堺学問所設置(1603)
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慶長八年 堺の知性 ―「学問所」の実像と徳川期への胎動
序章:問いの再設定 ― 1603年、「堺学問所」をめぐる謎
慶長八年(1603年)、和泉国堺において「学問所が設置され、商都の知的基盤が強化された」という事象は、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事として捉えられる。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いたこの年は、二百数十年におよぶ泰平の世の幕開けであった。この画期的な年に、国際貿易都市として栄華を極めた堺で教育機関が整備されたとすれば、それは新たな時代における商都のあり方、そして徳川政権の文化政策を読み解く上で極めて重要な意味を持つ。
しかし、史料を丹念に調査すると、慶長八年(1603年)に「堺学問所」という名の特定の施設が設置されたという直接的な記録は見出すことができない。江戸時代における幕府の公式な学問所としては、林羅山の私塾を起源とし、寛永七年(1630年)以降にその基礎が築かれ、後に官学化される「昌平坂学問所(昌平黌)」が著名である 1 。また、堺においてより公的な性格を持つ教育機関が登場するのは、時代が下った天保期以降の「堺郷学所」や、明治維新期の「郷学校」を待たねばならない 4 。
この史料上の「不在」は、単なる事実の欠落を意味するものではない。むしろ、それは我々に対してより本質的な問いを投げかける。すなわち、「なぜ1603年の堺に、幕府や藩が設置するような公式の『学問所』は存在しなかったのか。そして、それに代わる商都の知的基盤とは、一体どのようなものであったのか」という問いである。
本報告書は、この問いを新たな出発点とする。特定の施設の有無を追うのではなく、1603年という徳川幕府成立の瞬間に、堺の「知」がどのような形で存在し、機能し、そして変容しつつあったのか、その実像を多角的に解明することを目的とする。それは、戦国乱世を生き抜いた自治都市の遺産が、徳川の新たな秩序の中でいかに継承され、あるいは再編されていったのかという、壮大な歴史の転換点を浮き彫りにする試みである。公式な学問所は不要なほどに堺に独自の知的インフラが張り巡らされていたのか、あるいは、新たな時代の到来がその知的インフラの変容を迫ったのか。この視座から、慶長八年の堺を再検証する。
第一章:黄昏の自治都市 ― 徳川期前夜の堺
慶長八年(1603年)の堺を理解するためには、まず、その直前まで堺がいかなる都市であったかを把握する必要がある。戦国時代の堺は、単なる商業都市ではなく、強大な経済力と自衛能力を背景に、戦国大名すら容易に手出しできないほどの独立性を誇る「自治都市」であった。しかし、織田信長、豊臣秀吉という統一権力の台頭により、その黄金時代は徐々に黄昏を迎えつつあった。
1-1. 「東洋のベニス」の実像:会合衆と環濠都市
室町時代から戦国時代にかけて、堺の自治運営の中核を担ったのは、「会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)」と呼ばれる三十六人(一説には十人)の有力な豪商たちであった 7 。彼らは都市の重要事項を合議によって決定し、その統治体制は、1561年に堺を訪れたイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラをして、「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と驚嘆せしめるほど洗練されたものであった 8 。この「執政官」こそが会合衆を指しており、彼らの会所は開口神社の境内にあったと推定されている 8 。
この政治的独立を物理的に保障したのが、都市の三方(北・東・南)を囲む広大な堀、すなわち「環濠」であった 11 。幅は10メートルを超え、場所によっては二重に巡らされていたこの環濠は、外部からの軍事的侵攻を困難にし、堺を難攻不落の要塞都市たらしめていた 11 。環濠に守られた堺は、まさに戦国の世に浮かぶ独立共和国であり、その繁栄は「東洋のベェネツィア」としてヨーロッパにまで紹介されるほどであった 12 。
