最終更新日 2025-09-28

江戸外堀掘削(1606)

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天下普請の深層:慶長十一年「江戸外堀掘削」に見る徳川覇権の確立と巨大都市の誕生

序論:慶長十一年、江戸の地平

慶長十一年(1606年)、江戸の地で開始された外堀の掘削事業は、単なる城郭の拡張や都市整備という範疇を遥かに超える、日本の歴史における一つの分水嶺を象徴する国家的プロジェクトであった。この事業の本質を理解するためには、まず慶長十一年という時点が持つ特異な歴史的文脈を把握せねばならない。

慶長の世は、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任官して江戸に幕府を開いた後であり、表面的には徳川による新たな治世が始まったかに見えた。しかし、その覇権は未だ盤石ではなかった。大坂城には豊臣秀吉の遺児・秀頼が依然として君臨し、その権威は特に西国大名を中心に根強く残存していた 1 。秀頼は摂津・河内・和泉60万石余を領する一大名に過ぎない存在となっていたものの 4 、その血筋と父・秀吉が築いた権威は、家康の武威とは質の異なる影響力を保持し続けていた。この徳川の「武」と豊臣の「権威」が並立する状況は、時に「二重公儀」とも称される不安定な政治情勢を生み出しており、日本の未来は未だ定まっていなかった 5

このような状況下で、家康が後北条氏の旧領であり、広大な関東平野の中心に位置する江戸を新たな本拠地として選んだこと自体が、深遠な戦略的意図の現れであった 6 。京都や大坂といった伝統的な政治の中心から物理的に距離を置くことで、旧来の権威の束縛から逃れ、全く新しい政治秩序をこの地に構築しようとしたのである。その壮大な構想の第一歩が、江戸を日本の新たな中枢にふさわしい、前代未聞の巨大都市へと改造することであった。

本報告書は、この慶長十一年の江戸外堀掘削を、単なる土木事業としてではなく、戦国の終焉と江戸の時代の幕開けを告げる画期的な事象として再評価するものである。その分析にあたっては、「軍事要塞化」「政治的示威行動」「経済的支配」「巨大都市の設計図」という四つの側面から多角的に光を当てる。この事業は、物理的な「堀」を掘削すると同時に、徳川と豊臣の間に決定的な「政治的な堀」を穿つ行為であった。関ヶ原の戦いが武力による天下分け目の戦いであったとすれば、この江戸城天下普請は、土木事業という形をとった、もう一つの天下分け目の戦いであったと言える。それは、大坂の豊臣家が依然として潜在的な脅威であり続ける中で、豊臣恩顧の大名をも動員し、彼らの手で「徳川の城」を築かせるという、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。物理的な城の完成は、徳川を中心とする新たな政治秩序の完成を象徴し、豊臣の権威が及ばない新時代の到来を天下に知らしめるものであった。

第一章:天下普請の黎明 ― 徳川の覇権と豊臣の影

江戸外堀掘削を理解する上で不可欠なのが、その事業形態である「天下普請」というシステムの解明である。これは、徳川家康が創始した巧妙な国家統治の道具であり、その真の目的は単なるインフラ整備に留まらなかった。

「天下普請」という名の政治戦略

天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命じて行わせた大規模な公共事業であり、その費用は資材調達から人件費に至るまで、全て担当大名の負担とされた 8 。これにより、幕府は自らの財政を痛めることなく、城郭の築城や河川改修といった国家規模の事業を推進することが可能となった 9

しかし、その真の狙いは、より政治的なものであった。特に標的とされたのは、関ヶ原の戦いでは東軍に与したものの、元々は豊臣家に恩義を感じる西国の外様大名たちであった 10 。彼らに巨額の財政負担を強いることで、その経済力を削ぎ、領国経営を疲弊させ、ひいては軍事力を減退させることが、天下普請の重要な目的の一つだったのである 8 。佐賀藩の鍋島勝茂が自領の城普請と重なって藩士の俸禄削減を余儀なくされた例や 10 、米沢藩の上杉家が度重なる普請で財政破綻に瀕した例は 12 、その効果を如実に物語っている。

