最終更新日 2025-09-23

高瀬川開削(1611)

慶長16年、角倉了以は徳川家康の命で高瀬川を開削。京都の物流を革新し、大坂と京都を結ぶ経済動脈を築いた。大坂の陣では兵站を支え、江戸時代の経済基盤を確立。
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京の再生、天下の奔流:高瀬川開削(1611)-戦国終焉の刻、経済の動脈を拓いた男-

序章:慶長十六年、天下普請の都・京都

慶長十六年(1611年)、京都は静かなる緊張の只中にあった。関ヶ原の合戦から十年余、徳川家康による新たな武家の世が江戸に根を下ろしつつあったが、この古都には未だ豊臣家の威光が色濃く残っていた。徳川の権威の象徴として西国大名に睨みを利かせる二条城 1 と、豊臣秀吉の遺志を継ぎ、その子秀頼が再建を進める方広寺大仏殿 3 。この二つの巨大建築物は、単なる建造物としてではなく、都の中心で対峙する新旧両勢力の代理戦争の様相を呈していた。

豊臣秀吉による天正の地割りを経て、応仁の乱の荒廃から復興した京都は、政治の中枢としての機能を江戸に譲りながらも、天皇を戴く都としての権威、そして日本最大の商工業都市としての活気を失ってはいなかった 5 。上京には公家や武家の屋敷が、下京には町衆と呼ばれる有力市民が主導する商業・手工業が爛熟の時を迎え、西陣織をはじめとする伝統産業は隆盛を極めていた 2 。戦乱の記憶が薄れゆく中で、人々が求めたのは安定した治世と経済的な繁栄であった。この、復興から発展へと向かう都市の渇望とエネルギーこそが、後に「高瀬川開削」という一大事業を生み出す土壌となる。

しかし、この事業の背景には、より深く、複雑な政治力学が働いていた。高瀬川開削の直接の契機は、前述の方広寺大仏殿再建における資材運搬の困難にあった 3 。だが、その大仏殿再建自体が、豊臣家に残された莫大な財力を消耗させることを狙った徳川家康の深謀遠慮であったとする見方が有力である 7 。つまり、高瀬川という京都の新たな経済の動脈は、徳川の対豊臣戦略という巨大な政治劇の舞台装置として、その産声を上げることになるのである。

本報告は、この高瀬川開削を単なる江戸初期の土木事業として捉えるのではなく、戦国という時代の終焉と、資本が社会を動かす新たな時代の幕開けを告げる画期的な「事変」として位置づける。そして、その計画から完成、さらには後世に至るまでの軌跡を、関わった人々の思惑や当時の社会情勢を織り交ぜながら、時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。

第一章:角倉了以-海を渡り、川を拓く稀代の事業家

高瀬川開削という壮大な事業を構想し、実現させた人物、それが角倉了以(すみのくら りょうい)である 8 。天文23年(1554年)に京都嵯峨に生まれたこの男は、戦国から江戸へと時代が大きく転換する中で登場した、全く新しいタイプの事業家であった。

了以の出自は、近江の佐々木氏を祖とする医家の吉田氏に遡る 9 。室町時代に上洛し、幕府お抱えの医師を務める一方、医業で得た財を元手に土倉(金融業)を営み、豪商としての礎を築いた 9 。「角倉」とは、この土倉業に由来する屋号であった 11 。了以は父・宗桂から家督を継ぐと、医業を弟に譲り、自らは金融業を基盤として、その類稀なる商才を発揮していく 10

彼の名を天下に轟かせたのは、朱印船貿易であった。文禄元年(1592年)に豊臣秀吉から、そして慶長9年(1604年)以降は徳川家康から朱印状を得て、「角倉船」と呼ばれる大型船を安南(現在のベトナム)などに派遣し、巨万の富を築いたのである 10 。当時の輸出品は銀、銅、鉄、硫黄など、輸入品は生糸や薬種、高級織物であった 5 。この海外貿易は、彼に莫大な私財をもたらしただけでなく、爆薬の使用法といった海外の先進的な知識や技術に触れる機会を与えた可能性も指摘されている 5

了以の卓抜性は、この海外貿易で得た莫大な資本を、国内のインフラ整備という新たな事業領域に再投資した点にある。これは、ハイリスク・ハイリターンな投機的事業で得た利益を、長期的かつ安定的な収益が見込める国内の社会資本へと還流させる、当時としては極めて画期的な事業ポートフォリオであった。武力ではなく資本が社会を動かす時代の到来を、彼はいち早く見抜いていたのである。

