天正19年(1591年)、陸奥国北郡。豊臣秀吉による天下統一事業がその最終段階を迎える中、その巨大な権力に最後の抵抗を試みた男たちがいた。南部一族の麒麟児、九戸政実を盟主とする反乱軍である。その中心人物の一人として、北方の要衝・七戸城に拠った七戸彦三郎家国(しちのへ いえくに)の生涯を追うことは、戦国という時代の終焉を東北の地から見つめ直す試みである。
家国は単なる反逆者であったのか。あるいは、古き秩序と一族の自律性を守るために、避けられぬ運命に殉じた悲劇の将であったのか。彼に関する史料は断片的であり、時に矛盾さえ見せる。本報告書は、それらの史料を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自、南部宗家との葛藤、津軽氏との戦い、そして九戸政実の乱における役割と最期、さらには彼の一族のその後に至るまでを多角的に検証し、七戸家国という一人の武将の実像を立体的に再構築することを目的とする。
七戸家国の生涯を理解する上で、彼が属した七戸氏の出自と、南部一族内でのその位置づけを把握することは不可欠である。しかし、七戸氏の系譜は単一ではなく、複数の系統が伝えられており、その歴史的背景は極めて複雑である。
七戸氏の起源については、主に三つの系統が伝わっている。
第一に、南部氏の祖である南部光行の子・朝清を始祖とする「朝清流」の伝承である 1 。『系図纂要』や「祐清私記」などの文献にその名が見えるが、朝清が光行の三男、四男、あるいは六男とされるなど、史料間での記述には揺れがあり、その実在性を含めて確固たるものとは言いがたい 1 。
第二に、より史実性が高いとされるのが、南北朝時代に南朝方として活躍した根城南部氏に連なる「八戸氏流」である。根城南部氏の南部政長が七戸の地を領し、その孫である政光が七戸城に入った後、政光の実子・政慶が正式に七戸氏を名乗ったことに始まるとされる 1 。七戸家国もこの流れを汲む一族と考えられている。
第三に、九戸政実の乱には家国とは別に、「武田七戸氏」と呼ばれる七戸伊勢守慶道(しちのへいせのかみけいどう)も九戸方として参戦している 1 。慶道は七戸朝清の子孫である武田某の子とされ、家国とは明らかに別系統の七戸氏であった 1 。
このように複数の七戸氏の系統が史料上に現れる事実は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。これは、戦国期の南部氏が、強力な当主が全領国を直接支配する近世大名のような中央集権体制とは異なり、三戸・八戸・九戸・七戸といった有力な庶子家が半独立的な勢力を保ちながら連合する「郡中(ぐんちゅう)」と呼ばれる緩やかな同族連合体であったことの証左である 7 。各分家は絶対的な主君に従う家臣というより、連合体の盟主を戴く自立した領主としての性格が強かった。この中世的な政治構造こそが、後に南部信直が宗家を継いだ際に、九戸氏や七戸家国が容易に同調せず、独自の動きを見せた根本的な背景となっている。
系譜の呼称 |
始祖とされる人物 |
主な典拠・伝承 |
備考 |
朝清流七戸氏 |
南部光行の子・七戸朝清 |
『系図纂要』、「祐清私記」 1 |
南部氏の最も古い分家の一つとされるが、系譜には不明な点が多い。家国の家系がこの流れを汲むとする説もある。 |
八戸氏流七戸氏 |
根城南部氏・南部政光の子・七戸政慶 |
『参考諸家系図』、各種城郭史 5 |
南北朝期に根城南部氏が七戸を領したことに始まる。戦国末期の七戸城主はこの系統とされる。家国はこの流れに属する。 |
武田七戸氏 |
武田某の子・七戸慶道 |
『系胤譜考』、『奥南落穂集』 2 |
九戸政実の乱に家国と共に九戸方で参戦した別系統の七戸氏。慶道は七戸朝清の娘を室に迎えたとされる 1 。 |
七戸家国は、系図上「慶国(よしくに) - 直国(なおくに) - 家国」と続く家系に位置づけられる 1 。彼の通称は彦三郎であった 9 。
彼が居城とした七戸城(別名:柏葉城)は、現在の青森県七戸町に位置し、津軽方面と下北半島を結ぶ交通の要衝であった 10 。南部領の北方防衛、そして西に勢力を拡大する津軽氏への備えとして、軍事的・政治的に極めて重要な拠点であり、この城を任されていた事実は、家国が南部一族の中でも屈指の有力武将であったことを示している 2 。
七戸家国の運命を大きく左右したのは、南部宗家内部の対立と、西から迫る新たな脅威であった。
天正10年(1582年)、南部氏の最盛期を築いた24代当主・南部晴政と、その後を継いだばかりの嫡子・晴継が相次いで急死するという事態が発生する 7 。これにより南部一族は後継者問題で大きく揺れ動いた。
