最終更新日 2025-09-27

金沢城下町碁盤化(1592)

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金沢城下町「碁盤化」の真相:文禄元年(1592年)、動乱のなかの都市改造

序章:文禄元年の金沢へ - 「碁盤化」という謎に迫る

文禄元年(1592年)、加賀国金沢において「城下町の碁盤化」が断行された。この一見、整然とした都市計画事業として語られる事象は、しかし、その内実に目を凝らすとき、単なる区画整理という言葉では到底捉えきれない、戦国末期の激動を映し出す複雑な都市戦略の始点であったことが浮かび上がる。本報告書は、この歴史的転換点について、なぜ1592年という年が選ばれたのか、計画の実態と目的は何だったのか、そして誰がその壮大な構想を主導したのかという核心的な問いを、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。

利用者様がご存知の「寺社群の移転による町割整理」という情報は、この大事業の重要な一側面に他ならない。1592年という年は、豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄の役が開始された年である 1 。この国家的非常事態という外部からの強烈な圧力が、前田家の本拠地・金沢における内政、特に防衛体制の抜本的見直しを促した。したがって、この年に始まったとされる都市改造の本質は、美観を目的とした「碁盤化」ではなく、金沢城の防御力を飛躍的に向上させるための「要塞化」という、極めて軍事的な要請にあった。城郭の拡張と石垣普請という物理的な変化が、必然的に城下の寺社や武家屋敷の移転を要求し、結果として大規模な町割整理、すなわち都市の再編へと繋がっていったのである。

さらに、この物理的な空間再編は、同時に極めて高度な政治的行為でもあった。かつてこの地を支配した一向宗の拠点「金沢御堂」以来、根強く残存していた旧来の共同体を解体し、前田氏による新たな支配秩序を都市空間そのものに刻み込むという、明確な意図がそこには存在した 2 。本報告書は、1592年の金沢で起きた事象を、軍事、政治、都市計画が交錯するダイナミックな歴史の転換点として捉え、そのリアルタイムな進行と、後世にまで及ぶ壮大なグランドデザインの全貌を明らかにする。

第一章:変革前夜 - 前田利家入城以前の金沢

1592年の大変革を理解するためには、まずその舞台となった金沢が、いかなる歴史的重層性の上に成り立っていたかを知る必要がある。前田利家が入城する以前の金沢は、宗教、そして織田信長の権力が刻印した軍事拠点としての顔を持っていた。

第一節:信仰の王国 - 一向宗「金沢御堂」の時代

前田氏による近世城下町が建設される以前、この地の中心は加賀一向一揆の拠点であった「金沢御堂(金沢御坊)」であった 3 。天文15年(1546年)に創建されたこの御堂は、単なる寺院ではなく、周囲に堀や土塁を巡らせた一種の武装宗教都市、すなわち「寺内町」としての性格を色濃く有していた 4 。ここは「百姓の持ちたる国」とまで呼ばれた加賀国における、信仰と統治の中心地であった。この時代の都市構造は、防御を意識した不規則な区画や、信仰共同体に基づいた求心的な空間構成を特徴としていたと考えられる。この一向宗時代の都市基盤は、後の前田氏による都市改造の直接的な対象となると同時に、その計画に影響を与え続ける「土台」として、金沢の歴史の深層に残り続けたのである。

第二節:織田権力の刻印 - 佐久間盛政による最初の城下町

戦国の動乱は、この宗教都市に新たな支配者を送り込む。天正8年(1580年)、織田信長の家臣・佐久間盛政は、熾烈な戦いの末に金沢御堂を攻略し、この地に初めて城郭を築いた 4 。彼は、寺内町の構造を破壊・再編し、金沢御堂の跡地に「金沢城」を創建したのである。盛政の在城は天正11年(1583年)までのわずか3年余りであったが、この間に後の城下町の原型となる「尾山八町」と呼ばれる町人地の整備や、防御の要となる百間堀の開削などを行ったと伝えられている 6 。これは、金沢が宗教都市から、大名の支配下にある軍事拠点へとその性格を転換させた決定的な瞬間であった。盛政による最初の城下町建設は、前田氏の計画が全くの無から始まったのではなく、織田政権下で進められた近世的な都市建設の潮流を引き継ぐものであったことを示している。