高瀬川開削以前、了以はすでに国内の河川開発で驚異的な実績を上げていた。慶長11年(1606年)には、丹波と京を結ぶ大堰川(保津川)の開削に着手。自ら石割斧を振るって難工事の先頭に立ったと伝えられ、わずか半年で完成させている 11 。翌慶長12年(1607年)には富士川の疎通事業も成功させ、その名は卓越した土木技術者としても知れ渡っていた 9

豊臣、徳川という両政権との巧みな関係構築も、彼の事業を支える重要な要素であった。秀吉から朱印状を得る一方で、弟の吉田宗恂は豊臣秀次の侍医を務めていた 14 。秀次が悲劇的な最期を遂げた後は、宗恂が家康の侍医となり、徳川家との強固なパイプを築いた 14 。この両政権への食い込みが、後の高瀬川開削という国家的な事業を一個人が成し遂げる上での大きな推進力となったことは想像に難くない。

第二章:発端-巨大仏再建という名の政治劇

高瀬川開削の物語は、慶長8年(1603年)に焼失した方広寺大仏殿の再建計画から始まる。この再建を豊臣秀頼に強く勧めたのは、他ならぬ徳川家康であった 7 。表向きは、豊臣家の威信を天下に示すための事業への協力であったが、その真意は、大坂城に眠る豊臣家の莫大な遺産をこの巨大建築に費やさせることで、その財力を削ぐことにあった 7

この政治的な思惑が渦巻く国家プロジェクトにおいて、資材運搬という実務を請け負ったのが角倉了以であった。慶長15年(1610年)、了以はまず、最も直接的なルートである鴨川を利用して、伏見から京の都心へ資材を運び込むことを試みた 5 。しかし、この試みは困難を極める。当時の鴨川は、現在のような穏やかな流れではなく、ひとたび大雨が降れば氾濫を繰り返す「暴れ川」であり、水深も安定しなかった 4 。巨大な材木を積んだ舟を安定して遡上させることは、不可能に近かったのである。

この失敗とも言える経験が、了以の構想を劇的に飛躍させる転機となった。彼は、鴨川という自然河川の不安定性、すなわち事業遂行上の「リスク」を、全く新しい発想への「機会」へと転換させたのである。一時的な資材運搬という目先の課題解決に留まらず、鴨川の西岸に並行して、安定的で恒久的な人工運河を建設するという壮大なビジョンを描き始めた。それは、方広寺大仏殿の再建という枠を超え、伏見の港と京都の中心部を直結し、さらには淀川を通じて「天下の台所」大坂とを結ぶ一大物流ネットワークを構築するという、京都全体の経済再生を見据えた壮大な都市計画であった 5

了以は、鴨川水運の限界を幕府に報告し、それを根拠として恒久的な運河の必要性を説いた。これにより、彼は単なる運送請負人から、都市インフラを創造するデベロッパーへと、自らの立場を昇華させることに成功した。問題そのものを、より大きな事業機会へと転換させる戦略的思考こそ、彼を稀代の事業家たらしめた所以であった。

第三章:計画始動-慶長十六年(1611年)のリアルタイム

慶長16年(1611年)、角倉了以、57歳。彼の壮大な構想は、ついに具体的な行動へと移された。了以はこの年、徳川幕府に対して高瀬川の開削を正式に請願したのである 5

この前代未聞の民間主導による大規模インフラ整備計画の許認可において、鍵を握ったのが、当時の京都所司代・板倉勝重であった 17 。家康の厚い信頼を得て京都の行政・司法・治安維持の全権を担っていた勝重は、この計画に大きな利を見出した。了以の提案は、総工費7万5千両(現在の価値で約150億円とも言われる)の全額を角倉家が私財で賄い、幕府には一切の財政負担をかけないというものであった 5 。その上で、完成後の運河から得られる船賃収入の約半分を運上金として幕府に納めるという条件も付されていた 5 。これは、幕府にとっては何のリスクも負うことなく、新たな税収源と京都の経済活性化が手に入る、まさに渡りに船の提案であった。

