高野山寺領安堵(1585)
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天正十三年 高野山寺領安堵の真相:秀吉の天下布武と聖山の選択
序章:天下人の視線、紀伊へ
天正13年(1585年)、春。日本の歴史が大きく動こうとしていたこの年、事実上の天下人としてその地位を固めつつあった羽柴秀吉の視線は、紀伊国へと注がれていた。前年の天正12年(1584年)に繰り広げられた小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康という最大のライバルと和睦を結んだ秀吉は、もはや国内に単独で彼に対抗しうる勢力を残してはいなかった 1 。しかし、その支配は未だ盤石とは言えず、西国に目を向ければ四国の長宗我部元親、九州の島津義久といった強大な大名が依然として独立を保っており、天下統一事業はまさに道半ばであった 2 。この壮大な構想を完遂するため、秀吉は次なる一手として紀伊国の平定を選択する。それは単なる地方の制圧に留まらない、極めて高度な戦略的判断に基づく必然の選択であった。
紀伊国が「次なる標的」となった背景には、複数の戦略的要因が複雑に絡み合っていた。第一に、地政学的な重要性である。紀伊半島は、秀吉の本拠地である大坂の喉元に突き付けられた刃であった。これから本格化させる四国、そして九州への大規模な遠征を考えた場合、その後背地である紀伊の安全確保は絶対条件であった 2 。もし紀伊の勢力が秀吉軍の背後を脅かすようなことがあれば、天下統一の計画そのものが頓挫しかねない。したがって、紀州征伐は全国制覇に向けた不可欠な布石としての意味を持っていたのである。
第二に、政治的な意図である。小牧・長久手の戦いの際、紀伊の根来衆・雑賀衆は家康と連携し、和泉国に出兵して秀吉の足元を脅かすという挙に出た 1 。これは秀吉にとって許しがたい「裏切り」行為であり、天下人の権威に逆らう者は決して容赦しないという断固たる意志を、全国の諸大名に示すための政治的示威行為としての側面が強かった。
しかし、秀吉が紀伊に向けた視線の奥には、より根源的な問題意識が存在した。紀伊という土地の特異性である。この地は、特定の統一権力に服することを良しとしない、中世以来の独立と自律の気風が色濃く残る地域であった。真言宗の巨大寺院である根来寺、粉河寺、そして高野山といった寺社勢力、さらには地侍たちが強固に結束した雑賀衆に代表される「惣国一揆」の伝統が根付き、彼らは独自の論理で行動していた 2 。加えて、彼らは当代最新鋭の兵器である鉄砲を大量に保有し、その生産拠点さえ有していた 5 。その軍事力は、単なる一揆勢力とは一線を画す、無視できない脅威であった 1 。
秀吉が構想していたのは、天下人を頂点とする強力な中央集権国家であった。その構想と、紀伊に根付く自律的な地域勢力の存在、そしてその背景にある思想は、根本的に相容れないものであった 4 。したがって、紀州征伐は単なる軍事行動ではなく、秀吉が築こうとする「新秩序」と、それに抗う「旧秩序」とのイデオロギー闘争という性格を帯びていた。秀吉がこの征伐に10万という、紀州勢の兵力を遥かに凌駕する大軍を動員した理由はここにある 8 。それは単に勝利するためではなく、抵抗がいかに無意味であるかを天下に示す「圧倒的な力の差」を誇示し、他の潜在的な反抗勢力への強烈な警告とするためであった 2 。紀州征伐は、秀吉がこれから全国規模で展開していく惣無事令や太閤検地といった新政策の受容を、最も強固に拒絶する勢力に対し、武力と権威をもって強制する「モデルケース」となる運命にあったのである。
第一部:炎上する聖域 ― 紀州征伐のリアルタイム・クロニクル
秀吉の壮大な国家構想を実現するための第一歩として開始された紀州征伐は、戦国時代の終焉を象徴するかの如く、圧倒的な速度と破壊力をもって進行した。そのリアルタイムの様相は、高野山に絶望的な恐怖をもたらすに十分なものであった。
第一章:軍勢、南へ
天正13年(1585年)3月、秀吉は甥の羽柴秀次を総大将格に据え、総勢10万とも言われる大軍を編成、本拠地大坂城から南下を開始した 3 。その進軍は、旧来の戦国大名の常識を覆す物量と速度を伴っていた 2 。
