最終更新日 2025-09-22

堺鉄炮鍛冶保護(1586)

1586年、秀吉は堺鉄炮鍛冶を保護。これは単なる技術者保護ではなく、九州征伐に向けた軍需産業掌握と兵站システム構築のための国家戦略であった。
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日本の戦国時代における軍需産業統制の黎明:天正14年「堺鉄炮鍛冶保護」政策の構造分析

序論:天正14年(1586年)―天下統一事業の転換点

本報告書は、天正14年(1586年)に豊臣秀吉が和泉国堺の鉄炮鍛冶に対して行ったとされる一連の政策、通称「堺鉄炮鍛冶保護」について、その歴史的実像を多角的に分析するものである。この事変は、従来「技術者保護策」という側面から語られることが多いが、本質的には秀吉の天下統一事業における軍需産業の完全掌握と、近世的な兵站システム構築の一環として遂行された、極めて計画的な国家戦略であったことを論証する。

天正14年という年は、豊臣秀吉の天下統一事業において決定的な転換期であった。前年の天正13年(1585年)には、長宗我部元親を降した四国平定、雑賀・根来衆を制圧した紀州征伐、そして佐々成政を屈服させた越中平定を矢継ぎ早に成し遂げ、その支配圏は西国から北陸にまで及んでいた 1 。年が明けた天正14年、秀吉は東国最大の勢力であった徳川家康に対し、妹の朝日姫を嫁がせ、さらには生母の大政所を人質として送るという異例の手段を用いて上洛させ、事実上の臣従関係を確立した 1 。これにより東方の脅威が取り除かれると、秀吉の視線は西方の雄、九州の島津氏へと向けられた。同年、秀吉は九州平定へと本格的に乗り出すのである 2

この九州平定は、数十万の兵力を動員する、日本の歴史上でも類を見ない大規模な遠征計画であった。当然ながら、これほどの軍事行動は、前例のない規模での武器・弾薬、特に当時最新鋭の兵器であった鉄炮の需要を生み出した。本稿で論じる堺への一連の政策は、この巨大な軍事的必要性を直接的な引き金として発動されたという仮説に立つ。

したがって、本報告書では「保護」という言葉が持つ一見温情的な響きの裏に隠された、「国家による管理・統制・独占」という、より強権的な実態を解明することを目的とする。この事変を解き明かすことは、戦国乱世の終焉と、近世的な中央集権国家の形成過程における、軍事と経済、そして技術者集団の関係性を理解する上で不可欠な作業となるであろう。

第一章:権力と富の坩堝―自治都市「堺」の実像

豊臣秀吉が天正14年に断行した政策の真意を理解するためには、まずその対象となった「堺」という都市がいかに特異な存在であったかを把握する必要がある。中世末期の堺は、単なる港町ではなく、日本のいかなる権力からも独立した、独自の政治・経済・軍事システムを確立した都市国家であった。

中世における堺の特異性

戦国時代の堺は、特定の戦国大名の支配に属さず、「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる三十六人の有力商人による合議制によって自治運営が行われていた 4 。この自治の物理的な象徴が、都市の周囲を三重に巡らせた堀と土塁、すなわち「環濠」であった 6 。この強固な防御機能は、外部勢力の侵攻を容易に許さず、堺の独立性を物理的に保証する生命線となっていた。

経済的繁栄の源泉

堺の繁栄を支えたのは、海外との交易であった。日明貿易や、ポルトガル商人との南蛮貿易の拠点として、堺には莫大な富と、鉄炮をはじめとする海外の最新技術・情報が集積した 7 。この圧倒的な経済力は、堺をして戦国大名さえも無視できないほどの政治的影響力を持つ存在へと押し上げていた。堺の商人は、時に大名に巨額の軍資金を融通し、戦局を左右することさえあったのである。

織田信長による支配と堺の変質

この堺の独立性に初めて深刻な打撃を与えたのが、織田信長であった。永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した信長は、堺に対して矢銭(軍事献金)二万貫という巨額の支払いを要求。抵抗を示した堺に対し、信長は軍事力をもってこれを屈服させ、直轄地化した 4 。しかし、信長の支配は堺の自治組織を完全に解体するものではなかった。彼は会合衆の経済力を巧みに利用し、自身の天下布武事業における資金源、そして鉄炮の調達先として活用したのである 5 。この信長の政策は、堺の完全な独立を終わらせ、中央政権に従属させる第一歩であり、後に秀吉が行う、より徹底した支配体制への道筋をつけるものであった。

