仙台城下青葉通整備(1601)
慶長六年、伊達政宗は仙台開府。現代の青葉通ではなく、大町通と奥州街道を基軸に城下町を整備。経済発展を重視した先進的都市計画で、戦国から近世への転換期における政宗の建国宣言であった。
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仙台開府と都市骨格の創生:慶長六年(1601年)、伊達政宗の都市計画の実像
序章:青葉通の伝説と大町通の真実 — 1601年仙台創生の実像
導入:誤解の解明と本質への接近
ご依頼の「仙台城下青葉通整備(1601年)」という事象は、仙台の都市形成史を語る上で、まず解き明かすべき一つの重要な誤解を内包しています。現代の仙台市を象徴するケヤキ並木の大通り「青葉通」は、伊達政宗が仙台を開府した慶長六年(1601年)に整備されたものではありません。史実によれば、この道路は第二次世界大戦の戦災で焦土と化した市街地を復興する過程で、昭和二十一年(1946年)に計画・建設されたものです 1 。
この歴史認識のずれは、現代の都市景観がいかに過去のイメージを形成するかの好例と言えます。仙台城の通称が「青葉城」であること 2 から、城へと向かう壮麗な「青葉通」が、あたかも開府当初から存在したかのように想起されやすいのです。しかし、これは一種の「創られた伝統」であり、歴史の真実を探るには、まずこの現代のレンズを外す必要があります。
本レポートが真に光を当てるのは、1601年の仙台開府時に、伊達政宗の壮大な都市構想の根幹として計画・敷設された二つの基軸道路、すなわち東西を貫く**「大町通」 と南北を走る 「奥州街道」**です 3 。これらこそが、戦国の世が終わりを告げ、新たな近世社会が幕を開ける転換点において、政宗が未来の繁栄を見据えて描いた都市の骨格でした。本稿では、天下分け目の関ヶ原の戦いが終結した直後という、まさに時代の分水嶺に立って行われたこの一大事業を、その背景、計画、実行のプロセスに至るまで、時系列に沿って詳細に解き明かしていきます。
第一章:仙台遷府の背景 — 慶長五年(1600年)、政宗の野望と打算
1.1. 関ヶ原の渦中で:政宗の戦略と「百万石のお墨付き」
慶長五年(1600年)、日本の運命を決定づけた関ヶ原の戦いにおいて、奥州の雄・伊達政宗は極めて複雑な立場にありました。公式には徳川家康率いる東軍に与しながらも、その裏では自らの勢力拡大を画策していたのです。彼は徳川方として上杉景勝の軍勢を牽制する一方で、旧領回復を狙い、和賀郡で一揆を密かに煽動したとされています。
この野心的な行動は、結果として政宗の未来に大きな影を落とします。戦勝後、家康は政宗の功績を認め、当初は大幅な加増、いわゆる「百万石のお墨付き」を与えようとしました。しかし、和賀での一揆煽動の嫌疑が露見したことで、この約束は反故にされてしまいます 2 。結果、伊達家の石高は62万石に留まり、政宗の領土拡大の野望は大きく頓挫しました。この政治的挫折は、しかしながら、彼の情熱を新たな方向へと向けさせる強烈な契機となりました。軍事力による領土拡大が不可能となった新時代において、政宗は「国づくり」、すなわち強力な藩を内政と経済によって築き上げることこそが、新たな覇権の道であると認識したのです。仙台という新都の建設は、まさにその野心の転換点であり、失意から生まれた再起のプロジェクトでした。
1.2. 岩出山から仙台へ:新時代の拠点選定
関ヶ原の戦いを経て、政宗はそれまでの居城であった岩出山城(現・宮城県大崎市)からの遷府を決断します。新たな本拠地として彼が選んだのが、千代(せんだい)と呼ばれていた現在の仙台でした。この選択には、戦国武将としての鋭い戦略眼と、近世大名としての先見の明が明確に表れています。
軍事的視点:
まず、仙台の中心にそびえる青葉山は、比類なき天然の要害でした。東は広瀬川が刻んだ高さ60メートルを超える断崖、南は竜ノ口渓谷の深い谷に守られ、「守るに易く、攻めるに難い」という山城の理想的な立地条件を備えていました 2。当時、依然として上杉景勝との間に緊張関係が続いていたことを考えれば、この防御能力の高さは拠点選定における最優先事項の一つでした 6。
経済的・将来的視点:
しかし、政宗の慧眼は軍事面に留まりませんでした。彼は青葉山の対岸に広がる広大な河岸段丘と、その先に続く仙台平野に、将来の経済的発展の可能性を見出していました。この地は、江戸へと続く主要街道である奥州街道が通り、また海(仙台湾)にも近いことから、物流の拠点として、そして広大な穀倉地帯の中心として、計り知れないポテンシャルを秘めていたのです 2。