3月21日、秀吉本隊は紀伊との国境に近い和泉国の岸和田城に着陣 3 。時を同じくして、秀次率いる先鋒部隊は、紀州勢が防衛拠点としていた和泉南部の諸城砦群―沢城、積善寺城、千石堀城など―への攻撃を開始した 4 。紀州勢はこれらの城砦に兵を配置して果敢に迎撃を試みたが、十倍以上とも言われる秀吉軍の圧倒的な兵力の前に、なすすべもなかった 4 。城砦は次々と各個撃破され、紀州への入り口は瞬く間に開かれたのである。
第二章:根来寺、灰燼に帰す
和泉南部を完全に制圧した秀吉軍は、いよいよ紀伊国の中核へとその矛先を向けた。その最初の標的となったのが、数千の僧兵を擁し、紀伊における最大級の武装勢力であった根来寺であった。
3月23日、秀吉は岸和田城を発し、根来寺へと進軍する 3 。しかし、この時、根来寺の主力部隊は、先の和泉方面での防衛戦に出払っており、寺内はほぼ無防備な状態であった 4 。秀吉軍の接近を知った寺に残っていた僧侶たちは、戦わずして四散した。抵抗らしい抵抗もなく、巨大な宗教都市は秀吉軍の手に落ちたのである。
その夜、根来寺から火の手が上がった。炎は瞬く間に燃え広がり、壮麗を極めた大伝法堂をはじめとする数多の伽藍を飲み込んでいった。国宝である大塔(多宝塔)など、一部の建物を残して、寺は灰燼に帰した 4 。この出火が秀吉軍による計画的な焼き討ちであったのか、あるいは内部の者が放った火であったのかについては諸説あるが、その結果は同じであった。貝塚からもその炎が見えたと伝えられるほどの凄惨な光景は、紀伊全土を震撼させた 11 。さらに同日、同じく紀北の有力寺院であった粉河寺も炎上し、紀伊を代表する二大寺社勢力は、わずか一日にして壊滅した 9 。
この根来寺の壊滅は、単なる軍事目標の排除に留まらなかった。それは、高野山に対する極めて巧妙かつ冷徹な「心理戦」であった。秀吉は、同じ真言宗の巨大寺院を無慈悲に破壊し尽くすことで、「次は貴殿らの番だ」という無言の恫喝を高野山に突きつけたのである。織田信長による比叡山焼き討ちという悪夢が、現実のものとして高野山の僧侶たちに迫っていた 8 。根来寺から立ち上る黒煙は、高野山を照らし出す警告の狼煙に他ならなかった。この恐怖は、高野山内部の結束を乱し、正常な意思決定能力を麻痺させる上で、恐るべき効果を発揮することになる。
根来寺を制圧した後、秀吉軍は西進して雑賀荘へと進撃し、抵抗を続ける太田城の攻略へと移行していく 9 。紀州平定が着々と進む中、高野山は存亡の淵に立たされた。
【表1:紀州征伐主要行動年表(天正13年3月21日~4月22日)】
日付 |
秀吉軍の動向 |
紀州勢の動向・結果 |
備考(高野山への影響など) |
3月21日 |
秀吉本隊、岸和田城に着陣。先鋒部隊が和泉南部の諸城(沢城、千石堀城など)を攻撃開始 3 。 |
泉南諸城に配置された部隊が迎撃するも、圧倒的兵力差の前に敗走・壊滅 4 。 |
秀吉軍の圧倒的な戦力が誇示され、高野山にも緊張が走る。 |
3月23日 |
和泉を制圧し、根来寺へ進軍。ほぼ無抵抗で制圧 4 。同日、粉河寺も制圧。 |
根来寺・粉河寺が炎上し、壊滅的な被害を受ける 10 。主力は既に和泉で消耗。 |
同じ真言宗の巨大寺院の壊滅は、高野山に絶望的な恐怖と衝撃を与える。 |
3月24日以降 |
雑賀荘へ進撃。抵抗拠点である太田城の包囲を開始 13 。 |
雑賀衆の一部は太田城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せる 9 。 |
秀吉の標的が雑賀衆に移るも、高野山への圧力は継続。 |
4月10日 |
宮郷に在陣中の秀吉、高野山へ使者を派遣し、降伏を勧告 3 。 |
- |
高野山に対し、降伏か、根来寺と同様の運命を辿るかの最後通牒が突きつけられる。 |
4月16日 |
- |
高野山、木食応其らを使者として派遣し、秀吉の降伏条件を受諾する請文を提出 4 。 |
交渉が妥結し、高野山の存続が事実上決定する。 |
4月22日 |
太田城を水攻めの末、陥落させる 3 。 |
太田城が開城し、雑賀衆の組織的抵抗が終結する。 |
紀州の主要な反抗勢力が完全に鎮圧される。 |
第二部:岐路に立つ高野山 ― 存亡を賭けた一手
外部からの軍事的脅威は、高野山という巨大な宗教組織の内部に深刻な亀裂を生じさせた。千年の歴史を誇る聖山は、未曾有の危機を前にして、その結束を失い、混乱の渦に巻き込まれていく。