堺の「自治」「富」「軍事技術(鉄炮)」は、相互に依存しあう三位一体の構造を成していた。自治を守るために環濠があり、貿易による富が鉄炮生産への大規模な投資を可能にし、そして生産された鉄炮が自治を脅かす外部勢力への強力な抑止力となっていたのである。秀吉が天下統一を完遂するためには、この構造そのものを解体する必要があった。なぜなら、堺は誰にでも鉄炮を供給しうる「独立した武器市場」であり、秀吉が目指す武力の国家独占構想における最大の障害となり得たからである。堺の鉄炮生産能力は維持しつつ、その供給先を自身に限定すること、すなわち「武器市場の無力化」と「生産工場の国有化」こそが、秀吉の戦略的目標であった。そして、それを実現するためには、堺の独立性の象徴である「自治(会合衆)」と「防御(環濠)」を無力化することが不可欠であった。これが、天正14年の一連の政策の根本的な動機だったのである。

第二章:戦国の軍事革命を支えた技術者集団―堺鉄炮鍛冶の実態

堺が戦国大名にとって、そして天下人を目指す秀吉にとって、これほどまでに重要な戦略拠点と見なされた最大の理由は、国内随一の鉄炮生産能力にあった。堺の鉄炮鍛冶集団は、戦国の合戦様式を根底から覆した軍事革命を技術面で支える、極めて高度な専門家集団であった。

鉄炮生産拠点としての堺

天文12年(1543年)、種子島に鉄炮が伝来すると、その情報はいち早く堺にもたらされた。堺の商人・橘屋又三郎(たちばなや またさぶろう)は、自ら種子島に赴き、2年近く滞在してその製法を習得、堺に持ち帰ったと伝えられている 6 。これを契機に、堺は瞬く間に日本最大の鉄炮生産地へと発展する。その背景には、複数の要因が存在した。

第一に、 技術的素地 である。堺には平安時代から続く刀剣や武具の生産で培われた、高度な鋳造・鍛造技術が蓄積されていた 8 。この金属加工技術の伝統が、鉄炮という新技術の迅速な国産化と改良を可能にした。

第二に、 資本力 である。鉄炮生産には、炉やふいごといった設備への投資、鉄や木材といった原材料の大量購入が必要であった。会合衆に代表される堺の豪商たちの豊富な資金力が、こうした大規模な生産体制の構築を支えた 16

第三に、 原料調達網 の存在である。鉄炮の性能を左右する火薬の主原料である硝石は、その大半を明や南蛮からの輸入に頼っていた。国際貿易港であった堺は、この硝石や、弾丸の材料となる鉛を安定的に確保する上で、他のどの生産地よりも圧倒的に有利な立場にあった 4

生産体制と組織

堺の鉄炮生産は、高度な分業体制によって支えられていた。銃身を鍛える「鍛冶師」、木製の銃床を製作する「台師(だいし)」、引き金や火ばさみなどの精巧なカラクリ部分を作る「金具師(かなぐし)」といった専門職人が、それぞれの工程を担当していた 12

現在も堺市内に残る「鉄炮鍛冶屋敷(井上関右衛門家住宅)」などの遺構からは、当時の生産の様子を窺い知ることができる 10 。これらの屋敷は、住居と作業場が一体となった職住一体の生産拠点であり、その周辺には関連職人が集住して、一大産業クラスター(集積地)を形成していたと推察される 6 。このような生産拠点の集中と分業体制の確立が、高品質な鉄炮の大量生産を可能にしたのである。

堺筒の技術的特徴と影響力

堺で生産された鉄炮、通称「堺筒(さかいづつ)」は、近江の国友や紀州の根来といった他の生産地のものと並び称される高品質を誇った 18 。堺の鉄炮鍛冶は、単に注文に応じて生産するだけの職人ではなかった。今井宗久のように、自ら鉄炮や火薬の生産・販売を手がけ、茶の湯などを通じて大名と直接的な関係を築き、政治的影響力さえ持つ「武器商人」でもあった 16 。彼らの動向は、各大名の軍事力を直接左右し、戦国時代の勢力図に大きな影響を与えていた。

