沼津港整備(1607)
慶長十二年、徳川家康は駿府城築城と対西国戦略のため、清水湊を大規模整備。沼津湊は伊豆からの石材・金銀輸送の兵站拠点として活用された。これは戦国の教訓を活かした国家戦略であった。
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慶長十二年「沼津港整備」の真相:戦国時代の視点から読み解く徳川家康の国家構想
序章:慶長十二年(1607年)—天下泰平の礎を築く年
慶長十二年(1607年)は、徳川家康による天下統一事業が新たな段階へと移行した、画期的な年であった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、同八年(1603年)に江戸幕府を開府した家康であったが、その支配体制は未だ盤石ではなかった。大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、西国大名への影響力は無視できず、天下は薄氷を踏むような緊張状態にあった 1 。
この状況下、家康は慶長十年(1605年)に将軍職を早々と嫡男・秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に隠居する。これは単なる引退ではなく、江戸の秀忠が内政と関東以北の統治を、駿府の家康が軍事指揮権と外交、そして対西国政策を掌握するという、巧みな二元統治体制の始まりであった 2 。
家康が拠点として駿府を選んだのには、明確な地政学的・軍事的意図があった。駿府は江戸と京・大坂を結ぶ東海道のほぼ中央に位置する。東には箱根の険、南には遠州灘という天然の要害を控え、背後には徳川家の重要基盤である甲斐・信濃が広がる。この地は、豊臣家を筆頭とする西国勢力を監視し、有事の際には即座に対応できる絶好の軍事拠点だったのである 2 。そして、その戦略的価値を決定づけたのが、古くからの良港である清水湊の存在であった 3 。
大御所として駿府に入った家康は、駿府城の大規模な築城や江戸城の改修といった「天下普請」を次々と断行する。これは単なる城郭建築ではない。全国の諸大名に普請を命じることでその財力を削ぎ、徳川への絶対服従を強いるという、高度な政治戦略であった。この巨大事業を円滑に進めるためには、膨大な量の資材と人員を動員する兵站・物流網の構築が国家的な最重要課題となった 4 。
関ヶ原の戦い後、家康はまず慶長六年(1601年)に東海道をはじめとする五街道の宿駅制度を定めるなど、国内支配の骨格となる「静的」な交通網の整備に着手した 5 。しかし、慶長十二年頃からは、その戦略が大きく転換する。駿府城築城、そして富士川や天竜川といった大河川の舟運開削など、物資と人を大規模に「動かす」ためのインフラ整備、すなわち「動的」な国家改造へと舵を切ったのである。これは、来るべき豊臣家との最終対決を潜在的に見据え、徳川の経済力と軍事力を飛躍的に高めるための戦略的転換点であった。慶長十二年とは、徳川による天下泰平の礎が、まさに物理的な形で築かれ始めた象徴的な年なのである。
表1:慶長年間(1596-1615)における駿河周辺の主要な出来事年表
年号(西暦) |
主要な出来事 |
関連地域 |
概要 |
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慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い |
全国 |
徳川家康が勝利し、天下の実権を掌握。 |
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慶長6年(1601) |
東海道宿駅制度の制定 |
東海道 |
沼津宿が正式な宿場となる 5 。大久保忠佐が三枚橋城主となる 6 。 |
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慶長8年(1603) |
江戸幕府開府 |
江戸 |
徳川家康が征夷大将軍に就任。 |
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慶長10年(1605) |
将軍職譲渡 |
江戸 |
家康が将軍職を秀忠に譲り、大御所となる。 |
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慶長11年(1606) |
駿府城普請開始 |
駿府 |
天下普請として駿府城の築城が本格化。 |
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慶長12年(1607) |
