最終更新日 2025-09-26

方役免除朱印状(1588)

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天正十六年京都における「方役免除」の実像:豊臣秀吉の都市改造と経済統制

序章:問いの再設定 —「方役免除朱印状」とは何か

クエリの再検証と用語の定義

天正16年(1588年)、豊臣秀吉が発したとされる「方役免除朱印状」は、戦国時代の終焉と近世日本の幕開けを象徴する一連の政策群の中で、極めて重要な位置を占める。しかし、この政策の真髄を理解するためには、まず「方役」という言葉そのものを歴史的文脈の中で正確に捉え直す必要がある。

提供された情報からは、「方役(役方)」という用語が、主として江戸時代の幕府や諸藩における文官職の系統を指す言葉として用いられていることがわかる 1 。これは軍事系統の「番方」と対をなす職制上の区分であり、戦国期の京都において商工業者が負担していた税や役務とは直接的な関連性が薄い 3 。当時の京都の住民、特に商工業者が負担していたのは、屋敷地に対して課される土地税である**「地子銭(じしせん)」

や、その他雑多な公的負担である 「諸役(しょやく)」**であった 5

したがって、本報告書では、利用者からの問いの本質を「天正16年(1588年)前後に豊臣秀吉が京都の商工業者に対して行った 地子銭および諸役の免除政策 」と再定義し、議論を進める。これは単なる用語の修正ではない。政策の真の対象と目的を正確に捉え、秀吉の国家構想の深層に迫るための、分析的かつ不可欠な第一歩である。この政策の核心は、中世以来、公家、寺社、武家などがモザイク状に保有していた複雑な徴税権を、秀吉という単一の絶対権力者が無効化し、都市の経済構造そのものを根底から再編成しようとした点にある 5

議論の前提を明確にするため、まず戦国期京都における主要な税・役務について以下の表に整理する。

【表1:戦国期京都における主要な税・役務の比較】

名称

内容

課税対象

主な徴収者

時代背景

地子銭 (じしせん)

都市の屋敷地(土地)に対して課された税。一種の固定資産税。

京都市中の町屋、屋敷地

公家、寺社、武家など(土地の領主)

中世以来の荘園制の名残。徴収権が複雑に入り組んでいた 5

諸役 (しょやく)

地子銭以外の雑多な公役や臨時税。普請役(土木工事)や伝馬役(輸送)など。

町人、職人、農民など

幕府、守護大名、その他権力者

戦乱や事業の際に臨時に課されることが多かった 7

関銭 (せきせん)

関所を通過する際に徴収された通行税。

旅人、商人、物資(人、馬、荷物ごと)

関所を設置した寺社、大名など

物流の大きな障害となっていた。織田信長や秀吉は撤廃を進めた 7

方役 (かたやく)

(参考) 江戸時代の文官職の総称。財務、行政、司法などを担当。

幕府・藩に仕える武士

幕府、藩

本報告書の主題である戦国期の都市税制とは異なる概念 1

天正16年(1588年)の歴史的座標

天正16年(1588年)という年は、豊臣秀吉の天下統一事業が最終段階に入った、画期的な年であった。前年の天正15年(1587年)には九州を平定し、その権力は西日本全域に及んでいた 9 。そして二年後の天正18年(1590年)には小田原の北条氏を滅ぼし、名実ともに関白秀吉による天下統一が完成する 10 。まさにこの1588年は、秀吉の権力が頂点へと駆け上がる過程の、極めて重要な転換点に位置していた。

この年に、秀吉は二つの大きな全国的政策を打ち出している。一つは、同年7月に発布された 刀狩令 である 10 。そしてもう一つが、本報告書の主題である京都における

地子銭免除 である。前者が農民の武装を解除し、社会秩序を固定化する「統制」の政策であるとすれば、後者は都市の経済活動を解放し、活性化させる「振興」の政策であった。この二つの政策が同じ年に並行して推進されたことは決して偶然ではない。これらは、秀吉の描く新たな国家像を実現するための、表裏一体の戦略であった。本報告書では、この地子銭免除政策を、戦国乱世の終焉と近世的支配体制の構築という壮大な文脈の中に位置づけ、その多角的な意味を時系列に沿って解き明かしていく。

第一部:焦土からの胎動 — 政策発布以前の京都

豊臣秀吉が京都に壮大な都市改造の鍬を入れる以前、この都は一度、文明の灰燼に帰していた。秀吉の政策が何に対する応答であったのかを理解するためには、応仁の乱による破壊と、その後の市民による驚くべき再生の歴史をまず振り返らねばならない。

