萩城築城(1604)
慶長九年、関ヶ原敗戦の屈辱を背負い、毛利輝元は徳川幕府の命で萩城を築城。不便な地は臥薪嘗胆の拠点となり、長州藩の礎を築く。城下町は維新の志士を育み、幕府打倒の原動力となった。
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萩城築城(1604年):戦国終焉の屈辱から始まる臥薪嘗胆の拠点
序章:栄光からの転落 ― 関ヶ原と毛利氏の減封
慶長九年(1604年)に始まる萩城築城は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、戦国時代の終焉を告げる関ヶ原の戦いで西軍総大将という虚名のもとに敗北し、存亡の危機に瀕した毛利氏が、屈辱の中から再起を誓った壮大な物語の序章である。この城が築かれた背景には、徳川家康による新たな天下秩序の構築という冷徹な政治力学と、それに翻弄されながらも未来への礎を築こうとした毛利輝元の苦悩があった。
西軍総大将という虚名
関ヶ原の戦いの直前、毛利輝元は豊臣政権下で五大老の一角を占め、安芸・備後など中国地方8ヶ国にまたがる112万石(一説には120万石)を領する西国随一の大名であった 1 。しかし、石田三成らの要請を受けて西軍の総大将に就任したものの、輝元自身は大坂城にあって戦いの指揮を執らず、実際の戦場には赴かなかった 5 。この事実は、輝元自身がこの戦に積極的でなかったこと、そして毛利家中の意思が完全に統一されていなかったことの証左であった。
毛利両川の不在と家中の分裂
輝元の祖父・元就以来、毛利家を支えてきた「毛利両川」、すなわち小早川隆景はすでに亡く、吉川元春の子である吉川広家がその重責を担っていた。しかし広家は、早くから徳川家康の力量を見抜き、この戦が東軍の勝利に終わることを確信していた 6 。彼は輝元の総大将就任に強く反対し、毛利家の安泰を最優先に考えるべきだと主張したが、安国寺恵瓊ら主戦派の意見に押し切られる形となった。ここに、毛利家の将来を巡る深刻な路線対立が露呈していた。
宗家の存続に危機感を抱いた広家は、独断で徳川方との接触を開始する。黒田長政らを介して家康と内通し、「毛利本軍は戦闘に参加しない」ことを条件に、戦後の所領安堵を取り付けるという密約を結んだのである 6 。これは、表向きは西軍に与しながら、水面下で東軍と通じるという、極めて危険な賭けであった。
南宮山の「宰相殿の空弁当」
慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い当日。南宮山に布陣した毛利秀元(輝元の養子)、吉川広家、安国寺恵瓊らの軍勢は、西軍の勝敗を左右する重要な位置を占めていた。しかし、広家は密約通り、毛利軍の最前線に陣取って進軍を頑なに拒否。後方の毛利秀元や長宗我部盛親らの軍勢も動くことができず、結果として南宮山の1万5千を超える大軍は、終日戦いに参加することなく傍観に徹した。これが後世に「宰相殿の空弁当」と揶揄される、毛利家の運命を決定づけた不戦の真相である。
戦後処理と「防長減封」
戦後、家康は広家の内通を評価し、当初は輝元が総大将であった責任を問い毛利家を改易(所領没収)する一方、広家には新たに周防・長門の二国を与えようとした 6 。しかし、広家にとってこれは本意ではなかった。彼はこの恩賞を固辞し、「輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たない」「この度のことは輝元の本意ではない」として、毛利本家の存続を家康に必死に嘆願する起請文を提出した 6 。
広家の懇願を受け、家康は最終的に毛利家の改易は免じたものの、その所領を安芸、備後など8ヶ国112万石から、周防・長門の二国36万9千石へと大幅に削減する「防長減封」の処分を下した 1 。これは、領地を実に4分の1近くにまで削られるという、大名としての存続は許されたものの、事実上の敗戦大名としては最大級の厳しい処罰であった 12 。輝元が心血を注いで築き上げた壮麗な広島城も、当然の如く没収された 15 。
