飫肥城改修(1603)
慶長8年、伊東祐慶は飫肥城を大改修。関ヶ原後の混乱を収め、功臣稲津を粛清し家中の統制を確立。戦国から近世城郭への転換を図り、城下町整備と飫肥杉植林で藩の礎を築き、伊東家の未来を拓いた。
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慶長八年 飫肥城改修:関ヶ原の動乱を乗り越え、近世大名への礎を築いた伊東家の決断
序章:天下分け目の嵐、日向の伊東家
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が天下の覇権を賭けて激突した関ヶ原の戦い。その激震は、遠く離れた日向国(現在の宮崎県)南部の小大名、伊東家をも否応なく飲み込んでいった。当時の伊東家が置かれた状況は、まさに絶望的というほかなかった。
豊臣秀吉による九州平定の後、伊東家は長年の宿敵であった島津氏との100年以上にわたる争奪戦の末に失った旧領・飫肥の地へ、ようやく返り咲きを果たしていた 1 。しかし、その安堵も束の間、関ヶ原の戦いが勃発すると、伊東家の領国は西軍に与する勢力によって完全に包囲される形となった。北には高橋元種、そして南と西には強大な宿敵・島津氏が控え、さらに近隣には秋月家や小西家といった西軍諸将がひしめいていたのである 3 。その兵力は全国でも最下位クラスであり、まさに風前の灯であった 3 。
この存亡の危機に際し、当主であった伊東祐兵(すけたけ)は、病の身を押して大坂に滞在していた 2 。国許と遠く離れた地で、刻一刻と変化する天下の情勢を見極め、一族の未来を左右する重大な決断を迫られていたのである。周囲の状況を鑑みれば、西軍に与することが最も現実的な選択肢に見えたかもしれない。しかし、それは長年の仇敵である島津の軍門に降ることを意味し、伊東家としての誇りが許さなかった。一方で、東軍への加担は、即座に周囲の西軍勢力から一斉攻撃を受ける危険を伴う、無謀とも思える賭けであった。
この究極の選択を前に、祐兵は東軍への加担という茨の道を選んだ。これは、単に勝ち馬に乗ろうとする日和見主義的な判断ではなかった。伊東家にとって、島津氏との100年以上にわたる抗争の歴史は、家の存立意義そのものであった 1 。西軍の主力を担う島津氏が健在である以上、西軍に与することは伊東家のアイデンティティを放棄するに等しい。地政学的にどれほど不利であっても、「反島津」という家の宿願を貫くためには、東軍に与する以外の道はなかったのである。それは、合理的な損得勘定を超えた、伊東家の歴史と誇りに根差した必然の選択であった。この決断が、中央の関ヶ原とは別に、日向の地で繰り広げられる「もう一つの関ヶ原」の火蓋を切ることになる。
第一章:日向における「もう一つの関ヶ原」
伊東祐兵の決断を受け、国許の飫肥では嫡男・祐慶(当時12歳)と家臣団が、伊東家の存亡を賭けた戦いに身を投じることとなった。中央での本戦と並行して日向国で繰り広げられた局地戦は、情報戦の錯綜と現場の功名心が複雑に絡み合い、戦後の混乱へと繋がっていく。
慶長5年9月:宮崎城攻めと致命的な誤算
国許を預かる家臣団の中で、特に大きな影響力を持っていたのが家老の稲津重政(掃部助)であった。彼は、東軍方としての功績を焦るあまり、西軍に与した高橋元種の居城・宮崎城への攻撃を進言する 5 。若き当主・祐慶もこれを容れ、伊東軍は行動を開始した。
慶長5年9月、関ヶ原の本戦が繰り広げられているのとほぼ同時期、稲津重政率いる伊東軍は宮崎城への夜襲を敢行した。その戦術は巧妙を極めた。まず先発隊300が鬨の声を上げ、城兵の注意を引きつける。これに宮崎城主・権藤は「敵は小勢なり」と油断し、城門を開いて打って出ようとした。これこそが稲津の狙いであった。伊東軍は新月の闇に紛れ、満願寺口、目曳口、船ヶ崎口など五つの門から一斉に城内へと攻め込んだのである 6 。この奇襲は成功し、伊東家は宮崎城を占拠するという大きな戦果を上げた。
しかし、この輝かしい軍功は、直後に致命的な誤算であったことが判明する。城主の高橋元種は、伊東軍が攻撃を仕掛けるのと前後して、すでに東軍への寝返りを表明していたのである 5 。つまり、伊東家は味方となるはずの勢力を攻撃してしまったのだ。この情報戦の敗北により、宮崎城はすぐに高橋元種に返還され、稲津の功績は水泡に帰した。この一件は、伊東家中に微妙な亀裂を生み、後の悲劇の伏線となる。