第一章:応仁の乱と「灰燼の都」

応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけての11年間にわたる応仁の乱は、京都の歴史における最大の災禍であった 13 。足利将軍家の後継者問題と有力守護大名である細川氏・山名氏の対立が結びつき、全国の大名を巻き込む大乱へと発展した 14 。その主戦場となったのが、首都・京都であった。

東軍16万、西軍9万ともいわれる兵力が市中で衝突し、京都の市街地は文字通り焼け野原と化した 13 。特に戦闘は最初の数年間に集中し、寺社仏閣、公家や武家の邸宅、そして無数の町屋が炎に包まれた 15 。この戦乱によって室町幕府の権威は完全に失墜し、京都は政治の中心地としての機能を事実上喪失した 15

この破壊は、単に物理的な建造物の焼失に留まらなかった。それは、中世を通じて維持されてきた社会秩序そのものの崩壊を意味した。公家や寺社は荘園からの収入基盤を失い、都市における複雑な土地所有の秩序もまた大混乱に陥った。しかし、この徹底的な破壊が、逆説的にも後の豊臣秀吉による大胆な都市再編の素地を作った側面も否定できない。既存の権益構造が一度リセットされたことで、新たな権力者による抜本的な都市計画が可能となったのである。

第二章:町衆の時代 — 自治都市としての再生

権力の中枢が麻痺し、空白地帯となった京都で、都市復興の主役として歴史の表舞台に登場したのが、経済力を蓄えた商工業者層**「町衆(ちょうしゅう)」**であった 18 。彼らは、戦乱で荒廃した都を自らの手で再建し始めた。

町衆は、各町を単位とする自治組織「町組」を結成し、上京と下京という二つの市街地を核として、自衛と町の運営を行った 19 。彼らは堀や土塁を築いて町を防衛し、独自の掟を定めて治安を維持した。応仁の乱で中断していた祇園祭の山鉾巡行を再興させたことは、彼らの経済力と文化的気概、そして都市への帰属意識の高さを示す象徴的な出来事であった 18

この時代の京都は、特定の支配者を待たずして、市民自身の力で再生を遂げた「自治都市」としての性格を色濃く持っていた。この事実は、後に登場する秀吉のトップダウン型の都市計画との関係性を考える上で極めて重要である。秀吉が対峙したのは、単なる焼け跡ではなく、独自の秩序と経済力、そして強い自治の伝統を持つ「生きた都市」だったのである。秀吉の政策は、この町衆が築き上げたエネルギーを認め、巧みに利用しつつも、最終的にはその自治権を解体し、自身の絶対的な支配下に再編成していくプロセスであったと言える 6

第二部:天下人の都市構想 — 豊臣秀吉と京都大改造

織田信長の後継者として天下統一事業を推し進めた豊臣秀吉にとって、京都は単なる古都ではなかった。それは、自らの絶大な権威を天下に示すための壮大な舞台装置であり、新たな時代の政治・経済の中心地として再創造されるべき対象であった。天正13年(1585年)に関白に就任して以降、秀吉は強大な権力を背景に、京都の姿を根底から作り変える大規模な都市改造事業に着手する 6

第一章:新たな支配者の登場と聚楽第

秀吉の京都改造の象徴であり、その拠点となったのが、天正15年(1587年)に完成した**聚楽第(じゅらくだい)**である 18 。内裏の跡地に建設されたこの城郭風の邸宅は、金箔瓦が輝く豪華絢爛なものであったと伝えられる 20 。天正16年(1588年)4月には後陽成天皇の行幸を仰ぎ、その威容を公家や諸大名に誇示した。

聚楽第の建設は、単なる邸宅の造営に留まらない、高度な政治的意図を持っていた。それは、秀吉が朝廷の伝統的権威を保護し、その上に立つ存在であることを示威するものであった。同時に、天皇を迎え入れる政庁として機能することで、京都における実質的な支配者が誰であるかを天下に宣言するものでもあった 18 。聚楽第は、新たな時代の幕開けを告げる、壮麗なモニュメントだったのである。

第二章:京都の城塞都市化と空間の再編成

秀吉は、京都を単なる政治・経済の中心地としてだけでなく、有事の際には天下人の本拠地を守る巨大な城塞都市として改造しようとした。その構想を具現化したのが、以下の三つの巨大プロジェクトである。