さらに、この事業への参加自体が、各大名の徳川政権に対する忠誠度を測るリトマス試験紙の役割を果たした 10 。命令に従い、見事に担当区域を完成させることは、幕府への恭順の意を示すことであり、一方で遅延や不手際は、即座に幕府の不興を買うことに繋がった。こうして大名たちは、徳川の威光の下、競って普請に励むことを強いられたのである。

慶長九年の大号令と豊臣家の関与

慶長九年(1604年)、家康は江戸城の大規模な拡張工事を天下普請として正式に発令した。その号令は全国の諸大名、特に西国方面の豊臣系大名に向けて発せられ、彼らに対して石材を運搬するための石船の調達準備が命じられた 13

この国家的大事業において、極めて注目すべきは豊臣家の関与の仕方であった。豊臣秀頼自身は、他の大名のように普請への動員を命じられることはなかった。しかし、この普請全体を監督する8名の公儀普請奉行の中に、秀頼の家臣である水原吉勝と伏屋貞元の名が含まれていたのである 5

この事実は、一見すると矛盾しているように見える。徳川の拠点である江戸城の普請に、なぜ豊臣家の家臣が監督者として名を連ねるのか。これは、当時の徳川と豊臣の関係が、単純な主従関係ではなく、依然として複雑な力学の上に成り立っていたことを示している。家康は征夷大将軍として幕府を開いたものの、天下の公共事業を単独で号令するだけの絶対的な権威をまだ完全には掌握していなかった。特に西国大名を動員するにあたり、豊臣秀吉以来の「公儀」としての豊臣家の権威を利用する必要があったのである 5 。秀頼は普請を直接手伝うのではなく、奉行を派遣して事業を「差配する側」に立つことで、自らの権威を維持した 15

この協力体制は、家康による巧みな「権威の乗っ取り」戦略の一環であったと解釈できる。豊臣家は、自らの権威を維持するために関与せざるを得なかったが、その結果、徳川の本拠地を強化する事業に加担させられることになった。豊臣家が江戸城普請に協力するという事実は、政治の中心がもはや大坂ではなく江戸に移りつつあることを、豊臣家自らが天下に追認する行為に他ならなかった。家康は、軍事力で豊臣家を滅ぼす前に、その「権威」という無形の資産を、天下普請という巨大プロジェクトを通じて徐々に無力化し、江戸へと吸収していくプロセスを着実に進めていたのである。

一次史料から見る協力体制

この複雑な協力体制の実態は、下関市立図書館に所蔵される『福原家文書』に残された一次史料、「(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」によって裏付けられる 5 。この文書は、普請奉行たちが毛利家に対し、他の西国大名9家から供出された石船33艘を間違いなく引き渡すよう命じたものである 5

注目すべきは、その連署者に、豊臣秀頼系の伏屋貞元(飛騨守)・水原吉勝(石見守)、徳川秀忠系の戸田重元・内藤忠清・都筑為政、そして徳川家康系の神田将時・貴志正久の名が記されている点である 5 。これは、慶長十一年の江戸城普請が、豊臣、秀忠、家康という三つの権力系統の代表者による共同管理の下で進められていたことを示す動かぬ証拠である。この一枚の文書は、徳川の覇権確立が一直線に進んだのではなく、旧来の権威との緊張と協力を内包しながら進行した、過渡期の権力構造を鮮やかに映し出している。

第二章:巨大都市改造のリアルタイム・クロノロジー

慶長十一年の江戸外堀掘削は、周到な準備期間を経て、驚異的な速度と規模で実行された。その過程を時系列で追うことで、この巨大事業のダイナミズムと、それに伴う困難の実態が明らかになる。

準備段階(慶長9年~10年/1604-1605)

江戸城大改築の構想は、慶長九年(1604年)に具体的に動き出した。この年の六月、幕府は西国大名28家と商人・尼崎又次郎に対し、石垣の材料となる石材を運ぶための石船を調達せよとの命令を下した 13 。これは、遠く伊豆半島で切り出された巨石を海上輸送するという、壮大なロジスティクス計画の始まりであった。翌慶長十年(1605年)には、実際に伊豆から江戸へ向けて石材の輸送が開始され、江戸湾には続々と石船が到着し始めた 14