慶長5年10月以降:「稲津の乱」の激化
9月15日の関ヶ原の本戦は、小早川秀秋らの寝返りによってわずか一日で東軍の圧勝に終わった 7 。しかし、九州の戦況は依然として混沌としていた。特に、敵中突破という壮絶な撤退戦の末に薩摩へ帰還した島津軍は、手負いの獅子として依然大きな脅威であり続けた 7 。
徳川家康は戦後処理を進めるにあたり、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布したが、現場の興奮は容易に収まらなかった。宮崎城での失態で汚名を着せられた稲津重政は、その名誉を挽回するかのように、家康の意向を無視して独断で軍事行動をエスカレートさせていく。彼は旧領回復を大義名分に、島津領への侵攻を執拗に繰り返した。これが後に「稲津の乱」と呼ばれる、約7ヶ月にわたる泥沼の戦いの始まりであった 9 。
この戦いは、日向南部で繰り広げられた消耗戦であり、その様相は凄惨を極めた。慶長5年10月3日、伊東勢は宮崎城を出て島津方の本庄へ進撃するも、4名の犠牲者を出し撤退。翌4日には稲津の弟・牛之助が1,000の兵を率いて穆佐(むかさ)を攻めるが、島津方の激しい抵抗に遭い、双方多数の負傷者を出して引き分けた。5日には夜陰に乗じて島津方の村々に放火し、9日には木脇を攻めるが、帰路を断たれ8名が討ち死にするなど、一進一退の攻防が続いた。18日には、稲津重政自らが瓜生野で島津軍を迎え撃ち、これを破るという戦果を挙げる。勢いに乗った伊東勢は佐土原城下にまで攻め込むが、油断した兵たちが民家で酒食を漁っている隙を突かれて反撃に遭い、多数の死者を出しながら辛うじて撤退するなど、戦場のリアルな混乱が記録されている 9 。
この稲津の独断専行は、東軍としての功績を積み上げたいという功名心と、宮崎城での失態を取り返したいという焦りが生んだ暴走であった。しかし、それは平和秩序の構築を目指す徳川家康の意向に真っ向から反するものであり、伊東家の存続そのものを危うくする極めて危険な賭けであった。稲津の軍勢は、もはや伊東家がコントロールできない「戦国時代の亡霊」と化していたのである。
表1:関ヶ原の戦い前後における日向南部の動乱 年表(慶長5年~慶長7年)
年月 |
出来事 |
概要 |
慶長5年(1600年)9月 |
宮崎城攻め |
家老・稲津重政の主導で、西軍・高橋元種の宮崎城を夜襲により攻略。しかし、高橋元種は直前に東軍へ寝返っており、戦果は無意味となる 5 。 |
慶長5年9月15日 |
関ヶ原の戦い |
徳川家康率いる東軍が勝利する 7 。 |
慶長5年10月 |
伊東祐兵、大坂にて病死 |
当主・祐兵が病死し、嫡男・祐慶(12歳)が家督を相続する 5 。 |
慶長5年10月~慶長6年4月 |
「稲津の乱」 |
稲津重政が徳川の惣無事令を無視し、島津領への侵攻を繰り返す。穆佐、瓜生野、佐土原城下などで7ヶ月にわたり激しい戦闘が続く 9 。 |
慶長7年(1602年) |
稲津重政の粛清 |
新当主・伊東祐慶が、主命に従わないとして稲津重政を清武城にて討伐。戦後の混乱を収拾し、家中を掌握する 5 。 |
第二章:激動の中の継承
日向の地が局地戦の泥沼にはまり込んでいた慶長5年10月、伊東家にさらなる激震が走る。東軍勝利の報が届く中、大坂で病床にあった当主・伊東祐兵が、36歳の若さでこの世を去ったのである 5 。これにより、わずか12歳の伊東祐慶が、戦後の混乱と家中の不協和音という重すぎる荷を背負い、飫肥藩主としての歩みを始めることとなった 12 。
若き新当主が直面した最大の課題は、家中最大の実力者でありながら、もはや制御不能な存在となりつつあった稲津重政の処遇であった。稲津は、宮崎城攻めを主導し、その後の対島津戦でも軍事の中心人物として戦果を挙げており、その武功と影響力は家中において絶大なものがあった 5 。しかし、彼の行動は徳川が築こうとする新しい秩序に反するものであり、伊東家の将来に暗い影を落としていた。