政治的視点:
さらに、この遷府には徳川幕府の意図も介在していたと考えられます。徳川家康にとって、強大な伊達政宗を奥州の要衝に配置することは、北の諸大名、特に依然として脅威であった上杉氏に対する強力な牽制となるという政治的計算がありました 8。
このように、仙台への遷府は、軍事、経済、政治の各側面から熟慮された、政宗の新たな時代に向けたグランドデザインの第一歩だったのです。
第二章:慶長六年(1601年)、新城下町の胎動 — リアルタイム・クロノロジー
慶長六年(1601年)は、仙台という都市がゼロから生み出された、極めて凝縮された一年でした。伊達政宗の号令一下、城と町が同時並行で、驚異的なスピードで建設されていく様を時系列で追います。
正月(1月28日):普請始め
年の初め、1月28日。伊達政宗は公式に仙台城の築城工事(普請)を開始しました 9 。厳寒の奥州で、青葉山を切り拓き、整地し、石垣を組み上げるという壮大な工事の幕開けです 2 。この事業には、伊達家中の家臣団はもちろん、領内の農民が普請役として動員され、さらに後述するような専門技術者集団が全国から招聘されました。
二月~三月:町割りと「仙台越し」
築城工事と並行して、広瀬川の対岸に広がる平坦な段丘上では、城下町の建設が始まります 10 。政宗は、旧本拠地である岩出山とその周辺に住む家臣、商人、職人のすべてに対し、残らず仙台へ移住するよう厳命を下しました。史料によれば、この年の二月から五月にかけてのわずか数ヶ月間で、侍約3万人、町人・職人ら約2万人、合計5万人以上もの人々が、家財を運び、新たな土地へと移り住んだと記録されています 9 。この計画的かつ大規模な都市移転は、さながら「仙台越し」とも呼ぶべきものでした。この時期に、新都市の骨格となる大町通と奥州街道を基軸とした「町割り」の基本計画が策定され、移住してきた人々の屋敷地が定められていきました 9 。
四月:政宗、未完の城へ入る
普請開始からわずか3ヶ月後の四月、政宗は驚くべき行動に出ます。まだ建築工事の槌音もやまない、未完成の仙台城本丸へと自身の居を移したのです 2 。これは単なる引っ越しではありません。新拠点建設に対する自らの揺るぎない決意を内外に示し、家臣団や領民の士気を鼓舞し、巨大プロジェクトを強力に推進するための、計算され尽くした政治的パフォーマンスでした。
年間を通じて:インフラストラクチャーの構築
一年を通じて、都市の生命線となるインフラ整備が急ピッチで進められました。
- 道路敷設: 仙台城の大手門から東へ、都市を貫くメインストリート「大町通」と、南北の交通の大動脈「奥州街道」の敷設工事が本格化しました 3 。これらは単なる道ではなく、都市の機能と秩序を規定する基準線そのものでした。
- 架橋: 天然の堀である広瀬川を越え、城と城下町を物理的に結ぶため、巨大な木橋「大橋」が架けられました 2 。この橋の重要性は、政宗自らが橋の擬宝珠(ぎぼし)に「仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天(神仙世界の橋の下を流れる川の水が千年続くように、民が安らかで国が泰平な様は、古代の聖天子の世のようだ)」という銘文を刻ませたことからも窺えます 2 。これは、藩の永遠の安寧を祈願する、まさに建国のモニュメントでした。
- 専門家の招聘: この巨大事業を支えるため、当代一流の専門家たちが仙台に集結しました。和泉国・堺からは石工棟梁の黒田屋八兵衛が招かれ、仙台城の堅固な石垣を築きました 4 。京都からは大工棟梁の梅村彦左衛門・彦作親子が招聘され、本丸大広間などの壮麗な建築物を手掛けました 2 。そして、この頃に政宗に召し抱えられたのが、毛利家の旧臣で土木技術の天才、川村孫兵衛重吉でした 14 。彼の存在が、後の仙台藩の経済的発展に不可欠な役割を果たすことになります。
表1:慶長六年(1601年)仙台城及び城下町建設の時系列年表
時期(月・日付) |
主要な出来事 |
関連人物 |
意義・特記事項 |
関連資料 |
正月28日 |
仙台城普請始め |
伊達政宗 |
新時代の幕開けを告げる公式な着工。青葉山にて整地、石垣構築開始。 |
9 |
二月~五月 |
岩出山からの住民移転(仙台越し) |
家臣団、町人、職人 |
約5万人の計画的都市移住。新城下町の住民を確保。 |
9 |
四月 |
政宗、仙台城本丸へ入城 |
