出雲大社修造寄進(1602)
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政略の神殿:慶長七年出雲大社修造寄進に見る戦国終焉の力学
序章:関ヶ原前夜の出雲国と疲弊する大神殿
慶長七年(1602年)に計画された出雲大社の修造事業は、単に一社の宗教施設の復興に留まるものではない。それは、約半世紀にわたる戦国の動乱によって疲弊し、その秩序が根底から覆された出雲国という地域社会そのものの再建を象徴する出来事であった。この事業の歴史的意義を理解するためには、まず、関ヶ原の戦いに至るまでの出雲国が、いかなる権力闘争の舞台となり、その精神的支柱たる出雲大社が、いかにして荒廃の一途を辿ったのかを解明する必要がある。
尼子氏の隆盛と出雲大社
戦国時代の出雲国は、長らく守護代の家柄であった尼子氏の支配下にあった 1 。京極氏の権威が衰える中、尼子経久、晴久の代には山陰・山陽十一州に覇を唱えるほどの勢力を誇り、中国地方の覇権を巡って西の大内氏や、後に台頭する毛利氏としのぎを削った 1 。
尼子氏の強大な権勢を支えた経済的基盤は、領内で盛んに行われていた「たたら製鉄」であった。最盛期には日本の鉄生産量の約八割を産出したともいわれ、この鉄が莫大な富と強力な武具をもたらし、尼子氏の軍事力と領国経営を盤石なものとしていた 2 。出雲大社と尼子氏の関係もまた、この鉄を介して結ばれていた。天文二十四年(1555年)の出雲大社遷宮に関する記録には、尼子晴久が領内から「たたら役」として鉄160駄を徴収したことが記されている 3 。これは、尼子氏が単に信仰の対象として大社を保護しただけでなく、その宗教的権威を領国支配の体制に組み込み、経済的にも密接な関係を築いていたことを示している。大社の祭祀を維持することは、すなわち尼子氏の支配の正当性を担保する行為でもあった。
毛利氏の侵攻と戦乱の爪痕
しかし、尼子氏の栄華は永くは続かなかった。安芸国から勢力を拡大した毛利元就が、中国地方の覇権を掌握すべく尼子氏に牙を剥いたのである 4 。永禄年間に入ると両者の対立は激化し、永禄五年(1562年)、毛利氏はついに本格的な出雲侵攻を開始する 5 。
この侵攻は、出雲国全土を巻き込む長期の戦乱へと発展した。毛利軍は石見国から出雲へ進攻し、三沢氏や三刀屋氏といった出雲の国人衆を次々と味方につけていった 5 。尼子義久は居城である月山富田城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せるが、兵糧攻めの前に力尽き、永禄九年(1566年)に降伏。ここに戦国大名としての尼子氏は一旦滅亡する 4 。
だが、戦乱はこれで終わらなかった。主家の再興を悲願とする山中幸盛(鹿介)らに擁立された尼子勝久が、永禄十二年(1569年)に再興軍を蜂起させ、再び出雲国は戦火に包まれる 5 。この尼子再興軍の戦いも毛利氏によって鎮圧されるが、一連の約十年に及ぶ抗争は、出雲国の社会経済に壊滅的な打撃を与えた。この戦乱の直接的な結果として、出雲大社の社領は侵され、経済基盤は著しく損なわれた。度重なる軍勢の往来と戦闘は、大社の維持管理を不可能にし、その社殿は深刻な荒廃状態に陥ったのである。『大社町史』には、当時の社殿について「宮柱には虫食跡が文を成していた」という記述が残されており、その惨状を如実に物語っている 9 。出雲大社の物理的な荒廃は、尼子氏が築き上げた経済基盤と秩序を巡る、毛利氏との覇権争奪戦がもたらした必然的な帰結であった。
出雲国造家の苦境
この動乱の時代、出雲大社の祭祀を司る出雲国造家もまた、苦難の道を歩んでいた。国造家は南北朝時代に千家と北島の両家に分裂して以来、複雑な関係を続けていたが、戦国時代という不安定な情勢は、その立場をさらに脆弱なものにした 10 。戦国大名の意向によって神主職の任命が左右されるなど、その宗教的権威は俗権の強い影響下に置かれていたのである 12 。
支配者が尼子氏から毛利氏へと交代する中で、国造家は新たな権力者との関係構築を模索せざるを得なかった。神威の象徴である社殿が朽ち果てていくのを目の当たりにしながらも、自力での再建は叶わぬ状況であった。この、神域復興への強い願いと、それを実現するための新たな政治的後ろ盾を求める切迫した状況こそが、後の慶長の御造営へと繋がる伏線となるのである。
第一章:天下分け目と新領主の入国(1600年~1601年)
