最終更新日 2025-09-25

唐津城築城(1608)

寺沢広高は、名護屋城の資材と九州諸大名を動員し、唐津城を築城。天守なき天守台は徳川への政治的配慮を示す。しかし、寺沢家は島原の乱で改易され、唐津城は幕府の西国支配の要となった。
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唐津城築城始末:戦国終焉の響きと徳川太平の礎

序章:幻の巨城・名護屋城の落日と新時代の胎動(1598年~1600年)

日本の歴史が戦国の乱世から徳川の治世へと大きく舵を切る慶長年間、九州の北西端、肥前国唐津の地で一つの巨大プロジェクトが始動した。慶長7年(1602年)から同13年(1608年)にかけて築かれた唐津城である 1 。この城の誕生を理解するためには、まずその直前に歴史の舞台から姿を消した、幻の巨城・名護屋城の存在に触れなければならない。

名護屋城は、天下人・豊臣秀吉が大陸進出の野望を懸け、文禄元年(1592年)に朝鮮出兵の拠点として築いた城塞都市であった 3 。それは単なる一城郭ではなく、徳川家康をはじめとする全国の諸大名が率いる15万ともいわれる軍勢が集結し、政治、経済、文化が交錯する一大軍事首都であった 3 。しかし、この巨大な装置は、その原動力であった秀吉の死によって、その存在意義を根本から失う。慶長3年(1598年)、秀吉がこの世を去ると、朝鮮からの撤兵が決定され、わずか7年でその栄華を極めた名護屋城は急速に廃墟への道をたどり、「幻の都市」と化したのである 3

秀吉という絶対的権力者の不在は、九州北部に政治的な権力の真空地帯を生み出した。各大名は次なる時代の覇権の行方を固唾をのんで見守り、水面下での駆け引きを活発化させていた。この流動的な情勢こそ、新たな時代の担い手に飛躍の機会を与える土壌となった。

一方で、名護屋城の崩壊は、物理的・人的な遺産を唐津の地に残した。城郭を構成していた膨大な量の建材、石垣を築いた石材、そして織田信長の安土城や秀吉の大坂城でその腕を振るった石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」に代表される高度な築城技術 3 。さらには、名護屋に集った博多の豪商たちが築いた商業ネットワークや、茶の湯、能といった桃山文化の粋も、この地に根付いていた 3 。これらは、豊臣政権が大陸進出という壮大な夢のために九州に投じた、莫大なエネルギーの残滓であった。

唐津城の築城は、単に名護屋城の資材を再利用したという物理的な側面にとどまらない。それは、豊臣の夢の残骸の上に、徳川の新たな秩序を象徴する拠点を築き上げるという、時代の継承と転換を物理的に示す壮大な事業であった。秀吉が遺した技術、人材、そして資本という巨大な遺産を、次なる時代の支配者たる徳川家康の承認のもと、一人の武将がいかにして受け継ぎ、新たな形へと昇華させていったのか。唐津城の築城物語は、戦国時代の終焉と江戸時代の黎明を告げる、象徴的な出来事なのである。

第一章:寺沢広高、関ヶ原の選択と唐津藩の誕生(1600年~1602年)

唐津城の築城主、寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての典型的な武将像とは一線を画す人物であった 7 。彼の経歴は、個人の武勇よりも、情報収集能力、政治的判断力、そして領国経営という実務能力が重視される新時代の到来を予感させる。

尾張国に生まれた広高は、父・広政と共に豊臣秀吉に仕えた 9 。彼がその能力を遺憾なく発揮したのは、戦場の最前線ではなく、後方支援の分野であった。文禄・慶長の役においては、肥前名護屋城の普請役や兵站責任者を務め、数十万の軍勢の補給と輸送を差配するという、極めて高度なマネジメント能力を証明した 9 。この功績により、文禄4年(1595年)、秀吉から唐津の地を与えられ、この地との縁が始まる 4 。彼は戦場で槍働きによって名を上げるタイプの猛将ではなく、政権の中枢で数字と物資を動かす、いわばテクノクラート(高級実務官僚)としての側面が強い武将であった。

