高田城築城(1614)
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慶長十九年の激震:高田城築城―天下統一最終章、徳川家康の深謀
序章:大坂前夜―天下静謐の裏に潜む嵐
慶長19年(1614年)。関ヶ原の戦いから14年の歳月が流れ、徳川家康による治世は盤石の域に達したかに見えた。しかし、天下は未だ完全な静謐を得てはいなかった。大坂城には豊臣秀頼が依然として巨万の富とともに存在し、その求心力は西国大名や浪人衆の間に深く根を張っていた。江戸と大坂、二つの権威が並び立つこの「二都」状態は、徳川幕府にとって看過し得ぬ脅威であり続けた。この年、方広寺鐘銘事件が勃発すると、徳川と豊臣の間に漂っていた不穏な空気は一気に凝縮し、最終対決が不可避であることは誰の目にも明らかとなった 1 。
まさにこの一触即発の緊張下で断行されたのが、越後の地における高田城の築城である。表向きは家康の六男・松平忠輝のための新城建設という体裁をとっていたが、その本質は、来るべき「大坂の陣」という国家規模の動乱を見据えた、徳川家康による壮大なグランドデザインの一環であった 2 。それは、単なる一地方大名の居城建設に留まらず、豊臣方を物理的、経済的、そして心理的に追い詰めるための戦略的布石であり、戦国時代の最終幕を飾るための計算され尽くした一手だったのである。
この築城計画は、家康の老練な政治手法を象徴するものであった。発端は、忠輝が居城である福島城の狭小さに不満を抱き、母である側室・阿茶局を通じて父・家康に新城建設を願い出たという、極めて個人的な動機にあるとされている 4 。しかし、家康はこの息子の願いを、自らの天下統一事業の最終段階を仕上げるための絶好の「大義名分」として利用した。対前田・上杉という外様大名の牽制、豊臣恩顧の大名に対する経済的圧力、そして幕府の生命線である佐渡金山の支配強化といった、極めて高度な戦略目的を、「息子のための城造り」という私的な衣で巧みに包み込んだのである 2 。これにより、家康は敵意を露わにすることなく、北国の要衝に巨大な軍事拠点を築き、潜在的な敵対勢力を含む諸大名を動員するという、極めて政治的な事業を正当化することに成功した。高田城築城とは、戦国的な謀略が、より洗練された幕藩体制下の政治的駆け引きへと昇華した瞬間を切り取った歴史的事件であった。
第一章:越後の戦略拠点―なぜ「高田」でなければならなかったのか
高田城が築かれた越後の地は、戦国時代を通じて戦略的に極めて重要な意味を持ち続けてきた。その支配拠点の変遷は、そのまま時代の権力者の動向を映し出す鏡であった。
越後支配拠点の変遷
かつてこの地は、戦国の雄・上杉謙信が本拠とした春日山城を中心に支配されていた 1 。しかし、関ヶ原の戦いを経て上杉景勝が会津へ転封されると、越前北ノ庄から堀秀治が入封。堀氏は春日山城を廃し、より平野部に近い直江津に福島城を築いて新たな支配拠点とした 3 。だが、この福島城は関川と日本海に挟まれた立地ゆえに、河川の氾濫や高波による被害に絶えず悩まされるという地理的脆弱性を抱えていた 7 。
慶長15年(1610年)、堀氏がお家騒動(越後福嶋騒動)により改易されると、家康は六男・松平忠輝を信濃川中島から移し、越後一国と信濃川中島四郡を合わせた75万石ともいわれる太守として福島城に入城させた 1 。これは、徳川の親藩を北陸道の入り口に配置するという明確な戦略的意図に基づくものであった。
「高田」の地政学的優位性
忠輝が入封して4年後、新たな築城の地として選ばれたのが、福島城から内陸へ入った菩提ヶ原、後の高田であった。この選地には、単に水害を避けるという消極的な理由だけでなく、徳川の天下支配を完成させるための、多岐にわたる積極的な戦略的意図が込められていた。
第一に、対外様大名戦略の要衝であった点である。高田の地は、北に目を向ければ出羽米沢30万石の上杉家、西に睨みを利かせれば加賀金沢120万石の前田家という、豊臣恩顧の二大外様大名を同時に監視・牽制する絶好の位置にあった 2 。特に前田家は、豊臣家との縁も深く、その動向は幕府にとって最大の懸念材料の一つであった。高田に徳川一門の巨大な城郭を置くことは、これら潜在的脅威となりうる勢力に強力な楔を打ち込み、江戸からの圧力を直接的に及ぼすことを可能にした。