この堺の鉄炮鍛冶集団は、会合衆の経済的・政治的保護下にありながらも、その高度な専門技術によって独自の交渉力を持つ、いわば独立したギルドのような存在であった。彼らは特定の主人を持たず、需要に応じて様々な勢力に武器を供給することで、その価値を最大化していた。秀吉にとって、この独立ギルドは極めて厄介な存在であった。彼らが島津や北条、あるいは潜在的なライバルである徳川といった敵対勢力に武器を供給する可能性を、根絶する必要があったのである。しかし、単に鍛冶集団を弾圧すれば、生産能力そのものが失われ、自軍の武器調達に深刻な支障をきたす。したがって、秀吉が選択しうる最善の策は、彼らの生活と仕事を「保護」するという名目の下に、その生産活動と販路を完全に政権の「統制」下に置くことであった。これにより、鉄炮鍛冶は独立した商人職人から、国家に従属する「御用達の技術者」へと、その身分を強制的に転換させられることになった。これこそが、「保護」という政策の真の意味であった。

第三章:天正14年の動乱―時系列で読み解く「保護」政策の実施過程

「堺鉄炮鍛冶保護」政策は、ある日突然発令された単独の法令ではない。天正14年という一年を通じて、秀吉の天下統一事業の進展と密接に連動しながら、段階的かつ計画的に実行された一連の政治・軍事行動の総体である。ここでは、事変のリアルタイム性を再現するため、当時の政治・軍事状況と堺への政策を時系列に沿って追跡する。

1月~3月:東方への睨みと西方への布石

年の初め、秀吉の主たる関心は東方の徳川家康問題にあった。秀吉は織田信雄を通じて家康に従属を求めると同時に、上杉景勝には家康討伐への協力を要請するなど、巧みな外交戦略で家康への圧力を強めていた 2 。この時点では、堺への直接的な大規模介入はまだ見られない。しかし、いずれ来るであろう大規模な軍事行動に備え、武器・兵糧の調達準備は水面下で着々と進められていたと推察される。秀吉は、全国の直轄地(蔵入地)に物資を備蓄させ、堺や博多の商人と結びついて兵站ネットワークを構築し始めていた 24

4月~7月:九州征伐の決断と軍需の激増

事態が大きく動いたのは春であった。4月5日、九州で島津氏の圧迫に苦しむ豊後の大名・大友義鎮(宗麟)が、大坂城の秀吉を訪れ、救援を正式に要請した 25 。これにより、九州征伐は豊臣政権の喫緊の課題として浮上する。興味深いことに、この時期の堺の豪商・津田宗及の茶会記録『天王寺屋会記』には、大友氏関係者が出席した記録が残されており、堺商人が秀吉と地方大名との交渉を仲介する役割を担っていたことがわかる 25

九州征伐の決定は、堺の鉄炮鍛冶にとって画期的な出来事であった。これは、数十万の軍勢を動員する前代未聞の遠征であり、鉄炮・弾薬の需要が爆発的に増加することを意味した。この瞬間、堺の生産ラインを完全に掌握し、自軍のためだけに稼働させることが、秀吉政権の最重要課題の一つとなったのである。

8月~10月:軍事行動と支配の徹底

夏、ついに九州征伐の火蓋が切られた。8月、毛利輝元、黒田官兵衛らを先鋒とする豊臣軍が九州へ向けて出陣した 2 。そして、これと時を同じくして、秀吉は堺に対して決定的な一手を打つ。堺の自治と独立の物理的象徴であった

環濠の埋め立てを命令 したのである 28

この環濠埋め立て命令こそ、「堺鉄炮鍛冶保護」という一連の政策群の始まりであり、その本質が「保護」ではなく「支配と統制」にあることを最も明確に示す象徴的な行為であった。これにより、堺は物理的に武装解除され、都市としての防御能力を完全に喪失した。鉄炮鍛冶たちは、自分たちの活動基盤である都市が丸裸にされていく様を目の当たりにし、秀吉への完全従属以外の選択肢を失った。これは、技術者たちに対する無言の、しかし絶大な圧力であった。