第三節:前田利家の入城と初期構想(1583年~1591年)

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家方が敗れ、佐久間盛政が敗死すると、豊臣秀吉の配下として戦功を挙げた前田利家が、能登からこの金沢城に入城した 3 。加賀百万石の礎を築く前田家の金沢支配は、この時から始まる。利家は早速、佐久間盛政が築いた城と城下町を基礎としつつ、本格的な整備に着手した 8 。その成果は早くも現れ、天正14年(1586年)頃には天守が完成したと記録されている 9 。これは、1592年の「大普請」が突発的なものではなく、利家の入城以来、継続的に進められてきた都市整備の延長線上にあり、その規模と目的を飛躍させたものであったことを示唆している。

この初期構想期において、特筆すべきは、天正16年(1588年)に、秀吉のバテレン追放令によって改易されたキリシタン大名・高山右近を客将として庇護下に置いたことである 1 。右近は、当代随一の築城の名手として知られており、利家は彼を高く評価し、手厚く遇した 1 。この出会いが、後の金沢城および城下町の大規模な改造計画において、先進的な技術と思想が導入される重要な伏線となった。

金沢の都市形成史は、このように「宗教都市(一向宗)」から「軍事拠点(佐久間)」、そして「政治・経済・文化の中心(前田)」へと、支配者の目的と理念に応じて都市の機能と形態が上書きされていく、明確な段階的発展を遂げた。1592年の事業は、この重層的な文脈における、決定的な飛躍の瞬間として位置づけられるのである。

第二章:1592年、動乱の中の「大普請」- リアルタイム・ドキュメント

文禄元年(1592年)は、日本が大きな動乱の渦中にあった年である。この年の金沢で進められた大規模な都市改造は、国内の政治情勢、そして国際的な軍事行動と密接に連動していた。ここでは、当時の状況を時系列に沿って再構成し、変革のリアルタイムな様相に迫る。


表1:金沢城下町形成に関わる主要年表(1580年~1670年頃)

西暦(和暦)

支配者/藩主

金沢における主要な出来事(城郭・城下町関連)

国内外の関連事項

1580年(天正8)

佐久間盛政

金沢御堂を攻略し、金沢城を築城。城下町(尾山八町)の整備に着手。

石山合戦終結。

1582年(天正10)

佐久間盛政

本能寺の変。

1583年(天正11)

前田利家

賤ヶ岳の合戦後、金沢城に入城。本格的な城と城下町の整備を開始。

1586年(天正14)

前田利家

金沢城の天守が完成。

1588年(天正16)

前田利家

高山右近を客将として迎える。

刀狩令。

1592年(文禄元)

前田利家

文禄の役勃発。金沢城の本格的な石垣普請が開始される。

文禄の役(朝鮮出兵)開始。

1599年(慶長4)

前田利長

利家死去。徳川氏との緊張が高まる中、内惣構を構築。卯辰山に宇多須神社建立。

1600年(慶長5)

前田利長

関ヶ原の戦い。

1602年(慶長7)

前田利長

落雷により天守焼失。以後、再建されず。

1610年(慶長15)

前田利常

外惣構を構築。

1615年(元和元)

前田利常

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。

1616年(元和2)頃

前田利常

城下の寺社を三寺院群(卯辰山、寺町、小立野)に集約・配置。

1631年(寛永8)

前田利常

寛永の大火。城の大部分を焼失。

1632年(寛永9)

前田利常

大火後の復興事業。辰巳用水が完成。

1661年~80年頃

前田綱紀

寛文・延宝期に城下町がほぼ完成形となる。


第一節:国家的背景 - 文禄の役と前田家の立場

1592年の金沢を語る上で、豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄の役の勃発は決定的に重要な背景となる。この年の3月16日、加賀藩祖・前田利家は、秀吉の命令に従い、8,000と称される兵を率いて京都を出陣し、出兵の拠点である肥前名護屋城へと向かった 1 。名護屋において利家は、徳川家康らと共に、秀吉自身の渡海を諫止するなど、豊臣政権の中枢を担う重臣として極めて重要な役割を果たしていた 1

