最終更新日 2025-09-27

富山城改修(1605)

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慶長十年 富山城改修の真相:前田利長、百万石の礎を築いた野心と苦悩の四年間

序章:天下分け目の渦中にある前田家

慶長十年(1605年)に開始された富山城の大規模改修は、単なる一城郭の普請事業ではない。それは、徳川家康による天下統一が最終段階に入り、時代の趨勢が定まろうとする激動の時代において、外様大名筆頭・前田家がその存亡を賭けて打った、極めて高度な政治的・軍事的布石であった。この改修の真意を理解するためには、まず、前田家が置かれていた絶体絶命の政治的状況を解き明かす必要がある。

第一節:父・前田利家の死と権力の空白

豊臣秀吉の死後、その政治体制は五大老による合議制へと移行したが、その実態は徳川家康の突出した権力と、それを掣肘しようとする他の大老・奉行たちとの間の、危うい均衡の上に成り立っていた。この均衡を保つ上で最後の「重石」となっていたのが、秀吉とは幼馴染であり、五大老の中でも家康に次ぐ実力者であった前田利家であった 1 。利家は、秀吉から嫡子・秀頼の後見を託された律儀な人柄で知られ、彼が健在である限り、家康も露骨な専横を躊躇せざるを得なかった 3

しかし、慶長四年(1599年)閏3月3日、利家が病没すると、このパワーバランスは劇的に崩壊する 5 。利家の死の直後から、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派の対立が表面化し、家康はその混乱を巧みに利用して天下取りへの歩みを加速させた。父の死により、前田家の家督と五大老の地位を継承したのが、嫡男・前田利長であった 7 。若くして父の遺した巨大な領国と、天下の政務を担う重責を背負うことになった利長は、否応なく当代随一の政治家・徳川家康と直接対峙する宿命を負わされたのである。

第二節:「慶長の危機」- 存亡を賭けた決断

利家という重石を失った家康の行動は迅速であった。利家死後わずか5ヶ月後の慶長四年(1599年)8月、利長は家康の勧めにより、秀頼の傅役(もりやく)という重責を事実上放棄し、大坂から本国・加賀へ帰国する 4 。すると、これを待っていたかのように、「利長に徳川家康討伐の企てあり」という謀反の嫌疑がかけられたのである 7 。増田長盛や大野治長らは、「利長が淀殿と不倫関係にあり、家康を暗殺して秀頼の後見人になろうとしている」といった、荒唐無稽ともいえる讒言を家康に告げたとされる 4

この嫌疑を口実に、家康は諸大名に動員をかけ、加賀征伐を決定。前田家は存亡の危機に立たされた。家中では、徳川に対し一戦も辞さずと息巻く抗戦派と、恭順を主張する穏健派とで意見が真っ二つに割れ、領内は混乱の極みに達した 7 。豊臣家からの支援も期待できず、孤立無援の状態に陥った利長は、苦渋の決断を下す。それは、生母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで、家康への完全な恭順の意を示すという、最大の屈辱を伴う選択であった 10 。この決断により、加賀征伐は寸前で回避され、前田家は滅亡の淵から辛うじて生還した。

この一連の事件、後に「慶長の危機」と呼ばれるこの出来事は、利長の心に徳川家への拭い難い不信感と、力こそが全てを支配するという戦国の現実を深く刻み込んだ。表面的な恭順の意を示すだけでは、巨大な家門を守り抜くことはできない。この時のトラウマともいえる経験こそが、以降の利長の全ての行動を規定する「原体験」となった。慶長十年(1605年)の隠居と、それに続く富山城の大改修は、単なる引退生活への準備などでは断じてない。それは、この危機に対する利長なりの「解答」であり、表向きは恭順(隠居)を示して家康の警戒を解きつつ、水面下では万一の事態に備えた強力な軍事拠点を確保するという、二重戦略の始まりだったのである。

第三節:関ヶ原の戦いと加賀百万石の確立

慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、利長は東軍に与した。母が人質として江戸にいる以上、彼に他の選択肢はなかった。利長は北陸で西軍方の丹羽長重が籠る大聖寺城を攻略するなど戦功を挙げ、徳川方への忠誠を行動で示した 1