この混乱の中、晴政の養嗣子であった田子(石川)信直が、九戸政実の弟・実親(さねちか)ら対立候補を退け、半ば強引に宗家の家督を継承した 7 。この家督相続の経緯に、九戸政実をはじめとする多くの有力一族が強い不満を抱き、信直との間に深刻な亀裂が生じた 14 。
七戸家国もまた、この反信直派の急先鋒であった。彼の妻は、九戸政実の父である九戸信仲(のぶなか)の娘であり、家国と政実は義理の兄弟という強固な姻戚関係で結ばれていた 9 。この血縁関係が、後の九戸政実の乱において、家国が迷いなく政実と運命を共にする決定的な要因となった。
家国の生涯における最初の大きな蹉跌は、西方の津軽為信による領地侵攻であった。もともと南部一族であった為信は独立を画策し、津軽地方を平定すると、さらに東へとその勢力を拡大し始めていた 12 。
史料によれば、家国はこの為信の侵攻に抗戦したものの、その勢いを止めることはできず、所領であった平内(ひらない)領を奪われたと記されている 9 。平内は、七戸から陸奥湾へと至る重要な地域であり、その失陥は七戸氏にとって大きな打撃であった。
この平内領の失陥は、単なる領土の喪失に留まらなかった。それは、家国と宗家・南部信直との関係を決定的に悪化させ、彼を九戸政実との一蓮托生の道へと追い込む、政治的な転換点となったのである。天正18年(1590年)3月、信直は為信討伐を計画し、家国や政実に協力を要請した。しかし、信直の宗家としての権威を認めていなかった両者は、この要請に応じなかった 3 。業を煮やした信直は自ら兵を率いて七戸まで進軍するが、九戸氏らの不穏な動きを察知すると、結局為信と戦うことなく三戸へと引き返してしまう 3 。
この信直の行動は、家国を見捨てるに等しいものであった。西の脅威(為信)と南の不信(信直)に挟まれ、政治的に孤立した家国にとって、頼れるのは東にいる義兄・九戸政実のみとなった。宗家からの支援を得られずに平内領を失ったという屈辱と、信直への決定的な不信感は、家国が翌年の九戸政実の乱において、迷うことなく政実方に与する極めて強力な動機を形成した。平内での敗北が、九戸での決起へと直結する因果の鎖となったのである。
なお、平内地方の伝承では、同時期に平内郷の福館城を支配していたのは「七戸隼人(しちのへはやと)」なる人物で、この人物が為信に降伏したとされている 18 。この「七戸隼人」が家国自身を指すのか、あるいは家国の一族か、はたまた全くの別人なのかは史料上判然としないが、いずれにせよこの時期に七戸氏が津軽為信の攻勢によって平内地方の支配権を失ったことは確かである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による「奥州仕置」は、東北地方の政治地図を根底から塗り替えるものであった。この新たな秩序は、七戸家国ら在地領主の運命を大きく揺さぶり、やがて彼らを最後の戦いへと駆り立てることになる。
秀吉の奥州仕置により、南部信直は南部氏宗家として正式に10万石の大名として公認された 7 。これは信直の権威を絶対化する一方で、これまで半独立的な地位を保ってきた九戸氏や七戸氏といった有力一族を、信直の「家中(家臣)」へと地位を引き下げるものであった 7 。さらに、彼らが代々守ってきた城も破却の対象とされ、その妻子を人質として三戸城へ差し出すよう命じられた 2 。これは彼らの伝統的な権益と誇りを根底から覆すものであり、到底受け入れられるものではなかった。
天正19年(1591年)の正月、九戸政実は三戸城で行われる新年参賀を拒否し、信直への反意を明確にした 7 。ここに、奥州仕置に対する最後の組織的抵抗の火蓋が切られたのである。
同年3月、九戸政実は約5,000の兵を率いて挙兵した。七戸家国は、姻戚関係にある政実に与同し、九戸方の中核武将としてこれに加担した 3 。
家国は自ら軍を率い、信直方に与した近隣の城砦への攻撃を開始した。史料には、彼が攻撃した城として、六戸城(現・青森県六戸町)や伝法寺城(現・青森県十和田市)の名が記録されている 9 。特に、天正19年3月に行われた伝法寺城への攻撃は、城主・津村傳右衛門の巧みな知略によって撃退され、失敗に終わったと伝えられている 3 。この緒戦の失敗にもかかわらず、九戸勢は当初、その精強さをもって信直方を各地で圧倒し、戦局を優位に進めていた。
年月日 |
主要な出来事 |
七戸家国の動向 |
天正18年(1590年) |
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7月27日 |
豊臣秀吉、奥州仕置を断行。南部信直を南部氏宗家として公認。 |
九戸政実らと共に、信直の宗家としての地位に不満を抱く。 |
3月 |
南部信直、津軽為信討伐を計画するも、九戸・七戸氏が協力せず断念 3 。 |
