一条内政(いちじょう ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてその名を歴史に刻む土佐国の公家であり、また大名として土佐一条氏の第五代当主を務めた人物である 1 。本報告書は、一条内政の生涯、土佐一条氏における彼の位置づけ、そして彼を取り巻いた戦国時代の激動、とりわけ土佐の実力者であった長宗我部元親との複雑な関係性を、現存する史料に基づき、多角的な視点から詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。
戦国時代の土佐国は、中央の政治的混乱が地方にも波及し、在地領主たちが勢力を競い合う群雄割拠の様相を呈していた。その中で土佐一条氏は、応仁の乱の戦火を避けて京より下向した前関白一条教房を始祖とし、土佐国西部の幡多郡中村(現在の高知県四万十市)を本拠地として独自の勢力を築き上げた公家大名であった 3 。彼らは中央の権威を背景に持ちつつも、在地領主としての側面を併せ持ち、その居館周辺は「土佐の小京都」と称されるほどの文化都市を形成したと伝えられている 5 。土佐一条氏は、幡多郡を中心に一万五千貫とも一万六千貫ともいわれる広大な荘園を領有し、その経済力と京都からもたらされた文化的権威は、土佐の国人衆にとって一種の盟主的な存在としての地位を確立する源泉となっていた 7 。
しかし、戦国時代も中期に入ると、土佐国内の勢力図は大きく塗り替えられることになる。長宗我部氏は、当初土佐のいわゆる「七雄」と称される有力国人の中でも比較的小さな勢力に過ぎなかったが、長宗我部国親の代に再興の礎を築き、その子である長宗我部元親の代に至って飛躍的に勢力を拡大させた 3 。元親は、その卓越した戦略と、「一領具足」に代表される精強な軍事力を背景に、土佐国内の統一を着実に進め、やがては四国全土の制覇という壮大な目標を掲げるに至る 10 。この長宗我部氏の急速な台頭は、既存の権威であった土佐一条氏との間に、避けられない緊張と対立を生み出し、一条内政の生涯もまた、この大きな歴史の渦の中で翻弄されることとなるのである。
土佐一条氏は、藤原氏の血脈を引く五摂家の一つ、一条家の庶流にあたり、その極めて高い家格は、遠く離れた土佐の地においてもなお、彼らの権威の源泉として機能した 3 。その歴史は、応仁・文明の乱(1467年~1477年)の長期にわたる戦乱を避け、当時の関白であった一条教房が自らの所領であった土佐国幡多荘へ下向し、中村の地に拠点を構えたことに始まる 5 。
彼らは、京の公家としての洗練された文化性を保持しつつも、在地領主として幡多郡および高岡郡(現在の高知県西部)一帯を実効支配し、その領域を統治した 13 。さらに、四万十川流域の物流を押さえ、九州や畿内との交易を活発に行うことで経済的な繁栄も築き上げた 5 。土佐一条氏が「公家大名」と称される背景には、単に公家出身であるという血統的事実のみならず、このように中央たらしめる文化的権威と、地方における在地領主としての実効支配を両立させていた点にある。この中央と地方、文化と武力、権威と実力といった二重性が、初期における彼らの強みであったと同時に、下剋上が常態化する戦国乱世においては、その脆弱性へと転化していく要因ともなったと考えられる。中央の権威は、実力主義が横行する時代においては、それを裏付ける軍事力が伴わなければ容易に形骸化しうるものであり、この点が後の長宗我部氏による侵食を許す一因となった可能性は否定できない。
一条氏は、本拠地である中村に京都の街並みを模倣した都市計画を施し、洗練された京文化を積極的に移植した 5 。神社仏閣の建立や整備にも力を注ぎ、地域の文化水準の向上や経済の発展に大きく寄与したと評価されている 5 。例えば、現在も四万十市に残る東山や鴨川といった地名は、一条房家(教房の子、土佐一条氏初代当主)が京都の有名な地名にちなんで名付けたと伝えられている 13 。