こうして、民間資本が社会基盤を整備し、その利用料によって投資を回収するという、極めて近代的な官民連携事業が、徳川幕府の公認のもとで始動することとなった。

そして、この計画が動き出したまさに同年、高瀬川の歴史を語る上で欠かせない、もう一つの重要な出来事が起こる。開削工事が始まった三条河原付近で、作業員たちが偶然にも古びた塚を発見したのである 16 。それは、16年前の文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の勘気に触れて高野山で自刃させられた関白・豊臣秀次と、その妻子ら三十数名が処刑され、遺骸がまとめて葬られた場所であった。塚には「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が立ち、無惨に荒れ果てていたという 21

この悲劇の跡を目の当たりにした了以は、深く心を痛め、私財を投じて塚を整備し、菩提を弔うために一寺を建立することを決意する。これが瑞泉寺の創建である 11 。この寺の建立は、慶長16年に行われた 14

了以のこの行動は、単なる慈悲心の発露と見るだけでは、その本質を見誤るかもしれない。高瀬川開削は、徳川幕府の許可を得て進められる事業であり、豊臣恩顧の大名や旧臣たちからは、徳川の支配を強化する利敵行為と見なされる危険性を孕んでいた。そのような状況下で、豊臣政権の悲劇の象徴である秀次を手厚く弔うという行為は、「自分は決して徳川一辺倒の人間ではない」というメッセージを内外に発信する効果があった。徳川の威を借りて事業を進めながらも、豊臣への配慮を形にすることで、事業遂行上の政治的リスクを巧みに回避しようとする、了以の卓越した政治感覚とバランス感覚が窺えるエピソードである。

第四章:大地を穿つ-開削工事の軌跡(1611年~1614年)

慶長16年(1611年)の着工から、慶長19年(1614年)の完成まで、高瀬川の開削工事は約3年の歳月を要した 20 。これは、単に大地を掘り進めるだけでなく、当時の最先端土木技術と、運用までを見据えた緻密な設計思想が結集した、一大プロジェクトであった。

ルートと規模

計画された運河は、全長約10km、川幅約7mに及ぶ壮大なものであった 5 。そのルートは、まず京都の中心部、二条大橋の西詰で鴨川(みそそぎ川)から水を取り入れる 13 。そこから、後に木屋町通と呼ばれることになる鴨川西岸の道に沿って南下し、十条通の付近で一度鴨川と合流、あるいは横断する形で東岸へ渡り、さらに南下して伏見の港で宇治川(淀川水系)へと接続する計画であった 4 。これにより、大坂湾から淀川を遡ってきた物資が、京都の中心部まで途切れることなく舟で運ばれる水の大動脈が誕生することになる。

技術的特徴と思想

高瀬川の設計には、角倉了以の合理的かつ革新的な思想が随所に見て取れる。それは、運河という「ハードウェア」だけでなく、そこで使われる舟や運用システムといった「ソフトウェア」までを一体で設計する、総合的な物流システム構築の思想であった。

浅水設計と高瀬舟

最も特徴的なのは、運河の水深が意図的に約30cmと極めて浅く設計された点である 4 。これは、大規模な掘削工事を避けることで工期と費用を大幅に削減するための工夫であった。そして、この浅い水路を航行するために、専用の舟として「高瀬舟」が用いられた 4 。高瀬舟は、船底が平らで喫水(水面下の船体の深さ)が浅く、浅瀬での航行に特化した構造を持っていた 16 。運河の設計と、そこで運用される輸送手段が、はじめから一体のものとして考案されていたのである。

船入(ふないり)の計画的配置

狭い運河での効率的な荷役と舟の方向転換を可能にするため、了以は運河から直角に掘り込まれた船着場である「船入(ふないり)」を計画的に配置した。特に物流の起点となる二条から四条にかけての区間には、9箇所もの船入が設けられた 16 。荷物の積み下ろしを行うための港湾機能と、舟がUターンするためのターミナル機能を兼ね備えたこれらの施設は、運河の円滑なオペレーションに不可欠であった。現在、その姿を唯一留める「一之舟入」は、国の史跡に指定され、当時の様子を今に伝えている 21

水位調整の工夫

高瀬川の水源は鴨川であり、その水量は必ずしも常に豊富ではなかった。水量が不足すれば、たとえ高瀬舟であっても航行は困難になる。この問題に対処するため、川底には「水の堰き止め石」と呼ばれる仕組みが設けられた 16 。これは、川を横切るように3つの石柱を立て、その溝に木の板をはめ込むことで簡易的な堰(せき)を造り、水位を人為的に上昇させるための装置であった 20 。この微細な水量管理技術は、運河の安定運用を支える生命線であった。