信直からの為信討伐への協力要請を拒否。宗家との対立姿勢を明確にする。 |
天正19年(1591年) |
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1月 |
九戸政実、三戸城への正月参賀を拒否し、反意を表明 22 。 |
政実と歩調を合わせ、反信直の立場を固める。 |
3月13日 |
九戸政実、5,000の兵で挙兵。九戸政実の乱が勃発 7 。 |
九戸方に加担。自ら兵を率い、近隣の信直方諸城を攻撃。 |
3月 |
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伝法寺城を攻撃するが、撃退される 3 。 |
6月20日 |
秀吉、奥州再仕置軍の編成を命令 7 。 |
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8月23日 |
九戸方、美濃木沢にて再仕置軍に奇襲をかける(緒戦) 7 。 |
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9月1日 |
九戸方の前線拠点、姉帯城・根反城が落城 7 。 |
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9月2日 |
奥州再仕置軍、九戸城を包囲。籠城戦が開始される 7 。 |
九戸城に籠城。主将の一人として防衛戦を指揮。 |
9月4日 |
九戸政実、偽りの和議を受け入れ降伏 7 。 |
政実らと共に白装束で降伏。 |
9月 |
降伏した首謀者たちが栗原郡三迫へ連行され、処刑される 22 。 |
九戸政実らと共に斬首される。享年43歳 9 。 |
九戸勢の蜂起に対し、豊臣政権の対応は迅速かつ圧倒的であった。自力での鎮圧を諦めた南部信直の救援要請を受け、秀吉は天下統一の総仕上げとして、日本中の大名を動員した「奥州再仕置軍」を派遣した。
総大将に任じられたのは、秀吉の甥である豊臣秀次。その麾下には、蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政といった豊臣恩顧の武将に加え、徳川家康、上杉景勝、伊達政宗、そして皮肉にも七戸家国のかつての敵であった津軽為信までもが名を連ねていた 7 。その総勢は6万(一説には6万5千)ともいわれる、まさに日本を挙げての大軍であった 7 。
再仕置軍は道中の葛西大崎一揆などを鎮圧しながら北上し、天正19年(1591年)9月1日には九戸方の前線拠点であった姉帯城・根反城を攻略 7 。翌9月2日には、九戸政実、そして七戸家国らが籠る本拠・九戸城を完全に包囲した 7 。
九戸城は三方を馬淵川と白鳥川に囲まれた天然の要害であり、籠城した九戸勢約5,000は、10倍以上の兵力差にもかかわらず、これを迎え撃った 7 。軍記物である『九戸軍談記』は、この籠城戦における七戸家国の奮戦ぶりを伝えており、彼が九戸軍の主将の一人として、再仕置軍に多大な損害を与えたことが記されている 2 。
しかし、圧倒的な大軍の前に、城の陥落は時間の問題であった。攻めあぐねた浅野長政ら再仕置軍の首脳は、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を仲介役として、偽りの和議を申し入れた 7 。その内容は「城を開け渡せば、女子供を含め一命は助ける」というものであった。
兵糧も尽きかけていた政実は、この降伏勧告を受け入れることを決断する。天正19年9月4日、政実は弟の実親に後を託し、七戸家国、櫛引清長、久慈直治ら主だった武将と共に、死を覚悟した白装束姿で城を出て、再仕置軍に降伏した 7 。
しかし、この助命の約束は、初めから守られることのない欺瞞であった。主将たちが城を離れた後、再仕置軍は城内に乱入。残っていた兵士やその家族は二の丸に集められて惨殺され、城には火が放たれた 7 。その光景は三日三晩、夜空を焦がしたと伝えられている 28 。後年の発掘調査では、この時に斬首されたとみられる女性の人骨なども発見されており、この撫で斬りが凄惨を極めたものであったことを物語っている 7 。
九戸城の悲劇は、七戸家国の物語の終着点ではなかった。彼と一族には、さらなる過酷な運命が待ち受けていた。
降伏した七戸家国ら九戸軍の首謀者たちは捕縛され、奥州再仕置軍の総大将・豊臣秀次の本陣が置かれていた栗原郡三迫(さんのはざま、現在の宮城県栗原市)まで連行された 22 。
そして同年9月、弁明の機会も与えられぬまま、家国は九戸政実、櫛引清長らと共に斬首された 1 。享年43歳であったと伝えられる 9 。処刑された武将の名は史料によって若干の異同があるが、『南部根元記』によれば、九戸政実、櫛引清長、櫛引清正、七戸家国、久慈直治、久慈政則、大里修理亮、大湯昌次の8名とされる 22 。処刑日は9月20日であったとする伝承も残る 29 。