大御所政治の本格化 |
駿府 |
家康が駿府城に入り、二元政治を開始。 |
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河川開削 |
富士川・天竜川 |
角倉了以に命じ、舟運を開削させる 1 。 |
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清水湊整備 |
清水 |
清水御殿の建設が始まる 1 。徳川水軍の基地として整備が進む 2 。 |
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駿府城天守焼失 |
駿府 |
12月、建設中の天守が失火で焼失。即座に再建が命じられる 1 。 |
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慶長18年(1613) |
大久保長安死去 |
江戸・駿府 |
死後、不正蓄財の嫌疑で一族が処罰される(大久保長安事件) 8 。 |
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慶長19年(1614) |
三枚橋城廃城 |
沼津 |
城主大久保忠佐の死去(前年)と後継者不在により廃城となる 7 。 |
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大坂冬の陣 |
大坂 |
徳川と豊臣の最終決戦が始まる。 |
第一章:戦国時代の記憶—水軍の拠点としての沼津・駿河湾
慶長十二年のインフラ整備を理解するためには、その舞台となった駿河湾が、戦国時代を通じていかに重要な戦略拠点であったかを振り返る必要がある。この海域は、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏、そして三河・遠江の徳川氏という、当代を代表する戦国大名たちの勢力がぶつかり合う最前線であった。海を制する者が駿河・伊豆を制し、ひいては東国の覇権を左右したのである 3 。
特に熾烈を極めたのが、武田氏と後北条氏による制海権争いであった。海への出口を持たない甲斐の武田信玄・勝頼親子は、駿河へ侵攻すると同時に水軍の創設に乗り出した 3 。これに対し、関東の雄・後北条氏は、武田の海洋進出を阻止すべく、伊豆半島の水軍拠点を急遽強化する。その中核として大々的に整備されたのが、現在の沼津市内に位置する長浜城であった 11 。そして天正八年(1580年)、沼津沖の千本浜において、両家の威信をかけた「駿河湾海戦」が勃発。駿河湾は、激しい海戦の舞台となったのである 11 。
徳川家康自身も、この海の記憶と深く結びついている。三河・遠江の領主として、長年にわたり武田氏と駿河湾の覇権を争った経験は、海上戦力と兵站の重要性をその身に刻み込んだ。決定的な教訓となったのは、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐であった。この戦いで秀吉は、清水湊や周辺の袋城を水軍の兵站基地として巧みに活用し、数十万石もの兵糧米を備蓄 2 。後北条氏を陸からだけでなく、海上からも完全に包囲・圧迫して屈服させた。この戦いを同盟軍として目の当たりにした家康は、水軍力と、それを支える港湾、そして内陸へと繋がる兵站網の優劣が、合戦の勝敗を決定づけるという真理を骨身に染みて理解したに違いない。
したがって、慶長十二年における家康の一連の港湾・舟運整備は、単なる経済政策や土木事業として捉えるべきではない。それは、戦国時代を通じて得られた「兵站の優劣が勝敗を決する」「海を制する者が陸を制する」という、極めて実践的な軍事思想の集大成であった。水軍の連携を欠き、兵站を断たれて巨大な小田原城もろとも滅び去った後北条氏の姿は、平時における盤石な物流網こそが、有事の際の生命線であると家康に確信させた。慶長十二年の諸事業は、戦国時代の血塗られた記憶を、天下泰平の礎へと昇華させる壮大な国家プロジェクトだったのである。
第二章:「沼津港整備」の真相—慶長十二年前後の国家事業と沼津の役割
「沼津港整備(1607年)」という事象の核心に迫るには、これを単独の出来事としてではなく、慶長十二年前後に駿河国全体で展開された、徳川家康主導の国家的なインフラ整備計画の一部として捉える必要がある。その全体像を分析することで、沼津が果たした真の役割が明らかになる。
第一節:東海道の整備と沼津宿の確立
港湾の役割を語る前に、まず陸路の結節点としての沼津の重要性を確認しなければならない。家康は天下統一の基盤固めとして、慶長六年(1601年)に東海道を筆頭とする五街道の宿駅制度を制定した。これにより沼津は、東海道五十三次の宿場「沼津宿」として、江戸と上方とを結ぶ国家的な交通網の正式な一翼を担うことになった 5 。
