最終更新日 2025-07-18

三宅総広

能登畠山氏重臣・三宅総広は「七人衆」として権勢を誇るも、主君義綱との内乱で戦死。彼の行動は能登畠山氏の衰退を早めた。
三宅総広

能登畠山氏の権臣、三宅総広の実像 ―権力闘争と滅びの生涯―

序章:乱世の能登と三宅総広

戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、旧来の権威が失墜する「下剋上」の時代であった。その渦中にあった北陸の能登国もまた、例外ではなかった。この地を支配したのは、室町幕府の三管領家の一つに数えられる名門、畠山氏である。畠山氏は、宗家の家督争いが応仁の乱の一因となるなど、中央政局と深く関わりながらも、分家である能登畠山氏は能登国に根を下ろし、独自の政治体制を築き上げていた 1 。しかし、その統治は決して安泰ではなかった。在京を原則とした守護制度の下、国元の実務を担う守護代や、在地に勢力を持つ国人といった家臣団が次第に力をつけ、主君である守護の権威を脅かすようになっていく。この主家と家臣団との間に絶えず存在する緊張関係こそが、能登畠山氏の歴史を貫く内紛の根本的な土壌となっていたのである 1

本報告書が主題とする三宅総広(みやけ ふさひろ)は、まさにこの激動の時代、能登畠山氏の権力構造が大きく変質し、家臣が主家の実権を掌握していく過渡期を象徴する人物である。彼は、能登畠山氏の最高意思決定機関である「畠山七人衆」の一角を占め、権臣として国政を動かすほどの権勢を誇った。しかし、その栄華は長くは続かず、主家への反乱の果てに、志半ばでその生涯を終えることとなる。

彼の生涯は、単なる一武将の栄枯盛衰の物語に留まらない。三宅総広という人物を深く掘り下げることは、戦国中期における北陸地方の地方権力の動態、複雑に絡み合う家臣団内部の派閥抗争、そして隣国である加賀の一向一揆や越後の上杉氏といった外部勢力との関係性を解き明かすための重要な鍵となる。本報告書は、現存する史料を基に、三宅総広の生涯を徹底的に追跡し、彼の実像に迫ることを目的とする。彼の行動原理を分析し、能登畠山氏の衰亡史の中に彼を位置づけることで、戦国という時代の本質をより深く理解することを目指すものである。


【表1:三宅総広 関連略年表】

西暦 (和暦)

主な出来事

三宅総広の動向

不明

三宅総広、三宅俊長の子として生まれる。

畠山義総より「総」の字を拝領したとみられる 5

1531 (享禄4)

加賀津幡の合戦。

父・三宅俊長が加賀一向一揆との戦いで戦死 6

1551 (天文20)

七頭の乱。畠山義続が隠居し、義綱が家督継承。

「畠山七人衆」が成立し、その一員となる 8

1553 (天文22)

大槻・一宮の合戦

温井総貞に味方し、対立する遊佐続光派を破る 。家中での権力を確立 5

1555 (弘治元)

畠山義綱が温井総貞を暗殺(とされる)。

弘治の内乱が勃発 。温井続宗らと共に義綱に反旗を翻す 5

1555-1558

弘治の内乱。

畠山晴俊を傀儡の当主として擁立し、加賀一向一揆と連携。勝山城を拠点に義綱方と戦う 10

1558 (永禄元)

勝山城の戦い

義綱軍の総攻撃により勝山城が陥落。温井続宗、畠山晴俊らと共に戦死 10

1582 (天正10)

石動山合戦。

養子の三宅長盛が前田利家らに敗れ討死。能登三宅氏の嫡流は絶える 13


第一章:能登三宅氏の出自と権力基盤

三宅総広が能登畠山氏の歴史において重要な役割を果たすに至った背景には、彼の一族が数代にわたって築き上げてきた家格と権力基盤が存在した。能登三宅氏は、戦国時代に各地で見られた三宅姓の氏族の中でも、特に能登畠山氏の重臣として名を馳せた家系である 14 。彼らは決して一代で成り上がった新興勢力ではなく、由緒ある家柄であった。

