最終更新日 2025-09-27

久保田城築城(1602)

慶長七年、関ヶ原で敗れた佐竹義宣は、常陸から出羽秋田へ転封。新天地で久保田城を築城し、天守なき土の城と城下町を整備。徳川への恭順と佐竹流築城術を両立させ、軍事と経済を融合した新藩都を創生し、佐竹氏再起の礎を築いた。
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久保田城築城始末 ― 関ヶ原の敗者、佐竹義宣の再起を賭けた新都創生記

序章:戦国時代の終焉と佐竹氏の立ち位置

慶長七年(1602年)に始まる久保田城の築城は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、日本の歴史が「戦国」から「近世」へと大きく舵を切る転換点において、名門大名・佐竹氏がその存亡を賭けて挑んだ、壮大な国家建設プロジェクトの幕開けであった。この事変を深く理解するためには、まず時計の針を関ヶ原の戦い以前に戻し、当時の佐竹氏が置かれていた栄光と苦悩の状況を把握する必要がある。

豊臣政権下の名門・佐竹氏

佐竹氏は、清和源氏の一流、新羅三郎義光を祖とする関東屈指の名門であり、室町時代には常陸国(現在の茨城県)の守護職を務めた家柄であった 1 。戦国時代を通じてその勢力を拡大し、十九代当主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の時代には、豊臣秀吉による天下統一事業に協力。その功績を認められ、太閤検地後には常陸一国に五十四万石余という広大な所領を安堵されるに至った 3 。この石高は、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝といった天下の有力大名に次ぐ規模であり、佐竹氏が豊臣政権下でいかに重要な地位を占めていたかを物語っている 5

義宣は、単に伝統に安住する領主ではなかった。文禄四年(1595年)には、領内の知行割を抜本的に改革し、在地領主と領民との間に古くから存在した伝統的な主従関係を断ち切るという、当時としては画期的な政策を断行している 3 。これは、戦国的な分権体制から、大名が一元的に領国を支配する中央集権的な近世大名へと脱皮しようとする、彼の先進的な統治思想の表れであった。

天下の奔流と徳川家康の台頭

しかし、慶長三年(1598年)八月の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を一変させる。豊臣政権内部では、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大し、これに石田三成を中心とする文治派官僚が反発。加藤清正や福島正則ら武断派大名を巻き込み、天下は再び動乱の渦へと引き込まれていった 6

この天下の奔流の中で、佐竹義宣は極めて難しい立場に置かれる。彼は、石田三成と個人的に深い関係を築いていた。かつて、義宣が窮地に陥った際、三成の取り成しによって難を逃れたという経緯があり、義宣は三成に対して大きな恩義を感じていたのである 6 。この個人的な信義と、関東における徳川家康の圧倒的な軍事的圧力との間で、義宣は重大な決断を迫られることとなる。

第一部:運命の岐路 ― 関ヶ原の戦いと佐竹義宣の決断

慶長五年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発すると、これを好機と見た石田三成が西国で挙兵。天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。この時、佐竹氏がとった行動は、その後の運命を決定づけるものとなった。

揺れる佐竹家中:親徳川派と反徳川派の相克

天下が東軍(徳川方)と西軍(石田方)に二分される中、常陸水戸城の佐竹家中もまた、進むべき道を巡って激しく揺れ動いていた 3

当主である義宣は、石田三成との個人的な信義、そして隣国であり同盟関係にあった上杉景勝との連携を重視し、西軍に与するべきであるとの考えを強く持っていた。その意志は、独断で上杉景勝との間に「味方する」旨の密約を締結していたことからも明らかである 3 。しかし、家中にはこの方針に真っ向から反対する勢力が存在した。その筆頭が、義宣の父であり、老練な隠居の佐竹義重であった。義重らは、徳川家康の圧倒的な国力と政治力を冷静に分析し、佐竹家が生き残るためには東軍に味方する以外に道はないと主張。こうして佐竹家中は、当主を中心とする西軍派と、隠居・重臣を中心とする東軍派とで真っ二つに分裂し、深刻な内部対立に陥ったのである。

