若松城天守改修(1592)
文禄元年、蒲生氏郷は黒川城を若松城へと大改修し、七層の壮麗な天守を築いた。これは豊臣政権の威光を示す象徴であり、東北支配の要衝となった。氏郷の早世で幻となったが、その構想は会津の礎を築いた。
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文禄元年の大転換:蒲生氏郷による若松城天守創建の戦略的・建築史的考察
序章:黒川から若松へ ― 東北の新たな核の誕生
文禄元年(1592年)、陸奥国会津の地で開始された一大事業は、単なる城郭の改修という言葉では到底表現しきれない、歴史的な転換点であった。豊臣政権下屈指の実力者、蒲生氏郷が旧主葦名氏の居城であった黒川城を、近世城郭「若松城」へと再生させ、その象徴として七層にも及ぶ壮麗な天守を天高く聳えさせたのである。この事業は、豊臣秀吉による国家統一の総仕上げとして、東北地方の経営戦略と、蒲生氏郷という稀代の武将であり統治者の思想が凝縮された、画期的なプロジェクトであった。
しかしながら、今日「会津若松城」あるいは「鶴ヶ城」として広く知られる城郭の姿、特に幕末の戊辰戦争を耐え抜いた赤瓦の五層天守は、氏郷の死後、慶長の大地震による倒壊を経て、後に入封した加藤氏によって再建されたものである 1 。氏郷が築いた黒瓦と金箔に彩られた壮大な初代天守は、その威容を誇った期間がわずか18年という、まさに「幻の天守」であった。本報告書は、この失われた天守の実像と、それが持つに至った歴史的意義を、当時の政治的・軍事的背景、最新の築城技術、そして先進的な都市計画という多角的な視点から徹底的に再構築し、その全貌を明らかにすることを目的とする。
第一部:前夜 ― 奥州仕置と蒲生氏郷の会津入封
会津の地に、蒲生氏郷という人物によって、なぜこれほど壮大な城が築かれる必要があったのか。その答えは、天下統一の最終段階にあった豊臣政権の国家戦略と、東北地方の緊迫した政治情勢の中に求められる。
第一章:天下統一の奔流、東北に至る
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし、名実ともに関東以西の支配を確立した。その視線が次に向かったのは、いまだ中央政権の支配が完全には及んでいなかった東北地方であった 2 。秀吉は小田原征伐に参陣しなかった、あるいは遅参した東北の諸大名に対し、その所領を没収・再編する「奥州仕置」を断行する 3 。これは、秀吉の天下統一事業が最終段階に入り、独立性の高かった奥羽地方を豊臣政権の秩序の中に組み込むための、断固たる措置であった。
この奥州仕置において、最も大きな影響を受けたのが、時の東北の覇者、伊達政宗である。政宗は前年の天正17年(1589年)、摺上原の戦いで南奥州の名門・葦名氏を滅ぼし、その本拠地である会津黒川城を奪取していた 2 。この急速な勢力拡大は、天下の秩序を志向する秀吉にとって看過できるものではなかった。秀吉は、この政宗の行動を私戦と断じ、会津領を没収するという厳しい裁定を下す 2 。これは、政宗の野心を挫き、その力を削ぐと同時に、東北全土に豊臣政権の絶対的な権威を示すための、極めて政治的な決断であった。
この時、没収された会津の地は、単なる一地方ではなかった。北には伊達、東には新たに関東に移封された徳川家康、そして西には越後(後の上杉氏の領地)を望むこの地は、東北、関東、北陸を結ぶ地政学的な要衝であった 2 。この地を確実に掌握することは、東北全体の安定、ひいては東国支配の成否を左右する鍵だったのである。
第二章:白羽の矢が立った男、蒲生氏郷
この戦略的要衝である会津の新たな領主として秀吉が選んだ人物こそ、蒲生氏郷であった。彼の抜擢は、決して偶然ではなかった。氏郷は、若き日に織田信長にその非凡な才気を見出され、人質でありながら信長の娘・冬姫を娶るという破格の待遇を受けた武将である 6 。信長の薫陶を受け、本能寺の変後はいち早く秀吉に与して数々の戦功を挙げ、猛将としての名を馳せた。
しかし、秀吉が氏郷に求めたのは、単なる武勇だけではなかった。氏郷は会津入封以前、伊勢松坂12万石余の領主として、卓越した統治能力をすでに証明していたのである 8 。彼は、天正16年(1588年)までに松坂城を築城し、それに併せて計画的な城下町を整備した 10 。この松坂城の築城において、氏郷は近江から「穴太衆」と呼ばれる石工集団を招聘し、壮大かつ堅固な野面積みの石垣を構築したと伝わる 12 。この経験は、後の若松城における大規模な普請事業の貴重な予行演習となった。さらに城下町の経営では、故郷である近江日野や伊勢の商人たちを積極的に誘致し、「楽市楽座」を導入することで商業を活性化させ、後の「商都まつさか」の礎を築いた 9 。