一族の系譜と家格の確立

能登三宅氏の歴史を遡ると、総広の祖父や父の代から既に畠山家中枢で活躍していたことが確認できる。

祖父にあたる 三宅忠俊 は、能登畠山氏3代当主・畠山義統の近臣であった。文明年間(1469年~1487年)には、畠山氏の直轄領である珠洲郡方上保(現在の珠洲市)の代官を務めるなど、早くから主家の財政や領国経営に関わる重要な地位を占めていた 6 。さらに注目すべきは、彼が文化人としての一面も持っていたことである。文明13年(1481年)に義統の招きで能登へ下向した歌人・招月庵正広は、忠俊の邸宅で開かれた歌会に出席している記録が残っている。これは、三宅氏が単なる武辺一辺倒の国人ではなく、主君である義統と同様に、和歌の道を嗜む高い教養を備えていたことを示している 6 。このような文化的素養と主家との親密な関係は、一族の家格を高める上で大きな役割を果たしたと考えられる。

その子であり、総広の父である 三宅俊長 は、伊賀守を称し、畠山義元・義総の二代にわたって仕えた老臣であった 6 。永正年間(1504年~1521年)に能登で内乱が起こった際には、主君を助けて戦功を挙げ、その結果として羽咋郡土田賀茂荘(現在の志賀町)の代官職を獲得するなど、一族の勢力を着実に拡大させた 6 。しかし、彼の最期は壮絶なものであった。享禄4年(1531年)、加賀で発生した一向一揆の内紛(享禄の錯乱)に際し、畠山義総の命を受けて加賀へ出陣したが、津幡での合戦において一向一揆軍との激戦の末に戦死したのである 6

父・俊長の跡を継いだのが、 三宅総広 である。彼の詳しい生年は不明であるが、諱(いみな)である「総広」の「総」の字は、能登畠山氏の最盛期を築いた7代当主・畠山義総からの一字拝領(偏諱)であるとみられている 5 。主君の名の一字を与えられることは、家臣にとって最高の栄誉であり、主君との極めて強い主従関係を示すものである。このことから、総広は義総の代には既に元服し、家臣として出仕していたことが強く示唆される。祖父・父から受け継いだ家格と、主君からの厚い信任が、彼が後に権力の中枢へと駆け上がるための強固な基盤となったことは想像に難くない。


【表2:能登三宅氏 略系図】

Mermaidによる関係図

graph TD; Tadatoshi[三宅忠俊 文明年間の近臣 文化人] --> Toshinaga[三宅俊長 伊賀守 享禄4年戦死]; Toshinaga --> Fusahiro[三宅総広 筑前守 畠山七人衆 永禄元年戦死]; Nukui_Munetsugu[温井続宗 畠山七人衆 永禄元年戦死] --> Nagamori[三宅長盛 備後守 天正10年戦死]; Fusahiro -- 養子縁組 --> Nagamori; style Fusahiro fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style Nagamori fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 2.0px

(注)温井続宗は温井総貞の子。三宅長盛は続宗の弟であり、総広の養子となった

5

権力の源泉:本拠地と支配領域

能登三宅氏の権力を支えたのは、その軍事・経済的基盤であった。一族の主たる本拠地は、能登半島の内浦側、現在の能登町宇出津周辺に位置する 崎山城 であったと伝えられている 13 。崎山城は、内能登一帯を支配するための戦略的拠点であり、三宅氏はここを根城とする在地領主として、独自の勢力を保持していた。

さらに、彼らは在地における拠点だけでなく、能登畠山氏の政治の中心地であった七尾の府中(守護所が置かれた場所)にも館を構えていた 18 。これは、三宅氏が在地に根を張りつつも、常に守護の側近くに仕え、中央の政治動向にも深く関与していたことを示している。この在地領主としての「国人」的性格と、守護の側近としての「奉行人」的性格を併せ持つことが、三宅氏の強みであった。この二重の性格が、彼らに軍事力と政治的影響力の両方をもたらし、家臣団の中での地位を不動のものにしていったのである。