1-2. 富の源泉:国際貿易と技術集積
堺の自治を支えた絶大な富は、海外貿易によってもたらされた。日明貿易や、ポルトガル商人との南蛮貿易の拠点として、堺は当時の日本のグローバル経済を牽引する存在であった 13 。生糸、絹織物、陶磁器、香料、薬種といった多種多様な輸入品が堺の港に溢れ、莫大な利益が豪商たちにもたらされた 16 。
さらに、堺の力は単なる中継貿易に留まらなかった。天文十二年(1543年)に種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商人・橘屋又三郎はいち早くその製法を学び、堺を日本最大の鉄砲生産拠点へと押し上げた 17 。最盛期には、全国の鉄砲の大部分が堺で生産されたと言われ、その高い技術力は戦国大名たちの勢力図を塗り替えるほどの戦略的価値を持っていた。この経済力と技術力こそが、会合衆による自治を可能にした力の源泉であった。
1-3. 自治の終焉:信長・秀吉による支配
しかし、この比類なき繁栄と独立は、天下統一を目指す強力な権力者の出現によって転機を迎える。永禄十一年(1568年)、織田信長は上洛を果たすと、堺に対して軍資金として矢銭二万貫(現在の価値で約2億円)という巨額の献金を要求した 12 。会合衆は当初、これを拒否して抵抗の構えを見せたが、信長の圧倒的な武力の前に屈服を余儀なくされる 12 。この事件は、堺が自治の限界を露呈し、統一権力に従属する時代の始まりを告げる画期的な出来事であった。
信長の後を継いだ豊臣秀吉は、堺の力をさらに削ぐ政策を推し進めた。天正十四年(1586年)、秀吉は堺の独立の象徴であった環濠の埋め立てを命令 11 。さらに、自身の本拠地である大坂城下町の建設に注力したことで、経済の中心地は次第に大坂へと移り、堺の地位は相対的に低下していった 11 。
このように、慶長八年(1603年)を迎えた堺は、かつての自治都市としての栄光の記憶を色濃く残しつつも、政治的・軍事的には完全に中央権力の下に組み込まれた状態にあった。会合衆による自治は形骸化し、環濠という物理的な盾も失われていた。この、独立の気風と従属の現実が交錯する状況こそが、徳川期前夜の堺のリアルな姿であった。
第二章:慶長八年(1603年)の堺 ― 新たな秩序の到来
戦国の動乱が終わりを告げ、日本史が新たな扉を開いた慶長八年(1603年)。この年は、堺にとっても決定的な転換点となった。江戸幕府という新たな中央集権体制が確立される中で、堺はこれまでのあり方を根本から問い直され、新たな秩序の下での役割を模索し始める。
2-1. 江戸幕府の成立と堺の直轄地化
慶長八年(1603年)二月十二日、徳川家康は伏見城において征夷大将軍に就任し、名実ともに関ヶ原の戦い後の天下人としての地位を確立した。これにより江戸幕府が開かれ、日本は新たな統治の時代へと移行する。この巨大な政治的変動の中で、堺の運命もまた大きく規定された。
堺は、特定の藩に属するのではなく、幕府が直接支配する「天領(直轄地)」として位置づけられた 11 。これは、堺が持つ経済的重要性と、かつて自治都市として強大な力を持っていたことへの警戒感の表れであった。幕府は、この重要な港湾都市を将軍家の直接管理下に置くことで、西日本の経済と物流を掌握し、豊臣家が依然として影響力を持つ大坂への牽制を図ったのである。これにより、堺はもはや独立した都市共同体ではなく、幕府の広域支配ネットワークに組み込まれた一地方都市としての性格を強めていくことになった。
2-2. 徳川の代理人:代官・今井宗薫の統治
この新たな支配体制の下で、堺の統治を任されたのが代官・今井宗薫であった 22 。彼の出自は、徳川家康の堺統治戦略を理解する上で極めて示唆に富んでいる。宗薫は、織田信長に仕え、茶人としても名を馳せた堺の豪商・今井宗久の子である。つまり家康は、江戸から武断的な役人を送り込んで高圧的に支配するのではなく、堺の内部事情に精通し、町衆からも信望の厚い人物を代官に据えるという、巧みな統治手法を選択した。