このように、氏郷は高い軍事能力に加え、最新の築城技術と先進的な領国経営能力を兼ね備えていた。これこそが、秀吉が彼を、北の伊達政宗を封じ込め、東の徳川家康を監視するという、二重の重責を担う会津の地へ送り込んだ最大の理由であった 2 。氏郷の会津赴任は、単なる栄転ではなく、秀吉の国家構想における「戦略的投資」であった。氏郷が松坂で証明した「城郭と城下町を一体で開発し、軍事拠点と経済中心地を同時に創出する能力」こそ、秀吉が東北という未開拓市場に投じた最大の資本だったのである。
第三章:氏郷、黒川城に入る
天正18年(1590年)8月、蒲生氏郷は当初42万石(後の検地により最終的には91万石余に加増)の大領を与えられ、会津黒川城に入城した 3 。彼が目にした黒川城は、その起源を至徳元年(1384年)の葦名直盛による「東黒川館」に持つ、歴史ある城郭であった 17 。しかし、その実態は天守閣のような高層建築を持たず、土塁と堀を主とした中世的な館の構造を色濃く残すものであったと推測される 20 。
氏郷の目には、この既存の黒川城が、豊臣政権の威光を示す東北支配の拠点として、また、いつ牙を剥くやもしれぬ伊達政宗の侵攻に備える一大要塞として、その規模、構造、象徴性のいずれにおいても全く不十分であると映ったに違いない。この現状認識こそが、前代未聞の大改修プロジェクト、すなわち近世城郭「若松城」の創造へと繋がる直接的な動機となったのである。
第二部:創造 ― 空前の城郭都市「若松」のグランドデザイン
文禄元年(1592年)の着工に先立ち、蒲生氏郷の頭の中には、単なる城の建て替えに留まらない、軍事・政治・経済が一体となった壮大な都市計画の青写真が描かれていた。その計画は、城郭の縄張り、天守の構想、そして城下町の設計という三つの側面から、彼の非凡な構想力を物語っている。
年代 |
主要な出来事 |
天正18年 (1590) |
蒲生氏郷、奥州仕置により会津42万石の領主となり黒川城に入城。 |
文禄元年 (1592) |
氏郷、黒川城の大規模な改修(若松城の築城)を開始。 |
文禄2年 (1593) |
七層の天守が竣工。城名を「鶴ヶ城」、城下町を「若松」と改める。 |
文禄4年 (1595) |
蒲生氏郷、京都にて病没(享年40)。嫡子・秀行が跡を継ぐ。 |
慶長3年 (1598) |
蒲生秀行、家臣団の騒動などを理由に宇都宮12万石へ転封。上杉景勝が会津120万石で入封。 |
慶長16年 (1611) |
会津地方で大地震が発生。氏郷が築いた七層天守が倒壊する。 |
第一章:戦略的縄張り ― 「蒲生流」築城術の真髄
氏郷が最初に着手したのは、城郭全体の設計思想である「縄張り」の再構築であった。彼は葦名氏時代からの、西から東へ郭が連なる連郭式の縄張りを基礎としつつも、それを根本から見直し、大幅に拡張・改変した 21 。その設計思想の根幹にあったのは、仮想敵である伊達政宗への備えであった。城の北側、すなわち伊達領に面する方面の防御を特に重視し、北出丸を設けるなど、城の主軸を対伊達へと転換させたのである 5 。
氏郷独自の築城術は「蒲生流」とも称されるが 6 、江戸時代の地誌『新編会津風土記』には、家臣の曾根内匠に命じて「甲州流の縄張り」を用いたとの記述も見られる 21 。これは、武田氏由来の築城術の系譜を汲む、当時最新の技術が導入されたことを示唆している。具体的には、台地の西端に本丸を置き、内堀を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸を配し、台地下の北側と西側にそれぞれ北出丸、西出丸を設けるという、梯郭式の縄張りを採用した 19 。そして、既存の堀をより深く、広くし、その土を用いて土塁をより高く、堅固にすることで、城全体の防御力を飛躍的に向上させたのである 22 。
第二章:天守に込められた意志
氏郷のグランドデザインにおいて、最も強烈なメッセージ性を帯びていたのが、城の中心に据えられた天守の構想であった。
その最大の特徴は、七層という、当時としては最大級の規模にあった 5 。これは単なる物見櫓や防衛施設としての機能を遥かに超えるものであり、豊臣政権の絶大な権力と富、そしてそれを代行する蒲生氏郷の威光を、東北の空に刻み込むための巨大なモニュメントであった。この天守の威容は、物理的な障壁以上に、周辺の諸大名の心を圧する心理的な城壁としての役割を期待されていた。
