最終更新日 2025-06-08

一色義清(一色義幸の子)

「一色義清(一色義幸の子)」の画像

戦国期丹後国における一色義清(一色義幸の子)の動向と丹後一色氏の終焉

序章:調査対象「一色義清(一色義幸の子)」の特定と本報告書の目的

本報告書における一色義清の定義

本報告書が対象とする一色義清は、戦国時代の末期、丹後国において活動した武将である。彼は丹後守護であった一色義幸の子として生まれ、丹後一色氏が織田信長の勢力伸張と細川藤孝(幽斎)による丹後侵攻という未曾有の国難に直面する中で、一族の最後に当主として抵抗を試み、天正10年(1582年)に自刃したと伝えられている。官途名は越前守であったとされる。彼の生涯は、丹後一色氏の滅亡という悲劇的な結末と不可分に結びついている。

同姓同名の人物「一色義清(一色五郎の子)」との明確な区別

戦国時代の丹後国には、本報告書の対象とする一色義清(義幸の子)とは別に、もう一人、同姓同名の一色義清が存在した。この人物は一色五郎の子とされ、主に永正年間(1504年~1521年)に丹後守護として活動した記録が見られる。彼の父は一色五郎(一色義遠の養子とも、一色政氏の子ともいわれる)、養父は一色義有とされており、その出自や活動時期は、本報告書が対象とする一色義清(父:義幸)とは明確に異なる。一色五郎の子の義清は、石川直経によって擁立された経緯から「石川御取立の屋形」や「石川の御屋形様」などと呼ばれた。

戦国時代の史料研究においては、同姓同名の武将の存在がしばしば混乱を招く要因となる。特に一色氏のような名族では、代々同じ諱(いみな)や通称を用いることも少なくなく、系譜や活動時期を慎重に吟味し、対象人物を正確に特定することが研究の第一歩となる。本報告書では、この二人の「一色義清」を明確に区別し、特に断りのない限り、「一色義清」とは一色義幸の子を指すものとする。両者の主な相違点を以下に表として示す。

表1:一色義清(義幸の子)と一色義清(五郎の子)の比較

項目

一色義清(一色義幸の子)

一色義清(一色五郎の子)

一色義幸

一色五郎(一色義遠の養子)

養父

不明

一色義有

主な活動時期

天正年間(特に天正10年/1582年頃)

永正年間(1504年~1521年頃)

官途名

越前守

左京大夫

主な事績

甥・義定死後、弓木城で蜂起し細川軍と交戦、自刃

丹後守護。石川直経に擁立される。守護代延永氏との対立や一族内紛を経験

別名・呼称

吉原姓を名乗った時期あり

千松丸(幼名)、一色五郎、石川の御屋形様

最期

天正10年(1582年)自刃

不明(永正16年(1519年)までの動静は判明)

この表によって、両者の基本的な情報を整理し、混同を避ける一助としたい。

本報告書の目的と構成

本報告書は、現存する資料に基づき、一色義幸の子である一色義清の生涯、特に丹後一色氏滅亡期における彼の役割と最期を明らかにすることを目的とする。そのために、まず義清の出自と彼を取り巻く戦国末期の丹後一色氏の状況を概観する。次に、兄・一色義道、甥・一色義定の時代を経て、義清が歴史の表舞台に登場するに至る経緯を追う。そして、彼の最後の戦いとなった弓木城の攻防と壮絶な最期を詳述し、最後に彼に関する伝承や史料について触れ、その歴史的評価を試みる。

第一章:一色義清の出自と戦国末期の丹後一色氏

一色義清の家族構成

一色義清の父は、丹後国の戦国大名であった一色義幸である 1 。義幸は、若狭武田氏の勢力を丹後から駆逐し、加佐郡の丹後守護所(八田守護所)および建部山城に入ったとされ、守護代の延永氏とも良好な関係を築き、若狭武田元光と丹後・若狭の領有を巡って争ったと伝えられる。その義幸は、永禄元年(1558年)に隠居し、家督を子の義道に譲ったとされる 1

義清には、兄として一色義道(義辰とも称した) 1 、弟として昭辰 1 がいた。兄の義道は、父・義幸の隠居に伴い家督を継承し、加佐郡の八田守護所及び建部山城に入った 1