一方で、利長の弟・前田利政は、妻子を石田三成に人質に取られていたためか西軍に与した(ただし、実際には出兵せず中立を保ったともされる)。戦後、利長はこの事実を家康に報告し、利政の能登22万5千石の所領を没収させるという非情な処断を下した 1 。これは、家中から少しでも徳川家に疑念を抱かせる要素を排除し、前田家の安泰を確固たるものにするための、冷徹な政治判断であった。

これらの戦功により、利長は弟の旧領などを加増され、加賀・能登・越中にまたがる120万石という、徳川宗家に次ぐ全国最大の外様大名としての地位を確立した 1 。しかし、この巨大な石高は、前田家にとって無上の栄光であると同時に、成立間もない徳川幕府からの最大の警戒対象となることを意味する「諸刃の剣」でもあった。外様大名の筆頭である前田家は、常に幕府の監視下に置かれ、少しでも隙を見せれば改易・取り潰しの口実を与えかねない、極めて危うい立場に立たされたのである 12 。この特異な立場こそが、利長に常に慎重かつ周到な政治的立ち回りを強いることになり、富山城改修という事業に、幕府に対しては「隠居」という安心感を、領内に対しては「百万石の主」としての権威を示すという、二つの顔を持たせることになったのである。

第一章:慶長十年(1605年)- 隠居という名の政治的布石

慶長十年(1605年)は、前田利長と前田家にとって、そして富山城にとって、大きな転換点となった年である。利長はこの年、隠居と富山城への移転を決断する。それは、徳川幕府の体制が固まりつつある中で、巨大な前田家を次代へといかに軟着陸させるかという、彼の深謀遠慮の現れであった。


表1:富山城改修に関連する年表(慶長4年~慶長19年)

年(西暦/和暦)

天下の動向

前田家の動向

意義・特記事項

1599年 / 慶長4年

閏3月 前田利家死去

利長、家督相続し五大老に就任。8月、家康の勧めで加賀へ帰国。9月、家康より謀反の嫌疑をかけられる(慶長の危機)。母・芳春院を人質として江戸へ送る。

利家の死により徳川家康の権勢が加速。前田家は存亡の危機に瀕し、徳川家への完全な恭順を余儀なくされる。

1600年 / 慶長5年

9月 関ヶ原の戦い

利長は東軍に属し、北陸で戦功を挙げる。弟・利政は西軍に与したとして改易される。

戦功により加増を受け、加賀・能登・越中120万石の外様筆頭大名となる。

1603年 / 慶長8年

2月 徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。

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徳川による支配体制が名実ともに確立。外様大名への圧力と統制が強化され始める。

1605年 / 慶長10年

4月 徳川秀忠、二代将軍に就任。

6月28日、利長(44歳)は家督を異母弟・利常(12歳)に譲り隠居。越中新川郡22万石を養老領とし、富山城に入城。富山城の大改修と城下町整備を開始。

本報告書の中心事象。表向きの隠居により幕府の警戒を和らげつつ、富山を拠点に「隠居政治」を開始。改修は権威誇示と軍事的備えの二重の目的を持つ。

1609年 / 慶長14年

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3月、富山城が火災により焼失。 4月、利長は関野(高岡)に新城(高岡城)の築城を開始。9月、高岡城に入城。

富山城改修事業は頓挫。しかし、利長の迅速な対応により、高岡開町という新たな展開へ繋がる。

1614年 / 慶長19年

11月 大坂冬の陣

5月20日、前田利長、高岡城にて病死(享年53)。

利長の死により、前田家の「隠居政治」は終焉。藩政は若き藩主・利常の時代へ本格的に移行する。

1615年 / 元和元年

5月 大坂夏の陣、豊臣家滅亡。7月、一国一城令発布。

高岡城は廃城となる。富山城も再建されぬまま廃城となる。

戦国時代は完全に終焉。富山城と高岡城は、利長の「戦国的」な城郭構想の最後の名残となった。


第一節:若き後継者・利常への家督相続

慶長十年(1605年)6月28日、利長は44歳という若さで隠居し、家督を異母弟であり養嗣子となっていた利常(当時12歳)に譲った 8 。この家督相続は、いくつかの重要な政治的意味合いを持っていた。第一に、後継者である利常は、二代将軍・徳川秀忠の娘である珠姫を正室に迎えることが決まっており、前田家と徳川家の血縁的結びつきを強化することで、家の安泰を図る狙いがあった 15