その外観意匠もまた、極めて政治的であった。天守は黒い下見板張りと黒瓦で覆われ、そして各層の軒先の瓦には金箔が施されていたと記録されている 5 。この荘重な黒と絢爛な金の配色は、秀吉が築いた大坂城や聚楽第にも通じる、豊臣政権を象徴する色彩であった。氏郷は、主君の美意識と権威を会津の地で視覚的に再現することで、自らが豊臣政権の直系の代理人であることを明確に示したのである。
建築様式としては、初期天守の形式である「望楼型」が採用された 23 。これは、巨大な入母屋造の建物を土台とし、その上に物見となる望楼部分を載せた構造で、織田信長の安土城天守にも連なる、当時の最先端かつ格式の高い様式であった 24 。その複雑で威厳に満ちた外観は、権威の象徴としてまさに最適の選択であった。
第三章:城を育む町、町に守られる城
氏郷の構想は、城郭の内部に留まらなかった。彼は、城と城下町が一体となって機能する、一大軍事経済都市の創造を目指した。まず、彼はこの地の名を、葦名氏以来の「黒川」から「若松」へと改めた 6 。これは単なる改名ではなく、過去の支配の記憶を刷新し、蒲生氏による新たな時代の始まりを領民に宣言する、象徴的な行為であった。
都市計画においては、城郭の周囲をさらに外堀と土塁で囲む「惣構」を設け、城下町全体を防衛システムに組み込んだ 27 。そして、郭の内側を武家屋敷、外側を町人や職人の居住区とする計画的なゾーニングを実施した 27 。
さらに、氏郷は松坂での成功体験を活かし、若松の町に「楽市楽座」を導入して商業の自由を保障し、経済の活性化を図った 15 。そればかりか、故郷の近江日野や前任地の伊勢松坂から、優れた技術を持つ商工業者たちを積極的に招聘した 16 。彼らがもたらした技術や商業のノウハウは、後の会津漆器や酒造りといった地場産業の発展に繋がり、会津の経済的基盤を築く上で決定的な役割を果たしたのである 2 。
氏郷のグランドデザインは、「視覚的シンボリズムによる心理的支配」と「経済的実利による物理的支配」という、硬軟両様の戦略を一つの都市計画に統合した点に、その非凡さがある。七層の黒金天守は、見る者に畏怖と敬意を抱かせる「恐怖と憧れの象徴」である。一方、楽市楽座と産業振興は、人々に豊かさをもたらし、新体制への自発的な協力を促す「利益誘導の装置」であった。この二本柱によって、若松は東北における豊臣政権の揺るぎない拠点となるはずであった。
第三部:実行 ― 1592年、若松城誕生のリアルタイム・ドキュメント
文禄元年(1592年)、蒲生氏郷の壮大な構想は、ついに実行の段階へと移された。ここからは、着工から翌年の天守竣工までを、工事の段階ごとに追い、あたかもその場に立ち会っているかのような臨場感をもって、若松城誕生の過程を再現する。
第一章:普請(土木工事)の開始 ― 大地の変貌
文禄元年、氏郷の号令一下、会津の地で空前の規模を誇る大改修工事が開始された 1 。最初の工程は、城郭の骨格をなす土木工事、すなわち「普請」であった。領内から動員された夥しい数の人夫たちが、鍬を振るい、もっこを担いで大地を造り変えていく。
旧黒川城の堀は、より深く、より広く掘り下げられた。その際に掘り出された膨大な量の土砂は、土塁を高く、そして堅固に突き固めるために用いられた 22 。槌音が大地に響き渡り、人々の汗と力によって、城の輪郭は日ごとにその姿を変えていった。この大規模な普請作業は、単に防御施設を強化するだけでなく、城郭全体の規模と格式を根本から引き上げる、まさに新時代の城の誕生を告げる序曲であった 27 。
第二章:天守台、聳え立つ ― 石垣の構築
普請と並行して、城の心臓部である天守を支えるための石垣、すなわち天守台の構築が進められた。ここで採用された工法は、自然の石を巧みに組み上げていく「野面積み」であった 1 。これは、氏郷が伊勢松坂城の築城で大規模に採用し、その堅固さを熟知していた工法である。松坂城と同様に、石垣造りの専門技術者集団である近江の「穴太衆」がこの地へ招聘された可能性は極めて高い 12 。
