新宮城改修(1600)
慶長五年、関ヶ原で西軍に与した堀内氏善は改易され、新宮は浅野氏の支配に。浅野忠吉は丹鶴山に新宮城を築城し、熊野の統治を刷新。これは中世的支配の終焉と近世国家の確立を象徴する。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年 新宮城改修の真相:熊野の支配者交代と近世城郭誕生の軌跡
序章:慶長五年、新宮に何が起こったのか ―「改修」から「交代」への視座転換
慶長五年(1600年)、紀伊国新宮において「新宮城改修」が行われた。この一見、局所的な城郭の修繕事業と捉えられがちな事変は、しかしその実像を深く探ると、単なる建物の手直しという範疇を遥かに超える、歴史的な大変動であったことが明らかとなる。それは、戦国乱世の終焉を告げる天下分け目の関ヶ原の戦いが、紀伊国最南端の地・熊野にまで及ぼした直接的な帰結であり、この地を長らく支配してきた権力者の「交代」と、それに伴う統治体制の「刷新」を象徴する一大政変であった。
本件の真相は、熊野の在地領主・堀内氏善が関ヶ原の戦いで西軍に与して敗北し、その全領地を没収されたこと、そして、勝利した徳川家康方の武将・浅野氏が新たな支配者としてこの地に入り、旧来の拠点とは全く異なる場所に、新時代の理念に基づいた近世城郭を「新たに築城」したという、一連のダイナミックな歴史の転換点にある。したがって、「改修」という言葉の裏には、旧勢力の没落と新権力の台頭という、戦国時代の終焉そのものが凝縮されているのである。
本稿は、この「新宮城改修」というキーワードを起点とし、その背景にあった関ヶ原前夜の紀伊国の情勢、熊野に君臨した堀内氏善の特異な権力構造、天下分け目の戦いにおける彼の決断と軍事行動、そして敗戦による支配者の交代劇、最終的に浅野氏による新時代の象徴たる城郭建設へと至る一連の過程を、あたかもリアルタイムで追体験するかの如く、詳細な時系列に沿って解き明かすものである。
第一章:関ヶ原前夜の紀伊国と熊野の支配者・堀内氏善
慶長五年(1600年)の動乱を理解するためには、まずその舞台となった紀伊国、とりわけ熊野地方が、戦国時代を通じていかに特異な地域であったか、そしてそこに君臨した堀内氏善がいかなる人物であったかを把握する必要がある。
1-1. 混沌の地、紀伊国
戦国時代の紀伊国は、一筋縄ではいかない複雑な勢力が割拠する地であった。名目上の守護であった畠山氏の権威は限定的で、その支配はごく一部にしか及んでいなかった 1 。その一方で、高野山や根来寺といった寺社勢力は広大な寺領と僧兵を擁し、一大政治勢力として君臨していた 2 。さらに、紀ノ川流域には、鉄砲傭兵集団として全国に名を轟かせた雑賀衆や、隅田党といった国人衆が自治的な共同体を形成し、中央権力の介入を容易に許さない「自立地帯」としての性格を色濃く持っていた 1 。
この混沌とした状況に大きな変化をもたらしたのが、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐であった。秀吉は圧倒的な軍事力で根来寺を焼き討ちにし、雑賀衆の拠点である太田城を水攻めで陥落させ、紀伊国の諸勢力を次々と屈服させた 1 。これにより、紀伊国は形式上、豊臣政権の支配下に組み込まれることとなった。しかし、それは在地勢力の完全な消滅を意味するものではなく、依然として中央の支配が行き届きにくい、不安定な火種を内包した地域であり続けたのである 3 。
1-2. 熊野に君臨する者、堀内氏善
その紀伊国の中でも、南部の熊野地方はさらに特殊な世界であった。この地を支配していたのが、堀内氏善である。彼は単なる一地方武将ではなく、他に類を見ない複合的な権力基盤を持つ、熊野の「王」とも言うべき存在であった。