この人選には、堺の持つ経済力と人的ネットワークを破壊することなく、円滑に幕府の統制下に置こうとする家康の明確な意図が読み取れる。宗薫は、幕府の権威を背景にしながらも、堺の商慣習や文化を理解する「緩衝材」として機能した。彼の存在は、武力による支配から、法と行政による支配へと移行する時代の象ゆであり、堺の町衆にとっても、急激な変化を和らげる役割を果たしたと考えられる。
2-3. 慶長八年のリアルタイムな情景
徳川の新たな秩序が浸透し始めた慶長八年の堺の姿は、具体的な出来事からも垣間見ることができる。この年、奥州の雄・伊達政宗が仙台城を築城するにあたり、全国から優れた職人が動員されたが、その中には堺の石工たちも含まれていた。同年八月に行われた新城への移徒式(新築移転の儀式)の祝宴で、政宗は石工たちに踊りを所望した。即興で披露されたそのリズミカルな踊りは、伊達家の家紋「竹に雀」にちなみ、また、その跳ね踊る姿が雀に似ていたことから「雀踊り」と名付けられたと伝えられている 22 。この逸話は、堺の職人たちの技術力が全国的に高く評価され、大名の城普請のような国家的な事業に不可欠な存在であったことを物語っている。
また、産業面でも幕府の政策との連携が深まっていた。徳川家康の命を受けた三河出身の商人・小田助四郎は、中国から水銀を用いた朱の製法を持ち帰った。そして、慶長十四年(1609年)に堺に「朱座」が設置されると、彼はその創始者として朱の製造・販売の特権を与えられた 18 。慶長八年の時点では、この朱座設立に向けた準備が着々と進められていたと考えられ、堺が幕府の産業振興策の一翼を担う拠点として期待されていたことがわかる。
これらの出来事は、1603年の堺が、もはや独立した経済圏ではなく、徳川幕府の全国的な支配体制と産業政策の中に明確に位置づけられ、その一員として機能し始めていたことを具体的に示している。それは、自治のための知ではなく、幕藩体制下で生き抜き、貢献するための知へと、その役割が再編されていく過程の始まりであった。
第三章:堺の「見えざる学問所」― 豪商と文化の担い手たち
慶長八年(1603年)の堺に、幕府や藩が設立したような公式の「学問所」は存在しなかった。しかし、それは堺に知的基盤が欠けていたことを意味しない。むしろ、堺には特定の建物に集約されない、都市全体に張り巡らされた独自の知的ネットワーク、すなわち「見えざる学問所」が存在した。それは豪商たちの茶室、禅寺の静寂、そして職人たちの工房に宿る、生きた知識の集合体であった。
3-1. 知のネットワーク拠点としての茶の湯
天正十九年(1591年)に世を去った千利休によって大成された茶の湯は、この時代の堺において、単なる芸道や趣味の域をはるかに超える重要な社会的機能を果たしていた 23 。茶室という静謐な空間は、身分を超えて人々が集い、政治・経済・文化に関する高度な情報が交換される、当代随一のサロンであった。
利休の死後も、その精神は今井宗久・宗薫親子や津田宗及といった堺の豪商たちに受け継がれた 25 。彼らが主催する茶会には、有力な大名、公家、高名な僧侶、そして他の地域の商人たちが招かれた。そこでは、最新の海外情勢、国内の政治動向、米や銭の相場といった実利的な情報から、和歌や書画に関する審美眼まで、あらゆるジャンルの知が交流し、新たな価値観が形成された。豪商たちは、商人としての教養を身につけるため、武野紹鴎のような茶人に師事し、その中で人的ネットワークを広げていった 26 。彼らの茶会こそ、実質的な最高学府の一つであり、堺の知的権威を支える中核であったと言える。
3-2. 寺院が果たした教育・文化サロン機能
堺の豪商たちの精神世界と文化活動を支えたもう一つの柱が、臨済宗大徳寺派を中心とする禅寺の存在であった。特に、三好長慶が建立し、千利休も修行したと伝えられる南宗寺や、豪商・谷正安が沢庵宗彭を開山に迎えて創建した祥雲寺などは、その代表格である 18 。
これらの寺院は、単なる信仰の場に留まらなかった。豪商たちは寺院に多額の寄進を行い、その経営を支える一方で、高名な禅僧たちから禅の思想や漢詩文、書画などを学ぶ文化サロンとして活用した 29 。沢庵宗彭のような傑出した知識人との交流は、商人たちに深い精神性と高い教養をもたらした。また、これらの寺院には美しい枯山水の庭園が作庭され、それ自体が江戸時代初期の美意識を体現する学びの場でもあった 30 。寺院は、激動の時代を生き抜くための精神的な拠り所であると同時に、武士階級とも対等に渡り合える古典教養を身につけるための重要な教育機関として機能していたのである。