第三章:聖山の動揺
根来寺が灰燼に帰したという報は、瞬く間に高野山を駆け巡り、山内をパニックと絶望の淵に突き落とした 8 。同じ真言宗の兄弟寺院とも言える存在が、わずか一日で地上から消え去ったという事実は、秀吉の脅威が単なる噂や誇張ではなく、紛れもない現実であることを僧侶たちに痛感させた。山内の最高意思決定機関である評定は連日開かれたが、議論は紛糾し、進むべき道を全く見出せずにいた。
この混乱の根底には、高野山内部に根深く存在した二大派閥、すなわち「学侶(がくりょ)」と「行人(ぎょうにん)」の深刻な対立があった。
学侶とは、その名の通り、仏教の学問研究を本分とする僧侶たちである。彼らは高野山の教学を担うエリート層であり、寺領の管理運営といった世俗的な権益にも深く関与していた。彼らにとって、秀吉の要求する寺領の没収は、自らの経済的基盤と権威を根こそぎ奪われることを意味した。そのため、彼らは所領を失うことを極度に恐れ、秀吉への安易な降伏に強く反対した 8 。しかし、その一方で、10万の大軍を前にして有効な打開策を見出すこともできず、ただ現状維持を望むばかりであった。
一方の行人とは、山内での修行や堂塔の維持管理、さらには警備といった実務を担う僧侶たちである。彼らの中には武装する者も多く、高野山の武力を実質的に担う武闘派集団であった。彼らは学侶とは対照的に、「一所に命を懸ける」などと武士のような精神論を掲げ、秀吉軍との徹底抗戦を声高に主張した 8 。しかし、根来寺の惨状を目の当たりにすれば、その主張に現実的な勝算がないことは明らかであった。彼らの強硬論は、面子や意地に固執する、いわば破滅への道に他ならなかった。
このように、経済的権益を守りたい学侶と、武門としての意地を貫きたい行人とが、互いに自らの立場を譲らず激しく対立した結果、高野山の評定は完全に機能不全に陥った 8 。降伏か、抗戦か。あるいは第三の道があるのか。聖山は、自らの運命を決定する能力を失い、ただ破滅の時を待つかのような状態にあった。
第四章:木食応其の登場
進退窮まった高野山。この膠着し、麻痺した状況を打破する存在として、歴史の表舞台に突如として現れたのが、木食応其(もくじきおうご)という一人の僧侶であった。
応其は、高野山においては異色の経歴を持つ人物であった。その出自は近江国の武士、佐々木氏の一族であったとも伝えられている 17 。もしそれが事実であれば、彼は武家の作法や交渉の駆け引きにも通じていた可能性がある。彼は天正元年(1573年)に38歳で高野山にて出家すると、五穀、さらには十穀を断つという極めて厳しい修行である「木食行」を成し遂げた 16 。その超人的とも言える荒行は、山内の僧侶たちから派閥を超えた特別な畏敬の念を集めていた。
彼の特異性は、その立場にもあった。彼は学侶でも行人でもない「客僧(きゃくそう)」という身分であり、山内の権力闘争からは常に一線を画していた 19 。また、彼は修行一辺倒の人物ではなく、連歌を嗜み、当代一流の文化人であった里村紹巴らとも親交があった 8 。その人脈は都の要人にも及んでいたとされ、俗世の情報にも通じていた。
高野山が存亡の危機に瀕し、学侶と行人の対立によって身動きが取れなくなった時、白羽の矢が立てられたのが、この応其であった。派閥に属さず、俗世にも通じ、そして何より山内全体から一目置かれる存在。彼こそが、この難局を乗り切るための使者として唯一無二の適任者であった 8 。
要請を受けた応其は、ただ使者の役目を引き受けたわけではなかった。彼は、この危機を、堕落し世俗化した高野山を本来あるべき姿に戻すための好機と捉えていた節がある 16 。彼は使者となる条件として、「学侶は贅をせずに学問に励み、行人は乱暴狼藉をやめて修行に専念すること」を両派に約束させた 8 。なおも渋る両派に対し、応其は「ならばすべてを失うか」と一喝したと伝えられる。この言葉の前に、学侶も行人も沈黙せざるを得なかった。こうして応其は、山内の対立を一時的に封じ込め、高野山の運命を一身に背負う交渉の全権を掌握したのである。彼の登場は、単なる偶然や消極的な選択の結果ではなかった。それは、硬直化した中世的組織が、未曾有の危機に際して、内部の権力構造の外にいた「異分子」に活路を見出すしかなかったという、組織論的な必然であったと言えよう。
