本報告は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、公家そして武家として複雑な経歴を辿った一色在通(いっしき ありみち)、後に昭孝(あきたか)と名乗った人物の生涯と事績を詳細に検証するものである。彼の人生は、唐橋在通(からはし ありみち)、一色昭孝、そして晩年には再び唐橋昭孝と、その立場や仕える主君に応じて複数の名を使い分けた点に特徴があり、当時の社会の流動性と個人の処世の一端を垣間見ることができる 1 。
一色在通(昭孝)の生涯を追跡することは、室町幕府の終焉から徳川幕府による新たな支配体制が確立されるまでの激動期において、公家と武家という二つの異なる世界の人間がどのように関わり、また個人が如何にして立身し、時代の変化に適応していったのかを具体的に理解する上で、重要な意義を持つ。本報告では、現存する史料に基づき、彼の出自、足利義昭への臣従、徳川家康への仕官、そして公家としての側面と晩年に至るまでを多角的に考察する。
一色在通(昭孝)の生涯を理解する上で、彼がその血を引く二つの家系、すなわち父方の公家である唐橋家と、母方の武家である一色家について把握することが不可欠である。
表1:一色在通(昭孝)の呼称一覧
呼称 |
読み |
使用時期(推定) |
備考 |
典拠 |
唐橋在通 |
からはし ありみち |
誕生~足利義昭臣従前 |
初名。公家唐橋家の嫡男として。 |
1 |
一色昭孝 |
いっしき あきたか |
足利義昭臣従後~晩年 |
母方の一色姓を名乗る。義昭より「昭」の字を拝領。 |
1 |
唐橋昭孝 |
からはし あきたか |
晩年 |
唐橋姓に復す。 |
1 |
一色駿河守 |
いっしき するがのかみ |
徳川家康臣従後 |
官名。 |
1 |
一色民部少輔 |
いっしき みんぶのしょうゆう |
慶長17年(1612年)以降 |
官名。 |
1 |
この表は、在通(昭孝)の生涯におけるアイデンティティの変遷を示しており、各呼称が使用された背景を理解することは、彼のキャリアパスと社会的地位の変化を追跡する上で有益である。
唐橋家の出自
在通(昭孝)の父は唐橋在名(ありな)であり、唐橋家は菅原氏の支流で、代々紀伝道(漢文学や日本の歴史を研究する学問)を家業とする学者の家系であった 1 。『寛政重修諸家譜』には、在通(昭孝)は唐橋在数(ありかず)の二男として記されている箇所がある 1 。しかし、この在数は明応5年(1496年)1月7日に、仕えていた九条政基・尚経父子によって殺害されている記録がある 1 。一方、在通(昭孝)の生年は永禄8年(1565年)であるため 1 、在数を父とするには年代的に大きな隔たりが存在する。『大阪府史』などではこの点を指摘し、在通(昭孝)の父は在数の子である在名とするのが妥当であると考証されている 1 。この史料間の比較検討は、歴史研究における史料批判の重要性を示す一例と言える。
唐橋在数の死は、当時の公家社会の厳しさや、主家との関係の複雑さを物語っている。在数は九条家の家司の筆頭格として家領荘園の支配権を握っていたが、その支配が破綻し、主君との確執を深めた結果、殺害に至ったとされる 6 。このような困難な状況下で家を継いだであろう父・在名、そしてその子である在通(昭孝)が、公家社会の不安定さから逃れ、あるいは新たな立身の道を求めて武家社会との接点を持とうとしたことは、想像に難くない。在通(昭孝)が母方の武家である一色氏を名乗った背景には、こうした唐橋家の置かれた状況も影響した可能性が考えられる。
母方・一色氏の系譜
在通(昭孝)の母は「一色左京大夫某の娘」と記録されている 1 。この「一色左京大夫」が誰であるかを特定することは、在通(昭孝)が「一色」を名乗る直接的な理由を明らかにし、彼の武家としてのアイデンティティ形成を理解する上で極めて重要である。