この一連の戦後処理は、単なる敗者への懲罰に留まらない。家康は、宇喜多秀家や石田三成といった敵対勢力の中心人物は容赦なく改易・処刑する一方で、毛利氏や上杉氏のような旧豊臣政権下で同格であった大老クラスの大名は、完全に滅ぼすのではなく、大幅に力を削いだ上で新たな徳川の支配体制に組み込むという、高度な政治的判断を下した。毛利氏の減封は、武力による殲滅から石高という経済力に基づいた新たな身分秩序への移行を象EMBLEMする、徳川による天下再編の象徴的な出来事であった。
そして、この屈辱的な仕打ちは、毛利家、後の長州藩の心に深い遺恨を残すことになる。江戸時代を通じて、長州藩では元日に藩主と重臣が集まり、将軍への賀詞を述べた後、別室で幕府への反意を問い、一同が「時期尚早にござります」と答える儀式が続けられたと伝えられる 12 。この逸話が示すように、防長減封の屈辱は組織的な記憶として制度化され、260年以上にわたる反骨精神の原点となった。萩城の築城は、この「臥薪嘗胆」の物語が始まる物理的な舞台を整える行為だったのである。
第一章:再起の地を求めて ― 築城地の選定と徳川幕府の思惑
広島城を追われ、広大な領地を失った毛利氏にとって、防長二国における新たな本拠地の選定は、藩の未来を占う最初の、そして最も重要な政治課題であった。しかし、その選択は毛利氏の自由意志のみで決まるものではなく、勝者である徳川幕府の厳しい監視と、その裏に隠された深謀遠慮のもとで行われた。
三つの候補地
毛利輝元は、新たな居城の候補地として、周防国と長門国の中から三つの場所を幕府に上申し、その裁可を仰いだ。すなわち、古くからの政治の中心地であった周防の「山口」、瀬戸内海に面した良港である周防の「三田尻(みたじり、現在の防府市)」、そして日本海に面した長門の「萩」である 2 。
毛利氏の本命「三田尻」
この三つの候補地のうち、毛利家が最も望んでいたのは三田尻であった 2 。三田尻は古くから天然の良港として知られ、毛利水軍の拠点の一つでもあった 18 。瀬戸内海に面し、周防の国府にも近いこの地は、海陸交通の要衝であり 19 、経済活動や西国諸藩との連携、さらには大坂や京都といった中央の情報収集においても、他の二ヶ所に比べて圧倒的に有利な立地であった。ここに拠点を構えることは、減封されたとはいえ、毛利氏が依然として西国の雄であり続けるための生命線とも言える選択であった。
幕府の決定「萩」
しかし、徳川幕府は毛利氏のこの切実な願いを退けた。慶長九年(1604年)、幕府は「海に臨み要害の地である」との公式見解を添えて、日本海側の萩を築城地として指定したのである 14 。この決定は、毛利氏にとって到底承服しがたいものであった。当時の萩は、阿武川の河口に形成された三角州に位置し、竹や芦が生い茂る沼地や湿地帯が広がる、開発の遅れた僻地であった 4 。新たな藩都を築くには、大規模な埋め立て工事から始めなければならない、困難な土地であった。
地政学的な封じ込め政策
幕府が萩を選定した真の理由は、毛利氏が持つ潜在的な力を恐れ、意図的に不便な土地に押し込める「封じ込め政策」にあったと広く解釈されている 16 。その狙いは多岐にわたる。第一に、瀬戸内海の主要航路から物理的に切り離すことで、毛利氏の経済的な発展を阻害する。第二に、中国山地の険しい山々に囲まれた「陸の孤島」 16 に閉じ込めることで、有事の際に軍勢を迅速に東上させることを困難にする。そして第三に、冬には厳しい季節風に晒される日本海側に置くことで、藩のエネルギーを内政に向けさせ、その勢力を削ぐことであった。
この築城地の選定は、関ヶ原の戦後処理の最終段階であり、石高の削減が「経済的な減封」であるならば、萩への移転命令は「地政学的な減封」、すなわち地理的な懲罰であった。徳川家康は、西国の有力大名が中央の政治経済圏から隔絶されるよう、国土の空間設計そのものに介入し、江戸を中心とする新たな日本の地理的秩序を確立しようとしたのである。萩城の立地は、この新秩序の確立を象威するものであった。
