長崎代官設置(1603)
慶長八年(1603年)、徳川家康は長崎に代官を設置し、豊臣政権下の国際港湾都市の統治を再編。家康の朱印船貿易の要衝として、奉行・代官の二元統治体制を確立。鎖国体制への序章。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
戦国終焉の刻印:長崎統治体制の再編と1603年の画期
—豊臣政権から徳川幕府へ、国際港湾都市の支配を巡る権力闘争—
序章:1603年、長崎における「静かなる政変」
慶長八年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。この年は、長きにわたる戦乱の時代が名実ともに終焉を迎え、日本の権力構造が最終的に定まった画期として歴史に刻まれている。そして、この天下の趨勢が定まった年、遠く西国の港湾都市・長崎においてもまた、一つの時代が終わりを告げ、新たな支配体制が静かに、しかし決定的に始動した。本報告書は、一般に「長崎代官設置(1603年)」として知られるこの事象を、単なる一地方の行政改革としてではなく、戦国時代から続く権力移行プロセスの最終局面であり、徳川幕府による国家統一事業の象徴的な一幕として捉え、その多層的な意味を解き明かすものである。
ユーザーが提示する「南蛮港を代官統治とし管理強化」という簡潔な理解は、事象の核心的な側面を捉えている。しかし、この変化の背後には、戦国大名の存亡を賭けた戦略、イエズス会宣教師の世界的な布教計画、そして豊臣秀吉と徳川家康という二人の天下人が描いた国家構想が複雑に絡み合っている。一般に「代官設置」と理解されるこの事変の本質は、果たして代官という役職の新設だったのか。あるいは、それはより大きな地殻変動の表層に現れた一現象に過ぎなかったのか。我々はこの問いを起点に、1603年に至るまでの長崎の特異な歴史を遡り、その真相に迫る。この「静かなる政変」を時系列に沿って解剖することで、戦国という時代の終焉が、長崎という一点においていかに刻印されたかを明らかにしていく。
第一章:国際港湾都市・長崎の誕生 —戦国大名の野心と宣教師の戦略—
1. 南蛮貿易の黎明と平戸の限界
日本の対ヨーロッパ貿易、すなわち南蛮貿易の歴史は、天文19年(1550年)、ポルトガル船が肥前国(現在の長崎県)の平戸に来航したことから本格的に始まった 1 。当時の平戸領主であった松浦隆信は、貿易がもたらす莫大な利益に着目し、フランシスコ・ザビエルら宣教師によるキリスト教の布教を許可した 1 。これにより平戸は、西欧の文物とキリスト教が日本にもたらされる最初の主要な玄関口となり、一躍、国際貿易の中心地として栄えることとなる 4 。
しかし、平戸における貿易は常に安定していたわけではなかった。領主である松浦氏とポルトガル商人との間でしばしば摩擦が生じ、また、貿易の利益を巡る他の大名との競合も絶えなかった 5 。特に、ポルトガル側にとって、貿易と布教を一体として推進する上で、より安定的で、かつ自分たちの影響力を強く及ぼせる独占的な港を確保することが喫緊の課題となっていた。彼らは、日本の政治情勢に左右されにくい、恒久的な拠点を探し求めていたのである。
2. キリシタン大名・大村純忠の賭け
その頃、平戸に隣接する領地を治めていた肥前の小大名・大村純忠は、存亡の危機に瀕していた。北方に勢力を拡大する龍造寺隆信の強大な軍事的圧力に晒され、領地の維持すら困難な状況に追い込まれていたのである 6 。この絶体絶命の状況を打開するため、純忠は当時最新の軍事技術と経済力を持つポルトガルとの結びつきに活路を見出した。彼は、永禄6年(1563年)に自ら洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となるという大胆な決断を下す 8 。これは単なる個人的な信仰告白にとどまらず、ポルトガルおよびその背後にいるイエズス会の強力な後ろ盾を得ることで、龍造寺氏の脅威に対抗しようとする、極めて政治的かつ戦略的な一手であった。
純忠は早速、自領内の横瀬浦(現在の長崎県西海市)を開港し、ポルトガル船を誘致する。しかし、キリスト教への急進的な傾倒は、仏教を信仰する家臣たちの激しい反発を招き、反乱と焼き討ちによって横瀬浦は壊滅してしまう 8 。次に開いた福田(現在の長崎市)も、外海である角力灘に面しており、風波が強く大型船の停泊には不向きであった 9 。純忠の試みは、当初、困難を極めた。
3. 長崎開港(1571年)と「神の都市」の成立(1580年)