慶長3年(1598年)の秀吉の死は、広高にとっても大きな転機となった。豊臣政権内部で五大老・五奉行の対立が先鋭化する中、彼は冷静に時勢を見極め、次なる天下人として徳川家康に接近する 10 。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、広高は迷うことなく東軍に与した 2 。この迅速かつ的確な政治的判断こそが、彼のその後の運命を決定づけた。彼の最大の功績は、戦場での武功ではなく、この「選択」そのものであったと言える。

戦後、家康はその功績を高く評価し、広高に肥後国天草郡4万石を加増。これにより、彼の所領は合計12万3千石に達し、名実ともに大名へと飛躍を遂げた 2 。ここに肥前唐津藩が誕生し、広高は初代藩主として、新時代の拠点たる城を築くための大義名分と、それを実現するための強固な経済的基盤を手に入れたのである。

広高の人物像を伝える逸話は、彼の合理的な精神を物語っている。『翁草』によれば、彼は普段から倹約に努め、自らも麦飯を食したが、それは優れた人材を高禄で召し抱えるためであり、1,000石取りの家臣が40人もいたという 13 。また、武芸の鍛錬も怠らず、夏は鉄砲や水泳、冬は弓の稽古に家臣と共に励むなど、率先垂範のリーダーシップを発揮した 13 。この実直さ、合理性、そして未来への投資を惜しまない姿勢こそが、7年にも及ぶ唐津城築城という巨大事業と、それに並行して行われた数々の領国経営を成功に導いた原動力であった。彼の生き様は、戦国的な「武」の価値観から、近世的な「吏」の価値観への移行を体現しており、唐津城はまさに、その新しい統治者像の集大成として築かれることとなる。

表1:唐津城築城関連年表(1591年~1647年)

唐津城築城を巡る歴史的背景と、その後の寺沢氏の治世の変遷を理解するため、関連する出来事を時系列で以下に示す。本表は、名護屋城の時代から寺沢氏の改易までを俯瞰することで、報告書全体の時間軸を明確にすることを目的とする。

西暦

和暦

主要な出来事

関連人物・勢力

1591

天正19年

肥前名護屋城、築城開始 4

豊臣秀吉、加藤清正ら

1592

文禄元年

名護屋城完成。文禄の役開戦 3

豊臣秀吉、寺沢広高

1595

文禄4年

寺沢広高、唐津に入封 4

豊臣秀吉、寺沢広高

1598

慶長3年

豊臣秀吉死去。慶長の役終戦、名護屋城廃城へ 4

豊臣秀頼、徳川家康

1600

慶長5年

関ヶ原の戦い。広高は東軍に属す 4

徳川家康、寺沢広高

1602

慶長7年

唐津城、築城開始 3

寺沢広高、九州諸大名

1603

慶長8年

徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く 4

徳川家康

1608

慶長13年

唐津城、7年の歳月を経て完成 1

寺沢広高

1633

寛永10年

寺沢広高、死去 8

寺沢堅高

1637

寛永14年

島原の乱、勃発。天草も戦禍に 4

寺沢堅高、幕府軍

1647

正保4年

寺沢堅高、乱の責任を問われ自害。寺沢家断絶、改易 4

徳川家光

第二章:唐津城築城 ─ 慶長七年から十三年に至る七年間の軌跡(1602年~1608年)

慶長7年(1602年)、寺沢広高による唐津城築城の槌音が、唐津湾に響き渡り始めた。それは、単に一つの城を建設するに留まらず、新たな時代の秩序を九州の地に刻み込むための、壮大な国家プロジェクトの様相を呈していた。7年間に及ぶ築城の過程は、当時の最先端技術、複雑な政治力学、そして膨大な労働力が交錯する、まさに時代の縮図であった。

