堺環濠補修(1585)
豊臣秀吉は1586年、自治都市堺の環濠埋め立てを命じた。紀州征伐後の軍事的無力化と大坂への経済集中が目的。堺は自治を失い、大坂夏の陣で焼失。秀吉の天下統一戦略で、中世都市の終焉を告げた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正十四年 堺環濠解体:天下統一の奔流に呑まれた自治都市の終焉
序論:問いの再設定 —「補修」から「解体」へ
天正13年(1585年)に和泉国・堺で行われたとされる「環濠補修」は、通説では「都市防衛と交易管理の強化」を目的とした事業として認識されている場合がある。しかし、現存する複数の史料や近年の研究成果を精査すると、この事象の実態は大きく異なる様相を呈してくる。第一に、この出来事の核心は環濠の「補修」ではなく、豊臣秀吉の命令による「埋め立て」、すなわち都市の武装解除と機能の 解体 であった 1 。第二に、その命令が発せられた画期は、天正13年(1585年)ではなく、秀吉が関白に就任し、その権力基盤を盤石にした翌年の**天正14年(1586年)**であったとするのが、今日の定説である 3 。
したがって、本報告書は「堺環濠補修(1585)」という当初の問いを、「なぜ豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、中世随一の自治都市・堺の象徴たる環濠を埋め立てるに至ったのか」という、より本質的な問いへと再設定する。利用者様が求める「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」での解説に応えるべく、本報告書では、この歴史的転換点の決定的な前史となった天正13年(1585年)の紀州征伐から筆を起こし、環濠解体命令の背景と過程、そしてそれがもたらした歴史的帰結までを、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。
第一部:前夜 — 天正13年(1585年)、天下統一の奔流と堺
第一章:紀州征伐 — 秀吉による大坂周辺の「地ならし」
天正14年(1586年)の堺環濠解体を理解する上で、その前年に行われた紀州征伐は、単なる一地方の平定戦以上の意味を持つ。それは、秀吉による大坂周辺の「地ならし」であり、堺に対する無言の、しかし極めて強力な武装デモンストレーションであった。
背景:小牧・長久手の戦い後の政治情勢
天正12年(1584年)、豊臣秀吉は徳川家康・織田信雄連合軍との小牧・長久手の戦いを、軍事的には決着がつかないながらも、巧みな単独講和という政治的手腕によって終結させた 7 。これにより、東方の最大の脅威を一時的に封じ込めた秀吉は、天下統一事業の次なる段階、すなわち西国への進出へと視線を転じた。しかし、その足元には看過できない脅威が存在した。秀吉の本拠地である大坂城の南、和泉から紀伊にかけての地域には、根来衆・雑賀衆といった、強力な鉄砲で武装し、高い独立性を維持する寺社勢力や国人一揆が割拠していた 9 。彼らは小牧・長久手の戦いにおいて家康と連携し、秀吉の背後を脅かした存在であり、来る四国や九州への大規模な遠征を前に、必ずや制圧しておくべき対象であった 9 。
戦闘経過:圧倒的軍事力による電撃戦
秀吉の紀州攻めは、その圧倒的な物量と周到な計画性、そして迅速さにおいて、戦国末期の新たな戦争の形態を象徴するものであった。
天正13年(1585年)3月、秀吉は10万とも6万ともいわれる大軍を動員し、紀州鎮圧を開始する 7 。まず、甥の羽柴秀次を先発隊として大坂城から出陣させ、和泉南部の国境地帯へと向かわせた 10 。紀州勢はこれに対し、千石堀城、沢城、積善寺城、畠中城といった和泉南部の城砦群を防衛線として迎え撃つ体制を整えた 10 。