この「当主不在」という状況こそが、1592年の金沢大改造の直接的な引き金となった。藩主と主力部隊が長期間にわたり領国を離れることは、本国の守りが手薄になることを意味する。天下統一が成ったとはいえ、国内には依然として潜在的な敵対勢力が存在し、一揆などの不穏な動きも懸念される時代であった。このような状況下で、万一の事態に備え、本拠地である金沢の防衛能力を飛躍的に向上させることは、留守を預かる家臣団にとって最優先の戦略的課題であった。利家の出陣は、単なる年代設定のための事実ではなく、金沢で大規模な普請が開始された「動機」そのものを説明する核心的な要因なのである。

この視点に立つと、金沢の都市改造は、豊臣政権の世界戦略の「国内的帰結」であったと捉えることができる。文禄の役は、各大名家にとって自らの領国経営と安全保障に直結する国家的プロジェクトであった 11 。金沢城の強化と城下町の再編は、この巨大な国際紛争がもたらした緊張状態に対する、前田家の組織的かつ合理的な応答であった。一地方都市の計画が、世界史的な出来事と分かちがたく結びついていたのである。

第二節:金沢城、要塞への変貌 - 現場からの報告

利家の出陣とほぼ時を同じくして、留守の金沢では、城の大規模な改修工事、すなわち「大普請」が開始された。文禄元年(1592年)の出来事として最も明確に記録されているのは、「金沢城が修築され、本格的な石垣普請が行われる」という事実である 8 。これは、それまでの土塁を中心とした中世的な城郭から、石垣を多用した、より堅固で恒久的な近世城郭へと質的な転換を遂げる、決定的な一歩であった。

この石垣普請には、膨大な量の石材が必要であった。城の石垣に用いる巨石は、戸室山から切り出され、金沢まで運搬された。これは当代の土木技術と動員力を結集した一大事業であった。その過酷さと、人々の願いを今に伝えるのが、金沢市内に現存する「下馬地蔵」である。この地蔵は、文禄元年に、戸室山からの巨石運搬工事の安全を願って建立されたと伝えられており、当時の現場の息遣いを伝える生々しい証拠と言える 14

利家不在の金沢において、この大事業を誰が指揮したのか。嫡男の前田利長が総責任者であったことは間違いないが、その傍らには、築城の名手として知られる客将・高山右近の存在があったと広く伝えられている 1 。右近は、その先進的な築城術をもって、金沢城の修築や縄張りを指導したとされる 15 。ただし、右近の関与を直接的に証明する当時の一次史料は現存しておらず、後世の記録に基づく伝承であるという点には留意が必要である 16 。しかし、彼の専門知識がこの大事業に何らかの形で活かされた可能性は極めて高い。

第三節:「町割整理」の胎動 - 都市改造の第一歩

城の要塞化、特に大規模な石垣や堀の新設は、城に隣接する土地の収用を必然的に伴った。当時の金沢城は、城内に重臣たちの屋敷も存在しており、決して広大な城ではなかった 7 。防御力を高めるために城郭エリアを拡張するには、城の周辺に散在していた寺社や武家屋敷、町家を立ち退かせ、別の場所へ移転させる必要があった。これこそが、利用者様の知る「寺社群の移転で町割整理を断行」という事象の直接的な契機である。

このことから、1592年時点での「碁盤化」や「町割整理」は、都市全体の計画的な再編というよりは、まず城郭拡張という軍事目的を達成するための「クリアランス(立ち退きと整地)」作業として始まったと考えるのが妥当であろう。しかし、この過程で「立ち退かせた寺社や家々を、どこに、どのように再配置するのか」という、新たな都市計画上の問いが必然的に生じる。この問いへの答えを模索する中で、後の金沢城下町の骨格をなす、より壮大なグランドデザインへと繋がっていったのである。1592年は、その最初のドミノが倒れた年、すなわち、軍事的な必要性から始まった部分的な空間整理が、都市全体の構造的変革へと発展する「始動の年」であったと結論づけられる。