並行して、普請を統括する体制も整えられた。前章で述べた通り、徳川家康系(貴志正久、神田正俊)、二代将軍秀忠系(内藤忠清、都築為政、石川重次、戸田重元)、そして豊臣秀頼系(水原吉勝、伏屋貞元)の家臣からなる混成チームが公儀普請奉行として任命された 5 。この人選は、事業の円滑な遂行と、諸勢力への政治的配慮を両立させるための絶妙なバランスの上に成り立っていた。

本格着工(慶長11年/1606)

年が明けた慶長十一年、普請は本格的な実施段階へと移行する。

  • 二月二十五日 : 公儀普請奉行連署状が毛利家へ送付される 5 。これは、普請開始を目前に控え、資材輸送の最終確認と命令伝達が行われたことを示している。
  • 三月 : ついに江戸城の本格的な普請が開始された 14 。工事の中心は、城の中枢である本丸を含む内曲輪と、城の東南方面に新たな防御線と市街地を形成する外曲輪の造成であった 14
  • 工事内容の具体像 : この普請は、単なる堀の掘削に留まらなかった。江戸城の北にそびえる神田山を大々的に切り崩し、その膨大な量の土砂を用いて、城の南東に広がっていた日比谷入江と呼ばれる内海を埋め立てるという、文字通り地形を造り変える壮大なものであった 7 。この埋め立てによって、後の大名屋敷街や日本橋、京橋といった町人地の広大な敷地が創出され、江戸の都市空間は劇的に拡大した 17
  • 五月 : この巨大事業の過酷さを象徴する事件が発生する。石材を積んで江戸へ向かっていた船団が、相模灘で嵐に遭遇し、大規模な海難事故に見舞われたのである。記録によれば、鍋島勝茂の石船120隻、加藤嘉明の46隻、黒田長政の30隻を含む数百隻が沈没、あるいは破損したと伝えられている 19 。この一件は、人的・物的に甚大な損失であったが、それにもかかわらず普請が続行されたことは、この事業が徳川幕府にとって、いかなる犠牲を払ってでも完遂せねばならない至上命令であったことを示している。この悲劇は、天下普請の非情さと、それに対する大名たちの抵抗の不可能性を天下に知らしめる結果となった。自然の猛威すらも、結果的に徳川の支配の絶対性を強化する要因として機能したのである。
  • 技術的側面 : このような大規模土木工事を可能にしたのは、当時の最先端技術であった。掘削や土砂の運搬には、「黒鍬組」と呼ばれる専門の土工集団が動員された 21 。また、堅固な石垣の構築には、近江出身で安土城の築城にも関わった「穴太衆」などの石工技術者集団がその腕を振るった 22 。さらに、神田山のような固い地盤の掘削には、鉱山開発で培われた掘削技術が応用された可能性も指摘されている 23

継続と拡大(慶長12年以降)

慶長十一年の普請は、江戸城改造の序章に過ぎなかった。

  • 慶長十二年(1607年)には、新たな天守台の修築などが開始され、築城の名手として名高い藤堂高虎が設計を担当した。また、堀の普請は伊達政宗や上杉景勝といった東北の有力大名が担った 7
  • 普請はその後も断続的に続き、慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣が勃発する直前まで石垣の修築が行われていた 7 。動員された大名たちは、普請現場での労役から解放されるや否や、今度は戦場へと向かうことを余儀なくされ、その疲弊は極限に達した。
  • この一連の普請は、後の時代へと引き継がれていく。元和六年(1620年)、二代将軍秀忠の治世下で、伊達政宗が担当した神田川(通称「仙台堀」)の開削は、特に大規模なものであった 16 。これにより、江戸城の防御線はさらに北西へと拡大し、本丸を中心に渦巻状に堀が巡る、巨大な「の」の字型の惣構えが完成に近づいていったのである 25

第三章:動員された大名たち ― 栄誉と疲弊の狭間で

天下普請という壮大な事業の裏側には、それに動員された全国の諸大名たちの苦悩と葛藤があった。彼らにとって、江戸城の普請に参加することは、徳川政権下での地位を確保するための名誉であると同時に、藩の財政を破綻させかねないほどの重い負担であった。