環境と防災への配慮

了以の設計思想は、周辺環境への配慮にも及んでいた。大雨などで運河の水位が危険なレベルまで上昇した際に、余剰な水を速やかに鴨川本体へ逃がすための排水路(悪水抜溝)を無数に設けていたのである 12 。これは、運河が氾濫して周辺地域に被害を及ぼすことを防ぐための、優れた防災設計であった。

この一大工事には多くの労働者が動員された。そして運河が完成すると、船頭や、岸辺から綱で舟を引いて遡上させる「曳き子(ひきこ)」といった新たな職業が生まれた 4 。最盛期には約700人もの曳き子がいたとされ、彼らの存在もまた、高瀬川がもたらした社会の変化の一つであった 16

第五章:奔流する富-高瀬川が変えた京都の経済

慶長19年(1614年)に高瀬川が全通すると、京都の経済と社会構造は、まさに革命的とも言える変貌を遂げた。この細い運河は、都市の隅々にまで富と活力を送り込む、新たな大動脈となったのである。

物流革命と経済効果

高瀬川開削がもたらした最大の功績は、物流コストの劇的な削減であった。それまで京都の物資輸送は、主に陸路を人や馬に頼っており、非効率かつ高コストであった 19 。しかし高瀬川の完成により、大坂から淀川を遡ってきた三十石船の荷物は、伏見の港で高瀬舟に積み替えられ、京都の中心部まで直接、大量に、そして安価に輸送できるようになった 4

特に、米、薪、材木といった生活必需品や建築資材の価格は大幅に下落し、安定供給が可能となった 19 。これは、庶民の生活を豊かにしただけでなく、京都における様々な産業の発展を力強く後押しした。

木屋町の誕生と繁栄

高瀬川は、新たな商業エリアをも生み出した。開削以前は「樵木町通(こりきちょうどおり)」と呼ばれる、人が一人ようやく通れるほどの小道に過ぎなかった運河沿いの土地は、物流の結節点として急速に発展した 16

運河で運ばれてきた材木を扱う問屋や材木商が軒を連ねるようになり、いつしかこの通りは「木屋町通」と呼ばれるようになった 16 。やがて、材木だけでなく、石材、米、塩など、様々な商品を扱う商人が集積し、活気あふれる商業地帯が形成された 5 。現在でも、材木町、石屋町、米屋町、船頭町といった町名が残り、高瀬川の水運がこの地域の成り立ちに深く関わっていたことを物語っている 16 。江戸中期以降、この経済的繁栄を背景に、木屋町は茶屋や料亭が立ち並ぶ京都随一の歓楽街へと姿を変えていくことになる 4

角倉家の収益モデルと運行実態

この物流革命の最大の受益者は、事業主である角倉家であった。了以は、運河の通行料として船一艘あたり一回2貫500文の船賃を徴収した 19 。その内訳は、幕府への上納金が1貫文、舟の維持管理費が250文、そして角倉家の純収益が1貫250文であったという 19

この収益は莫大なもので、角倉家には年間1万両を超える利益がもたらされ、わずか数年で巨額の初期投資を回収したと伝えられている 9 。最盛期には約200隻もの高瀬舟が就航し 4 、京都と伏見の間を絶え間なく往来した。運行効率を高めるため、午前中は伏見から京へ向かう上り便、午後は京から伏見へ向かう下り便という一方通行のダイヤが組まれていた 4 。流れに逆らう上り便は、岸辺の道から曳き子たちが「ホーイ、ホイ」という独特の掛け声とともに綱で舟を引く光景が、江戸時代の京都名物の一つとして絵図にも描かれている 4

以下の表は、高瀬川開削がもたらした経済的インパクトをまとめたものである。この一つの事業が、輸送、物価、産業、財政、雇用といった多岐にわたる側面に、いかに構造的な変化を引き起こしたかを示している。

項目

開削前の状況

開削後の変化・効果

根拠・考察

輸送手段

人馬による陸送が主体

高瀬舟による水運が主流となる

圧倒的な輸送効率と積載量を実現 4

輸送コスト

高コストかつ非効率

劇的に削減され、物流が安定化

船賃を払っても陸送より採算が合った 19

主要物資の価格

高価で供給が不安定

安価で安定的に供給されるようになる

米、薪、材木などの価格が下落し、市民生活と産業を支えた 19

商業中心地

既存の市街地(上京・下京)

