三田井親武
三田井親武は高千穂の領主。豊臣秀吉の九州平定後、高橋元種と対立。家臣の裏切りで暗殺され、一族は滅亡。後に神として祀られた。

日向高千穂の落日 ― 神孫の末裔・三田井親武の生涯と一族の軌跡
序章:神話と伝説の地に生きる一族
高千穂の地勢と精神的風土
九州山地の中央、その懐深くに抱かれるように位置する高千穂は、古来より日本の精神文化において特別な地位を占めてきた。阿蘇山の火山活動と、五ヶ瀬川の長年にわたる浸食作用によって刻まれた峻険な峡谷は、この地を外部世界から物理的に隔絶し、独自の文化と気風を育む揺りかごとなった 1 。この隔絶された地形こそ、後の三田井氏が数百年にわたり独立を保ち得た、天然の要害であった。
しかし、高千穂を特別な場所たらしめているのは、その地理的条件だけではない。『古事記』や『日本書紀』に記される天孫降臨や天岩戸隠れの神話の舞台として、この地は日本という国家の創生と深く結びついている 2 。天照大神が隠れた天岩戸、神々が降り立ったとされるくしふるの峰、神聖な水が湧き出る真名井など、神話に由来する地名が今なお数多く残り、土地全体が神聖な物語に包まれている。この「神話の故郷」という精神的風土は、この地を治める者にとって、単なる武力や経済力とは質の異なる、神聖な権威の源泉となった。
三田井氏の本拠地である「三田井」という地名そのものも、この土地の神話的世界観を色濃く反映している。一説には、籾を蒔かずとも自然に稲が生えたという「美禄田(みろくだ)」、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が蒔かれた籾の名残とされる「御守田(みもりだ)」、そして「比波里田(ひばりだ)」という三つの神聖な田と、「真名井(まない)」、「比波里川(ひばりがわ)」、「逢初川(あいぞめがわ)」という三つの神聖な井戸があったことから、「三田井」の名が起こったと伝えられている 7 。この地名伝説は、三田井氏の支配が、五穀豊穣をもたらす土地の霊力と不可分であったことを物語っている。
三田井氏の起源伝説:祖母嶽明神と大神氏
高千穂を治めた三田井氏の出自は、この土地の神秘性を体現するかのように、神話と歴史が交錯する二重の起源を持っている。
一つは、極めて土着的で神話的な出自である。それは、日向と豊後の国境にそびえる祖母山、すなわち「祖母嶽(うばだけ)」に住む大蛇が人間の娘との間にもうけた「あかがり大太」という子の、その5代目の子孫が三田井氏の祖である、という異類婚姻譚に連なるものである 7 。祖母山は神武天皇の祖母である豊玉姫命を祀る山ともされ、祖母嶽明神は地域一帯で篤く信仰されていた 11 。この伝説は、三田井氏が単なる移住者ではなく、土地の強力な自然神の血を引く正統な支配者であることを、周辺の民に強く印象付けた。
もう一つは、より現実的な、武家社会における権威の裏付けとなる系譜である。史料によれば、三田井氏は豊後国(現在の大分県)で勢力を誇った大神氏(おおがし)の一門とされている 7 。平安時代中期の天慶年間(938年~947年)、土着の高千穂氏の家系が途絶えた際、豊後大神氏の祖である大神惟基(おおがこれもと)の長子・政次(まさつぐ)が養子としてこの地に入り、「高千穂太郎」を称したのが始まりとされる 7 。
この権威の二重構造は、三田井氏の巧みな統治戦略を物語っている。土着の民や周辺の小豪族に対しては、祖母嶽明神の神威を背景にした神話的権威をかざし、一方で肥後や豊後の有力武士団といった外部勢力に対しては、由緒ある大神氏の末裔という現実的な政治的・軍事的権威を盾とする。この二つの顔を使い分けることで、三田井氏は神話的世界と現実の武家社会の両方において、高千穂の支配者としての地位を盤石なものとしていったのである。そして、この地理的隔絶性と神話に裏打ちされた強い独立精神こそが、後の当主・三田井親武が天下人・豊臣秀吉の絶対的な命令にさえ屈しなかった、その気骨の源流であったと言えよう。
第一章:高千穂氏から三田井氏へ ― 鎌倉・室町期の動向
史料に見る高千穂氏の登場
三田井一族が歴史の表舞台にその名を現すのは鎌倉時代のことである。高千穂神社に伝わる建長6年(1254年)の鎌倉幕府下知状の写しには、「高知尾三郎政重(たかちおさぶろうまさしげ)」、そしてその父・政信、祖父・政綱の名が記されている 7 。この時点では、彼らは本拠地の地名である「高知尾(高千穂)」を姓としていたことがわかる。これが、文献史料において確認できる、一族の確実な姿の始まりである。
その後、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、一族は「三田井」という姓を名乗るようになる。その初見は、建武5年(1338年)の十社大明神(高千穂神社)の神主による申状案に見える「三田井武政」の名である 7 。政重が「高知尾」を名乗り、その子とみられる武政が「三田井」を名乗っていることから、この時期に本拠地である三田井の地名を正式な名字として採用し、高千穂の支配者としてのアイデンティティをより明確にしたものと考えられる 15 。