天守台を築くための膨大な石材が、会津盆地周辺の山々や川から集められた。巨大な石を運ぶためには「修羅」と呼ばれる木製のソリが使われ、多くの人々の力によって、滑車やころを駆使しながら斜面を曳き上げられたであろう。現場では、石工たちの指示が飛び交い、一つ一つの石の形や大きさを見極めながら、絶妙なバランスで積み上げられていく。こうして、一段また一段と、七層の天守を支えるに足る巨大な石の基壇が、大地から聳え立っていった。この氏郷時代の天守台は、後の時代の石垣に比べて勾配が緩やかであるという特徴を持ち、初期の野面積みの古風な様式を今に伝えている 1 。
第三章:作事(建築工事)― 天守、天を突く
堅固な天守台が完成すると、工事の主役は土木から建築、すなわち「作事」へと移る。天守の柱や梁となる巨大な檜や欅の木材が、会津の奥深い山々から切り出され、城内へと運び込まれた。番匠(大工)と呼ばれる職人たちが、墨壺と指矩を手に、巨大な材木に正確な墨付けを行い、鑿や斧、大鋸で加工していく。
望楼型天守の建築プロセスは、極めて複雑なものであった。
第一に、天守台の上に、土台となる一層目、二層目の巨大な入母屋造の建物を組み上げる。この際、柱からの垂直荷重を石垣全体に効率よく分散させるために、柱の下に水平に渡す「土台」と呼ばれる部材が考案されたとされ、これは当時の建築技術における重要な革新であった 30。
第二に、その入母屋造の屋根の上に、物見となる望楼部分(三層目から七層目)を、あたかも別の建物を載せるかのように組み上げていく 24。これは上下の構造が一体ではない望楼型特有の建築手順であり、極めて高度な技術と精密な計算を要した。外観は七層であっても、内部の階数は必ずしも一致せず、屋根裏部屋などが存在する複雑な内部構造を持っていたと推測される 31。
幾多の柱と梁が寸分の狂いなく組み合わさり、やがて七層に及ぶ天守の巨大な木造骨格が、会津の空高くその姿を現した。その威容は、工事に携わる人々、そして遠くからそれを望み見る城下の民衆に、新時代の到来を強烈に実感させたに違いない。
第四章:黒き威容の完成 ― 文禄二年(1593年)
文禄2年(1593年)、天守はいよいよ仕上げの段階を迎えた 17 。組み上がった巨大な屋根には、漆黒の輝きを放つ黒瓦が一枚一枚、丁寧に葺かれていく 22 。氏郷は、この天守に用いる瓦を焼くために専門の瓦職人を領外から招聘したとされ、この技術が後の会津本郷焼の発展の源流の一つになったとも考えられている 16 。
そして、この天守の威容を決定づけたのが、金箔瓦の存在であった。最上層の屋根や各層の軒先に並ぶ瓦には、贅沢に金箔が施された 5 。陽光を浴びて金色に爛々と輝く軒と、漆黒の壁や瓦が織りなす鮮烈なコントラストは、見る者を圧倒し、畏怖させるほどの壮麗さであったと想像される。
ついに、七層の天守が竣工する。それまで天守という高層建築が存在しなかった東北の地に、突如として出現したこの漆黒の巨城は、単なる建築物の完成を意味するものではなかった。それは、伊達政宗をはじめとする周辺の諸大名に対し、豊臣政権の圧倒的な国力と技術力、そして何よりもその絶対的な権威に逆らうことの無意味さを、言葉以上に雄弁に物語る、強烈な政治的・軍事的デモンストレーションであった。
第四部:遺産 ― 短き栄光とその後の若松城
完成した若松城は、蒲生氏郷の構想通り、東北における政治・軍事・文化の中心として輝かしいスタートを切った。しかし、その栄光はあまりにも短く、氏郷の死と天災という抗いがたい運命によって、初代天守は歴史の舞台から姿を消すこととなる。
第一章:「鶴ヶ城」の命名と若松の繁栄
氏郷は、完成した壮麗な城を、自らの幼名である「鶴千代」、あるいは蒲生家の家紋「対い鶴」にちなんで「鶴ヶ城」と命名した 6 。また、城下町は「若松」と名付けられた。これらの命名には、この地を永代の拠点とし、新たな領国を築き上げようとする氏郷の強い意志と、個人的な愛着が込められていた。
鶴ヶ城は、単なる軍事・政治の拠点ではなかった。氏郷は、茶の湯を深く愛し、千利休の高弟七人、いわゆる「利休七哲」の一人に数えられるほどの当代一流の文化人でもあった 6 。彼は、秀吉の怒りに触れて自刃に追い込まれた師・千利休の子である少庵を、危険を冒して会津に匿った。そして、少庵のために城内に茶室「麟閣」を建てたと伝わる 16 。この逸話は、氏郷の文化に対する深い理解と、中央の洗練された桃山文化を会津の地に移植しようとする強い意図の表れである。鶴ヶ城は、氏郷の統治下で、東北における新たな文化の発信地としても機能し始めたのである。
第二章:巨星、墜つ ― 文禄四年(1595年)
しかし、この若松の繁栄は、その創造主のあまりにも早すぎる死によって、突如として終わりを告げる。城と城下町の完成からわずか2年後の文禄4年(1595年)、氏郷は朝鮮出兵の拠点であった名護屋城から帰京したのち病に倒れ、40歳という若さでこの世を去った 3 。
