取り上げ、政権の直接管理下に置くための絶好の口実となった。大友氏の改易は、朝鮮半島への兵站線を盤石にするための、極めて高度な政治的判断だったのである。この戦略的判断こそが、臼杵城を新たな時代の拠点として大改造させる直接的な原動力となった。
第三章:豊臣系大名の入城と「大改造」の胎動(1594年~1597年)
大友氏が去った豊後国の新たな支配者として、文禄3年(1594年)、豊臣政権から送り込まれたのが福原直高であった 7 。彼は秀吉の側近であり、五奉行の一人である石田三成の妹婿という、政権中枢に近い吏僚派の武将であった 15 。彼の使命は、旧大友領を豊臣政権の支配下に組み込み、朝鮮への兵站基地として機能させることであり、その拠点として臼杵城の抜本的な改修に着手した。
縄張りの大転換
福原が最初に行ったのは、城の基本設計、すなわち縄張りを根底から覆すという、前代未聞の大改造であった。近年の発掘調査によって、大友氏時代に主郭(本丸)であった丹生嶋の最高所(西側)を「二の丸」とし、それよりも約3メートル低い東側の平坦地に、新たに「本丸」を造成したことが明らかになっている 7 。これは全国の城郭史においても極めて稀な例であり、単なる増改築ではない、思想的な転換を意味していた。
この大胆な設計変更には、明確な意図があったと考えられる。大友氏時代の主郭は、防御には最適であったが、面積が狭く、大規模な政務を行うには不向きであった。一方、豊臣政権の直轄地を管理するためには、広大な政庁(御殿)、役所、蔵といった行政施設が不可欠となる。福原は、より広い平坦地を確保できる東側を新たな本丸とすることで、これらの大規模施設の建設を可能にした。つまり、城の性格を、純粋な「防御拠点」から、権威の象徴であり、かつ実務を担う「支配・行政拠点」へと転換させたのである。これは、戦乱の世が終わり、中央集権的な統治の時代が到来したことを象徴する、合理的かつ近代的な空間設計であった。
天守の創建
この新たな本丸に、福原は臼杵城史上初となる天守を建造した 7 。天守は、豊臣系城郭において、城主の権威、ひいては豊臣政権の威光を天下に示すための最も重要なシンボルであった。
天守を支える天守台には、現在、臼杵城内に唯一現存する16世紀の石垣が築かれた 17 。この石垣は、表面加工をほとんど施さない大ぶりの自然石を積み上げた「野面積み」に近い技法で築かれており、石垣の角を構成する隅石の積み方も規格化されていない 7 。これは、文禄・慶長の役という戦時下において、迅速な拠点化が求められた当時の築城技術の特徴を色濃く反映している。新たな本丸は二の丸より低い土地にあったが、この高石垣で天守台を嵩上げすることにより、城下から見上げた際の威容を確保し、新たな支配者の権威を視覚的に誇示することに成功したのである 7 。
第四章:近世城郭の完成へ ― 太田一吉による拡張と整備(1597年~1600年)
慶長2年(1597年)、福原直高が府内城(現在の大分城)の築城に専念するため転出すると、その後任として太田一吉が臼杵城主となった 9 。彼もまた豊臣恩顧の武将であり、文禄の役では軍目付を務めた人物である。太田は、福原が策定した基本設計を継承しつつ、城郭全体の防御能力を飛躍的に向上させ、近世城郭としての臼杵城を完成させた。
城域の拡張と城下町の整備
太田の最大の功績は、城の領域を物理的に拡張したことにある。彼は臼杵川の河口に形成された「祇園洲」と呼ばれる砂州に、新たに「三の丸」を造成した 9 。これにより、それまで海に浮かぶ孤島であった臼杵城は、初めて陸地と直接結ばれることになった。さらに、城の正面玄関である大手口を東向きに変更し、「今橋」と「古橋」という二つの橋を架けて三の丸と連結させた 5 。この改修は、城と城下町を一体的に管理・防衛することを可能にし、臼杵という都市の原型を形作った。福原の改修が城の「心臓部」の刷新であったとすれば、太田の改修は城の「全身」を武装させ、その支配領域を拡大させるものであった。
防御機能の飛躍的強化
太田は、城の防御施設を大幅に増強し、臼杵城を鉄壁の要塞へと変貌させた。城内各所に高石垣を巡らせ、その上には31基もの櫓と7基の櫓門を林立させたと記録されている 7 。これにより、城はどの方向から攻められても、複数の櫓から十字砲火を浴びせることができる、織豊系城郭特有の戦闘思想を体現した姿となった。
これらの櫓の多くは、一階と二階の平面規模が同じ「重箱造り(総二階造り)」と呼ばれる、安土桃山時代に流行した古式の構造であったと推測されている 7 。この建築様式は、臼杵城が豊臣政権の直接的な影響下で改修されたことを示す有力な証拠である。福原と太田による二段階の改修は、豊臣政権が地方の旧勢力を排除した後、まず中核拠点を確保し、次いでその支配を面的に拡大していくという、計画的かつ体系的な地方支配のプロセスを如実に物語っている。臼杵城は、そのための「モデルケース」としての役割を担っていたのである。
第五章:石垣が語る時代の変遷 ― 臼杵城「石垣博物館」の技術論
臼杵城は、福原・太田氏による大改修を経て、その後に入城した稲葉氏の時代に至るまで、各時代の石垣が重層的に残存している。そのため、城内を巡ることで日本の築城技術の変遷を一覧できる、さながら「石垣の博物館」のような様相を呈している 6 。この石垣の編年から、時代の要請と技術の進歩を読み解くことができる。
時代区分 |
担当勢力 |
主な石垣の場所 |