第三章:グランドデザインの解剖 - 加賀百万石の礎を築いた都市戦略

1592年に始まった金沢の都市改造は、単なる場当たり的な対応ではなかった。その背後には、軍事、政治、経済、そして宗教統制をも統合した、長期的かつ多角的な都市戦略、すなわち壮大なグランドデザインが存在した。この章では、その計画の核心部分を解剖する。

第一節:防御思想の徹底 - 惣構と寺院群

金沢城下町の設計思想の根幹をなすのは、徹底した防御思想である。その象徴が、城下町全体を堀と土塁で二重に囲む防衛ライン「惣構(そうがまえ)」と、戦略的に配置された三つの寺院群であった。

惣構の構築は、内惣構が慶長4年(1599年)、外惣構が慶長15年(1610年)と、1592年より後に行われた事業であるが、その基本構想は文禄の役を契機とした防衛意識の高まりの中で生まれたと考えられる 17 。特に内惣構は、高山右近の指揮によって築かれたと伝えられており、城下町の防衛線を明確に画定するものであった 19

惣構と並行して、あるいはそれを補完する形で進められたのが、城下に散在していた寺社の集団移転である。これは三代藩主・前田利常の時代、元和2年(1616年)頃に完成を見るが、その源流は1592年の町割整理にある 22 。寺社は単に整理されたのではなく、明確な戦略意図をもって三つのエリアに集中配置された。

  • 卯辰山山麓寺院群: 金沢城から見て鬼門(北東)にあたるこの地に寺社を集めることで、呪術的な防御(鬼門除け)を図ると同時に、有事の際には敵の侵攻を食い止める物理的な防衛拠点としての役割を担わせた 22 。慶長4年(1599年)に利家を祀る宇多須神社が建立されるなど、前田家の権威を象徴する地でもあった 25
  • 寺町寺院群・小立野寺院群: 城の南西と南東の街道筋に配置され、城下への入口を固める防衛拠点としての機能が期待された 2

この都市構造は、城を中心として内へ内へと守りを固める「求心的な防御思想」(惣構)と、城下の外縁部に防衛拠点を配置して敵を外側で食い止める「遠心的な防御思想」(三寺院群)を組み合わせた、ハイブリッド型の多層的な防衛システムであった。これは、織田信長や豊臣秀吉の時代に発展した織豊系城下町の設計思想を継承し、さらに発展させたものと評価できる 27

第二節:水の支配 - 都市の生命線たる用水網

堅固な城郭と城下町を維持するためには、水の確保と管理、すなわち「治水」が不可欠であった。金沢の都市計画において、用水ネットワークは、単なる生活インフラにとどまらず、戦略的な価値を持つ重要な要素であった。用水は、堀を満たして防御力を高める軍事機能、火災から都市を守る防火機能、人々の暮らしを支える生活用水、そして水車を動力源とする産業機能といった、極めて複合的な役割を担っていたのである 29

1592年の都市改造においても、既存の用水路の活用と再編は重要な課題であった。特に「鞍月用水」は、藩政時代以前からの古い歴史を持つ用水であったが、城下町の整備に伴い、惣構堀の主要な水源として、また武家屋敷や町人地の生活用水として、新たな都市システムの中に巧みに組み込まれていった 30

後の時代、寛永9年(1632年)に完成する「辰巳用水」は、1592年時点では存在しないものの、この年に顕在化した都市の課題(城の防火、防御強化)に対する究極的な解決策であった 33 。逆サイフォンの原理という当代最高の土木技術を駆使して犀川の水を城内まで引き込み、金沢城を難攻不落の要塞へと完成させたこの事業は、1592年に始まった「水の支配」という思想の到達点であったと言える 34