ただし、この兄・一色義道については、その実在性を疑う説、すなわち架空の人物であるとする見解も存在する 1 。この点は、義清の行動や一族内での立場を理解する上で留意すべき重要な背景情報となる。戦国末期の地方史、特に敗者側の記録が少ない場合、系譜や当主の事績が錯綜することは珍しくない。しかしながら、現存する資料の多くは義道を義清の兄として記述しており、本報告書では基本的にその記述に従いつつ、架空説の存在にも言及するに留める。この情報の不確かさ自体が、当時の丹後一色氏を巡る歴史的状況の複雑さを示唆していると言えよう。

当時の丹後一色氏の状況

一色氏は、室町幕府において四職(ししき)の一つに数えられた名門守護大名であったが、戦国時代に至るとその勢力は次第に衰退していった 1 。丹後国内においても、宿敵である若狭武田氏との長年にわたる抗争 1 や、守護代であった延永氏による下克上の動き など、領国支配は決して盤石なものではなかった。

さらに、織田信長による急速な勢力拡大と、彼が推し進める中央政権の再編という、時代の大きな地殻変動は、丹後国にも決定的な影響を及ぼしつつあった。信長は足利義昭を奉じて上洛し室町幕府を再興したが、やがて義昭と対立。義昭を追放し、実質的な天下人として各地の戦国大名にその支配を及ぼそうとしていた。丹後国もまた、信長の全国統一事業の過程で、その支配体制に組み込まれる運命を避けることはできなかったのである。このような内外の厳しい状況の中で、一色義清は歴史の舞台に登場することになる。

義清の初期の動静

一色義清は、兄・義道が家督を継いだ後、丹後国丹波郡(中郡)に位置する吉原城を領し、当初は吉原越前守を名乗っていたとされる。史料によれば、義道は実弟である義清を吉原城に配置し、丹後国の奥三郡(竹野郡・熊野郡・中郡の一部か)の統治を委ねていたという。そして、義清はこの奥三郡において善政を敷き、領民からの信頼も厚かったと記されている。

この記述が事実であるならば、義清は単に一色氏一族の一員というだけでなく、領国経営と軍事の両面において、一定の責任と実権を担う立場にあったことを示唆している。奥丹後という地理的条件(日本海に面し、但馬や若狭といった隣国との境界に近い)を考慮すれば、この地域の統治は一色氏にとって戦略的にも重要であったはずである。彼がこの地で培った統治経験や、領民からの人望は、後に丹後一色氏が滅亡の危機に瀕した際、彼が一族の抵抗運動の中心人物となり得た要因の一つであったと考えられる。

第二章:織田信長の丹後侵攻と一色氏の動揺

兄・一色義道の時代と織田勢力との関係

父・義幸の隠居後、家督を継承した一色義道は、当初、織田信長が擁立した15代将軍・足利義昭から丹後一国を正式に安堵されるなど、信長との間には一定の関係を築いていた 1 。しかし、元亀2年(1571年)に信長が行った比叡山焼き討ちの際に、追われた延暦寺の僧侶を義道が匿ったことなどから、両者の関係は次第に悪化し、信長との対立を深めていったとされる 1

この対立は、信長の全国統一事業にとって障害となり得るものであり、結果として、天正6年(1578年)、信長の命を受けた明智光秀と長岡藤孝(細川幽斎)による本格的な丹後国への侵攻を招くこととなった 1 。これは、丹後一色氏にとって、存亡をかけた戦いの始まりを意味した。

建部山城の戦いと義道の最期

明智・細川連合軍の侵攻に対し、一色義道は丹後国の国人衆を率いて抵抗を試みた。丹後守護一色氏の政庁は加佐郡八田にあり、その背後に控える建部山城が有事の際の詰城であった。しかし、織田軍の攻勢の前に丹後国内の国人領主たちが次々と織田方に寝返り、一色氏の勢力は急速に弱体化していった 1

天正7年(1579年)、丹後守護所の詰城である建部山城もついに落城する 1 。追い詰められた義道は、但馬国の山名氏を頼って亡命を図ったが、その途上で身を寄せた丹後国中山城の城主・沼田幸兵衛(『一色軍記』などでは中山幸兵衛、または沼田勘解由とも)が織田方に内応したため、行き場を失い自害したと伝えられている 1