義宣の密約と中立という名の遅疑

この組織的な機能不全は、佐竹氏の行動を致命的なまでに遅滞させた。義宣は、家康からの上杉討伐軍への参加要請に応じ、一度は軍勢を率いて北上する。しかし、上杉との密約に基づき、白河の関を越えることなく進軍を停止してしまう 3 。これは、東軍の一員として行動しながら、その実、西軍と通じているという、極めて危険な二股膏薬であった。

結局、義宣は家中の意見を最後まで集約することができず、また、関ヶ原での決戦が予想をはるかに超える速さで決着することを見誤り、水戸城へと兵を撤退させる 3 。そして、東軍にも西軍にも明確に加担しないまま、戦いの趨勢を傍観するという選択を取った。後世、この行動は「中立」と評されることもあるが、その実態は、高度な政治的駆け引きの結果ではなく、内部対立によって迅速な意思決定能力を失った組織が陥った「機能停止」状態であった。それは、戦国大名が近世大名へと移行する過渡期における、当主の権威と家臣団の合議制との間に生じた構造的矛盾が露呈した瞬間でもあった。

戦後の長い沈黙:家康の怒りと処分の保留

関ヶ原の戦いは、慶長五年九月十五日、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。佐竹義宣のこの曖昧な態度は、天下人となった徳川家康の深刻な不信と怒りを買うことになる 8

戦後、家康は戦後処理に迅速に着手し、上杉氏や島津氏といった西軍の主要大名に対する処分が次々と決定されていった。しかし、不可解なことに、佐竹氏に対する処分だけは一向に下されなかった。義宣は水戸城に籠もったまま、時は過ぎ、気づけば二年もの歳月が経過していた 9 。この間、彼は家康に対して謝罪すら行わなかったという 9 。これは義宣の名門としてのプライドの高さを示すと同時に、徳川政権の安定度を見極めようとする最後の抵抗であったのかもしれない。

しかし、この家康による「処分の保留」こそが、実は最も恐ろしい懲罰であった。処分が確定しない宙吊りの状態は、佐竹氏の家臣団に計り知れない不安と動揺を与え、その結束を内側から蝕んでいった。これは、物理的な改易・減封以上に、相手の精神を徹底的に追い詰め、新政権への絶対的な恭順を植え付けるための、家康による高度な政治的・心理的戦略だったのである。

第二部:栄光からの転落 ― 常陸水戸五十四万石から出羽秋田への転封

二年にわたる心理的圧迫の末、佐竹氏の運命が決定される時が来た。それは、栄華を極めた名門が、その誇りを打ち砕かれる屈辱的な転落の始まりであった。

慶長七年(1602年)春、上洛と謝罪

先の見えない状況に耐えかねた父・義重は、ついに義宣を必死に説得。慶長七年(1602年)四月、義宣は意を決して上洛し、伏見城で徳川家康に謁見、二年の時を経てようやく謝罪の意を表した 9 。この時点で、佐竹氏の命運は完全に徳川家の掌中に握られていた。彼のプライドは砕かれ、もはや徳川への抵抗の意志は残されていなかった。

石高も示されぬ国替え:前代未聞の懲罰的命令

謝罪から約一ヶ月後の同年五月、家康は佐竹氏に対して最終的な処分を下す。それは、先祖代々の地である常陸水戸五十四万石を全て没収し、遠く出羽国秋田へと転封させるというものであった 8

この処分が異例であったのは、その過酷さだけではない。通常、転封の際には移転先の知行高が明示されるのが通例であったが、佐竹氏に対しては、それすらも示されなかった 11 。これは、佐竹氏が代々受け継いできた大名としての家格を一度完全に剥奪し、「徳川家康から新たに領地を『下賜』される」という形式をとることで、その権威を根底から否定する、極めて屈辱的なものであった。後に表高は約二十万石と定められたが 1 、旧領からすれば半分以下の大幅な減封であり、懲罰的な処分であることは誰の目にも明らかであった。

故郷を去る:大名行列ならぬ「民族移動」

命令は絶対であった。佐竹義宣は、一万八千人ともいわれる膨大な数の家臣団とその家族を率い、何百年にもわたって統治してきた故郷・常陸を後にしなければならなかった。これは単なる大名の引っ越しではない。一つの巨大な社会集団が、その生活基盤の全てを失い、気候も風土も全く異なる未踏の地で、ゼロから再起を図ることを強いられる、過酷な「民族移動」に等しいものであった。