3月21日 、秀吉本隊が岸和田城に入ると、総攻撃の火蓋が切られた 9 。秀吉は、筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷、高山右近、中村一氏といった麾下の有力大名を各城の攻略に投入し、波状攻撃を仕掛けた 10 。紀州側は数千丁の鉄砲を駆使して頑強に抵抗したとみられるが、秀吉軍の圧倒的な兵力の前に防衛線は次々と突破される。
3月23日 、攻撃開始からわずか3日にして、和泉の城砦群は全て陥落した 10 。同日、秀吉軍は紀州勢の本拠地の一つ、根来寺に到達する。しかし、秀吉軍が到着した際には寺の主要な伽藍はすでに出火しており、3日間にわたって燃え続け、灰燼に帰した 9 。これが秀吉軍による焼き討ちであったのか、あるいは根来衆による自焼であったのかは定かではないが、いずれにせよ、紀州最大の抵抗拠点は戦闘を交えることなく壊滅した。
3月24日 、秀吉は西進して雑賀荘へと軍を進める。しかし、雑賀衆はかねてからの内部対立がこの危機に際して表面化し、秀吉軍の到着を前に自壊に近い状態に陥っていた 10 。秀吉軍はほとんど抵抗を受けることなく雑賀荘を制圧した。
最後の抵抗拠点となったのは、太田党が立てこもる太田城であった。秀吉は当初、兵糧攻めを計画したが、早期決着を図るため、得意の「水攻め」に戦術を転換した 10 。
3月28日 、城の周囲を流れる川を利用し、全長7.2キロメートル、高さ7メートルにも及ぶ巨大な堤防の建設が開始される 10 。この大工事は、秀吉の絶大な動員力と権力を誇示するものであった。
その間も秀吉は圧力を緩めない。 4月10日 には、根来寺と並ぶ紀州の宗教的権威であった高野山に対し、降伏を勧告。根来寺の惨状を目の当たりにした高野山は、学僧・木食応其を代表として派遣し、秀吉に恭順の意を示した 7 。
そして 4月22日 、約1ヶ月にわたる水攻めと、小西行長率いる水軍による直接攻撃の末、太田城はついに降伏した 10 。この戦後処理において、秀吉は特筆すべき政策を実行する。城内の主だった者とその関係者を除く一般の農兵らは赦免されたが、その際、農具以外の刀や槍、鉄砲といった武器は全て没収されたのである 10 。これは、3年後の天正16年(1588年)に全国規模で発令される「刀狩令」の原型ともいえる画期的な武装解除であり、兵農分離を徹底しようとする秀吉の国家構想が、この時点で既に具体的に実践されていたことを示している。
紀州平定の戦略的意義
紀州平定後、紀伊国は秀吉の弟である羽柴秀長に与えられ、藤堂高虎を普請奉行として和歌山城の築城が開始された 7 。この一連の戦役が持つ戦略的意義は、単に一国を平定したことに留まらない。
第一に、本拠地・大坂の背後を完全に安定させ、来る四国征伐(同年6月)、そして九州征伐への後顧の憂いを断ち切ったことである 11 。第二に、根来寺や高野山といった中世以来の独立性を誇った寺社勢力、そして雑賀衆に代表される惣国一揆を、圧倒的な武力によって屈服させたことである。これは、もはやいかなる勢力も中央政権から独立して存在することを許さないという、秀吉の近世的支配体制への断固たる意志を天下に明確に示すものであった 9 。
この紀州征伐の電撃的な展開と徹底した戦後処理の様相は、国境を接する堺の会合衆にとって、他人事ではなかったはずである。同じく鉄砲という先進兵器を擁し、自治を誇る都市が、いかにして天下人の前に無力であるかを、彼らはリアルタイムで見せつけられた。この前年の「見せしめ」とも言える出来事こそが、翌年の環濠解体命令に対する堺の反応を決定づけた、最大の心理的要因であったと考えられる。
表1:天正13年(1585年)紀州征伐 詳細年表
年月日 (天正13年) |
場所 |
主要な出来事 |
関連する指揮官・勢力 |
典拠 |
3月上旬 |
大坂城 |
秀吉、紀州征伐を決意。羽柴秀次が先発。 |
豊臣秀吉、羽柴秀次 |
7 |
3月21日 |
和泉国 岸和田 |
秀吉本隊、攻撃開始。 |