11月~12月:緒戦の苦戦と兵站の再認識

年末、九州の戦局は豊臣方にとって厳しいものとなった。12月12日、戸次川(へつぎがわ)の戦いで、仙石秀久が率いる豊臣方の先遣隊が島津軍の巧みな戦術の前に大敗を喫した。この戦いで、四国の雄・長宗我部元親の嫡男である信親が討死するなど、豊臣軍は大きな損害を被った 2

この敗北は、島津軍の兵の精強さと、彼らが鉄炮を効果的に用いた戦術(「捨て奸(すてがまり)」など)の有効性を秀吉に改めて痛感させた 30 。これにより、遠征軍への兵站、とりわけ鉄炮・弾薬の継続的かつ大量の供給体制を盤石にすることの戦略的重要性が、これまで以上に強く認識されることになった。この敗戦は、堺の生産体制をさらに厳格な管理下に置き、増産を督促する格好の口実となったであろう。

天正14年における豊臣政権の動向と堺への影響分析

以上の時系列分析から、九州征伐という 軍事的必要性 が、堺の環濠埋め立てという 政治的支配の確立 を促し、それが鉄炮鍛冶の 生産体制の国家管理化 へと直結したという一連の因果関係が明確になる。これらの出来事は、天正14年という年の中で、極めて計画的かつ迅速に実行されたのである。

時期(天正14年)

豊臣秀吉の主要な動向

堺に関連する出来事・政策

軍事的背景(九州情勢など)

鉄炮鍛冶への影響(推察)

1月

徳川家康に従属を要求 2

秀吉政権の動向を注視

九州での島津氏の勢力拡大が続く

将来的な大量発注への期待と、政治的緊張の高まりによる不安が交錯

4月

大友義鎮(宗麟)が大坂城に来訪、救援を要請 25

堺の商人(津田宗及ら)が茶会等で秀吉と大友氏を仲介 25

九州征伐の正式決定

史上最大規模の武器・弾薬の需要発生が確実視され、生産体制の準備が急務となる

8月

九州征伐の先鋒隊が出陣 2

環濠の埋め立て命令が発せられる 29

毛利・黒田軍らが豊前へ侵攻開始

自治都市の崩壊。秀吉政権への完全従属を強いられ、生産体制の国家管理化が始まる

12月

戸次川の戦いで豊臣軍が敗北 2

秀吉政権からの武器・弾薬の追加発注・督促

島津軍の抵抗激化、戦線の膠着

さらなる武器増産と品質管理の要求が強まる。政権の兵站戦略に完全に組み込まれる

第四章:保護と統制の二元性―豊臣政権の武器・職人政策の本質

天正14年の一連の政策は、「保護」と「統制」という二つの側面を併せ持っていた。この二元性を理解することが、豊臣秀吉の武器・職人政策、ひいては彼の国家構想の本質を捉える鍵となる。

「保護」政策の側面分析

秀吉は、堺の鉄炮鍛冶が持つ高度な生産技術そのものを、自身の天下統一事業に不可欠なリソースとして認識していた。そのため、彼らを弾圧して生産活動を停滞させることは避けなければならなかった。したがって、彼らの生活基盤や生産活動を保障し、政権から安定的な仕事を与えるという「保護」の側面は確かに存在した。御用鍛冶として豊臣政権から独占的に発注を受けることは、戦国の動乱の中で不安定な経営を強いられてきた職人たちにとって、経済的な安定をもたらすという利点もあった。これは、技術者集団を完全に潰すのではなく、「生かさず殺さず」の状態で管理下に置くという、秀吉の巧みな統治術の一環であったと解釈できる。

「統制」政策の側面分析

しかし、その本質はあくまで「統制」にあった。第一に、 生産と流通の独占 である。環濠を埋められ、秀吉の支配を完全に受け入れた堺で生産される鉄炮は、原則として豊臣家とその許可を得た大名以外には供給されなくなった。これにより、堺は多様な勢力が買い付けに訪れる独立した武器市場としての機能を完全に失い、豊臣政権専用の兵器工場へと変貌した。

