岐阜城下楽市再編(1570)
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元亀元年の岐路:織田信長「岐阜城下楽市再編」の戦略的意義に関する総合的考察
序章:問いの提示 ― なぜ元亀元年(1570年)なのか
織田信長の数ある政策の中で、後世に最も広く知られるものの一つが「楽市楽座」である。しかし、その議論の多くは天正5年(1577年)以降の安土城下における完成形を中心に語られがちである。本報告書は、それに先立つ元亀元年(1570年)に、信長の拠点・岐阜城下で実施されたと目される「楽市再編」という事変に焦点を当てる。この再編は、単なる既存政策の更新ではない。それは、信長がその生涯で初めて直面した全国規模の反抗、すなわち「第一次信長包囲網」という未曾有の軍事的危機に対し、経済を武器として行使した極めて戦略的な応答であった 1 。
1570年という年は、信長の天下布武事業が根底から揺らいだ年であった。春には義弟・浅井長政の離反により絶体絶命の窮地に陥り、秋には石山本願寺の蜂起によって戦線は泥沼化、信長は完全に包囲されるに至った 3 。この存亡の危機にあって断行された「岐阜城下楽市再編」は、単なる城下町の繁栄策という次元を超え、以下の三位一体の戦略的意図を内包していたと考察される。第一に、長期化・多正面化する戦争を支えるための
兵站基地能力の極限的強化 。第二に、増大し続ける戦費を確保するための 新たな財源確保システムの構築 。そして第三に、信長不在の領国における人心を繋ぎ止め、内憂を断つための 民政安定策 である。本稿は、この仮説を元亀元年のリアルタイムな時系列に沿って検証し、「楽市再編」の真の歴史的意義を解き明かすことを目的とする。
第1部:前史 ― 岐阜における楽市の胎動
信長の経済政策を理解するためには、それが全くの無から生まれたものではなく、先行する時代の実践と、美濃国が有していた経済的土壌の上に成り立っていたことを認識する必要がある。
第1章:楽市楽座の源流
織田信長の楽市は、彼の独創によるものではない。その嚆矢とされるのは、近江国(現在の滋賀県)の守護大名であった六角定頼が、天文18年(1549年)に自身の居城・観音寺城の城下町である石寺に発布した楽市令である 4 。六角氏は、商工業者の同業者組合である「座」の特権を一部制限し、市場税を免除することで、城下町に商人を呼び込み、一大商業都市を形成することに成功した 5 。信長は尾張時代から近江の情勢に精通しており、この先進的な経済政策の成功事例から多くを学んだ可能性は極めて高い。
一方、信長が新たな本拠地とした美濃国もまた、豊かな経済基盤を有していた。全国的な特産品であった「美濃紙」の生産は特に盛んで、その流通を担う座が組織され、経済の一大中心地を形成していた 6 。また、刀鍛冶の「関七流」に代表されるように、高度な技術を持つ職人集団も活発に活動していた 8 。これは、信長が美濃を支配した時点で、すでに高度な商業・手工業の基盤と、それを統制する座のシステムが深く根付いていたことを示している。信長の政策は、この既存の経済構造を無視するのではなく、それをいかに自らの支配体制に組み込むかという課題に直面することになる。
第2章:信長の美濃平定と初期経済政策
永禄10年(1567年)、信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻略し、この地を「岐阜」と改名した 9 。彼は天下布武の拠点とすべく、直ちに大規模な都市計画に着手する。金華山の麓に壮麗な居館を構え、武家屋敷と町人地を計画的に配置し、主要な街道を整備するなど、岐阜は軍事拠点であると同時に、政治・経済の中心地として生まれ変わった 11 。
この都市建設と並行して、信長は最初の経済政策として楽市令を発する。岐阜城下の加納市場に掲げられたこの制札(円徳寺所蔵、国指定重要文化財)は、現存最古の楽市令の実物史料として極めて重要である 14 。その内容は、信長の初期の経済思想を如実に物語っている。