3-3. 実学の集積地としての町
茶の湯や禅が精神的・教養的な知の拠点であったとすれば、堺の町そのものは、より実践的な「実学」の巨大な集積地であった。
国際貿易港として、堺の商人たちは当時の日本人の中で最も海外情勢に明るかった。朱印船貿易に携わった木屋弥三右衛門や、ルソン(フィリピン)との交易で財をなした西宗真といった商人たちは、徳川家康に対して海外の事情を直接報告する役割を担っており、その知識は国家レベルの外交政策にも影響を与えた 18 。
また、鉄砲鍛冶や刀鍛冶の工房は、冶金学や火薬学の最先端の研究室であった。慶長十四年(1609年)、家康の命令に応じて巨大な大筒を完成させた芝辻理右衛門の技術力は、堺の職人たちの水準の高さを示すものである 33 。朱座が持つ朱の精製技術は、高度な化学的知識を必要とした 18 。これらの専門知識は、テキストを通じてではなく、親方から弟子へと、日々の仕事の中で身体を通して継承される徒弟制度によって支えられていた。
このように、1603年の堺には、特定の建物としての「学問所」はなかったが、都市全体が機能別に分化した「学問所」の集合体、すなわち「分散型知的ネットワーク都市」であった。茶室は社交と情報分析の場、寺院は思想と古典教養の場、工房や店は専門技術の伝承の場として機能し、それらが豪商というハブを介して有機的に結合していた。徳川幕府が儒学、特に朱子学を正統イデオロギーとして確立しようとする中で、堺の知的基盤は、それとは異質の、実践的・多元的・国際的な性格を保持していたのである。
第四章:焦土からの再生と新たな学びの場へ
慶長八年(1603年)の時点で色濃く残っていた戦国時代の遺産としての堺の姿は、そのわずか12年後に起こった悲劇によって物理的に終焉を迎える。大坂夏の陣における堺の全焼は、都市の歴史における決定的な断絶点となり、その後の復興は、徳川の秩序の下での新たな都市再生事業として行われた。この「破壊と再生」の過程は、堺の知的基盤のあり方にも大きな変容をもたらした。
4-1. 慶長二十年(1615年)の悲劇:大坂夏の陣と堺の全焼
慶長二十年(1615年)四月二十八日、大坂夏の陣の前哨戦として、豊臣方の大将・大野治胤(道犬)率いる軍勢が堺を襲撃した 34 。その目的は、徳川方の兵站基地となっていた堺の機能を破壊し、兵糧や弾薬を略奪することにあったとされる 35 。この攻撃において、豊臣軍は堺の町に火を放ち、市街地は瞬く間に炎に包まれた。
この焼き討ちは、戦国時代から栄華を誇った環濠都市・堺の歴史に、事実上の終止符を打つものであった。豪商たちの広大な屋敷も、由緒ある寺社も、ことごとく灰燼に帰した 20 。この出来事は、堺がもはや戦乱から中立を保てる聖域ではなく、天下を賭けた最終決戦の渦中に否応なく巻き込まれる一都市に過ぎないことを、残酷なまでに示した。戦国時代から続く自治都市の物理的な姿は、この日をもって完全に消滅したのである。
4-2. 徳川による復興事業:「元和の町割り」
大坂夏の陣が徳川方の勝利に終わり、豊臣家が滅亡すると、徳川家康は直ちに堺の復興に着手した。戦乱終結からわずか1ヶ月後の慶長二十年(1615年)六月十八日には、復興の起工式が執り行われている 33 。この迅速な対応は、堺の経済的価値を家康が高く評価していたことの証左である。
この復興事業は「元和の町割り」と呼ばれ、単なる町の再建に留まらない、計画的な都市改造であった 21 。かつての堺が、環濠に守られ、敵の侵入を阻むために意図的に入り組んだ道筋を持つ防御的な町並みであったのに対し、「元和の町割り」では、東西南北に整然とした碁盤目状の街路が整備された。これは、もはや堺が自衛する都市ではなく、幕府の管理下に置かれ、商業活動の効率性を優先する近世的な都市へと生まれ変わったことを物理的に示すものであった。現存する山口家住宅は、この大火直後に建てられた江戸初期の町家として、当時の姿を今に伝える貴重な遺構である 20 。
4-3. 新たな時代の教育機関へ:堺郷学所への道
