岩国城築城(1608)
慶長十三年、吉川広家は関ヶ原の功で岩国領主となるも、毛利宗家との確執に苦悩。戦国の論理を体現する岩国城を築城し、異風な天守で権威を誇示。しかし一国一城令で破却され、その無念は錦帯橋架橋の遠因となる。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
岩国城築城(1608年)に関する総合研究報告:戦国の論理と江戸の秩序の狭間で
序章:慶長十三年の城 ― 戦国の終焉と新たな時代の胎動
慶長13年(1608年)、徳川幕府による新たな天下泰平の秩序が確立しつつある時代に、周防国岩国に一つの壮大な山城がその姿を現した。城主は吉川広家。戦国乱世の終焉を告げる時代の潮流に、あたかも逆行するかのような堅固な要塞であった 1 。本報告書は、この岩国城の築城という歴史的事象を、その主である吉川広家の政治的苦悩と戦略的思考の結晶として捉え、築城からわずか7年での破却という悲劇的な運命に至るまでの全貌を、リアルタイムの時系列に沿って詳細に解き明かすものである。
なぜ広家は、平和な時代に戦国の論理を体現する城を築かなければならなかったのか。その背景には、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが落とした濃い影と、毛利家内部の複雑な力学、そして徳川幕府との微妙な関係性が存在する。この城は、広家にとって未来への希望を託した砦であったのか、それとも避けられぬ運命を前にした最後の抵抗の証であったのか。その存在自体が、築かれた瞬間から破却される運命を内包していたという矛盾。本報告書は、この核心的な問いに迫るものである。
第一部:関ヶ原の残影 ― 岩国城築城の政治的淵源
岩国城築城の根本的な動機は、関ヶ原の戦いとその戦後処理に深く根差している。吉川広家が置かれた極めて特殊で困難な政治的状況を理解することなくして、この城の本質を語ることはできない。
毛利家の存亡と広家の決断
豊臣秀吉の死後、天下の覇権は徳川家康へと傾きつつあった。その中で、毛利輝元は石田三成や安国寺恵瓊らの説得を受け、西軍の総大将という名目上の頂点に立たされた 3 。毛利元就の孫であり、智勇に優れた武将であった吉川広家は、この動きが毛利家に存亡の危機をもたらすことを見抜いていた 4 。彼は西軍の勝利を疑い、一族の安泰を最優先に考え、密かに東軍との交渉を開始するという苦渋の決断を下す 4 。
広家は、旧知の仲であった黒田長政・如水親子を仲介役とし、徳川家康との極秘裏の交渉に臨んだ 8 。その内容は、毛利勢が戦場で家康に敵対しないことを条件に、毛利家の所領を安堵するというものであった 3 。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原合戦当日、南宮山に布陣した毛利秀元率いる主力部隊の前面に陣取った広家は、意図的に軍勢を動かさず、後方の毛利勢の進軍を物理的に阻止した。これにより、毛利家は東軍の勝利に間接的に貢献した形となった 4 。この緊迫した交渉の過程では、広家が自身の所有する「鯰形兜(なまずなりかぶと)」を家臣に被らせて黒田陣営へ使者として派遣したという逸話も残されている 10 。
しかし戦後、家康は輝元が大坂城西の丸に入り、西軍の総大将として活動した事実を問題視し、一度は交わした所領安堵の密約を反故にした 3 。毛利家は改易、すなわち領地没収という最大の危機に直面する。家康は広家個人の功績を評価し、彼に周防・長門の二国を与え、新たな大名として取り立てようとさえした。だが広家は、祖父・元就以来の「毛利あっての吉川」という信念を貫き、この破格の提案を固辞。あくまで毛利本家の存続のために、家康への必死の嘆願を続けたのである 4 。
防長減封と岩国入封
広家の命を懸けた奔走の結果、毛利家は改易こそ免れたものの、安芸広島を中心に中国8カ国、112万石を領有する大大名から、周防・長門の二国、36万9千石へと大幅に減封されることとなった 4 。これは毛利家にとって、その勢力を4分の1以下に削がれるという屈辱的な結末であった。
この一連の動きの中で、広家は毛利家から周防国玖珂郡などを中心とする3万石の領地を与えられ、岩国を新たな本拠地とすることが定められた 1 。後の検地により、この領地の実質的な石高は6万石に及んだが、これが岩国領の始まりである 14 。慶長5年(1600年)10月には家臣団が、そして翌慶長6年(1601年)には広家自身が、かつての栄華を誇った出雲国月山富田城を去り、この岩国の地に入った 4 。
家臣か、大名か ― 吉川家のアンビバレントな地位
岩国への入封は、吉川家にとって新たな苦悩の始まりでもあった。広家の独断による東軍との内通は、結果的に毛利家を滅亡から救った一方で、毛利家臣団からは「主家を売った裏切り者」という不信感と強い反感を招いた 16 。これにより、毛利宗家が治める萩藩と岩国吉川家の間には、幕末に至るまで2世紀半以上にわたって続く、深刻な感情的対立と確執が生まれたのである 12 。