試行錯誤の末、元亀2年(1571年)、純忠はついに理想的な場所を発見する。それが、三方を山に囲まれ、水深が深く波静かな入り江を持つ天然の良港、長崎であった 5 。当初は何もない一漁村に過ぎなかったこの地は、ポルトガル人にとっても、地形的な優位性に加え、利権を主張する有力な在地勢力が存在しない点が魅力的であった 10 。こうして長崎港が開かれ、南蛮貿易の新たな拠点として急速に発展を始める。
その後の天正8年(1580年)、長崎の運命を決定づける出来事が起こる。龍造寺軍が再び長崎港に攻撃を仕掛けてきた際、純忠はポルトガル船の支援を得てこれを撃退することに成功した 6 。この経験を通じて、純忠はポルトガルの軍事力が自領の安全保障に不可欠であることを痛感する。そして彼は、貿易の恒久的な安定と領地の安全を確実なものとするため、長崎のみならず茂木の地をもイエズス会に「寄進」するという、日本史上前代未聞の決断を下したのである 5 。
この寄進により、長崎は日本のいかなる領主の支配権も及ばない、イエズス会が司法・行政権を掌握する治外法権的な「教会領」へと変貌を遂げた 4 。大村氏は港から上がる関税のみを徴収し、都市の運営は完全にイエズス会の手に委ねられた。長崎は、文字通り「神の都市」となったのである。この特異な地位の確立は、単なる大村純忠の信仰心の発露ではなく、戦国乱世の厳しい地政学的力学の中で、小大名が生き残りを賭けて選択した究極の安全保障策であった。外部からの軍事的圧力と内部の政治的脆弱性が、イエズス会の布教戦略と奇跡的に結びついた結果生まれた、極めて戦国時代的な産物であったと言える。
4. イエズス会統治下の長崎 —自治と武装の要塞都市—
イエズス会の統治下に入った長崎は、急速にその姿を変えていった。教会が次々と建設され、各地から移住してきたキリシタンや商人によって町は活気に満ち溢れた 11 。しかし、それは単なる平和な宗教都市ではなかった。イエズス会は、龍造寺氏をはじめとする外部勢力からの攻撃に備え、長崎の要塞化を推し進めた 7 。
特に、当時の日本準管区長であったガスパル・コエリョは、布教のためには武力の行使も辞さない強硬派として知られていた。彼は大村純忠や有馬晴信といったキリシタン大名に龍造寺氏への挙兵を促すなど、積極的に軍事介入を試みた 7 。こうした動きは、長崎を単なる貿易港から、キリシタン勢力の軍事拠点へと変質させるものであり、やがて天下統一を進める豊臣秀吉の強い警戒心を招く大きな要因となっていくのである。
第二章:天下人・豊臣秀吉の介入と長崎の直轄地化
1. 九州平定とバテレン追放令(1587年)
天正15年(1587年)、破竹の勢いで九州を平定した豊臣秀吉は、その過程で長崎の異様な実態を目の当たりにする。日本の国土の一部が、外国の宗教団体であるイエズス会によって統治され、要塞化されているという事実は、天下人である秀吉にとって到底容認できるものではなかった 7 。
秀吉が抱いた脅威は、複合的なものであった。第一に、キリスト教の排他的な教義が日本の伝統的な神仏を破壊し、家臣団の結束を乱すことへの強い懸念。第二に、ガスパル・コエリョらが画策する軍事介入の動きに見られる、イエズス会が日本の内政に干渉し、いずれは武力による征服を企てるのではないかという警戒心 7 。そして第三に、南蛮貿易がもたらす莫大な富を、一宗教団体や特定の大名に独占させるのではなく、統一国家の財政基盤として中央政権が直接掌握する必要性である。これらの理由から、秀吉は九州平定を終えた直後、突如として「バテレン追放令」を発令し、宣教師の国外退去を命じた 12 。
2. 長崎の没収と天領化 —「特区」の収奪—
追放令の発令と時を同じくして、秀吉はイエズス会に対し、長崎、茂木、浦上の地を没収し、豊臣家の直轄地(天領)とすることを宣言した 5 。これは、戦国時代を通じて各地で自然発生的に生まれた経済的・宗教的な「特区」(例えば、自治都市であった堺や博多、あるいは寺社領)を、統一権力がその支配下に組み込んでいく歴史的プロセスの一環であった。堺や博多といった他の主要商業都市を次々と直轄地化していった秀吉の政策の延長線上に、長崎の没収も位置づけられる 13 。
秀吉のこの行動は、宗教的脅威を口実としながらも、その本質は経済利権の国家管理への移行、すなわち「特区の収奪」であった。戦国大名や宗教勢力が自由にその果実を享受していた時代は終わり、天下人が日本の富を独占的に管理する新たな時代が始まったのである。大村純忠の死からわずか1ヶ月後の出来事であった 12 。
3. 豊臣政権下の統治体制 —「奉行」と「代官」の原型—