この国替えが常陸の領民に与えた衝撃は計り知れず、後世、「義宣公が秋田へ去ると、常陸の海からはハタハタが獲れなくなり、山の金銀銅までもが公を追って秋田へ行ってしまった」という伝説が生まれるほどであった 6 。それは、領民から深く慕われた領主との、痛切な別れの記憶を物語っている。

第三部:新天地の葛藤と選択 ― 湊城から久保田へ

故郷を追われた佐竹氏にとって、出羽秋田は希望の地であると同時に、試練の地でもあった。新領国における本拠地の選定は、藩の未来を左右する最初の、そして最も重要な決断であった。

慶長七年(1602年)九月、秋田到着:旧領主の城へ

長い旅路の末、慶長七年九月十七日、佐竹義宣の一行は秋田に到着。当座の居城として、前領主であった秋田実季(あきたさねすえ)の本拠・湊城(現在の秋田市土崎)に入った 11

しかし、新天地は決して安住の地ではなかった。新たな支配者である佐竹氏に対し、在地の土豪や百姓が反発し、大阿仁・小阿仁地方などで大規模な一揆が発生。佐竹氏は先発隊として赤坂朝光らを派遣し、これらの抵抗勢力を武力で鎮圧する必要に迫られた 14 。これは、新領国の統治がいかに困難な課題であるかを、到着早々に突きつけられた出来事であった。

湊城の限界と新城計画

仮の住まいとなった湊城は、多くの問題を抱えていた。そもそもこの城は、秋田氏の五万石程度の規模に合わせて造られたものであり、常陸から移ってきた佐竹氏の膨大な家臣団とその家族を収容するには、あまりにも手狭であった 11

さらに、湊城は日本海に近い平城であり、土地が低く湿気が多いという居住環境の問題を抱えていた 11 。防御拠点としても脆弱であり、何よりも、これから築き上げるべき大規模な近世城下町を建設するための拡張性に乏しかった 11 。義宣は湊城で一冬を越しただけで、この地が恒久的な本拠地たり得ないことを見抜き、全く新しい場所に新城を建設することを早々に決断した 12

父子の論争:経済の横手か、戦略の久保田か

新城の建設地を巡って、義宣と父・義重の間で再び激しい意見対立が起こった 11 。この論争は、単なる場所選びを超えて、佐竹藩が今後どのような国家を目指すのかという、根本的な経営方針の対立を内包していた。

  • 父・義重の主張(横手案): 義重が推したのは、領内南部にある横手の地であった。横手周辺は領内随一の穀倉地帯であり、米の生産量が豊富であった 11 。これは、「兵糧、すなわち米の生産力こそが国力の源泉である」という、戦国時代を生き抜いてきた武将ならではの、伝統的かつ実利的な発想に基づいていた。
  • 当主・義宣の決断(久保田案): これに対し、義宣は全く異なる視点を持っていた。彼が選んだのは、雄物川の河口と重要な港である土崎湊に近く、かつ領国のほぼ中央に位置する「窪田」(後の久保田)の神明山(しんめいやま)であった 2

この選択の背後には、時代の変化を鋭敏に感じ取った義宣の明確な国家構想があった。関ヶ原の戦いを経て、大規模な軍事衝突の時代は終わりを告げつつあった。これからの泰平の世においては、軍事力だけでなく、経済力、特に商業と流通を掌握することが藩の力を左右する。義宣は、港(土崎湊)と河川(雄物川)という物流の大動脈を抑え、領国全体の統治と情報の中心地となりうる久保田こそが、新時代の本拠地にふさわしいと考えたのである。

義重の横手案が「農業基盤」を重視する戦国的な価値観を代表するものであったのに対し、義宣の久保田案は「商業・流通基盤」を重視する近世的な価値観を体現していた。最終的に義宣の意見が通り、久保田の地に新都を建設することが決定された。これは、佐竹氏が過去の武威に頼るのではなく、新たな時代の統治者として、商業と流通を藩政の柱に据えるという、藩の未来像を賭けたグランドデザインの選択であった。