この状況は、吉川家の地位を極めて曖昧なものにした。徳川幕府は、関ヶ原での広家の功績を高く評価し、彼を独立した大名に準ずる「城主格」として遇し、江戸に藩邸を構えることや参勤交代を行うことも許した 4 。しかし、主家である毛利宗家は、岩国を正式な「支藩」とは決して認めず、あくまで毛利家直属の「家臣」が治める領地(岩国領)という位置づけを崩さなかった 4 。長府や徳山といった他の毛利家支藩とは明確に区別されたこの扱いは、吉川家にとって長きにわたる悲願となる「家格問題」の原点となった 6 。
このような政治的屈辱と家中での孤立という状況下で、壮麗な天守を持つ城を築くという行為は、単なる軍事戦略を超えた意味合いを帯びてくる。それは、幕府や他の大名、そして何よりも毛利宗家に対して、自らの権威と存在価値を視覚的に誇示するための、極めて政治的なデモンストレーションであった。特に、後述する異風な「唐造り」の天守 23 は、失われた権威を補うための代償行為であり、「自分は単なる家臣ではない」という広家の無言の主張であったと解釈できる。この誇示こそが、既に険悪であった宗家との関係をさらに悪化させ、後の城の破却という悲劇を招く一因となったのである。
第二部:岩国に城を築く ― 慶長六年から十三年に至る軌跡
慶長6年(1601年)の入封から慶長13年(1608年)の竣工まで、岩国城の建設は8年の歳月をかけて行われた。その過程は、領国経営の基盤固めと軍事的要塞の構築を並行して進める、広家の周到な計画性を物語っている。
城地の選定とグランドデザイン
広家が新たな本拠地として選んだのは、大きく蛇行する錦川に三方を囲まれ、背後を山で固められた天然の要害、横山の地であった 2 。錦川を巨大な外堀として利用できるこの立地は、防衛上有利であるだけでなく、水運を活用した経済発展や城下町の整備にも適していた 26 。
彼の城郭構想は、二元的かつ過渡期的な特徴を持っていた。まず、山麓の平坦地に、平時の居館と政庁機能を併せ持つ「御土居(おどい)」を築く。そして、有事の際に領主と家臣団が立て籠もる「詰城」として、標高約200mの横山山頂に要害「横山城」を構築するというものであった 1 。これは、戦国時代以来の山城の防御思想と、近世における平城の政治的中心機能を両立させようとする試みであった。
しかし、この壮大な計画は、地形的な制約も抱えていた。横山の麓の土地は面積が限られており、城下町の全ての機能を一箇所に集約することは不可能であった 30 。そのため、広家は家臣団の大半や町人の居住区を、錦川の対岸である錦見(にしみ)地区に分散して配置せざるを得なかった。この川による城下町の分断が、約70年後、日本三名橋の一つである「錦帯橋」架橋の直接的な動機となるのである 2 。
第一期工事(慶長6年~7年):統治の礎「御土居」の建設
慶長6年(1601年)、広家の入封と同時に築城工事は開始された。最優先されたのは、領国経営の拠点となる山麓の「御土居」の建設であった 15 。これと並行して、頻繁に氾濫を繰り返していた錦川の治水工事に着手し、堤防を築いて流路を一本化することで、城下町の用地を確保した 31 。
翌慶長7年(1602年)には「御土居」が完成し、広家は岩国での本格的な政務を開始する 15 。この御土居は、単なる居館ではなく、周囲に堀を巡らせ、複数の矢倉や蔵を備えた堅固な政庁であり、それ自体が一個の城郭としての機能を有していた 2 。
第二期工事(慶長8年~13年):要害「横山城」の完成
御土居の完成とほぼ時を同じくして、山頂の要害「横山城」の建設が始まった。慶長8年(1603年)には鍬初めの儀式が行われ、築城奉行に二宮佐渡らが任命されて工事が本格化した 1 。しかし、この時期、広家は幕府から江戸城の石垣普請の手伝いを命じられるなど、公務に追われており、岩国での築城工事は必ずしも順調に進んだわけではなかった 28 。
城普請が最も活発に行われたのは、慶長9年(1604年)から慶長12年(1607年)にかけてであった。この期間に、山頂の地形を造成して曲輪(くるわ)を設け、堅固な石垣が次々と組み上げられていった。慶長12年には主要な土木工事が完了し、城には城番が置かれるようになった 28 。
そして慶長13年(1608年)、着工から8年の歳月を経て、岩国城はついに竣工の日を迎える 1 。山頂の本丸には、後述する特異な構造を持つ三層四階(内部六階)の天守が聳え、その他にも5棟の櫓、2つの大門、埋門、そして籠城に備えた2つの井戸などが備えられた、まさに難攻不落の山城が完成したのである 15 。
表1:岩国城 築城から破却までの詳細年表
以下の年表は、関ヶ原の戦後処理から岩国城の築城、そして破却に至るまでの主要な出来事を時系列で整理したものである。これにより、幕府や毛利宗家の政治的動向と、岩国における物理的な建設・破壊のプロセスが、いかに密接に連関していたかを俯瞰することができる。
年(西暦) |
主要な政治的動向(幕府・毛利宗家) |
岩国城および吉川家の動向 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。東軍勝利。 |
吉川広家、東軍と内通し毛利勢の動きを封じる。戦後、毛利家は防長二国に減封。広家は岩国3万石を拝領。 |
慶長6年(1601) |
|
広家、岩国に入封。岩国城(御土居)築城開始。城下町の屋敷割に着手。 |