第二に、利長の隠居は、徳川幕府に対して「もはや政治の表舞台から退き、野心はない」というメッセージを送るための、計算されたパフォーマンスであった。しかし、実態は全く異なっていた。藩主となった利常はまだ12歳であり、広大な加賀藩を統治する能力はなかった 14 。利長は隠居後も後見人として藩政の実権を完全に掌握し、絶大な権力を保持し続けたのである。これは「隠居政治」と呼ばれ、利長は富山という独立した拠点から金沢の利常を指導・監督し、事実上の最高権力者として君臨し続けた 16

第二節:なぜ富山城だったのか

利長が隠居の地に、数ある城の中から富山城を選んだことには、明確な戦略的意図があった。単に景勝の地を選んだり、利便性だけで決定したりしたわけではない。

まず、富山城は地政学的・歴史的に重要な拠点であった。かつて織田信長の重臣・佐々成政が越中支配の拠点とし、豊臣秀吉の大軍に包囲されるまで抵抗を続けた堅城である 17 。その成政の旧拠点を自らの隠居城とすることで、利長は越中における前田家の支配権が盤石であることを内外に示す象徴的な効果を狙った。また、城の北面を流れる神通川は天然の要害であり、防御上有利な立地であったことも大きな理由である 18

次に、金沢からの地理的な距離が絶妙であった。本拠地である金沢城から離れることで、表向きは利常の藩政を尊重する姿勢を幕府に見せることができる。しかし、実際には、何かあればすぐさま軍勢を率いて駆けつけられる距離にあり、金沢の政庁を監督し、遠隔操作するには最適な位置であった。

そして最も重要なのは、経済的・軍事的な独立性の確保である。利長は隠居にあたり、越中国新川郡を中心とする22万石を自身の養老領(隠居料)として幕府に認めさせた 8 。これは、隠居後も強大な経済力と、それに伴う軍事力を個人として保持し続けることを意味した。富山城は、この巨大な隠居領を統治するための政庁であり、利長個人の権力を支える軍事拠点でもあった。

これらの要素を総合すると、富山城の選択は、単なる「快適な隠居場所」探しではなかったことが明らかになる。それは、①佐々成政の旧拠点を支配下に置くことによる権威の誇示、②金沢の利常を後見しつつ、独立した政治・軍事センターを構築するという「隠居政治」の司令塔、③万一、金沢城が徳川方に攻められた場合に備えた第二の防衛拠点、あるいは反攻拠点としてのリスク分散、という三重の戦略的意図が込められた、極めて政治的な決断だったのである。利長の隠居とは、統治形態をより高度で複雑な二元体制へと移行させるための、周到に計画された一手であった。

第二章:富山城大改修の実態 - 権威の誇示と実戦への備え

慶長十年(1605年)、富山城に入った利長は、ただちに城と城下町の大規模な改修に着手した。「大にこの城を改造経営ありて遷りたまふ」(この時、大々的にこの城を改造・整備して移り住まれた)と記録されるように 19 、その事業は既存の城郭に手を入れるというレベルを遥かに超えた、新たな城を築くに等しいものであった。この大改修の実態を解剖すると、利長の政治思想、すなわち徳川幕府への配慮と、依然として失われることのない戦国武将としての矜持が、城郭という形で見事に具現化されていることがわかる。

第一節:設計思想と縄張り-「天下一の名城」を目指して

利長が目指した富山城は、単なる地方の支城ではなかった。その構造は、豊臣秀吉が京都に築いた政庁兼邸宅である聚楽第を手本としたと伝えられており、「利長の最高傑作の城」とまで評されている 14 。これは、利長が自らを、秀吉亡き後の豊臣政権を支えるべき大名の一人として強く自負し、その権威を城郭建築という形で表現しようとした意図の表れであろう。瓦に前田家の家紋である梅鉢紋を入れることを加賀藩で初めて行ったのも、この富山城であり 14 、前田家の威光を天下に示すという強い意志が感じられる。

