最終更新日 2025-09-23

徳島城築城(1585)

天正十三年、豊臣秀吉の四国平定後、蜂須賀家政は阿波国主となり、秀吉の命で渭津に徳島城を築城。吉野川の水を活用した平山城は、青石の石垣が特徴。藩政の中心として、蜂須賀家280年の礎を築いた。
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天正十三年、徳島城誕生の刻 ― 秀吉の天下布武と蜂須賀家、阿波国の黎明

序章:四国平定、新たな秩序の胎動(1585年前半)

第一節:嵐の後の静寂 ― 豊臣秀吉による四国征伐

天正13年(1585年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。織田信長の後継者として天下統一事業を推し進める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の視線は、長らく独立を保ってきた四国に向けられていた。同年6月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に、甥の秀次らを加えた総勢6万にも及ぶ大軍を四国へ派遣する 1 。この圧倒的な軍事力の前に、土佐を本拠に「四国の覇者」として君臨していた長宗我部元親も抗う術はなく、わずか一ヶ月余りで降伏を余儀なくされた 2 。これにより、戦国時代を通じて続いた四国の群雄割拠の時代は終焉を迎え、豊臣政権による新たな秩序の下に組み込まれることとなったのである。

この四国平定の戦役において、秀吉麾下の一将として軍功を挙げたのが、蜂須賀正勝(小六)とその嫡男・家政であった 1 。彼らの働きは、戦後の論功行賞において阿波一国という破格の恩賞に結実することになる 3

第二節:阿波一国十七万石 ― 蜂須賀家、国主大名への飛躍

四国平定後の戦後処理において、秀吉は蜂須賀正勝・家政父子に対し、阿波一国十七万五千石(後に加増)を与えることを決定した 2 。しかし、父・正勝は高齢を理由にこれを固辞し、家督を嫡男の家政に譲ることを願い出る 1 。これにより、時に27歳の若き武将・蜂須賀家政が、新生蜂須賀家の当主として、また阿波国の初代国主として、その歴史的な第一歩を踏み出すこととなった 2

阿波へ入国した家政が最初に居城としたのは、旧勢力の拠点であった一宮城であった 4 。しかし、これはあくまで暫定的な措置に過ぎなかった。三好氏をはじめとする旧勢力の影響が色濃く残る阿波国を完全に掌握し、豊臣政権の威光を知らしめるためには、旧来の城郭に依存するのではなく、全く新しい統治拠点を築く必要があった。その認識は、家政のみならず、天下人秀吉の中にも明確に存在していたのである。

深層的洞察①:阿波国下賜に隠された秀吉の深謀

蜂須賀家への阿波国下賜は、単なる戦功への報奨という一面的な意味合いに留まるものではなかった。そこには、秀吉の緻密で広域的な天下統一構想が色濃く反映されていた。蜂須賀正勝は、秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃からの腹心であり、墨俣一夜城の伝説にもその名が登場するほどの最側近である 8 。その子・家政を四国の玄関口ともいえる阿波に配置することは、秀吉にとって極めて重要な戦略的人事であった。

第一に、土佐一国に封じ込めた旧敵・長宗我部元親に対する強力な「蓋」としての役割が期待された。阿波は土佐と直接国境を接しており、信頼の置ける譜代の将を置くことで、元親の再起の芽を摘む狙いがあった。第二に、紀伊水道を挟んで対峙する雑賀・根来衆といった紀州の反豊臣勢力への牽制である。阿波は、これらの勢力に対する軍事的な橋頭堡となり得る地理的条件を備えていた。そして第三に、将来の九州征伐や、さらにはその先に見据える明国への出兵(後の文禄・慶長の役)における、水運を利用した兵站拠点としての役割である。

この壮大な構想を実現する上で、蜂須賀家はまさに適任であった。彼らの出自である尾張国蜂須賀郷は木曽川下流域の輪中地帯であり、水運や治水に関する知識と経験を豊富に有していたと考えられる。水上交通の要衝に新たな拠点を築き、それを核として領国を経営するという任務は、蜂須賀家の能力と特性に完全に合致していた。つまり、阿波国下賜とそれに続く徳島城築城は、秀吉の国家戦略を具現化するための、必然的な一手だったのである。

第一章:天下人の選択 ― なぜ「渭津」であったのか(1585年後半)