第一節:普請始動(慶長七年~八年)─ 大地の改造と政治の力学

築城事業は、まず城の設計図である「縄張」を定めることから始まった。敷地として選ばれたのは、唐津湾に半島状に突き出した満島山(みつしまやま)であった 1 。しかし、広高の構想は、単に山の上に城を築くだけではなかった。彼は城の建設に先立ち、あるいは並行して、城下全体のインフラ整備という、より大規模な土木工事に着手した。松浦川と神田川の河口部を大改修し、流路を安定させることで、水運の利便性を高めると同時に、度々この地を襲っていた洪水被害を根本から断とうとしたのである 4 。これは、城の防御という軍事目的と、領国の経済発展という統治目的を同時に達成しようとする、広高の優れた行政官としての一面を如実に示している。

時を同じくして、北西約8キロメートルに位置する名護屋城跡では、巨大な城郭の解体作業が本格化していた。櫓や門を構成していた良質な木材、屋根を彩っていた無数の瓦、そして石垣を築いていた巨石群が、次々と船に積まれ、唐津の普請現場へと海上輸送された 5 。この膨大な物資の移送を滞りなく実行できたのは、かつて名護屋城で兵站の責任者を務めた広高ならではの手腕であった。

そして、この築城事業が単なる一藩の事業でなかったことを最も雄弁に物語るのが、九州の有力外様大名たちの動員である。徳川家康の威光を背景に、広高は薩摩の島津氏、肥後の加藤氏(当時)、佐賀の鍋島氏、柳川の立花氏といった、関ヶ原の戦いでは西軍に与したり、あるいは日和見的な態度を取ったりした大名たちに対し、「助役(すけやく)」、すなわち手伝い普請を命じた 2 。これは、単なる労働力提供の要請ではない。新時代の覇者である徳川家への服従を具体的な形で示させる、極めて政治的な意味合いを持つ「踏み絵」であった。

各藩から派遣された数千、数万の人夫や技術者たちは、それぞれ割り当てられた工区で堀の掘削作業などに従事した。現在でも唐津城下には「薩摩堀」「肥後堀」「佐賀堀」といった地名が残っており、当時の普請の様子を今に伝えている 2 。関ヶ原では敵味方に分かれて戦った者たちが、今や同じ現場で隣り合って汗を流す。そこには、新体制への不満や旧怨が渦巻く緊張感と、巨大な事業を共に成し遂げるための奇妙な連帯感が混在していたであろう。唐津城の普請現場は、徳川幕府が後の時代に全国規模で展開する「天下普請」の、いわば九州における実験場であった。家康は、寺沢広高という代理人を通じて、外様大名の財力と軍事力を平和的な土木事業に振り向けさせ、その力を削ぐと同時に、新秩序への忠誠を誓わせるという高度な政治的コントロールを、関ヶ原直後のこの時期に、唐津という一地方で試験的に行っていたのである。

第二節:石垣の構築(慶長九年~十一年)─ 穴太衆の技と大名の刻印

河川改修と堀の掘削という大規模な土木工事が進むと、築城の主役は城の土台となる石垣の構築へと移っていった。この普請の中核を担ったのが、近江国(現在の滋賀県)坂本を拠点とする石工の専門家集団「穴太衆」である 3 。彼らは、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城、そして唐津城の母体ともいえる名護屋城の石垣を手掛けた、当代随一の技術者集団であった 6

穴太衆の真骨頂は、「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる技法にある 6 。これは、自然石をほとんど加工せず、石本来の形を巧みに組み合わせて積み上げるもので、一見すると粗雑に見えるが、石同士が噛み合い、排水性にも優れるため、地震や豪雨に強い極めて堅牢な構造を生み出す 20 。彼らには「石の声を聞け」という口伝があり、一つ一つの石の形、大きさ、重心を見極め、最も安定する場所に据え付けていったという 18 。マニュアル化できない、長年の経験と鋭い勘だけが頼りの、まさに職人の技であった。唐津城の石垣には、この野面積みのほか、石材の接合部をある程度加工した「打込接(うちこみはぎ)」や、方形に整形した石材を密着させる「切込接(きりこみはぎ)」も見られ、穴太衆だけでなく、九州各地から動員された多くの石工たちが、それぞれの技術を競い合ったことを物語っている 6