第一に、制札の宛名が「楽市場」となっている点は特筆に値する 5 。これは、特定の個人や団体ではなく、「楽市」という名の付いた既存の市場共同体に対して命令が発せられていることを意味する。この事実から、斎藤氏の治世下で既に加納が楽市として機能しており、信長の最初の政策はゼロからの創造ではなく、既存の成功したシステムを追認し、自らの権威の下で安堵を与えるものであったことがわかる 5 。これは、美濃平定直後において、旧来の経済秩序を急進的に破壊するのではなく、むしろそれを保護することで人心と経済を迅速に安定させようという、極めて現実的な判断であった。
第二に、その条文は商人たちにとって非常に魅力的な内容であった。具体的には、①信長の支配領域内における自由な通行の保証(分国往還)、②借銭・借米といった過去の債務の免除(一種の徳政令であり、新天地を求める人々を強力に誘引する効果があった)、③敷地年貢や各種諸役の免除、④押買や狼藉といった不法行為の厳禁による治安の保証、などが定められていた 4 。信長はまず何よりも「安全」と「自由な経済活動の利益」を保障することで、戦乱で疲弊した美濃国内外から商人や職人を岐阜に集積させようとしたのである。この初期政策は「革新」というよりも「戦略的継承」であり、この安定化策によって築かれた経済基盤こそが、後に来る元亀元年の国難を乗り切るための土台となった。
第2部:元亀元年の動乱 ― リアルタイム・クロニクル
永禄10年の岐阜入城から3年、信長の勢力は飛躍的に拡大したが、その急成長は旧来の勢力との間に深刻な軋轢を生んでいた。そして元亀元年(1570年)、その緊張は一気に爆発し、信長を存亡の危機へと追い込む。
第3章:春 ― 包囲網の形成
1570年4月20日、信長は室町幕府将軍・足利義昭の上洛命令を再三にわたり無視した越前の朝倉義景を討伐するため、徳川家康らの援軍を含む3万の大軍を率いて京都を出陣した 3 。織田軍は破竹の勢いで進撃し、4月26日には朝倉方の重要拠点である金ヶ崎城を降伏させる 3 。朝倉氏の本拠地・一乗谷は目前であった。
しかし、まさにその時、信長の背後で激震が走る。妹・お市の方を嫁がせ、最も信頼していた同盟者であるはずの北近江の大名・浅井長政が、長年の盟友である朝倉氏に味方し、織田軍の背後を突くべく離反したのである 1 。これにより織田軍は越前の朝倉軍と近江の浅井軍に挟撃されるという、絶体絶命の危機に陥った。信長は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らが決死の覚悟で務めた殿軍の奮闘により、辛うじて虎口を脱し、命からがら京へと撤退する。この「金ヶ崎の退き口」は、信長にとって初めて経験する大規模な敗走であり、同盟の脆さと、四方を敵に囲まれることの恐怖を骨身に染みて教える出来事となった。
第4章:夏 ― 起死回生の一戦
窮地に陥った信長であったが、その行動は驚くほど迅速であった。金ヶ崎からわずか2ヶ月後の6月19日、信長は岐阜城から再び出陣し、浅井方の城砦を次々と攻略、体勢を立て直す 3 。そして6月28日、姉川の河原で浅井・朝倉連合軍と激突する。世に言う「姉川の戦い」である。
この戦いは織田・徳川連合軍の辛勝に終わった。一時的に危機を脱したものの、浅井・朝倉軍の主力を殲滅するには至らず、戦いは長期化の様相を呈し始める。この敗走からわずかな期間での軍の再編成と出撃が可能であった背景には、本拠地・岐阜が兵員、武具、兵糧を迅速に補給できる兵站基地として、極めて高いレベルで機能していた事実がある。岐阜の経済力が、信長の軍事的レジリエンス(回復力)を支えていたのである。
第5章:秋から冬 ― 泥沼化する戦線
姉川での勝利も束の間、信長には更なる試練が待ち受けていた。8月、信長はかつて畿内を支配していた三好三人衆を討伐すべく、摂津国(現在の大阪府北部)の野田・福島へ出陣する 3 。しかし、この信長の主力が畿内に釘付けにされている隙を突き、予期せぬ敵が蜂起する。
9月12日、摂津石山本願寺の法主・顕如が、信長を「仏敵」と断じ、全国の門徒に対して蜂起を促す檄文を発した 3 。武装した一向宗門徒が織田軍の背後を襲い、信長は三好勢と本願寺勢に挟撃される形となった。これは単なる軍事勢力との戦いではない。強固な信仰で結ばれ、巨大な経済力と動員力を有する宗教勢力が、初めて信長の前に立ちはだかった瞬間であった 17 。