そのような中、祐慶は徳川家康から日向飫肥5万1千石(当初は5万7千石)の所領を安堵される 5 。これにより、伊東家の存続は公的に認められた。しかし、それは無条件の恩赦ではなかった。家康が求めたのは、九州における私戦を即刻停止し、徳川の権威の下で新しい平和秩序に服従することであった。この家康の意向は、祐慶にとって稲津問題を解決するための絶好の「大義名分」となった。
そして慶長7年(1602年)、祐慶はついに決断を下す。「主命に従わず清武城にこもった」として、稲津重政を討伐したのである 5 。これは、単に宮崎城攻めの失敗の責任を問うたものでも、惣無事令違反を罰したものでもなかった。この粛清は、複数の政治的意図が込められた、極めて高度な決断であった。
第一に、徳川幕府への完全な恭順の意を示すことであった。家中における「戦国時代の残滓」を自らの手で清算し、伊東家が徳川体制下の近世大名として生まれ変わることを内外に宣言する、いわば政治的なパフォーマンスであった。第二に、そしてより重要なのは、若き当主による権力掌握の完成であった。父・祐兵の代からの武断派の重臣であり、家中最大の実力者となった稲津を排除することは、祐慶が名実ともに伊東家の唯一の支配者となるために不可欠なプロセスであった。父の死によって生じた権力の空白を埋め、自らの権威を確立するためには、功臣であっても自らの統治の障害となる者は許さないという、冷徹な意志を示す必要があったのだ。
この功臣粛清という苦渋の決断なくして、その後の伊東家の安定も、飫肥城改修という大規模事業の断行も不可能であった。祐慶は、家康という「外圧」を巧みに利用して国内の政敵を排除し、自らが主導する新しい時代を切り開いたのである。
第三章:慶長八年 飫肥城大改修 ― 新時代の要塞へ
家中の統制を完了し、名実ともに飫肥の支配者となった若き当主・伊東祐慶が、次なる一手として着手したのが、藩庁である飫肥城の大規模な改修であった。慶長8年(1603年)に始まったこの普請は、単に戦乱で傷んだ城を修復するという次元に留まるものではなかった。それは、戦国の世に訣別し、徳川の治世下で近世大名として生き抜くという伊東家の新しい統治理念を、石垣と縄張りによって具現化する一大国家プロジェクトであった。
改修の意図 ― 戦国から近世へ
この大改修には、明確な政治的・軍事的意図が存在した。政治的には、稲津の粛清によって戦国的な武断主義と決別した伊東家が、徳川体制下で領国を恒久的に支配するという強い意志を、領民や周辺勢力に示す狙いがあった。土や木で築かれた一時的な砦ではなく、巨大な石垣という恒久的な建造物を用いること自体が、伊東家の支配が揺るぎないものであることを可視化する強力なメッセージとなったのである。
軍事的には、依然として隣国に強大な勢力を維持する島津氏への備えが最大の目的であった。しかし、その防御思想は、個々の戦闘での勝利を目指す戦国的なものから、藩庁を防衛し、領国支配の核となる拠点を確立するという、より近世的なものへと大きく転換していた。城そのものが、権威と統治機能の中枢として再定義されたのだ。
具体的な改修内容① ― 「南九州型城郭」からの脱皮
改修以前の飫肥城は、シラス台地という脆弱な地盤を巨大な空堀で区切り、独立性の高い曲輪をいくつも並べた「南九州型」と呼ばれる中世城郭の典型であった 1 。これは、局地的な防御戦には適しているものの、城全体としての有機的な連携や、権威の象徴としては不十分な構造であった。
慶長8年の改修では、この伝統的な構造に、織田・豊臣政権下で飛躍的に発展した畿内・東海の先進的な城づくり、すなわち石垣や枡形虎口といった近世城郭の技術が本格的に導入された 14 。特に、城の中枢部に堅固な石垣を築き、出入り口を複雑な枡形(ますがた)とすることで、防御力は飛躍的に向上した。この技術的転換は、単に城を強固にするだけでなく、大名の権威を視覚的に示すという重要な役割も担っていた。石垣という新しい軍事技術の導入を通じて、「恒久支配」という新しい政治イデオロギーを領内に浸透させるプロセスでもあったのだ。
具体的な改修内容② ― 城下町の拡張と「総構え」
改修は城内だけに留まらなかった。伊東祐兵の時代から構想されていた城下町の整備が本格化し、城と城下町が一体となった防御体制、すなわち「総構え」に近い城塞都市へと発展させる計画が始動した 14 。