慶長十二年の時点で、沼津宿には問屋場が置かれ、公用の旅人や物資を次の宿場まで運ぶための人馬を常備する「伝馬制」が機能し、日々多くの人々や物資が往来する交通の要衝となっていた 14 。さらに、当時の沼津には、もともと武田氏が築城し、慶長六年から徳川譜代の大久保忠佐が城主を務める三枚橋城が存在した 5 。この城の存在により、東海道は城郭を北側へ迂回するルートを取っており 5 、沼津が単なる宿場町ではなく、軍事的な監視拠点としての性格も帯びていたことを示している。
ここから見えてくるのは、家康のインフラ整備における戦略的な優先順位である。彼はまず、全国支配の骨格となる陸路(五街道)を固め、人・モノ・情報の迅速な伝達を可能にした。その上で、より大量の物資輸送を可能にする水運網(港湾・舟運)の整備へと移行したのである。1607年の沼津の役割を考える際、この「陸路が先、水運が次」という国家戦略の大きな流れを理解することが不可欠である。
第二節:駿府の外港「清水湊」の大規模整備
慶長十二年という年に焦点を当てた時、最も大規模かつ国家的な整備事業が行われたのは、沼津湊ではなく、隣接する清水湊であった。この整備は、大御所家康の居城となる駿府城の築城と完全に連動した、国家プロジェクトであった 1 。
その整備内容は多岐にわたる。まず、軍事拠点として、徳川水軍の基地である「御船蔵」が建設され、大型の軍船である関船などが配備された 2 。次に、物流拠点として、駿府城と巴川を通じて水路で結ぶ計画が進められ、沿岸部には石垣が築かれて大型船の接岸が可能になった 2 。さらに、港を見下ろす高台には「清水御殿」の建設が開始された。これは表向きには家康の保養所とされたが、同時に港全体を監視し、有事の際には司令塔となる軍事施設としての側面を色濃く持っていた 1 。
これらの事実を鑑みると、当初の疑問である「沼津港整備(1607年)」という記録は、この清水湊における国家的な大事業の情報が、後世に伝わる過程で、地理的に近い沼津湊の事績として混同、あるいは誤伝された可能性が極めて高いと推察される。沼津と清水は同じ駿河湾に面し、一体の戦略地域として認識されていたため、このような情報の変容が起こりやすかったと考えられる。この点こそが、「沼津港整備」の真相を解き明かす鍵となる。
第三節:大動脈の開削—富士川・天竜川舟運の創出
慶長十二年、家康はもう一つの壮大な物流革命に着手していた。京都の豪商・角倉了以に命じ、富士川と天竜川の舟運を開削させたのである 1 。これは、民間、特に商業資本の持つ卓越した技術と資金を国家プロジェクトに活用するという、家康の優れた経営感覚を示す象徴的な事例である。
この事業の目的は二つあった。第一に、駿府城や江戸城の天下普請に必要となる膨大な木材を、天竜川上流の信濃・遠江の山々から効率的に輸送すること 4 。第二に、武田氏の旧領であり、経済的に豊かであった甲斐や信濃の物資、特に年貢米などを富士川・天竜川を通じて駿河湾まで運び出し、太平洋の海運網に直結させることであった 4 。
この河川開削は、単なる輸送路の確保に留まるものではない。それは、日本の物流地図そのものを塗り替える、国家的な経済戦略であった。山に閉ざされていた甲斐・信濃という内陸経済圏の富を、舟運という新たな「血管」を通じて、徳川の政治・経済の中心である駿府・江戸という「心臓」へと送り込む。これにより、徳川幕府は東国全体の経済力を飛躍的に底上げし、西国の豊臣方を国力で圧倒する体制を築き上げようとしたのである。この新たに生まれつつあった巨大な物流ネットワークの末端に、沼津湊も位置づけられることになる。
第四節:沼津湊のリアリティ(実態)
では、慶長十二年当時、沼津湊は具体的にどのような役割を担っていたのか。各種の記録から浮かび上がるのは、近代的な港湾施設ではなく、狩野川の河口部に形成された「津(河岸港)」としての姿である 15 。当時の中心地は、現在の御成橋から永代橋にかけての川岸であり、石蔵が建ち並ぶ物資の集散地として賑わっていた 16 。
この沼津湊が果たした最も重要な機能は、伊豆半島からの玄関口、すなわち戦略物資の集積拠点(ハブ)としての役割であった。
第一に、石材の輸送である。江戸城や駿府城の巨大な石垣を築くためには、伊豆半島で切り出された膨大な量の石材が必要であった。これらの石材は、海上輸送によって沼津湊などに荷揚げされ、そこからさらに江戸や駿府へと送られたと考えられる 17。
第二に、金銀の輸送である。家康の財政を支えたテクノクラート、大久保長安が開発を主導した伊豆金山からの金銀もまた、幕府の財政基盤を揺るがす最重要物資として、厳重な警備のもと沼津を経由して駿府の家康のもとへ運ばれた可能性が高い 8。
