最終更新日 2025-09-24

日田代官所設置(1601)

慶長6年、徳川家康は九州支配の要として日田に代官所を設置。西軍の小川光氏を任命し丸山城を築城。島津氏牽制と外様大名監視を目的とした戦略的布石で、後の天領日田の礎となった。
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慶長六年 日田代官所設置の真相:戦国終焉の動乱と徳川覇権確立の戦略的布石

序論:戦国から江戸へ — 時代の転換点としての日田

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原における激闘は、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わり、日本の権力構造を根底から覆す歴史的転換点となった 1 。この勝利により、家康は豊臣政権を瓦解させ、天下統一の事業を事実上完成させたが、その支配は未だ盤石ではなかった。特に、中央から遠く離れた九州地方は、島津、黒田、加藤といった豊臣恩顧の強力な外様大名が割拠し、家康にとって最も慎重な対応を要する戦略地域であった。

本報告書は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に行われた豊後国日田における徳川方拠点の設置、通称「日田代官所設置」という事象を、単なる行政区画の変更として捉えるのではなく、家康による九州平定と長期的な支配体制構築のための、深謀遠慮に満ちた「楔」を打ち込む行為であったことを解き明かすものである。戦国の遺風が色濃く残る混沌とした情勢下で、この一手がいかにして打たれ、その後の九州、ひいては徳川二百六十年の泰平に繋がっていったのか。そのリアルタイムな過程を、戦国時代という視座から徹底的に分析する。

第一章:天下分け目の余波 — 九州における権力地図の再編

日田への拠点設置という決断が下される直接的な背景には、関ヶ原の戦いが九州にもたらした政治的・軍事的激動が存在した。本戦の勝敗が決した後も、九州では「もう一つの関ヶ原」が繰り広げられ、その戦後処理こそが、日田の新たな役割を決定づけたのである。

第一節:関ヶ原本戦と九州諸大名の処遇

関ヶ原における東軍の勝利は、西軍に与した大名たちに苛烈な運命をもたらした。首謀者と見なされた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは京都六条河原で斬首され、その首は三条大橋に晒された 3 。西軍の総大将であった毛利輝元は、安芸広島120万石から周防・長門の二国およそ30万石へと大幅に減封され、宇喜多秀家をはじめとする多くの西軍大名は領地を没収される改易処分となった 2

この権力地図の再編は、九州においても例外ではなかった。宇土城主であったキリシタン大名の小西行長は処刑され、その領地は没収された。筑後柳川城主の立花宗茂、豊前小倉城主の毛利勝信らも改易の憂き目に遭った。この結果、九州各地には主を失った広大な没収領(蔵入地)が生まれ、徳川家康が直接介入し、新たな支配体制を構築する政治的・物理的な余地が創出された。それは、既存の勢力関係を一掃し、徳川の意のままに新たな秩序を築き上げるための、またとない好機であった。

第二節:「九州の関ヶ原」石垣原の戦いの時系列詳解

中央での関ヶ原の戦いとほぼ時を同じくして、九州、特に豊後国では、旧領回復を目指す勢力と徳川方についた勢力との間で激しい戦闘が繰り広げられていた。これが世に言う「石垣原の戦い」である。

  • 慶長五年(1600年)九月九日: 関ヶ原へ主力を率いて出陣した黒田長政に代わり、父である黒田如水(官兵衛孝高)が豊前中津城の留守居役を務めていた。如水は、長年蓄えた金銀を惜しげもなく放出して浪人3600人余りを雇い入れ、留守番の兵や領内の百姓・商人を動員して約9000人の軍勢を急遽編成。豊後国への侵攻を開始した 5
  • 九月十三日: 毛利輝元の支援を受け、文禄の役の失態で改易されていた旧豊後国主・大友義統が、旧領回復の好機と捉え挙兵。豊後国速見郡石垣原(現在の大分県別府市)において、黒田如水軍と大友義統軍が激突した 5 。兵力では黒田軍約10000に対し大友軍は約2000と劣勢であったが、旧領回復という大義に燃える大友軍の士気は高く、緒戦では黒田軍を押し返すほどの奮戦を見せた 6
  • 九月十五日: しかし、兵力で勝る黒田軍は、疲弊した大友軍に猛攻を仕掛け、ついにこれを総崩れへと追い込んだ。大友方の有力武将が次々と討ち死にし、勝敗は決した 8 。大友義統は自刃を覚悟するも家臣に諭されて降伏。奇しくもこの日は、美濃関ヶ原で本戦の雌雄が決した日でもあった 5