豊臣秀吉 |
9 |
3月21日-23日 |
千石堀城・積善寺城など |
紀州方の和泉国前線拠点が全て陥落。 |
筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷など |
10 |
3月23日 |
根来寺 |
秀吉軍進入。寺は炎上し、壊滅。 |
根来衆 |
9 |
3月24日 |
雑賀荘 |
秀吉軍進駐。雑賀衆は内紛で自壊。 |
雑賀衆 |
10 |
3月28日 |
太田城 |
秀吉、水攻めを開始。築堤に着手。 |
太田党 |
10 |
4月10日 |
高野山 |
木食応其が仲介し、秀吉に降伏。 |
金剛峰寺 |
7 |
4月22日 |
太田城 |
水攻めと総攻撃により降伏。武器を没収(「刀狩」の原型)。 |
小西行長 |
10 |
5月以降 |
紀伊国 |
秀長が紀伊国主に。和歌山城の築城開始。 |
羽柴秀長、藤堂高虎 |
7 |
第二章:自治都市・堺の黄昏
紀州で独立勢力が一掃されていた頃、隣接する堺は、天下の奔流の中で微妙な立場に置かれていた。かつての栄光と自治の誇りを維持しつつも、その象徴であった環濠の内側では、時代の大きな変化が静かに、しかし確実に進行していた。
環濠に守られた「東洋のヴェニス」
16世紀の堺は、日本、ひいては東アジアでも有数の国際貿易都市であった。日明貿易や南蛮貿易によって莫大な富が集積し、その経済力を背景に、特定の戦国大名に支配されない「自由・自治都市」として繁栄を極めた 14 。その繁栄と独立の様は、イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラによって「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」とヨーロッパに報告されたほどである 17 。この「執政官」こそ、都市の運営を担った「会合衆(かいごうしゅう、えごうしゅうとも)」と呼ばれる36人の有力商人たちであった 15 。
この自治と自由を物理的に保障していたのが、都市の三方(北・東・南)を囲む巨大な環濠であった 19 。西側は海に面しており、環濠はまさに都市全体を要塞化する城壁の役割を果たしていた。津田宗及が記した茶会記『宗及他会記』には、永禄12年(1569年)に「堀をほり櫓をあれ」と、環濠を掘り、櫓を建てて防備を固めた様子が記録されている 21 。近年の発掘調査では、その規模が幅10メートル以上、場所によっては17メートル、深さも4.5メートルに達し、一部は二重に巡らされていたことが確認されており、文献の記述を裏付けている 1 。この環濠は、単なる土木構造物ではなく、堺の誇りと独立の精神そのものを体現する、絶対的な象徴だったのである 1 。
織田信長との関係:自治権侵食の前史
堺の完全な自治は、織田信長の上洛によって大きな転機を迎える。永禄11年(1568年)、信長は堺に対して2万貫という巨額の矢銭(軍用金)を要求した 6 。会合衆は当初、この要求を断固として拒否。前述の『宗及他会記』にあるように、環濠をさらに深くし、櫓を上げるなど、徹底抗戦の構えを見せた 2 。
しかし、信長の圧倒的な軍事力の前に、堺は最終的に屈服を余儀なくされる。会合衆の一員であり、信長とも個人的な関係があった今井宗久らの仲介により、矢銭の支払いに応じ、信長の支配下に入った 23 。これにより、堺は政治的な自治権を失い、信長の直轄領となった 1 。ただし、この時点では商業活動における自立性は維持されており、堺の経済的地位はまだ揺らいではいなかった 23 。信長との関係は、完全な従属というよりは、経済力を提供する見返りに一定の特権を維持する、という緊張をはらんだパートナーシップに近いものであった。
天正13年(1585年)時点での堺と秀吉
