鳥取城改修(1601)
慶長6年、池田長吉は徳川家康の命で鳥取城を大改修。戦国山城から近世城郭へ変貌させ、西国支配の拠点とした。兄・輝政の姫路城改修と連携し、徳川天下を盤石にする国家戦略の一環であった。
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慶長六年の大転換 ― 池田長吉による鳥取城改修の全貌
序章:鳥取城、新たな時代の幕開け
慶長五年(1600年)に終結した関ヶ原の戦いは、日本の歴史を画する一大転換点であった。その激しい時代の奔流は、遠く因幡国にも及び、久松山にそびえる鳥取城は新たな主と、新たな役割を迎える運命にあった。本報告書は、翌慶長六年(1601年)に始まる新城主・池田長吉による鳥取城の大規模改修が、単なる城郭の修復という事象に留まらず、徳川の世における西国支配の礎を築くための、壮大な国家戦略の一環であったことを解き明かすものである。
この時期、なぜ鳥取城はこれほど大規模な改修を必要としたのか。新城主として送り込まれた池田長吉に、徳川家康はどのような使命を課していたのか。そして、この改修は鳥取城の構造と歴史を、いかにして決定的に変貌させたのか。戦国時代の山城から近世の政庁へとその姿を大きく変える過程を、「城郭の博物館」とも称される鳥取城に残る重層的な遺構と、関連史料を基に、事変のリアルタイムな状態が浮かび上がるよう時系列に沿って徹底的に追跡する 1 。
第一章:宮部氏の城 ― 豊臣期における鳥取城の実像
第一節:悲劇からの再出発 ― 「渇え殺し」とその後の鳥取城
池田長吉による改修を理解するためには、まずその前史、すなわち豊臣政権下における鳥取城の実態を把握する必要がある。鳥取城の名を天下に知らしめたのは、天正九年(1581年)に羽柴秀吉が敢行した、凄惨を極める兵糧攻めであった。世に言う「鳥取の渇え殺し」である 2 。秀吉は、城内に兵糧が運び込まれることを見越して周辺の米を高値で買い占めた上で、2万の大軍で城を完全包囲し、兵糧の補給路を完全に遮断した 3 。城内では食料が尽き、草木や牛馬を食らい、ついには餓死者が続出し人肉を食らうという地獄絵図が繰り広げられたと伝わる 3 。城将・吉川経家は、城兵の命と引き換えに自刃し、鳥取城は開城した 3 。この悲劇的な戦いにより、城は物理的にも精神的にも壊滅的な打撃を受け、その後の復興が急務であった。
第二節:新城主・宮部継潤と近世化への胎動
落城後、鳥取城の新たな主として入封したのは、秀吉の信頼厚い重臣、宮部継潤であった 5 。継潤は元々比叡山の僧侶であったが、浅井長政に仕えた後、織田信長、そして豊臣秀吉に仕えた異色の経歴を持つ武将である 7 。秀吉の側近として重用され、因幡・但馬両国で5万石余りを領する大名となった 7 。
継潤は、それまで「土から成る」と形容されるような、曲輪と切岸を主体とした中世的な山城であった鳥取城に、石垣や天守を築き、近世城郭への第一歩を記したとされる 2 。これは、安土城を嚆矢とする織田・豊臣政権下で全国的に進められた、城郭の近代化・石垣化の流れに沿うものであった。山上の天守は、布勢天神山城から三層のものを移築したとの伝承も残っている 1 。
第三節:発掘調査が語る宮部氏時代の縄張り
宮部継潤による改修の実態は、近年の発掘調査によって具体的に裏付けられつつある。特筆すべきは、山麓の天球丸の一角にある「楯蔵」の石垣である。調査の結果、この石垣には後世に継ぎ足された痕跡が明瞭に確認され、その下部は宮部氏時代に築かれた、現存する鳥取城最古の石垣であることが判明した 1 。これは、継潤が確かに石垣普請に着手していたことを示す動かぬ物証である。さらに、山上ノ丸の天守台東方直下からは、豊臣政権下の城郭で多用された三つ巴紋の軒瓦が出土しており、宮部氏時代に瓦葺きの天守、あるいはそれに準ずる建物が存在し、それが後の池田氏による改修の際に拡張されて利用された可能性を強く示唆している 1 。