さらに、この本願寺の蜂起に呼応し、姉川で敗れた浅井・朝倉軍が息を吹き返す。9月16日、彼らは3万の兵を率いて琵琶湖西岸を南下し、京都に迫る勢いを見せた 2 。摂津で身動きが取れなくなっていた信長は大いに慌て、急遽軍を引き返し、比叡山に立てこもる浅井・朝倉軍と対峙する。世に言う「志賀の陣」の始まりである。この時点で、信長は西の三好・本願寺、北の浅井・朝倉、そして比叡山延暦寺という敵勢力によって完全に包囲され、進退窮まる最大の窮地に陥った。この多正面作戦は、岐阜を拠点とする織田軍の兵站能力に限界を超える負荷をかけ、根拠地の抜本的な機能強化、すなわち「再編」が死活問題であることを信長に痛感させたのである。
第3部:危機の只中の決断 ― 岐阜城下楽市再編の深層
元亀元年の秋から冬にかけて、信長は生涯最大の危機に直面していた。この絶え間ない軍事的圧力の中で、岐阜城下で行われた「楽市再編」は、単なる平時の経済政策ではなく、国家総力戦を勝ち抜くための軍事経済システムへの転換を意図した、非常時の決断であった。
第6章:再編の戦略的意図
この時期における「再編」は、明確な戦略目標を持っていた。
第一に、 兵站基地機能の極限的強化 である。1570年の一連の戦役は、岐阜が単なる本拠地ではなく、織田軍の生命線を支える一大兵站基地であることを証明した 19 。再編の最重要目的は、この兵站能力を飛躍的に向上させることにあった。具体的には、鉄砲や弾薬、刀剣、甲冑といった武器・武具を生産する職人や、兵糧、塩、馬などの戦略物資を扱う商人を岐阜城下に集積・優遇し、戦場への安定供給体制を確立することであった 20 。
第二に、 戦費調達と経済的支配の強化 である。長期化・広域化する戦争は、莫大な戦費を必要とする。従来の年貢収入だけでは到底賄いきれない戦費を捻出するため、城下町の商業活動全体を活性化させ、そこから上がる利益を効率的に吸い上げるシステムが必要とされた 17 。これは同時に、旧来の「座」を支配し、その利益を独占していた比叡山延暦寺のような寺社勢力から経済的実権を奪い、大名である信長自身が領国内の商業流通を一元的に掌握するプロセスでもあった 17 。
第三に、 領国経営の安定化 である。信長が長期にわたり岐阜を留守にし、主力が畿内に展開する中、本拠地の安定は絶対条件であった。楽市の再編によって城下町に住む商人や職人に経済的な恩恵を与え、町の活気を維持することは、領民の支持を繋ぎ止め、本願寺の檄文に呼応するような一向一揆が領内で発生するのを防ぐ、極めて重要な民政安定策でもあった。
第7章:制札から読み解く「再編」の実態
元亀元年(1570年)前後に行われた「再編」は、永禄10年(1567年)の初期政策から大きく踏み込んだものであった。それは、単純な自由化(規制緩和)だけでなく、信長による経済への介入と統制強化という二面性を持っていた。
「楽座」の徹底は、その象徴である。永禄10年の制札では必ずしも明確でなかった「座」の特権を明確に否定し、座に属さない商人でも自由に商売ができることを徹底した 17 。これにより、新規参入が促進されると同時に、座の背後にいた寺社や公家といった旧権力の経済的基盤を切り崩すことができた 17 。
しかし、信長は全ての規制を撤廃したわけではない。むしろ、城の普請に必要な木材や、軍事的に重要な鉄など、特定の戦略物資については、逆に信長自身が認可する独自の座(例えば「薪座」など)を組織させ、許可制とすることで流通を直接管理下に置いた可能性が指摘されている 5 。これは、自由経済の活力を利用しつつも、国家の根幹に関わる部分は確実に掌握するという、自由と統制を巧みに使い分ける高度な経済戦略であった。
この政策の進化は、永禄10年と元亀元年前後の政策を比較することで、より鮮明に理解できる。
表1:永禄10年(1567年)と元亀元年(1570年)頃の楽市政策の比較
項目 |
永禄10年(1567年)制札(安定化志向) |
元亀元年(1570年)頃の再編(戦時体制志向) |
考察 |
宛名 |
楽市場(既存コミュニティの承認) |
加納(地域全体への公権力の発動) |