御土居の築造

天正19年(1591年)、秀吉は京都の市街地をぐるりと囲む壮大な土塁**「御土居(おどい)」**の建設を命じた 21 。全長約22.5キロメートル、高さ5メートル、幅20メートルにも及ぶこの巨大な土塁は、驚くべきことにわずか数ヶ月で完成したと伝えられる 21 。御土居は、敵の侵攻から都を防衛するという軍事的な目的と、鴨川の氾濫から市街地を守る治水という二つの機能を兼ね備えていた 21 。さらに重要なのは、御土居が都市の内部「洛中」と外部「洛外」を物理的に区切る明確な境界線となったことである。これにより、京都の都市範囲が初めて確定され、秀吉の支配が及ぶ領域が視覚化された。

寺院の強制移転

次に秀吉は、市中に散在していた多数の寺院に対し、特定の地域への強制移転を命じた。これにより、鴨川の東岸に**寺町(てらまち) が、そして聚楽第の北側には 寺之内(てらのうち)**という、二つの巨大な寺院街が形成された 24 。この政策には複数の狙いがあった。第一に、都市景観を整理し、寺院跡地を新たな町人地として開発すること。第二に、かつては大きな勢力を誇った寺社勢力を一箇所に集めて管理し、その力を削ぐこと。そして第三に、御土居の内側に寺院群を配置することで、有事の際の防衛ラインとして利用することであった 23

天正地割による都市区画整理

さらに秀吉は、**天正地割(てんしょうじわり)**と呼ばれる大規模な都市区画整理を断行した 21 。これは、平安京以来の正方形の街区(ブロック)の中央に、新たに南北の通り(「突抜(つきぬけ)」)を設けるというものであった 6 。この改革により、一つの大きな正方形の区画は、二つの短冊形の区画に分割された。その結果、これまで道路に面していなかった区画内部の土地も開発可能となり、土地利用の効率が飛躍的に向上した 26 。これにより、より多くの家屋を建てることが可能となり、人口の増加と商業の活性化を促した 21 。現代の京都に見られる「うなぎの寝床」と称される、間口が狭く奥行きの深い町家の様式は、この天正地割にその原型を見ることができる。

これら一連の政策が、いかに計画的かつ集中的に実行されたかを理解するために、以下の年表を参照されたい。

【表2:豊臣秀吉による京都改造と関連政策の時系列年表】

西暦 (和暦)

京都・中央での出来事

関連する全国政策・動向

1585年 (天正13)

秀吉、関白に就任。京都での都市改造に着手。

四国平定。

1586年 (天正14)

聚楽第の建設開始。

秀吉、豊臣姓を賜る。

1587年 (天正15)

聚楽第が完成。北野大茶湯を開催。

九州平定。バテレン追放令を発布。

1588年 (天正16)

後陽成天皇、聚楽第に行幸。 京都における地子銭免除政策の開始。

刀狩令を全国に発布 11

海賊停止令を発布 11

1590年 (天正18)

天正地割による区画整理を本格化 24

小田原征伐。天下統一を達成 10

1591年 (天正19)

御土居を築造 22 。寺町の形成を開始。

千利休に切腹を命じる。

1592年 (文禄元)

伏見城の建設を開始。

文禄の役(朝鮮出兵)を開始 11

この年表が示すように、1588年の地子銭免除は、孤立した経済政策ではなかった。それは、聚楽第行幸による権威の誇示、そして刀狩令による全国的な社会統制という、巨大な政治的・社会的変動の渦中で、精密に計算されたタイミングで実行された、壮大な国家改造プロジェクトの一環だったのである。

第三部:天正十六年(1588年)の激動 — 統制と振興の二重奏

天正16年(1588年)は、豊臣秀吉の治世において、そして日本の歴史全体においても、決定的な転換点となった年である。この年、秀吉は社会の根幹を揺るがす二つの対照的な政策、すなわち「刀狩令」と「地子銭免除」を相次いで打ち出した。一方は社会から武力を奪い身分を固定化する「静」の政策であり、もう一方は都市に資本と人材を集中させ経済を流動化させる「動」の政策である。この二つの政策を同時に推進したことこそ、秀吉の統治の巧みさであり、戦国乱世を終わらせ近世社会を創出するための、計算され尽くした国家戦略であった。

第一章:刀狩令 — 兵農分離の徹底

天正16年7月、秀吉は「刀狩令」を全国に布告した 10 。その条文では、百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲などの武具を所持することを固く禁じている 9 。表向きの理由として、没収した武具は京都に建立する方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)に再利用するためであり、それによって百姓は現世のみならず来世まで救われる、という宗教的な大義名分が掲げられた 9