第一節:秀吉の視線 ― 城地の選定

阿波国に新たな城を築くにあたり、その建設地を最終的に選定したのは、国主である家政ではなく、天下人・秀吉自身であったと伝えられている 4 。秀吉が指し示した場所、それは吉野川河口のデルタ地帯に浮かぶ中洲、猪山(いのやま)を中心とする「渭津(いのつ)」の地であった。この事実は、徳島城の建設が単なる蜂須賀家の領国経営という枠を超え、豊臣政権の国家的なプロジェクトの一環として位置づけられていたことを明確に物語っている。

渭津は、古くから水陸交通の要衝として栄えた地であった。その風光明媚な景観は、室町幕府の管領であった細川頼之が、中国・長安を流れる渭水の景色になぞらえて「渭津」と命名したほどであったという 11 。この地には、南北朝時代に頼之が築いたとされる渭山城と、平地に築かれた寺島城という二つの中世城郭が既に存在していた 11 。計画は、これら既存の城郭を解体・統合し、全く新しい思想に基づいた近世城郭として再生させるという壮大なものであった 1

第二節:水と共に生きる城 ― 地理的・戦略的優位性

「水と共に生きる城を造ろう」― これは、築城に際して家政が抱いた決意として伝えられる言葉である 2 。渭津は、その名の通り、四国三郎の異名を持つ吉野川がもたらす豊かな水に囲まれた地であった。北に助任川、南に寺島川が流れ、天然の堀を形成するこの地は、軍事的な防御拠点としてまさに理想的な地形であった 13

しかし、秀吉と家政がこの地に見出した価値は、単なる防御上の優位性だけではなかった。河川交通と海上交通が結節するこの場所は、領内各地から年貢米や特産品(後の藍や塩など)を集積し、大坂を中心とする全国市場へ送り出すための物流拠点として、比類なきポテンシャルを秘めていた 2 。戦乱の世が終わり、経済が社会の主役となる新しい時代を見据えた時、この「水の都」としての将来性こそが、渭津が選ばれた最大の理由であった。それは、戦国の軍事拠点から、近世の政治経済中心地へと移行する時代の要請を的確に捉えた、慧眼の選択であった。

第三節:「徳島」への改称 ― 新時代の幕開けを告げる象徴操作

築城工事の開始と時を同じくして、家政は一つの重要な決定を下す。それは、古くから親しまれてきた「渭津」という地名を、新たに「徳島」へと改めることであった 4 。この改称は、旧領主であった三好氏や在地勢力の影響力を払拭し、蜂須賀家による新たな支配が始まったことを領民に強く印象付けるための、巧みな象徴操作であった 9

「徳島」という名の由来について、郷土史家の間では、近隣の「福島」という地名と対をなし、「徳」という縁起の良い文字を用いることで、新城下町の繁栄を願ったのではないか、という説が唱えられている 17 。人心を一新し、輝かしい未来を想起させるこの新しい地名は、新時代の幕開けを告げるファンファーレであった。興味深いことに、この「徳島」という地名はすぐには定着せず、2代藩主・忠英の時代に一度「渭津」に戻され、26年後の5代藩主・綱矩の時代に再び「徳島」へと改められるという紆余曲折を経ている 17 。これは、新体制の確立が、決して平坦な道のりではなかったことを静かに物語っている。

深層的洞察②:徳島城築城は「都市開発プロジェクト」であった

1585年に始まった徳島城の建設は、単に一つの城を築くという行為ではなかった。それは、城郭を核として、政治・軍事・経済の諸機能を一体化した新しい都市空間をゼロから創造する、壮大な「都市開発プロジェクト」の始動であった。この思想は、秀吉が大坂城や聚楽第の建設で示した、豊臣政権期を特徴づける先進的な都市計画思想そのものである。

護岸工事の困難が予想される河口の湿地帯を、あえて建設地に選んだ理由もここにある 15 。陸上交通が未発達であった当時、大量の物資を効率的に輸送できる水運こそが、経済発展の生命線であった 15 。城の防御ラインとして河川を利用しつつ、同時にその河川を物流の大動脈と捉える発想は、この時代の最先端であった。城の周囲に侍屋敷や町人地を計画的に配置し、領内の産物を集積・移出する拠点とする構想は、築城の槌音が響き渡る最初の段階から、秀吉と家政の頭の中には明確に描かれていたのである 16 。彼らが見ていたのは、石垣や天守といった城の躯体だけではない。その周辺に広がる人々の営みと経済活動、すなわち「生きた都市」の未来像そのものであった。