支配の浸透と深化を示す。市場という共同体への呼びかけから、加納という地域全体への命令へと変化し、信長の支配権がより強固になったことを示唆する 16 。 |
政策の主眼 |
治安維持と商人の誘致(戦後復興) |
経済活動の最大化と戦略物資の確保(戦争遂行) |
第2部で詳述した軍事情勢からの必然的な帰結。平時の繁栄策から、戦時下の経済動員へと政策目的が明確にシフトした。 |
座の扱い |
黙認または限定的な自由化 |
特権の明確な否定(楽座の徹底)と、信長独自の座の創設(二重構造) |
寺社勢力の資金源を断ち、経済的実権を奪うという明確な政治的意図。同時に、戦略物資の流通は自らの統制下に置くことで、経済を軍事力に直結させた 5 。 |
免除の対象 |
市場税、地子、諸役など(基本的な経済活動の自由化) |
上記に加え、より広範な特権を付与。ただし、見返りとして軍役や御用金の負担を求めた可能性。 |
利益供与と引き換えに、戦争への協力を求める関係性を構築。単なる保護から、支配と協力の体制へと移行した 16 。 |
通行の自由 |
分国往還(信長の支配領域内) |
範囲の拡大と、関所の原則撤廃の徹底 |
永禄11年(1568年)以降、関所撤廃を徹底 21 。これは兵站ルートの確保と物流コストの削減という、極めて明確な軍事的要請に応えるものであった。 |
第8章:「バビロンの混雑」の現出
この意図的な経済再編がもたらした結果を、当時の岐阜を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、強烈な印象とともに記録している。彼は岐阜城下の賑わいを「バビロンの混雑」と表現した 9 。これは単に「町が繁栄していた」という比喩ではない。古代オリエントにおいて、多様な民族と世界の富が集積した国際交易都市であったバビロンの名を引いたことは、フロイスが岐阜に、単なる日本の地方都市ではなく、全国から、あるいは海外からすら人・モノ・カネ・情報が集まる「一大国際ハブ」の姿を見ていたことを示唆している。
そして、この「混雑」こそが、信長の強大な軍事力の源泉そのものであった。
- 人材の集積: 全国から商人や職人が集まることで、最新の技術(特に鉄砲の生産・改良技術)や畿内の情勢といった重要な情報が、リアルタイムで岐阜にもたらされた。また、人口の増加は、そのまま兵士の動員基盤の強化にも繋がった 17 。
- 物資の集積: 楽市によって全国の産物が集まることで、兵糧の調達が容易になり、多様な軍需品を安定的に確保することが可能となった。美濃紙や木材などを運んだ長良川の水運も、この巨大な物流ネットワークを支える大動脈であった 6 。
- 資金の集積: 活発な商業活動は、信長に直接的・間接的に莫大な富をもたらした。その資金が、当時最も高価な兵器であった鉄砲の大量購入や、専門的な戦闘集団である傭兵の雇用を可能にし、織田軍の質的優位性を支えたのである 28 。
結論として、1570年の「楽市再編」は、信長による「経済の軍事化」と定義できる。彼は自由経済が持つ爆発的なエネルギーを巧みに解放しつつ、それを無秩序な繁栄で終わらせることなく、自身の戦争遂行能力に直結するよう、見えざる手(市場原理)と見える統制(戦略物資管理)を組み合わせてシステムを再構築した。フロイスが見た「バビロンの混雑」は、この経済的軍事システムの成功によって意図的に生み出された、戦略的な現象だったのである。
第4部:政策の展開と歴史的評価
元亀元年の危機を乗り越えた信長は、岐阜で試み、成功させた経済政策を、その後の天下統一事業においてさらに発展させていく。
第9章:安土城下へ受け継がれた思想
1570年の岐阜における経験は、天正4年(1576年)から始まる安土城の築城と、それに伴う壮大な城下町建設における楽市楽座政策の礎となった 23 。安土では、岐阜での試みがさらに洗練・拡大された形で実施される。例えば、安土城下に移住する者に対しては、諸役の免除だけでなく、他国での債務を帳消しにし、身分に関わらず紛争が起きないことを保証するなど、より徹底した自由と安全が約束された。これは、岐阜での政策が商人や職人を誘引する上で絶大な効果を発揮したことを信長自身が確信していた証左である。岐阜は、信長の天下統一事業を支えた経済政策の、壮大な実験場であり、その成功モデルであったと言える。