第二に、経済・交通戦略上の重要性である。高田は北国街道が通過する交通の要衝であり、日本海海運の結節点でもあった 10 。さらに重要だったのは、幕府の財政を支える佐渡金山との関係である。佐渡から産出される金銀を安全かつ迅速に江戸へ輸送するルートを確保し、その支配を強化することは、来るべき大坂の陣の軍資金を担保する上でも死活的に重要であった 2 。
このように、高田城の選地は、単に越後という「点」を支配するに留まらず、江戸から北陸道・奥州街道を経由して日本海に至る支配の「線」を確立し、そのネットワークを盤石にするための最重要結節点として構想されたものであった。軍事、経済、交通のあらゆる側面から見て、高田への新城建設は、徳川の天下支配を完成させるための必然的な一手だったのである。忠輝が「波の音がうるさくて眠れない」と我儘を言ったために内陸へ移ったという俗説 8 は、この壮大な国家戦略を覆い隠すための、興味深い逸話に過ぎない。
第二章:天下普請の発令―伊達政宗と十三大名、それぞれの思惑
慶長19年(1614年)、徳川幕府は高田城築城を「国役普請」、すなわち天下普請として行うことを正式に発令した 2 。これは、幕府がその権威をもって諸大名に大規模な土木工事への参加を命じるものであり、各大名の財力と労働力を幕府の事業に動員させると同時に、徳川への服従の意思を天下に示す「踏み絵」としての意味合いを強く持っていた 12 。
総裁・伊達政宗の起用という絶妙な一手
この一大事業の総責任者(総裁)として白羽の矢が立ったのは、仙台62万石の藩主、「独眼竜」伊達政宗であった 3 。彼は城主となる松平忠輝の舅(妻・五郎八姫の父)であり、この人選は一見すると自然なものに映る 16 。しかし、その裏には家康の深謀遠慮があった。天下への野心を隠さない政宗を、徳川のための国家事業の責任者に据えることは、まさに「毒をもって毒を制す」という高度な政治戦略であった。
この起用には複数の狙いが含まれていた。第一に、政宗の忠誠心を試す絶好の機会であった。この大事業を期限内に成功させれば、政宗は徳川への恭順を天下に示すことになり、失敗や遅延は許されない。第二に、政宗が持つ優れた築城家、行政官としての能力を、徳川のために最大限に活用することである 19 。そして第三に、政宗に普請全体の監督を任せることは、参加する他の東北・北陸大名を監視させる役割を担わせることに繋がり、同時に他の大名も政宗の動向を注視するため、相互牽制の状況が生まれる。結果として、政宗の起用は、彼の野心を封じ込め、徳川の支配構造に深く組み込むと同時に、その類稀な能力を最大限に引き出すという、家康ならではの絶妙な人事戦略だったのである。
参加大名の顔ぶれと政治的意図
普請への参加を命じられたのは、政宗を含め13家の大名であった。その顔ぶれは、徳川の政治的意図を如実に物語っている。
高田城 御普請御手伝大名一覧
大名名 |
石高(推定) |
本拠地 |
出自・特記事項 |
典拠 |
伊達 政宗 |
62万石 |
仙台(陸奥) |
外様 / 築城総裁、忠輝の舅 |
1 |
上杉 景勝 |
30万石 |
米沢(出羽) |
外様 / 元五大老、関ヶ原西軍 |
1 |
前田 利常 |
120万石 |
金沢(加賀) |
外様 / 豊臣恩顧の最大大名 |
7 |
蒲生 忠郷 |
60万石 |
会津(陸奥) |
外様 |
20 |
最上 家親 |
57万石 |
山形(出羽) |
外様 |
20 |
佐竹 義宣 |
20.5万石 |
秋田(出羽) |
外様 / 関ヶ原での曖昧な態度で減転封 |
7 |
真田 信之 |
9.5万石 |
松代(信濃) |
外様→譜代格 / 弟・幸村は豊臣方 |
7 |
小笠原 秀政 |
8万石 |
松本(信濃) |
譜代 |
1 |
(その他5名) |
- |
- |
- |
|
この一覧が示すように、動員された大名の多くは、かつて豊臣恩顧であったり、関ヶ原の戦いで徳川に敵対したりした外様大名であった。特に、豊臣恩顧の筆頭格である前田利常と、関ヶ原で西軍の主要メンバーであった上杉景勝を同時に動員したことの意味は大きい 2 。彼らに多額の費用と多大な労力を負担させることで、その経済力を削ぎ、軍事行動を封じ込めるという明確な狙いがあった。また、弟の幸村(信繁)が大坂城に入城することが確実視されていた真田信之に参加を命じたことも 21 、兄弟の間に楔を打ち込み、その忠誠を試す厳しいものであった。