第三部:天下人との対峙 ― 交渉の深層
高野山の全権を託された木食応其は、天下人・豊臣秀吉との直接交渉という、まさに一山数万の命運を賭した大一番に臨む。この対峙は、単なる降伏交渉に留まらず、宗教的権威と世俗的権力が激しく火花を散らす、高度な心理戦の舞台となった。
第五章:降伏勧告と応其の妙手
天正13年4月10日、紀州平定を着々と進めていた秀吉は、宮郷(現在の和歌山県橋本市付近)に陣を敷き、高野山に対して最後通牒を突きつけた 3 。その内容は、「寺領の全面没収」「武器の完全放棄」「天下への反逆者を匿うことの禁止」という、極めて苛烈なものであった 20 。もしこれに従わなければ、根来寺と同様に全山を焼き払うという恫喝も添えられていた 12 。
この最後通牒に対し、応其はすぐさま行動を起こした。彼は南院宥全、遍照尊院快言といった僧侶らと共に、あるいは単独で、秀吉の本陣へと急行した 4 。夜更けに陣所に到着すると、同じ近江国出身であった石田三成の仲介を得て、秀吉との面会にこぎつけたという逸話も残されている 16 。
天下人を前にした応其が発した第一声は、秀吉の意表を突くものであった。「無条件受諾、一山他事なき由(全面的にお受け入れいたします。山内に異論は一切ございません)」 16 。徹底抗戦か、あるいは寺領の維持を巡る必死の命乞いを予想していたであろう秀吉は、このあまりにも神妙な態度に面食らったと伝えられる。しかし、これこそが応其の仕掛けた巧妙な一手であった。交渉の冒頭で相手の要求をすべて呑む姿勢を見せることで、秀吉の警戒心を解き、高圧的な態度を和らげさせたのである。この先制的な全面降伏の表明は、これから始まる本格的な交渉の主導権を握る上で、極めて効果的な布石となった。
第六章:安堵の条件
応其の予期せぬ対応に気を良くした秀吉は、改めて降伏の条件を提示した。「まずは武具を捨てるべし。謀反人をかくまわず、大師(弘法大師空海)の遺戒の如く、学問に励み、勤行をもっぱらにすべし」 15 。そして、最大の懸案であった、中世を通じて拡大してきた広大な寺領の返上を命じた 16 。高野山の学侶たちが最も恐れていた事態が、現実のものとなった瞬間であった。
しかし、応其の応答は再び秀吉を驚かせた。彼は寺領の返上を二つ返事で承諾し、「僧は徒手空拳、贅を産む所領など不要でございます」と言い放ったのである 16 。だが、応其の真骨頂はここからであった。彼は続けて、「されど、すべてを差し出すわけには参りません」と、静かに、しかし毅然と切り出した。
訝しむ秀吉が「木食上人も、やはり自らの食い扶持が欲しいか」と問うと、応其はそれをきっぱりと否定した。「さにあらず。大師の御供奉(ごくぶ)を考えてのことでございます。今も奥之院にて禅定を続けられているお大師様にお仕えする務めが滞るようなことがあっては、御遺戒も何もあったものではございません」 16 。
そして応其は、懐から一つの古文書を取り出した。それは、高野山が開創された際に、嵯峨天皇が弘法大師に与えたとされる寺領の範囲を記した『御朱印縁起』であった 8 。彼はそれを秀吉に示し、こう申し出た。「戦国の世に拡大した所領はすべてお返しいたします。ただ、この『御朱印縁起』に記されております、弘法大師様が御自らお定めになった所領だけは、お大師様への給仕料として安堵していただけないでしょうか。それで充分でございます」 21 。
この応其の申し出は、交渉の次元そのものを変質させる、まさに妙手であった。彼は、俗世的な「寺の経済的権益」を巡る問題を、神聖にして不可侵な「宗祖・弘法大師への奉仕」という宗教的な問題へと巧みにすり替えたのである。もし秀吉がこれを拒否すれば、「仏法の祖である弘法大師の食い扶持さえも奪う不信心な人物」という悪評が立つリスクを冒すことになる。逆にこれを認めれば、「大師の遺志を尊重する、度量の大きい信心深い天下人」として、自らの権威を一層高めることができる。応其は、秀吉の天下人としてのプライドと、為政者に求められる「徳」を巧みに突き、実利(寺領の確保)を勝ち取る道筋をつけたのである。
応其の風変わりで、しかし理に適った交渉術を秀吉は面白がり、最終的にこの申し出を受け入れた 16 。