本能寺の変を経て、信長の後継者となった秀吉の時代、堺と中央政権の関係はさらに複雑な様相を呈する。千利休や津田宗及といった堺を代表する豪商たちは、信長の時代に引き続き、秀吉の茶頭として政権の中枢に深く食い込んでいた 24 。特に利休は、単なる茶人にとどまらず、秀吉の側近として政治的にも大きな影響力を持つに至っていた 27 。天正13年(1585年)10月には、秀吉が宮中で催した禁中献茶に奉仕し、正親町天皇から「利休」の居士号を勅賜されるなど、その関係は頂点に達していた 24 。
しかし、このような個人的な関係の密接さとは裏腹に、都市・堺そのものの立場は危うくなりつつあった。秀吉は天正11年(1583年)から大坂城の築城と城下町の建設を精力的に進めており、新たな政治・経済の中心地を大坂に創出しようという明確な意志を持っていた 31 。堺の豪商たちが秀吉個人との関係を深めれば深めるほど、彼らのアイデンティティは「自治都市・堺の代表」から、「天下人・秀吉に仕える文化官僚・側近」へと変質していった。彼らの影響力の源泉は、もはや堺の会合衆という都市共同体ではなく、秀吉個人との結びつきに依存するようになっていたのである。この構造的な変化が、翌年に環濠解体という都市の根幹を揺るがす命令が下された際、堺が組織的な抵抗能力を失っていた大きな要因となる。
第二部:執行 — 天正14年(1586年)、環濠の終焉
前年の紀州征伐によって物理的・心理的な外堀が埋められた堺に対し、天正14年(1586年)、豊臣秀吉は決定的な一手を打つ。それは、堺の自治と誇りの象徴であった環濠そのものを、地上から消し去るという命令であった。
第一章:環濠埋め立て命令
命令の発令とその背景
天正13年(1585年)7月、秀吉は正親町天皇から関白の位を賜り、名実ともに天下人としての地位を確立した 33 。これにより、彼の政策はもはや一戦国大名の領国経営のレベルを超え、国家全体の秩序を再編するスケールへと移行する。そして天正14年(1586年)、秀吉は堺の周囲を巡る環濠を埋め戻すよう、正式に命令を発した 2 。これは、単なる土木事業の命令ではなく、中世という時代の終焉を告げる、極めて政治的な宣言であった。
秀吉の戦略的意図の多角的分析
秀吉が環濠の解体を命じた背景には、複合的かつ冷徹な戦略的意図が存在した。
- 軍事的無力化 : 堺は国内随一の鉄砲生産地であり、傭兵としても名高い雑賀衆とも繋がりがあった可能性がある 17 。堅固な環濠に守られたこの都市は、潜在的な抵抗拠点であり、万が一、徳川家康のような敵対勢力と結びつけば、大坂の喉元に突きつけられた匕首となりかねない。環濠を埋めることは、この軍事的ポテンシャルを物理的に、そして永久に奪うための最も確実な手段であった 1 。
- 政治的象徴操作 : 環濠は、堺の「自治・自由の象徴」そのものであった 1 。天下人となった秀吉が、その絶対的な権威をもってこの象徴を破壊することは、他のいかなる勢力(寺社、公家、大名)に対しても、もはや中央政権から独立した権威や武力は存在し得ないという事実を叩きつける、強烈な政治的パフォーマンスであった。それは、分権的であった中世世界の秩序を解体し、秀吉を頂点とする一元的な近世世界の秩序を構築するための、象徴的な儀式だったのである。
- 経済的都市改造(大坂への中心地シフト) : 秀吉の構想の核心には、自身の本拠地である大坂を、日本、ひいては東アジアにおける新たな政治・経済の中心地として確立するという壮大な都市計画があった。この「大坂グランドデザイン」を実現するためには、当時その地位にあった堺から、経済機能とそれを担う人材を吸い上げる必要があった。秀吉は堺の有力商人たちを大坂城下へ強制的に移住させる政策を並行して進めており、環濠の埋め立ては、堺の都市としての魅力を削ぎ、この経済中枢のシフトを不可逆的なものにするための決定的な一撃であった 8 。堺はもはやライバル都市ではなく、大坂を建設するための「部品供給源」と位置づけられたのである。
表2:堺に対する信長・秀吉の政策比較