高瀬川沿いに「木屋町」という新興商業エリアが誕生・発展

物流の結節点に産業が集積する典型例 5

角倉家の収益

金融業、朱印船貿易が主

運河の船賃収入という安定的なインフラ収益が加わる

年間1万両を超える莫大な利益を上げ、政商としての地位を確立 9

雇用

既存の陸上運送業者

船頭、曳き子といった水運関連の新たな雇用が創出される

最盛期には700人もの曳き子がいた 16 。一方で旧来の運送業者は打撃を受けた 19

幕府の歳入

当該地域からの直接歳入は限定的

船賃の一部が運上金として納められ、新たな税収源となる

幕府は財政負担なくして利益を得ることに成功 5

第六章:動乱の影で-大坂の陣と高瀬川

高瀬川が完成した慶長19年(1614年)は、日本の歴史が大きく動いた年でもあった。徳川と豊臣、二つの巨大権力の対立が遂に頂点に達し、戦国時代の最後を飾る大戦「大坂の陣」が勃発したのである。そして、この動乱の口実となったのが、皮肉にも高瀬川開削のきっかけであった方広寺を巡る「鐘銘事件」であった。

鐘銘事件と時代の奔流

高瀬川の全通とほぼ時を同じくして、再建された方広寺大仏殿の梵鐘が完成した。しかし、その鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句が徳川方の怒りを買うことになる 7 。「国家安康」は「家康」の名を二つに分断し、「君臣豊楽」は「豊臣」を君主として楽しむと読め、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願うものだ、というのが徳川方の言い分であった 33

これが家康による豊臣家滅亡のための言いがかりであったことは広く知られているが、近年の研究では、当時の武家社会の慣習として、主君の諱(いみな、実名)を許可なく文章に用いることは大変な非礼にあたる「避諱(ひき)」という考え方があり、豊臣側の対応にも脇の甘さがあったという指摘もなされている 34 。真相はどうあれ、この事件をきっかけに両者の関係は決定的に破綻し、同年10月、徳川方は大坂城への攻撃を開始する(大坂冬の陣)。

兵站インフラとしての高瀬川

この戦国最後の決戦において、角倉了以は明確に徳川方として行動した。彼は徳川家康に従い、兵器や食糧といった軍事物資の調達と輸送、すなわち兵站の確保に尽力したのである 11 。この功績により、了以は単なる豪商から、幕府の信認を得た「政商」としての地位を不動のものとした 11

この兵站輸送において、完成したばかりの高瀬川が活用されたことは想像に難くない。伏見は淀川水運の要衝であり、大坂方面からの物資が集積する拠点であった。そこから京都の二条城周辺、あるいは前線へと物資を迅速かつ大量に輸送する上で、高瀬川は最も効率的なルートであった。

ここに、高瀬川というインフラが持つ二重性が見て取れる。平時においては、それは京都の経済を潤す「商流のインフラ」であった。しかし、ひとたび有事となれば、軍事物資を前線に送り込む「兵站のインフラ」へと即座にその姿を変える、極めて戦略的な価値を持つ存在でもあった。了以は、自らが創出したこのインフラの価値を誰よりも理解していたはずである。彼が徳川方に与したことは、単なる忠誠心の問題ではなく、新時代の覇者に協力することで、自らの事業の永続的な安泰を確保するための、冷徹かつ合理的な経営判断であったと言えよう。

奇しくも、豊臣家の威信を示すための事業をきっかけに生まれ、豊臣家を滅ぼす戦乱に貢献し、そして徳川三百年の泰平の世の経済基盤となる。高瀬川は、まさに時代の転換点そのものを体現する存在として、その歴史を刻み始めたのである。

終章:三百年の流れと現代への遺産

高瀬川開削という事変は、戦国時代の終焉を告げるとともに、江戸という新たな時代の経済的繁栄の礎を築いた。完成後、この運河は三百有余年にわたり、京都の物流を支える大動脈として機能し続けた 16

三百年の水運史とその終焉

江戸時代を通じて、高瀬川は京都の経済と市民生活に不可欠な存在であり続けた。最盛期には200隻近い高瀬舟が絶え間なく行き交い、川沿いの木屋町は京都屈指の賑わいを見せた 4 。明治維新を迎えると、運河の管理権は角倉家から京都府へと移管されたが 11 、その重要性に変わりはなかった。

しかし、近代化の波は、この古き水運の優位性を徐々に蝕んでいく。明治期以降、全国に鉄道網が敷設されると、大量輸送の主役は舟から汽車へと移っていった。そして大正9年(1920年)、高瀬川舟運はその歴史的役割を終え、開削から306年の歴史に静かに幕を下ろしたのである 4