だが、歴史の皮肉とでも言うべきか、幕府によるこの封じ込め政策は、二百数十年後に全く予期せぬ結果を生むことになる。中央から隔絶されたがゆえに、長州藩は幕府の権威を相対化し、内向きにエネルギーを凝縮させざるを得なくなった。これが、後の藩政改革による独自の経済圏の形成や、藩校明倫館を中心とする独自の学問・思想の発展を促す土壌となった。もし交通至便な三田尻が本拠地となっていれば、長州藩はより幕府の経済・文化圏に組み込まれ、幕末に見られるような先鋭的で独立した思想は生まれにくかったかもしれない。幕府の封じ込めが、結果的に討幕勢力を育む温床の一つとなったのである。
第二章:萩城築城の軌跡 ― 慶長九年、普請の開始から完成まで
幕府による築城地の決定は、毛利氏にとって不本意なものであったが、彼らに残された選択肢は、この決定を受け入れ、新たな拠点の建設に全力を注ぐことだけであった。ここから、萩という未開の地に、新たな藩都をゼロから築き上げる巨大な国家再建プロジェクトが始動する。
築城許可から着工へ
関ヶ原の戦いから3年後の慶長八年(1603年)8月21日、徳川幕府より毛利氏に対して正式に居城の築城命令が下された 21 。そして翌慶長九年(1604年)2月3日、幕府は輝元が上申した三つの候補地の中から、萩の指月山(しづきやま)を築城地として最終的に指定した 21 。これを受けて、同年6月、萩城の普請(土木・建築工事)が開始された 22 。
大規模な土木工事「島普請」
築城の地に選ばれた指月山の麓は、阿武川が日本海に注ぐ河口に形成された広大な三角州であり、干潟や湿地帯が広がっていた 14 。堅固な城郭と広大な城下町を建設するためには、まずこの軟弱な地盤を改良し、大規模な埋め立てによって城地そのものを造成する必要があった。この難工事を可能にしたのが、輝元がかつて広島城築城の際に経験した「島普請」と呼ばれる高度な土木技術であった 23 。湿地帯での築城ノウハウを活かし、毛利氏の技術者集団は前代未聞の規模で土地の造成を進めていった。
輝元の早期入城
普請開始からわずか5ヶ月後の慶長九年(1604年)11月(資料によっては12月)、輝元は本丸御殿など主要な建物が完成した段階で、未だ建設途上であった萩城に早々と入城し、この地で政務を開始した 14 。この迅速な行動は、単なる引っ越し以上の、極めて重要な政治的意味を持っていた。減封後の混乱と動揺が続く家臣団に対し、新たな拠点を明確に示すことで人心を安定させ、藩体制の再構築を急ぐという輝元の強い意志の表れであった 16 。最高責任者自らが建設現場の最前線に乗り込むことで、この一大事業を断固としてやり遂げるという決意を内外に示したのである。
城と城下町の並行建設、そして完成へ
萩城の建設は、単に藩主の居城を造るだけでは終わらない。それは、新たな領国の政治・経済・軍事の中心となる「首都」を創造する事業であった。そのため、城郭本体の築城と並行して、家臣団の屋敷や町人の居住区、寺社などを配置する城下町の建設も計画的に進められた 2 。
着工から4年の歳月を費やし、慶長十三年(1608年)、ついに萩城はその全体が完成(落成)した 2 。沼沢地であった阿武川の河口には、壮麗な天守を戴く城郭と、整然と区画された城下町が出現した。広島という繁栄した都市を失った毛利氏にとって、この萩城と城下町の建設は、藩の統治機構、経済基盤、そして家臣団の生活基盤そのものを再構築する、まさに国家再建に等しいプロジェクトであった。
表1:萩城築城関連年表(1600年~1608年)
西暦 |
和暦 |
月日 |
出来事 |
関連資料 |
1600年 |
慶長5年 |
9月15日 |
関ヶ原の戦い。毛利勢は参戦せず、西軍は敗北。 |
- |
1600年 |
慶長5年 |
10月頃 |
徳川家康より、毛利輝元に対し周防・長門二国への減封が言い渡される。 |
12 |
1603年 |
慶長8年 |
8月21日 |
徳川幕府より、毛利氏に新たな居城の築城が命じられる。 |
14 |
1604年 |