しかし、宮部氏による改修は、決して完成されたものではなかった。学術的な調査研究によれば、山上ノ丸の虎口(城門)は、外枡形や内枡形といった複雑な構造を持たない平虎口が多く、防御施設としては比較的単純なものであった 11 。また、一部の曲輪は総石垣化されておらず、織豊系城郭としての完成度は高いとは言えない状態であったことが指摘されている 11 。研究では、これらの改修が慶長二年(1597年)頃には停止状態にあった可能性が示唆されている 11 。この背景には、慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死と、それに続く豊臣政権の混乱、そして慶長四年(1599年)の宮部継潤自身の死が大きく影響していると考えられる 7 。中央政権の動揺が、地方における大規模な城普請の停滞に直結したのである。結果として、池田長吉が目にした鳥取城は、近世城郭への変貌の途上にありながら、その完成を見ることなく中途半端な状態で残された「過渡期の未完成な城郭」であった。この「未完成」という事実こそが、後に池田長吉による抜本的な大改修の必要性を高めた、根本的な要因の一つであったと言える。
第二章:関ヶ原の奔流、因幡を呑む
第一節:城主・宮部長房の決断
慶長四年(1599年)、父・継潤の死に伴い、嫡男の宮部長房(諱は長熙)が家督を相続し、鳥取城主となった 7 。彼が当主となって間もなく、日本全土を巻き込む天下分け目の戦いが勃発する。慶長五年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いである。この国家的な動乱に際し、長房は西軍に与することを決断した 2 。この決断が、宮部家の、そして鳥取城の運命を大きく左右することになる。
第二節:大津城攻防戦 ― 運命の足止め
西軍に加わった宮部長房は、主力部隊の一員として、東軍に寝返って近江国の大津城に籠城した京極高次の攻略戦に参加した 16 。この大津城攻めには、毛利元康、立花宗茂といった西軍の猛将たちが名を連ねており、長房もその一翼を担った 17 。西軍は総勢1万5千の兵力で大津城を包囲し、長等山の上から大砲による砲撃を加えるなど猛攻を続けた 18 。城内の建造物は次々と破壊され、その轟音は京の都にまで響いたという 19 。数日にわたる激しい攻防の末、京極高次はついに降伏を決意し、9月14日に城は開城された 19 。戦術的には、宮部長房が属した部隊は紛れもない勝利を収めたのである。
第三節:改易 ― 宮部氏時代の終焉
しかし、この戦術的勝利は、西軍全体にとっては致命的な戦略的敗北へと繋がった。大津城がようやく開城したのは、関ヶ原の本戦が火蓋を切った慶長五年九月十五日の当日であった 17 。これにより、宮部長房、立花宗茂ら1万5千の精強な部隊は、天下分け目の決戦の場に駆けつけることができず、西軍は本来あるべき兵力を欠いたまま東軍と戦うという、極めて不利な状況に陥ったのである 17 。
関ヶ原での西軍壊滅の報を受け、長房の運命は決した。戦後、徳川家康は西軍に与した諸大名の処断を断行し、宮部長房も改易処分となった 9 。領地は全て没収され、身柄は南部家預かりとして配流されるという厳しいものであった 15 。この処分は、単に「西軍に味方したから」という理由だけでは説明できない。家康から見れば、京極高次の大津城籠城は、西軍の貴重な大兵力を本戦から引き離した、東軍勝利への計り知れない貢献であった。それを攻撃し、結果的に西軍の戦略を破綻させた長房らの行動は、家康の天下取りを危うくしかねない重大な敵対行為と見なされたのである。戦術的な勝利が、より大きな戦略的文脈においては敗北の原因となるという戦争の非情さを示すと同時に、家康による戦後処理の厳格さを物語っている。これにより、天正十年(1582年)から約20年間にわたった宮部氏による因幡支配は終焉を迎え、鳥取城は新たな主を待つこととなった。
第三章:新城主・池田長吉 ― 徳川の信頼を勝ち得た武将
第一節:池田長吉という人物