慶長7年(1602) |
|
山麓の「御土居」完成。山上の要害「横山城」の築城開始。 |
慶長8年(1603) |
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。 |
横山城、鍬初め。幕府より江戸城普請手伝いを命じられる。 |
慶長10年(1605) |
徳川秀忠、二代将gunに就任。 |
|
慶長13年(1608) |
|
山上の要害「横山城」竣工。天守完成。 |
元和元年(1615) |
大坂夏の陣で豊臣家滅亡。幕府、「一国一城令」を発布。 |
広家、命令に抵抗するも、毛利輝元の厳命により岩国城の破却を決定。天守、櫓などを取り壊す。 |
寛永2年(1625) |
|
吉川広家、死去。 |
寛永15年(1638) |
島原の乱、鎮圧。 |
幕府の追加命令により、岩国城の石垣がさらに破却される。 |
第三部:矛盾を孕む要塞 ― 岩国城の構造と設計思想の分析
岩国城は、単なる建築物ではない。それは、戦国末期の軍事思想と近世初期の政治的権威の誇示が融合した、特異な城郭であった。その構造を分析することで、広家の置かれた状況と彼の思想を読み解くことができる。
縄張にみる思想 ― 戦国への回帰
岩国城の縄張(なわばり)、すなわち城の設計プランは、平城が主流となりつつあった当時にあって、戦国時代の山城への強い回帰が見られる 1 。本丸を中心に、南に二の丸、北に北の丸を一直線に配置する連郭式の構造は、山城の典型的な形態である 24 。
その防御思想を最も象徴するのが、本丸と北の丸の間に穿たれた巨大な空堀である。幅約20m、深さ約10m、長さ約58mにも及ぶこの箱堀は、全国的に見ても最大級の規模を誇る 1 。この空堀にはあえて石垣が築かれていないが、これは敵兵が石垣を足がかりにして登ることを防ぎ、堀底に誘い込んだ敵を三方から攻撃するための、鉄砲戦を強く意識した設計思想の表れである 1 。さらに、山の斜面には敵の横移動を妨げるための竪堀(たてぼり)が多数設けられ、鉄壁の防御網を形成していた 37 。また、籠城戦に不可欠な水の確保にも抜かりはなく、西側の曲輪群には「大釣井」と呼ばれる巨大な井戸が掘られていた 1 。
このような徹底した防御思想は、広家の父であり、毛利家随一の猛将として知られた吉川元春の築城思想と深く通底している。元春は、自らの居城であった日山城など、山全体を要塞化する堅固な山城を数多く手掛け、その思想は「不退転」、すなわち退路を断ってでも守り抜くという凄まじい覚悟に貫かれていた 40 。毛利家内部で孤立し、幕府からの潜在的脅威にも晒されていた広家は、まさに「背水の陣」の状況にあった。岩国城の縄張は、父から受け継いだ軍事思想を、自らの絶望的な政治状況に投影したものであり、彼の心理的な防衛線の物理的な表出であったと言えるだろう。
石垣の語るもの ― 最新技術の導入
戦国的な防御思想とは対照的に、石垣の構築には当時の最新技術が導入されていた。岩国城の石垣は、自然石を巧みに加工せず組み合わせる野面積みの一種、「古式穴太積み(こしきあのうづみ)」で築かれたと伝わる 1 。これは、近江国(現在の滋賀県)の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が得意とした堅固な石垣技術であり、織田信長の安土城築城を機に全国の大名に広まった、当時の最先端工法であった 44 。
また、石垣の強度を左右する隅角部には、長方形に加工した石を長辺と短辺が交互になるように積み上げる「算木積み(さんぎづみ)」という技法が用いられており、これにより崩れにくい高石垣の構築が可能となった 39 。これらの石垣に使用された石灰岩は、城から南西へ約1.5km離れた尾根筋(現在の護館神付近)にあった石切場から、多大な労力をかけて運ばれたものであった 1 。
悲運の天守「唐造り」 ― 権威の象徴
岩国城を最も特徴づけるのが、その天守の特異な姿である。外観は三層四階(古図によっては四重六階とも)、内部は六階建てとされ、「桃山風南蛮造り」あるいは「唐造り」と呼ばれる、全国的にも極めて珍しい様式であった 23 。
その最大の特徴は、上層階が下層階よりも外側に大きく張り出す構造にある。現存する断面図によれば、最上階である六階が五階よりも、そして四階が三階よりもそれぞれ大きく張り出している 24 。これは、間の屋根を省略することで生まれる独特のデザインで、当時の人々には異国風(唐風)に見えたことからこの名がついたとされる。同様の構造を持つ城は、細川忠興の小倉城などごく少数に限られており、見る者に強烈な威圧感と異彩を放つものであった 23 。この異風な天守は、単なる物見櫓や司令塔ではなく、毛利宗家や他の大名に対し、吉川家の権威と格式を誇示するための、政治的なモニュメントとしての性格が極めて強かったのである。
第四部:七年間の夢の終わり ― 一国一城令と岩国城の破却
広家の夢と苦心の結晶であった岩国城は、完成からわずか7年でその歴史に幕を閉じる。その背景には、徳川幕府による全国支配の強化と、毛利家内部の根深い対立があった。
幕府の威光と宗家の圧力