城の麓には計画的に武家屋敷や町人地が配置され、家臣団が城下に集住させられた。これは、家臣を土地の支配から切り離し、藩主への奉仕に専念させるという近世的な統治システムへの移行を意味する。さらに、城の周囲を流れる酒谷川を天然の外堀として活用し、城下町全体を防御線とする設計思想は、飫肥が単なる軍事拠点ではなく、領国全体の政治・経済の中心地であることを明確に示していた 16 。この城郭と城下町の一体的な整備は、ハードウェア(城郭)の更新と、ソフトウェア(統治システム)の更新を同時に行う、伊東藩の未来を賭けた一大事業だったのである。
この大事業を成し遂げた財源や技術者に関する直接的な記録は乏しいが、戦乱で疲弊した領国でこれを断行した背景には、幕府から命じられる江戸城などの普請(公儀普請)に参加した家臣団が持ち帰った最新技術や 17 、領民を使役した大規模な動員があったと推測される。慶長8年の改修は、まさに「江戸時代の夜明け」にふさわしい、未来志向のプロジェクトであった。
第四章:石垣の先に見た未来 ― 飫肥藩の礎を築く
飫肥城の大改修というハード面の整備によって、伊東家は近世大名としての体裁を整えた。しかし、若き当主・伊東祐慶の慧眼は、それだけに留まらなかった。彼は、城という「現在」の安全保障と権威の確立を目指す事業と並行して、藩の「未来」の繁栄を築くための、もう一つの重要な政策に着手していた。それが、後に飫肥藩の財政を幕末まで支えることになる「飫肥杉」の植林事業である。
藩政の安定化と未来への投資
祐慶は、城の普請と同時に、検地や開墾といった領国経営の基礎固めにも着手した 12 。長年の戦乱で荒廃した領内を安定させ、民心を掌握することが、新たな統治者にとっての急務であった。そして、領国の将来を見据えた時、彼は飫肥の土地が持つ可能性に着目した。シラス台地が広がる日向南部は米作には必ずしも適した土地ではなかったが、温暖多雨な気候は林業にとってこの上ない好条件であった。
この自然条件を最大限に活かすべく、祐慶の治世、特に元和年間(1615年~)から、領内でのスギ(飫肥杉)の植林事業が本格的に興された 5 。この構想は、父・祐兵の代から存在したとも言われているが 2 、それを藩の基幹産業として確立させたのは、間違いなく祐慶の功績であった。
植林は、成果が出るまでに数十年、時には百年以上を要する、極めて息の長い事業である。目先の戦に明け暮れ、収奪を繰り返すことが常であった戦国武将の発想からは生まれにくい、長期的な視点に立った経営判断であった。これは、伊東家が武力による領土拡大の時代が終わり、これからは与えられた領国をいかに豊かにし、安定的に統治するかが大名の役割であることを深く理解していたことを示している。いわば、武力に依存する「石高(こくだか)」の経済から、資源を育成し活用する「木高(もくだか)」の経済へという、発想の根本的な転換であった。
この未来への投資は、見事に結実する。飫肥杉は、その材質の良さから高く評価され、藩の重要な財源となった。天災が多く、財政的に決して豊かではなかった飫肥藩が 18 、江戸時代を通じて安定した治世を保つことができたのは、この植林事業のおかげであった 2 。
飫肥城の改修が、戦国の動乱を乗り越え、伊東家の「現在」の支配を固めるための事業であったとすれば、飫肥杉の植林は、その先の「未来」の繁栄を築くための事業であった。祐慶は、このハードとソフトの両輪を巧みに回すことで、戦国武将から近世の優れた経営者への華麗なる転身を遂げ、伊東飫肥藩280年にわたる平和の礎を築き上げたのである。
終章:慶長の改修が遺したもの
慶長8年(1603年)に始まった飫肥城の大改修は、単なる一過性の土木事業ではなかった。それは、伊東家の歴史、ひいては日向南部の歴史における重大な転換点であり、その影響は400年以上の時を超えて現代にまで及んでいる。
この改修によって確立された、石垣を多用する近世城郭としての飫肥城と、それを中心に計画的に配置された城下町の骨格は、その後280年続く伊東氏の治世において、物理的にも象徴的にも揺るぎない中心であり続けた。この安定した統治基盤があったからこそ、飫肥藩は幕府の要職に就くような華々しい活躍こそなかったものの、天災の多い領地の中で、領国の発展と領民の幸福に地道に注力することができたのである 2 。