宮部氏に代わり、鳥取城の新たな主として白羽の矢が立ったのは、池田長吉であった 1 。彼は、織田信長の重臣であった池田恒興の三男として生まれ、次兄には後に「西国将軍」と称され姫路宰相とまで呼ばれることになる池田輝政を持つ、名門の出である 21 。
長吉は若き日に羽柴秀吉の養子(猶子)となり、羽柴姓を名乗ることを許された経験を持つ 20 。これは、彼が豊臣政権の中枢に極めて近い位置にいたことを示している。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父・恒興と長兄・元助を失う悲劇に見舞われながらも、その後は九州征伐、小田原征伐、そして文禄の役では船奉行を務めるなど、秀吉の主要な合戦にことごとく従軍し、武将としての豊富な経験を積んでいた 20 。
第二節:関ヶ原での戦功と水口岡山城攻略
豊臣秀吉の死後、天下の趨勢が徳川家康へと傾く中、池田家は家康方への与同を明確にする。関ヶ原の戦いが勃発すると、長吉は兄・輝政と共に迷わず東軍に参陣した 20 。
長吉はまず、美濃国・岐阜城攻めに参加し、敵将・飯沼長資を自ら討ち取るという武功を挙げた 23 。本戦の後、彼に与えられた次なる任務は、近江国・水口岡山城に籠る西軍の将・長束正家の攻略であった。この時、長吉は力攻めではなく、智謀を巡らせる。彼は正家に対し、「降伏すれば助命する」と偽りの交渉を持ちかけ、それを信じて城外に出てきた正家・直吉兄弟を捕縛し、切腹に追い込んだのである 1 。この戦功は家康に高く評価され、褒賞として長束正家が蓄財した財貨はことごとく長吉に与えられたという 22 。
第三節:因幡六万石拝領 ― 課せられた使命
岐阜城攻め、そして水口岡山城攻略における一連の戦功により、池田長吉は徳川家康から絶大な信頼を勝ち取った。そして慶長五年十一月、論功行賞において、因幡国四郡(邑美郡・法美郡・巨濃郡・八上郡)六万石を与えられ、鳥取城主となることが決定した 1 。この時、長年名乗ってきた羽柴姓を旧来の池田姓に復している 23 。
この長吉の鳥取入封は、単なる個人的な恩賞という側面だけでは語れない、極めて高度な戦略的意図に基づいていた。関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、家康にとって西国には依然として毛利氏や島津氏といった、豊臣恩顧の強力な大名が勢力を保っており、予断を許さない状況であった。この西国大名への「抑え」として、家康は最も信頼できる武将を西国の要衝に配置する必要があった。そこで家康は、娘婿であり絶大な信頼を寄せる池田輝政を、山陽道の結節点である姫路に52万石という破格の所領で配置した 24 。そして、その実弟である長吉を、山陰道の要衝であり、まさに毛利領と国境を接する鳥取に配置したのである 2 。この配置は、輝政の姫路城と長吉の鳥取城が連携し、山陽道と山陰道の両面から西国大名を牽制する、強力な防衛ラインを形成することを意図したものであった。池田兄弟による「姫路=鳥取ライン」の構築は、徳川の天下を盤石にするための国家戦略そのものであり、長吉に与えられた鳥取城改修という任務は、この壮大な戦略を実現するための物理的な基盤整備に他ならなかったのである。
第四章:西国鎮護の拠点へ ― 池田長吉の大改修、そのリアルタイムな軌跡
【計画期:慶長6年(1601年)】
慶長五年末に鳥取城主となった池田長吉は、年が明けた慶長六年(1601年)に入ると、早速、新たな居城となる鳥取城と城下の検分を開始した。彼の目に映ったのは、宮部氏時代に近世化が試みられながらも、政権の混乱の中で普請が中断し、未完成のまま残された城郭の姿であった(第一章第三節参照)。徳川政権下における西国鎮護の拠点として、また因幡六万石の政庁として、この城はあまりにも不十分であった。長吉は、城の構造を抜本的に見直し、より堅固で機能的な近世城郭へと大改造する基本構想を練り始めた 28 。
【着工期:慶長7年(1602年)~】
翌慶長七年(1602年)、長吉は城内の大改造に着手した 2 。その改修は、多岐にわたる領域で同時並行的に、かつ迅速に進められた。