元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼし、名実ともに天下の支配者となった徳川幕府は、全国の大名に対して「一国一城令」を発布した 30 。これは、各国に大名の居城を一つだけ残し、それ以外の城(支城)をすべて破却させるという命令であり、地方大名の軍事力を削ぎ、反乱の拠点をなくすための強力な中央集権化政策であった。
この命令に対し、広家は「周防国には岩国城以外に城は存在しないため、破却の必要はない」と主張し、抵抗を試みた 2 。一国一城令には、一つの国を複数の大名が領有する場合など、いくつかの例外規定も存在したため、広家の主張には一定の正当性があった 48 。
しかし、この抵抗は毛利宗家によって打ち砕かれる。宗家は、本拠地である長門国において萩城を残すため、毛利秀元が居城としていた長府城を破却する必要に迫られていた 18 。宗家が支城を破却する以上、家臣の立場である吉川家の城だけが存続することは許されなかった。毛利輝元は、関ヶ原以来の広家への不信感と、宗家としての権威を示すという政治的意図から、広家に対して重ねて城の破却を厳命したのである 18 。
徹底的な破壊の記録
主君の命令には逆らえず、広家は断腸の思いで自ら築き上げた城の取り壊しを決定した 30 。天守や5棟の櫓、大門といった山上の建造物はことごとく解体され、岩国城は城としての機能を失った 2 。
この破却は、単なる解体作業ではなかった。特に、西側、すなわち毛利宗家の本拠地である萩から見える側の石垣は、往時の姿が想像もできないほど徹底的に破壊された 1 。これは、宗家に対する恭順の意を明確に示すための、意図的な見せしめとしての破壊であったと考えられる。一方で、東側、つまり山麓の御土居や城下町に面した側の石垣は、崩落すれば麓に被害が及ぶという名目で、比較的多くが破壊を免れた 1 。これは、命令に従いつつも、可能な限り城の痕跡を残そうとした広家の、ささやかな抵抗の証であったのかもしれない。山中に今も散乱する、再利用されることのなかった石材は、広家の無念さを静かに物語っている 45 。
追い打ち ― 島原の乱後の追加破却
岩国城の悲劇はそれで終わらなかった。寛永15年(1638年)、九州で大規模なキリシタン一揆である島原の乱が発生した。この時、一揆勢が廃城となっていた原城に立て籠もって幕府軍を大いに苦しめたことを教訓に、幕府は全国の廃城に対し、石垣に至るまで再利用できぬよう徹底的に破壊するよう追加命令を下した 1 。
この命令により、岩国城に残されていた石垣もさらに破壊され、城は要塞としての機能を完全に喪失した。以後、城山への立ち入りは長く禁じられ、その地は深い森に覆われることとなった 1 。
終章:石垣に刻まれた遺言 ― 岩国城が後世に遺したもの
物理的にはわずか7年という短命に終わった岩国城。しかし、その存在と喪失は、その後の岩国と吉川家の歴史に、深く、そして決定的な影響を与え続けた。
城の破却後も、岩国の政治的中心は山麓の「御土居」に置かれ続けた 1 。しかし、城郭の設計に起因する、錦川による城下町の分断という構造的な問題は残されたままであった。家臣や町民が政庁へ向かうには渡し船に頼るほかなく、川の増水時には交通が途絶するという不便を強いられていた。この長年の課題を解決し、分断された城下町を一体化させるという悲願を達成するために、三代領主・吉川広嘉によって、流されない橋の研究が重ねられ、延宝元年(1673年)、あの日本三名橋の一つに数えられる「錦帯橋」が架けられることになる 2 。堅固な山城の建設という軍事的な発想が、結果的に日本を代表する優美な文化遺産を生み出す遠因となったのである。
同時に、岩国城の喪失は、吉川家が幕末まで抱え続ける「家格問題」の象徴的な出来事となった。幕府からは大名格として扱われながら、宗家からは家臣として冷遇されるという矛盾した立場は、この城の数奇な運命そのものであった。城主格を取り戻し、正式な「藩」として認められることは、以来270年間にわたる吉川家の宿願となった 6 。この悲願こそが、幕末の動乱期において、吉川家が存亡の危機に瀕した長州藩(毛利宗家)を身を挺して救い、明治維新に大きく貢献する原動力となった。そして慶応4年(1868年)、ついに朝廷から諸侯に列せられ、岩国は正式な「藩」となることで、長年の悲願を成就させたのである 1 。
結論として、岩国城築城は、戦国時代の武将・吉川広家が、新たな江戸の秩序の中で自らの家と誇りを守るために行った、壮大かつ悲劇的な試みであった。その城は地上から姿を消したが、その石垣に刻まれた記憶は、城下町の形を変え、人々の心を動かし、270年の時を超えて歴史を動かす力となった。それはまさに、戦国の論理と江戸の秩序が激しく衝突した瞬間に生まれた、一つの時代の記念碑なのである。
引用文献
- 岩国城物語 https://kankou.iwakuni-city.net/wp-content/uploads/2021/04/iwakunijyo_sansaku.pdf
- 岩国城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/yamaguchi/iwakuni-jo/