第二章:1585年後半~1586年、普請開始 ― 国家プロジェクトとしての徳島城

表1:徳島城築城 関連年表(1585-1586)

年月

主要な出来事

関連人物

典拠

天正13年(1585) 6月

秀吉、四国征伐を開始

豊臣秀吉, 羽柴秀長

1

天正13年(1585) 7月

長宗我部元親、降伏

長宗我部元親

2

天正13年(1585) 8月

蜂須賀家政、阿波国主となる。一宮城へ入城

蜂須賀家政

3

天正13年(1585) 後半

秀吉の命により渭津(猪山)での築城が決定。普請開始

豊臣秀吉, 蜂須賀家政

9

「渭津」を「徳島」に改称

蜂須賀家政

9

縄張奉行として武市常三、林道感が任命される

武市常三, 林道感

1

手伝い普請として長宗我部元親、小早川隆景らが参加

長宗我部元親, 小早川隆景

10

天正14年(1586)

徳島城、竣工。家政が入城

蜂須賀家政

1

天正14年(1586)

父・正勝、死去

蜂須賀正勝

2

第一節:縄張奉行、武市常三と林道感

城の設計図であり、その機能と性格を決定づける最も重要な工程である「縄張」。この大役を担ったのは、蜂須賀家の老臣であった武市常三(通称:太郎左衛門信昆)と、家中でも築城の名手として知られていた林道感(通称:図書助能勝)の二人であった 1 。彼らは、渭山城と寺島城という二つの中世城郭の遺構を巧みに取り込みつつ、山頂の詰城と山麓の居館を一体化させた、防御と統治を両立する近世的な平山城の青写真を描き上げた。

特に、縄張奉行として中心的な役割を果たした武市常三の功績は、家政から高く評価された。その功に報いるため、家政は城の北側に広がる湿地帯を常三に与えたのである 20 。常三は私財を投じてこの未開の地を開拓し、立派な屋敷を構えた。やがて人々はこの地を彼の名にちなんで「常三島(じょうさんじま)」と呼ぶようになり、その地名は現在に至るまで徳島市内に残っている 20 。城下町において家臣個人の名が地名として残るのは極めて稀であり、これは常三の功績の大きさと、家政の彼に対する深い信頼を物語るエピソードである。

第二節:天下普請の縮図 ― 旧敵たちの槌音

徳島城の普請(建設工事)は、蜂須賀家の単独事業としてではなく、秀吉の厳命による「手伝い普請」として行われた 10 。これは、周辺の大名に人員や資材の提供を義務付けるものであり、豊臣政権の絶対的な権威を天下に示すための重要な政治的パフォーマンスであった。

驚くべきことに、この手伝い普請には、つい数ヶ月前まで死闘を繰り広げたばかりの旧敵・長宗我部元親が含まれていた 1 。さらに、中国地方の雄であり、秀吉の信頼も厚い小早川隆景、そして比叡山の僧侶までもが動員されたと記録されている 12 。自らが築き上げた支配体制を、かつての敵に建設させる。これは、元親の誇りを打ち砕き、豊臣体制への完全なる服従を誓わせるための、秀吉ならではの冷徹かつ巧みな人心掌握術であった。渭津の地には、敵味方の区別なく、天下人の号令一下に集った者たちの槌音が響き渡っていたのである。

第三節:六百日の突貫工事

この国家的なプロジェクトは、「六百日」という期限が区切られた、まさに突貫工事であったと伝えられている 1 。膨大な労働力と資源が、徳島の地に集中投下された。旧来の一宮城や勝瑞城は解体され、その木材や石材が新城の資材として再利用された 10 。最新の築城技術が惜しみなく投入され、城は驚異的なスピードでその姿を現していった。

そして天正14年(1586年)、普請開始からわずか1年余りで徳島城の主要部分は竣工し、家政は仮の居城であった一宮城から、この壮麗な新城へと居を移した 1 。阿波国の新たな歴史が、この瞬間から始まったのである。