このように高田城の天下普請は、単なる築城工事ではなく、大坂の陣を前にした徳川家康による、周到に計算された政治的・軍事的デモンストレーションだったのである。
第三章:電光石火の四ヶ月―高田城築城、そのリアルタイム全記録
高田城築城において最大の制約は、予算や資材ではなく「時間」であった。慶長19年11月に開戦する大坂冬の陣という絶対的な期限が、設計、工法、動員体制の全てを規定した。この一大事業は、まさに時間との戦いであった。
慶長19年3月15日:着工
春まだ浅い越後・菩提ヶ原に、伊達政宗の号令一下、数万人の人足が集結し、未曾有の突貫工事の幕が切って落とされた 3 。各大名は割り当てられた工区で、威信をかけて作業の進捗を競い合ったであろう。
三月下旬~四月:基礎工事―大地を刻む
普請はまず、城の骨格を大地に刻むことから始まった。政宗が描いた縄張りに基づき、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪の位置が定められると、最優先事項として広大な堀の掘削が開始された。特筆すべきは、この地の地形を最大限に活用した点である。かつて蛇行していた関川の古い流路を巧みに取り込み、巨大な外堀の原型を瞬く間に形成していった 3 。この工法は、新たにゼロから掘削する手間を大幅に省き、驚異的な工期短縮に貢献した。そして、堀から掘り出された膨大な量の土は、捨てることなく、そのまま土塁を築くための貴重な材料として再利用された。効率を極限まで追求した、実に見事な土木工事であった。
五月~六月:本体工事―城、天を衝く
初夏を迎える頃には、菩提ヶ原の風景は一変していた。巨大な土の壁、すなわち土塁が次々と姿を現し、城の輪郭が明確になっていく。石垣を用いない総土塁の構造は、石材の調達、運搬、加工といった時間のかかる工程を一切不要にした。その代わり、人海戦術によって土を運び、版築(はんちく)と呼ばれる工法で幾重にも突き固める作業が、昼夜を問わず続けられた。
並行して、本丸御殿や各所に設けられる櫓、城門といった作事(建築工事)も急ピッチで進められた。あらかじめ規格化された木材が大量に用意され、熟練の大工集団によって驚異的なスピードで組み上げられていったと考えられる。この時期、遠く大坂では豊臣方が各地の浪人を集め、軍備を増強しているとの報が、普請現場にも伝わっていたはずである。その報は、作業に従事する者たちに、自らが国家の存亡を賭けた大事業の一翼を担っているのだという、強烈な緊張感と使命感を与えたに違いない。
慶長19年7月上旬:竣工―北国の牙城、誕生す
そして、着工からわずか4ヶ月弱。外堀を含めると総面積60ヘクタール(東京ドーム約13個分)を超える壮大な城郭が、驚くべきことにほぼ完成した 3 。同年7月、城主・松平忠輝は手狭な福島城を廃し、完成したばかりの高田城へ正式に入城した 7 。ここに、越後の新たな支配拠点として、そして徳川の北国における最大の牙城として、高田城は歴史の舞台にその姿を現したのである。この電光石火の築城は、徳川幕府の絶大な権力と動員力、そして伊達政宗の卓越した統率力の賜物であった。
第四章:城郭の解剖―「石垣なき巨城」の思想と機能
高田城は、同時代に築かれた他の近世城郭とは一線を画す、極めてユニークな特徴を備えている。その構造は、築城が置かれた特殊な状況と、伊達政宗の現実主義的な設計思想を色濃く反映したものであった。
高田城の二大特徴:天守と石垣の不在
高田城を理解する上で鍵となるのは、二つの「不在」である。
第一に、天守閣の不在。近世城郭において権威の象徴とされた天守閣は、計画当初から建設されなかった 18。その代わりとして、本丸の南西隅に建てられた三重櫓が、事実上のシンボルとして機能した 2。
第二に、 石垣の不在 。城の防御と威容を誇示する石垣が、この城にはほぼ全く用いられていない。本丸、二の丸、三の丸といった全ての曲輪は、石ではなく、高く険しい土塁によって囲まれている 10 。60万石を超える大名の居城としては、異例の構造であった 6 。
「土の城」である理由の多角的分析
なぜ高田城は、石ではなく土で造られたのか。その理由は複合的であり、多角的な分析を要する。
- 時間的制約 : これが最大の理由である。目前に迫る大坂の陣に間に合わせるため、石材の調達、輸送、加工作業といった膨大な時間を要する工程を完全に省略する必要があった 2 。