城の全体設計である「縄張り」は、本丸を中心に、西、東、南の三方に西之丸、東出丸、二之丸といった独立性の高い曲輪(くるわ)を配置し、それらをさらに広大な三之丸が囲む「梯郭式(ていかくしき)」が採用された 20 。これは、敵が城に侵入しても、各曲輪が独立して抵抗できるため、防御力を段階的に高めることができる、極めて実践的な設計である。

この高度な縄張りを誰が手掛けたのかについては、一つの興味深い説が存在する。それは、キリシタン大名であり、当代随一の築城の名手とされた高山右近が設計したという説である 19 。右近は当時、前田家に客将として招かれており、後に利長が築く高岡城の縄張りを行ったことは広く知られている 22 。富山城も、金沢城や高岡城と設計思想に類似点が見られることから、右近の関与が推測されている 19 。しかし、右近が関わったことを示す同時代の直接的な史料は存在せず、むしろ利長自身が普請を采配していたことを示唆する記録が残っているため、この説には依然として疑義も呈されている 23 。この論争自体が、富山城の設計が当時最高水準のものであったことを物語っている。

第二節:城郭の構造分析

富山城の構造は、「見せるための城」としての権威の象徴性と、「戦うための城」としての実戦的な機能性という、二つの側面を併せ持っていた。この二面性こそ、利長の置かれた複雑な政治的立場を如実に反映している。

石垣と土塁-権威の象徴と現実的防御

改修後の富山城は、城全体を石垣で固めた総石垣の城ではなかった。石垣は、本丸の正門である鉄門(くろがねもん)や裏門の搦手門(からめてもん)、二之丸の枡形門など、城の防御と威容を示す上で最も重要な箇所に限定的に用いられ、城の大部分は土を突き固めた土塁で構成されていた 20 。これは、財政的な制約や工期の短縮を考慮した現実的な判断であったと同時に、城の心臓部を重点的に強化するという合理的な設計思想の現れでもある。

その一方で、権威を誇示するための演出も随所に見られる。特に象徴的なのが、本丸の正門である鉄門の枡形内部に配置された、五つの巨大な「鏡石(かがみいし)」である 25 。鏡石とは、周囲の石よりもひときわ大きく、平滑な面を持つ石のことであり、これを城門のような人目に付く場所に据えることで、巨石を動員できる城主の強大な権力を見せつける効果があった 14 。石材は常願寺川や早月川などから運ばれた自然の河原石が用いられ、石には石工集団の印とされる90種類以上の刻印が確認されており、大規模な動員があったことを物語っている 20

堀と水系-「浮城」と呼ばれた防御網

富山城の最大の防御的特徴は、その巧みな水系の利用にあった。城の北面には、当時幅200mもあったとされる神通川(現在の松川)が流れ、天然の外堀として、容易に敵の接近を許さない「後ろ堅固」の構えを形成していた 20 。川の流れに城郭が浮かぶように見えたことから、「浮城」という優美な異名も持つに至った 18

さらに、城の周囲には内堀と外堀が二重に巡らされ、東のいたち川、南の四ツ谷川といった中小河川も防御網に取り込み、城全体を水で囲む鉄壁の防御体制を築き上げていた 24 。これらの堀は、単なる障害物ではなく、城の防御に縦深性を与える重要な要素であった。

門と虎口-実戦を想定した仕掛け

城の出入り口である門(虎口)の構造は、極めて実戦を想定したものとなっていた。本丸の周囲に配置された西之丸、東出丸、二之丸は、単なる区画ではなく、城門から打って出る部隊を一時的に駐留させたり、城門へ殺到する敵を側面から攻撃したりするための「馬出曲輪(うまだしくるわ)」としての機能を持っていた 20

さらに、鉄門や搦手門には、敵兵がまっすぐ城内に突入できないよう、通路を直角に二度折り曲げた四角い空間を設ける「枡形虎口(ますがたこぐち)」が採用されていた 25 。この空間に敵を誘い込み、周囲の土塁や櫓の上から集中攻撃を浴びせるための、戦国時代に発達した極めて殺傷能力の高い防御施設である。