しかし、その真の目的は、大きく二つあった。第一に、百姓を武装解除させることで、年貢の徴収に抵抗したり、団結して一揆を起こしたりする力を根絶することである 9 。農民出身である秀吉は、民衆が武器を持った時の恐ろしさを誰よりも熟知していた 10 。第二に、百姓を農耕に専念させ、安定した食糧生産と税収基盤を確保することである。

この刀狩令は、武士のみが帯刀する特権を持つという状況を創出し、武士と百姓の身分を明確に分離する**「兵農分離」**を社会の隅々にまで徹底させる決定的な政策となった 27 。これにより、才能次第で誰もが成り上がれた下剋上の時代は終わりを告げ、身分が固定化された安定的な社会構造への道が拓かれたのである。

第二章:経済政策としての「地子銭免除」

刀狩令という強力な「統制」の政策と並行して、秀吉は、特に首都・京都において大胆な「振興」の政策を展開した。それが、京都市中の家屋敷に対する 地子銭の永代免除 である 5

前述の通り、地子銭とは中世以来、都市の屋敷地の所有者(領主)が住民から徴収していた土地税である。応仁の乱後の京都では、この地子銭の徴収権は公家、有力寺社、武家などが複雑に入り組んだ形で保持しており、都市経済の自由な発展を阻害する一因ともなっていた 5

秀吉は、朱印状を発することにより、これら旧来の領主たちが持っていた地子銭の徴収権を、天下人の権威をもって一方的に無効化した。その際、地子銭収入を失う公家や寺社には、代わりとなる土地(替地)を洛外に与えるという措置を取っている 6 。この政策により、京都の商工業者たちは、土地にかかる恒常的な税負担から完全に解放されることになった 5

この画期的な政策には、秀吉の深謀遠慮が見て取れる。

  1. 経済の活性化と資本の誘致: 税負担がなくなることは、商工業者にとって直接的な利益増に繋がる。この「減税」は、京都が「日本で最も商売のしやすい街」であるという強力なメッセージとなり、全国から野心的な商人や優れた技術を持つ職人を引き寄せる強力な誘因となった 5
  2. 巨大プロジェクトの財源確保: 活性化した商業から生まれる莫大な富は、運上金・冥加金といった形や、御用商人への大規模な発注を通じて、結果的に秀吉政権の巨大な財源となる。聚楽第や伏見城の建設、そして後の朝鮮出兵といった国家的大事業の経費を賄うためには、強力な経済基盤が不可欠であった 5
  3. 一元的支配体制の確立: 地子銭を徴収していた公家や寺社といった中世的権力を、その経済基盤から切り離し、無力化する。これにより、京都の土地と住民に対する支配権を、秀吉ただ一人の下に集中させる。これは、経済政策の顔をした、極めて高度な政治的支配権の掌握であった 6

このように、刀狩令と地子銭免除は、秀吉の国家構想における車の両輪であった。武力による反抗の可能性を「刀狩り」で完全に摘み取った上で、経済的な自由(減税)を「地子銭免除」で与える。これにより、民衆のエネルギーは反乱ではなく経済活動へと誘導される。そして、その経済活動から生まれる富を、秀吉は政商などを通じて掌握し、自身の権力基盤をさらに強固なものにしていく。これは、支配体制を盤石にするための、計算され尽くした「アメとムチ」のパッケージディールだったのである。

第四部:時系列で見る政策の影響と京都の変貌

天正16年(1588年)の地子銭免除政策は、京都の社会経済構造に即時的かつ永続的な影響を及ぼした。それは、単に税がなくなったという以上の、都市の性格そのものを変容させる巨大なインパクトを持っていた。その影響は、短期的な経済の活性化から、豪商の台頭、そして近世都市京都の完成へと、時代を経て重層的に現れていく。

朱印状発布直後(1588年〜):商人と資本の集積

地子銭免除の報は、京都の商工業者、特に自治を担ってきた町衆にとって、画期的な恩恵であった。土地という生産・商業活動の基盤にかかる恒常的なコストから解放されたことで、彼らは余剰資金を事業への再投資や規模拡大に振り向けることが可能となった 5

この政策は、京都が「商売のしやすい街」であるという評判を全国に轟かせた。戦国の動乱を生き抜いてきた各地の商人や職人たちは、安定と商機を求めて続々と京都へ移住してきた 5 。この人口流入は、秀吉が進めていた天正地割によって生み出された新しい町人地を急速に埋め尽くし、都市の活気を一気に高めた 21 。京都は、再び日本の経済活動の中心地として、かつてないほどの熱気を帯び始めたのである。