また、慶長8年の改修は、飫肥城の進化の最終形ではなかった。むしろ、それは連続的な城郭発展の第一歩であったと位置づけることができる。飫肥城はその後、寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、そして貞享元年(1684年)と、相次いで大地震に見舞われ、城は甚大な被害を受けた 20 。しかし、藩はこの国難を乗り越え、貞享3年(1686年)から元禄6年(1693年)にかけて、さらなる大改修を断行する 15 。この元禄期の改修は、慶長の改修で導入された近世城郭技術をさらに発展させ、本丸を現在の位置に移すなど、より完成度の高い城郭へと昇華させたものであった 15 。つまり、1603年の改修は、その後の大発展の礎となった、いわば第一期工事としての歴史的意義を持っているのである。
そして、伊東祐慶の決断が遺した最大の遺産は、現代にまでその姿を伝える美しい町並みであろう。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、多くの観光客を魅了する飫肥の風情ある石垣や武家屋敷の景観は 15 、その原型を慶長8年の改修とそれに続く城下町整備にまで遡ることができる。
関ヶ原の動乱という存亡の危機を乗り越え、若き当主・祐慶が下した「城の改修」という決断。それは、戦国の世との訣別を告げ、近世という新しい時代を生き抜くための確固たる意志表明であった。その石垣の一つ一つに込められた伊東家の誇りと未来への展望は、今なお飫肥の地に静かに息づいている。
引用文献
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- 飫肥藩 島津氏との長い領地争いの結果、伊東氏のものに - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/470/
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- 伊東祐慶とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%85%B6
- 伊東祐慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%85%B6
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- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/shimazunonokiguchi/
- 稲津掃部助は薩摩・佐土原両島津と戦った - 宮崎みんなのポータルサイト miten(ミテン) https://www.miten.jp/miten//modules/popnupblog/index.php?param=24-202310
- 伊東祐慶(いとう すけのり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%85%B6-1055076
- 伊東祐兵(いとう すけたけ) 拙者の履歴書 Vol.341~落ちて悟る武家の誇り - note https://note.com/digitaljokers/n/nb5e77cd6db65
- 伊東祐慶 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki http://souzou2016.wiki.fc2.com/m/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%85%B6
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- 江戸時代の地割が残る「飫肥城下町」 - 文化遺産の世界 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201802_41