このように、富山城の構造を詳細に分析すると、利長の二重のメッセージが浮かび上がってくる。聚楽第を手本とした壮麗な構想や、権威の象徴である鏡石の配置は、隠居してもなお衰えぬ前田家の威光を天下に示す「見せる」ための演出である。その一方で、梯郭式の縄張り、馬出曲輪、枡形虎口、そして神通川を利用した徹底的な防御網は、依然として戦国の気風が色濃く残る時代にあって、最悪の事態、すなわち徳川軍による侵攻すら想定した、極めて実戦的な「戦う」ための備えであった。この二面性こそ、表向きは恭順しつつも、家の誇りと独立を賭けて水面下で牙を研ぐという、利長の置かれた政治的立場そのものを体現していたと言えよう。

第三節:城下町の新生-防衛都市の建設

利長の計画は、城郭の改修だけに留まらなかった。彼は城と一体化した防衛都市を建設すべく、城下町の大規模な再整備にも着手した 29 。その都市計画は、城郭の防衛思想をそのまま市街地へ拡張したものであった。

後の絵図から推定されるその姿は、城を中心に最も内側に上級家臣の武家地を、その外側に町人地や下級武士の居住区を、そしてさらに外周に寺社地を配置するという、同心円状の明確なゾーニングがなされていた 29 。これは、万一の籠城戦の際に、城を守る武士たちがすぐさま馳せ参じることができると同時に、市街地そのものが幾重もの防御ラインとして機能することを意図したものである。特に、城下町の要所に大規模な寺院を集中的に配置したのは、有事の際にその境内や建物を砦として利用するという、戦国時代以来の戦略的発想に基づいていた 15 。また、佐々成政の時代から行われていた治水事業も引き継がれ、人工的に水路を整備するなど、都市インフラの整備も進められたと推測される 29 。利長の富山城改修は、城と町が一体となった、一大軍事都市を創造する壮大なプロジェクトだったのである。

第三章:慶長十四年(1609年)- 灰燼に帰した巨城と新たなる決断

慶長十年(1605年)から四年の歳月と莫大な労力を費やし、完成間近であった前田利長の壮大な構想は、慶長十四年(1609年)、予期せぬ悲劇によって突如として終焉を迎える。しかし、この絶望的な状況下で見せた利長の驚くべき対応は、彼の非凡な危機管理能力と、隠居の裏に隠された真の目的を逆説的に証明することになった。

第一節:運命の日-富山城焼失

慶長十四年(1609年)3月、富山城は原因不明の火災に見舞われ、利長が入居していた御殿をはじめ、主要な建造物のほとんどが焼失した 12 。発掘調査では、城の中心部であったとみられる堀跡から、強い火を受けて炭化した米や麦、酒を酌み交わしたであろう杯などが大量に出土しており、城の中枢部が大規模な火災によって破壊されたことが考古学的にも裏付けられている 30

出火の直接的な原因を記した史料は残されていない。しかし、当時の建築物が木や板葺き屋根といった極めて燃えやすい素材で造られていたことに加え、北陸地方特有の乾燥した強風をもたらすフェーン現象が、一度発生した火の手を瞬く間に城全体へと広げた可能性が指摘されている 31 。心血を注いで築き上げた「最高傑作の城」は、わずか一日にして灰燼に帰したのである。

第二節:失意と転換-高岡への移転

四年間の一大事業が無に帰した衝撃と失意は、察するに余りある。通常であれば、城主は悲嘆に暮れ、再建計画を立てるまでに相当な時間を要したであろう。しかし、前田利長の対応は常軌を逸するほど迅速かつ現実的であった。

富山城が焼失したのが3月。利長は富山城の再建を即座に断念すると、わずか1ヶ月後の4月には、射水郡関野(現在の高岡市)の地に全く新しい城を築くことを決定し、普請を開始したのである 15 。そして、驚くべきことに、同年9月には主要な郭の造成を終え、利長自身が家臣団を率いて入城を果たしている 15 。火災からわずか半年で、新たな拠点とその城下町の骨格を築き上げたこのスピードは、まさに戦国の世の築城術そのものであった。