この章で見てきたように、三宅総広は、祖父の代からの由緒ある家柄、文化的な素養、そして内能登という確固たる支配基盤という、三つの重要な資産を受け継いでいた。しかし、彼の生涯を考える上で極めて重要なのは、父・俊長の死因である。父は加賀一向一揆との戦いで命を落としており、三宅家にとって一向一揆は本来、不倶戴天の仇敵であったはずである 6 。にもかかわらず、総広は後の弘治の内乱において、その仇敵である加賀一向一揆と手を結ぶことになる 10 。この一見矛盾した行動こそ、戦国武将の冷徹な現実主義(プラグマティズム)を如実に物語っている。すなわち、家中の権力闘争という目前の目的を達成するためには、過去の怨恨を超え、いかなる勢力とも連携するという、非情かつ合理的な判断を下す。この視点を持つことこそが、三宅総広という人物の複雑な行動原理を理解する上で不可欠な鍵となるのである。

第二章:権力の中枢へ ―「畠山七人衆」の成立―

三宅総広が能登畠山氏の歴史の表舞台でその名を轟かせるのは、「畠山七人衆」の一員として権力の中枢に座してからである。この七人衆体制の成立は、能登畠山氏の統治構造における画期的な出来事であり、主家の権威が失墜し、家臣団が国政を主導する時代の到来を告げるものであった。

守護権威の形骸化と七人衆体制の誕生

能登畠山氏の安定は、7代当主・義総の死(天文14年、1545年)をもって終わりを告げた。家督を継いだ8代当主・畠山義続の時代になると、家中の統制は急速に乱れ、重臣間の対立が先鋭化していく 8 。この混乱の頂点に達したのが、天文20年(1551年)に発生した「七頭の乱」である。この内乱において、温井総貞や遊佐続光らを中心とする有力家臣団(七頭)は、当主・義続を居城の七尾城に攻め、事実上のクーデターを敢行した 8

乱の結果、義続は強制的に隠居させられ、その子である幼少の畠山義綱が新たな当主として擁立された 8 。しかし、実権は義綱の手にはなく、乱を主導した7人の有力重臣による合議制へと移行した。この政治体制こそが「畠山七人衆」であり、これ以降、能登畠山氏の当主は事実上、彼らの傀儡と化したのである 21

この七人衆の構成には、重要な特徴が見られる。能登畠山氏研究の第一人者である東四柳史明氏は、七人衆のメンバーが、飯川氏や河野氏といった守護の側近として行政を担ってきた奉行人層ではなく、温井氏、遊佐氏、長氏といった能登国内に強固な在地基盤を持つ有力重臣たちで占められていた点を指摘している 23 。これは、七人衆体制が、単なる家臣の合議体ではなく、守護大名の権力を凌駕し、圧倒しうる存在であったことを明確に示している。三宅総広もまた、崎山城を拠点とする有力な在地領主であり、この資格をもって七人衆の一員に名を連ねたのである。

第一次七人衆の構成と権力バランス

天文20年(1551年)に成立した第一次畠山七人衆の構成員は、以下の7名であった。

  • 温井 総貞 (ぬくい ふささだ)
  • 遊佐 続光 (ゆさ つぐみつ)
  • 長 続連 (ちょう つぐつら)
  • 平 総知 (たいら ふさとも)
  • 伊丹 続堅 (いたみ つぐかた)
  • 遊佐 宗円 (ゆさ そうえん)
  • 三宅 総広 (みやけ ふさひろ)

この7名の中でも、特に権勢を誇ったのが、守護代の家柄である遊佐氏の嫡流・遊佐続光と、奥能登の有力国人で義総の代から台頭した温井総貞の二人であった 1 。彼らは七人衆を主導する二大巨頭として君臨したが、その関係は当初から対立を内包しており、七人衆体制は極めて不安定な権力バランスの上に成り立っていた 8 。この体制は、家中の対立を収拾するために生まれたにもかかわらず、結果として新たな、そしてより深刻な権力闘争の舞台装置として機能することになる。三宅総広の政治的キャリアは、この闘争をいかに勝ち抜くかという、派閥の一員としての立ち回りに懸かっていたのである。