第四部:久保田城築城 ― 時系列で辿る新都建設のリアルタイム記録

義宣の決断一下、久保田の地における新城と新都の建設は、驚異的な速度で進められていった。それは、敗者の烙印を押された佐竹氏が、新天地で一日も早く統治基盤を確立しようとする、強い意志の表れであった。

慶長八年(1603年):築城開始

  • 普請奉行の任命: 築城の総責任者である普請奉行には、二人の重臣が任命された。一人は、数々の戦で武功を挙げた歴戦の武将・梶原政景(かじわらまさかげ) 15 。もう一人は、後に藩政改革を主導し、優れた行政手腕を発揮する渋江政光(しぶえまさみつ)であった 17 。武勇と知略、軍事と行政の専門家を組み合わせたこの人選は、築城という一大事業を遂行する上で極めて的確なものであった。
  • 縄張りと設計: 築城の地に選ばれた神明山は、かつて在地領主の矢留城(やとめじょう)があった丘陵地であった 11 。梶原と渋江は、この地形を活かして城の全体設計である「縄張り」を行った 17 。特に、城の重要な出入り口である松下門周辺の縄張りは、義宣自らが設計を手がけたと伝えられており、彼のこの事業にかける並々ならぬ情熱と、築城に関する深い造詣を窺わせる 11
  • 五月、着工: 慶長八年五月、神明山において本格的な築城工事が開始された 13 。この工事と並行して、城下町の区画整理(町割り)と、徳川幕府が全国的に整備を進めていた主要幹線道路網の一部である羽州街道の整備も進められた 13 。城だけでなく、都市インフラと広域交通網を一体的に整備する、極めて近代的で計画的な都市開発であった。

慶長九年(1604年):本丸竣工と移転

  • 八月二十八日、本丸竣工: 工事開始からわずか一年三ヶ月余りという驚異的なスピードで、城の中枢である本丸が完成した 13 。これは、佐竹氏が常陸時代から培ってきた高度な土木技術と、全家臣団を動員した強力な実行力の賜物であった。
  • 湊城の破却と本城の確定: 本丸の完成を受け、義宣は居を新城へと移し、この城を「窪田城」(後に久保田城)と名付け、佐竹藩の正式な本城と定めた。これに伴い、約二年間、仮の居城として使用された湊城は、その役目を終えて破却された 1

慶長十年(1605年)以降:城下町の形成

城郭本体の完成後も、新都の建設は続けられた。特に、城下町の形成は、数十年を要する長期的なプロジェクトとして段階的に進められた。

  • 段階的な都市拡大: 本格的な城下町の町割りは慶長十二年(1607年)に始まり 13 、城の周囲には家臣が住む武家地「内町」が、その外側には商人や職人が住む町人地「外町」が計画的に配置された 20 。その後も、元和五年(1619年)の第二期、寛永六年(1629年)の第三期と、人口の増加に合わせて都市は計画的に拡大・整備されていった 13
  • 経済政策と都市計画の連動: 寛永八年(1631年)、義宣は藩の経済をさらに活性化させるため、重要な決断を下す。それまで茶町筋を通っていた主要街道・羽州街道のルートを、商業の中心地として発展しつつあった大町筋へと変更させたのである 13 。これは、都市の経済的動脈を意図的に操作し、商業の発展を最優先するという、彼の明確な政策の表れであった。

年月 (西暦/和暦)

主要事象

関係人物

備考・意義

1600 (慶長5)