第一に、彼は 熊野水軍 を率いる海の領主であった 4 。熊野は良質な木材の産地であり、入り組んだ海岸線は天然の良港に恵まれていたため、古くから水軍が発達していた 6 。堀内氏はこの強力な海上軍事力を背景に、熊野灘の制海権を掌握していた。その力は豊臣政権下でも高く評価され、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では水軍として動員され、功績を挙げている 6 。
第二に、彼は 宗教的権威と経済力 を掌握していた。堀内氏は、全国的な信仰を集める熊野三山の俗権を司る熊野別当の家系であり、その権威は絶大であった 4 。全国から熊野詣に訪れる人々や、熊野比丘尼・熊野山伏といった宗教者ネットワークからもたらされる経済的利益は、彼の支配を盤石なものにしていた 4 。
第三に、彼は豊臣政権から公認された 政治的地位 を確立していた。天正十九年(1591年)、秀吉から「熊野惣地」に任命され、熊野一帯の支配権を公式に認められた 8 。その石高は公称2万7千石であったが、実質的には5万石から6万石に達したとされ、大名格の国人領主として熊野に君臨していた 4 。
しかし、この堀内氏の権力構造は、一見強固に見える一方で、その基盤の多くを豊臣政権という中央の巨大なシステムに依存しているという脆弱性を内包していた。熊野水軍の価値は、政権の軍事力として動員されることで発揮され、熊野別当の権威も中央の庇護があってこそ全国的な影響力を保つことができた。「熊野惣地」の地位に至っては、秀吉個人からの承認に他ならない。彼の権力は自律的・絶対的なものではなく、豊臣政権に組み込まれることで初めて安定する、いわば「衛星的」なものであった。それゆえに、慶長三年(1598年)の秀吉の死は、彼の権力基盤そのものを根底から揺るがす、運命的な出来事となったのである。
1-3. 堀内氏の拠点「堀内氏館」の実像
関ヶ原の戦い以前、堀内氏が新宮の拠点としていたのは、後の浅野氏による近世城郭「新宮城」とは全く異なる、中世的な性格を持つ「堀内氏館(堀内新宮城とも呼ばれる)」であった。
この館は、現在の新宮市千穂にある臨済宗全龍寺の一帯に位置していたとされ、山門脇には「堀内屋敷跡」の石碑が残されている 9 。江戸時代の古図などから、館の四方は水堀で囲まれた方形の居館であったことがわかっており、現在も寺の裏手を流れる水路がその名残を留めている 10 。これは、敵の侵攻を直接防ぐことを主眼とした、平地に築かれた典型的な中世の城館形式である。また、館の東側にそびえる明神山には、籠城戦に備えるための「詰城」が築かれていた可能性も指摘されている 11 。
この「館」の構造は、あくまで在地領主が自らの身と一族を守るための防御拠点としての性格を色濃く反映しており、領国全体を効率的に支配・管理し、支配者の権威を視覚的に誇示するような、後の近世城郭が持つ機能は限定的であった。この城館の姿こそ、堀内氏が地域に根差した中世以来の領主であったことの証左と言えるだろう。
第二章:運命の慶長五年(1600年)- 堀内氏善、天下分け目の決断と潰走
豊臣秀吉の死後、政権内部の対立は先鋭化し、慶長五年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立はついに天下を二分する戦いへと発展する。熊野の地にあって静観していた堀内氏善もまた、この巨大な渦の中へと否応なく巻き込まれていく。
2-1. 【7月~8月】西軍決起と氏善の選択 ― 義理か、実利か
家康が上杉景勝討伐のため会津へ軍を進めると、その隙を突いて石田三成、毛利輝元らが大坂で挙兵。全国の大名に使者を送り、家康打倒への協力を求めた 12 。熊野の堀内氏善のもとにも、三成からの勧誘が届いた。その際に提示された条件は、破格のものであった。「味方すれば、牟婁一郡八万石を与える」という約束である 13 。
これは、氏善にとって究極の選択であった。一方には、自らを「熊野惣地」として取り立ててくれた豊臣家への恩顧、すなわち秀頼への忠義(義理)がある。もう一方には、現状の石高を大幅に上回り、熊野全域の完全な支配者となれるまたとない好機(実利)があった。豊臣政権というシステムに依存することで成り立っていた彼の権力基盤を考えれば、そのシステムを維持しようとする三成方に与することは、ある意味で自然な選択であったかもしれない。氏善は、この大きな賭けに乗ることを決断し、西軍への加担を表明した。