この新城築城にあたっては、徳川幕府との間で興味深いやり取りがあった。当然ながら、これほどの大規模な築城には幕府の許可が必要であったが、利長は徳川秀忠から正式な許可を得ていた 32 。しかし、当初、許可が利長の母・芳春院を通じて伝えられ、利長本人には直接通達されていなかったため、利長側が許可が出ていることに気づかず普請を開始できずにいた。これを知った秀忠の方から、「早く普請を始めるように」と催促する書状が送られてきたという記録が残っている 16 。これは、幕府が利長の隠居と拠点確保を公に認めていたことを示すと同時に、両者の間に依然として微妙な緊張関係があったことを窺わせる逸話である。

富山城焼失に対する利長のこの超人的なまでの迅速な対応は、彼の「隠居」が、決して安穏とした余生ではなかったことを何よりも雄弁に物語っている。彼の政治的地位は、堅固な城という物理的な後ろ盾があって初めて成立する、極めて不安定なものであった。その前提が火災によって崩れた瞬間、彼は感傷に浸る間もなく、一刻も早く次なる拠点を確保するために行動した。この行動原理は、平時の統治者のそれではなく、常に敵の脅威を想定し、臨戦態勢を維持し続ける戦国武将の危機対応そのものであった。

第三節:高岡城築城と利長の最期

新たに関野の地に築かれた城は「高岡城」と名付けられた。高山右近が縄張りを行ったとされるこの城は、富山城での経験と教訓も活かされ、本丸、二の丸、三の丸などが連続して馬出として機能する、より防御力に優れた堅固な城郭として設計された 15

利長は高岡城下町の整備にも力を注いだが、彼の死後、元和元年(1615年)に幕府から発せられた一国一城令により、高岡城はわずか6年で廃城の運命を辿る。城を失えば城下町は衰退するのが常であるが、三代藩主となった前田利常は、利長の遺志を継ぎ、高岡を城下町から商工業の町へと転換させる巧みな政策を実施。これにより高岡は、加賀藩の重要な経済拠点として発展の礎を築くことになった 15

一方、利長は高岡城に移ってからわずか5年後の慶長十九年(1614年)5月、病のため53年の生涯を閉じた 12 。その死を巡っては、病状が悪化する中で、幕府からの度重なる見舞いの使者などを憚り、自ら毒を仰いで命を絶ったという説が、加賀藩内では公然の秘密として語り継がれている 11 。真偽は定かではないが、最後まで徳川幕府との緊張関係の中で生きた、彼の苦悩に満ちた生涯を象徴する逸話である。

終章:富山城改修が歴史に残したもの

慶長十年(1605年)に始まり、わずか四年で灰燼に帰した富山城の大改修。それは一見すると、未完に終わった悲劇のプロジェクトのように映る。しかし、その歴史的意義は、単なる城郭の焼失という事象に留まらない。この事業は、前田家と北陸の歴史に大きな遺産を残し、前田利長という武将の真価を現代に問いかけている。

第一節:失われた「利長の城」の歴史的意義

富山城改修は、徳川幕藩体制が確立する過渡期において、外様筆頭大名である前田家が、その巨大な権威と実力を次代に継承するために行った、最後の、そして最大級の「戦国的」城郭普請であったと位置づけることができる。その縄張りや構造には、戦国時代を通じて培われた実践的な築城技術の粋が集められており、依然として武力による解決が現実的な選択肢であった時代の空気を色濃く反映している。

それは同時に、徳川の天下にあって巨大外様大名がいかに生き抜くかという、極めて高度な処世術を体現した象徴的なプロジェクトでもあった。表向きは「隠居」という恭順の姿勢を示し、幕府の警戒を和らげながら、その実、水面下では万一の事態に備えて牙を研ぐ。この硬軟両様の戦略を、城郭建築という壮大なスケールで実行したのである。富山城は、徳川体制下を生きることを運命づけられた巨大外様大名の、内なる自負と苦悩の記念碑となるはずであった。

第二節:高岡開町、そして富山藩立藩への遺産

富山城の焼失という悲劇がなければ、今日の高岡市の繁栄の礎となった「高岡開町」はなかったかもしれない。一つの拠点を失った利長が、驚異的なスピードで新たな都市を建設した結果、加賀藩の新たな政治・経済の中心地が誕生した。この事件は、結果として越中西部の開発を促し、地域の歴史を大きく動かすきっかけとなったのである。