この石垣普請の現場には、当時の複雑な政治状況を物語る、一つの動かぬ証拠が残されている。天守台の入口右側、門脇の石垣に、丸い円の中に十字が刻まれた石が嵌め込まれているのだ 6 。これは、薩摩藩・島津家の家紋である。島津家は関ヶ原の戦いで西軍の主力として徳川軍と激しく戦い、壮絶な敵中突破(島津の退き口)の末に薩摩へ帰還した、徳川にとって最も警戒すべき外様大名の一つであった 22 。戦後、家康は島津家の本領を安堵するという寛大な処置をとったが、その一方で、徳川譜代の寺沢広高の城普請に協力させることで、その力を削ぎ、恭順の意を示させたのである 24 。島津家が普請を担当した証として、自らの家紋を刻んだ石を城の中枢部に残したことは、徳川への服従という現実を受け入れつつも、薩摩隼人の意地と誇りを示そうとした、静かなる抵抗の表明であったのかもしれない。この一つの刻印石は、戦国時代の終焉と新たな支配体制の確立という、時代の大きな転換点における力と意志の交錯を、400年後の我々に無言で語りかけている。

第三節:作事と城下町の形成(慶長十二年~十三年)─ 統治拠点の完成と経済基盤の構築

慶長12年(1607年)頃になると、壮大な石垣群がその威容を現し始め、築城の最終段階である「作事(さくじ)」、すなわち櫓、門、御殿といった木造建築物の工事が本格化した。本丸、二の丸、三の丸、そして外曲輪(そとくるわ)という区画の上に、統治と防衛のための施設が次々と建てられていった 3 。政治の中心である藩庁や藩主の居館は二の丸に置かれ、三の丸には家臣たちの侍屋敷が整然と並んだ 2 。名護屋城から転用されたとされる豪華な建材も、これらの建築物に惜しみなく使われたと伝えられている 3

広高の構想は、城の完成だけに留まらなかった。彼は築城と完全に並行して、持続可能な藩経営の基盤となる城下町の形成と産業振興にも心血を注いだ。城の外郭には、防御拠点としての役割も担う寺院群を集めた東寺町と西寺町を計画的に配置し、その周囲に商人や職人を集住させる「町割り」を行った 3 。これにより、軍事拠点と経済の中心地が一体となった、近世的な城下町が誕生した。

さらに広高は、唐津の地理的特性を活かした未来への投資を次々と実行した。その代表例が、現在、国の特別名勝にも指定されている「虹の松原」の植林である 11 。唐津湾沿いの砂浜に全長約4.5kmにわたって黒松を植林したこの事業は、海からの潮風や飛砂から内陸の農地を守るという、極めて実利的な目的を持っていた 3 。また、漁業においては、当時最先端の捕鯨技術を持っていた紀州(和歌山県)から漁師を招聘し、藩の新たな産業として捕鯨業を導入した 3 。文禄・慶長の役で一時衰退したとされる唐津焼についても、各地に離散していた陶工を呼び戻して手厚く保護し、その復興を図った 15

そして慶長13年(1608年)、着工から7年の歳月を経て、唐津城はついに完成した 1 。それは単なる軍事要塞ではなく、政治、経済、そして文化の中心として、肥前唐津藩12万3千石を治めるにふさわしい、壮麗かつ機能的な拠点であった。

第三章:築城の技術と構造的特質

完成した唐津城は、戦国時代末期に培われた築城技術の粋を集めると同時に、江戸時代という新たな政治体制下での制約をも内包する、過渡期ならではの特質を備えていた。その構造と設計思想を分析することで、当時の技術的到達点と政治的状況を読み解くことができる。

縄張と防御思想

唐津城の縄張(基本的な設計プラン)は、唐津湾に面した満島山山頂に本丸を置き、そこから南西の砂丘上へ二の丸、三の丸を一直線に連ねる「連郭式平山城」に分類される 1 。北と東を海、西を松浦川の河口に囲まれた天然の要害であり、海に面して石垣が築かれた「海城」としての側面も持つ 6 。さらに、本丸の背後を海という天然の断崖に守らせ、陸側に曲輪を展開する配置は「梯郭式」の要素も併せ持っており、守りやすく攻めにくい、実戦を強く意識した戦国期ならではの設計思想が色濃く反映されている 32 。360度の眺望が開け、玄界灘や壱岐島まで見渡せる立地は、海上交通の監視拠点としても最適であった 35