ただし、義道の最期については異説も存在する。『細川家譜』には、彼が丹後平定戦の最中に病死したと記されているという 1 。裏切りによる自害という劇的な最期は、特に軍記物において好んで描かれる傾向があるが、敵対勢力であった細川氏側の記録に病死とある点は注目される。いずれにせよ、当主・義道の死(あるいは指導力の喪失)は、丹後一色氏の組織的な抵抗力を著しく削ぐ結果となったことは疑いない。この記録の不一致は、戦国時代の出来事、特に敗者側の情報が錯綜しやすい状況を反映していると言えるだろう。

甥・一色義定の家督継承と細川氏との和睦

義道の死後(あるいは、自害の前に家督を譲ったともされる 1 )、その子である満信(一般的には義定、あるいは義俊とも呼ばれる 1 )が家督を継承した。義定は、建部山城落城後、丹後奥三郡の弓木城(京都府与謝郡与謝野町)に入り、抵抗を継続した。

弓木城は、後に鉄砲術の流派「稲富流」の祖として知られる稲富祐直(伊賀守)が守る堅城であり、細川軍も容易には攻略できなかった。籠城戦が二十日余りに及んだ頃、細川方から和議の提案がなされたという。その結果、義定は細川藤孝の娘・伊也を正室として娶ることで和睦が成立した。この和睦により、義定は織田信長から丹後国の北半国(奥郡)二万石の領主として安堵され、形式的には織田氏の家臣団に組み込まれることになった。

この婚姻による和睦は、一見すると一色氏の存続が図られたかのように見える。しかし、丹後国全体から見れば、その支配領域は大幅に縮小され、実質的には細川氏の丹後支配を補完する立場に置かれたと言える。戦国時代における婚姻同盟は、必ずしも対等な勢力間で行われるものばかりではなく、しばしば強大な勢力が弱小勢力を支配下に組み込むための方便として利用されるケースが見られた。この一色義定と細川氏の和睦も、そうした事例の一つと見なすことができるかもしれない。一色氏にとっては一時的な延命策であったとしても、細川氏にとっては丹後支配をより円滑に進めるための戦略的布石であった可能性が高い。

第三章:本能寺の変と一色義定の謀殺

本能寺の変(天正10年6月)と丹後国の情勢

天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において織田信長がその重臣であった明智光秀に討たれるという未曾有の大事件、いわゆる本能寺の変が勃発した。この信長の横死は、織田政権下で形成されつつあった全国の勢力図を一変させ、各地に大きな動揺と混乱をもたらした。丹後国もその例外ではなく、一色義定と細川藤孝・忠興父子の関係もまた、新たな緊張関係へと突入することになる。

細川藤孝は、明智光秀とは親密な関係にあり、藤孝の子・忠興は光秀の娘・玉(後のガラシャ)を妻としていたため、姻戚関係にもあった。それゆえ、光秀から味方になるよう誘いがあったとされるが、藤孝はこれに応じず、剃髪して家督を忠興に譲り、隠居の意を示した。これは、光秀の将来を見限り、羽柴秀吉ら反明智勢力の動向を見極めようとする、藤孝の老練な政治判断であった。

一色義定の動向と謀殺

このような中央政局の激変は、丹後国の一色義定の立場にも微妙な影響を与えた。義定は、本能寺の変に際して何らかの独自の動きを見せた、あるいは少なくとも細川氏からそのように疑われるような行動をとった可能性が示唆されている。一部の記録には、義定が変に乗じて兵船を率いて宮津湾犬堂沖(現在の西宮津公園付近)まで進出したが、明智光秀の敗死(山崎の戦い)の報を聞いて直ちに引き返した、という具体的な記述も見られる。

真相は定かではないが、結果として、天正10年(1582年)、本能寺の変から間もない時期に、一色義定は細川藤孝(あるいは忠興)によって居城である宮津城に誘い出され、謀殺されてしまう。この義定謀殺は、細川氏が丹後国における支配権を完全に掌握し、将来的な禍根を断つための冷徹な決断であったと考えられる。