政策項目 |
織田信長 |
豊臣秀吉 |
政策の意図と変化 |
典拠 |
軍事的要求 |
矢銭(軍用金)2万貫を要求 |
(直接的な軍資金要求の記録は少ない) |
経済的従属を求める段階から、物理的支配の段階へ |
2 |
自治権への介入 |
抵抗を屈服させ、直轄領化。政治的自治権を制限。 |
自治の象徴である環濠を埋め立て、自治権を完全に剥奪。 |
部分的な支配から、完全な無力化・解体へ |
1 |
環濠への対応 |
抵抗を受け、堺側は環濠を増強。最終的に武力で屈服させる。 |
命令により埋め立てさせ、防御機能を消滅させる。 |
防御施設として認識し対峙 → 存在自体を許さず破壊 |
2 |
商人への処遇 |
今井宗久らを登用し、経済力を利用。商業活動の自立性は維持。 |
千利休らを重用する一方、多くの商人を大坂へ強制移住。 |
有力者を登用しつつ都市の機能は維持 → 都市機能ごと大坂へ移転 |
8 |
統治形態 |
直轄領として管理 |
小西隆佐・石田三成を代官として派遣し、直接統治を強化。 |
間接的な影響力行使から、行政官僚による直接統治へ |
6 |
総合的評価 |
経済的・軍事的なパートナーとしての側面を残しつつ支配下に置く。 |
潜在的なライバル都市として解体し、自らの首都・大坂の礎とする。 |
堺の価値を認めつつ利用 → 堺の価値を大坂に移転・吸収 |
- |
第二章:堺の反応と執行過程
秀吉による環濠埋め立て命令は、堺の歴史における分水嶺であった。その執行過程と堺の反応は、都市の力が天下人の権力の前についに屈した様を如実に物語っている。
代官の任命と直接統治
天正14年(1586年)、秀吉は環濠埋め立て命令と同時に、堺の統治体制にも抜本的な改革を行った。彼は側近である小西隆佐と石田三成を堺の代官(奉行)に任命したのである 6 。小西隆佐は堺の商人の出自ともいわれ、都市の実情に明るい人物であった。一方、石田三成は後に五奉行の一人として豊臣政権の行政を担う、極めて有能な官僚であった 37 。この人選は、堺を単に支配するだけでなく、豊臣政権の行政システムの中に完全に組み込もうとする秀吉の強い意志を示している。会合衆による自治は事実上停止され、堺は天下人の派遣した官僚による直接統治下に置かれることになった。
会合衆の反応:沈黙と追従
かつて信長の矢銭要求に対し、環濠を増強し、一時は武装抵抗の構えまで見せた堺の会合衆であったが、秀吉の環濠埋め立てという、より根本的な都市の解体命令に対して、組織的な抵抗運動を起こしたという記録はほとんど見られない 2 。この沈黙の背景には、いくつかの要因が考えられる。
第一に、前年の紀州征伐が与えた衝撃である。隣接する武装勢力が、秀吉の圧倒的な軍事力の前にわずか1ヶ月で蹂躙される様を目の当たりにし、いかなる抵抗も無意味であると悟ったとしても不思議ではない。第二に、千利休や津田宗及といった最も影響力のある豪商たちが、すでに秀吉政権の中枢に深く取り込まれ、もはや堺という都市共同体の利益を代弁する立場にはなかったことである。彼らにとって、秀吉の意向に逆らうことは、自らの地位と生命を危うくする行為に他ならなかった。堺は、抵抗するための軍事力も、それを主導する政治的意思も、この時点ではすでに失っていたのである。
埋め立てのプロセス
環濠の埋め立ては、命令一下、即座に完了したわけではなかった。堺市の発掘調査に関する報告などでは、「徐々に埋められていった」と記述されており、段階的に工事が進められたことが示唆されている 6 。これは、全長数キロメートルに及ぶ巨大な堀を埋めるという土木工事の物理的な困難さに加え、都市の経済活動への影響を最小限に抑えつつ、計画的に無力化を進めるという、秀吉政権の周到さを示しているのかもしれない。