【表3:畠山七人衆 構成員一覧(第一次・第二次)】

時期

構成員

備考

第一次七人衆

(1552-1553年)

温井総貞、遊佐続光、長続連、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円、 三宅総広

温井派と遊佐派が対立する不安定な体制 22

第二次七人衆

(1553-1555年)

長続連、 三宅総広 、遊佐宗円、温井続宗、飯川光誠、神保総誠、三宅総堅

大槻・一宮合戦の結果、遊佐続光・伊丹続堅・平総知が脱落。温井・三宅派が主導権を握る 22


この構成員の変遷は、大槻・一宮の合戦がもたらした政治的影響を明確に示している。遊佐派の失脚と、飯川光誠ら新メンバーの加入は、温井・三宅派による権力掌握が完了したことを物語る。

最強の盟友、温井総貞との連携

この緊迫した政治状況の中、三宅総広は一貫して温井総貞と行動を共にし、強力な政治ブロックを形成した 5 。彼らの連携は、単なる利害の一致に基づく政治的協力関係に留まるものではなかった。その結びつきの強固さを象徴するのが、養子縁組である。総広には実子がいなかったためか、温井総貞の子(一説には弟である温井続宗の子)である

三宅長盛 を自らの養子として迎え入れている 5

戦国時代において、養子縁組は極めて重要な政治的・軍事的意味を持った。血縁(たとえ擬制的であっても)によって結ばれることで、両家は単なる同盟者から運命共同体へとその関係を昇華させる。温井氏の危機は三宅氏の危機となり、その逆もまた然りとなる。この不可逆的な関係の構築は、遊佐続光という強大なライバルに対抗し、家中の主導権を確立するための決定的な一手であった。この強固な結束こそが、三宅総広の権力を飛躍的に増大させ、後の権力闘争を勝ち抜くための最大の武器となった。そして同時に、この結束は、後に畠山義綱が温井総貞を排除しようとした際、総広が即座に、かつ大規模な反乱を起こす直接的な動機ともなるのである。

第三章:覇権を巡る暗闘 ―大槻・一宮の合戦(天文22年)―

畠山七人衆体制の成立は、能登に安定をもたらすどころか、内包されていた対立の火種を燃え上がらせる結果となった。権力の中枢を占めた重臣たちは、守護という絶対的な調停者を失った状態で、剥き出しの権力闘争を繰り広げることになる。その最初のクライマックスが、天文22年(1553年)に勃発した「大槻・一宮の合戦」である。この戦いは、三宅総広にとって、自らの政治的地位を決定づける重要な転機であった。

対立の激化:温井・三宅派 対 遊佐続光派

七人衆内部の主導権を巡る争いは、二大巨頭である温井総貞と遊佐続光の間で急速に激化していった 9 。遊佐続光は守護代を輩出した名門・遊佐氏の嫡流としての自負があり、在地国人出身でありながら主君の寵愛を背景に勢力を伸ばした温井総貞の台頭を快く思っていなかったと考えられる。三宅総広は、この対立構造の中で一貫して温井派の中核をなし、遊佐派と鋭く対峙した 5

両派の緊張はついに限界に達し、天文22年(1553年)7月、遊佐続光は伊丹氏や平氏といった自派の家臣を率いて能登を出奔、隣国の加賀へと退いた 9 。これは事実上の宣戦布告であり、武力衝突はもはや避けられない状況となった。

合戦の勃発と経過

加賀に逃れた遊佐続光は、ただ雌伏していたわけではなかった。彼は、当時「百姓の持ちたる国」として強大な軍事力を誇っていた加賀の一向一揆や、畠山宗家(河内畠山氏)の被官衆に支援を要請し、雪辱を期すための軍勢を組織した 9 。そして同年12月10日、遊佐軍は能登へと侵攻を開始し、田鶴浜(現在の七尾市)や大槻(現在の中能登町)に陣を敷いた。