丹後国の守護大名であった一色義道(いっしき よしみち、生年不詳~天正7年(1579年))は、左京大夫の官途名を称しており 8 、その活動時期も在通(昭孝)の母の世代と合致する。義道は室町幕府第15代将軍・足利義昭を擁護し、織田信長と対立して自刃に追い込まれた人物である 8 。これらの状況証拠から、在通(昭孝)の母がこの一色義道の娘、あるいは近親者であった可能性は非常に高いと推測される。
もし母が丹後の一色義道の近親者であれば、在通(昭孝)が一色姓を名乗ることは、単に母方の姓を継承するという以上の意味合いを持つことになる。それは、かつて四職家の一つとして室町幕府の重職を担った名門守護大名・一色氏の血を引く者としての自負と、武家社会における一定の地位を主張する根拠となり得たであろう 11 。さらに、一色義道が足利義昭と深い関係にあったことは、後に在通(昭孝)が義昭に仕える上で、何らかの縁となった可能性も否定できない。一色氏が元来足利将軍家と密接な関係にあったこと、そして義道が義昭を具体的に支持したという事実は、在通(昭孝)の義昭への仕官を円滑にし、あるいはその動機付けとなったとも考えられる。
一色在通(昭孝)は、永禄8年(1565年)1月17日、唐橋在名の子として京都で生を受けた 1 。そして、天正6年(1578年)4月16日、14歳にして元服を迎える。同日、正六位上に叙され、同時に文章得業生(もんじょうとくごうしょう)となっている 1 。これは公家の子弟としての順当な経歴であり、唐橋家が家業とする紀伝道(漢文学や歴史学)の分野で、幼少期から高度な学問を修めていたことを示している。
14歳という若さで元服と同時に文章得業生となることは、彼が学問において優れた才能を持っていたか、あるいは唐橋家における英才教育の成果の現れであろう。この学識は、後に彼が足利義昭や徳川家康といった武家の権力者に仕える際に、単なる武辺者ではない、文化的な素養を持つ近臣としての独自の価値を高める要因となった可能性がある。戦国乱世にあっても、外交交渉、公式文書の作成、儀礼の執行などには高度な教養が不可欠であり、彼のこの学識は武家社会で活動する上で大きな強みとなったと考えられる。
公家としての素養を身につけた唐橋在通は、やがて武家社会へと足を踏み入れ、「一色昭孝」として新たな道を歩み始める。
在通がいつ、どのような経緯で室町幕府第15代将軍・足利義昭に仕えるようになったか、その詳細は史料からは明らかにし難い。しかし、前述した母方が丹後一色氏の出身であり、その一色義道が義昭を熱心に支持していたという背景 10 、あるいは唐橋家自体が足利将軍家と何らかの伝統的な繋がりを有していた可能性などが考えられる。
義昭に仕えるにあたり、在通は母方の姓である「一色」を名乗り、「昭孝」と改名した。この「昭」の一字は義昭からの偏諱(主君が臣下に自身の諱の一字を与えること)であり、同時に家紋も下賜されたと伝えられている 1 。これは主従関係の成立を明確に示すものであり、義昭からの信頼が一定程度あったことをうかがわせる。『寛政重修諸家譜』には「在通武家につかふるの際は外家(母の実家)の号一色を称し」と記されており、武家社会に入る上での意識的な選択であったことがわかる 1 。
天正元年(1573年)、織田信長によって足利義昭が京都から追放されると、義昭は毛利輝元の庇護を受け、備後国鞆(現在の広島県福山市)に拠点を移し、亡命政権(通称「鞆幕府」)を樹立して信長への抵抗を続けた 15 。一色昭孝もこの苦難の時期に義昭に近侍し、その活動を支えた一人であった。史料によれば、天正年間後期、鞆幕府の財政は極度に困窮し、昭孝は同じく義昭の重臣であった真木島昭光らと共に、毛利氏麾下の国衆へ一時的に預けられる(客将としてその生活の面倒を見てもらう)という措置が取られたことが記録されている 15 。これは、彼が義昭の側近として苦境を共にし、義昭政権の維持に努めていたことを物語っている。また、この事実は、義昭が困窮の中にあっても昭孝のような人材を手放さなかったこと、あるいは昭孝自身の義昭への忠誠心の現れとも解釈できる。