- 【関ヶ原の合戦】徳川家康と吉川広家の密約と毛利家存亡の危機 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=yyOf567rhnY
- 『周防岩国 関ケ原敗戦で毛利氏の所領没収を家康に断念させた元就 ... https://4travel.jp/travelogue/11213291
- 吉川広家との約束をスルーした家康 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1946/
- 岩国藩の活躍と悲願成就 | 岩国観光振興課 https://kankou.iwakuni-city.net/iwakunihan.html
- 岩国市史 関が原の戦後 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/book12.html
- 黒田長政・父譲りの調略で呼び込んだ関ケ原の勝利 | PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/2078
- 吉川広家、朽木元綱、赤座直保~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(2) | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7309?p=1
- 【残り3日】本日は広家公についてご紹介します! 約840年の歴史を伝える吉川家文書を未来へ https://readyfor.jp/projects/kikkawa/announcements/293171
- 防長減封 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E9%95%B7%E6%B8%9B%E5%B0%81
- 岩国吉川家の由来について https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
- 吉川広家(きっかわひろいえ) 没後400年 | 岩国観光振興課 https://kankou.iwakuni-city.net/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%84%E3%81%88%EF%BC%89%E3%80%80%E6%B2%A1%E5%BE%8C400%E5%B9%B4.html
- 岩国藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9
- 岩国城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%9F%8E
- 関ケ原不戦の真意は? - 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F/
- 関ヶ原の戦い以降の毛利と吉川の微妙な関係とは - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2FU9Ifg299o
- 岩国城(山口県岩国市横山)の歴史、観光情報、所在地、アクセス ... https://suoyamaguchi-palace.com/iwakuni-castle/
- 江戸時代における吉川氏の扱いについて。江戸幕府は吉川氏を大名として待遇していたが、毛利本家は吉川氏の... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000327615&page=ref_view
- 岩国藩(いわくにはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9-32635
- 岩国藩人物禄へ - ぬしと朝寝がしてみたい https://sinsaku.access21-co.jp/11cyousyu-iwakuni.html
- 毛利両川 吉川家と分家阿川毛利家・大野毛利家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/kikkawa
- 吉川広家(吉川広家と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/84/
- お城大好き雑記 第80回 山口県 岩国城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/iwakunijo-yamaguchikenn
- 岩国城 - - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-635.html
- 岩国城|天守閣から錦帯橋を望む【公式】山口県観光/旅行サイト おいでませ山口へ https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_11341.html