- 地理的制約 : 築城地周辺には、石垣に適した良質な石材を大量に産出する石切場が存在しなかった 2 。
- 地盤の問題 : 築城地である菩提ヶ原は、関川が形成した低湿地の軟弱地盤であった。そのため、石垣のような重量構造物を支えることが困難であると判断された可能性が指摘されている 6 。
- 軍事思想の変化 : 当時、攻城兵器として大砲が普及し始めていた。衝撃で崩壊しやすい石垣よりも、砲弾のエネルギーを柔軟に吸収する土塁の方が防御上有利であるという、新しい軍事思想が設計に影響を与えた可能性も考えられる 6 。
これらの理由から、高田城は「未完成の城」なのではなく、「与えられた時間と条件下で最大の防御効果を発揮するよう、合理的に設計された目的特化型の城」であったと結論付けられる。
縄張りの妙―水と土の要塞
総裁・伊達政宗の築城術は、自身の居城である仙台城で見られるような壮麗な石垣だけが特徴ではない。高田城の設計は、現地の地理的条件と「4ヶ月」という絶対的な制約の中で、最大の防御力を引き出すという、極めて実用的(プラグマティック)な思想に貫かれている。
政宗の縄張りは、石垣に頼らない分、水と土の防御力を極限まで高めることに主眼が置かれていた。関川の自然堤防や旧河道といった自然地形を巧みに利用し、広大で多重な水堀を城の周囲に巡らせた 3 。特に本丸を囲む内堀は、断面がV字型に深く掘られた「薬研堀(やげんぼり)」と呼ばれる構造で、一度落ちれば容易にはい上がることができず、敵兵の侵入を効果的に阻んだ 22 。
さらに、その防御思想は城郭内だけに留まらなかった。城下町全体が、東の関川、南の矢代川と新たに掘削された百間堀、西の青田川などによって囲まれ、城郭と町が一体となった「総構え」の構造を成していた 11 。高田城は、石垣という一点集中の防御ではなく、広大な水網と土塁群による面的な防御システムを構築した、先進的な要塞だったのである。これは、理想の城を押し付けるのではなく、与えられた条件の中で最適解を導き出した、戦国を生き抜いた政宗ならではの現実主義の表れと言える。
第五章:束の間の城主―松平忠輝、栄光と悲劇の二年
高田城の完成は、城主・松平忠輝にとって栄光の絶頂であった。しかし、その栄華はあまりにも短く、巨大な城は彼の運命を悲劇へと導く舞台となってしまった。
栄光と運命の暗転
慶長19年(1614年)7月、忠輝は75万石の大名として、完成したばかりの壮大な高田城に入城した。その権勢は徳川一門の中でも際立っており、輝かしい未来が約束されているかに見えた 1 。しかし、高田城完成のわずか数ヶ月後、大坂冬の陣が勃発。翌年の夏の陣において、忠輝の運命は暗転する。彼は大坂への参陣に遅参し、さらに道中において将軍秀忠直属の旗本を斬り捨てるという軍規違反を犯したとされている 8 。これらの不行跡は、父・家康の逆鱗に触れ、勘当を言い渡されるに至った。
元和2年(1616年)7月:改易
同年4月に家康がこの世を去ると、兄である二代将軍・徳川秀忠は、待っていたかのように忠輝に対して改易、すなわち領地没収と大名の身分剥奪という最も厳しい処分を断行した 7 。高田城主としての生活は、わずか二年で終わりを告げたのである。
公式な改易理由は、大坂の陣における軍規違反や素行不良とされている 8 。しかし、その背景には、より複雑で根深い政治的な力学が働いていた。忠輝にとって、高田城は栄光の象徴であると同時に、彼の破滅を招いた「諸刃の剣」であった。
城の壮大さ、75万石という破格の石高、そして舅である伊達政宗という強力な後ろ盾。これら全てが、慎重な性格であった将軍秀忠の猜疑心を増幅させる要因となった。家康という絶対的な権力者が不在となった今、秀忠は自らの政権基盤を磐石にする必要があった。その過程において、数々の不行跡という口実があり、かつ潜在的な脅威と見なされた弟・忠輝は、体制安定のための格好の「生贄」となったのである 8 。
忠輝自身も、武芸や兵法に優れ、キリスト教や海外貿易にも理解を示すなど、国際感覚豊かな人物であったと伝わる 28 。しかし、その型にはまらない豪放な気質は、確立されつつあった幕府の厳格な秩序とは相容れないものであったのかもしれない 29 。