短期的影響(〜1590年代):巨大プロジェクトを支える経済基盤

京都に集積した商人資本と高度な職人技術は、秀吉が次々と推し進める巨大事業を支える強力なエンジンとなった。御土居の築造、方広寺大仏殿の建立、そして晩年の拠点となる伏見城の建設など、いずれも莫大な資金と労働力、そして物資を必要とするプロジェクトであった 5

この過程で、秀吉政権と密接に結びつき、莫大な富を築く**豪商(ごうしょう)**が台頭する。その代表格が、角倉了以(すみのくらりょうい)や茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)である 5 。彼らは秀吉から特権的な保護を受け、朱印船貿易などで巨万の富を築き上げた 23 。彼らのような「政商」は、単なる商人ではなく、秀吉の財政を支え、物資調達やインフラ整備を請け負う、国家プロジェクトの重要なパートナーであった。地子銭免除によって育まれた商業資本が、天下人の野望を実現するための血肉となったのである。

長期的影響(江戸時代へ):近世都市京都の完成

秀吉の一連の都市改造と経済政策は、中世以来の自治都市であった京都を、天下人の絶対的な支配下にある 近世城下町 へと根本的に変貌させた 6

この変革は、町衆のあり方にも決定的な変化をもたらした。かつて彼らが持っていた、自衛権を含む政治的・軍事的な自治権は、刀狩令や御土居による都市管理の強化によって剥奪された。その代償として与えられたのが、地子銭免除という経済的な自由であった。これは、彼らが「自治を担う市民」から、国家の経済システムに組み込まれた「経済活動を担う市民」へと役割を転換させられたことを意味する。彼らのエネルギーは、もはや独立した政治的主体としてではなく、秀吉が構築した新たな秩序の中の一機能として、国家の富を生み出す方向へと巧みに統合されたのである。

しかし、その経済的活力は失われることなく、むしろ新たな秩序の中で洗練されていった。京都は、西陣織に代表されるような高級手工業品の一大生産地として、江戸時代を通じて日本の文化と経済を牽引し続けることになる 25 。秀吉が創り上げた都市の骨格、すなわち天正地割による道路網や区画、寺町といった空間構成は、その後の江戸幕府による二条城の建設などを経て、現代の京都の景観にも色濃く受け継がれている 23

結論:戦国時代の終焉と近世京都の黎明

本報告書で「地子銭免除」として詳細に分析した天正16年(1588年)の政策は、単なる減税や景気刺激策という一面的な評価に留まるものではない。それは、豊臣秀吉が描いた新たな国家像を実現するための、多角的かつ複合的な国家戦略であった。この政策の歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、それは 中世的な土地所有関係とそれに付随する権益構造の解体 であった。公家や寺社が保持してきた地子銭の徴収権を無効化することで、秀吉は京都における土地支配を自身の権力下に一元化した。これは、経済政策の形を取りながら、中世以来の荘園制の残滓を都市から一掃し、近世的な一円支配を確立する、極めて政治的な行為であった。

第二に、この政策は、同年に発布された刀狩令と連動し、 身分制社会の再編成を加速 させる役割を果たした。刀狩令が武士と百姓を明確に分離し、社会の流動性を抑制したのに対し、地子銭免除は商工業者を都市に集積させ、経済活動に特化させた。これにより、「武士は治める者、農民は生産する者、商工業者は流通と製造を担う者」という、近世的な身分役割分担が都市において確立されたのである。

第三に、それは秀吉による壮大な 都市改造事業と一体不可分 のものであった。地子銭免除によって誘致された資本と人材は、聚楽第、御土居、伏見城といった巨大プロジェクトを推進する原動力となった。秀吉は、商人の経済的欲望を解放し、それを巧みに利用することで、自身の権威を象徴する物理的な都市空間を創造し、国家の力を増幅させるシステムを構築した。これは、武力のみに頼る支配から、経済と都市計画を駆使した、より高度でシステム的な国家統制への移行を象徴している。

応仁の乱によって一度灰燼に帰した京都は、町衆の力によって自律的な再生を遂げた後、豊臣秀吉という絶対的な権力者によって、再びその姿を大きく変えた。秀吉の京都大改造は、この都市に新たな秩序と骨格を与え、その後の繁栄の礎を築いた 22 。天正16年(1588年)は、戦国時代の混沌とした京都が終わりを告げ、天下人の支配下で秩序づけられた近世都市京都が誕生した、まさに画期的な年であったと結論づけることができる。

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