このような「土佐の小京都」の形成は、単に都に対する憧憬の念の現れというだけではなく、より高度な政治的意図を含んでいたと解釈することも可能である。すなわち、中央の先進的な文化や高い権威を地方に示すことによって、割拠する在地領主層に対して一条氏の優越性を印象づけ、精神的な支配を強化することで、彼らの政治的・社会的な地位を確固たるものにしようという戦略があったのではないだろうか。戦国時代において、文化的先進性はそれ自体が権威の一形態となり得たのであり、一条氏はこの点を巧みに利用しようとしたと考えられる。
一条内政の父である一条兼定は、土佐一条氏の第四代当主にあたる 14 。その治世初期においては、伊予国(現在の愛媛県)への勢力拡大を試みるなど、積極的な活動も見られた 14 。しかし、時代の趨勢は彼に厳しく、土佐国内で急速に力をつけてきた長宗我部元親からの圧迫を次第に受けるようになる 16 。
兼定の評価を大きく損ねたとされるのが、家中における信望の失墜である。特に、一条家の重臣であった土居宗珊(あるいは宗算)を、讒言を信じたためか、あるいは諫言に激怒したためか、無実の罪で殺害、もしくは手討ちにしたと伝えられている 15 。この事件は、家臣団の間に兼定に対する不信感を植え付け、その求心力を著しく低下させる結果を招いた。『土佐物語』などの後世の軍記物においては、兼定は酒宴遊興に耽り政事を顧みない暗愚な君主として描かれることが多い 14 。しかしながら、これらの記述は、兼定を追放した勢力、すなわち長宗我部氏や一条家の家臣一部の行動を正当化する意図のもとに、時代が下ってから記されたものであり、その史料的価値については慎重な批判的検討が必要である 14 。兼定の「失政」や「暗愚」といった評価は、彼を追放した側にとって都合の良いように強調された側面がある可能性を考慮しなければならない。特に、兼定追放によって土佐支配を大きく進展させた長宗我部元親は、その最大の受益者であったと言える。
天正元年(1573年)9月、兼定の度重なる「乱行」や家中の混乱を背景として、羽生監物(はぶ かんもつ)、為松若狭守(ためまつ わかさのかみ)、安並和泉守(やすなみ いずみのかみ)といった一条家の三人の家老が合議の上、兼定に隠居を強制するという挙に出た 14 。
この兼定追放劇の背後には、単なる家臣団の離反というだけではなく、より複雑な要因が絡み合っていたと考えられている。有力な説としては、土佐国内で勢力を伸張させていた長宗我部元親と、京都にいた一条本家の当主・一条内基(うちもと、兼定の義弟にあたる)との間で何らかの協議が持たれ、内基の了承、あるいは強い意向のもとに元親が追放を実行したというものである 14 。内基は、土佐一条氏が在地領主として武家化し、戦国大名として独自の道を歩むことを、公家としての家格を重んじる立場から好ましく思っていなかったとされる 14 。そのため、兼定には権中納言昇進を花道として隠居するという体裁を整えさせ、その一方で、長宗我部氏に対しては土佐国西部の支配権を黙認する代わりに、一条家としての名目的な権益を保持しようとしたのではないかと推測されている 14 。この観点からすれば、兼定追放やその後の土佐一条家の内紛は、京都の本家一条氏の意向に従おうとする家臣と、これに反発する在地志向の家臣との間の対立であったとも言えるだろう。
追放された兼定は、天正2年(1574年)2月、中村の居館を離れ、九州豊後臼杵(現在の大分県臼杵市)の大友宗麟を頼った 16 。宗麟は兼定の岳父(妻の父、または妻の兄弟)にあたる。同年、兼定は宣教師ジョアン・カブラルよりキリスト教の洗礼を受け、ドン・パウロという洗礼名を授かっている 14 。