これらに加え、西伊豆方面への航路の発着港として、地域の漁獲物や生活物資が集まるローカルな経済センターとしての機能も担っていた 16 。
以上の分析から、慶長十二年における沼津湊の最も正確な姿が浮かび上がる。国家主導で大規模な整備が進められた清水湊が、巨大プロジェクトを牽引する「表玄関」であったのに対し、沼津湊は、既存の河岸港としての機能を最大限に活用し、特に伊豆半島からの戦略物資(石材・金銀)を供給するための「兵站・支援拠点(バックヤード)」としての役割を担っていた。つまり、大規模な「整備」は行われずとも、その「活用」の重要度は極めて高かったのである。
表2:慶長十二年前後における清水湊と沼津湊の機能比較
比較項目 |
清水湊 |
沼津湊 |
整備主体 |
徳川家康(幕府)による国家事業 |
在地領主(大久保氏)管理下の既存機能活用 |
主目的 |
駿府城築城の拠点、徳川水軍基地、対西国戦略拠点 |
伊豆半島の戦略物資(石材・金銀)の集積・中継、地域物流拠点 |
規模 |
大規模(天下普請)、計画的な港湾都市建設 |
中小規模、狩野川の河岸港(自然地形利用) |
関連インフラ |
駿府城、清水御殿、御船蔵、巴川水運 |
東海道沼津宿、三枚橋城、伊豆金山 |
背後戦略 |
国家戦略の表舞台 :徳川の威信を示し、軍事・経済の中枢を担う。 |
国家戦略の兵站拠点 :表舞台を支えるための物資供給を担う。 |
第三章:時系列で見る慶長十二年(1607年)の動向
慶長十二年という一年間の出来事を時系列で追うことで、当時の沼津が置かれていたリアルタイムな状況を再現する。この年、沼津は常に「人・モノ・情報」が絶え間なく流動する、ダイナミックな空間であった。
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正月~春:駿府城普請の本格化
全国の諸大名に対し、駿府城の「天下普請」への動員が正式に命じられる。各大名家は、家臣団や数千人規模の人夫を率いて駿府に参集し始めた。江戸方面から駿府へ向かう大名行列や、それに付随する膨大な物資輸送隊が東海道をひっきりなしに通過し、沼津宿は未曾有の賑わいを見せたはずである。宿の問屋場は、人馬の手配に昼夜を問わず追われ、旅籠は満杯状態が続いたと想像される 2。沼津は、国家プロジェクトの最前線へ向かう人々で溢れかえっていた。 -
夏~秋:大動脈の工事と物資の集積
角倉了以による富士川・天竜川の開削工事が本格化する。川の中にある巨大な岩を砕き、浅瀬を深く掘り下げ、急流をならすという、まさに自然との闘いであった 4。工事の進捗とともに、開削された河川を通じて、奥地の山々から伐採された巨大な木材が筏に組まれ、次々と駿河湾へと流れ下ってくる。これらの資材は、掛塚湊(現・磐田市)や清水湊に集積され、駿府へと運ばれた。時を同じくして、沼津湊にも伊豆の丁場から切り出された石材を満載した船が、頻繁に出入りしていたことだろう 4。駿河湾の海上は、まさに資材運搬船団で埋め尽くされていた。 -
冬(12月):駿府城天守の焼失と再建計画
年の瀬も迫った12月、駿府に衝撃的な報が走る。建設中であった壮麗な駿府城の天守が、失火により一夜にして焼失したのである 1。この一大事件は、天下普請に従事する諸大名や人々に大きな動揺を与えた。しかし、大御所家康は即座に再建を命令。これにより、さらなる大量の木材や石材が必要となり、稼働し始めたばかりの物流網は、いきなりフル稼働を求められることになった。この報は沼津宿にも衝撃と共に伝わり、普請に関わる人々の緊張感を一層高めたに違いない。この混乱の最中、清水湊では、もう一つの重要施設である清水御殿の建設が着々と進められていた 1。
この一年を通じて、沼津は家康の壮大な国家構想を実現するための、巨大な歯車の一つとして機能していた。東からは普請に向かう大名、西からは上方への使者、南の湊からは伊豆の資源、北の街道からは甲斐・信濃へ向かう幕府の役人。これらのあらゆる「動き」が、駿府にいる大御所・徳川家康という一点に収斂していく。沼津は、その巨大な奔流が通過する、戦略的な結節点だったのである。
第四章:沼津を支えた人々—テクノクラートと在地領主
慶長十二年の沼津の動向を語る上で、二人の「大久保」姓を持つ人物の存在は欠かせない。一人は家康の財政と開発を支えた天才吏僚、もう一人は沼津を治めた譜代の武将である。彼らの対照的な役割は、戦国から江戸へと移行する時代の性格を象明瞭に示している。
大久保長安—家康の懐刀