「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」
彼の辞世の句として伝えられるこの歌は、志半ばで倒れる無念さを詠んだものとされ、その早世を惜しませる 28 。氏郷という卓越した指導者を失ったことで、会津における壮大な領国経営プロジェクトは、その推進力を失ってしまう。跡を継いだ嫡子・秀行はまだ若く、家臣団の間に生じた騒動を収めることができなかった。その結果、蒲生家は慶長3年(1598年)、宇都宮12万石へと減移封され、会津の地を去ることになった 3 。
第三章:歴史の奔流の中で
蒲生氏の去った後、会津には越後から上杉景勝が120万石という大封で入封する 3 。景勝は、来るべき徳川家康との対決に備え、若松城とは別に、より大規模な神指城の築城を開始するが、関ヶ原の戦いを経て米沢30万石へと大幅に減封された。
そして、蒲生氏郷が築いた七層天守に、決定的な終焉をもたらしたのが天災であった。慶長16年(1611年)、会津地方をマグニチュード6.9と推定される大地震が襲った。この慶長会津地震により、築城からわずか18年しか経っていなかった壮麗な天守は、無残にも倒壊してしまったのである 1 。
地震後、伊予松山から加藤嘉明、そしてその子・明成が入封し、城の大規模な復旧・改修事業に着手した 1 。彼らは、氏郷が築いた堅固な天守台の上に、新たな天守を再建した。しかし、その姿は氏郷の天守とは全く異なるものであった。それは七層の望楼型ではなく、より実戦的で、当時の築城技術の主流となりつつあった五層の「層塔型」天守であった 1 。この加藤氏による天守こそが、幕末の戊辰戦争を戦い抜き、今日の復元天守の直接のモデルとなったのである。
氏郷のプロジェクトは、その完璧すぎるほどの先進性ゆえに、彼個人の非凡な能力に過度に依存した、持続可能性の低いものであったのかもしれない。彼の早世は、この壮大なシステム全体の頓挫を意味した。そして皮肉なことに、彼の築いた天守台という強固な「土台」だけが残り、後の時代の実用主義的な為政者が、全く異なる思想の城を建てるための器となった。これは、一人の天才のビジョンとその死がもたらした、歴史の皮肉を象徴している。
比較項目 |
蒲生氏郷の天守(文禄2年築) |
加藤明成の天守(寛永16年再建) |
階層 |
七層 |
五重五階、地下一階 |
構造形式 |
望楼型 |
層塔型 |
外観 |
黒瓦、軒先に金箔瓦、黒い下見板張 |
当初は黒瓦、後に赤瓦に葺き替え、白壁 |
天守台 |
野面積み。氏郷が築いたものを再利用 |
氏郷時代の天守台を改修して使用 |
歴史的運命 |
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊 |
戊辰戦争で大破し、明治7年(1874年)に解体 |
建築史的意義 |
桃山文化を象徴する壮麗な初期天守 |
江戸時代前期の実戦的で安定した近世天守 |
結論:蒲生氏郷の若松城が戦国史に刻んだもの
文禄元年(1592年)に開始された蒲生氏郷による若松城天守の創建と、それに伴う城下町の整備は、単なる一城郭の歴史に留まらない、深遠な意義を戦国史に刻んだ。
第一に、それは 政治的遺産 として、豊臣政権の権威を東北地方に確立し、伊達政宗という最大の不安定要素を抑え込むことで、天下統一の最終的な安定に大きく貢献した。七層の天守は、武力以上に雄弁な、豊臣の威光を示す象徴であった。
第二に、 建築史的遺産 として、当時の最先端技術と絢爛たる桃山文化の気風を反映した壮麗な七層望楼型天守を、東北の地に初めて出現させた。その存在はわずか18年という短期間であったが、中世から近世へと移行する時代の城郭建築の到達点を示す、画期的なモニュメントであった。
第三に、そして最も永続的な 経済・文化的遺産 として、築城と一体で進められた城下町「若松」の整備が挙げられる。楽市楽座の導入や先進地からの商工業者の招聘による産業振興は、その後400年にわたって続く会津の経済と文化の揺るぎない礎を築いた。
総じて、蒲生氏郷による若松城改修は、一人の傑出した武将が、軍事力、政治的象徴性、経済基盤、そして高度な文化を、城郭という一つの器の中に統合しようと試みた、戦国末期における領国経営の理想形を追求した空前のプロジェクトであった。その中心に聳え立った七層の天守は、たとえ短命に終わり「幻」となったとしても、氏郷の非凡な構想力と実行力を今に伝える、日本城郭史上、永く記憶されるべき傑作であると結論付けられる。