2-2. 【8月~9月前半】伊勢湾の攻防 ― 熊野水軍、動く
西軍参加を決断した氏善は、ただちに軍事行動を開始する。兵350名を率いて本拠地の新宮を出陣し、伊勢方面へと侵攻した 1 。この兵数が比較的少ないのは、本拠地である熊野の守りを固める必要があったためと推察される。
彼の軍勢は伊勢国鳥羽城に入り、そこで西軍に与した岳父・九鬼嘉隆と合流、連携した 6 。当時、伊勢湾周辺では、東軍についた嘉隆の息子・守隆と父・嘉隆が鳥羽城を巡って攻防を繰り広げるという、親子が敵味方に分かれる複雑な戦況を呈していた。堀内氏善率いる熊野水軍の参戦は、この地域の西軍にとって心強い援軍であった。
2-3. 【9月15日】関ヶ原、激闘の僅か半日 ― 遠き戦場の報せ
氏善が伊勢で戦っている頃、遠く離れた美濃国関ヶ原では、日本の運命を決する本戦の火蓋が切られた。慶長五年九月十五日、両軍合わせて十数万が激突した戦いは、当初西軍優勢で進んだものの、昼過ぎに西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ったことで戦況は一変。これをきっかけに西軍は総崩れとなり、わずか半日にして東軍の圧勝という形で、あっけなく決着した 14 。
しかし、この決定的な情報が、数百キロ離れた各地の戦線に即座に伝わることはなかった。当時、最速の情報伝達手段は狼煙であったが、これは単純な合図しか送れない。詳細な戦況は、早馬や飛脚に頼るしかなかったが、関所や敵の妨害を乗り越えて情報を届けるには、数日を要するのが常であった 16 。この情報伝達のタイムラグが、関ヶ原から遠く離れた地で戦いを継続していた西軍諸将の、その後の悲劇的な運命を決定づけることになる。
2-4. 【9月後半】敗報、そして潰走 ― 新宮への絶望的な撤退
関ヶ原での本戦から数日後、伊勢鳥羽の陣中にいた堀内氏善のもとに、ついに西軍本隊が壊滅したという絶望的な報せが届いた 13 。勝利を信じて戦っていた彼にとって、それはまさに青天の霹靂であった。西軍の組織的抵抗が完全に終わったことを知り、彼の軍勢は統制を失い、もはや戦線を維持することは不可能となった。氏善は軍を撤退させ、本拠地である新宮へと敗走を開始した 1 。
時を同じくして、紀伊国内の情勢も急変していた。東軍として和歌山城にあった桑山一晴(一重とも)は、関ヶ原の勝利の報を受けるや、即座に行動を開始。紀伊国内に残る西軍勢力の掃討に乗り出したのである。その最大の標的は、西軍の主力として参戦した堀内氏善であった。桑山軍は、敗走する氏善を追って、その本拠地・新宮へと軍を進めた 8 。
この一連の動きは、当時の情報格差がもたらす悲劇を如実に示している。氏善は、中央で既に勝敗が決した戦争を、数日間知らずに戦い続けていた。そして彼が敗報に打ちひしがれている間に、隣国の勝者である桑山氏は、中央からの正式な命令を待つまでもなく、戦後処理の第一段階、すなわち敗者の領地を実力で制圧するという行動に打って出ていたのである。
2-5. 【9月末~10月】熊野の王、落日 ― 新宮攻防と堀内氏の終焉
命からがら新宮に帰還した氏善であったが、彼に安息の時はなかった。桑山軍の迅速な進軍を前に、もはや組織的な抵抗は不可能であった。一部の記録には「新宮城に籠城した」との記述もあるが 6 、大勢の趨勢から見て、本格的な籠城戦を行う間もなく、戦わずして拠点を放棄し「逐電(逃亡)」したというのが実情に近いと考えられている 10 。
氏善は一時、国境に近い大野山城(現在の三重県紀宝町)へ退却したが 13 、最終的には東軍に降伏した 10 。ここに、熊野に君臨した戦国領主・堀内氏の支配は、事実上終焉を迎えた。家康による戦後処理の結果、堀内氏は改易、すなわち全領地を没収されることが正式に決定した 6 。氏善にとっての「関ヶ原」とは、九月十五日の本戦そのものよりも、桑山軍が新宮に迫り、先祖伝来の地を失ったこの瞬間であったと言えよう。家康による「改易」という裁定は、既に現地で起きていたこの軍事的事実を、事後に行政手続きとして追認したものに過ぎなかったのである。