1. 城郭構造の根本的変革 ― 山麓への重心移動と大手口の変更
長吉が断行した最も根本的な変革は、城の政治的・軍事的中心を、戦国時代以来の拠点であった久松山上の「山上ノ丸」から、麓の「山下ノ丸」へと実質的に移したことであった 28 。これは、戦時の籠城拠点としての性格が強かった山城から、平時における統治と政務の利便性を重視する平山城へと、城の性格そのものを転換させる決断であった。
この思想転換を象徴するのが、城の正面玄関である大手口の変更である。宮部氏時代までは、防御上有利な西坂を登る「北ノ御門」が大手とされていた 1 。しかし長吉はこれを改め、城下町から直接アクセスしやすい南西麓に、新たに「中ノ御門」を設け、こちらを新しい大手口とした 2 。これにより、城と城下町は一体化し、近世的な支配拠点としての体裁が整えられた。
2. 新曲輪の造成 ― 二ノ丸・三ノ丸・天球丸の誕生
大手口の変更と山麓への重心移動に伴い、山下ノ丸では大規模な造成工事が行われた。藩主の居館や政庁が置かれる中枢部として「二ノ丸」が、そしてその外郭に侍屋敷などが配置される「三ノ丸」が新たに整備・拡張された 1 。この時に築かれた広大な曲輪群が、現在の鳥取城跡の主要な景観の基礎となっている。
さらに、山下ノ丸の最高所(標高51m)には、独立した曲輪である「天球丸」が築かれた 28 。この名は、長吉の姉であり、若桜鬼ヶ城主・山崎家盛に嫁いだものの後に離縁して鳥取に戻った天球院が居住したことに由来するとされる 1 。天球丸は、居住空間であると同時に、山下ノ丸全体を見下ろす軍事的な要衝でもあった 2 。
3. 普請技術の革新 ― 慶長期の石垣と姫路城との関連
長吉による改修では、当時の最新技術であった「打込接(うちこみはぎ)」と呼ばれる石垣普請技術が全面的に採用された 32 。これは、石の表面や接合部を叩いて加工し、隙間を減らして積み上げる工法で、野面積よりも高く、急勾配な石垣を築くことが可能であった。新たに大手口となった中ノ御門から入ると正面にそびえる「太鼓御門」の高さ約7メートルに及ぶ高石垣は、登城する者を圧倒する威容を誇り、新領主の権威を視覚的に示すものであった 2 。
この高度な普請技術の導入には、兄・池田輝政が同時期に進めていた姫路城の大改修が大きく関わっていると考えられる。輝政による姫路城改修は慶長六年(1601年)に着手されており 24 、長吉の鳥取城改修と完全に時期が重なる。輝政が築いた姫路城は、螺旋式縄張りや精緻な打込ハギの石垣など、当代随一の築城技術の粋を集めたものであった 33 。西国支配という共通の戦略目的を担う池田兄弟が、優れた石工集団や大工、そして最新の築城ノウハウを共有し、連携しながらそれぞれの城の普請を進めたと考えるのは極めて合理的である。鳥取城に見られる堅固で壮麗な石垣群は、天下の名城・姫路城で培われた先進技術が応用された結果である可能性が非常に高い。
4. 山上ノ丸の再編 ― 天守の二層化
城の中心機能が山麓に移る一方で、山上ノ丸も完全に放棄されたわけではなかった。長吉は、宮部氏時代に三層であったと伝わる山上の天守を、二層に改築した 1 。その理由について、江戸時代の地誌『因幡民談記』は「高山の山頂にあるので風の為にゆがみが生じるのを避けるため」と記している 1 。日本海から吹き付ける強風や、冬季の豪雪による損傷を考慮した、山城特有の過酷な自然環境への対応という実用的な判断があったと考えられる 36 。同時に、城の機能的中心が山麓の二ノ丸御殿に移ったことで、山上の天守に求められる象徴的な役割が相対的に低下したことも、規模を縮小した一因であろう。
5. 城下町の整備と経済基盤の強化
長吉の事業は、城郭内部の改修に留まらなかった。彼は城郭と一体のものとして、城下町の整備にも精力的に着手した 20 。内堀を改修するとともに、城下町全体を囲む外堀(総堀)を開削し、町全体の防御機能を飛躍的に高めた 37 。