関ヶ原の戦い。佐竹義宣は態度を曖昧にし、東軍に加わらず。

佐竹義宣、徳川家康、石田三成

この決断が後の転封の直接的な原因となる。

1600-1602

処分の保留。義宣は水戸城から動かず。

佐竹義宣、佐竹義重

家康による意図的な心理的圧迫の期間。

1602 (慶長7) 4月

義宣、上洛し家康に謝罪。

佐竹義宣、佐竹義重、徳川家康

佐竹氏の完全な降伏を意味する。

1602 (慶長7) 5月

出羽秋田への転封命令(石高不定)。

佐竹義宣、徳川家康

懲罰的かつ屈辱的な処分。

1602 (慶長7) 9月

義宣、秋田の湊城に入城。

佐竹義宣

新領地統治の開始と、在地勢力との軋轢。

1603 (慶長8) 5月

久保田の神明山にて新城(久保田城)の築城を開始。

佐竹義宣、梶原政景、渋江政光

新藩都建設の本格的な始動。

1604 (慶長9) 8月

久保田城本丸が竣工。義宣が入城し、湊城を破却。

佐竹義宣

久保田藩の本拠地が正式に定まる。

1607 (慶長12)

城下町(内町・外町)の第一期町割りが開始される。

佐竹義宣、渋江政光

近世都市・秋田の原型が形成され始める。

第五部:城郭の構造と設計思想 ―「天守なき土の城」の真意

こうして築かれた久保田城は、同時代に築かれた他の大名の城とは一線を画す、極めて特徴的な構造を持っていた。その質実剛健な姿には、佐竹氏が置かれた複雑な状況と、義宣の深い政治的思慮が込められていた。

佐竹流築城術の継承:土塁と堀を駆使した「土の城」

久保田城の最大の特徴は、大名の権威の象徴ともいえる天守閣が存在せず、また、壮麗な石垣も城門の基部などごく一部にしか用いられていない点にある 1 。城の防御は、高く険しく築かれた土塁と、幾重にも巡らされた広大な堀によって担われていた 1

この「土の城」とも言うべき構造は、佐竹氏が関東の地で長年にわたって培ってきた、伝統的な築城術の集大成であった 1 。事実、転封前の本拠であった常陸水戸城も、天守を持たず土塁を多用した城郭であったことが知られている 7 。さらにその前の居城であった太田城も、自然地形を活かしつつ、大規模な土木工事によって防御力を確保した城であった 25 。このことから、久保田城の設計は、決して間に合わせのものではなく、佐竹氏の技術的アイデンティティとも言える築城術を、新天地で意図的に再現したものであったことがわかる。

徳川への恭順と誇り:天守不設に込められた政治的メッセージ

では、なぜ義宣は天守や石垣を築かなかったのか。その理由として最も広く指摘されているのが、「徳川幕府への遠慮」である 11 。関ヶ原での曖昧な態度を咎められ、懲罰的な転封を受けた外様大名として、幕府の権威を刺激するような、華美で威圧的な城を築くことは政治的に賢明ではなかった。質素な城を築くことで、徳川家への恭順の意を明確に示したのである。

しかし、これは単なる卑屈な追従と見るべきではない。むしろ、そこには義宣のしたたかな計算があった。あえて自らの伝統的築城術である「土の城」を前面に押し出すことで、「我々は幕府に恭順の意を示すが、同時に、我々が培ってきた伝統と誇りを失ってはいない」という二重のメッセージを発信する、高度な政治的パフォーマンスであったと解釈することも可能である。

現実的選択:財政難と技術的制約

もちろん、そこには極めて現実的な理由も存在した。常陸五十四万石から出羽二十万石への大幅な減封は、佐竹藩の財政を著しく悪化させた。壮大な天守や総石垣の城を築くほどの経済的余裕がなかったことは、大きな要因の一つであった 11 。また、佐竹氏の家臣団や当時の秋田には、大規模な石垣普請を指揮できるような、高度な技術を持つ石工集団が不足していた可能性も指摘されている 27

天守の代用としては、本丸の土塁上に「御出し書院」と呼ばれる二階建ての櫓が建てられた 28 。この建物は当初三階建てで計画されたものの、この地の強風で倒壊したため、二階建てで再建されたという逸話は 1 、新領国の厳しい自然環境を物語っている。

このように、久保田城の「天守なき土の城」という独特の姿は、単一の理由によって生まれたものではない。「幕府への政治的配慮」「藩の財政的制約」「佐竹氏伝統の築城術の継承」という三つの要素が複雑に絡み合い、その結果として導き出された、当時の佐竹氏にとっての極めて合理的かつ戦略的な「最適解」だったのである。それは、置かれた状況下で自らのアイデンティティを保ちつつ、政治的・経済的課題をクリアするための、見事な総合的判断の結果と評価できよう。