第三章:青石の城、聳え立つ ― 戦国末期の築城技術

第一節:阿波青石という選択 ― 地質が決定した城の個性

徳島城を訪れる者がまず目を奪われるのは、その石垣が放つ独特の青緑色の輝きであろう。この石垣に用いられているのは、地元で産出される「阿波青石」、学術的には緑色片岩と呼ばれる変成岩である 13 。築城の舞台となった城山そのものがこの岩石で構成されており、資材調達の容易さが、この石材が選ばれた最大の理由であったと考えられる 22

緑色片岩は、結晶が一定方向に並んでいるため、パイ生地のように層状に薄く剥がれやすい「片理(へんり)」という性質を持つ 24 。この特性は、石材の加工を容易にし、「六百日の突貫工事」という時間的制約の中でのスピーディーな築城を可能にした 24 。しかしその一方で、近世城郭の石垣に多用された花崗岩のように、巨大で均質な石材を得ることは難しい。そのため、徳島城の石垣は、細長い石材が複雑に組み合わされた、独特の表情を持つことになったのである 22

第二節:野面積みの迫力 ― 実戦の城の証

徳島城の石垣の基本的な積み方は、自然石をほとんど加工せずに、その形を巧みに利用して積み上げていく「野面積み(のづらづみ)」である 13 。これは、加工に手間がかからず、堅牢で排水性にも優れているため、戦国時代末期の城郭に広く用いられた、実戦的な工法であった。大小様々な石が織りなす荒々しい石垣の表情は、この城が戦国の緊張感が未だ残る時代に築かれたことの証である。

しかし、全ての石垣が野面積みで構成されているわけではない。城門の隅など、特に強度が求められる部分には、石を直方体に加工して隙間なく組み合わせる「算木積み(さんぎづみ)」という高度な技術が用いられている 22 。また、山麓の太鼓櫓の基部など、ごく一部には石材の大きさを揃え、水平に積み上げる「整層積み」も見られる 22 。これは、城の「顔」となる部分に意図的に格式の高い工法を用いることで、城主の権威を視覚的に示す狙いがあったと考えられる。徳島城の石垣は、実用性と権威の誇示という、二つの側面を併せ持っていたのである。

第三節:平山城の縄張り ― 防御と統治の融合

徳島城は、標高約61メートルの独立丘陵である渭山(城山)と、その山麓の平地部分を一体的に利用して築かれた「平山城」に分類される 14 。これは、山城の防御性と平城の利便性・統治機能の両立を目指した、安土桃山時代を象徴する城郭形態である。

渭山の山頂には本丸が置かれ、そこから東西に延びる尾根に沿って、東二の丸、西二の丸、西三の丸といった曲輪が直線的に配置された 12 。これは「連郭式(れんかくしき)」と呼ばれる縄張りで、敵が攻め寄せてきた際には、麓から山頂の本丸に至るまで、幾重にも連なる防御ラインを突破しなければならず、極めて高い防御力を発揮した。一方、山麓の東側には、藩主の居館であり藩の政庁でもある壮麗な御殿が築かれ、堀と石垣によって厳重に守られていた 14 。戦時の最終防衛拠点である「詰の城」と、平時の政治・生活空間である「居館」を巧みに組み合わせたこの構造は、戦国の終焉と近世の到来を告げる、新しい時代の城郭の姿であった。

深層的洞察③:徳島城の石垣は「制約と工夫の産物」である

徳島城の象徴ともいえる、美しくも独特な「阿波青石」の石垣。これは単なる美的感覚による選択の結果ではない。それは、「緑色片岩」という地元の石材が持つ物理的な制約と、「突貫工事」という時間的な制約の中で生まれた、技術者たちの創意工夫の結晶であった。

大規模な石垣を築くには必ずしも最適とは言えないこの石材を、なぜ敢えて用いたのか 22 。その答えは、輸送コストと時間を度外視できた「地産地消」の利点にある 22 。遠方から良質な花崗岩を運び込む時間的余裕は、この突貫工事には存在しなかった 1 。そして、この緑色片岩の加工のしやすさこそが、スピーディーな築城を可能にしたのである 24 。つまり、①資材の制約(緑色片岩しか使えない)が、②工法の選択(野面積みと部分的な算木積みが最適)を決定づけ、それが結果として、③細かな石が織りなす独特の景観を生み出した。徳島城の石垣が持つ唯一無二の個性は、この避けがたい制約の中から必然的に生まれたものであった。それは、与えられた条件下で最大限の強度と機能美を追求した、名もなき石工たちの技術と誇りの証なのである。