この石垣原の戦いは、九州における徳川支配の確立に大きな影響を与えた。黒田如水の行動は、家康の直接的な指示に基づくものではなく、一説には九州全土を平定して家康と天下を争うという、彼自身の野心から生じたものとも言われている 5 。しかし、意図せずしてこの行動は、家康にとって極めて好都合な状況を生み出した。如水が旧大友勢力を一掃した結果、広大な豊後国は既存の在地勢力から切り離された一種の「権力の空白地帯」となったのである。これは、家康が自らの息のかかった人物を直接送り込み、九州支配の橋頭堡を築くための絶好の機会を提供したに他ならなかった。如水の功績は認めつつも、その野心を警戒する家康にとって、黒田家とは無関係の、徳川直系の統治者を豊後の中心地・日田に置くことは、論理的な帰結であった。石垣原の戦いは、家康の日田介入の「口実」と「機会」を同時に創出したのである。

第三節:島津氏への異例の対応と九州統治の課題

九州におけるもう一つの大きな懸案事項は、薩摩の島津氏の存在であった。島津義弘率いる部隊は、関ヶ原の戦場で西軍として最後まで奮戦し、東軍の大軍の中を正面突破して戦場を離脱するという離れ業(島津の退き口)を演じた 9 。多大な犠牲を払いながらも薩摩へ帰還した義弘は、国境を固めて徳川への徹底抗戦の構えを見せた 11

家康は当初、島津討伐軍を派遣する強硬な姿勢を示したが、一方で関ヶ原で島津軍に重傷を負わされた井伊直政らを仲介役として、粘り強い和平交渉を続けた 11 。最終的に、関ヶ原の戦いから二年後の慶長七年(1602年)、家康は島津氏の所領を安堵するという異例の措置で決着させた 12 。これは、西軍の主要大名の中では唯一のことであり、強大な島津氏を武力で完全に屈服させることの困難さと、それに伴うリスクを家康が冷静に判断した結果であった。

この島津氏への対応は、家康の九州統治戦略の転換を意味していた。すなわち、武力による完全な「制圧」ではなく、政治的・地理的な拠点からの「監視」と「牽制」によって九州の安定を図るという、より現実的で長期的な戦略へのシフトである。この新たな戦略を実現するための最重要拠点こそが、日田であった。九州の地図を俯瞰すれば、日田は薩摩から北上し、他の九州諸藩や本州と連携しようとする際の経路上、あるいはその側面に位置する 14 。この地に徳川の直轄拠点を置くことは、島津氏だけでなく、筑前の黒田氏、肥後の加藤氏、肥前の鍋島氏といった強力な外様大名全ての動静を探り、相互の連携を分断する「楔」としての役割を果たす。したがって、日田への拠点設置は、一見遠回りな島津問題への直接的な回答であり、九州全体を睨むための極めて高度な戦略的配置だったのである。

表1:関ヶ原の戦い前後の九州主要大名勢力比較表

大名家

本拠地

関ヶ原前の石高(推定)

関ヶ原での所属

戦後の処遇

戦後の石高

黒田家

豊前・中津

18万石

東軍

加増

筑前・福岡 52万3千石

加藤家

肥後・熊本

25万石

東軍

加増

肥後・熊本 52万石

鍋島家

肥前・佐賀

35万7千石

西軍→東軍

現状維持

肥前・佐賀 35万7千石

島津家

薩摩・鹿児島

77万石

西軍

現状維持

薩摩・大隅・日向 77万石

小西家

肥後・宇土

20万石

西軍

改易(当主斬首)

0石

大友家

(改易中)

0石

西軍

再興ならず

0石

立花家

筑後・柳川

13万2千石

西軍

改易

0石(後に陸奥棚倉で復活)

注: 石高は諸説あり、代表的な数値を示す。

第二章:地政学的要衝「日田」— なぜこの地が選ばれたのか

関ヶ原の戦後処理の結果、九州に直接支配の拠点を置く必要性を痛感した家康が、数ある候補地の中から日田を選んだのには、明確な地理的、経済的、そして軍事的な必然性があった。