技術的特徴 |
目的・背景 |
戦国時代末期 |
大友氏 |
(限定的な石積み) |
自然地形の活用が主。大規模な石垣はなし。 |
中世的な籠城思想に基づく防御。 |
安土桃山時代 |
福原直高 |
天守台石垣 |
野面積み に近い。表面加工の少ない大ぶりの石を使用。隅石の積み方は規格化されていない 7 。 |
豊臣政権の権威の象徴(天守)を迅速に構築。戦時下における緊急の拠点化。 |
安土桃山時代 |
太田一吉 |
二の丸・三の丸各所 |
打込みハギ への移行期。石材をある程度加工し、石同士の隙間を減らす。算木積みは未発達 25 。 |
城全体の防御力を飛躍的に向上させるための総石垣化。近世城郭への転換。 |
江戸時代初期 |
稲葉氏 |
鉄門桝形石垣、会所櫓台石垣 |
切込みハギ 。石材を方形に精密加工し、隙間なく積み上げる。隅部は完成された 算木積み 17 。 |
泰平の世における藩庁としての威厳と、藩の技術力を示す「見せるための城」の演出。 |
福原・太田時代、すなわち16世紀末の石垣は、天守台に見られるように、加工度の低い自然石をそのまま積み上げる「野面積み」や、石の角を叩いて接合部をある程度合わせる「打込みハギ」の初期段階の技術が中心であった 17 。石垣の勾配は直線的で反りが少なく、隅部の強度を高める「算木積み」もまだ未発達な段階にある 26 。これは、同時代に脇坂安治が改修した洲本城など、他の豊臣系城郭に見られる特徴とも共通しており、石垣技術が急速に発展していく過渡期の姿を示している 26 。この時代の石垣は、実用性と築城の迅速性が最優先されていた。
これに対し、関ヶ原合戦後に入城した稲葉氏が17世紀前半以降に築いた石垣は、技術的に大きな飛躍を遂げている。本丸の入口を守る鉄門桝形石垣などでは、石材を隙間なく方形に整形して精密に組み上げる「切込みハギ」という、最も高度な技術が用いられている 27 。隅部には、長方形の石を長辺と短辺が交互になるように積むことで強度を格段に高めた、完成された「算木積み」が見られる 17 。これは、もはや戦乱を想定したものではなく、泰平の世において藩の権威と秩序を「見せる」ための、芸術的ともいえる石垣であった。臼杵城の石垣は、このように時代の精神を雄弁に物語っているのである。
終章:継承と変容 ― 豊臣の城から稲葉の城へ
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で太田一吉が西軍に与して敗れると、代わって美濃国から稲葉貞通が5万石で入封し、以後、明治維新に至るまで15代にわたって稲葉氏が臼杵藩を治めることとなる 4 。稲葉氏は、福原・太田氏が心血を注いで完成させた近世城郭の基本構造をそのまま継承した 7 。
しかし、稲葉氏もまた、時代の変化に対応するための改修を重ねている。彼らは大手門をさらに改修し、今橋口を新設するなど、城内通路に大幅な変更を加えた 7 。特に注目すべきは、城の縄張りを、本丸を中心に螺旋状に曲輪を配置する「渦郭式」から、本丸と二の丸を並列的に配置する「連郭式」へと改変したことである 7 。さらに、5代藩主・稲葉景通の時代には、手狭になった本丸の居館を、広大な二の丸へと正式に移転させた 10 。これにより、臼杵城の政治的中枢は名実ともに二の丸へと移行し、城の性格は「戦うための要塞」から「藩を治めるための政庁」へと完全にその姿を変えた。
結論として、「臼杵城石垣整備(1592)」という事象は、1592年の政治的激動を起点とし、豊臣政権という中央権力の強力な意志と、当時の最新技術によって、中世の砦がわずか数年のうちに近世の拠点城郭へと劇的に生まれ変わった、日本城郭史における一大転換点であったと言える。福原・太田によって築かれた豪壮な石垣は、戦国の終焉と新たな支配体制の到来を告げる力強いモニュメントであり、その後の稲葉氏による改修は、城の役割が軍事から行政へと移り変わっていく泰平の世の到来を物語っている。近年、臼杵城跡が持つこの重層的な歴史的価値が再評価され、国の史跡に指定される見通しとなったことは、この城が単なる遺構ではなく、時代の変遷を語り続ける生きた証人であることを裏付けている 30 。
引用文献
- 第1章 大友氏遺跡の概要と価値 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/rekishi/documents/daiissyouootomosiisekinogaiyoutokati.pdf
- 「大友義統」悲運の豊後大友家第22代当主。六ヵ国の国持大名から流罪の身へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/757
- 一門の没落を招いた大友吉統の「意志」の弱さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/25203/2
- 大分県指定史跡 - 臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/cms/wp-content/uploads/2025/01/usukijouseki.pdf
- 【大分県】臼杵城の歴史 大友宗麟が築いた軍艦島 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2278