この歴史的な会談の後、天正13年4月16日、高野山は正式な使者として、学侶代表の前検校・良運、行人代表の空雅、そして応其の三名を秀吉のもとへ派遣し、降伏条件を受諾する旨の請文を提出した 4 。これにより、高野山の存続は正式に保証され、聖山は焼き討ちの危機を免れたのである。それは、武力ではなく、文化資本と宗教的権威を武器として戦われた、見事な非対称戦の勝利であった。
第四部:「安堵」の真実とその後 ― 近世への扉
秀吉による「寺領安堵」は、高野山にとって単なる危機回避や現状維持を意味するものではなかった。それは、中世以来の自律的な荘園領主としての性格を解体され、天下人の統制下にある近世的な宗教組織へと再編されていく、歴史的な転換点の幕開けであった。
第七章:寺領安堵の実態と変遷
交渉の妥結後、高野山は秀吉から課された条件を速やかに履行した。天正13年(1585年)10月23日までには、山内にあった鉄砲をはじめとする一切の武具が提出され、武装解除が完了したことが記録されている 4 。これにより、高野山は僧兵を擁する軍事勢力としての性格を完全に失い、純粋な宗教施設へとその姿を変えた。
一方で、最大の懸案であった寺領の安堵は、段階的なプロセスを経て確定していった。当初、応其の交渉によって安堵されたのは、『御朱印縁起』に記された開創以来の寺領と、秀吉による新たな寄進(3千石であったという説もある)であった 15 。しかし、これはあくまで暫定的な措置であり、寺領の全貌が確定するのは、秀吉による全国的な土地調査事業、すなわち太閤検地を待たねばならなかった。
- 天正19年(1591年) : 紀伊国における太閤検地が完了すると、その結果に基づき、高野山には正式に1万石の寺領が朱印状によって安堵された 4 。
- 天正20年(1592年) : 秀吉は亡き母・大政所の追善供養のため、高野山に剃髪寺(後の青巌寺、現在の金剛峯寺の基礎)を建立。その際、寺の維持費用として、新たに1万石を寄進した 4 。
この二度の朱印状発行により、高野山の寺領は合計2万1千石となり、これが江戸時代を通じて受け継がれる基本寺領として確定した 4 。この一連のプロセスが持つ意味は大きい。安堵以前の高野山寺領は、寄進や買得、時には武力による押領によって拡大してきた、いわば高野山固有の権利に基づく自己完結的な支配領域であった 15 。しかし、安堵後は、その所有の正統性の根拠が、天下人である秀吉が発行する「朱印状」へと移行した。寺領はもはや高野山固有の権利ではなく、天下人から「与えられた」恩恵となり、その存続は天下人の意向に左右されることになったのである。これは、宗教勢力が国家の統一的な統治システムに組み込まれていく画期的な出来事であり、高野山が中世的な権門から、国家の庇護と統制下にある近世的な一大宗教センターへと変貌を遂げた瞬間であった。
第八章:「木食の高野」へ
この歴史的転換を主導した木食応其と、彼を認めた豊臣秀吉との間には、交渉をきっかけとして極めて密接な個人的関係が築かれていった。秀吉は応其の非凡な才覚と清廉な人柄に深く傾倒し、彼を単なる一介の僧侶としてではなく、信頼できるブレーンとして遇するようになる 18 。
その関係を象徴するのが、「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし(高野山に属する木食応其と考えてはならない。応其という個人がいてこその高野山であると心得るべきだ)」という、秀吉が諸大名の前で応其を評したとされる有名な言葉である 16 。この一言は、高野山の権威と実権が、もはや学侶や行人といった旧来の組織ではなく、応其という傑出した個人に集約されたことを天下に宣言するものであった。
秀吉という絶大な後ろ盾を得た応其は、高野山の復興と改革を精力的に断行した。大永元年(1521年)の火災で焼失して以来、再建が滞っていた壇上伽藍の復興も、秀吉の経済的支援によって大きく進展した 7 。また、応其は高野山内部に留まらず、秀吉の命を受けて方広寺大仏殿(京の大仏)の造営責任者を務めるなど、豊臣政権の中枢でその手腕を発揮した 17 。
秀吉もまた、高野山との関係を深めていく。前述の青巌寺の建立に加え、高野山奥之院には秀吉自身のものを含む豊臣家の墓所が設けられた 7 。これにより、高野山は単に存続を許されただけでなく、天下人・豊臣家の菩提寺として特別な庇護を受ける存在へとその地位を向上させたのである。かつては天下人の権威に抗う独立勢力であった聖山は、今や天下人の権威を支える装置の一つとして、新たな役割を担うことになった。この劇的な変貌の中心には、常に木食応其の姿があった。