普請を命じられた主要大名とその役割

慶長期の江戸城普請には、全国から数多くの大名が動員されたが、その中心となったのは、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、毛利秀就といった、豊臣恩顧の有力外様大名たちであった 7 。彼らは、城の顔とも言える外郭の石垣普請という重要な役割を担わされた 7 。これは、彼らの高い技術力と動員力を見込んだものであると同時に、徳川への忠誠を行動で示させるという政治的意図が色濃く反映された人選であった。

工事の実施にあたっては、「割普請」と呼ばれる効率的な手法が採用された 8 。これは、工事区域全体を複数の工区に細かく分割し、それぞれを個々の大名に割り当てる方式である。これにより、各大名に明確な責任範囲が与えられると共に、大名同士の競争意識を煽ることで、工事全体の迅速な進捗を図った。江戸城の石垣に残る各大名の刻印は、この割普請の証であり、自らが担当した工事の品質を後世に伝えようとした大名たちの矜持の現れでもある。

以下の表は、慶長年間の江戸城普請において、主要な工区を担当した大名をまとめたものである。この表からは、石高の高い有力外様大名が、普請の中核を担っていたことが明確に見て取れる。

表1:慶長年間江戸城普請における主要担当大名と工区一覧

大名名

石高(推定)

分類

担当工区(主なもの)

典拠資料

前田利常

加賀藩

120万石

外様

外郭石壁普請

7

池田輝政

姫路藩

52万石

外様

外郭石壁普請

7

加藤清正

熊本藩

52万石

外様

外郭石壁普請

7

福島正則

広島藩

49万8千石

外様

外郭石壁普請

7

黒田長政

福岡藩

52万3千石

外様

外郭石壁普請、天守台築造

7

細川忠興

小倉藩

39万9千石

外様

外郭石壁普請

7

毛利秀就

長州藩

36万9千石

外様

外郭石壁普請、本丸普請

7

浅野幸長

紀州藩

37万6千石

外様

外郭石壁普請

7

藤堂高虎

伊予今治藩

20万石

外様

外郭石壁普請、石垣普請

7

山内一豊

土佐藩

20万2千石

外様

石垣普請

7

伊達政宗

仙台藩

62万石

外様

堀普請(慶長12年)

7

上杉景勝

米沢藩

30万石

外様

堀普請(慶長12年)

7

財政的負担の実態

この「名誉ある」事業の裏で、大名たちの財政は深刻なまでに圧迫されていた。普請に必要な資材の購入費、石材や木材を領国から江戸まで運ぶ輸送費、そして動員した数千、数万の人夫たちの食費や人件費など、その全てが担当大名の自己負担であったからだ 9

その負担の大きさは、具体的な事例からも窺い知ることができる。佐賀藩の鍋島勝茂は、江戸城普請と並行して自らの居城である佐賀城の改修も行っており、その二重の負担から財政が極度に逼迫し、遂には藩士の俸禄を一律三割削減するという非常手段に訴えざるを得なかった 10 。また、米沢藩の上杉家も、度重なる手伝い普請によって藩の蓄え(囲い金)は底を突き、藩士からの借上げ(事実上の減給)を常態化させて財政を維持するのがやっとの状態であった 12

遠国の大名にとっては、工事費そのものに加えて、江戸までの往復にかかる旅費も莫大な負担となった。例えば、加賀百万石を誇る前田家でさえ、江戸への道中に要した費用だけで、現在の貨幣価値に換算しておよそ2億円にも上ったと試算されている 28 。これに江戸での滞在費や工事費用が加わるのであるから、その負担の総額は想像を絶するものであった。

家康は、この大名たちの心理を巧みに利用したと言える。首都・江戸城の普請という「名誉」ある事業に参加する機会を与え、工区の出来栄えを競わせることで、彼らの不満を逸らし、むしろ積極的に普請へと参加させた。その結果、大名たちは自らの財力と領民の労力を、徳川の権威を象徴する巨大なモニュメントの建設へと自発的に注ぎ込んでいった。これは、単なる武力による支配から、権威と名誉を媒介とした、より洗練された支配体制へと移行していく過程を示す、画期的な事例であった。