そして、この中世の環濠が完全に埋め立てられ、その痕跡が地上から消え去ったのは、豊臣氏が滅亡した慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の終結後であったとされる 6 。これは、もはや堺が豊臣方の拠点となる可能性が完全に消滅し、徳川の世が到来した段階で、中世の遺構の最終的な整理が行われたことを意味する。環濠の解体は、秀吉に始まり、徳川によって完成された、時代の転換を象徴する事業であった。
第三部:帰結 — 環濠なき都市の運命
天正14年(1586年)の環濠埋め立て命令は、堺の運命を決定的に変えた。自治の象徴と物理的な防御壁を失った都市は、新たな時代の荒波に翻弄され、かつてとは全く異なる姿へと変貌を遂げていく。
第一章:自治都市の完全なる終焉
環濠喪失の直接的影響:大坂夏の陣での焼失
環濠解体の悲劇的な結末は、約30年後の慶長20年(1615年)に訪れた。大坂夏の陣において、徳川方についたと見なされた堺は、豊臣方の大野治房軍による焼き討ちに遭ったのである 1 。かつてであれば、堅固な環濠が侵入を阻み、籠城戦に持ち込むことも可能であったかもしれない。しかし、防御機能を完全に失っていた堺の市街はなすすべもなく炎に包まれ、ポルトガル人宣教師の記録によれば2万戸の家屋が焼失する、壊滅的な被害を受けた 40 。秀吉が自らの政権の安泰のために下した環濠解体の命令が、巡り巡って豊臣氏最後の戦いの中で、堺の街を灰燼に帰させるという皮肉な結果を招いたのである。
博多との比較:秀吉の都市政策における二面性
秀吉の堺に対する政策の真意は、同じく彼が都市改造を手がけた博多との比較によって、より鮮明に浮かび上がる。天正15年(1587年)、九州を平定した秀吉は、戦乱で荒廃した博多の復興に着手した。しかし、その手法は堺とは全く対照的であった。
秀吉は博多において「太閤町割り」と呼ばれる大規模な都市区画整理を実施し、神屋宗湛や嶋井宗室といった博多商人の協力を得て、整然とした街区を再建した 42 。さらに、土地家屋への課税(地子)を免除し、座を廃止して自由な商業活動を認めるなど、商人の自治をある程度尊重し、都市機能を積極的に復興・強化させる政策をとった 23 。
この堺と博多での扱いの違いは、秀吉の極めて合理的な戦略観に基づいている。彼にとって、来るべき朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を見据えた際、博多は大陸への兵站基地として不可欠な「生かすべき都市」であった。一方で、自らの首都・大坂に隣接する堺は、潜在的な経済的ライバルであり、その機能はむしろ大坂に吸収・統合すべき「解体すべき都市」であった。この冷徹なまでの使い分けは、秀吉の政策が、個々の都市の伝統や自立性ではなく、天下統一という国家レベルのグランドデザインを最優先していたことを明確に物語っている。この過程で、日本の都市は、権力と対峙しうる自律的な城塞都市から、権力に従属し、特定の経済的役割を担う機能都市へと、その本質を大きく変容させられていったのである。
第二章:新たな秩序への再編
徳川の世と「元和の町割り」
大坂夏の陣で焦土と化した堺は、戦後、徳川幕府の直轄地として新たな道を歩むことになった。徳川家康は、豊臣氏の痕跡を消し去り、自らの支配体制を盤石にするため、堺の迅速な復興を命じた 8 。
この復興事業は、それが始まった元号から「元和の町割り」と呼ばれる 17 。この計画では、秀吉時代に埋められた環濠よりも一回り外側に、新たな堀(現在の土居川や内川の原型)が掘削され、都市の範囲が拡張された 8 。そして、その内側には碁盤目状の整然とした街路が整備され、近世的な管理都市としての骨格が形成された 45 。
しかし、この新たに作られた環濠は、もはや中世のそれとは全く意味合いが異なっていた。それは、会合衆が自治を守るために築いた抵抗の砦ではなく、幕府が都市を管理し、その境界を定めるための行政区画線であった。堺は、自由都市から幕府の直轄領へと、その地位を完全に変えたのである。