- 「臼杵城跡」国史跡に指定! https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2025042100011/file_contents/20255web.pdf
- 大分県指定史跡 - 臼杵城跡 https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/193usuki/panf.pdf
- 臼杵城址 - 別府・大分バリアフリーツアーセンター https://barifuri-oita.com/spot/2379/
- 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第35回 九州の城1(大友氏と臼杵(うすき)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1290
- 大分県指定史跡 臼杵城跡 https://sirohoumon.secret.jp/usukicastle.html
- 不明懦弱(ふめいだじゃく)?!大友 義統|ひでさん - note https://note.com/hido/n/n54f203725279
- 近世における水陸両用作戦について - 1592年の文禄 (朝鮮)の役を例として https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/assets/pdf/ssg2013_12_07.pdf
- 文禄慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%A6%84%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9-1203561
- 臼杵城下町跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/59/59083/139150_1_%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA%E8%B7%A1.pdf
- 福原長堯 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
- 福原直高(ふくはら なおたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E7%9B%B4%E9%AB%98-1104970
- 大分県指定史跡 - 臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/cms/wp-content/uploads/2021/08/ba916c24e2b8759093c4af66b0c4a9dc.pdf
- 日本の城探訪 臼杵城 - FC2 https://castlejp.web.fc2.com/05-shikokukyuusyuu/28-usuki/usuki.html
- 大分県指定史跡 臼杵城跡 - 岡山県の文化財 https://sirohoumon.secret.jp/usukicastle2.html
- 太田一吉 - 戦国武将列伝wiki http://seekfortune.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%90%89
- 太田一吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%90%89
- 豊後臼杵城 http://oshiro-tabi-nikki.com/usuki.htm
- 臼杵城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.usuki.htm
- 臼杵城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
- 臼杵城 [1/4] 大友宗麟が築いた、島まるごと要塞化のお城。 https://akiou.wordpress.com/2017/06/03/usuki_jo/
- 第15回 洲本城 水軍の将が築いた、「登り石垣」が残る絶景の城 https://shirobito.jp/article/671
- 臼杵城 - KemaAkeの全国城めぐり https://kemaake.com/c_kyusyu/c_usuki.html
- 洲本城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203376
- 臼杵城 丹生島城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/usukisi.htm
- 臼杵城跡が「国史跡」指定へ https://www.city.usuki.oita.jp/article/2024122000029/
- 臼杵城跡が国史跡に指定 城の変遷がわかる歴史的な価値が評価され 市長「朗報を元気に変え」大分 | TOSオンライン https://tosonline.jp/news/20241220/00000005.html
- 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004222