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の歴史を大きく転換させ、出雲国の運命もまた、新たな局面を迎えることとなった。この天下分け目の戦いを経て、出雲国の新たな支配者として入国したのが堀尾氏である。豊臣恩顧の大名でありながら徳川方につくという難しい政治的選択を行った堀尾吉晴・忠氏父子が、新領地・出雲でいかにして統治基盤を築こうとしたのか。その戦略の中に、出雲大社修造という事業が必然的に組み込まれていく過程を検証する。
堀尾氏の出自と政治的選択
堀尾吉晴は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人に仕え、乱世を巧みに生き抜いた武将である 13 。秀吉の配下として各地を転戦し、天正十八年(1590年)の小田原征伐の後には、徳川家康の旧領であった遠江国浜松城主十二万石に封じられるなど、豊臣政権下で重用された 14 。その信頼は厚く、中村一氏、生駒親正と共に、豊臣政権の重要政策を担う三中老の一人に数えられるほどであった 14 。
しかし、慶長三年(1598年)に秀吉が死去すると、吉晴は時勢を冷静に見極め、徳川家康への接近を図る。五大老筆頭の家康と、五奉行筆頭の石田三成との対立が先鋭化する中、吉晴は両者の調停役を務めるなど、巧みな政治手腕を発揮した 14 。そして関ヶ原の戦いでは、迷わず東軍(徳川方)に与することを決断する。吉晴自身は戦いの直前に三成派の刺客に襲われた傷が元で本戦には参加できなかったが、家督を継いでいた次男の忠氏が東軍として参陣し、戦功を挙げた 16 。この功績により、堀尾家は出雲・隠岐両国二十四万石への加増移封を勝ち取ったのである 17 。
新領地・出雲への入封
慶長五年(1600年)十一月、初代松江藩主となった堀尾忠氏と、その後見役である父・吉晴は、戦国時代の尼子氏以来の要衝であった月山富田城に入城した 19 。しかし、月山富田城は険しい山に築かれた典型的な中世の山城であり、防衛には適していても、平時の領国経営や商業の発展を促す城下町を形成するには不向きであった 21 。
吉晴と忠氏は、戦国の価値観から脱却し、近世的な統治を見据えていた。彼らは早々に月山富田城を廃城とすることを決断し、宍道湖と中海を結ぶ大橋川のほとり、末次(現在の松江市)の地に新たな城を築くことを計画する 21 。この決断は、堀尾氏が目指す統治が、軍事的な支配に留まらず、経済と行政を中心とした安定的な領国経営であったことを明確に示している。
初期統治の課題と寺社政策
出雲国にとって、堀尾氏は縁もゆかりもない「よそ者」の支配者であった。領内には旧尼子・毛利家臣や在地勢力が根強く残っており、彼らの心を掌握し、新たな統治体制を円滑に浸透させることが喫緊の課題であった。そこで堀尾氏が重視したのが、領内の寺社に対する保護政策である。
入国直後の慶長六年(1601年)から、堀尾氏は岩屋寺をはじめとする領内の主要な寺社に対し、寺社領の寄進や安堵を積極的に行った 23 。これは、古くから地域の人々の信仰を集めてきた宗教的権威を保護することで、民心を慰撫し、自らの統治の正当性を確立しようとする、新領主の巧みな戦略であった。
中でも、出雲国一宮として絶大な権威を持つ出雲大社の存在は、堀尾氏にとって無視できないものであった。戦乱で荒廃したこの大神殿を復興させることは、単なる宗教政策に留まらない、極めて高度な政治的意味合いを帯びていた。豊臣恩顧でありながら徳川方について勝利を得たという、ある種の「政治的負い目」を抱える堀尾氏にとって、出雲の象徴である大社を再建するという誰からも賞賛される「善政」を行うことは、自らの立場を正当化し、新体制における忠誠心と統治能力を内外に誇示するための、またとない機会だったのである。堀尾氏による松江城の建設が「俗」の世界における新秩序の核を築く事業であるならば、出雲大社の修造は「聖」の世界における新秩序の核を再建する事業であり、この二つは表裏一体の領国経営戦略として、計画的に進められていったのである。
第二章:交錯する思惑 ― 修造寄進への道程(1602年)
慶長七年(1602年)、出雲大社の修造計画は、一地方の事業という枠を遥かに超え、天下の情勢を動かす主要な権力者たちの思惑が交差する、壮大な政治劇の舞台となった。この計画の実現に至る背景には、天下統一を盤石にせんとする徳川家康の深謀、失墜した権威を保とうとする豊臣秀頼の苦慮、そして二人の天下人の狭間で自らの立場を確立しようとする新領主・堀尾吉晴の戦略があった。これに、神殿復興という長年の悲願を抱く出雲国造家の働きかけが加わり、複雑な力学の中で、修造寄進への道筋がつけられていったのである。
徳川家康の深謀:「天下普請」としての寺社復興