慶長9年 |
2月3日 |
幕府の裁可により、築城地が長門国萩の指月山に決定する。 |
21 |
1604年 |
慶長9年 |
6月 |
萩城の普請(築城工事)が開始される。 |
22 |
1604年 |
慶長9年 |
11月 |
本丸御殿など一部の完成に伴い、毛利輝元が未完成の萩城に入城し、政務を開始。 |
14 |
1605年 |
慶長10年 |
3月-7月 |
築城工事中に重臣間の対立である「五郎太石事件」が発生。熊谷元直らが誅殺される。 |
14 |
1608年 |
慶長13年 |
- |
着工から4年を経て、萩城が全体として完成(落成)する。 |
2 |
第三章:築城中の激震 ― 五郎太石事件のリアルタイム詳解
慶長十年(1605年)、萩城の普請が着々と進む中、その槌音を切り裂くかのように、毛利家中を揺るがす一大紛争事件が発生した。後に「五郎太石事件」と呼ばれるこの出来事は、単なる資材の盗難に端を発しながら、減封後の毛利家中に渦巻く旧来の有力国人領主層との軋轢、そして輝元による藩内権力基盤の再確立という、血腥い政治闘争へと発展していく。
事件の発端
事件の舞台は、二の丸東門の普請現場であった。石垣の裏込めや隙間を埋めるために使われる「五郎太石(ごろたいし)」と呼ばれる栗石や砂利が、大量に盗まれるという事件が発覚した 15 。
犯人を捕らえてみると、それは築城の総責任者の一人であった重臣・益田元祥(ますだもとよし)の配下の者たちであった。そして、被害を受けたのは、同じく普請の宰領を務めていた重臣・天野元信の担当区域から盗まれたものであった 15 。
対立の激化
天野元信は、益田元祥に対して盗まれた五郎太石2,100荷の即時返却を厳しく要求した。これに対し益田側は、事態を穏便に収めようと、盗みを働いた犯人3名を即刻斬首し、その首を天野側に届けることで謝罪の意を示した。しかし、天野側はこの対応に激怒する。「首は石の代わりにはならない。本来、盗人は奉行所に出し、法に則って裁かれるべきである」と主張し、益田側の私的な処理を拒絶した 24 。
この対立に、毛利家中の有力重臣である熊谷元直(くまがいもとなお)が介入したことで、事態はさらに深刻化する。熊谷は天野と姻戚関係にあったことから天野側に加担し、両者の対立は、益田派対天野・熊谷派という、家中を二分する派閥抗争の様相を呈していった 24 。
輝元の不在と帰国後の裁定
両派の対立が激化の一途を辿っていた慶長十年4月、当主である毛利輝元は、二代将軍・徳川秀忠の将軍宣下に対する祝賀のため上洛しており、萩には不在であった 24 。主君不在の中、対立は膠着し、築城工事にも遅延が生じるなど、藩政は麻痺状態に陥った。
同年5月下旬、輝元は萩に帰国。家中の重大事を報告された輝元は、両派の事情聴取を行い、7月2日、ついにこの事件に対する裁断を下した。その内容は、誰もが予想し得なかった、衝撃的なものであった 24 。
衝撃の結末 ― 粛清
輝元は、事件の発端を作った盗人側である益田元祥には一切の咎めを与えず、逆に被害者側である熊谷元直と天野元信にこそ罪があるとして、両名とその一族の誅殺を命じたのである 15 。
熊谷元直は、熱心なキリシタンであったため、教義に反する切腹を拒んだ。そのため、討手によって斬殺された。彼の妻子や孫、そして娘婿であった天野元信とその家族も同様に処刑され、両家は事実上、根絶やしにされた 15 。
事件の背景にあるもの
この不可解な裁定の裏には、複雑な政治的計算があった。輝元が後に記した罪状書には、普請の遅延に関する罪だけでなく、熊谷元直がキリスト教の信仰を捨てず、親類縁者まで入信させていたことが罪状として明確に記されていた 24 。当時、徳川幕府はキリスト教に対する態度を硬化させ始めており、輝元も幕府からの圧力を感じていた 28 。
関ヶ原の敗戦によって輝元の求心力は大きく揺らいでおり 25 、一方で熊谷氏や天野氏は、元々は毛利氏に従属したとはいえ、かつては同格に近い有力な国人領主であり、藩内での自律性が高かった 25 。減封後の小さな領国を強力に統治していく上で、彼ら旧国人層の存在は、輝元にとって潜在的な障害となり得た。