伊達政宗 |
未完の城に入ることで、工事の強力な推進と内外への決意を表明。 |
2 |
年間を通じて |
大橋架橋 |
伊達政宗 |
城と城下町を結ぶ大動脈が完成。藩の安寧を祈る銘文が刻まれる。 |
2 |
年間を通じて |
大町通・奥州街道の敷設 |
普請奉行、領民 |
都市の骨格となる基軸道路の建設が本格化。 |
4 |
年間を通じて |
専門技術者の招聘 |
黒田屋八兵衛、梅村彦左衛門、川村孫兵衛重吉 |
築城、建築、土木の各分野で最高レベルの技術を導入。 |
2 |
第三章:都市骨格の設計思想 — なぜ「広く」「まっすぐ」だったのか
1601年の仙台城下町計画、特にその中核をなす大町通の設計には、伊達政宗の先進的な都市思想が色濃く反映されています。それは、戦国時代の常識を覆すものでした。
3.1. 大町通:権威と経済のメインストリート
仙台城の大手門から東に向かって、約1.5キロメートルにわたり一直線に伸びる「大町通」は、この新都市の背骨でした 5 。この「広く、まっすぐな」道には、複数の意図が込められていました。
- 経済的機能: これこそが、政宗の最大の狙いでした。広く直線的な道路は、牛馬や大八車による物資輸送の効率を飛躍的に向上させます。彼は、この通りの両側に大店(おおだな)が軒を連ね、活発な商業活動が展開されることを想定していました 13 。もはや戦の勝敗だけでなく、経済力が藩の盛衰を左右する新しい時代が到来することを見抜いていたのです 16 。
- 象徴的機能: 城の正面から真っ直ぐに伸びる壮大な道は、城下に住むすべての人々に対し、藩主である伊達家の権威を視覚的に示す「見せるインフラ」でした。本丸からこの道を見下ろすことは、政宗にとって自らが創造した秩序ある世界を支配する、まさに統治者としての視点そのものでした。
- 軍事的機能: もちろん、有事の際には城から城下へ兵員を迅速に展開させるための軍用道路としての側面も考慮されていました。しかし、多くの戦国城下町が防御のために道を意図的に屈曲させた(鉤の手)のとは対照的に、あえて直線を選んだことは、政宗が軍事一辺倒の発想から脱却していたことを示しています。
この直線という形状には、合理的な機能性だけでなく、政宗個人の美意識も反映されていたと考えられます。彼は豪華絢爛な桃山文化を体現し、伝統を重んじつつも常に新しいものを好んだ人物でした 18 。整然とした直線道路は、混沌とした自然に人間の理性が秩序を与える象徴であり、彼にとってこの都市計画は、自身の理想を大地に刻み込む芸術作品にも近い行為だったのかもしれません。
3.2. 芭蕉の辻:都市のヘソと情報の中心
東西の基軸である大町通と、南北の基軸である奥州街道が交差する一点。この十字路は「芭蕉の辻」と名付けられ、仙台城下町の地理的、そして機能的な中心、まさに「ヘソ」として設計されました 5 。
その役割は多岐にわたります。まず、幕府や藩からの法令・禁令が掲げられる高札場(こうさつば)が設けられ、「札の辻」とも呼ばれる公式な情報伝達の中心地でした 20 。人々はここで藩の決定を知り、世の中の動きを把握したのです。さらに、藩の両替所が置かれるなど、商業・金融の中心地としても急速に発展し、城下で最も賑わう場所となりました 22 。人、物、金、そして情報が、この芭蕉の辻に集まり、ここから城下全体へと拡散していったのです。
3.3. 他都市との比較:仙台の先進性と独自性
仙台城下町の計画は、同時代に建設された他の大都市と比較することで、その先進性と独自性がより鮮明になります。
- 江戸との比較: 徳川家康による江戸の都市計画も、江戸城大手門から続く街道を基軸としていました 24 。しかし、江戸城が「の」の字を描くように渦巻状の堀で防御を固めたのに対し、仙台は自然地形を最大限に活用した山城であり、城と城下町が広瀬川を挟んで対峙する、より開放的な関係性にありました。
- 名古屋との比較: 1610年から始まった名古屋城下町の建設では、清洲の町を丸ごと移転させる「清洲越し」が実行されました 25 。これは仙台の「岩出山越し」と非常によく似た計画的都市移転の手法です。しかし、名古屋が京都を模したとされる厳格な碁盤目状の区画(碁盤割)を平地に展開したのに対し 28 、仙台は自然の段丘地形を巧みに活かしながら基軸道路を通す、より柔軟で地形に即した計画であった点が異なります。