第四章:外堀掘削の多角的分析

慶長十一年に始まった江戸外堀の掘削は、単一の目的のために行われた事業ではない。それは、「軍事」「都市計画」「政治」という複数の側面を併せ持ち、それぞれが相互に連関しながら、その後の日本の歴史に決定的な影響を与えた複合的プロジェクトであった。

軍事的側面:難攻不落の要塞都市へ

外堀掘削の最も直接的な目的は、江戸城の防御能力を飛躍的に向上させることにあった。この普請によって、江戸城は本丸を中心に「の」の字を描くように堀が幾重にも巡る、巨大な惣構えを持つに至った 25 。この渦巻状の防御ラインは、たとえ敵が外郭に侵入したとしても、城の中枢へ到達するには複雑な経路を辿らねばならず、各所に設けられた見附(城門)で効果的に迎撃される構造となっていた。

これにより、江戸は単なる将軍の居城と城下町ではなく、都市全体が一個の巨大な要塞として機能する構造を持つに至った。これは、関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、大坂には豊臣家が健在であり、いまだ戦国の遺風が色濃く残る時代において、徳川政権の首都の安全を確保するための絶対的な要件であった。この難攻不落の要塞都市の完成は、武力による挑戦を事実上不可能にし、徳川の支配を物理的に揺るぎないものとした。

都市計画的側面:巨大都市・江戸の骨格形成

外堀掘削は、軍事的な側面に留まらず、巨大都市・江戸の誕生を促す壮大な都市計画でもあった。

  • 水運ネットワークの構築 : 掘削された外堀や、それに伴い開削された日本橋川、京橋川といった運河は、江戸市中を縦横に結ぶ水運の大動脈となった 8 。全国から江戸湊に集められた米や物資は、これらの水路を通じて江戸の隅々にまで効率的に輸送された。百石積の川船一艘は、馬125頭分もの荷物を運ぶことができたとされ 19 、この水運ネットワークの整備が、江戸の爆発的な人口増加と経済発展を支える基盤となった。
  • 治水と利水 : 神田山を切り崩し、それまで南流して日比谷入江に注いでいた平川の流れを東の隅田川へと導いた神田川の開削は、下流域の洪水対策という治水上の目的を持っていた 16 。同時に、この工事は江戸市民の貴重な飲料水を供給する神田上水の整備にも繋がり、都市の生命線を確保するという利水上の重要な役割も果たした 16
  • 都市骨格の確定 : 外堀によって引かれたラインは、城に近い内側を大名や旗本が住む武家地、外側を町人が住む町人地として区画する明確な境界線となった。この区画は、その後の江戸の都市構造を決定づけ、その骨格は現代の東京にまで引き継がれている 30 。例えば、現在のJR中央線の飯田橋駅から市ケ谷駅、四ツ谷駅にかけての線路は、かつての牛込濠や市ヶ谷濠といった外堀の跡地を利用して敷設されたものであり 31 、首都高速道路の一部もまた、埋め立てられた外堀の上に建設されている 33

この事業は、軍事・政治的プロジェクトであると同時に、260年続く幕府の経済的安定性を担保するための、最も重要かつ戦略的な初期投資であった。外堀というインフラは、全国の富を江戸に集積し、それを再分配・加工して新たな価値を生み出す巨大な経済システムを機能させるための土台となった。これにより、徳川幕府は諸大名の領地からの年貢に依存するだけでなく、江戸という巨大な経済圏そのものを支配することで、盤石な財政基盤を確立することに成功したのである。

政治的側面:可視化された徳川の権威

江戸城とそれを囲む壮大な外堀の威容は、徳川の絶対的な権威と比類なき財力を天下に示す、何より雄弁なプロパガンダであった。参勤交代によって江戸にやってきた全国の大名たちは、この巨大な城郭を目の当たりにし、徳川の力に畏怖の念を抱き、逆らうことの無意味さを痛感させられた。江戸城は、徳川への臣従を再確認させるための、巨大な装置として機能したのである。