金箔瓦の謎と豊臣政権の影

近年の唐津城本丸における発掘調査では、築城史を揺るがす可能性のある発見があった。寺沢広高が築いたとされる石垣よりも古い地層から、金箔瓦の破片が出土したのである 1 。金箔瓦は、織田信長の安土城で初めて使用され、豊臣秀吉の大坂城や名護屋城でも用いられた、天下人の権威を象徴する特別な瓦であった 6 。この発見は、二つの可能性を示唆する。一つは、名護屋城の解体資材として金箔瓦が唐津城に転用されたという説 17 。もう一つは、より興味深く、寺沢氏による築城が始まる以前の文禄・慶長の役の頃に、この満島山に秀吉の直轄、あるいはそれに準ずる何らかの重要施設が存在したという可能性である 1 。もし後者であれば、唐津城の起源は寺沢氏の入封以前、豊臣政権の時代にまで遡ることになり、この地が古くから戦略的要衝と見なされていたことの証左となる。

最大の特徴「天守なき天守台」

唐津城の構造における最大の謎であり、最も重要な特徴は、天守の不在である。本丸には壮大で堅固な天守台が築かれたにもかかわらず、江戸時代を通じてその上に天守が建てられることはなかった 2 。寛永4年(1627年)に作成された幕府の隠密による探索書にも、「天守之台高さ八間斗(約14.5m)、南西の隅に有り、天守なし」と明確に記されている 37 。現在、唐津城のシンボルとして聳え立つ五層の天守閣は、昭和41年(1966年)に文化観光施設として建設された模擬天守であり、歴史的な建造物ではない 3

なぜ、広高は天守を建てなかったのか。名護屋城の天守を移築する計画があったが頓挫したという説や、単純な財政問題など、いくつかの理由が考えられている 40 。しかし、最も説得力を持つのは、「徳川幕府への遠慮」という政治的な配慮である 38 。天守は、城主の権威と力を天下に示す最大のシンボルであった。江戸幕府は成立直後から、武家諸法度によって大名による城郭の新築や大規模な修理を厳しく制限し、その軍事力を削ぐことに腐心していた。豊臣恩顧の外様大名であった広高が、徳川の天下が盤石になりつつあるこの時期に、天高く聳える巨大な天守を築くことは、幕府に無用の警戒心を抱かせ、謀反の疑いを招きかねない極めて危険な行為であった。

この文脈で考えれば、「天守なき天守台」は、寺沢広高による絶妙な政治的メッセージとして解釈できる。壮麗な天守台を築き上げることで、「私はこれだけの城を完成させる能力と財力、そして技術を持っている」という自らの実力を内外に誇示した。その一方で、その上を敢えて空けておくことで、「しかし、天下の主である徳川殿に配慮し、その権威の象徴たる天守は建てません」という恭順の意を最大限に示したのである。建てられる能力を示しながら、建てないという選択。この空の天守台こそ、戦国の世を生き抜き、徳川の治世で大名として存続するための、広高の高度な政治的生存戦略の象徴であったと言えよう。

終章:舞鶴城の完成と徳川体制下の唐津(1608年以降)

慶長13年(1608年)、7年の歳月をかけた大事業は終わりを告げ、唐津城はその全容を現した。満島山に築かれた本丸を鶴の頭に、その東西に広がる松原の砂浜を翼に見立て、城は「舞鶴城」という優雅な別名で呼ばれるようになった 1 。初代藩主・寺沢広高は、自らの理想を具現化したこの城を拠点に、12万3千石の大名としてその栄華を極めた。彼は、戦国の動乱を乗り越え、新たな時代に自らの家名を永続させるための盤石な基盤を築き上げたと確信していたであろう。