さらに、『言経卿記』などの同時代史料の断片からは、唐橋在通(一色昭孝)が真木島昭光らと共に、義昭周辺における連絡役や使者としての活動に関与していた可能性も示唆されている 17 。鞆幕府における昭孝の存在は、単に儀礼的な役割を担う家臣に留まらず、義昭の亡命政権を実務面でも支える重要な人物であった可能性を示している。
足利義昭は天正16年(1588年)に将軍職を辞して出家し、その政治的影響力は次第に失われていった 15 。義昭の没落後、一色昭孝は新たな活躍の場を求め、徳川家康に仕えることになる 1 。その具体的な時期については史料からは明確に断定できないが、豊臣政権下で家康が関東に移封された後、あるいは関ヶ原の戦いを経て家康が天下人としての地位を確立していく過程であったと推測される。天正10年(1582年)頃、足利義昭が徳川家康に連絡を取っていたという記録もあり 19 、この頃から何らかの接触が始まっていた可能性も考えられる。
家康の下で、昭孝は「高家(こうけ)」という役職に就き、采地として1000石を与えられた 1 。高家は江戸幕府初期に整備された役職で、主に朝廷との間の儀礼や典礼を司る役割を担った 20 。昭孝がこの職に抜擢された背景には、彼の公家(唐橋家)としての出自とそこで培われた学識、そして足利義昭という旧体制の最高権威に近侍した経験が、新幕府の儀礼秩序を構築する上で高く評価されたためと考えられる。
江戸幕府における高家制度は、慶長8年(1603年)の徳川家康の征夷大将軍宣下の儀式を、公家出身の大沢基宿が取り仕切ったことに実質的な起源があるとされる 20 。昭孝もこの初期の高家の一人として、幕府の儀礼体制の確立に少なからず関与したであろう。家康が昭孝を1000石という、旗本としては比較的高禄で迎えたことは、彼の能力と経験、そして彼が体現する旧体制との連続性を重視した家康の巧みな人材登用策の一環と見ることができる。旧勢力に連なる人物や、伝統的権威に通じた人材を幕府の儀礼に取り込むことは、新幕府の権威付けと体制の安定化に寄与するものであった。昭孝の持つ「公」と「武」の双方に通じた経歴は、まさにこの目的に合致するものであったと言えよう。
江戸幕府の高家として武家社会に身を置きつつも、一色昭孝はその出自である公家としての側面も持ち続けていた。
慶長年間(1596年~1615年)のある時期、昭孝は京都において実家である唐橋家の家督を相続したと記録されている 1 。これは、江戸で高家として幕府に奉仕する傍ら、公家としての本姓である唐橋家の当主としての責任も果たしていたことを示している。史料には、隔年で京都に在府していたとの記述も見られる 1 。
彼の官位も昇進を重ねている。慶長16年(1611年)4月21日、48歳にして従五位下に叙され、翌慶長17年(1612年)1月5日には従五位上に昇進した。さらに同月11日には民部少輔に任じられている 1 。その他、駿河守や少納言といった官名も称しており 1 、これらの官位は、江戸幕府における高家としての地位と、公家社会における彼の格式を反映するものであった。
そして晩年には、武家として名乗っていた一色姓から、再び父祖の姓である唐橋姓に復し、「唐橋昭孝」と名乗るようになった 1 。この改姓は、武家としての「一色昭孝」の役割を終え、最終的には公家・唐橋家の一員としてのアイデンティティに回帰したことを示唆している。彼の人生は、武家と公家の間を往還するものであったが、その根底には常に公家「唐橋」としての矜持が存在し続けたのかもしれない。江戸幕府の体制が安定し、自身が幕府内で果たしてきた役割に一定の区切りがついた後、家の伝統に立ち返ったとも解釈できる。
唐橋昭孝(一色在通)は、慶長20年(1615年)7月7日、52歳でその生涯を閉じた 1 。この没年月日は、『大日本史料』にも所収されている「唐橋家譜」に基づくものである。
ただし、彼の没日については異説も存在する。『日本古典全集』に収められた「諸家伝」では7月2日説を採り、また『大日本史料』が引用する当時の公家の日記である「土御門泰重卿記」および「言緒卿記」では7月3日説が記されている 1 。このように複数の史料間で日付に若干の差異が見られることは、当時の記録の伝達過程や参照した原史料の違いによるものと考えられる。