終章:歴史的意義 ― 秀吉の国家構想と宗教
天正13年(1585年)の「高野山寺領安堵」は、単に一つの寺院が焼き討ちを免れたという局地的な逸話に留まるものではない。それは、戦国乱世という長い動乱の時代を終わらせ、新たな日本の形を模索していた豊臣秀吉の国家構想と、それに対峙した宗教勢力の選択が交錯した、日本の歴史における一つの重大な転換点であった。
この事件の歴史的意義を理解するためには、秀吉の先達である織田信長の政策との比較が不可欠である。信長は、自らに敵対する宗教勢力に対しては、殲滅という極めて苛烈な手段で臨んだ。天正9年(1571年)の比叡山延暦寺焼き討ちはその象徴であり、彼は宗教が持つ世俗的な権力と武力を根絶やしにしようとした 7 。秀吉もまた、その路線を継承し、宗教勢力の武装化は決して許さないという断固たる姿勢を持っていた。紀州征伐における根来寺の徹底的な破壊は、その意志を明確に示したものであった 28 。
しかし、秀吉の政策は信長の単なる模倣ではなかった。彼は、信長の「殲滅」に対し、「再編」という新たな手法を用いた。武力をもって抵抗する者には容赦しない一方で、恭順の意を示し、その支配下に入る者に対しては、その伝統と権威を一定程度認めた上で、自らの統治体制の中に巧みに組み込んで活用したのである 29 。高野山への対応は、まさにこの秀吉流の「アメとムチ」の使い分けを如実に示すものであった。武装を解除させ、寺領を一旦没収するという厳しい「ムチ」を振るう一方で、宗祖・空海への敬意を示し、寺領を再交付するという寛大な「アメ」を与えた。これにより、高野山を敵対勢力から庇護下の存在へと変貌させたのである。
さらに、この「高野山モデル」とも言うべき手法は、秀吉のその後の天下統一事業において、重要な雛形となった可能性が高い。応其との対話を通じて、秀吉は、武士以外の者から武器を取り上げる「刀狩」や、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事」といった、天下を静謐ならしめるための方策について、その着想を得たか、あるいは確信を深めたとさえ言われている 21 。実際に、高野山に課された「武装解除」と「天下人による存続の保証」という関係は、後に全国の大名や民衆に対して適用される政策の先駆けと見ることができる。その意味で、高野山寺領安堵は、秀吉が構想する新たな国家秩序の壮大な実験場であったという側面を持っていた。
結論として、天正13年の「高野山寺領安堵」は、中世以来、国家の権力とは別の論理で存在してきた独立した権門としての宗教勢力が、天下人の主導する統一的な国家体制の中にいかにして組み込まれていったかを示す、象徴的な事件であった。それは、日本の歴史が「荘園」と「武士団」に象徴される中世から、「石高」と「幕藩体制」に象徴される近世へと移行していく、大きなうねりの中心で起きた出来事であった。木食応其という傑出した個人の知略と、豊臣秀吉という老練な為政者の戦略が交錯したこの一瞬に、聖山・高野山は新たな時代への扉を開き、日本の歴史もまた、大きな転換点を迎えたのである。
引用文献
- [合戦解説] 10分でわかる紀州征伐 「秀吉は得意の水攻めで太田城を包囲した」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=K6OGD4Jx-fM
- 秀吉の紀州攻めは、どのような位置づけで、なぜ短期で決着がついたのかを生成AIで調べてみる。 https://note.com/ideal_raven2341/n/n6aa024e73848
- 紀州攻め(きしゅうぜめ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E6%94%BB%E3%82%81-1297841
- 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
- 雑賀合戦(紀州征伐)古戦場:和歌山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kisyuseibatsu/