第二に、 価格と仕様の統制 である。かつては鍛冶と買い手との交渉で決まっていた鉄炮の価格、品質、仕様は、すべて政権の意向によって決定されるようになった。自由な商取引は厳しく制限され、鍛冶たちの創意工夫や利潤追求の機会は大きく損なわれた。

第三に、 兵站システムへの編入 である。堺の鉄炮鍛冶は、秀吉が構築した壮大な兵站ネットワークの末端に組み込まれた。蔵入地からの原材料の供給、完成品の輸送ルート、納期の管理など、生産に関わる全てのプロセスは政権によって一元的に管理されるようになった 24 。彼らはもはや独立した職人ではなく、国家の軍事機構を支える一つの歯車となったのである。

刀狩令(天正16年)への道筋

この堺への政策は、二年後の天正16年(1588年)に全国へ向けて発布された「刀狩令」へと直接的につながるものであった。刀狩令は、百姓から刀や脇差、弓、槍、そして鉄炮などの武器を没収し、農民の武装解除を目指したものである 31

この二つの政策の関係性を分析すると、秀吉の深遠な国家構想が浮かび上がってくる。「堺鉄炮鍛冶保護(統制)」が 武器の生産・流通を国家管理下に置く政策 であったのに対し、刀狩令は 武器の所有を武士階級に限定する政策 であった。この二つは、武器を「作る者」「流通させる者」「使う者」の全てを国家が管理・統制するという、壮大な計画の表裏一体をなすものであった。これにより、武士とそれ以外の身分を明確に区別する「兵農分離」が完成し、一揆などの民衆蜂起のリスクを大幅に低減させ、安定した中央集権体制を構築するための社会基盤が整えられたのである 34 。堺の鉄炮鍛冶への統制は、単なる軍事政策に留まらず、近世封建社会の礎を築くための社会政策の、重要な第一歩であったと言える。

なお、秀吉の政策は、もう一つの主要な鉄炮生産地であった近江国友村への対応と比較することで、より立体的に理解できる。秀吉は堺と同様に国友も支配下に置いたが 12 、堺の自治権を徹底的に剥奪し、直接的な管理を強化した。このことが、結果的に後の徳川家康に国友との関係を深めさせる一因となった可能性は否定できない。家康は、特に関ヶ原の戦いや大坂の陣において国友の鍛冶を重用し、戦局を左右する大筒などを大量に発注している 21 。秀吉による堺の完全統制という強硬策が、皮肉にもライバルに別の武器供給源を確保させる余地を与えたとも考えられるのである。

第五章:事変後の堺と鉄炮鍛冶の行方

天正14年の一連の政策は、堺という都市と、そこに生きた鉄炮鍛冶たちの運命を大きく変えた。独立を失った彼らは、豊臣政権が築く新しい秩序の中で、新たな役割を担っていくことになる。

豊臣政権下における堺の変容

自治権と環濠という軍事力を失った堺は、政治・経済都市として急速にその地位を低下させていった。秀吉は堺の目と鼻の先に、自身の権力の象徴である壮大な大坂城と城下町を建設 3 。平野や堺といった既存の商業都市から有力な商人たちを大坂へ移住させ、新たな経済中心地を形成した 42 。これにより、日本の経済の中心は大坂へと移り、堺は大坂城下の広域経済圏に吸収される一衛星都市へと変貌していった。国際貿易港としての機能は維持したものの、かつて戦国大名をさえ動かした独立都市としての輝きは、もはや失われていた。

鉄炮鍛冶たちのその後

豊臣政権、そしてそれに続く江戸幕府の管理下で、堺の鉄炮鍛冶たちは「御用鉄炮鍛冶」として存続の道を歩んだ。榎並屋勘左衛門(えなみや かんざえもん)のように、徳川家康に重用され、江戸に屋敷を与えられて幕府の御用を務めた者もいた 14

しかし、関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て世の中が泰平の時代へと移行すると、軍需品である鉄炮の需要は激減する 44 。これにより、多くの鉄炮鍛冶は深刻な経営難に直面し、廃業や転業を余儀なくされた。