- 偉人ゆかりの地 | 一般社団法人 岩国市観光協会 「岩国 四季の旅」 https://iwakuni-kanko.jp/%E5%81%89%E4%BA%BA%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%9C%B0
- 第二章 城下町岩国の成立 - 岩国市史 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/7.html
- 絵図から読み解く吉川氏の“城下町”岩国 - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202205/yamaguchigaku/index.html
- Ⅲ ⅵ ⅃ ⅕ Ⴄ ঃ ⅽ ↂ - 岩国市 https://www.city.iwakuni.lg.jp/uploaded/attachment/9381.pdf
- 岩国の町割 - 錦帯橋を世界遺産に推す会 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images10/3.html
- 第5章 - 岩国市 https://www.city.iwakuni.lg.jp/uploaded/attachment/35836.pdf
- 錦帯橋-中巻-岩国城 一 - 株式会社中野グラニット https://www.nakanog.co.jp/kintainakano48.html
- 昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 【岩国城(山口県岩国市)】平和な時代ならではの再建 https://shirobito.jp/article/166
- 城を巡る 復興天守の巻:岩国城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/10034
- 岩国城 | 岩国観光振興課 https://kankou.iwakuni-city.net/iwakunijyo.html
- 周防 岩国城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/suo/iwakuni-jyo/
- 岩国城の縄張り https://kankou.iwakuni-city.net/wp-content/uploads/2015/02/map201406.pdf
- 破却?! 失われた岩国城の真実 - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202206/yamaguchigaku/index.html
- 吉川元春は何をした人?「生涯無敗、不退転の覚悟の背水の陣で秀吉をびびらせた」ハナシ https://busho.fun/person/motoharu-kikkawa
- 日野山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 岩国城 - 岩国の観光.com(山口県岩国市 https://www.iwakuni-kanko.com/kikko/shiro/index.php
- 岩国城穴太積みの石垣について - 写真見てください! - エキサイトブログ https://nisikigawa.exblog.jp/15989458/
- 「穴太衆(あのうしゅう)」って何をした人たちなの?ー「超入門! お城セミナー」第48回【歴史】 https://shirobito.jp/article/634
- 岩国城 [2/3] 北ノ丸奥に眠る破却を免れた長大な石垣群は必見! - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2014/01/21/iwakuni-p2/
- 岩国城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/iwakuni.htm
- 岩国城の遺構 河村貴之さんその3 https://www.city.iwakuni.lg.jp/site/myiwakuni/35641.html
- 一国一城令- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%80%E5%9C%8B%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
- 一国一城令 - 例外も - 鉄道で旅行 http://mino-tokai.cocolog-nifty.com/tetudouderyokou/2009/01/post-c5d1.html
- 一国一城令〜2000以上の城が消えた幕府の大名統制策をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/820/
- 概要 | 錦帯橋~世界遺産をめざして!~ https://kintaikyo-bridge.jp/value/overview/
- 吉川氏由来の歴史建造物 - 岩国吉川会 https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9/