つまり、輝元は五郎太石という些細な問題を口実に、意図的に一方の派閥(益田派)に肩入れし、もう一方の派閥(熊谷・天野派)を「藩の秩序を乱す者」そして「国禁(キリスト教)を犯す者」として、見せしめ的に粛清したのである。これにより、家臣団全体に対し「輝元への絶対服従」を強烈に印象付け、揺らいだ権威を再確立しようとした。キリスト教の弾圧は、この冷徹な粛清を正当化し、家臣からの批判を封じ込めるための絶好の「大義名分」であり、同時に徳川幕府への恭順の意を示すための政治的パフォーマンスでもあった。
事件後、輝元は家臣団の動揺を抑え、忠誠を再確認させるため、筆頭家老の福原広俊以下819名の家臣から連署起請文(忠誠誓約書)を提出させている 24 。五郎太石事件は、輝元が減封後の厳しい政治状況を乗り切るために断行した、「恐怖政治」による権力再集中策の象徴的な出来事であった。
第四章:要塞としての萩城 ― 縄張、石垣、天守の構造分析
萩城は、徳川の世という表向きは「平和な時代」に築かれた城である。しかし、その構造の細部に目を向けると、戦国の気風を色濃く残した、極めて実戦的な思想が貫かれていることがわかる。それは、関ヶ原で敗北し、幕府への根深い不信感を抱く毛利氏の「備え」の思想が、縄張(設計)、石垣、天守といった物理的な形となって現れたものであった。
二元的な城郭構造 ― 平城と山城の融合
萩城の最大の特徴は、二元的な構造にある。指月山の山麓には、本丸・二の丸・三の丸が配され、藩主の居館や政庁機能を持つ「平城」部分が形成された。一方で、標高143メートルの指月山山頂には、戦時に籠城するための最後の砦である「詰丸(つめのまる)」と呼ばれる「山城」が築かれた 3 。
この平城と山城を組み合わせた構造は、平時の政治・生活の利便性と、有事の際の徹底した防御を両立させるための設計である。特に、詰丸には石垣が巡らされ、本丸や二の丸、さらには6基もの櫓が建てられるなど、極めて堅固な守りが固められていた 23 。江戸時代初期の城郭で、これほど重武装の詰丸を持つ例は珍しい。これは、毛利氏が徳川の治世を心から信用しておらず、万が一幕府軍に攻められた場合に、一族郎党が最後まで抵抗するための拠点を確保しておくという、強い意志の表れであった 14 。城の設計図は、関ヶ原で味わった敗北のトラウマと、幕府への不信感を映す鏡だったのである。
縄張(設計思想)
城全体の縄張(区画設計)は、本丸を敷地の北西隅に寄せ、その南から東にかけて二の丸、三の丸が取り囲むように配置される「梯郭式」を採用している 23 。さらに、城が位置する三角州を流れる二つの川、すなわち西の橋本川と東の松本川を天然の外堀として最大限に活用し、三角州全体を一つの巨大な要塞と見なす壮大な構想であった 4 。
石垣の技術と美学
萩城の石垣は、その技術と美しさにおいても特筆すべきものである。
- 石材と石切場: 石材は、城が築かれた指月山から切り出された良質な花崗岩が主に使用された 2 。山頂の詰丸には、今なお石を切り出した「石切場跡」や、石を割るために楔を打ち込んだ「矢穴」の跡が無数に残されており、築城の過程を現代に伝えている 2 。
- 扇の勾配: 特に天守台の石垣は、裾野が緩やかで、上部に行くほど急になる美しい曲線を描いており、「扇の勾配」として知られている 2 。これは単なる意匠ではなく、三角州という軟弱な地盤の上で巨大な天守の荷重を巧みに分散させ、石垣の安定性を高めるための、当時の最先端の土木工学と数学を駆使した高度な技術であった 2 。幕府によって押し付けられた不利な立地条件を、毛利氏の技術者集団が創意工夫と革新で克服した証である。
- 算木積み: 石垣の強度を決定づける隅角部には、長方形に加工した石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積み上げる「算木積み」という堅固な技法が用いられている 31 。これにより、高く、崩れにくい石垣の構築が可能となった。