しかし、兼定は土佐回復の夢を諦めてはいなかった。天正3年(1575年)7月、大友氏の援助を得て土佐国へ進撃するも、四万十川の戦い(渡川の戦い)で長宗我部元親の軍勢に決定的な大敗を喫した 14 。この敗北により、戦国大名としての土佐一条氏は実質的に滅亡し、兼定が勢力を回復することは二度となかった。兼定追放は、単に一地方大名の失脚という事件に留まらず、中央の公家社会の力学と地方の武家勢力の台頭が複雑に絡み合った、戦国時代特有の権力構造の変動を示す象徴的な出来事であったと言える。
一条内政は、永禄5年(1562年)頃、土佐一条氏の当主であった一条兼定の嫡男として、土佐国幡多郡中村(現在の高知県四万十市)で生を受けたとされる 1 。母は宇都宮豊綱の娘である 2 。幼名は万千代、あるいは吉房子(きっしし、よしふさし)とも伝えられている 1 。
内政の運命が大きく動いたのは、天正元年(1573年)9月、父・兼定が前述の経緯により隠居を余儀なくされた時であった。この政変に伴い、長宗我部元親によって、内政はわずか十代前半の若さで形式的な土佐国主として擁立されることとなった 1 。まさに、彼自身の意思や能力とは無関係に、周囲の有力者たちの政治的都合によってその運命が決定づけられた瞬間であり、この事実は、彼の生涯が傀儡としての宿命から逃れられなかったことを象徴している。家督相続にあたっては、折しも土佐に下向していた京都の一条本家当主である一条内基(兼定の義弟)が元服の儀を執り行い、内基自身の名の一字(偏諱)である「内」を与えて「内政」と名乗らせたとされる(ただし、「内」の読みは「うち」と「ただ」で異なる) 1 。この一連の出来事は、内政が自らの主体的な行動によって国主の座を得たのではなく、長宗我部元親と一条内基という二人の有力者の政治的力学の中で、「国主」という役割を一方的に与えられたに過ぎなかったことを如実に物語っている。
土佐国主として擁立されたとはいえ、一条内政に実権は全くなかった。長宗我部元親の後見という名目のもと、内政は父祖伝来の地である中村を離れ、元親の本拠地である岡豊城(おこうじょう)に近い長岡郡大津(現在の高知市大津)の城に移され、「大津御所」と称されるようになった 1 。これは、元親が旧主である一条氏の権威を巧みに利用しつつも、その影響力を自らの厳格な管理下に置こうとするための周到な措置であったと考えられる。
さらに元親は、自らの娘を内政に嫁がせ、姻戚関係を構築した 1 。この政略結婚は、内政を傀儡として懐柔すると同時に、依然として一条家に忠誠を誓う旧臣たちを安心させ、彼らの反発を抑えるための計算された一手であったと見ることができる 25 。
大津御所における内政の生活は、形式上は国主としての体面を保たれていたものの、実質的には元親の厳重な監視下に置かれたものであった。その心境は察するに余りあり、心楽しむことなく、自暴自棄な日々を送ったとも伝えられている 27 。この「大津御所」という存在そのものが、長宗我部元親の巧妙かつ非情な支配戦略の象徴であったと言えるだろう。元親は、一条氏が長年培ってきた伝統的権威を完全に否定し去るのではなく、それを自らの支配体制の中に巧みに組み込むことによって、土佐国内の掌握をより円滑に進めようと図ったのである。内政の人生は、この元親の冷徹な戦略の前に、いわば犠牲となったと言っても過言ではない。
近年、歴史研究者の秋澤繁氏は、長宗我部元親による土佐支配の一形態として「御所体制」という概念を提唱している。この説によれば、元親は一条内政およびその子である政親を名目上の国主として庇護し、彼らが有する公家としての官位や一条家代々の権威を、特に織田政権など中央の勢力との外交交渉において巧みに利用したとされる 29 。