皮肉なことに、父・家康が彼に与えた最大の栄光の証(高田城)が、兄・秀忠が彼を排除するための最大の口実となってしまった。もし忠輝の城が、福島城のような小規模なものであり続けたら、彼の運命は変わっていた可能性も否定できない。城主の座を追われた忠輝は、その後、伊勢、飛騨、信濃と各地を転々とさせられ、92歳でその波乱の生涯を閉じるまで、二度と大名に返り咲くことはなかった 30 。
結論:戦国の終焉を告げた城
慶長19年(1614年)の高田城築城は、単なる城郭建築の記録に留まらない、日本の歴史における一つの転換点を象徴する出来事であった。それは、徳川家康が武力(軍事)と権威(政治)を巧みに駆使して天下を完全に掌握する、戦国時代の最終局面を飾る一大事業であった。
この築城は、豊臣家との最終決戦を前に、徳川の支配に抵抗しうる北陸・東北の有力外様大名に対し、その経済力を削ぎ、忠誠を試すという、極めて戦略的な意味を持っていた。伊達政宗を総裁に据え、前田・上杉といった大名を動員した「天下普請」は、もはや徳川に公然と敵対する勢力が存在しないことを天下に示威する、壮大な政治的パフォーマンスであった。それは、武力による抗争の時代が終わりを告げ、幕府の権威による秩序の時代が到来したことを意味していた。
城主・松平忠輝の悲劇的な運命は、この新しい時代の厳しさをも物語っている。彼が追放された後、高田城には酒井氏、松平氏、稲葉氏、榊原氏といった譜代大名が頻繁に入れ替わりながら入封し、徳川幕府の北国支配の拠点として、また参勤交代の中継地として、江戸時代の泰平を支える役割を担い続けた 6 。
明治維新後、高田城は廃城令によりその役目を終え、多くの建物が取り壊された。跡地は陸軍第13師団の駐屯地として利用され、その際に二の丸や三の丸の土塁が撤去されるなど、城の姿は大きく変えられた 17 。しかし、戦後は高田城址公園として整備され、市民の憩いの場として新たな歴史を歩み始めた 5 。
今日、往時の姿を偲ばせる広大な水堀と本丸の土塁、そして平成5年(1993年)に市民の熱意によって復元された三重櫓 32 は、訪れる人々に静かに歴史を語りかける。かつて兵士たちの鬨の声が響いたであろう場所は、今や日本三大夜桜の名所として知られ 17 、夏には堀を埋め尽くす蓮が人々を魅了する 5 。高田城は、戦国の終焉と江戸の泰平の幕開けを告げた、歴史の転換点に立つ記念碑として、その地に静かに佇んでいるのである。
引用文献
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- 逆境に立ち向いし男が、高田のまちを創った。「鬼っ子」と呼ばれた孤高のヒーロー・高田藩初代藩主「松平忠輝公」。君もこの男を知るべし! - 上越青年会議所 https://joetsujc.com/tadateru/densetsu.htm
- 家康の息子なのに「大坂夏の陣」に遅刻!兄の家臣を斬殺!徳川家で嫌われた“残念な殿様”は? https://diamond.jp/articles/-/337727
- 松平忠輝 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/localculture/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D/
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- 高田城(Takada-Castle) - 城絵巻 https://castle.toranoshoko.com/castle-takada/
- 上越市 - 出世の街 浜松|ゆかりの地めぐり https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/yukari/detail.html?p=493
- 続日本100名城 高田城 - お城ファンクラブ https://oshirofan.club/132-takadajou.html
- 高田城の桜や再建された三重櫓、極楽橋などの見どころを紹介! https://okaneosiroblog.com/niigata-takada-castle/
- 高田城址公園 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=20