これを迎え撃ったのが、温井総貞を総大将とする畠山軍である。この軍には、三宅総広はもちろんのこと、七人衆のもう一人の有力者である長続連も加わっていた。特筆すべきは、この時、隠居の身であった前当主・畠山義続までもが温井・三宅方に与して出陣している点である 9 。これは、主家がもはや家臣間の派閥争いを調停する能力を完全に失い、一方の派閥に組み込まれる形で内戦の当事者となってしまったという、能登畠山氏の権力構造の異常さを如実に示している。

両軍の兵力は、温井方が約6,000、遊佐方が約5,000とされ、合わせて1万人を超える大規模なものであった 9 。両軍はまず鹿島郡大槻で激突し、敗れた遊佐軍が羽咋郡一宮(現在の羽咋市)方面へ退却する途上で追撃戦が行われた。この一連の戦いは、戦場の名をとって「大槻・一宮の合戦」と呼ばれる 9

温井・三宅派の勝利と権力掌握

合戦の趨勢は、終始温井・三宅派の優勢のうちに進んだ。追撃戦となった一宮での戦闘は熾烈を極め、遊佐方の伊丹総堅・続堅親子をはじめ、河野続秀、丸山出雲守といった多くの武将が討死し、数千人もの兵が命を落としたと伝えられる 9 。総大将の遊佐続光はかろうじて戦場を離脱し、越前国へと敗走した 22

この圧勝により、温井総貞と三宅総広は、家中の最大対抗勢力であった遊佐派を一掃することに成功した 5 。能登畠山家における彼らの権力は絶対的なものとなり、ここに温井・三宅派による政権が確立されたのである。この権力構造の変化は、畠山七人衆の再編という形でも現れた。敗北した遊佐続光、戦死した伊丹続堅、そして乱を機に引退したとみられる平総知が七人衆から脱落。その空席を埋める形で、新たに飯川光誠、神保総誠、そして三宅総広の一族とみられる三宅総堅らが加わり、「第二次七人衆」体制が発足した 22 。三宅総広は、この第二次七人衆においても中心メンバーとして名を連ね、その権勢は頂点に達した。

この大槻・一宮の合戦は、単なる家臣同士の私闘ではなかった。それは、能登一国の実質的な支配権を賭けた内戦であり、三宅総広はその勝者側の中核を担うことで、権力の頂点へと上り詰めたのである。しかし、この勝利は、彼らにとって最大の栄光であると同時に、自らの破滅を招く引き金を引く行為でもあった。遊佐派という強力な対抗勢力を完全に排除したことで、家中の権力バランスは崩壊した。温井・三宅派による権力の独占は、傀儡の座に甘んじることを良しとしない若き当主・畠山義綱にとって、打倒すべき最大の標的となる。栄光の絶頂は、新たな、そしてより致命的な対立の始まりでもあった。彼らの勝利が、わずか2年後に勃発する「弘治の内乱」の直接的な遠因となったことを思えば、その運命は皮肉としか言いようがない。

第四章:主家への反旗 ―弘治の内乱(弘治元年~)―

大槻・一宮の合戦を経て権力の頂点に立った温井・三宅派であったが、その栄華は長くは続かなかった。彼らの前に、新たな、そして最も手強い敵が立ちはだかる。それは、彼らが傀儡として擁立したはずの若き当主、畠山義綱であった。義綱は、名ばかりの主君であることに甘んじることなく、失われた大名の権威を取り戻し、能登を自らの手で統治する「戦国大名」となることを渇望していた。この義綱の野心と、既得権益を守ろうとする温井・三宅派との衝突が、能登全土を巻き込む大内乱「弘治の内乱」を引き起こすことになる。

内乱の導火線:畠山義綱による権力奪還計画

大槻・一宮の合戦後、能登の国政は温井総貞と三宅総広によって完全に掌握された。しかし、その権勢は「専横」と映り、当主である畠山義綱の不満を日増しに募らせていった 29 。義綱は、父・義続の代からの重臣支配を脱し、当主を中心とした中央集権的な支配体制、すなわち「大名専制支配」を確立することを目指していたのである 4 。そのためには、権臣の筆頭である温井総貞の存在が最大の障害であった。