この「御所体制」論の観点に立てば、一条内政は単なる無力な傀儡というだけでなく、長宗我部元親の支配体制において、特に外交面での権威付けという限定的ながらも一定の役割を担っていたと解釈することが可能となる。しかしながら、この「御所体制」という概念の存在やその実態については、他の研究者から疑問視する声も上がっており、学界で完全に定説となっているわけではない 1 。元親が一条氏の権威をどの程度、またどのような具体的な意図をもって利用したのか、そしてその中で内政自身がどのような意識を持ち、いかなる行動をとり得たのか(あるいは、とり得なかったのか)という点は、依然として重要な論点であり続けている。内政は、国内向けには旧勢力の象徴としての役割を、そして対外的、特に織田信長など中央政権に対しては、国主としての体面を保つための道具として利用された可能性が考えられる。
中央で覇権を確立しつつあった織田信長の四国政策もまた、一条内政の立場に影響を与えた。信長の側近であった太田牛一の著作とされる『信長公記』の天正8年(1580年)6月26日の条には、明智光秀の仲介を通じて織田信長に貢物を持参した長宗我部元親のことが、「土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守」と記されている 1 。
前述の秋澤繁氏の説では、この記述は、織田政権が一条内政を名目上の土佐国主として公式に認識しており、長宗我部元親をその「補佐」役、すなわち陪臣として位置づけていたことを示すものと解釈される。あるいは、信長が意図的に内政を国主と認定することで、元親の土佐における実効支配を間接的に否認し、信長を頂点とする「信長-内政-元親」という新たな秩序への服従を暗に要求したという見方も提示されている 1 。
織田信長の四国に対する政策は、時期によって変遷が見られる。当初、天正3年(1575年)頃には、元親に対し四国を「手柄次第に切り取る」ことを認めるなど、元親にとって有利な姿勢を示していた 32 。これは、信長に敵対する三好氏を牽制するための戦略であったと考えられる。しかし、その後、三好一族の三好康長が信長に降伏すると、信長は方針を転換し、元親に対して土佐一国と阿波南半国(阿波南二郡)の領有のみを認め、それ以外の伊予・讃岐など征服した土地の返還を厳命するようになった 32 。この急激な政策転換は、長宗我部元親と織田信長との関係を著しく悪化させ、本能寺の変(天正10年、1582年)の遠因の一つになったとする説も存在する 32 。
このような中央政権の動向の中で、一条内政の存在は、織田信長にとって長宗我部元親の四国における勢力拡大を牽制し、自らの覇権構造の中に組み込むための一つの駒、あるいはカードとして利用された可能性が考えられる。後に元親が内政を追放したことは、信長の意図する秩序(信長-内政-元親という主従関係)を明確に拒否する意思表示であったと解釈でき、これが両者の関係を決定的に悪化させ、信長による四国征伐軍派遣計画へと繋がったと秋澤氏は指摘している 2 。
「大津御所」における一条内政の傀儡としての生活は、突如として終わりを告げる。天正8年(1580年)あるいは天正9年(1581年)2月、長宗我部氏の有力な家臣であった波川清宗(はかわ きよむね、通称は玄蕃頭)が、主君である長宗我部元親に対して謀反を企てたとされる事件が露見した 1 。波川清宗は、元親の妹婿にあたり、長宗我部一門衆として重用されていた人物であったが、伊予戦線における失態などを理由に元親の不興を買い、その不満から反乱を計画したとされている 34 。
この波川清宗の謀反計画に、一条内政も関与していたという嫌疑がかけられたのである 1 。内政が実際にこの謀反に主体的に関与したのか、それとも単に名前を利用されただけであったのか、その真相は史料の制約から判然としない。傀儡としての屈辱的な境遇に対する不満から、元親排除の動きに同調した可能性も皆無とは言えない。しかし、むしろ長宗我部元親が、何らかの理由で不要となった、あるいは危険視し始めた内政を合法的に排除するための口実として、この事件を利用した可能性も十分に考えられる。特に、秋澤繁氏が指摘するように、織田信長との関係が悪化する中で、信長が土佐国主と認識していた可能性のある内政の存在が、元親にとって政治的に不都合なものとなっていたことも背景にあるのかもしれない 2 。波川清宗の乱の真相自体も、元親による土佐国内の権力集中と支配体制強化の過程で起こった、内部粛清の一環であったという見方も成り立つだろう。