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍の座を目前にしていた徳川家康にとって、最大の懸念材料は、依然として大坂城に拠点を置き、莫大な財産を保持する豊臣家の存在であった。豊臣秀頼は、故・太閤秀吉の子として、西国大名を中心に未だに強い影響力を有しており、家康にとって潜在的な脅威であり続けた。
この脅威を削ぐため、家康が用いた巧妙な戦略の一つが、豊臣家の財力を消耗させることであった。家康は、諸大名に対して江戸城や駿府城の建設を命じる「天下普請」を課してその経済力を削いだが、豊臣家に対しては、武力で直接財産を没収するのではなく、大規模な寺社仏閣の造営や修復を推奨するという、より周到な手法を用いた 25 。豊臣秀吉が建立し、地震で倒壊した京都の方広寺大仏殿の再建を秀頼に勧めたのは、その典型的な事例である 25 。これは、豊臣家の財産を「天下泰平のための功徳」という大義名分のもとに消費させる、家康の深謀遠慮であった。
この文脈において、出雲大社の修造計画もまた、家康の国家戦略の延長線上に位置づけることができる。豊臣家が遠く離れた出雲国の、全国的に崇敬される神社の修造に巨額の寄進を行うことは、家康にとって一石二鳥の策であった。豊臣家の財力を削ぐと同時に、その事業を徳川譜代ともいえる堀尾氏の監督下に置くことで、豊臣家の影響力を自らのコントロール下に組み込むことが可能となるからである。
豊臣秀頼の威信:西国における権威の誇示
一方、豊臣家にとっても、この出雲大社修造は重要な意味を持っていた。政治的実権を家康に奪われつつあった秀頼と、その後見役である母・淀殿にとって、豊臣家が依然として「日ノ本」の支配者であることを天下に示す数少ない手段が、宗教世界におけるパトロンとしての役割を果たすことであった 25 。
京都の方広寺のような豊臣家ゆかりの寺院だけでなく、遠国の出雲大社という、日本神話に連なる由緒を持つ大神社の修造の「願主」となることは、豊臣家の威光が未だ畿内に留まらず、西国一円に及んでいることを強くアピールする絶好の機会であった 29 。『堀尾吉晴書状』に「願主は豊臣秀頼」と明記されている事実は、この事業が豊臣家の権威発揚を第一の目的として計画されたことを明確に物語っている。それは、政治的劣勢を宗教的権威によって補おうとする、豊臣家の最後の抵抗の表れでもあった。
堀尾吉晴の役割:二人の天下人の狭間で
この徳川と豊臣の複雑な政治的駆け引きの中で、極めて重要な役割を果たしたのが、出雲国主の堀尾吉晴であった。彼は、家康の真意(豊臣家の財力削奪)を的確に理解しつつ、それを「荒廃した神社の復興」という誰も反対できない形で実現させた。同時に、願主を豊臣秀頼とすることで、旧主・豊臣家への顔を立て、自らの忠義心に傷がつかないよう配慮した。
現存する「堀尾吉晴書状」は、吉晴がこのプロジェクトの実現において、大坂の豊臣方と出雲の国造家との間を取り持つ中心人物であったことを示唆している 29 。この困難な仲介役を成功させることは、堀尾氏が徳川・豊臣の双方から信頼される高度な政治能力を持つ大名であることを天下に示すことになり、結果として、新領地における堀尾家の地位を盤石なものとする上で大きな効果をもたらした。
出雲国造家の悲願:神威回復への働きかけ
この政治劇のもう一方の当事者は、出雲大社そのものである。戦乱で荒廃した社殿の復興は、祭祀を司る出雲国造家にとって、何世代にもわたる悲願であった 9 。彼らは、新たな領主として入国した堀尾氏にいち早く接近し、神域の惨状を訴え、修造の必要性を説いたと考えられる。
そして、堀尾氏という政治的パイプを通じて、豊臣家という巨大な財源を持つパトロンを引き出すことに成功したのである。国造家にとって、願主が豊臣であろうと徳川であろうと、それ自体は二義的な問題であった。最重要課題は、社殿を物理的に再建し、滞っていた祭祀を古儀に則って斎行し、地に落ちた出雲大社の神威を回復することにあった。彼らの宗教的な情熱と現実的な働きかけがなければ、この壮大な政治劇の幕が上がることはなかったであろう。
表1:慶長七年出雲大社修造寄進における主要関係者の動機分析
関係者 |
表向きの理由(名分) |
真の目的(実利・思惑) |
徳川家康 |
天下泰平の祈願、古社の保護 |
豊臣家の財力削奪、豊臣家の影響力を徳川の管理下に置くこと、自らの政権の安定化 |
豊臣秀頼(淀殿) |
故太閤の遺志継承、神仏への崇敬 |
豊臣家の権威維持と誇示、西国大名への影響力保持、政治的劣勢の挽回 |
堀尾吉晴・忠氏 |
新領主としての神域復興への貢献 |