本能寺の変という未曾有の政治的混乱期は、各地の勢力にとって、現状を打破し新たな秩序を構築する好機ともなり得た。細川氏にとって、旧守護家の嫡流であり、潜在的な競争相手となり得る一色義定の存在は、丹後支配を盤石にする上で看過できないものであったのだろう。「明智光秀に内通した(あるいはその疑いがあった)」という理由は、細川氏が義定を排除する上で、格好の口実として機能した可能性も否定できない。ある記録では、この謀殺事件が本能寺の変から3ヶ月も後であったことを指摘し、その計画性をうかがわせる。義定の具体的な反乱の証拠が明確でないとすれば、この謀殺は戦国時代の権力闘争の非情さを一層際立たせるものとなる。

第四章:一色義清の蜂起と弓木城の戦い

義定謀殺と義清の家督継承

甥である一色義定が細川氏によって謀殺されたという報は、丹後一色氏の残存勢力に大きな衝撃を与えた。この危機的状況において、義定の叔父にあたる一色義清(越前守)が立ち上がった。義清は弓木城に入り、一色氏の家督を継いで、細川氏に対する徹底抗戦の意思を鮮明にしたのである。

『一色軍記』などの伝承によれば、この時、義清は名を「一色五郎義清」と改め、討たれた甥・義俊(義定)の形見であった家宝の鎧兜を身にまとい、戦場に臨んだという。この改名や形見の武具を着用するという行為は、彼が兄・義道や甥・義定の無念を晴らし、滅亡の危機に瀕した一色氏を再興するという悲壮な決意と、一族の正統な後継者としての自覚を示した行動と解釈できる。

弓木城攻防戦

義清が籠る弓木城は、丹後国与謝郡に位置し、天然の要害に加えて、当代随一の鉄砲の名手と謳われた稲富伊賀守祐直が守りを固める難攻不落の城であった。稲富氏は代々丹後一色氏の家臣であり、その鉄砲術は「稲富流」として全国に名を馳せていた。

『一色軍記』などの記録によれば、一色義清は単に籠城するだけでなく、城から積極的に打って出て、細川軍に応戦したとされる。その呼びかけに応じ、旧恩に感じた丹後の国人や地侍、そして一色氏の旧臣たちが馳せ参じ、その兵力は「八千五百余人」にも達したと記されている。しかしながら、この兵力数については、軍記物特有の誇張が含まれている可能性を考慮する必要がある。当時の丹後国の総石高は、慶長3年(1598年)の時点で約11万石と記録されており、一般的な戦国時代の動員兵力(石高百石あたり2人から5人程度)から推定すると、一色氏が滅亡寸前の状況で、しかも北丹後という限られた地域から短期間にこれほどの大軍を集めることは現実的に困難であったと考えられる。仮に、義定に安堵された北丹後二万石 を基準に考えても、最大限動員できたとしても千人規模であった可能性が高い。とはいえ、一色氏の旧領主としての威光や、細川氏の強引な丹後支配に対する反発などから、相当数の兵力が義清のもとに集結したことは想像に難くない。

これに対し、細川軍は宮津に本陣を構え、細川忠興が総大将として弓木城攻略の指揮を執ったと伝えられる。両軍による戦闘は熾烈を極め、一色方の将兵の多くが討死し、一色家の重臣であった大江越中守や杉山出羽守といった勇将もこの戦いで命を落としたと記されている。

義清の最期

奮戦も虚しく、衆寡敵せず、一色義清は数カ所に深手を負った。もはやこれまでと覚悟を決めた義清は、細川軍の本陣を目指して最後の突撃を敢行したが、力尽き、天正10年(1582年)、ついに自刃して果てたとされる。その最期は、滅びゆく名門一色氏の当主として、最後まで武士としての意地と誇りを貫き通した壮絶なものであったと伝えられている。

義清が自刃した場所については、具体的な伝承地がいくつか残されている。「宮津鶴賀城内三の丸の北東」とされる場所 や、ある神社の本殿脇には「一色義清自刃之處碑」が現存するという記録もある。これらの伝承は、一色義清の悲劇的な最期が、地元丹後の人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれてきたことを示している。彼の死をもって、鎌倉時代以来、丹後守護として長きにわたりこの地を治めた名門・一色氏は、事実上滅亡の時を迎えたのである。