謀反関与の嫌疑という、おそらくは濡れ衣に近い理由によって、一条内政は土佐国から追放され、伊予国法華津(現在の愛媛県宇和島市吉田町法華津)へとその身を移すこととなった 1 。
追放後の内政は、伊予の在地領主であった法華津氏や、かつて父・兼定も頼った豊後の大友氏に援助を求めたと伝えられている 1 。法華津氏は、伊予南部の宇和郡を拠点とし、水軍を擁していた有力な国人領主である。当初は伊予守護であった西園寺氏に従属していたが、戦国時代の流動的な情勢の中で、ある時期には長宗我部氏に寝返り、またその後には小早川隆景に付くなど、自らの勢力維持のために複雑な外交戦略を展開していたことが知られている 35 。
内政が追放先として法華津氏を頼った具体的な背景については、史料からは明確に読み取ることは難しい。しかし、内政追放の時期(天正8年~9年頃)に、法華津氏が長宗我部氏と何らかの対立関係にあった、あるいは一定の距離を置いていた可能性が考えられる。また、かつて父・兼定が伊予の諸勢力と連携して長宗我部元親と四万十川で雌雄を決した経緯もあり 14 、伊予国内には依然として反長宗我部、あるいは親一条的な感情を持つ勢力が存在したのかもしれない。法華津氏が内政を庇護した動機としては、反長宗我部勢力としての内政の利用価値への期待や、あるいは名家である一条氏の御曹司に対する同情などが考えられるが、いずれも推測の域を出ない。
伊予へ追放された一条内政の最期については、いくつかの説が伝えられており、判然としない部分が多い。伊予の地で失意のうちに病死したとも、あるいは追放後もなおその存在を警戒した長宗我部元親によって毒殺されたともいわれている 1 。さらに、天正8年(1580年)5月に伊予国邊浦(へうら、場所の特定は困難)において殺害されたとする説も存在する 1 。
内政の没年に関しても、史料によって記述が異なり、混乱が見られる。主に二つの説があり、一つは天正8年(1580年)とするもの 1 、もう一つは天正13年6月5日(グレゴリオ暦1585年7月2日)とするものである 1 。興味深いことに、父である一条兼定の死没は天正13年7月1日(グレゴリオ暦1585年7月27日)とされており 14 、内政がその父の死のわずか翌日(和暦では前だが、グレゴリオ暦換算では後になる月もある。ここでは和暦での翌日とする記述を重視)に死去したとする記録も存在する 14 。
内政の戒名は、天叟守有大居士(てんそうしゅゆうだいこじ)と伝えられている 1 。
内政の死因と没年に関する情報の錯綜は、彼の生涯が歴史の記録の中でいかに曖昧に、あるいは断片的にしか扱われてこなかったかを示していると言えるだろう。長宗我部元親による毒殺説が後世まで根強く残っているのは、元親にとって内政の存在が最終的に邪魔になったという状況証拠と、元親の時に見せる非情な一面を反映している可能性がある。もし天正13年没が事実であるとすれば、父・兼定の死の直後に内政もまたこの世を去ったことになり、そのあまりにも劇的な偶然の一致は、土佐一条氏の悲劇性を一層深めるものとなる。この情報の不確かさ自体が、一条内政という人物の歴史における影の薄さ、あるいは彼に関する記録の散逸を物語っているのかもしれない。
以下に、一条内政の最期に関する諸説をまとめた表を示す。
一条内政の最期に関する諸説比較表
説 |
没年 |
死因 |
典拠/提唱者 |
備考 |
説A |
天正8年(1580年) |
毒殺/病死/殺害 |
1 |
伊予にて。殺害場所として「邊浦」との記述あり 1 。 |
説B |
天正13年6月5日(1585年7月2日) |
毒殺/病死 |
1 |
父・一条兼定の死没(天正13年7月1日)の翌日とする記述あり 14 。 |