長崎を直轄地とした秀吉は、早速新たな統治体制の構築に着手した。天正16年(1588年)、まず佐賀の鍋島直茂を「代官」に任命し、長崎の地に常駐して現地の監視と行政を担わせた 14 。
続いて、自らの側近である寺沢広高らを「奉行」として長崎へ派遣した。彼らの主な任務は、秀吉個人や政権が必要とする舶来品(特に武具や奢侈品)の買い付け、そして貿易全体の監視と統制であった。奉行は、交易期間が終われば大坂の秀吉のもとへ帰還するのが常であり、中央から派遣された出先機関の長としての性格が強かった 14 。
この時点で、豊臣政権による長崎統治の基本構造が形成された。すなわち、現地の常駐管理者である「代官」と、中央の意向を受けて特定の政治的・経済的任務を遂行するために派遣される「奉行」という役割分担である。この二元的な統治システムは、後の徳川幕府による長崎支配の原型となった。
4. 長崎奉行・寺沢広高の役割と文禄・慶長の役
豊臣政権下で初代の長崎奉行(長崎の地誌類では、代官であった寺沢を初代奉行と見なすことが多い 14 )として重用されたのが、寺沢広高である。彼は文禄元年(1592年)から慶長七年(1602年)頃までその任にあり、長崎の貿易統制を一手に担った 15 。
彼の役割は、単なる貿易管理に留まらなかった。秀吉が大陸への野望を燃やし、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を開始すると、長崎はその兵站基地として極めて重要な役割を担うことになった。寺沢広高は、肥前名護屋城の普請や管理を担当するとともに、長崎奉行として、朝鮮半島へ送る兵員や膨大な物資の輸送、船舶の運行管理といった兵站業務の責任者として辣腕を振るった 15 。この時期、長崎は南蛮貿易の窓口であると同時に、豊臣政権のアジア侵攻政策を支える軍事・兵站の拠点という、二つの顔を持つ都市となったのである。
第三章:画期としての1603年 —徳川家康による長崎支配の再構築—
1. 関ヶ原以降の徳川家康と世界観
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利を収め、天下の実権を掌握した徳川家康は、豊臣政権が築いた統治体制の多くを継承しつつも、より長期的かつ安定的な支配システムの構築に着手した。特に、対外貿易は国家の財政と安全保障を左右する最重要課題と認識されていた。
家康が描いた貿易構想の中心にあったのが「朱印船貿易」である。当時、明は倭寇などを理由に日本船の直接来航を禁じていた(海禁政策)。そのため、日本が渇望していた中国産の生糸や絹織物といった高級品は、ポルトガル商人がマカオから長崎へ運ぶルートに依存しており、価格も彼らの言い値であった 18 。家康はこの状況を打破するため、幕府が「朱印状」という渡航許可証を発行した船に限り、東南アジア諸国との直接交易を認める制度を確立しようとした 20 。東南アジアの港で中国商人と合流し、生糸などを直接買い付ける「出会い貿易」を行うことで、ポルトガル商人を介さずに安定的に、かつ安価に必需品を確保することが狙いであった 19 。
この壮大な国家プロジェクトを成功させるためには、朱印船の唯一の発着港と定められた長崎を、幕府の完全な管理下に置くことが絶対条件であった 18 。同時に、貿易を通じて西国の外様大名が富を蓄え、幕府に対抗する力をつけることを防ぐという、政治的な狙いも含まれていた 22 。こうして家康は、征夷大将軍に就任する1603年、長崎の統治体制に大鉈を振るうことを決意する。
2. 【時系列解説】慶長八年(1603年)の動向
春 - 豊臣恩顧の奉行・寺沢広高の解任
慶長八年(1603年)4月、家康は長崎統治体制刷新の第一手として、豊臣政権下で十年にわたり長崎奉行の任にあった寺沢広高を解任した 16 。広高は関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して功を挙げ、家康から所領を加増されるなど、新時代への順応を見せていた人物である 16 。しかし、彼のキャリアの基盤はあくまで豊臣政権にあり、秀吉の側近として長崎を統治してきたという事実は、家康にとって無視できないものであった。さらに、広高はかつてキリスト教の洗礼を受けた棄教者でもあり 17 、その経歴も、キリスト教への警戒を強める家康の方針とは相容れない部分があった。家康が目指す、幕府による直接的かつ完全な長崎支配を確立する上で、豊臣色の強い彼の存在は障害と見なされたのである。
四月 - 徳川譜代の奉行・小笠原一庵の任命