さらに特筆すべきは、経済基盤の強化策である。長吉は、鳥取の外港として重要な役割を担っていた賀露港を、隣接する鹿野藩主・亀井茲矩との領地交換によって獲得した 20 。これにより、鳥取藩は日本海交易の拠点を直接支配下に置くことに成功し、その後の藩の経済的発展の礎を築いたのである。
【逸話】:お左近の手水鉢
この大規模な改修工事は、決して順風満帆ではなかった。山下ノ丸の三階櫓の石垣工事が難航していた際、長吉の子・長幸夫人の侍女であった「お左近」という女性が、人柱の代わりとして自らの手水鉢を寄進した。すると不思議なことに、その後工事は順調に進み、無事に石垣が完成したという伝承が残っている 1 。この「お左近の手水鉢」とされる石材は昭和三十八年(1963年)に実際に発見され、石垣修理の際に元の位置に復元された。この逸話は、当時の普請工事の困難さと、それに携わった人々の切なる願いを今に伝えている。
第五章:城郭の変貌 ― 宮部氏の城から池田氏の城へ
第一節:縄張りと石垣にみる思想の転換
池田長吉による慶長の大改修は、鳥取城の物理的な姿を大きく変えただけでなく、その根底にある設計思想(コンセプト)を根本から覆すものであった。宮部氏時代の城が、山上を主体とした戦国期以来の戦闘拠点としての性格を色濃く残していたのに対し、長吉の改修によって、山麓に広大な政治・居住空間を持つ、平時の統治を主眼に置いた近世的な支配拠点へと、その性格を完全に転換させたのである。
この劇的な変貌は、改修前後の城の主要構成要素を比較することで、より明確に理解することができる。
表1:鳥取城の主要構成要素比較(宮部氏時代 vs 池田長吉改修後) |
要素 |
城の中心 |
大手口 |
主要曲輪 |
天守 |
石垣 |
戦略的性格 |
この比較表が示すように、長吉の改修は単なる部分的な手直しや増築ではなかった。城の中心機能、玄関口、主要区画、象徴的建造物、そして基盤となる土木技術に至るまで、あらゆる面で旧来の城郭を否定し、新たな時代の要請に応えるべく再構築したものであった。この変化は、戦国の世から徳川の世へと時代が移り変わる中で、大名の居城に求められる役割が、純粋な「戦うための城」から、領国を「治めるための城」へと大きくシフトしたことを象徴している。
さらに、この大規模な改修には、物理的な機能更新以上の、高度な政治的意図が込められていた。鳥取城は、秀吉による「渇え殺し」という強烈な原体験と、その後の腹心・宮部氏による統治という、豊臣政権の記憶が色濃く刻まれた場所であった。関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来した今、新城主である長吉には、この城を物理的にだけでなく、政治的・象徴的にも「徳川の城」として生まれ変わらせるという使命があった。大手口の変更、山麓への中心機能の移転、そして兄・輝政の姫路城と連携した堅固な石垣群の構築は、旧来の豊臣的な城郭イメージを払拭し、因幡・伯耆両国の国人や民衆に対し、徳川政権の圧倒的な力と新しい支配秩序の到来を視覚的に示す、極めて強力なメッセージであった。それは、建築行為を通じた一種の「政治的リブランディング」であり、新たな時代の幕開けを告げる壮大なパフォーマンスであったと解釈できる。
終章:慶長の礎、後世への継承
第一節:池田長吉の改修が遺したもの
池田長吉が慶長六年(1601年)から推し進めた鳥取城の大改修は、その後の鳥取城の歴史における決定的かつ不可逆的な転換点であった。この改修によって、鳥取城は戦国時代の山城という古い殻を完全に脱ぎ捨て、近世城郭としての骨格を確立した。そして、徳川政権下で因幡・伯耆両国を支配する政治・軍事の中心拠点としての機能を盤石なものとしたのである。彼が整備した山麓の広大な曲輪群と堅固な石垣は、その後250年以上にわたる鳥取藩政の舞台となった。
第二節:元和の大改修への布石
池田長吉の因幡統治は、慶長十九年(1614年)の彼の死によって終わりを告げる 20 。しかし、彼が築き上げた礎は、その後の鳥取城の発展にとって不可欠なものであった。元和三年(1617年)、姫路城主であった池田光政が、因幡・伯耆32万5千石という大封で鳥取に入封する 1 。