第三節:経済と文化の基盤形成

1592年に始まった都市改造は、軍事的な安全保障の確立が、結果として長期的な経済・文化の発展を可能にする「プラットフォーム」を構築した事例として捉えることができる。

町割整理を通じて、武士は城の周辺に、町人は商業の中心地に、そして職人は特定の区域へと、身分や職業に応じた居住区が形成されていった 2 。これは、封建的な社会秩序を空間的に可視化し、統治の効率を高めると同時に、それぞれの経済活動の専門化と集積を促す効果をもたらした。

前田家は都市のハードウェア整備と並行して、産業振興というソフトウェアの充実にも力を注いだ。奇しくも1592年には、二俣和紙が藩の御料紙として指定され、翌1593年には金沢での金箔・銀箔の製造が始まったと記録されている 9 。さらに前田家は、京都や江戸など全国から優れた職人たちを積極的に招聘し、彼らに土地や支援を提供することで、後の「加賀百万石文化」と称される高度な伝統工芸の礎を築いた 36

安全で秩序だった都市空間がなければ、商工業者は安心して活動できず、文化人も集まらない。惣構や寺院群によってもたらされた「平和の保証」が、人々を惹きつけ、経済活動を活発化させ、文化を爛熟させた。軍事目的で始まった都市計画が、意図せざる結果として、文化都市・金沢の揺りかごとなったのである。この因果関係こそ、1592年のグランドデザインが持つ、最も重要な歴史的意義の一つである。

第四章:1592年の遺産 - 城下町の完成と現代への継承

文禄元年に始動した壮大な都市改造計画は、一世代で完結するものではなかった。それは前田家三代にわたる息の長い事業として引き継がれ、今日の金沢の骨格を決定づけた不朽の遺産となった。

第一節:三代にわたる都市創造

1592年に藩祖・利家の下で始まった計画は、二代藩主・利長、そして三代藩主・利常の時代へと着実に引き継がれた 5 。利長の時代には惣構の構築が進み、利常の時代には寛永の大火(1631年)後の復興事業や辰巳用水の建設、そして三寺院群の配置完了など、都市の機能と景観が大きく向上した 5 。金沢城下町がほぼ完成形に至ったのは、17世紀後半の寛文・延宝期(1661年~80年)であったとされる 38 。また、この間、城下町の人口は増加を続け、武家地や町人地が不足するようになると、城下周辺の農地を宅地化する「相対請地(あいたいうけち)」といった新たな都市開発の手法も生まれるなど、金沢は有機的な成長を続けた 39

第二節:地図に刻まれた永続性

1592年に始まった都市計画がいかに強固で、後世の発展を規定し続けたか。その最も雄弁な証拠は、江戸時代に作成された古地図と現代の地図との比較にある。寛文7年(1667年)の「金沢図」や延宝年間(1673年~81年)の「延宝金沢図」などに描かれた主要な街路網は、驚くほど今日の金沢市の中心市街地の道路と一致している 41 。城から放射状に延びる道、それらを結ぶ環状の道、そして敵の侵入を阻むために意図的に作られた袋小路やT字路など、都市の骨格が400年以上の時を超えて受け継がれているのである。金沢が「街そのものが博物館」と称される所以は、まさにここにある。

第三節:現代景観への影響

今日の金沢を訪れる人々を魅了する歴史的な景観は、そのほとんどが1592年の都市改造計画に源流を持つ。犀川のほとり、長町武家屋敷跡に残る土塀と石畳、そしてその脇を流れる大野庄用水のせせらぎ 45 。繊細な格子が美しい町家が軒を連ねるひがし茶屋街 24 。そして、それぞれに趣の異なる静寂な佇まいを見せる卯辰山、寺町、小立野の三寺院群。これらすべてが、あの動乱の年に描かれたグランドデザインの上に花開いた文化景観である。