技術の継承と発展

だが、彼らが長年培ってきた高度な金属加工技術が失われることはなかった。需要のなくなった鉄炮生産に代わり、彼らはその技術を民生品の生産へと応用し始めたのである。その代表例が、タバコの葉を刻むための「タバコ包丁」であった 8 。切れ味の鋭い堺のタバコ包丁は、江戸幕府から品質保証の極印である「堺極(さかいきわめ)」を認められるほどの高い評価を受け、全国的な名声を得た。

この技術はさらに、料理用の包丁などの堺打刃物へと発展し、現代に至る堺の伝統産業の礎を築いた 46 。また、幕末から明治期にかけて西洋から自転車が伝わると、鉄炮の精密な部品加工技術を持つ鍛冶たちが、その修理や部品製造に対応した。これが、後に日本の自転車産業の一大拠点となる堺の自転車製造の始まりであった 8

このように、堺の鉄炮鍛冶たちは、時代の大きな変化の中で、軍事技術を平和産業へと転用させることで生き残りを図った。彼らの技術は、形を変えながらも堺の「ものづくり」のDNAとして脈々と受け継がれ、後世の産業発展に大きな影響を与えたのである。これは、軍事技術が民生技術へとスピンオフする、歴史上でも特筆すべき事例として評価できる。

結論

天正14年(1586年)に豊臣秀吉が断行した「堺鉄炮鍛冶保護」政策は、その名称が与える穏やかな印象とは全く異なり、天下統一事業の最終段階である九州平定を軍事的に完遂するため、国内最大の軍需産業拠点・堺を完全な支配下に置き、その生産能力を独占するための、極めて計画的かつ強権的な国家戦略であった。

本報告書で明らかにしたこの事変の歴史的意義は、以下の三点に集約される。

  1. 軍事史的意義: 堺という、誰にでも武器を供給しうる独立した武器市場を解体し、武器の生産・流通・管理を国家が一元的に掌握する、近世的な兵站システムを構築した点で、日本の軍事史における画期的な出来事であった。これは、戦争の形態が個々の大名の力量に依存する時代から、国家の総力によって遂行される時代への移行を告げるものであった。
  2. 都市史的意義: 会合衆による自治と環濠による武装に支えられた中世的な自治都市・堺の独立を終焉させ、中央集権体制下の一管理都市へと変貌させる決定的な契機となった。これは、大坂城下町の建設と合わせて、近世における都市のあり方を規定する画期であった。
  3. 社会史的意義: 後の刀狩令へと直結する政策として、武器の生産と所有を国家の管理下に置くことで、武士階級による武力の独占を完成させるための重要な布石となった。これは、兵農分離を徹底し、近世封建社会の身分秩序を確立する上で不可欠なプロセスの一翼を担った。

総じて、「堺鉄炮鍛冶保護」は、豊臣秀吉個人の卓越した軍事的才能や政治的手腕を示す一事例であるに留まらない。それは、戦国乱世という無秩序な「力の時代」から、中央集権的な秩序と統制を重んじる「支配の時代」へと、日本社会が大きく構造転換していく過程を象徴する、極めて重要な歴史的事件として評価されるべきである。

引用文献

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  4. 織田信長が「鉄砲の量産化」で実現した“戦場のイノベーション” 最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握、火薬と弾丸を安定的に調達するリスクマネジメントも【投資の日本史】 | マネーポストWEB https://www.moneypost.jp/1219132
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  40. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  41. (秀吉の時代)― 秀吉の「首都創造」プロジェクト - 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/timetrip/journey/sengoku/nihonshi-osakahideyoshi/
  42. 大阪は何故「天下の台所」と呼ばれたのか? 大坂商人たちが生み出した文化と街 - ホームズ https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_01257/
  43. 天下の台所へ導いた水路 大阪城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44016/
  44. 【知られざるニッポン】vol.41 戦国時代に活躍した、国友の鉄砲 https://tabi-mag.jp/unknownjp41/
  45. 江戸幕府御用達の鉄砲製造工場 近江国・国友/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka_teppo_toribia/ominokuni-kunitomo/
  46. はじまりのまち堺 - 昭和被服 https://showa129.jp/about/