これらの比較から浮かび上がるのは、伊達政宗の思想の先進性です。彼は、多くの大名が依然として防御を最優先し、見通しの悪い袋小路や鉤の手を多用した城下町を築いていた時代に、あえて経済活動の効率性を重視した「広く、まっすぐな」大通りを都市の中核に据えました。これは、仙台を単なる軍事拠点ではなく、未来を見据えた経済・行政都市として構想していたことの何よりの証拠と言えるでしょう 17 。
第四章:身分制社会の空間的具現 — 武家・町人・寺社の配置戦略
慶長六年に描かれた仙台城下町の青写真は、当時の厳格な身分制度を、都市空間そのものによって可視化するものでした。どこに誰が住むかによって、その者の社会的な序列が示される、秩序の都市でした。
4.1. 城下のゾーニング:武家地・町人地・寺社地
仙台城下は、大きく分けて「武家地」「町人地」「寺社地」の三つに明確に区分(ゾーニング)されていました 3 。その最大の特徴は、武家屋敷が占める割合の異常な高さです。城下面積の実に6割を武家地が占めており、人口比率でも武士が多数を占める、まさに「武士の町」でした 3 。
この空間構成は、仙台藩の経済構造そのものを決定づけることになります。城下に集住する膨大な数の武士は、基本的に俸禄米で生活する非生産者階級であり、巨大な食料消費地が生まれたことを意味します。この巨大な消費者集団を養い、藩財政を安定させるためには、領内での米の増産が至上命題となりました。その結果、藩は必然的に大規模な新田開発や治水事業へと邁進せざるを得なくなります。1601年の武士中心の都市計画は、後の仙台藩が「農業・土木立国」とも言うべき経済政策を進める、すべての出発点となったのです。
4.2. 武家屋敷の配置:忠誠と監視のヒエラルキー
武家屋敷の配置は、藩主への忠誠度と家格に基づいた、見事なまでのヒエラルキー構造をなしていました。城に最も近い、広瀬川に面した一等地(現在の片平丁など)には、伊達一門や藩の最高幹部である奉行といった高禄の重臣たちが、広大な屋敷を構えました 19 。彼らは城の直近を守る、いわば第一の盾でした。
その外側には、中級・下級武士たちの屋敷が、北一番丁から北七番丁のように、整然とした区画の中に配置されました 31 。この家臣集住政策は、有事の際に迅速な動員を可能にすると同時に、すべての家臣を藩主の足元である城下に集め、その監視下に置くという、戦国時代以来の統制策でもありました。
4.3. 町人・職人町の配置:経済動脈の形成
一方で、経済活動を担う町人や職人たちは、その機能が最大限に発揮される場所に計画的に配置されました。すなわち、商業と物流の大動脈である大町通と奥州街道の沿道です 5 。
開府当初からの譜代の商人たちが住んだ大町や国分町を中心に、魚介類を専門に扱う肴町、刀鍛冶や鉄砲鍛冶が集められた鍛冶町など、職業ごとの専門街区が形成されました 5 。藩はこれらの町に対し、特定の商品の専売権などの特権を与えることで、商工業の振興を積極的に図りました。
4.4. 寺社地の配置:城下の外殻防衛線
城下の外縁部、特に北の丘陵地(北山)や南東部(新寺小路)には、多くの寺社が集められて配置されました。これは、平時においては人々の信仰の場であると同時に、有事の際には、その堅固な土塀や石垣、大きな伽藍が敵の侵攻を食い止める防御拠点となることを意図した、極めて軍事的な配置でした。
さらに、仙台の都市計画には神秘主義的な側面も見て取れます。政宗は城下の主要な寺社を、陰陽道における結界の象徴である六芒星(ダビデの星)の形に配置したという伝説が残っています 16 。これは、物理的な防御だけでなく、呪術的な力によっても都市を守護しようとした、政宗の独特の世界観を反映しているのかもしれません。
第五章:仙台創生を支えた人々 — 政宗のブレーンと技術者たち
伊達政宗の壮大なビジョンも、それを実現する卓越した専門家たちの技術と、無数の人々の労働なくしては絵に描いた餅に過ぎませんでした。仙台創生は、政宗という傑出したプロデューサーの下に、各分野のスペシャリストが集結した一大プロジェクトでした。
5.1. 川村孫兵衛重吉:藩の礎を築いた土木の巨匠
仙台藩のその後の発展を語る上で、川村孫兵衛重吉の名を欠かすことはできません。彼はもともと長州・毛利家の家臣でしたが、関ヶ原の戦いで浪人の身となっていたところを、その並外れた土木技術の才を見込んだ政宗によって破格の待遇で召し抱えられました 14 。