寺沢広高の解任と同時に、家康は後任として小笠原一庵を(徳川政権下での)初代長崎奉行に任命した 23 。この人選には、家康の明確な政治的・宗教的意図が込められていた。一庵は三河以来の徳川家譜代の旧臣であり、当時は京都で隠棲生活を送っていた人物である。何よりも重要だったのは、彼が熱心な真宗門徒であったことだ 23 。家康は一庵を任命するにあたり、長崎に根強く残るキリシタン勢力を一掃し、仏教を興隆させるという特命を与えた。事実、長崎に着任した一庵は、キリシタンによって破壊された寺院の再興に着手し、正覚寺などを創建している 23 。
一庵に与えられた任務は、貿易の管理・監督、九州を含む西国大名の動向監視、そしてキリスト教の撲滅という、まさに徳川幕府の初期長崎政策の根幹を成すものであった 23 。この人事異動は、単なる担当者の交代ではなく、朱印船貿易という新たな国家プロジェクトを始動させるための経営陣の刷新であり、豊臣時代との決別と、徳川による新たな支配の始まりを内外に宣言する、極めて戦略的な一手だったのである。
同時期 - 現地実力者・村山等安の代官職の継続
一方で、家康は長崎の市政や徴税といった、より実務的な統治を担う「代官」職については、豊臣時代からその地位にあった豪商・村山等安を留任させた 28 。等安は尾張あるいは安芸の出身とも言われ、天正年間に長崎に流れ着いた出自不明の人物であったが、その非凡な才覚と弁舌、ポルトガル語にも通じる国際感覚を秀吉に見出され、長崎の指導者の一人となっていた 14 。
家康は、中央から派遣した奉行が長崎の複雑な町人社会や国際貿易の実務を即座に掌握することの困難さを理解していた。そこで、等安のような現地の事情に精通した実力者を代官として活用し、彼が持つ人的ネットワークや商業上のノウハウを利用することで、統治の安定と経済の円滑な運営を図ったのである。これにより、長崎の統治は、幕府中央の意思を代弁する「奉行」と、現地の行政実務を担う「代官」という二元的な体制で運営されることになった。
第四章:初期徳川幕府の二元統治 —「奉行」と「代官」の相克—
1. 「奉行」と「代官」の役割分担
1603年の体制再編によって確立された、長崎奉行と長崎代官による二元統治体制は、初期徳川幕府の巧妙な統治技術の現れであった。両者の権限と役割は、明確に分担されていた。
**長崎奉行(小笠原一庵ら)**は、江戸の幕府中央から派遣される、いわば国家の出先機関の長であった。その権限は、国家の根幹に関わる重要事項に集中していた。具体的には、①ポルトガル船や明清の唐船の来航管理と外交交渉、②舶載される生糸や絹織物といった戦略物資の幕府による先買権の行使(これは後の糸割符制度へと発展する)、③キリシタンの捜索と取締りをはじめとする宗教統制、④九州の諸大名が密貿易などによって幕府に背くことのないよう、その動向を厳しく監視すること、などである 23 。彼らは貿易のシーズンが終われば江戸に戻ることもあり、必ずしも長崎に常駐するわけではなかった 14 。その役割は、長崎という都市を「統治」するというより、国家的な観点から「監督・統制」することに主眼が置かれていた。
対照的に、**長崎代官(村山等安ら)**は、長崎の地に根差した現地の最高実務責任者であった。その権限は、より地域的・内政的な事柄に及んだ。具体的には、①長崎市中の行政全般、すなわち町人社会の統括やインフラ整備、②地子銀(土地税)の徴収と幕府への上納、③そして代官自身も朱印船貿易家として大規模な経済活動を行うことなどである 14 。彼らは長崎の経済を実際に動かし、町人たちの生活に直接関わる存在であった。
2. 二元統治という統治技術
奉行と代官の並立は、一見すると権限の重複や非効率を招きかねない構造に見える。しかし、これは徳川幕府が他の天領(佐渡金山や石見銀山など)でも用いた、洗練された統治モデルの応用形であった。すなわち、中央から派遣した専門官僚である「奉行」が国家的な統制と監視というマクロな役割を担い、一方で現地の事情に精通した有力者(長崎の場合は豪商、鉱山の場合は山師など)を「代官」として登用し、ミクロな実務運営を委ねるという手法である。
このシステムにより、幕府は二つの大きな利益を得ることができた。第一に、奉行を通じて長崎の貿易利権と政治的・軍事的要衝としての機能を国家の管理下に置き、中央集権体制を確固たるものにすること。第二に、代官の持つ商業的ノウハウや人的資本を活用することで、貿易都市としての経済的活力を損なうことなく、むしろそれを最大化し、幕府の財源とすること。中央による強固なコントロールと、現地のダイナミズムを両立させるこの二元統治は、徳川幕府の高度な統治技術の証左と言える。
表1:初期徳川幕府下における長崎奉行と長崎代官の権限・役割比較