特に、慶長十九年(1614年)、豊臣家との決戦である大坂の陣を目前に控えた時期にまで、石垣の修築を続けさせたことは、家康の冷徹な政治的計算を物語っている 7 。諸大名を普請によって経済的、そして精神的に極限まで疲弊させることで、彼らが豊臣方に与する余力を奪い、徳川への反抗心を根絶やしにするという、極めて周到な戦略であった。外堀の石垣の一つ一つは、徳川の支配体制を固めるための礎石であり、同時に、それに協力させられた大名たちの力の結晶でもあった。

結論:戦国の終焉と江戸の完成 ― 外堀が象徴するもの

慶長十一年(1606年)に本格化した江戸外堀の掘削事業は、日本の歴史を「戦国」から「江戸」へと不可逆的に転換させた、画期的な出来事であった。本報告書で詳述してきたように、この事業は単なる土木工事ではなく、徳川家康の深遠な国家構想の具現化であり、軍事、政治、経済、都市計画の全てを内包した、複合的な国家プロジェクトであった。

この普請は、大坂の陣という最後の武力衝突を待たずして、事実上の「戦国の終焉」を告げるものであった。徳川の新たな支配秩序の確立を天下に宣言し、豊臣恩顧の大名たちを動員して徳川の城を築かせることで、彼らの忠誠心を徳川へと向けさせた。物理的な堀の建設は、徳川と、豊臣および潜在的な敵対勢力との間に、もはや越えることのできない「政治的な堀」を築き上げた。豊臣家の権威は、この普請に監督者として協力させられた時点で、その実質を骨抜きにされ、徳川の権威の下に従属するものとして位置づけられてしまったのである。

そして、この巨大な土木事業は、その後の日本の平和と繁栄の礎を築いた。難攻不落の要塞都市は軍事的な安定をもたらし、縦横に巡らされた水運網は経済的な繁栄を支え、壮大な城郭は中央集権的な政治体制の象徴となった。慶長の外堀掘削によって築かれたこれらの基盤の上に、その後260年以上にわたって続く「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」が花開いたのである。外堀は、戦乱の時代を終わらせ、新たな時代の秩序を守るための、巨大な防壁であり、同時に新たな文化を育む揺りかごでもあった。

その影響は現代にまで及んでいる。東京の都心部を走る鉄道や道路、そして区画整理された街並みの多くは、400年以上前に引かれた外堀のラインを原型としている。我々が今日目にする首都・東京の骨格は、戦国の世を終わらせ、新たな時代を切り拓こうとした徳川家康の壮大なビジョンと、天下普請の名の下に動員された数多の人々の労苦によって、この慶長十一年にその原型が築かれたのである。江戸外堀は、過去の遺構であると同時に、現代にまで続く歴史の連続性を物語る、生きた証人と言えよう。

引用文献

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  3. 豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】 | 歴史・文化 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/133136
  4. 豊臣秀頼|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=153
  5. 「(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」について http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9060
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  26. 平成20年7月 天下普請石垣 .織田・豊臣から徳川時代へ、その見どころ https://fururen.net/wp-content/uploads/2024/05/2%E3%80%80%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%9020%E5%B9%B47%E6%9C%88.pdf
  27. Adobe Photoshop PDF - 真田宝物館 https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/rekibun12.pdf
  28. 江戸時代はどの大名も財政難!その理由は? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=gmP8rMuR4es
  29. 川から見る東京 https://www.japanriver.or.jp/kataru/kataru_report/pdf/no209_a_resume.pdf
  30. 史 跡 江 戸 城 外 堀 跡 保 存 管 理 計 画 書 - 千代田区の文化財 https://www.edo-chiyoda.jp/material/files/group/2/edojosotobori-01.pdf
  31. 史跡 江戸城外堀跡 保存管理計画書 - 東京 - 新宿区 https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000059832.pdf
  32. 外濠 (東京都) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%BF%A0_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)
  33. 江戸を起点として、 首都の風格を継承し - 千代田区 https://www.city.chiyoda.lg.jp/documents/18350/toshitokusei2.pdf