第一節:「九州のへそ」としての地理的優位性

日田は古来より「九州のへそ」と称されるほど、九州のほぼ中央に位置している 15 。この地理的条件は、九州統治の拠点として比類なき優位性をもたらした。豊後、豊前、筑前、筑後、肥後といった九州北部の主要国へ陸路で通じており、どの方向へも迅速に情報を伝達し、必要とあれば兵力を展開することが可能であった 14

さらに、日田は水運の要衝でもあった。九重連山、阿蘇山、英彦山系の三つの異なる水系から流れ出る豊富な水が日田盆地で合流し、九州最大の河川である筑後川の上流部、三隈川を形成する 17 。この川は、九州の穀倉地帯である筑後平野を貫流し、有明海へと注ぐ。つまり、日田は水運による物資輸送の起点であり、九州北部の経済の大動脈を扼する位置にあったのである 16

第二節:経済的潜在力と資源

日田盆地を取り囲む山々は、良質な木材を産出する豊かな山林資源の宝庫であった(後の日田杉として全国に知られる) 19 。これらの林産資源や、和紙の原料となる楮(こうぞ)、蝋燭の原料となる櫨(はぜ)といった産品は、三隈川の水運を利用して下流の久留米や佐賀方面へと運ばれ、日田に富をもたらす経済的基盤となった 18

江戸幕府は、その支配体制を盤石にするため、貨幣鋳造に不可欠な金山や銀山、交易の拠点となる主要港湾、そして豊かな生産地といった経済的に重要な拠点を直轄地(天領)として確保する傾向があった 20 。日田が持つ水運の結節点という機能と、豊富な資源の集積地としてのポテンシャルは、まさに幕府が直轄地として欲する条件に合致していた。江戸時代中期以降、日田の豪商たちが代官所の公金を元手に大名貸などの金融業を発展させ、「日田金」と呼ばれる強大な金融資本を形成するに至るが 14 、その萌芽となる経済的基盤は、この慶長年間の時点で既に存在していたのである。

第三節:軍事戦略拠点としての日田

周囲を山々に囲まれた日田盆地は、防御に適した天然の要害でもあった。しかし、家康が日田に注目した真の理由は、単なる地理的中心性や経済力だけではなかった。それは、日田が持つ平時の経済拠点と有事の兵站基地という「二重性」にあった。この両面価値こそが、日田を他の候補地から際立たせた決定的な要因であったと考えられる。

平時において、日田は陸路と水運を活かした九州北部の経済の中心として機能し、幕府に多大な利益をもたらすことが期待された。一方で、ひとたび九州で島津氏や他の外様大名による動乱が起これば、即座にその機能は軍事目的へと転換される。水運は、平時には木材や農産物を運ぶが、有事には兵糧や武具を迅速に前線へと輸送する兵站線となる。陸路は、諸国へ向けて討伐軍を派遣するための進軍路となる。

この想定は単なる推測ではない。後の慶長十九年(1614年)に大坂冬の陣が勃発した際、日田から送られた兵糧が徳川軍のもとに迅速に届けられ、家康を大いに喜ばせたという記録が残っている 22 。これは、1601年の拠点設置が、その時点から将来的な大規模軍事行動を見越した、極めて戦略的な布石であったことを裏付ける強力な証拠である。平時には九州の富を吸い上げ、有事には九州の反乱を鎮圧する。この効率的なシステムを構築する上で、日田はまさに完璧な立地であった。

第三章:慶長六年のリアルタイム・クロニクル — 小川光氏の入封と丸山城築城

九州統治の要として日田が選定された後、徳川の支配を具体化するプロセスが実行に移された。それは、一人の武将の任命と、新たな城の建設という、戦国の手法を色濃く残した形で始まった。

慶長五年(1600年)秋〜冬:戦後処理と人事構想

九月十五日に関ヶ原の本戦が終結すると、徳川家康は大坂城西の丸に入り、戦後処理に着手した。十月一日には石田三成らが処刑され 4 、九州では黒田如水が大友義統を降伏させるなど 8 、各地の戦闘も急速に終息へと向かった。家康は、九州諸大名の改易や減封、加増を次々と決定する中で、没収した旧大友領、特にその戦略的価値の高い日田郡を、譜代大名や有力外様大名に与えるのではなく、徳川家の直接支配下に置くことを構想する。