かつて城下町の生命線であった用水は、今もなお街中に潤いを与え、市民の憩いの場として親しまれている 47 。前田家が奨励した能楽は「加賀宝生」として受け継がれ 45 、全国から集められた職人たちの技は、加賀友禅や金沢箔、九谷焼といった伝統工芸として現代に息づいている 36 。1592年の決断が、単なる都市の物理的な再編にとどまらず、400年以上にわたって金沢の文化的アイデンティティを形成し続けてきたのである。

結論:始動の年、1592年

本報告書で詳述してきた通り、「金沢城下町碁盤化(1592)」は、単一年に完結した土木事業ではなく、文禄の役という国家的非常事態を直接的な契機として発動された、長期的かつ多層的な都市戦略の決定的な「始動の年」であったと結論づけられる。

その本質は、美観を追求した「碁盤化」にあるのではなく、まず第一に金沢城の防御力を極限まで高める「要塞化」にあった。この軍事的な必要性が、城下の空間を再編する大規模な町割整理を不可避とし、その過程で、より壮大な都市のグランドデザインが構想されていった。それは、軍事防衛、政治的支配の確立、旧来の宗教勢力の統制、用水網という都市インフラの整備、そして将来の経済振興という、複数の目的を一つの計画の中に統合した、極めて高度な「領国経営」の実践であった。

前田利家、その意志を継いだ利長、そして専門家として計画を支えたであろう高山右近らが描いた青写真は、その後の加賀百万石の繁栄を支える物理的・社会的基盤を築き上げた。そして、その強固な都市の骨格は、幾多の時代変遷を経ながらも受け継がれ、今日の歴史都市・金沢の比類なき景観と文化を決定づける不朽の遺産となっている。文禄元年、動乱のさなかの金沢で鳴り響いた槌音は、単なる城普請の音ではなかった。それは、新たな時代を告げる都市の産声だったのである。

引用文献

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  3. 金沢城下町の眺望景観に関する研究 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00039/201506_no51/pdf/367.pdf
  4. 加賀百万石の金沢城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44014/
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  8. 建築の面白さ - ほっと石川旅ねっと https://www.hot-ishikawa.jp/lsc/upfile/pamphlet/0000/0020/20_1_file.pdf
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  34. 19 辰巳用水 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/2/5019.html
  35. 辰巳用水とは https://tatsumi-manabukai.com/%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E7%94%A8%E6%B0%B4%E3%81%A8%E3%81%AF/
  36. 加賀藩と前田家の文化政策|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00065.html
  37. 戦国時代~江戸時代 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kohokochoka/gyomuannai/5/5/12/2050.html
  38. 金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/pdf/94186501_10.pdf
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  40. 金沢城下町の歴史~金沢の町並みは江戸時代と令和の地図がほぼ一致 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14356/
  41. 金沢図 | デジタルコレクション | SHOSHO - 石川県立図書館 https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/digicolle/curation/DIGICOLLE04
  42. 絵図・地図資料にみる昔の金沢 - 石川県立図書館 https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/file/3070.pdf
  43. 金沢古地図散歩「本多町から桜橋まで」金沢21世紀美術館に遊びに来た時には是非やってみて!絶対疲れるから!! - ビューティーホクリク https://beauty-hokuriku.com/p/map-honda-sakura
  44. 金沢城下町の歴史~金沢の町並みは江戸時代と令和の地図がほぼ一致 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14356/?pg=2
  45. 金沢に息づく武家文化 ~武士道が育んだ文化の都 - 金沢旅物語 https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/article/detail_584.html
  46. 大野庄(おおのしょう)用水・鞍月(くらつき)用水 - 石川県土地改良事業団体連合会 水土里ネットいしかわ https://midori-net.jp/bulletin/archive/water/water20
  47. 鞍月用水|スポット|【公式】石川県の観光/旅行サイト「ほっと石川旅ねっと」 https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_22331.html
  48. 鞍月用水|観光・体験 - 金沢旅物語 https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10097.html
  49. 加賀百万石―金沢に花開いたもう一つの武家文化 - 国際交流基金 https://www.jpf.go.jp/j/about/press/dl/0947.pdf
  50. 金沢 加賀前田家の奥方御殿 成巽閣 https://www.seisonkaku.com/