第六部:新たな藩都の誕生 ― 久保田城下町の防衛と経済

久保田城の設計思想は、城郭内にとどまらず、その周囲に広がる城下町全体にまで及んでいた。城自体は質素な造りであったが、その分、都市全体を防衛拠点とする、高度な思想が盛り込まれていたのである。

城下町全体を要塞に:防衛思想の展開

義宣が目指したのは、城と町が一体となった要塞都市であった 30 。その思想は、町割りの随所に見て取ることができる。

  • 防衛的な街路網: 武家町を中心に、意図的に見通しの悪い「枡形」(四角く囲われた空間)や「鉤型」(クランク状の道)、T字路が数多く配置された 31 。これは、万が一敵が城下に侵入した場合でも、直線的に城へ到達することを防ぎ、市街戦で敵の進軍速度を遅らせるための工夫であった。
  • 風水と軍事機能の融合: 城から見て北東、すなわち「鬼門」とされる方角には、多くの寺院が集められ「寺町」が形成された 31 。これは、風水思想に基づく霊的な守りであると同時に、有事の際には、広大な敷地と頑丈な塀を持つ寺院群を、防衛拠点や兵の駐屯地として利用するという、極めて現実的な軍事目的をも兼ね備えていた。

経済中心地の形成:商業政策と藩財政の礎

防衛機能と並行して、城下町には藩の経済を支えるための機能が計画的に配置された。

  • 身分による居住区の分離: 城を中心とした「内町」には佐竹氏の家臣である武士たちが住み、その外側に広がる「外町」には商人や職人たちが住むという、明確なゾーニングが行われた 20
  • 商業機能の集中と育成: 外町では、特定の町に特定の商業的特権を与えることで、経済活動の活性化が図られた。例えば、「大町」には両替商(現在の銀行に相当)が集中し、「茶町」には砂糖類の専売権が与えられた 32 。これにより、各町が特色を持ちながら発展し、城下町全体の経済的求心力を高めた。
  • 物流の掌握: 前述の通り、羽州街道のルートを商業の中心地である大町筋へと変更したことは、藩が物流と商業をいかに重視していたかを象徴している 13 。これにより、久保田は単なる藩の政治的中心地にとどまらず、出羽国における広域的な経済のハブとしての役割を担うことになった。

二百七十年の平和の起点:近世都市・秋田の原型

こうして、軍事的防衛機能と経済的発展機能とを巧みに融合させて築かれた久保田城と城下町は、その後、明治維新に至るまでの約270年間にわたり、佐竹氏による秋田統治の拠点として栄えた 30 。その間、度重なる大火に見舞われ 13 、幕末の戊辰戦争(秋田戦争)では、城下からわずか12kmの地点まで敵軍に迫られるという危機にも瀕したが 13 、城が陥落することはなかった。そして、この時に形成された都市の骨格は、時代の変遷を経て、現在の秋田市の礎として、今なお受け継がれているのである 2

終章:久保田城が象徴するもの ― 佐竹氏の再起と久保田藩の礎

慶長七年(1602年)に始まり、その後数十年にわたって続けられた久保田城とその城下町の建設は、単なる土木事業の記録ではない。それは、関ヶ原の戦いで政治的に敗北し、全てを失いかけた名門大名・佐竹氏が、屈辱的な懲罰の中から、新たな時代を生き抜くための国家戦略を練り上げ、一族の再起を賭けて実行した、壮大な創生記であった。

天守を持たず、土塁を巡らせた質実剛健な城の姿は、絶対的な権力者となった徳川幕府への恭順の意を示すと同時に、関東の名門としての佐竹氏の伝統と誇りを、声高にではなく、しかし確固として主張する象徴であった。そして、その城を中心に、防衛と経済の思想を高度に融合させて築かれた機能的な城下町は、武力のみが支配した戦国の世から、経済力と統治力が藩の存続を左右する近世へと、時代が大きく移行したことを見事に体現していた。