1615年の「破壊と再生」は、堺の知的基盤にも大きな影響を与えた。戦国期に豪商たちのネットワークを支えていた物理的・社会的なインフラが一度リセットされたことで、徳川幕府が理想とする近世的な都市構造と、それに合致した教育システムが導入される素地が生まれたのである。
江戸時代の泰平の世が続くと、かつてのような政治・経済の最先端情報を交換する茶会の重要性は相対的に低下し、代わって庶民層にも読み書きそろばんといった実用的な知識や、幕藩体制の秩序を支える道徳教育の需要が高まっていった。
こうした時代の変化を背景に、江戸時代後期から明治初期にかけて、堺にも「堺郷学所」や「郷学校」といった、より公的な性格を持つ教育機関が設立されるようになる 4 。これらの学校では、儒学の経典や、町人として求められる実践道徳が教えられた 5 。また、学科目には経学・筆道・数学といった実用的なものが含まれ、明治期に入ると地理・歴史・修身なども加えられた 6 。これは、戦国期の多元的で国際色豊かな知のあり方から、江戸時代の身分制社会に適合した、より均質で道徳的な知のあり方へと、教育の重点が移行したことを示している。後代の「郷学所」の設立は、1615年の断絶があったからこそ、新たな都市構造の上に築くことが可能になった側面があると言えるだろう。
結論:再考・慶長八年の堺 ― 知的基盤の継承と変容
本報告書は、慶長八年(1603年)の「堺学問所設置」という事象の調査から出発した。しかし、史料を精査する中で、この事象は特定の施設の建設を指す史実ではなく、徳川という新たな統一権力の下で、堺の知的基盤がどのように再編され、その役割を変えていくのかという、時代の転換点を象徴するテーマとして捉え直すべきであるとの結論に至った。
慶長八年の堺に、公式な「学問所」は存在しなかった。しかし、堺にはそれを凌駕するほどの、生きた知的ネットワークが存在した。その真の「学問所」とは、豪商たちの茶室であり、禅寺の静寂であり、そして職人たちの工房に宿る実践知そのものであった。それは、建物ではなく、都市全体に張り巡らされた、自律的で多元的な知識の生態系であった。茶の湯を通じて政治と経済の力学を学び、禅を通じて精神と教養を深め、仕事を通じて世界最先端の技術を継承する。これこそが、戦国乱世を生き抜いた商都・堺の知性の本質であった。
慶長八年(1603年)は、この戦国時代の遺産である知的ネットワークが、まだ色濃く残存していた最後の時代であったと言える。徳川家康は、その価値を認め、今井宗薫という堺出身者を代官に据えることで、このネットワークを破壊することなく自らの統治体制に組み込もうとした。しかしそれは同時に、堺の知性が、徳川の平和(パックス・トクガワーナ)という新たな秩序に適応するため、その性格を静かに変え始めた胎動の年でもあった。
この静かな変容は、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣における堺全焼という物理的な断絶によって決定的となる。焦土からの復興は、徳川の設計思想に基づく近世都市としての再生であり、かつての自治都市の面影は一掃された。この新たな都市構造の上で、やがて「堺郷学所」に代表されるような、近世的な教育機関が生まれていく。
したがって、1603年の堺を考察する核心は、一つの施設の有無ではなく、戦国から近世へと移行する中で、堺の知的基盤がいかに「継承」され、そして「変容」していったのか、そのダイナミズムを捉えることにある。慶長八年は、その変容が始まる直前の、最後の輝きを放っていた時代として、日本の知性史において特筆すべき一年なのである。
引用文献
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- 昌平坂学問所(ショウヘイザカガクモンジョ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80-533219
- 昌平坂学問所跡|『新編武蔵風土記稿』を編纂した徳川幕府の学問所 https://www.ieyasu.blog/archives/3693
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