天守の構造
明治七年(1874年)に惜しくも解体された萩城天守は、古写真や復元模型によってその壮麗な姿を偲ぶことができる 23 。
- 形式: 五層五階の複合式望楼型天守であった 2 。これは、下部の大きな入母屋造の建の上に、上部の望楼を載せた形式である。
- 先進技術: 外壁は、耐火性に優れた「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)」で全面が塗り固められていた 23 。これは当時最新の防火技術であり、明治維新まで現存した天守の中では最古の例とされる 23 。
- 防御機能: 天守の一階部分は、土台である天守台からはみ出すように造られており、その床下は真下の敵に石や熱湯を落とす「石落とし」として機能する、極めて実戦的な構造となっていた 23 。
このように、萩城の随所に施された構造や技術は、毛利氏が平和な時代にあってもなお、戦国の緊張感を持ち続けていたことを物語っている。それは、臥薪嘗胆を誓う者たちの、静かだが確固たる決意の物理的な表出であった。
第五章:城下町の形成と長州藩の礎 ― 政治・経済・文化の中心地へ
萩城の完成は、単に一つの城ができたことを意味するのではなく、新たな都市の誕生を告げるものであった。城を中心に計画的に建設された萩の城下町は、近世の封建的な社会構造を地面に描き出した壮大な都市計画であり、その後260年間にわたる長州藩の発展を支え、ひいては明治維新を担う多くの人材を育む揺りかごとなった。
身分制度を映す都市計画
萩の城下町は、城を防御し、かつ藩の支配体制を可視化するために、堀を境として厳格に区画されていた 35 。
- 堀内地区(三の丸): 城に最も近い外堀の内側は「堀内(ほりうち)」と呼ばれ、藩の永代家老である益田家や福原家、国司家といった重臣など、上級武士たちの広大な屋敷が配置された 2 。ここは藩の中枢を担う者たちが住む、政治的・軍事的に最も重要な区域であった。
- 堀外の町人地・武家地: 外堀の外側には、中・下級の武士や町人、職人たちの居住区が、碁盤の目のように整然と区画されて広がっていた 35 。この、城を中心に同心円状に広がり、堀によって明確に身分ごとの居住区が分けられた階層的な空間構成は、藩主を頂点とする近世の封建社会の秩序そのものを、都市の形で表現するものであった 36 。人々は自らの居住区によって日々の生活の中で身分を意識させられ、この都市構造自体が、藩士たちの忠誠心を育み、藩主への求心力を高めるための「教育装置」として機能していた。
防御機能を持つ街路
城下町の街路には、平時の利便性を考慮した碁盤目状の道筋だけでなく、軍事的な防御を意識した工夫も凝らされていた。その代表が「鍵曲(かいまがり)」と呼ばれる、意図的に見通しを悪くしたクランク状の路地である 3 。これは、万が一敵が城下に侵入した際に、その進軍を妨げ、袋小路に追い込んで攻撃するための巧妙な仕掛けであった。碁盤目状の「平時」の論理と、鍵曲に代表される「戦時」の論理が混在する都市計画は、表面的には平和を享受しつつも、その根底では常に武力による支配と防衛を意識していた江戸時代の武家社会の二重性を体現している。
経済と文化の中心地として
こうして築かれた萩は、文久三年(1863年)に藩庁が山口に移されるまでの約260年間、長州藩の政治・経済・文化の中心地として繁栄した 2 。城下には、藩の御用達を務めた菊屋家のような豪商が生まれ、商業活動の拠点ともなった 39 。
そして何よりも重要なのは、この城下町が、日本の歴史を大きく動かす人材を輩出したことである。幕末の動乱期に活躍した木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった維新の志士たちの多くが、この萩の城下町で生まれ育った 39 。彼らの旧宅は今も城下町の各所に点在し、往時の面影を伝えている。