文化の記憶と『高瀬舟』

高瀬川が運んだのは、物資だけではなかった。伏見稲荷大社への参詣客を乗せることもあれば、遠島(島流し)を申し渡された罪人を大坂の牢屋敷へ護送する舞台ともなった 16 。文豪・森鷗外の不朽の名作『高瀬舟』は、この罪人護送の舟上で交わされる、護送役の同心と弟殺しの罪人との対話を通じて、安楽死や人間の幸福といった深遠なテーマを描き出した 37 。この小説は、高瀬川という場所に、経済的機能とは別の、人間の業や悲哀といった深い文化的イメージを刻み込むことになった。

現代への遺産

運河としての役目を終えた今も、高瀬川は京都の街にかけがえのない遺産を残している。国の史跡である「一之舟入」や、豊臣秀次の悲劇を伝える「瑞泉寺」は、開削当時の記憶を留める貴重な場所である 21 。春には桜並木が川面を彩り、木屋町通の賑わいとともに、古都の歴史的景観を形成している 15 。近年では、京都市による「高瀬川再生プロジェクト」など、その歴史的価値を未来へ継承するための取り組みも進められている 15

高瀬川の物語を振り返るとき、我々はその流れの中に、幾重にも重なった歴史の層を見出すことができる。それは、徳川と豊臣が対峙した戦国末期の政治的緊張、角倉了以という一人の民間人が国家レベルのインフラを創出した企業家精神、江戸時代の経済的繁栄を謳歌した町衆の活力、罪人たちの悲哀を乗せて流れた陰の歴史、そして近代化の波による衰退と、現代における歴史的景観としての再生。高瀬川の現在の姿は、これら異なる時代の記憶が幾重にも焼き付けられた「歴史の多重露光フィルム」のようである。

角倉了以という個人のビジョンと資本が、京都という都市の運命を大きく変え、新たな時代を切り拓いた高瀬川開削の事実は、現代の我々に対しても、民間活力が持つ可能性や、都市とインフラのあり方を考える上で、多くの示唆を与え続けている 40 。木屋町の喧騒の中を静かに流れるその水面は、四百年の時を超え、今なお雄弁に歴史を語りかけているのである。

引用文献

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  26. 【高瀬川】江戸時代初期の豪商、角倉了以と素庵親子によって開削された運河(2025年6月12日) https://www.youtube.com/shorts/Y8Q-_bsyIDc
  27. 高瀬川 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Geography/RiverTakaseGawa.html
  28. 高瀬川一之船入 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ky0409/
  29. 高瀬川一之船入 - 京都観光 https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=184
  30. 納涼床の歴史|京の風物詩 京都鴨川納涼床への誘い https://www.kyoto-yuka.com/about/history.html
  31. 木屋町通の歴史 | LOCATION | 西村花店 Flowers & Words https://florist-westvillage.com/kiyamachi-kyoto/%E6%9C%A8%E5%B1%8B%E7%94%BA%E9%80%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
  32. 方広寺鐘銘事件|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
  33. 鐘銘事件とは?【中学社会】定期テスト対策|ベネッセ教育情報サイト https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00733.html
  34. 大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか - note https://note.com/toubunren/n/n2cb11cc94483
  35. あの「国家安康」の銘で家康の名が入ったのは偶然ではない…大坂冬の陣の契機となった方広寺鐘銘事件の真相 豊臣方に落ち度があり徳川方の難癖とは言えない - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76134?page=1
  36. 高瀬川再生プロジェクト - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000272260.html
  37. 君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第5話 高瀬川開削の巻 https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E5%90%9B%E3%81%AF%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5%E3%83%BB%E7%B4%A0%E5%BA%B5%E8%A6%AA%E5%AD%90%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%8B%EF%BC%9F%E7%AC%AC%EF%BC%95%E8%A9%B1
  38. 森鴎外「高瀬舟」|作品に登場する語彙の解説 - 劇団のの https://gekidannono.com/wp/archives/13550
  39. 高瀬舟のお話 | TSC テレビせとうち(岡山・香川・地上デジタル7チャンネル) https://www.webtsc.com/blog/14809/
  40. 日本の河川技術の基礎をつくった人々・略史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu11.html
  41. 1 経済成長とインフラ整備の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h27/hakusho/h28/html/n1121000.html