弘治元年(1555年)、義綱はついに実力行使に踏み切る。通説によれば、義綱は父・義続と共謀し、温井総貞を謀殺したとされる 10 。この暗殺事件が、弘治の内乱の直接的な引き金となった。

ただし、この「温井総貞暗殺説」には史料的な裏付けが万全ではないという指摘も存在する。研究者の東四柳史明氏は、この事件を確定させる一次史料が欠けていることを理由に、総貞は暗殺されたのではなく、この時期に病死した可能性を提示している 11 。もしこの説が正しければ、暗殺事件は、後の内乱を正当化するために義綱方によって、あるいは義綱を非難するために温井・三宅方によって創作された物語である可能性も出てくる。本報告書では、通説である暗殺説を主軸に置きつつも、このような研究史上の論点が存在することを付記しておく。

三宅総広の決起と反乱軍の形成

盟友・温井総貞の突然の死(それが暗殺であれ病死であれ)は、三宅総広にとって自らの権力基盤を根底から揺るがす一大事であった。彼は、温井総貞の子である温井続宗ら温井一族と結束し、当主・義綱に対して即座に反旗を翻した。これが5年にも及ぶ「弘治の内乱」の幕開けである 5

三宅総広らの挙兵は、周到な準備の下に行われた。

第一に、彼らは自らの行動を正当化するため、畠山一族の中から畠山晴俊という人物を新たな当主として擁立した 10。これは、自分たちの戦いが単なる家臣の謀反ではなく、「正統な主君(晴俊)を戴き、非道な当主(義綱)を討つ」という大義名分を掲げた「義戦」であることを内外に示すための、戦国時代の常套手段であった。

第二に、彼らは軍事力を確保するため、かつて父・俊長が戦って命を落とした仇敵、 加賀の一向一揆 を扇動し、味方に引き入れた 10 。これは、義綱方を能登国内で孤立させ、南北から挟撃するための極めて合理的な戦略であった。この行動は、三宅総広が家の怨恨よりも、目の前の政治闘争の勝利を優先する冷徹な現実主義者であったことを改めて示している。

この内乱は、三宅総広の視点から見れば「主君への反逆」ではなかった。それは、非業の死を遂げた盟友の仇を討ち、義綱のクーデターによって奪われようとしている自らの権益と生命を守るための、必死の「防衛戦争」であったと言える。

内乱の推移と戦局

挙兵当初、三宅総広率いる反乱軍は、能登半島の付け根にあたる口能登一帯を占領するなど、優勢に戦を進めた 11 。彼らは鹿島郡にある

勝山城 を本拠地とし、ここを拠点に独自の支配体制を築こうと試みた 11

一方、居城の七尾城を追われることはなかった義綱方も、ただ防戦一方だったわけではない。彼は七尾城に籠城して守りを固めると同時に、外交手腕を発揮した。特に、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に使者を送り、援軍を要請したことは、戦局に大きな影響を与えた 11 。景虎は信州方面への出兵を理由に直接の派兵は見送ったものの、兵糧の援助を行うなど、義綱を支援する姿勢を明確にした。

これにより、弘治の内乱は、単なる能登国内の主導権争いという枠組みを大きく超えることになった。反乱軍が加賀一向一揆と結び、さらに甲斐の武田信玄とも連携を模索していたのに対し 12 、義綱方は越後上杉氏と結んだ。能登の内紛は、上杉、武田、本願寺という、当時の北陸道から甲信越にかけて覇を競う大勢力が、互いの思惑を絡ませながら代理戦争を行う場へと変貌したのである。三宅総広の決起は、彼自身の意図を超えて、能登を戦国大名の草刈り場へと引きずり込む、大きな引き金の一つとなってしまったのであった。