【表1:慶長五年(1600年)新宮政変の時系列表】
年月日(慶長五年) |
中央(家康・三成等)の動向 |
堀内氏善の動向 |
紀伊国内(桑山氏等)の動向 |
7月17日 |
三成ら、家康への弾劾状を諸大名に発す(西軍決起) |
(情報収集と情勢分析) |
(東軍参加を表明) |
8月頃 |
- |
石田三成の勧誘を受諾、西軍参加を決断 |
- |
8月下旬~9月上旬 |
東軍、西へ進軍。前哨戦が各地で発生 |
兵を率いて伊勢方面へ出陣。鳥羽城の九鬼嘉隆と連携 |
和歌山城にて臨戦態勢 |
9月15日 |
関ヶ原の戦い。東軍勝利、西軍壊滅 |
伊勢鳥羽にて戦闘継続中 |
- |
9月17日頃 |
佐和山城陥落。三成捕縛へ |
鳥羽にて西軍敗報に接し、軍を撤退。新宮へ敗走 |
新宮への進軍準備を開始 |
9月下旬 |
家康、大坂城へ入城。戦後処理を開始 |
新宮に帰還するも、桑山軍の来攻を前に抵抗を断念し逃亡(あるいは降伏) |
新宮へ向け進軍、堀内氏の拠点を制圧 |
10月 |
浅野幸長の紀伊国拝領が内定 |
捕縛され、加藤清正預かりとなることが決定 |
紀伊国内の西軍残党勢力を掃討 |
第三章:戦後処理と新時代の支配者 ― 浅野氏の入部
関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わると、直ちに大規模な戦後処理、すなわち論功行賞と西軍参加大名への処罰が行われた。これは日本の領土を再編する一大事業であり、熊野地方もその例外ではなかった。
3-1. 論功行賞と紀伊国の新体制
関ヶ原の戦勝により天下の実権を完全に掌握した家康は、西軍に与した大名に対し、改易88家、減封4家という苛烈な処分を下した 18 。これにより捻出された広大な領地は、東軍で功績のあった大名たちに再分配され、徳川の世の礎が築かれていった。
この一環として、堀内氏が改易された後の紀伊国37万6千石は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍として戦功を挙げた浅野幸長に与えられることとなった 22 。これは、単なる恩賞という意味合いだけでなく、大坂城に残る豊臣秀頼を牽制し、畿内を安定させるための極めて戦略的な配置であった。
3-2. 新宮の新領主、浅野忠吉
紀伊一国の国主となった浅野幸長は、和歌山城を本拠とした。そして、その広大な領地のうち、南部の要衝である新宮には、幸長の一門であり重臣でもある浅野忠吉が3万5千石の領主として入部することが決定した 11 。
これは、熊野地方の統治体制における画期的な変化であった。これまでの堀内氏のような、地域社会に深く根を張り、半ば独立した国人領主による支配から、中央の大名家から派遣された家臣(給人)による、より直接的で官僚的な支配へと移行したのである。戦国の世が終わり、幕藩体制という新たな秩序が、この紀伊国の最南端にまで及んだ瞬間であった。
3-3. 敗者たちのその後
一方、敗者となった堀内氏善のその後は、波乱に満ちたものであった。改易後、その身柄は肥後熊本城主・加藤清正に預けられることとなった 10 。彼は清正のもとで宇土城代などを務めたとされ、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した年に、その生涯を閉じた 6 。
しかし、堀内家の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。氏善の息子たちは、慶長十九年(1614年)に大坂冬の陣が起こると、豊臣方の招きに応じて大坂城に入城した 1 。彼らは旧臣たちを率いて奮戦したが、翌年の夏の陣で豊臣家は滅亡する。もはや万事休すかと思われたが、そのうちの一人が、燃え落ちる大坂城から脱出する千姫(徳川秀忠の娘)一行に遭遇し、彼女を家康の本陣まで無事に送り届けるという奇功を立てた。この功績により罪を許され、旗本として徳川家に仕える道が開かれたという 6 。関ヶ原で一度は全てを失った堀内家が、最後の最後に見せたしたたかな生き残り様は、乱世の終焉を象徴する一つの逸話として興味深い。