新領地の民心掌握、統治の正当性確立、徳川・豊臣双方への政治的配慮と自身の地位向上 |
出雲国造家 |
荒廃した社殿の復興、祭祀の正常化 |
社殿の物理的再建、宗教的権威の回復、新たな支配者との良好な関係構築 |
第三章:「慶長の御造営」の実態と歴史的意義
慶長七年(1602年)の修造寄進の決定は、出雲大社復興に向けた壮大なプロジェクトの始まりに過ぎなかった。実際の事業は「慶長の御造営」として、その後数年間にわたって続けられ、建築史的にも画期的な転換を遂げることになる。この事業の全貌を時系列で追い、その技術的・様式的な特徴を分析することで、戦国から近世へと移行する時代の精神を象徴する事業としての歴史的意義を明らかにする。
表2:出雲大社の「慶長の御造営」関連時系列年表(1555年~1615年)
年号(西暦) |
出雲国の動向 |
出雲大社の動向 |
中央政局の動向 |
天文24年(1555) |
尼子氏の勢力安定期 |
尼子晴久により遷宮が行われる 3 |
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永禄5年(1562) |
毛利氏が出雲侵攻を開始 5 |
戦乱による荒廃が始まる |
|
永禄9年(1566) |
尼子義久が降伏し、尼子氏が滅亡 4 |
社領の維持が困難になる |
|
慶長3年(1598) |
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豊臣秀吉が死去 |
慶長5年(1600) |
堀尾忠氏・吉晴が入国し、月山富田城に入る 19 |
|
関ヶ原の戦い |
慶長7年(1602) |
堀尾氏による領国経営が本格化 |
豊臣秀頼を願主として修造寄進が決定 |
|
慶長8年(1603) |
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徳川家康が征夷大将軍に就任 |
慶長9年(1604) |
初代藩主・堀尾忠氏が28歳で死去 19 |
修造事業が継続される |
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慶長14年(1609) |
堀尾吉晴の後見のもと、松江城築城が進む |
仮殿式遷宮が行われる 29 |
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慶長19年(1614) |
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|
方広寺鐘銘事件が勃発 |
元和元年(1615) |
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大坂夏の陣、豊臣氏が滅亡 |
寄進から遷宮へ:長期プロジェクトの全貌
1602年の寄進決定後、出雲大社の修造事業は直ちに開始された。この事業は、慶長九年(1604年)に藩主であった堀尾忠氏が28歳の若さで急逝し、わずか6歳の忠晴が家督を継ぐという堀尾家内部の危機をも乗り越えて、祖父・吉晴の後見のもとで着実に進められた 19 。
そして、計画開始から7年の歳月を経た慶長十四年(1609年)、ついに仮殿式での遷宮が斎行され、事業は一つの大きな節目を迎える 29 。この7年間という期間は、単に用材の調達や工事に時間を要したというだけでなく、豊臣家からの資金援助を受けながらも、実際の事業主体は出雲国主である堀尾氏であり、松江城築城という巨大プロジェクトと並行して進められた、極めて大規模な事業であったことを示している。
建築史から見た転換点:礎石建様式への移行
「慶長の御造営」が持つ最も重要な歴史的意義は、その建築様式における根本的な転換にある。この造営において、出雲大社の本殿は、古代以来の伝統であった「掘立柱(ほったてばしら)」様式から、恒久的な「礎石建(そせきだて)」様式へと変更されたのである 30 。
掘立柱とは、地面に穴を掘って直接柱を立てる建築方法であり、日本の神社建築の古式とされるが、柱の根元が地中の水分によって腐食しやすいため、建物の寿命が短く、伊勢神宮の式年遷宮のように定期的な建て替えが不可欠であった 32 。これに対し、礎石建は、地面に据えた礎石の上に柱を立てるため、柱の腐食を防ぎ、建物の耐久性を飛躍的に向上させることができる 33 。これにより、全面的な建て替えではなく、部分的な修理による建物の維持が可能となった。