久保田城の築城始末は、歴史の大きな転換点において、一人の大名とその家臣団がいかにして危機を乗り越え、未来への礎を築いたかを示す、貴重な歴史的証言なのである。それは、敗北の中から新たな価値を創造し、二百七十年にわたる平和な統治の基盤を築き上げた、佐竹義宣の不屈の物語に他ならない。

引用文献

  1. 佐竹義宣が土づくりのお城技術を活かした【久保田城の歴史】をまるっと解説 https://japan-castle.website/history/kubotacastle/
  2. 久保田城について|秋田市公式サイト https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1002685/1009873/1009870/1002300.html
  3. 「佐竹義宣」関ヶ原では東軍でありながら義理を通して西軍に与した律義者!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/717
  4. 久保田城> "佐竹氏”伝統の土造りの技術を駆使したお城 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12805019037.html
  5. 久保田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E8%97%A9
  6. 佐竹義宣の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38335/
  7. 古城の歴史 久保田城 https://takayama.tonosama.jp/html/kubota.html
  8. 佐竹家の歴史と武具(刀剣・甲冑)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/30448/
  9. 佐竹義宣 (右京大夫) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
  10. 国替え直後の出羽と常陸 - 茨城県立歴史館 https://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/kunigaechokugo.htm
  11. 久保田城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/kubota/kubota.html
  12. 佐竹氏入部前後の由利領北部地域 https://air.repo.nii.ac.jp/record/5755/files/akishi67(22).pdf
  13. 久保田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E5%9F%8E
  14. 佐竹氏秋田転封時の阿仁・比内地方の動静 - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/hinai/17/0/17_86/_article/-char/ja/
  15. 梶原政景供養塔 https://gururinkansai.com/kajiwaramasakagekuyoto.html
  16. 梶原政景 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KajiwaraMasakage.html
  17. 渋江政光 Shibue Masamitsu - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/shibue-masamitsu
  18. 大坂冬の陣 まさかの戦死 佐竹藩家老の書状/秋田県立博物館 - 世界日報DIGITAL https://www.worldtimes.co.jp/japan/20230204-168776/
  19. 久保田城 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/kubotajo/
  20. くぼた旧町名物語 (8)武家のまち「内町」編 | 秋田市観光・イベント情報総合サイト アキタッチ+(プラス) https://www.akita-yulala.jp/selection/5000011204
  21. 秋田市の基礎は佐竹義宣が造り上げた久保田城の城下町【秋田県】 https://jp.neft.asia/archives/27889
  22. 歴史・文化シリーズ「街道 寄り道 備忘録」が始まります! - 旧松倉家住宅 https://matsukura-akita.com/matsu-news/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%80%8C%E8%A1%97%E9%81%93-%E5%AF%84%E3%82%8A%E9%81%93-%E5%82%99%E5%BF%98%E9%8C%B2%E3%80%8D%E3%81%8C%E5%A7%8B%E3%81%BE/
  23. 徳川への忖度!?天守閣なき久保田城に隠された佐竹氏の野望 - note https://note.com/dear_pika1610/n/n6c772c30fe62
  24. 水戸城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%9F%8E
  25. 初期の常陸太田城はどこにあったか? http://yaminabe36.tuzigiri.com/satake0/syoki_hitatioota.htm
  26. 日本の城探訪 久保田城 https://castlejp.web.fc2.com/01-hokkaitouhoku/13-kubota/kubota.html
  27. 「久保田城」 土のお城で天守代用の隅櫓と御出書院がシンボルだった https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12618021027.html
  28. 全国各地の天守代用 http://takasakijou.web.fc2.com/zenkokunotensyudaiyou.html
  29. 久保田城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/touhoku/kubota/kubota.html
  30. 久保田城跡 ( 秋田県秋田市千秋公園 ) http://kattyan.ath.cx/kubotajyouseki/kubotajyouseki.htm
  31. 城下町の風景 - 秋田県WEB観光案内所 https://www.akitabi.com/fi-rudo/jyouka.html
  32. くぼた旧町名物語 - 秋田市 https://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20040514/5-14-1.html
  33. 久保田城御隅櫓(千秋公園内) | 秋田市観光・イベント情報総合サイト アキタッチ+(プラス) https://www.akita-yulala.jp/see/200010242