しかし、歴史は時に非情である。広高が築いた繁栄は、彼の死後、脆くも崩れ去る。寛永10年(1633年)に広高が没し、跡を継いだ二代藩主・堅高の治世、寛永14年(1637年)に島原・天草一揆が勃発する 4 。唐津藩の飛び地であった天草もこの大乱の主要な舞台となり、乱の鎮圧後、幕府は堅高の苛政が原因の一端を担ったとしてその責任を厳しく追及した 8 。結果、寺沢家は天草4万石を没収される 4 。この失政と領地削減の衝撃に耐えきれず、正保4年(1647年)、堅高は失意のうちに自害。彼には嗣子がおらず、寺沢家はここに断絶、改易となった 4 。壮麗な唐津城が完成してから、わずか39年後の悲劇であった。

築城主を失った唐津藩は一時的に幕府の直轄領(天領)となるが、その戦略的重要性からすぐに新たな藩主が配置された。慶安2年(1649年)以降、大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、そして小笠原氏と、徳川家への忠誠心が厚い譜代大名が次々と入封したのである 2 。この頻繁な藩主交代は、唐津藩が単なる一つの藩ではなく、徳川幕府にとって特別な役割を担う拠点と位置づけられていたことを示している。その役割とは、九州に睨みを利かせる薩摩の島津氏や肥前の鍋島氏といった強力な外様大名を監視し、海外への唯一の窓口であった長崎の警備を担うという、幕府の西国支配における最重要任務であった 4

ここに、歴史の皮肉が見て取れる。寺沢広高は、自らの一族がこの地で末永く繁栄するための拠点として、私財と情熱を注ぎ込み唐津城を築いた。しかし、その城が真にその戦略的価値を発揮し、歴史の中で重要な役割を果たし始めたのは、皮肉にも寺沢家が滅び、城が幕府の公的な管理下に置かれてからであった。築城者の「意図」と、その建造物が歴史の中で果たした「役割」との乖離。それは、一個人の野望や理想が、より大きな時代の潮流と国家戦略の中に飲み込まれていく、戦国時代の終焉がもたらした一つの現実を象徴している。唐津城は「寺沢広高の城」として産声を上げながら、その後の歴史の大半を「徳川幕府の九州における出城」として生きることになったのである。

引用文献

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  5. 肥前名護屋城 [1/4] 太閤死後に破却されるも高石垣が残る城跡へ。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/04/04/h_nagoya/
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  31. 唐津城(舞鶴城)概述與文章一覽(Saga Pref. Karatsushi Higashijounai 8-1) https://japantravel.navitime.com/zh-tw/area/jp/spot/02301-1301439/
  32. [城歩き編 第10回 縄張りの形] - 城びと https://shirobito.jp/article/657
  33. 城郭構造-曲輪配置による分類 - 全国史跡巡りと地形地図 https://www.shiseki-chikei.com/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E9%85%8D%E7%BD%AE%E5%88%86%E9%A1%9E/
  34. 日本の城の城郭形式/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/17029_tour_110/
  35. 城内案内|【公式】唐津城 https://karatsujo.com/guide/
  36. 唐津城に関する新聞記事 https://tamatori.sakura.ne.jp/news/karatujyousinbunkiji.html
  37. 「鉄筋コンクリート造」でも名城はある…城マニアが教える「訪れる価値のある城」と「ダメな城」の見分け方 「現存12天守」以外にも訪れるべき天守はある (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/78557?page=4
  38. 【佐賀県】唐津城の歴史 玄界灘を望む絶景の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2241
  39. 唐津城の紹介 - 唐津市ホームページ(観光課) https://www.city.karatsu.lg.jp/page/1041.html
  40. 昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 【唐津城】青い海と空に囲まれた幻の天守 https://shirobito.jp/article/227
  41. 唐津城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/karatu.htm
  42. 唐津城ご案内 https://karatsujo.main.jp/annai.html
  43. 唐津藩(からつはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E6%B4%A5%E8%97%A9-47191
  44. 肥前唐津 秀吉没後九州諸大名助力のもと朝鮮出兵の拠点として構築された名護屋城の解体資材を転用して寺沢広高が築城した『唐津城』訪問(城郭編 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11192642