この表からもわかるように、内政の最期については確定的な情報が乏しく、今後の研究による新たな史料の発見や解釈が待たれるところである。
一条内政には、正室である長宗我部元親の娘との間に、嫡男として一条政親(いちじょう まさちか)がいたことが記録されている 1 。政親の生涯もまた、父・内政と同様に、戦国末期の土佐における激動の歴史に翻弄されるものであった。
父・内政が伊予へ追放された(あるいは死去した)後、幼い政親は母方の祖父にあたる長宗我部元親の家臣、久礼田定祐(くれだ さだすけ)によって養育されたと伝えられている 12 。この養育の地名にちなんでか、政親は「久礼田御所(くれだごしょ)」と称されることもあった 12 。
政親の具体的な動向を示す史料は乏しいが、宮廷の記録である『御湯殿の上の日記』の天正14年(1586年)12月22日の条に、「とさの一てう殿しょ大夫四位。政親」という記述が見られる。これは、長宗我部元親の嫡男・信親が戦死した戸次川の合戦(天正14年12月)の直後のことであり、政親がこの時期に摂津守に任官し、従四位下の官位を有していたことを示している 12 。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて長宗我部氏が西軍に与して敗北し、改易処分となると、政親の運命もまた暗転する。彼が居住していたとされる久礼田城もこの時期に廃城となったと考えられ 37 、政親自身は京都あるいは大和国(現在の奈良県)へ退去したともいわれるが、その後の具体的な消息は不明である 12 。政親の生涯は、祖父・兼定や父・内政と同様に、時代の大きな波に翻弄されたものであったと言える。「久礼田御所」という呼称は、一条氏の血脈が長宗我部氏の庇護下で辛うじて存続していたことを示し、元親にとって、旧一条家家臣団への配慮や、中央政権に対する体面を保つ上で、政親の存在がある種の政治的価値を依然として有していた可能性を示唆している。しかし、その庇護者であった長宗我部氏の滅亡とともに、政親の存在意義もまた歴史の表舞台から失われてしまったのである。
一条内政の死、そしてその子である政親の消息不明により、応仁の乱を避けて土佐に下向した一条教房以来、約一世紀にわたって土佐国西部に君臨した土佐一条氏の血統は、実質的にここで途絶えることとなった 12 。
土佐一条氏は、戦国時代の荒波の中で、公家としての高い文化的権威と、在地領主としての地域支配力を両立させようと試みたが、最終的には長宗我部氏という新興の武家勢力によってその支配権を奪われ、歴史の舞台から姿を消すに至った。彼らの滅亡は、戦国時代における「下剋上」という現象の一つの典型例として捉えられると同時に、古くからの伝統的権威(公家)が、実力主義を奉じる新たな勢力(武家)に取って代わられるという、時代の大きな転換を象徴する出来事であったと言える。
なお、明治時代に入り、京都の一条宗家により一条実基(さねもと)を当主とする形で土佐一条家が再興され、華族として男爵の爵位を授けられているが 8 、これはかつての土佐一条氏との直接的な血統的連続性を持つものではない。
一条内政は、歴史の大きな転換期において、自らの意思とは別に運命に翻弄された悲劇的人物として評価されることが多い。彼自身の主体的な行動に関する記録は極めて乏しく、その生涯の大部分は、父・兼定の失脚と長宗我部元親の台頭という、より大きな歴史的事件の陰に隠れがちである。
しかしながら、彼の存在は、長宗我部元親による土佐統一戦略、さらには織田信長の中央政権による四国政策とも深く関わっており、戦国時代の土佐における権力移行の複雑な過程を理解する上で、重要なケーススタディを提供している。内政の傀儡としての立場や、その悲劇的とも言える最期は、戦国時代の非情さと、権力闘争の厳しさを如実に物語っている。