以下に、一色義清(一色義幸の子)に関連する主要な出来事を年表形式でまとめる。

表2:一色義清(一色義幸の子)関連年表

年号(西暦)

主な出来事

関連人物・事項

出典例

永禄元年(1558年)

一色義幸(義清の父)隠居。義道(義清の兄)が家督継承。

1 , S39, S40

元亀2年(1571年)頃

義道、比叡山焼き討ちで追われた僧を匿い、織田信長と対立。

1 , S12

天正6年(1578年)

明智光秀・長岡藤孝(細川幽斎)による丹後侵攻開始。

織田信長

1 , S12

天正7年(1579年)

建部山城落城。一色義道、中山城主・沼田幸兵衛の裏切りにより自害(病死説あり)。義定(義道の子、義清の甥)が家督継承、弓木城へ。

1 , S12, S22

天正7年~8年頃

義定、弓木城で籠城戦の後、細川藤孝の娘・伊也を娶り和睦。信長より北丹後二万石を安堵され、織田氏家臣となる。

稲富祐直

S1, S29, S54

天正10年(1582年)6月

本能寺の変。織田信長死去。

明智光秀

天正10年(1582年)

一色義定、細川藤孝(または忠興)により宮津城で謀殺される。

細川忠興

S1, S19, S26

天正10年(1582年)

一色義清(義幸の子、義定の叔父)、甥の死を受けて弓木城で蜂起。一色氏の家督を継ぐ。細川軍と交戦するも敗北し、自刃。丹後一色氏、事実上滅亡。

弓木城の戦い

S1, S8, S19, S29

この年表は、丹後一色氏が滅亡へと向かう激動の数年間における、一色義清を中心とした出来事の流れを概観するものである。

第五章:一色義清に関する伝承と史料的考察

『一色軍記』における記述

一色義清の最期を伝える主要な文献の一つとして、軍記物である『一色軍記』が挙げられる。この軍記は、義清の勇猛果敢な戦いぶりや、甥・義定の仇を討つべく立ち上がり、最後は細川軍本陣に迫りながら力尽きるという悲壮な最期を、非常にドラマチックに描いている。

しかしながら、軍記物は一般的に、歴史的事実を伝えることを主目的としながらも、読者の興味を引くために文学的な脚色や創作が加えられることが多い。そのため、史料として利用する際には、その記述内容を慎重に吟味し、他の一次史料との比較検討を行う必要がある。『一色軍記』の具体的な成立年代や作者、執筆背景に関する詳細な情報は、提供された資料からは残念ながら乏しい。ただし、一部の考察では、江戸時代に成立した作品である可能性が示唆されており、その内容にはフィクションが含まれている可能性も指摘されている。

したがって、『一色軍記』に記された兵力数や戦闘の細かな描写については、そのまま史実として受け取ることはできない。それでもなお、この軍記は、丹後一色氏の滅亡という歴史的事件が、後世の人々によってどのように記憶され、どのような物語として語り継がれていったかを知る上で、一定の史料的価値を持つと言えるだろう。特に、一色義清という人物の英雄的、あるいは悲劇的なイメージ形成に、この軍記が大きな影響を与えたことは想像に難くない。

一色稲荷神社と義清

現在の京都府宮津市内には、一色稲荷神社と称される社が存在する。この神社は、細川忠興によって謀殺された丹後守護・一色五郎(この「五郎」が義定を指すのか、あるいは義清の通称であった可能性も考慮される)の墓所である、もしくは一色氏一族の鎮魂のために建立されたものであると、江戸時代以来伝えられている。

特に注目されるのは、ある資料に「一色義清自刃之處碑」が本殿脇に存在する神社についての記述がある点である。この神社が一色稲荷神社と同一であるか、あるいは別の義清ゆかりの場所であるかは断定できないものの、一色義清(義幸の子)という人物の記憶が、具体的な場所や石碑という形で地域社会に刻まれ、今日まで伝えられていることを示唆している。

これらの伝承は、一色義清を含む一色氏一族の非業の最期が、後世の人々によって深い同情やある種の畏敬の念をもって受け止められ、その怨霊を鎮め、慰撫するための対象となったことを物語っている。特に、彼らを滅ぼした敵対者である細川氏によって、その祟りを恐れて鎮魂のための社が建立されたという伝承 が事実であるとすれば、それは戦国時代特有の複雑な精神性、例えば怨霊信仰や祟りを恐れる心性などを色濃く反映している可能性があり、歴史心理学的な観点からも興味深い。義清の壮絶な抵抗と最期が、こうした鎮魂の伝承を生み出す一因となったことは十分に考えられる。