この時期、関ヶ原の戦いで西軍に属した伊予国分城主・小川祐忠とその子・祐滋は、戦後改易処分となっていた 23 。祐忠は、小早川秀秋の裏切りに同調して東軍に寝返ったものの、その行動が遅かったことなどが咎められたとされる。しかし、祐忠の正室の弟、すなわち子の光氏にとっては叔父にあたる一柳直盛が、東軍方として戦功を挙げていた。この一柳直盛を通じて、小川家の存続が家康に懸命に嘆願された 23

慶長六年(1601年):任命と入部

年が明けた慶長六年、家康は一柳直盛の奔走と、それに伴う政治的計算の上で、一つの決断を下す。小川祐忠の長男・光氏を、豊後国日田郡に二万石の知行を与えて封じることを決定したのである 23

この決定を受け、小川光氏は正式に日田郡の新たな領主として任命され、現地へ入部した。しかし、彼の統治は順風満帆な滑り出しではなかった。日田にあった既存の城である日隈城には、当時まだ毛利高政が置いた城代が入っていたため、光氏はすぐに入城することができなかった 23 。毛利高政は豊臣恩顧の大名であったが、関ヶ原では東軍に属し、戦後、豊後佐伯に二万石を安堵されていた人物である。この事実は、戦後直後の九州における支配関係の移行が、いかに複雑で時間を要するものであったかを物語っている。

同年〜:丸山城の築城と統治の開始

既存の城に入れないという状況に直面した光氏は、新たな支配拠点を自らの手で築くことを決意する。彼は、日田盆地を一望できる戦略的要衝、月隈山(後の永山)を選定し、そこに新城の築城を開始した。この城は当初、「丸山城」と名付けられた 24

城が完成するまでの約三年間、光氏は日田郡友田村の丸山(現在の北友田にある星隈公園、あるいは光岡の岳林寺裏手の山という説がある)に仮の居城を構え、そこから領国統治を開始した 23 。彼の当面の任務は、丸山城の築城と並行して、二万石の領地の検地を行い、支配体制を確立し、そして新たな城下町を形成することであった。この時に整備された町が、後の天領日田の中心地として繁栄する豆田町の原型となったのである 28

1601年の小川光氏による丸山城築城は、単なる居城の建設事業に留まるものではなかった。それは、戦国大名・大友氏に代表される旧来の支配が完全に終焉し、徳川による新たな秩序がこの地に及んだことを、物理的な形で可視化する極めて象徴的な行為であった。前任者の城や、他者が一時的に占拠していた城を使わず、更地に新たな城を築くという選択は、旧来の権威を明確に否定し、全く新しい支配者が登場したことを内外に宣言する効果を持っていた。城の建設は、周辺地域から労働力や資材を大規模に動員する一大事業であり、それ自体が新領主の権力と支配の浸透度を示すデモンストレーションとなったのである。後の行政機関としての「代官所」は、まずこの軍事的・物理的な支配の基盤の上に成り立っていた。1601年の「代官所設置」の実態とは、まさにこの築城から始まったと言える。

第四章:代官か大名か — 初代統治者・小川光氏の実像

九州統治の楔として、家康が日田に送り込んだ初代統治者、小川光氏。彼の出自と立場は、徳川幕府初期の統治のあり方と、家康の深謀遠慮を理解する上で極めて示唆に富んでいる。

第一節:西軍の将の子という出自

小川光氏の父・祐忠は、関ヶ原で西軍に属し、戦後に改易された人物である 23 。その息子である光氏が、なぜ九州の最重要拠点の一つである日田の統治を任されるという、異例の抜擢を受けたのか。叔父・一柳直盛の功績と嘆願が直接的なきっかけであったことは間違いない 23 。しかし、その背後には、家康の冷徹な政治的計算があった。

光氏の任命は、一見すると温情措置に見えるが、その実態は徳川への絶対的な忠誠を強いるための巧妙な人事戦略であった。彼は、輝かしい武功を立てた譜代大名ではなく、いわば「罪人の子」であり、その存在自体が家康の温情によってかろうじて成り立っているという、極めて弱い立場にあった。この「弱み」こそが、家康にとって光氏を日田に置く最大の「強み」だったのである。

光氏には、家康に逆らうという選択肢は存在しない。彼の家名と領地は、家康の意向一つでいつでも取り潰される可能性があった。周囲を黒田、加藤、そして潜在的な脅威である島津といった強力な外様大名に囲まれた二万石の小領主が、独力で何かを企むことは不可能であった。彼が生き残る道は、徳川の忠実な目となり耳となって、日田から九州の動静を報告し続けること以外になかった。