一条内政個人に焦点を当てた詳細な研究は、史料的制約から決して多くはない。しかし、彼を通じて土佐一条氏の末路、長宗我部元親の巧みな戦略、そして中央政権と地方勢力との間の緊張関係など、より大きな歴史的文脈を考察することが可能となる。彼の「無力さ」や「記録の乏しさ」そのものが、歴史における敗者や弱者の立場を象徴しており、そうした視点から彼の生涯を見つめ直すことにも意義があると言えるだろう。
一条内政および土佐一条氏に関する研究を進める上で、主要な史料の性質と信頼性を批判的に検討することは不可欠である。
『土佐物語』は、江戸時代初期に成立した軍記物語であり、長宗我部氏の興亡を中心に土佐の戦国時代を描いている。しかし、その記述には文学的な脚色が多く含まれており、特に一条兼定を暗愚な君主として描くなど、特定の人物に対する評価が一方的である傾向が見られる 14 。近世の儒学者である谷秦山も、その内容の信頼性に対して早くから疑義を呈しており 20 、現代の歴史研究においても、史料としての取り扱いには慎重な検討が求められる。
『一条家譜略』や『系図纂要』といった系図史料は、一条氏の家族構成や歴代当主の官位などを知る上で重要な情報源となる。しかし、これらの系図類は、多くが後世に編纂されたものであり、編纂者の意図や記憶違い、あるいは伝承の混入などにより、必ずしも事実を正確に反映しているとは限らない 40 。そのため、他の史料との比較検討や、成立の背景を考慮した史料批判が不可欠となる。
一次史料としては、同時代の公家の日記(例えば山科言経の『言経卿記』 44 など。内政に直接言及がなくとも、当時の公家社会の状況や中央と地方の連絡などを知る上で参考になる可能性がある)や、古文書、書簡などが発見されれば、より実像に近い情報を得ることが期待できるが、現状では一条内政個人に関する一次史料は極めて乏しいと言わざるを得ない。
したがって、一条内政に関する研究は、史料の制約が大きいという現実を認識した上で、断片的な情報を丹念に収集・比較し、行間を読み解く努力が求められる。特に、『土佐物語』が後世に与えた影響は大きく、これに引きずられることなく、客観的な人物像を再構築することが重要な課題となる。
一条内政という人物の実像に迫り、彼が生きた時代における役割や意義をより深く理解するためには、以下のような研究課題が考えられる。
第一に、長宗我部元親が一条内政を擁立して成立させたとされる「大津御所体制」(秋澤繁氏の説)について、その実態をさらに詳細に解明し、その体制の中で内政が具体的にどのような役割を担っていたのか(あるいは担わされていたのか)を検証する必要がある。
第二に、内政が伊予へ追放された具体的な理由、伊予における彼の生活の実態、そして諸説ある最期の真相について、新たな史料の探索を進めるとともに、既存史料の再解釈を通じて、より確度の高い見解を導き出す努力が求められる。
第三に、父である一条兼定の評価を見直し、その評価が息子である内政の境遇や運命にどのような影響を与えたのかを考察することも重要である。兼定の「暗君」説が、どの程度史実を反映し、どの程度後世の脚色であるのかを明らかにすることは、内政の置かれた状況を理解する前提となる。
第四に、土佐一条氏が在地社会に与えた文化的・経済的影響(「土佐の小京都」の実態など)を具体的に再評価し、その支配の終焉が地域社会に何をもたらしたのかを、長期的視点から検討することも意義深い 5 。
第五に、史料的制約は大きいものの、傀儡君主として生きた一条内政の心理や、彼個人の人間性に迫ろうとする試みも、歴史学の新たなアプローチとして検討に値するかもしれない。例えば、同様に傀儡としての側面を持った他の戦国時代の人物(足利義昭など 46 )との比較研究なども有効であろう。
一条内政に関する研究は、単に一個人の生涯を追うというミクロな視点に留まらず、戦国期における公家勢力の変容と没落、地方権力の興亡、中央政権による地方支配戦略の展開といった、より広範なマクロな歴史的テーマに接続しうる可能性を秘めている。今後の更なる研究の進展が期待される。