引用文献
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- 会津若松城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/01/
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- 伊達政宗の会津攻めと奥羽仕置き http://datenokaori.web.fc2.com/sub73.html
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- 松阪城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-castle/matsuzaka-castle/
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- 早世の天才武将、「蒲生氏郷」。 - Good Sign - よいきざし - https://goodsign.tv/good-sign/%E6%97%A9%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%80%81%E3%80%8C%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7%E3%80%8D%E3%80%82/
- 松坂城(Matsusaka-Castle) - 城絵巻 https://castle.toranoshoko.com/castle-matsusaka/
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- 松坂城跡(国指定史跡) - 観光情報 - 松阪市観光協会 https://www.matsusaka-kanko.com/information/information/matsusakajyousek/
- 蒲生氏郷コース「武将の道」 - お肉のまち 松阪市公式ホームページ https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/bushounomiti.html
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- 織田信長の寵愛を受けた蒲生氏郷 会津若松でゆかりの地を巡る旅行へ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170803fukushima-aizuwakamatsu-5/
- キリシタン大名、蒲生氏郷の足跡を訪ねる - 会津若松観光ナビ https://www.aizukanko.com/course/769
- 甦る鶴ヶ城 干飯櫓の復元 - 会津若松市 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2018071100053/
- 城用語集 天守 - underZero http://underzero.net/html/casl/cas_m_tensyu.htm
- 鶴ヶ城のご案内 | 一般財団法人 会津若松観光ビューロー https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/tensyukaku/
- 【連載:おはかもん】蒲生氏郷 将来を期待された近江の若鶴、会津藩の基礎をつくる https://guide.e-ohaka.com/column/ohakamon/gamoujisato/
- みりょく発見! マップ - 会津若松市 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2024090400012/file_contents/tsurugajo_miryokuhakken_panph2.pdf
- 1.鶴ケ城と城下町の営みにみる歴史的風致 - 会津若松市 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2022122600027/file_contents/2no.pdf