この人事は、他の旧西軍大名に対する強烈なメッセージでもあった。「徳川に逆らえば小川祐忠のように改易されるが、縁者を通じて恭順の意を示せば、光氏のように取り立てられる可能性もある」という、飴と鞭の巧みな使い分けである。さらに、譜代の重臣ではなく、あえてこのような出自の人物を置くことで、日田が特定の譜代大名の勢力圏となることを防ぎ、あくまで幕府の直轄拠点であるという性格を明確にする狙いもあったと考えられる。

第二節:二万石の知行と統治形態

小川光氏は二万石の知行を与えられており、これは形式上「大名」の身分に相当する。そのため、彼の統治時代を「日田藩」の初代と見なす説も存在する 23 。彼は自らの居城を築き、城下町を整備し、領地を支配した。

しかし、その一方で、日田という土地の戦略的重要性から、彼は実質的には幕府の出先機関長、すなわち「代官」としての役割を強く期待されていたとする見方が定説となっている 23 。彼の主たる任務は、自らの領国経営以上に、周辺の外様大名の動向を監視し、幕府に報告することにあった。この「大名」としての形式と「代官」としての実態が混在する曖昧な立場こそ、戦国時代から江戸時代へと移行する過渡期における、徳川幕府の地方統治形態の特徴を如実に示す好例と言える。

第三節:光氏の統治と突然の終焉

日田に入部した光氏は、約10年間にわたりその統治にあたった。しかし、慶長十五年(1610年)八月、彼は病によってこの世を去る 22

光氏には跡を継ぐべき嗣子がいなかった。そのため、彼が再興した小川家は、無嗣を理由に断絶、すなわち改易となった 22 。この光氏の早すぎる死と家の断絶は、一個人の悲劇に留まらず、日田という土地の運命を再び大きく変える転機となった。それは、日田が一時的な「藩」の時代を終え、名実ともに幕府の完全な直轄地(天領)へと移行する道を決定づける出来事だったのである。

第五章:天領への道 — 徳川直轄体制の完成

慶長六年の小川光氏による統治開始は、日田における徳川支配の第一歩であった。しかし、それが後の西国筋郡代に代表されるような、強固で恒久的な直轄支配体制として完成するまでには、約170年にわたる段階的なプロセスが必要であった。

第一節:小川氏断絶後の過渡期

慶長十五年(1610年)に小川光氏が死去し、小川家が断絶すると、日田は一時的に統治者不在の状態となった。その後、元和二年(1616年)までの6年間、この地は光氏の一族であった小川喜助と小川又右衛門によって管理された 22 。これは、日田が実質的に幕府の直接管理下に置かれていたことを示唆している。

元和二年(1616年)、幕府は新たな統治者として、徳川譜代の大名である石川忠総を美濃大垣から六万石で入封させた。これにより、日田は一時的に「日田藩」として再成立する。石川忠総は、小川光氏が築いた丸山城を改修し、城名を「永山城」へと改めた 22 。この譜代大名による統治は、幕府による九州支配の強化策の一環であったが、恒久的なものではなかった。

第二節:寛永十六年(1639年)の画期

石川氏が他へ転封となった後、寛永十六年(1639年)、徳川幕府は日田の統治方針について最終的な決断を下す。この地を特定の藩に委ねるのではなく、幕府の完全な直轄地、すなわち「天領」とすることを決定したのである 21

この決定に伴い、初代の代官として小川正長と小川氏行(光氏との血縁関係は不明)の二名が日田に着任した。彼らは、戦国の象徴であった山城の永山城を廃城とし、その南麓の平地に新たな行政庁舎である「日田陣屋(日田代官所)」を正式に築いた 27 。これが、後世にまで続く行政機関としての「日田代官所」の本格的な始まりであった。山城を廃して平地に陣屋を構えるというこの変化は、時代がもはや「武」による支配から「政」による支配へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。

第三節:西国筋郡代への昇格と九州支配の拠点化

天領となった後、日田代官所の管轄範囲は、豊後国内に留まらず、豊前や筑前、肥後、日向に散在する天領へと次第に拡大していった 33 。そして、明和四年(1767年)、日田代官は単なる代官よりも格上の役職である「西国筋郡代」へと昇格する 21 。これは、関東、美濃、飛騨に置かれた郡代と並ぶ、幕府の最重要地方官の一つであった 30