大久保長安は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した、異色の経歴を持つ吏僚(テクノクラート)である。元々は武田信玄に仕えた猿楽師の子であったが、武田氏滅亡後に徳川家康に仕え、その類稀なる才覚を見出された 8 。彼の本領は、鉱山開発、治水、都市計画といった民政・経済分野にあった。
家康の抜擢を受けた長安は、世界遺産ともなった石見銀山や佐渡金山、そして伊豆金山の開発を次々と成功させ、江戸幕府初期の脆弱な財政基盤を文字通り支えた 8 。慶長十二年当時、彼は伊豆金山の責任者でもあり、駿府城や江戸城の普請に不可欠な伊豆石の採掘・輸送にも深く関与していたと考えられる。産出された金銀や、切り出された石材を、いかに安全かつ効率的に駿府や江戸へ輸送するか。その兵站ルートを計画・実行する上で、伊豆の玄関口である沼津湊を効果的に活用する計画を立案した中心人物こそ、大久保長安であった可能性は非常に高い。
大久保忠佐—三枚橋城主
一方、慶長十二年時点での沼津の在地領主は、徳川家譜代の重臣である大久保忠佐であった 5 。彼は数々の合戦で武功を挙げた猛将であり、関ヶ原の戦いの後、沼津の三枚橋城主として二万石を与えられた。
彼の役割は、東海道の要衝である沼津の治安を維持し、宿場機能を円滑に運営させ、そして大御所家康が進める国家的な輸送計画に全面的に協力することであった。天下普請に向かう大名行列の警護、戦略物資輸送の監督など、現場における軍事・行政の責任者として、沼津の安定を担っていた。しかし、忠佐は慶長十八年(1613年)に死去。後継者がいなかったため、大久保家は改易となり、翌慶長十九年(1614年)には三枚橋城も廃城となった。その後、沼津は幕府の直轄地(天領)として、代官支配下に置かれることになる 6 。
沼津を巡るこの二人の「大久保」—技術と行政能力で登用された吏僚の長安と、武功によって領地を与えられた譜代大名の忠佐—は、時代の大きな転換点を象徴している。家康は、忠佐に代表される「武」の力で天下を統一した後、長安に代表される「吏」の能力を用いて国家を経営し、その支配体制を盤石なものにしようとした。武功の家である忠佐の家が断絶し、沼津が幕府の官僚機構による、より効率的な直接支配の対象となっていく流れは、まさに戦国が終わり、江戸という新たな統治の時代が始まったことを物語っている。
終章:戦国時代の視点から見た「1607年」の総括
本報告書で詳述してきた通り、「沼津港整備(1607年)」という事象は、単一の港湾整備事業を指すものではない。その真相は、同時期に国家プロジェクトとして推進された隣接の「清水湊大規模整備」の情報が、後世において誤伝・混同された可能性が高い。そして、慶長十二年当時の沼津湊自体は、大規模な「整備」の対象とはならなかったものの、伊豆半島から産出される石材や金銀といった戦略物資を供給する「兵站拠点」として、静かに、しかし国家戦略上、極めて重要な役割を果たしていた。これが本調査の結論である。
この結論を戦国時代という視点から総括すると、より深い意味が浮かび上がる。戦国時代の長きにわたる合戦において、勝敗を分けた最大の要因の一つは「兵站」、すなわち補給線であった。徳川家康は、その戦国の教訓を、平時における国家規模のインフラ整備へと見事に応用したのである。慶長十二年に行われた一連の事業—東海道の宿駅、清水湊の軍港化、そして富士川・天竜川の舟運開削—は、来るべき豊臣家との最終決戦に備えるための軍事兵站網であると同時に、天下泰平の世を支える経済物流網でもあった。この軍事と経済を分かち難く結びつけ、両立させる複眼的な視点こそが、徳川の強さの源泉であった。
この年に築かれた礎は、後世に大きな遺産を残した。整備された街道、港、そして舟運は、その後260年以上にわたる江戸時代の物流と経済の基盤となり、日本の発展を支え続けた。沼津もまた、東海道の宿場町として、そして伊豆と駿河を結ぶ物資の集散地として、着実な発展を遂げていくことになる 15 。慶長十二年という一年は、単なる過去の一コマではない。それは戦国の記憶が昇華され、近世日本の骨格が形成された、決定的に重要な年だったのである。
引用文献
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- 運搬 - 伊豆石文化探究会【公式】 https://www.izustone.or.jp/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E7%9F%B3%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8D%E3%81%86/%E9%81%8B%E6%90%AC
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