一方で、利長が整備した富山城と城下町の遺産もまた、形を変えて後世に活かされた。利長の死から25年後の寛永十六年(1639年)、三代藩主・前田利常は隠居に際し、次男・利次に越中10万石を分与して富山藩を立藩させた 12 。この時、新たな藩の拠点(居城)として選ばれたのが、かつて利長が再興を目指した富山城であった。利次は幕府の許可を得て、利長の計画の遺構を基礎としながら、富山城の本格的な再整備に着手し、富山藩十万石の居城として蘇らせたのである 24 。利長の構想は、時間を超え、富山藩の成立という形で結実したと言えよう。

第三節:前田利長の再評価

前田利長は、偉大な父・利家と、加賀藩政の基礎を固めた名君として知られる養子・利常という、二人の傑出した人物の間に挟まれ、その歴史的評価は必ずしも高いとは言えなかった。しかし、彼の置かれた時代状況は、父の代とも子の代とも比較にならぬほど過酷であった。豊臣政権崩壊後の混沌と、徳川家康という当代随一の政治家が仕掛ける謀略の渦の中で、改易・取り潰しの危機を幾度も乗り越え、120万石という巨大な領国を巧みに維持し、次代へと無事に引き継いだその政治手腕と胆力は、もっと高く評価されるべきである。

慶長十年(1605年)の富山城改修という一大事業は、彼の武将としての野心、統治者としての先見の明、そして巨大組織の当主としての苦悩が凝縮された、利長の生涯を象徴する出来事であった。わずか四年で炎の中に消えた幻の巨城は、戦国の終焉と江戸の黎明という時代の狭間で、巨大な家門の未来をその双肩に担い続けた一人の武将の、静かな、しかし確固たる意志の証として、今なお歴史の中にそびえ立っている。

引用文献

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  11. 前田利長の決断と苦悩 徳川家康の魔の手に翻弄された加賀百万石 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Lr8FhTQiRIU
  12. 富山城の歴史 | 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
  13. 富山藩主、勢ぞろい! https://www.pref.toyama.jp/documents/13519/r1kikaku.pdf
  14. Q.7 隠居 いんきょ するために築いた城だそうだが、なぜ権力の象徴である巨石を置いたのですか? A https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/q-and-a/q7.htm
  15. 高岡城は語れない。 https://www.takaoka.or.jp/lsc/upfile/download/0000/0060/60_1_file.pdf
  16. 富山県唯一の日本百名城・国指定史跡「高岡城跡」 https://www.e-tmm.info/siro.htm
  17. 富山城- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  18. 富山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  19. 富山城も高山右近の縄張りか? - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_7.html
  20. 【続日本100名城・富山城】『加賀100万石』前田家の血を ... - 城びと https://shirobito.jp/article/1298
  21. 高山右近像 - 高岡銅像マップ【公式Webサイト】 https://www.douki-takaoka-map.com/%E5%A0%B4%E6%89%80-%E3%81%8B%E3%82%89%E6%8E%A2%E3%81%99/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82%E5%86%85-02/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%83%8F/
  22. (高山右近と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/17/
  23. 高岡城の縄張は高山右近が行ったのか? https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/takaoka/6.htm
  24. 富山城の歴史とその魅力を再発見! - 会報 https://ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h18_m/0610tokusyu.html
  25. 石垣と水堀が旧観をとどめる「富山城」 - 岡山県の文化財 https://sirohoumon.secret.jp/toyama.html
  26. 富山城 https://katsuta.sakura.ne.jp/toyamajo/toyamajo.html
  27. 本丸の発掘 中世富山城の縄張りと堀の検出 (2003年度調査) https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/tyousa/sengoku/hon.htm
  28. 史跡 富山城 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/toyamajyo.htm
  29. 富山城下町の歴史 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/jyokamati/rekisi.htm
  30. 発掘で初めて解った戦国時代の富山城 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h16_m/0411toyamajo.html
  31. Q.5 なぜ富山城は火事になったのですか? A https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/q-and-a/q5.htm
  32. 前田利長と越中 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori25/tayori25.htm
  33. 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story003/