- 信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9886
- 高野山を救った木喰応其の交渉能力 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1361
- なぜ高野山は焼き討ちを逃れた? 秀吉を絶句させた“僧侶が説いた天下人の在りよう” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9925
- 信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9886?p=1
- 「根来寺を解く」の本から見た「秀吉の紀州攻め」をAIに文句いいつつも納得。 - note https://note.com/ideal_raven2341/n/nff3be30fba2e
- 岸和田城から紀州征伐へ - わかやま新報 https://wakayamashimpo.co.jp/2019/03/20190317_85343.html
- 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/01/30/152233
- 「秀吉の紀州攻め(1585年)」紀伊国陥落!信長も成せなかった、寺社共和国の終焉 https://sengoku-his.com/711
- 和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐2 根来焼討 | ユーミーマン奮闘記 https://ameblo.jp/ym-uraji/entry-12304935355.html
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- 032応其上人と秀吉と橋本の町 - わかやま歴史物語 http://wakayama-rekishi100.jp/story/032.html
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- なぜ高野山は焼き討ちを逃れた? 秀吉を絶句させた“僧侶が説いた天下人の在りよう” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9925?p=1
- 天正13年6月8日前田玄以宛羽柴秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20200929/1601352828
- 高野山と豊臣家の女性たち -女性の視点から見た豊臣の栄枯盛衰- https://sightsinfo.com/koyasan-yore/okunoin-toyotomi
- 特集陳列「豊臣秀吉と高野山」|【公式】高野山 霊宝館(れいほうかん) https://reihokan.or.jp/pages/91/
- 木食応其と高野山 http://www.manabi.wakayama-c.ed.jp/wakayama_hakken/pdf/section/02/02/122.pdf
- 木食応其 高野山を焼き討ちから救った男 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1X5PuJVt4MM
- 【高校日本史B】「土地・宗教政策」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12774/
- 第 学年社会科(歴史的分野)学習指導案 https://www.kyokyo-u.ac.jp/kyoumu/jicci/jh_shakai.pdf
- 豊臣秀吉がしたこと、すごいところを簡単にわかりやすくまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hideyoshi-achieved
- 太閤検地と刀狩り - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/taikokenchi-katanagari/