現在、この処刑地とされる場所には、後年、政実らの霊を慰めるために建立されたと伝わる「九ノ戸神社」や、斬首された首を洗ったとされる「首級清めの池」といった史跡が残されている 22 。七戸家国個人の墓所に関する明確な記録は見当たらないが、この地で他の将と共に祀られているものと考えられる。
当主・家国の死により、彼が率いた七戸氏の家系は断絶した 1 。彼の本拠であった七戸城も、翌天正20年(1592年)に豊臣秀吉の命による諸城破却令によって破壊された 10 。
しかし、七戸家国の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。彼の遺児は、その母親が南部信直方についた有力一族・八戸氏の出身であったことから、特別に助命されたと伝えられている 1 。
さらに、その子、すなわち家国の孫にあたる七戸政高は、後に盛岡藩に出仕し、70石の知行を与えられる藩士として家名を後世に伝えた 1 。反逆者の直系子孫が、たとえ小禄であっても武士として存続を許されるのは異例の措置である。これは、母方の血筋である八戸氏の功績と影響力がいかに大きかったかを物語ると同時に、南部信直による戦後処理の一端を示す興味深い事例である。
七戸家国とその一族が歴史の闇に葬られた一方で、「七戸」という名は驚くべき早さで復活を遂げる。それは、南部信直による周到な戦後統治の表れであった。
九戸政実の乱で家国系の七戸氏が滅亡すると、その旧領であり北方の要衝である七戸城には、ただちに新たな城主が置かれた。南部信直方として乱で功績を挙げた浅水城主・南長義の次男、南右馬助直勝である 1 。
直勝は、乱で同じく討死した別系統の七戸氏である「武田七戸氏」の七戸慶道の名跡を継ぐ形で七戸氏を称したとされる 1 。これにより、家国が率いた旧来の七戸氏とは血縁の異なる、信直に忠実な新しい七戸氏が誕生した。
この一連の措置は、単なる家系の交代劇ではない。七戸という土地は、津軽・下北方面への抑えとして、信直の領国経営上、決して空白にしておくことのできない戦略的要地であった 2 。信直は、単に代官を派遣するのではなく、腹心である南氏の一族に「七戸氏」という伝統的な家名を名乗らせることで、在地への支配の正当性を演出し、旧来の秩序を新しい支配体制へと円滑に移行させることを狙ったのである。家国の「死」と直勝による「再生」は、中世的な「郡中」の一員であった旧七戸氏を、近世大名南部家の忠実な支城主である新七戸氏へと「上書き」する、極めて高度な政治的行為であったと言える。
新たに創設された七戸氏は、その後も南部宗家と密接な関係を保ちながら存続した。直勝の子・直時は2,000石を知行し、盛岡藩の家老を務めるなど、藩内で重きをなした 1 。その後も藩主の庶子が養子に入るなど、七戸氏は南部一門の有力な分家としての地位を確立していく 1 。
そして、家国の死から200年以上が経過した江戸時代後期の文政2年(1819年)、時の七戸氏当主・南部信鄰(のぶちか)は、盛岡藩から6,000石を加増され、合計1万1千石の「七戸藩(盛岡新田藩)」として、ついに大名の列に加わった 35 。家国が失った七戸の地は、長い時を経て、皮肉にも南部宗家の一翼を担う支藩として、再び歴史の表舞台にその名を現したのであった。
七戸家国の生涯は、戦国時代の末期、中央から押し寄せる巨大な権力の波に対し、北奥の在地領主がどのように向き合い、そして飲み込まれていったかを示す、一つの典型的な事例である。彼は、南部一族の伝統的な秩序と自家の存続をかけて戦ったが、豊臣秀吉が構築した新たな天下の形の前には、その抵抗も及ばなかった。
豊臣政権、そしてその下で近世大名として生き残った南部信直の視点から見れば、家国は紛れもなく、天下の秩序に背いた「反逆者」である 32 。しかし、彼の立場、すなわち中世以来の自立性を重んじる在地領主の視点に立てば、その評価は一変する。不当とも思える家督相続や、外部権力による一方的な体制変革に対し、一族の誇りと権益を守るために立ち上がった武将と見ることも可能である 9 。彼の行動は、中世から近世へと移行する激動の時代に生きた、多くの武士が抱えたであろう葛藤を象徴している。
勝者の歴史の中で、七戸家国の名は「九戸政実の乱に与した一武将」として、わずかに記されるに過ぎない 7 。しかし、その短い生涯と、彼を取り巻く複雑な人間関係や政治状況を深く掘り下げることで、戦国時代の終焉がもたらした地方社会の激しい動揺と、そこに生きた人々の苦悩や矜持を、我々はより鮮明に感じ取ることができる。彼の悲劇は、一つの時代の終わりを告げる、奥州の落日そのものであったと言えよう。