第四章:1586年、新城完成 ― 「徳島」の誕生と祝祭

第一節:阿波統治の拠点、始動

天正14年(1586年)、渭津の地に壮麗な城郭がその姿を現し、蜂須賀家政は正式に居城を移した 4 。この瞬間、徳島は名実ともに阿波国の政治・軍事・経済の中心地となり、新たな時代が幕を開けた。この徳島城は、以後、明治維新に至るまでの約280年間にわたり、蜂須賀家14代の居城として、阿波・淡路二国、25万7千石を支配する拠点として機能し続けることになる 6

第二節:阿波踊りの起源伝説

徳島城の竣工は、領民にとっても大きな喜びであった。この新城の完成を祝して、城下では盛大な祝宴が催されたと伝えられる。その際、城主・家政が「城の完成祝いである、城下の人々は自由に踊るがよい」という旨の触れを出したところ、町人たちは身分の隔てなく、三日三晩踊り明かしたという。この無礼講の踊りが、今日、世界的にその名を知られる「阿波踊り」の起源であるという説は、広く語り継がれている 4 。この伝承の真偽は定かではないが、築城という国家的な大事業が、単なる建造物の完成に留まらず、地域のアイデンティティを形成する文化の源泉ともなった可能性を示唆しており、極めて興味深い。

第三節:阿波九城体制の確立

徳島城の完成と前後して、家政は入国間もない領国の支配体制を盤石にするため、一つの軍事的なシステムを構築した。それは、阿波国内の戦略的要衝に9つの支城を配置し、それぞれに信頼の置ける重臣を城代として派遣する「阿波九城制」である 7 。この支城ネットワークは、領内に残存する旧勢力や一揆の動きを監視・鎮圧し、平定直後の不安定な領国を軍事的に制圧するための、過渡的な支配体制であった。そして、その司令塔として九城全軍を統括する役割を担ったのが、本城である徳島城であった 7 。この軍事優先の体制は、やがて徳川幕府による「一国一城令」の発布によって役目を終え、権力と軍事力は徳島城へと完全に集約されていくことになる 5

表2:徳島城築城における主要人物とその役割

人物名

肩書・立場

徳島城築城における役割

典拠

豊臣秀吉

関白・天下人

四国平定の主導者。城地の選定、手伝い普請の発令者。

9

蜂須賀家政

阿波国主・徳島藩祖

築城の総責任者。阿波統治の拠点として城と城下町を整備。

3

蜂須賀正勝

家政の父・秀吉の腹心

阿波国を拝領するも、家政に譲る。蜂須賀家の礎を築いた人物。

2

武市常三(信昆)

蜂須賀家老臣

縄張奉行(設計責任者)の一人。功績により「常三島」の地名となる。

18

林道感(能勝)

蜂須賀家臣

縄張奉行(設計責任者)の一人。築城の名手として知られる。

1

長宗我部元親

土佐国主

旧敵。秀吉の命令により、手伝い普請に参加。

10

小早川隆景

安芸国等の大名

秀吉の重臣。手伝い普請に参加。

10

終章:徳島城が刻んだもの ― 戦国の終焉と近世の黎明

第一節:近世大名蜂須賀家の礎

天正13年(1585年)に始まった徳島城の築城は、単に一つの城が生まれたという事実以上の、重層的な歴史的意義を持つ。それは、戦国大名から近世大名へと脱皮し、阿波・淡路二国にまたがる280年余の安定した治世を築き上げた蜂須賀家の、まさに礎となる事業であった 14 。この城と、それと一体となって発展した城下町は、徳島藩の政治・経済・文化の中心として繁栄を極め、現在の徳島市の原型を形作った 2 。家政は徳島城を拠点として、阿波の特産品となる藍や塩といった産業を奨励し 26 、暴れ川として知られた吉野川の治水事業に着手するなど 2 、近世的な領国経営を力強く推進していったのである。