第10章:歴史学における楽市楽座論の変遷
かつて、楽市楽座は封建的な身分制度やギルド(座)の特権を打破した、信長の「革命的」「先進的」な政策として、ほとんど無条件に高く評価されてきた 30 。しかし、近年の研究の進展により、その評価はより多角的で複雑なものへと変化している。
研究者たちは、信長が必ずしも全ての座を解体したわけではなく、むしろ既存の商業秩序を自らにとって都合の良い形に「再編成」し、新たな支配体制を構築する手段として利用した側面を強調するようになった 31 。つまり、楽市楽座は旧来の権力(寺社・公家)から商工業の支配権を奪い、それを大名である信長自身が一元的に掌握するための、極めて巧妙な権力装置であったという見方である。元亀元年(1570年)の「再編」という事変は、まさにこの「再編成による新たな支配の構築」という側面を象徴する出来事として、再評価されるべきであろう。それは、単なる自由化ではなく、戦争遂行という国家目標に従属させるための、経済に対する強力な統制の始まりでもあった。
結論:戦略としての経済
元亀元年(1570年)の「岐阜城下楽市再編」は、信長包囲網という未曾有の国難に対し、信長が経済を戦略的に動員して対抗した、画期的な事変であった。それは、単なる市場の自由化政策ではなく、兵站、財政、民政という国家のあらゆる機能を、戦争遂行という一点に収斂させるための、高度に計算されたシステム設計であった。信長は、自由競争がもたらす活力を最大限に引き出す一方で、その果実を効率的に戦争能力へと転換する仕組みを構築したのである。
この事変を通じて我々が見出すべきは、旧弊を破壊する革命家や、常識にとらわれない天才といった一面的な信長像ではない。むしろ、六角氏や斎藤氏といった先人たちの知恵に冷静に学び、現実の危機に即応し、自由と統制という相克する概念を巧みに使い分けながら、軍事と経済を一つの戦略として統合する、冷徹かつ合理的な経営者・戦略家としての織田信長の姿である。彼が岐阜の地に現出させたとされる「バビロンの混雑」は、その類稀なる統治能力が咲かせた、戦乱の世における必然の産物であったのかもしれない。
引用文献
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- 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
- 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
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- 【岐阜市モデルコース】戦国武将織田信長公ゆかりの地・岐阜市を満喫するならこのプランで決まり! - 好運日本行 https://www.gltjp.com/ja/article/item/20590/
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- 戦国時代のカリスマ"織田信長のおもてなし"を体験〜岐阜城と城下町で味わう信長の美学〜|日本遺産マガジン - note https://note.com/nihonisan_mag/n/nce89121e2ae2
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- 歴史を動かした天下人たちとその時代からの学び https://stak.tech/news/23328
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- 実は「楽市・楽座」は織田信長の発案ではなかった!信長以前の「楽市令」とは? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/211002
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