慶長六年(1601年)の時点では、彼の主戦場はまだ城下町建設そのものではありませんでしたが、この時期に彼を家臣団に加えたことが、仙台藩の未来にとって決定的に重要でした。後に彼は、暴れ川であった北上川の流路を付け替えて広大な新田を拓き、また江戸への米の輸送路となる貞山運河を開削するなど、仙台藩を日本有数の米どころへと押し上げる数々の大事業を成し遂げます 32 。1601年の都市計画が描いた経済的繁栄の青写真を、現実に変えたのが川村孫兵衛だったのです。
5.2. 梅村彦左衛門と黒田屋八兵衛:城を形作った匠たち
政宗は、中央の先進技術を積極的に導入するため、京都や堺といった当時の一流文化・技術の中心地から、最高の職人たちを招聘しました。
大工棟梁として招かれた京都の梅村彦左衛門・彦作親子は、藩主の権威の象徴である本丸大広間を手掛けました 2。千畳敷とも呼ばれたこの壮大な建築物は、豪華絢爛な桃山文化の粋を集めたものでした。
また、石工棟梁として招かれた和泉国・堺の黒田屋八兵衛は、後に「石垣の博物館」とも称されることになる仙台城の石垣を築き上げました 4。その堅固かつ精緻な石積みは、伊達家の権力と技術力の高さを見せつけるものでした。
政宗のこうした人材登用は、旧来の主従関係に縛られない、極めて近代的な「プロジェクトマネジメント」の様相を呈しています。彼は、仙台建設という一大事業を成功させるために、必要な専門性を持つ人材を、出自や過去を問わず全国から探し出し、大きな権限を与えて活用しました。これは、彼が単なる封建領主ではなく、巨大プロジェクトを率いる優れた経営者、プロデューサーであったことを示しています。
5.3. 名もなき奉行と民衆:巨大プロジェクトの実行者
歴史は往々にして英雄や天才の名のみを記憶しますが、仙台の創生は、名もなき無数の人々の力によって成し遂げられました。町割りや住民移転を現場で指揮した奉行たち、そして実際に鍬を振るい、槌を振るい、土を運んだ領民たちの存在なくして、この驚異的なスピードでの都市建設はあり得ませんでした。仙台の誕生は、藩主から民衆まで、すべての階層が一体となって取り組んだ、まさに藩を挙げた一大事業だったのです。
結論:戦国から近世へ — 伊達政宗が描いた未来都市の青写真
慶長六年(1601年)に行われた仙台城および城下町の建設、その骨格をなした大町通と奥州街道の整備は、単なるインフラ事業の枠を遥かに超える歴史的意義を持っています。それは、戦国の動乱期を生き抜き、天下の趨勢を見極めた伊達政宗が、徳川が治める新たな時代において、自らの藩が如何にあるべきか、その理想と決意を壮大なスケールで大地に刻んだ「建国宣言」でした。
政宗の都市思想の核心は、その先進性にあります。彼は、旧態依然とした軍事一辺倒の要塞都市ではなく、経済の発展と民政の安定こそが藩の力の源泉となることを見抜き、商業活動の効率性を最大限に高める都市を構想しました 16 。城の大手門から一直線に伸びる広く明るい大町通は、その思想の最も雄弁な象徴です。
この慶長六年に定められた都市骨格は、その後270年にわたる江戸時代を通じて、62万石・仙台藩の繁栄の礎となりました。そして、近代化の波、さらには第二次世界大戦による壊滅的な戦災を乗り越え、現代の仙台市の街路網にも、その基本的な構造は脈々と受け継がれています。戦後に建設された青葉通が、奇しくもかつての大町通とほぼ並行して城へと向かっていることは、伊達政宗が400年以上前に描いた都市の青写真が、今なおこの街の息吹として生き続けていることを示唆しているかのようです。
引用文献
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- 伊達政宗公 - 仙台城 https://honmarukaikan.com/s/docs/date/sendaijo.htm
- 現代宮城風土記#54:仙台城下の老舗②|みやせん(宮城仙台の豆知識) - note https://note.com/miya_sen_mame/n/ndcfe13aa7add
- 現代宮城風土記#53:仙台城下の老舗①|みやせん(宮城仙台の豆知識) - note https://note.com/miya_sen_mame/n/n46204cda7e57
- 現代宮城風土記#41:仙台城下町の構造と現代の町|みやせん(宮城仙台の豆知識) - note https://note.com/miya_sen_mame/n/n668c58805708
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- 仙台開府は伊達政宗と徳川家康のまさかの共同事業!?:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【3】 | 宮城県 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/120401