第二節:戦国から近世への架け橋

徳島城は、その成り立ちの全てにおいて、戦国という時代の終焉と、近世という新しい時代の到来を象徴するモニュメントであった。山城と平城の機能を融合させた「平山城」という構造、天下人の命令によって旧敵さえも動員した「天下普請」という建設手法、そして領国支配のあり方が「阿波九城制」という軍事的分散体制から徳島城への権力集中へと移行していく過程。その全てが、群雄割拠の乱世が終わり、徳川幕府による中央集権的な泰平の世へと移り変わっていく、巨大な歴史のうねりを体現している。

明治維新という新たな時代の変革の中で、廃城令によって城の建造物の多くは取り壊された 12 。しかし、往時の威容を今に伝える壮麗な青石の石垣や、深く水を湛える堀、そして市民の熱意によって復元された鷲の門 11 などは、国の史跡として大切に保存され、その波乱に満ちた歴史を静かに語り続けている 13

第三節:現代に生きる遺産

かつて蜂須賀家の威光の象徴であった徳島城跡は、現在、徳島中央公園として整備され、徳島城博物館や旧徳島城表御殿庭園などを有する、市民の文化と憩いの場として生まれ変わっている 28 。築城から400年以上の歳月が流れた今、徳島城はかつての軍事拠点としての役割を終え、地域の歴史と文化を未来へと伝える貴重な遺産として、新たな価値を創造し続けている。天正の世に響き渡った槌音は、現代の徳島の礎を築き、今なお人々の心に静かな共鳴を呼び起こしているのである。

引用文献

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  2. 蜂須賀家政(はちすか いえまさ) 拙者の履歴書 Vol.93~阿波に築きし太平の世 - note https://note.com/digitaljokers/n/n9524e22e46a5
  3. 蜂須賀氏(はちすかうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%B0%8F-114795
  4. 徳島の城 徳島城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Tokushima-Jo.html
  5. 蜂須賀家政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
  6. 蜂須賀家政 - FC2 https://banzai2161.web.fc2.com/hatisukaiemasa.html
  7. 阿波九城 - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/awa/awa9/
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  9. とくしまヒストリー ~第1回~:徳島市公式ウェブサイト https://www.city.tokushima.tokushima.jp/smph/johaku/meihin/page02-00/tokushimahistory01.html
  10. お城大好き雑記 第104回 徳島県 徳島城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/tokushimajo-tokushimakenn
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  12. 【ホームメイト】徳島県の著名な城3選 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/259/
  13. 徳島城の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16967_tour_048/
  14. 徳島藩蜂須賀家の城跡「徳島城」 https://sirohoumon.secret.jp/tokusimajo.html
  15. とくしまヒストリー ~第7回~:徳島市公式ウェブサイト https://www.city.tokushima.tokushima.jp/smph/johaku/meihin/page02-00/tokushimahistory07.html
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  19. 100名城攻略記№76 徳島城(徳島県徳島市) - 日々のできごと・思うこと https://yagopin.seesaa.net/article/501941637.html
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  23. 徳島城 [1/2] 緑色片岩と呼ばれる青く薄い特徴的な石材を用いた石垣。 https://akiou.wordpress.com/2013/12/16/tokushima/
  24. お城好きの気象予報士が「お天気目線」で解説!〜色が変わる!?雨の日に見られるお城の姿〜 https://shirobito.jp/article/1568
  25. 【徳島城】徳島藩随一の城郭はブルーグリーンの石垣に当時の面影をのこす https://pilgrim-shikoku.net/tokushimacastle
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  27. 徳島城のお城印からアクセスまで詳しく紹介!徳島城に行き思いをはせる! - 御朱印帳 https://www.nippoh-goshuin.net/2024/01/08/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%9F%8E%E5%8D%B0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9%E3%81%BE%E3%81%A7%E8%A9%B3%E3%81%97%E3%81%8F%E7%B4%B9%E4%BB%8B%EF%BC%81%E5%BE%B3/
  28. 徳島城跡・徳島城博物館 - Guidoor https://www.guidoor.jp/en/places/8830
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  30. 徳島城(徳島中央公園) - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ts0155/
  31. 旧徳島藩主蜂須賀公の居城跡「徳島中央公園」 | 徳島駅前・徳島市周辺・鳴門 の観光情報は ai Tripper https://aitripper.jp/article/6