この、江戸時代の武家社会における都市計画と生活様式を今日に伝える類稀な価値が評価され、萩城下町は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されている 3 。
終章:臥薪嘗胆の拠点 ― 萩城が後世に与えた影響
萩城の築城は、毛利氏にとって栄光からの転落と、屈辱からの再出発を象徴する出来事であった。徳川幕府によって押し付けられた僻遠の地・萩は、しかし、単なる蟄居の場所では終わらなかった。それは、二百数十年の時をかけて静かに力を蓄え、ついに徳川幕府を打倒する原動力を生み出すための、長州藩のエネルギーを内向きに凝縮させる「坩堝(るつぼ)」となったのである。
藩政改革と経済力の蓄積
初代藩主となった毛利秀就(輝元の子)と、その後見役であった輝元は、減封という未曾有の危機を乗り越え、巧みな内政手腕を発揮して長州藩の礎を築いた 12 。特に、後の時代に行われた藩政改革は特筆に値する。長州藩は検地によって生じた余剰の石高を藩の通常会計とは別に管理する「撫育方(ぶいくかた)」という特別会計制度を設け、これを元手に新田開発や塩田開発、港湾整備などの殖産興業を積極的に推進した 44 。こうして蓄えられた潤沢な資金は、幕末期における西洋式軍備の増強や、京都・江戸での激しい政治活動を支える強力な財政基盤となったのである 44 。
教育と人材育成
長州藩はまた、人材の育成を極めて重視した。藩校「明倫館」を設立・拡充し、武士階級の子弟に文武両道の教育を施した 46 。明倫館の特徴は、身分の上下にかかわらず学ぶ機会が与えられ、能力ある者が登用される気風があったことである 47 。この土壌から、吉田松陰の松下村塾に代表されるような、身分を超えた私塾も生まれ、「志」を重んじる独自の教育風土が育まれた 48 。この教育の力が、幕末の日本をリードする多くの革新的な思想家や行動家を生み出す原動力となった。
藩庁の移転と萩城の終焉
しかし、時代の変化は萩城の運命をも変える。幕末、欧米列強の艦船が日本近海に出没するようになると、海岸に近く、外国船からの艦砲射撃に対して無防備な萩城の立地が、藩の安全保障上の重大な欠点として問題視されるようになった 2 。
文久三年(1863年)、13代藩主・毛利敬親は、幕府に無許可で藩庁を内陸の山口へ移すという大胆な決断を下す(山口移鎮) 2 。これにより、萩城は約260年間にわたる長州藩の政庁としての歴史的役割を終えた。そして明治維新後の明治七年(1874年)、新政府の方針により、天守閣をはじめとする城内の多くの建物は解体され、その栄華の記憶は壮大な石垣と堀の中に留められることとなった 23 。
萩城の物語は、歴史の壮大な皮肉を我々に教えてくれる。毛利氏を萩に押し込めたのは、彼らを中央の政治から隔離し、その力を削ぐための徳川家康の深謀遠慮であった。しかし、この「封じ込め」政策は、二百数十年という長い時間軸の中で、全く意図せざる結果をもたらした。中央から隔絶されたことで、長州藩は幕府の権威を相対化し、独自の価値観と批判精神を育むことができた。経済的に自立せざるを得ない状況が、革新的な藩政改革を生んだ。もし毛利氏が瀬戸内海の要衝に留まっていれば、幕府との関係はより密接になり、幕末に見られたような先鋭的な討幕思想は生まれにくかったかもしれない。
結果として、家康の封じ込め政策は、自らの子孫が築いた政権を打倒する勢力を、最も安全な場所で、誰にも邪魔されずに育て上げるという歴史の逆説を生み出したのである。萩城とは、その壮大な皮肉が結晶した場所であり、戦国時代の終焉から始まった臥薪嘗胆の物語が、新たな時代の幕開けへと繋がっていった歴史の転換点そのものであった。
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- 萩城下町 | 海外旅行・国内旅行のツアーやホテル予約はNEWT(ニュート) https://newt.net/jpn/yamaguchi/spot-797753220690
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