光政は、長吉時代の6万石規模の城郭を、32万石という大大名の威勢にふさわしい規模へとさらに拡張する「元和の大改修」に着手した 14 。山麓の二ノ丸に御三階櫓を建造し、城下町を大規模に整備するなど、鳥取の町は飛躍的な発展を遂げる。この壮大な拡張が可能であったのは、まさに池田長吉が山麓に広大な平地からなる曲輪群を整備していたからに他ならない。長吉の慶長の大改修がなければ、光政による元和の大改修も、その後の鳥取藩の繁栄もなかったであろう。
結論
池田長吉による「鳥取城改修(1601)」は、関ヶ原の戦いという時代の分水嶺において、徳川家康の天下統一事業と密接に連動した、国家的意義を持つプロジェクトであった。それは、豊臣の記憶が残る城を徳川の威光を示す城へと転換させ、西国支配の戦略的拠点を築き上げると同時に、後の鳥取藩32万石の発展の礎を築いた、極めて重要な歴史的事業であったと結論づけられる。宮部氏時代の遺構と池田氏時代の遺構が重層的に残り、「城郭の博物館」と称される鳥取城の歴史をひもとく上で、慶長六年に始まったこの大転換は、その後の全ての歴史を規定した、まさに原点となる出来事なのである。
引用文献
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- 【日本100名城・鳥取城編】球型の石垣と片山東熊の建築が共存する類例ない名城 https://shirobito.jp/article/573
- 城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因 - 鳥取市 https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1432278469689/files/tottorijyo_01.pdf
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- 鳥取城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る | 鳥取県鳥取市の城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/tyugoku/tottori/tottori.html
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- 鳥取城|日本百名城 - 城Trip(しろトリップ) https://shiro-trip.com/shiro/tottori/
- 城郭・石垣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/43767/
- 姫路城のしくみと縄張り | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/exhibit-videolibrary/himeji/
- 姫路城の石垣 姫路城では三種類の保存された石垣を見ることができ、それぞれが城郭建築の違 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001556302.pdf
- 驚きの仕掛けを持つ城ランキング/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/sugoshiro/04/
- 豊臣秀吉も攻めあぐねた【鳥取城の歴史】をまるっと解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/tottoricastle/
- 近世鳥取藩の城下町 http://hist-geo.jp/img/archive/019_067.pdf
- 日本百名城 鳥取城跡 – 農家民宿 梨楽庵ブログ https://relaxan-tottori.com/blog/2024/01/577/