第四章:新時代の象徴-浅野忠吉による新宮城の築城
新宮の新領主となった浅野忠吉に課せられた使命は、旧領主の痕跡を消し去り、新たな支配体制をこの地に確立することであった。その最も象徴的な事業が、全く新しい城の建設、すなわち近世城郭「新宮城」の築城であった。
4-1. 新たな拠点、丹鶴山へ
慶長六年(1601年)、浅野忠吉は築城に着手する 25 。彼が城地に選んだのは、堀内氏が拠点とした平地の居館ではなかった。熊野川が太平洋に注ぐ河口に突き出し、港と城下町を一望できる小高い丘、丹鶴山であった 23 。
この場所の選定には、明確な意図があった。堀内氏の館のような自己防衛を主眼とした内向きの拠点ではなく、領国全体、特に海上交通の要衝である港を効率的に支配・管理するという、近世的な統治思想が色濃く反映されている。平城から平山城へという立地の変化は、支配のあり方が中世から近世へと移行したことを物語っている。
4-2. 最新技術の粋 ― 近世城郭としての新宮城
浅野忠吉が築いた新宮城は、その構造においても旧来の城館とは一線を画していた。それは、関ヶ原の戦い以降に本格的に普及した「打込み接ぎ」という技法で築かれた、高く堅固な石垣を誇る、当時の最新技術の粋を集めた近世城郭であった 23 。
土塁と水堀を主とした堀内氏館が、在地領主の「住まい兼防御施設」であったのに対し、天守や櫓を配した総石垣の新宮城は、支配者の圧倒的な権威と軍事力を領民や往来する船に示す、いわば「見せる城」としての性格を強く持っていた。この壮麗な城郭の出現は、熊野の支配者が、もはや地域社会と地続きの存在ではなく、中央権力と結びついた超越的な存在へと変わったことを、誰の目にも明らかにした。
4-3. 一国一城令の危機と特例による再建
順調に進むかに見えた築城事業は、元和元年(1615年)、大きな危機を迎える。徳川幕府が全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じた「一国一城令」の発布である 22 。この法令に従えば、紀伊国の城は和歌山城のみとなり、新宮城は取り壊されなければならなかった。
しかし、新宮城は特例として存続を許される。その理由は、紀伊南部が北山一揆に代表されるように、依然として反抗的な気風が強く、不安定な地域であったため、「一揆発生の恐れがある」という軍事的な必要性が幕府に認められたからであった 13 。この事実は、新宮城が単なる浅野家の支城ではなく、徳川の天下、すなわち幕藩体制の安定にとって不可欠な戦略拠点として、幕府自身に認識されていたことを示している。
4-4. 浅野から水野へ ― 受け継がれる築城事業
元和五年(1619年)、浅野氏は安芸広島42万石へと加増移封されることになった 28 。この時、新宮城はまだ完成には至っていなかった 29 。浅野氏に代わって紀伊国に入ったのは、徳川家康の十男・徳川頼宣であった。そして、新宮には頼宣の付家老として水野重仲が入った 23 。
水野重仲は、浅野忠吉が始めた築城事業をそのまま引き継ぎ、工事を継続した 25 。そして、浅野氏の着工から30年以上が経過した寛永十年(1633年)、二代城主・水野重良の代になって、ようやく壮麗な平山城として新宮城は完成の時を迎えたのである 23 。
この二つの城、すなわち堀内氏館と浅野・水野氏の新宮城の間に横たわる断絶こそが、「新宮城改修」という事象の核心である。それは、単なる城の姿の変化ではない。城に求められる役割、すなわち「時代」そのものが変わったことの証左なのである。
【表2:堀内氏館と浅野氏新宮城の比較】
項目 |
堀内氏館(旧) |