中世から近世へ:不可逆的な変化
近年の堺環濠都市遺跡の発掘調査では、慶長20年(1615年)の大火で生じた厚い焼土層の下から、元和の町割りとは街路の軸線が異なる、中世の町並みの遺構が発見されている 40 。これは、秀吉による環濠解体、大坂夏の陣での焼失、そして徳川による再開発という一連の出来事を通じて、中世の自治都市としての堺が文字通り地中に埋められ、その上に全く新しい近世の管理都市が建設されたことを示す、動かぬ証拠である。この変化は不可逆的であり、堺の歴史、ひいては日本の都市史における、一つの時代の完全な終わりを告げるものであった。
結論:戦国時代の終焉を告げる一里塚
本報告書で検証した「堺環濠補修(1585)」という事象は、史実を精査するならば「堺環濠解体命令(1586)」と捉え直すべきであり、その歴史的意義は都市機能の強化とは全く逆の、 自治と自衛能力の剥奪 にあった。これは、単一の都市に対する土木政策という矮小な出来事では断じてない。
それは、天正13年(1585年)の紀州征伐という周到な地ならしを前奏曲とし、天下人となった豊臣秀吉が、自らの拠点・大坂を中心とする新たな中央集権国家を構築する過程で、中世以来の独立性の高い諸勢力(寺社、国人、そして自治都市)を一つずつ、その牙を抜き、体制内に再編していくという、巨大な歴史の潮流を象徴する一幕であった。秀吉の視線の先には、常に大坂を中心とした国家全体のグランドデザインがあり、堺の環濠解体も、博多の都市再興も、すべてはその冷徹な戦略の駒として配置されていたのである。
堺の環濠が、かつてそれを築いた商人たちの子孫の手によって、天下人の命令のもと、徐々に土で埋められていく光景は、まさに戦国乱世の「分権」と「自立」の時代が終わりを告げ、近世の「集権」と「管理」の時代が幕を開ける画期的な瞬間であった。それは、日本の都市史、ひいては政治史における、一つの時代の終焉と新たな時代の到来を告げる、紛れもない一里塚だったのである。
引用文献
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- 堺の環濠、いざCan Go! | 大阪で約半世紀の実績と信頼を誇る総合広告会社です。 - 宣成社 https://senseisha.co.jp/useful/kiji.php?n=18
- 堺環濠都市遺跡(SKT959)の調査現地説明会資料 - 大阪府文化財センター https://www.occh.or.jp/static/pdf/data/setumeikai/h18_082.pdf
- Untitled - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/tokei/tokeisho/gaiyou/R07gaiyou.files/genkou3pR07.pdf
- 和泉 堺環濠-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/izumi/sakai-kango/
- 堺環濠都市遺跡 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html
- 秀吉の紀州征伐 https://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap2/02kishuseibatsu.html
- 【第69回】南蛮貿易都市「堺」(Sakai)《其ノ二》―自由自治都市・堺の環濠と四人の天下人《後篇》[出世人]豊臣秀吉公と[苦労人]徳川家康公― | 株式会社有田アセットマネジメント https://aam.properties/column/history/9928.html
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