西国筋郡代の職務は、広大な天領(最終的に16万石以上に及んだ)の民政、司法、徴税を管轄するだけではなかった。それ以上に重要な任務として、長崎奉行と緊密に連携し、九州に割拠する島津、細川、鍋島、黒田といった外様雄藩の動静を常に監視することがあった 35 。日田代官所は、いわば九州における「小幕府」とも言うべき、絶大な権限を持つ広域統治機関へと発展を遂げたのである。

この政治的安定を背景に、代官所の膝下である豆田町は、掛屋と呼ばれる豪商たちを中心に、代官所の公金を運用する金融都市として空前の繁栄を極めた 21 。慶長六年(1601年)、戦国の遺風が残る中で軍事的な「点」として確保された日田は、約170年の時を経て、九州全体の政治・経済を支配する広大な「面」へと進化を遂げた。この長大なプロセス全体が、徳川幕府による九州支配体制の確立の歴史そのものであった。

表2:日田統治体制の変遷(1601年〜1767年)

西暦(和暦)

統治者/機関名

身分/役職

石高/管轄範囲

拠点(城/陣屋)

主要な出来事

1601年(慶長6年)

小川光氏

大名/代官的役割

豊後日田郡 2万石

丸山城(築城開始)

関ヶ原の戦後処理の一環として入封

1610年(慶長15年)

(小川一族管理)

(管理者)

(旧小川領)

丸山城

小川光氏死去、無嗣断絶

1616年(元和2年)

石川忠総

譜代大名

6万石

永山城(改称)

日田藩が一時的に再成立

1639年(寛永16年)

小川正長・氏行

代官

日田周辺天領

日田陣屋(新設)

日田が天領となり、永山城は廃城

1767年(明和4年)

揖斐政俊など

西国筋郡代

九州諸国の天領(16万石超)

日田陣屋

西国筋郡代に昇格、九州支配の拠点化

結論:慶長六年の「点」が描いた徳川二百六十年の「線」

慶長六年(1601年)の小川光氏入封と丸山城築城、すなわち「日田代官所設置」の始まりは、単発の代官派遣という行政措置では断じてなかった。それは、天下分け目の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が、一筋縄ではいかない九州という広大な地域を掌握するために、長期的ビジョンに基づいて打ち込んだ戦略的な第一歩であった。

この一手は、黒田如水の野心を牽制し、薩摩の島津氏を監視し、そして他の強力な外様大名に睨みを利かせるという、複数の政治的・軍事的な目的を同時に達成するための、絶妙な布石であった。特に、西軍の将の子である小川光氏をあえて起用した家康の巧みな人事戦略は、戦国の遺風が色濃く残る時代において、もはや武力だけでなく、人心を巧みに操る政治力をもって天下を安定させようとする、新たな時代の統治者としての成熟を示している。

1601年に日田に打たれたこの「点」は、小川氏の断絶、譜代大名による一時統治という過渡期を経て、寛永十六年(1639年)の天領化と日田陣屋設置によって確固たる行政拠点となり、ついには西国筋郡代という九州全土を統べる広域支配の「線」へと発展していった。そしてその線は、江戸時代二百六十年にわたる九州の政治的安定と、日田金に象徴される経済的発展の礎を築いたのである。日田の歴史は、戦国の終焉と近世社会の確立を象徴する、壮大な物語に他ならない。

引用文献

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  3. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
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  8. 大河ドラマ「軍師官兵衛」ゆかりの石垣原合戦(いしがきばるかっせん) - 別府市 https://www.city.beppu.oita.jp/gakusyuu/bunkazai/kassen_index.html
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  22. こちらは北部九州にある盆地「日田」です 天領 - FC2 http://hita1969.blog.fc2.com/category3-2.html
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  30. 日田代官(ひただいかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%94%B0%E4%BB%A3%E5%AE%98-1399065
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  32. 永山城(大分県日田市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/8927
  33. こちらは北部九州にある盆地「日田」です 直轄地 蔵入地 幕府領 藩 天領 これ全部日田 第16回 http://hita1969.blog.fc2.com/blog-entry-481.html
  34. 御三卿・幕府直轄地拠点 - ぬしと朝寝がしてみたい https://www.access21-co.jp/sinsaku/29bakufuryou.html
  35. 大分県日田市 日田代官所跡 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/5961
  36. 西国郡代(サイコクグンダイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E9%83%A1%E4%BB%A3-507571
  37. 幕府領のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/bakufu.html
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