項目 |
長崎奉行 |
長崎代官 |
任命者 |
徳川幕府(中央政権) |
豊臣政権、徳川幕府(現地追認) |
身分・出自 |
幕臣(旗本など徳川譜代) |
現地有力者(豪商、貿易家) |
主要な権限・役割 |
・外交交渉、貿易の監督・統制 ・輸入品の先買権(国家戦略物資の確保) ・キリシタンの取締り、宗教統制 ・西国大名の監視 |
・長崎市中の行政運営 ・地子銀(税)の徴収と上納 ・町人社会の統括、紛争の調停 ・自身の朱印船貿易など経済活動 |
統治の性格 |
国家的、対外的、政治的、監督的 |
地域的、内政的、経済的、実務的 |
代表的人物(初期) |
小笠原一庵 |
村山等安 |
3. 体制に内包された権力闘争の火種
しかし、この巧妙な二元統治システムは、その内部に新たな権力闘争の火種を内包していた。特に、長崎代官という職は、市政を掌握し、自らも貿易で巨万の富を築くことが可能な、絶大な利権の源泉であった。この地位を巡り、長崎の豪商たちの間で熾烈な争いが繰り広げられることになる。
その象徴的な事件が、初代代官・村山等安の失脚である。長年にわたり長崎の実力者として君臨した等安であったが、同じく朱印船貿易家として台頭してきた末次平蔵との対立が激化する 36 。元和4年(1618年)、末次平蔵は等安が不正を働いていること、そして隠れキリシタンであり大坂の豊臣方に内通していたことなどを幕府に告発した 28 。これをきっかけに等安は失脚し、翌年、一族もろとも処刑されるという悲劇的な結末を迎える 32 。そして、等安に代わって長崎代官の地位を手に入れたのが、他ならぬ末次平蔵であった 35 。この事件は、長崎代官職が持つ莫大な利権を巡る、剥き出しの権力闘争が現実のものであったことを如実に物語っている。
結論:戦国の終焉と「鎖国」への序章
慶長八年(1603年)の長崎における統治体制の再編、すなわち豊臣恩顧の寺沢広高から徳川譜代の小笠原一庵への「奉行交代」と、村山等安を「代官」とする二元統治体制の確立は、単なる一地方における人事刷新では断じてなかった。それは、戦国時代を通じて大名や宗教勢力が主導し、ある種の治外法権的な特区として存在してきた国際港湾都市・長崎の歴史に終止符を打ち、徳川幕府という強力な中央集権国家が、貿易と外交、そして宗教を一手掌握する時代の到来を告げる、画期的な出来事であった。
この体制変更によって、長崎は戦国的な混沌と自由の中から完全に切り離され、幕府の厳格な管理下に置かれる「天領」として、その性格を最終的に決定づけられた。ここで確立された、中央から派遣された奉行が国家的な監督を行い、現地の代官が実務を担うという統治システムは、その後の徳川幕府による長崎支配の基本形となっていく。
そして、この1603年の変革が持つ最も重要な歴史的意義は、それが後の「鎖国」体制へと至る道筋をつけたことにある。幕府が貿易の利益を独占し、キリスト教を徹底的に排除し、西国大名の力を削ぐという、この時に明確化された政策目標は、その後一貫して追求され続ける。糸割符制度の導入による貿易利益のさらなる独占、オランダ人や中国人の居住区の限定(出島や唐人屋敷の設置)、そして最終的にはポルトガル船の来航禁止と日本人の海外渡航の全面禁止へと、その政策は段階的に強化されていった 22 。
1603年の長崎における「静かなる政変」は、まさしく戦国という時代の終わりを、日本の対外関係の最前線において告げる鐘の音であった。そして同時に、それは二百数十年におよぶ江戸時代の安定と、世界史的に見ても特異な国家体制である「鎖国」の序章を告げる、日本史の大きな転換点だったのである。
引用文献
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- 戦国時代、欧州貿易はなぜ、平戸から長崎へ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=p2BCRJKSSzE
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- 劇中では描かれない「九州植民地化危機」を救った豊臣秀吉の政治感覚【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1149243
- 長崎はどのようにしてできたか https://www1.cncm.ne.jp/~itoyama/nagasaki.html
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