- 我が町 田町 - 田町町内会 https://tamachi-sendai.jp/tamashi/
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- 伊達な歴史の新体験|達人コース~仙台城下町割りを探る~ | 【公式】仙台観光情報サイト https://www.sentabi.jp/modelcourse/tatsujin01/
- 仙台藩を百万石超にした二人のカワムラとは? - 横町利郎の岡目八目 https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-477.html
- 独眼竜と治水の名手、川村孫兵衛重吉 緒方英樹 連載13 - ソーシャルアクションラボ https://socialaction.mainichi.jp/2021/04/11/1180.html
- 独眼竜・伊達政宗を歩く 第2回〜仙台の街に残る都市伝説 - note https://note.com/rootsofjapan/n/ndf9a096f15df
- 【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第2回 常識はずれの城下町づくり 後編 | ARTICLES | Kappo(仙台闊歩) https://kappo.machico.mu/articles/1749
- 史跡仙台城跡整備基本計画 (案) https://www.city.sendai.jp/shisekichosa/shise/security/kokai/fuzoku/kyogikai/kyoiku/documents/shiryo5-2-1.pdf
- 第2章 計画地の環境 - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/shisekichosa/documents/documents/seibikihonnkeikaku2.pdf
- 芭蕉の辻の歴史 - CROSS B PLUS https://cross-b-plus.com/history/
- 芭蕉の辻 | 伊達な歴史の新体験 https://sendai-vrtour.jp/ja/spot/4/
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- 清洲越し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E8%B6%8A%E3%81%97
- 築城と城下町の形成、清須越 | 城外の発展 | 名古屋城について https://nagoyajo.webmasteris.me/learn/development/kiyosugoshi/
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- 碁盤の目のような城下町?<後編 - from仙台 https://flomsendai.seesaa.net/article/201807article_2.html
- 仙台 政宗の夢 - ―城とまちづくりを探る https://www.city.sendai.jp/bunkazai-kanri/documents/pan46.pdf
- 仙台市街の町割形態 http://hist-geo.jp/img/archive/010_219.pdf
- 治水の名手 川村孫兵衛 - 農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/miyagi/index.html
- 川村 孫兵衛重吉 -北上川の流れを変える https://www.pref.miyagi.jp/documents/1311/216330.pdf
- 仙台藩の偉大な技術者川村孫兵衛二代記 http://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/03/keisai_49-5hito.pdf
- 仙台城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/sendaijo/