その他の伝承と研究の現状

丹後一色氏の末裔に関する伝承も、各地に散見される。しかし、これらの伝承が一色義清(義幸の子)に直接結びつくものであるかどうかは、提供された資料の範囲内では明確に判断することは難しい。

丹後一色氏に関する学術的な研究としては、近年、清水敏之氏による「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」と題する論文が発表されるなど、専門家による研究が進められている。こうした最新の研究成果を参照することにより、一色義清の実像についても、より詳細かつ客観的な解明が進むことが期待される。しかしながら、本報告書は、あくまで提供された資料群に基づく分析に限定するものである。

結論:歴史における一色義清(一色義幸の子)の位置づけ

丹後一色氏最後の当主としての評価

一色義清(一色義幸の子)は、鎌倉・室町時代を通じて丹後国の守護大名として君臨した名門・一色氏が、織田信長の全国統一事業という巨大な歴史の奔流と、その先兵的役割を担った細川氏の侵攻によって、滅亡へと急速に追いやられるという、まさに歴史の転換点において、一族の最後に当主として弓矢を取り、抵抗を試みた人物として評価される。

彼の行動の根底には、兄・一色義道や甥・一色義定が非業の最期を遂げたことに対する強い憤りや、代々丹後国を治めてきた一色家の当主としての重い責任感、そして武士としての意地があったものと推察される。吉原城主として奥丹後を治め、領民の信頼を得ていたとされる経験も、彼がこの絶望的な状況下で指導力を発揮する素地となったであろう。

その抵抗の歴史的意義と限界

一色義清の蜂起と弓木城での徹底抗戦は、勇猛果敢なものであったと伝えられるが、結果として細川氏による丹後国の完全制圧を遅らせることはできず、丹後一色氏の滅亡という大きな歴史の流れを変えるには至らなかった。当時の織田・細川連合軍の軍事力は圧倒的であり、中央政権の後ろ盾を持たない地方勢力であった一色氏が、単独でこれに抗し続けることには自ずと限界があった。

しかしながら、彼の最後の抵抗は、丹後国における一色氏の存在感を最後まで強く印象づけるものであり、また、その悲劇的かつ壮絶な最期は、後世の人々によって語り継がれ、『一色軍記』のような文学作品の題材ともなった。彼の戦いは、滅びゆくものの美学として、あるいは理不尽な力に抗う人間の尊厳として、人々の心に何らかの感銘を与え続けたのかもしれない。

丹後地方史における影響

一色義清の死と、それに伴う丹後一色氏の完全な滅亡は、丹後国における支配勢力の決定的な交代を意味した。これにより、中世以来の守護領国制的な支配体制は終焉を迎え、細川氏による近世的な領国支配体制への移行が確実なものとなった。この変革は、丹後地方の政治・経済・社会構造に大きな影響を与えたと考えられる。

また、義清や一色一族に関する伝承、そして「一色義清自刃之處碑」や一色稲荷神社といった史跡の存在は、戦国時代末期の丹後地方が経験した激動の歴史を、現代に生々しく伝える貴重な文化遺産と言えるだろう。

総括と今後の課題

本報告書において検討してきた一色義清(一色義幸の子)の生涯と事績は、現時点では断片的かつ二次的な情報源に基づいて再構成された部分が多い。今後、新たな一次史料の発見や、既存史料の再解釈、そして考古学的調査の進展などによって、彼の具体的な行動や人物像、さらには丹後一色氏滅亡期の詳細な状況が、より一層明らかにされることが期待される。

特に、同時代史料における義清に関する記述の探索や、『一色軍記』のような後代の編纂物と一次史料との比較検討を通じて、歴史的事実と文学的脚色を峻別する作業は、今後の重要な研究課題となるであろう。一色義清という、戦国末期の丹後に生きた一人の武将の実像を明らかにすることは、丹後地方史のみならず、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりを理解する上でも、意義深いものと考える。

引用文献

  1. 一色義道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93