第五章:反逆者の最期と一族のその後

弘治元年に始まった大内乱は、能登全土を焦土と化しながら数年にわたって続いた。当初は勢いを見せた三宅総広率いる反乱軍であったが、七尾城に拠る畠山義綱方の粘り強い抵抗と、越後上杉氏からの支援を背景とした反撃により、戦局は次第に反乱軍にとって不利な方向へと傾いていった。そして、永禄元年(1558年)、反乱軍の命運を決定づける戦いが、彼らの本拠地・勝山城で繰り広げられる。

勝山城の攻防と三宅総広の敗死

永禄元年(1558年)春頃、態勢を立て直した畠山義綱軍は、反乱軍の本拠地である鹿島郡の 勝山城 に対して総攻撃を開始した 11 。この勝山城の戦いは、弘治の内乱における最大の決戦となった。

籠城する反乱軍は激しく抵抗したものの、義綱軍の猛攻の前に衆寡敵せず、ついに城は陥落した。この戦闘において、反乱軍を主導してきた中核人物たちは、ことごとく討死するという壊滅的な結末を迎えた。反乱の首謀者の一人であった 三宅総広 、そして彼の盟友・温井総貞の子である 温井続宗 、さらに彼らが傀儡の当主として擁立した 畠山晴俊 は、この勝山城でその生涯を閉じたのである 5

ここで総広の没年について補足が必要である。一部のゲームデータや二次資料では、彼の没年を弘治元年(1555年)と記すものが見られる 5 。これは内乱が勃発した年であり、温井総貞が死亡した年でもあるため、混同された可能性が高い。しかし、より詳細な合戦の経過を記した史料は、彼がその後も数年間、反乱軍の主将として活動し、最終的に永禄元年(1558年)の勝山城の戦いで戦死したことを示唆している 10 。本報告書では、複数の史料が一致する後者の1558年説を、より信憑性の高いものとして採用する。

総広の死が内乱に与えた影響

三宅総広をはじめとする指導者層を一挙に失った反乱軍は、組織的な抵抗力を完全に喪失した。生き残った残党は加賀へと退去し、反乱は事実上、鎮圧された 10 。その後も、温井一族の残党による散発的な抵抗は永禄3年(1560年)頃まで続いたが、大勢に影響はなく、弘治の内乱は畠山義綱方の完全勝利をもって終結した 10 。この勝利により、義綱は長年の懸案であった重臣の専横を打ち破り、大名専制支配体制を確立することに成功したのである。

しかし、この内乱において注目すべきは、三宅一族の動向が必ずしも一枚岩ではなかった点である。三宅総広は反乱軍の首魁であったが、彼の一族とみられる 三宅綱賢 は、当初は反乱軍に加わっていたものの、内乱の途中で義綱方に寝返っている 10 。また、別の史料では三宅続長という人物が義綱軍に与していたことも示唆されている 11 。これは、戦国時代の武家によく見られる、一族の存続を賭けた「両属」戦略、すなわち対立する両陣営に一族を配置することで、どちらが勝利しても家名を存続させようとする保険的な行動であった可能性が考えられる。あるいは、一族内部で義綱に従うべきか否かを巡る深刻な路線対立があったのかもしれない。いずれにせよ、三宅総広の反乱は、必ずしも三宅一族全体の総意ではなかった可能性があり、彼の立場は我々が想像する以上に複雑で、孤独なものであったのかもしれない。

遺された血脈:能登三宅氏の終焉

三宅総広の死後、その名跡と遺領は、養子であった 三宅長盛 が継承したとみられる 5 。長盛は温井続宗の弟であり、実兄の温井景隆と共に義綱への抵抗を続けた。しかし、永禄9年(1566年)に義綱自身が別の重臣(長続連ら)によって追放されるという政変(永禄九年の政変)が起きると、それを機に畠山家に帰参した 16