浅野氏・水野氏 新宮城(新) |
比較から見える時代の変化 |
時代区分 |
戦国時代(中世) |
江戸時代初期(近世) |
中世から近世への移行 |
立地 |
平城(居館形式) |
平山城(丹鶴山) |
防衛拠点から、領国経営・海上監視を重視した拠点へ |
主たる構造 |
土塁、水堀 |
総石垣(打込み接ぎ)、天守、櫓 |
権威の象徴としての「見せる城」へ。土木技術の飛躍的進歩 |
築城者 |
在地領主・堀内氏 |
中央大名(浅野氏)、幕府重臣(水野氏) |
支配者が地域に根差した国人から、中央派遣の官僚へ |
戦略的役割 |
堀内氏の個人的な本拠地 |
紀伊南部の統治・軍事拠点、対一揆・海上監視 |
支配の目的が、個人的な領域保持から幕藩体制の維持へ |
縄張り |
比較的単純な方形館 |
本丸、二ノ丸、松ノ丸など複雑な曲輪配置 |
より高度で体系的な防衛思想と、城下町を含めた都市計画 |
結論:1600年「新宮城改修」の歴史的意義
慶長五年(1600年)に端を発する「新宮城改修」とは、その言葉の穏やかな響きとは裏腹に、関ヶ原の戦いという天下の動乱に直結した、熊野地方における支配者の劇的な交代劇であった。それは、熊野の地に深く根を張り、水軍力と宗教的権威を背景に半ば独立を保ってきた中世以来の在地領主・堀内氏善の時代の終わりと、中央から派遣された近世大名の家臣・浅野氏に始まる新たな支配の時代の始まりを画する、画期的な事件であった。
浅野忠吉による全く新しい新宮城の築城は、単なる建築事業ではない。それは、徳川家康が構想した新しい天下の秩序、すなわち幕藩体制という巨大なシステムを、紀伊国の最南端という辺境の地にまで浸透させるための、国家的プロジェクトの一環であったと位置づけられる。丹鶴山にそびえ立つ堅固な石垣は、一揆勢力に対する物理的な防御壁であると同時に、新しい時代の到来を告げ、古い秩序への回帰を断固として許さないという、徳川の天下の意志を雄弁に物語る象徴でもあった。
したがって、「新宮城改修」という一見地味な事象は、戦国乱世の終焉と、それに続く二百六十余年の泰平の世を支える新たな秩序の構築という、日本の歴史における巨大な転換点を、地方レベルで鮮やかに映し出した、極めて象徴的な出来事だったのである。
引用文献
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- 戦国!室町時代・国巡り(9)紀伊編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n773451d5658f
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- 14.敗者・石田三成の最期を追う 関が原から古橋へ | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=3712
- 三成VS家康~天下分け目の関ヶ原 | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト https://kitabiwako.jp/spot/spot_13985
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- 徳川家康 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%87%A6%E9%81%87%E3%81%A8%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%B8/
- 関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は? https://toyokeizai.net/articles/-/187790?display=b
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