この技術的転換は、単なる工法の変化以上の意味を持つ。それは、戦乱による破壊と再建を繰り返すことを前提とした「戦国的価値観」から、永続的な社会秩序と恒久的な建築物を通じて権威を維持しようとする「近世的価値観」への移行を象徵する、画期的な出来事であった。堀尾氏と、その背後にいる徳川政権が目指した安定社会のビジョンが、出雲大社の建築様式そのものに刻み込まれたのである。
慶長度本殿の様式と神仏習合
『慶長造営御宮立間尺』などの史料によれば、この時に造営された本殿は、桁行五間・梁間五間の規模であったと推定されている 34 。その姿は、後に寛文の造営(1667年)の際に解体される直前の様子を描かせた『杵築大社近郷絵図』によって偲ぶことができる 35 。
様式的には、仏教建築の技法である「出組(でぐみ)」の斗栱(ときょう)が用いられるなど、神仏習合の影響を色濃く残していたことが研究によって指摘されている 34 。これは、江戸幕府によって厳格な寺社制度が確立され、神仏分離が明確化される以前の、戦国時代から続く宗教観が色濃く反映された、過渡期ならではの建築であったことを示している。この慶長度本殿は、政治的にも、技術的にも、そして宗教的にも、まさに一つの時代が終わり、新しい時代が始まる境界線上に建立された、記念碑的な建造物であったと言えるだろう。
結論:戦国の終焉を告げる神殿復興
慶長七年(1602年)に端を発する出雲大社の修造事業は、その経緯と結果を多角的に分析することによって、単なる一地方における神社修復という枠組みを遥かに超えた、重層的な歴史的意義を持つ事変であったことが明らかとなる。それは、戦国という時代の終焉と、徳川の治世による近世社会の到来を、出雲の地から告げる象徴的な出来事であった。
第一に、この事業は 新たな政治秩序の確立を象徴するモニュメント であった。関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握った徳川家康の巧妙な国家統制戦略、没落しつつもなお西国に権威を保とうとする豊臣家の最後の威信発揚、そして徳川と豊臣という二大勢力の狭間で新時代を生き抜こうとする新興大名・堀尾氏の高度な政治力学が結実したものであった。豊臣の財によって、徳川方の領主が監督する形で神殿が再建されるという構図そのものが、豊臣家がもはや徳川の統制下にあることを天下に示す縮図となっていた。修復された壮麗な神殿は、徳川を頂点とする新たな政治秩序が、遠く出雲の地にまで及んだことを示す、静かなる宣言だったのである。
第二に、この事業は 近世社会における宗教的権威の再編 を先取りするものであった。戦国の動乱期を通じて俗権に翻弄され、その物理的基盤すら失いかけていた出雲大社の権威は、この大規模な修造事業を通じて劇的に回復された。しかし、その回復は、新たな支配者である堀尾氏、そしてその背後にいる徳川幕府の強力な庇護と管理下において実現されたものであった。これは、宗教勢力が独立した権力として存在した中世から、幕藩体制という統一的な政治秩序の中に組み込まれていく近世の寺社制度への移行を示す、画期的な事例であった 36 。
第三に、慶長の御造営は 出雲国における時代の転換点 を画した。掘立柱から礎石建への技術的転換は、破壊と再生を繰り返す戦国のサイクルから、恒久的な維持管理を前提とする近世の思想への移行を物語る。また、この事業は、堀尾氏による松江開府と並行して進められ、出雲国の政治・経済の中心が戦国時代の山城・月山富田から、近世的な城下町・松江へと移行するプロセスを決定づけた。
結論として、「出雲大社修造寄進(1602)」は、戦国の記憶を過去のものとし、出雲の地に新たな時代の到来を告げる狼煙であった。荒れ果てた神殿の再建は、人々の心に平和と安定への希望を灯すと同時に、その背後で繰り広げられた権力者たちの静かなる闘争は、戦乱の世が終わり、新たな秩序の下で日本が再編されていく時代の大きなうねりを、雄弁に物語っているのである。
引用文献
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- ミニ企画「初公開 新発見の出雲国造北島家文書」 - 古代出雲歴史博物館 https://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=418
- 《企画展》戦国大名 尼子氏の興亡 - 古代出雲歴史博物館 https://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=196
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