その後、能登は上杉謙信の侵攻を受けることになる。天正5年(1577年)の七尾城の戦いにおいて、長盛は兄の景隆や遊佐続光らと共に上杉方に内応し、主家である能登畠山氏の滅亡に加担した 13 。しかし、その後の天下の情勢は目まぐるしく変化する。天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、織田信長が斃れると、長盛は畠山旧臣を糾合し、織田方の前田利家が支配する七尾城の奪還を目指して石動山で挙兵した。だが、この試みは前田利家や佐久間盛政らの反撃にあって失敗に終わり、長盛は討死。これにより、能登の有力国人として栄華を誇った三宅氏の嫡流は、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった 13

三宅総広の死、そして養子・長盛の敗死に至る一族の末路は、戦国時代の典型的な悲劇を体現している。家臣が主君を凌駕し、下剋上によって権力を掌握しようとする試みは、結果として深刻な内乱を招き、国力を著しく疲弊させた。そして、弱体化した国は、上杉氏や織田氏といった強大な外部勢力の格好の標的となり、最終的には主家ともども共倒れになる。総広らが目指した権力掌握は、長い目で見れば、自らと主家の墓穴を掘る行為であった。彼の生涯は、内輪揉めが国を滅ぼすという、戦国時代の無常と教訓を凝縮した物語として、後世に伝えられているのである。

終章:三宅総広という武将の歴史的評価

三宅総広の生涯は、戦国乱世の能登国を舞台に繰り広げられた、権力、野心、そして滅びの物語である。彼は、守護大名という旧来の権威が失墜し、守護代や国人といった在地領主が自らの実力で成り上がっていく時代の潮流の中で、一族の勢力拡大をひたすらに追求した、典型的な戦国武将であった。

権臣としての生涯の総括

三宅総広は、祖父・父の代から続く畠山氏への忠勤を背景に、主君・義総からの信任を得て家中の地位を固めた。そして、主家の権威が揺らぎ始めると、すかさずその機を捉え、有力家臣団による合議制「畠山七人衆」の一員として国政の中枢に躍り出た。彼は、温井総貞という最強の盟友と血縁にも等しい強固な同盟を結び、ライバルである遊佐続光派を武力で排除。一時は能登の国政を完全に牛耳るほどの権勢を誇った。その権力闘争の過程で見せた、仇敵であったはずの加賀一向一揆とさえ手を結ぶ冷徹な現実主義は、まさに戦国武将の行動原理そのものであった。

能登畠山氏の衰亡史における役割

しかし、彼の行動が能登畠山氏の歴史に与えた影響を評価する時、その負の側面を無視することはできない。彼が深く関与した家臣団内部の権力闘争、特に大槻・一宮の合戦や弘治の内乱は、能登国を二分する大規模な内戦へと発展し、国の生産力を著しく疲弊させた。この内乱は、結果として畠山義綱による一時的な大名権力の確立を許したものの、その過程で失われた国力と、家臣団の間に残った深刻な亀裂は、もはや修復不可能なレベルに達していた。三宅総広らが引き起こした内紛の数々は、最終的に上杉謙信による能登侵攻を容易にする下地を作り、名門・能登畠山氏の滅亡を早める大きな要因となったことは否定できない。彼の存在なくして、能登畠山氏の悲劇的な終焉は語れないのである。

歴史の中に埋もれた一武将から読み解く戦国社会の実像

三宅総広の名は、織田信長や武田信玄といった天下に名を馳せた武将たちに比べれば、決して広く知られているわけではない。彼は歴史の主役ではなく、地方の権力闘争に敗れ去った、数多いる武将の一人に過ぎないかもしれない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、我々は戦国社会の生々しい実像を垣間見ることができる。

忠誠や裏切りといった単純な二元論では到底割り切れない、複雑な行動原理。家中の派閥抗争、外部勢力との合従連衡、そして一族の存続を賭けた非情な決断。これらはすべて、三宅総広が直面した現実であった。中央の華やかな歴史の陰で、一つの地方大名の家臣団内部で繰り広げられた、剥き出しの生存競争。三宅総広の人生は、その激しさと無常さを我々に伝える、貴重な歴史の証言者と言えよう。彼の物語は、戦国という時代が、個人の野心と時代の大きな奔流が交錯する、人間ドラマの壮大な舞台であったことを改めて教えてくれるのである。

引用文献

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