彼の法号は、秋庵光忍月窓院(しゅうあんこうにんげっそういん)と伝えられている 1 。
一色在通(昭孝)の死後、その家系はどのように継承されていったのであろうか。『寛政重修諸家譜』には、彼の子女として以下の名が記録されている 1 。
このうち、子孫の動向についていくつかの情報が残されている。史料によれば、在通(昭孝)の子である在種の子孫が「一色氏」を称したとあり 14 、これは昭孝自身が晩年に唐橋姓に戻った後も、子孫の一部は武家としての「一色」姓を保持し続けたことを示している。
一方で、在種の子、すなわち昭孝の孫にあたる昭種と昭晴の兄弟に関する記述もある。彼らは、叔母にあたる円龍院(二代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(江)に仕えていた女性)の縁故により、慶安元年(1648年)に許されて兄弟共に幕府から稟米二百俵を賜り、旗本として復帰した。しかし、高家の格式までは許されなかったという 22 。この事実は、昭孝の死後、一時的に家が困窮したか、あるいは何らかの理由で高家としての地位を失い、後に一般旗本として再興したことを示唆している。
昭孝自身は高家として江戸幕府内で一定の地位を築いたが、その地位や家格を子孫がそのまま順調に継承することは必ずしも容易ではなかったことがうかがえる。高家という役職や家格は、江戸幕府初期においてはまだ流動的な側面があり、個人の資質や幕府との関係性、さらには縁故など様々な要因によって左右された可能性が考えられる。円龍院という将軍正室に仕える女性の縁故が、家の再興の鍵となった点は、江戸時代における縁故主義の重要性や、奥向きの女性が持ち得た影響力の一端を垣間見せる事例と言えよう。
一色在通(昭孝)の生涯は、公家の学識と武家の気概を併せ持ち、戦国乱世から江戸時代初期という日本史における大きな転換期を巧みに生き抜いた、注目すべき軌跡を描いている。彼の人生は、当時の身分制度の流動性と、個人の能力や縁故がいかに重要であったかを如実に物語っている。
特筆すべきは、室町幕府最後の将軍・足利義昭と、江戸幕府初代将軍・徳川家康という、時代の終焉と創始を象徴する対照的な二人の天下人に仕えた経験である。これは、彼の政治的嗅覚、時勢への適応能力、そして双方から必要とされた人間的魅力や実務能力の高さを物語るものであろう。足利義昭の下では、その没落期にあってなお忠誠を尽くし、鞆幕府という亡命政権を支える重臣として活動した。一方、徳川家康の下では、江戸幕府の草創期において高家という新たな役職に就き、新時代の儀礼秩序の形成に貢献した。彼の公家としての素養は、武家政権が朝廷との関係を円滑に構築し、自らの権威を荘厳化していく上で、貴重なものであったと考えられる。
『寛政重修諸家譜』を中心とする史料からは、彼が学識に優れ、困難な状況を乗り越える強かさを持ち合わせていた人物像が浮かび上がる。唐橋家という公家の出自でありながら、母方の縁を頼って一色氏を名乗り武家として活動し、足利義昭に仕えて「昭」の偏諱を受ける。義昭の没落後は徳川家康に仕えて高家となり、幕府の儀礼を司る。そして晩年には再び唐橋姓に復し、公家としてのアイデンティティに回帰する。この複雑な経歴は、個人の選択と時代の要請が複雑に絡み合いながら形成された、戦国末期から江戸初期という過渡期を生きた一つの典型的な姿を示していると言えるだろう。
彼の生涯を詳細に検討することは、この時代の公武関係の実際や、個人の立身出世のあり方、さらには新たな支配体制が形成されていく過程を、微視的な視点から理解する上で多くの示唆を与えてくれる。一方で、母方の「一色左京大夫」のより詳細な特定や、鞆幕府における具体的な活動内容など、なお不明な点も残されている。これらの点については、今後の史料の発見や研究の進展に期待が寄せられる。