周辺勢力との関係と統治体制
九州山地の奥深くに位置する高千穂は、中央の戦乱の影響を受けにくい一方で、常に周辺の有力大名の動向にその命運を左右される立場にあった。室町時代を通じて、三田井氏は南に勢力を持つ肥後の有力大名・阿蘇氏と緊密な同盟関係を築くことで、領国の安定を図っていた 15 。文明13年(1481年)に阿蘇家へ提出された起請文には、「三田井惟秀(これひで)・惟治(これはる)様の外は上と頼り申すまじく候事(三田井惟秀様・惟治様以外を主君と頼むことは決してありません)」という一文があり、阿蘇氏を唯一の主君と仰ぐ強い従属関係にあったことが明確に示されている 7 。
しかし、三田井氏は単に阿蘇氏の庇護下にあっただけではない。高千穂郷の総社である高千穂神社(十社大明神)の神官職「宣命(せんみょう)」を補任する権限を掌握していた 16 。南北朝時代には、高千穂庄を10の地区に分け、それぞれに宣命を置いて神事を司らせていたとされ、その任命権を三田井氏が握っていたのである。これは、単なる宗教的行為にとどまらない。領内の各地区の精神的支柱である神官の人事権を掌握することは、領内の末端に至るまで支配を浸透させ、領民を精神的に統合するための、極めて高度な統治技術であった。明応3年(1494年)の三田井惟治による十社大明神への畑の寄進など、歴代当主は神社への寄進を繰り返し行っており 7 、神聖な権威を背景に、現実の支配を正当化し、強化していたのである。
時代が下り、応仁の乱(1467年~1477年)以降、世が戦国の様相を呈してくると、高千穂の北方に位置する豊後の守護大名・大友氏が勢力を拡大する。この新たな情勢の変化に対し、三田井氏の家中では、従来通り阿蘇氏を頼るべきとする勢力と、新たに台頭してきた大友氏と結ぶべきとする勢力に分裂し、内紛が生じたこともあった 15 。この事実は、三田井氏がもはや単なる阿蘇氏の従属国人ではなく、自らの判断で外交相手を選択しようとする、自立した政治主体へと成長していたことを示唆している。戦国末期の当主・三田井親武が見せた強固な独立志向は、こうした歴史的背景の上に培われたものであった。
第二章:三田井親武の時代 ― 九州戦国乱世の渦中で
三田井親武の登場と領国経営
三田井親武(みたい ちかたけ)は、戦国時代の動乱のさなかに、神話の故郷・高千穂の領主としてその名を歴史に刻んだ人物である。一説には、一度血筋が途絶えかけていた高千穂氏の家督を継ぐため、養子として迎えられたとされている 18 。彼の前半生に関する記録は乏しいが、史料にその名が明確に現れるのは、領主としての事績を通じてである。
親武の統治は、父祖代々の伝統に倣い、領内の神社仏閣を篤く保護し、宗教的権威をもって領国を安定させることから始まった。永正元年(1504年)の後河内神社の再興を皮切りに、享禄3年(1530年)には桑の内二上神社、天文8年(1539年)には押方嶽宮、天文14年(1545年)には岩戸の薬王山東岸寺など、数多くの社寺の再興を手がけている 7 。これは、彼が単に敬虔な人物であったというだけでなく、神仏の権威を領国経営に巧みに利用する、現実的な統治者であったことを示している。
また、軍事面においても、親武は来るべき戦乱に備えていた。五ヶ瀬川南岸の丘陵に築かれた本城・仲山城(なかやまじょう)を中核とし、高千穂郷十八ヶ村の要所に「高千穂四十八塁」と呼ばれる城砦群を配置した 1 。これらの山城ネットワークは、九州山地の峻険な地形を最大限に活用した防衛システムであり、彼の領国を守る最後の砦であった。
九州二大勢力の狭間で
親武が生きた16世紀後半の九州は、北の豊後を本拠とする大友氏と、南の薩摩から勢力を伸ばす島津氏という二大勢力が覇を競う、まさに群雄割拠の時代であった。高千穂という地理的条件から、三田井氏は両勢力の動向に常に注意を払う必要があった。
天正6年(1578年)、大友宗麟が4万ともいわれる大軍を率いて日向に侵攻し、耳川の戦いが勃発する 21 。この時、大友軍の別動隊が高千穂にも侵攻し、三田井氏の支城であった玄武城を攻略、城主の吉村氏を滅ぼした 22 。この大規模な紛争において、三田井氏は最終的に島津方に与して大友氏に対抗したとみられている 15 。
その後、島津氏の勢力は九州を席巻し、天正14年(1586年)には大友氏の本拠地・豊後へと侵攻する豊薩合戦が始まる 25 。この戦いにおいても、三田井一族とみられる三田井政利が島津方として参陣したという記録があり 15 、この時期の三田井氏が島津氏の強力な同盟者、あるいはその勢力圏下にあったことは確実である。親武は、九州内の勢力均衡を見極め、巧みな外交戦略によって生き残りを図っていた。
豊臣秀吉の九州平定と「国割り」
しかし、その勢力図は、九州の外から訪れた圧倒的な力によって、根底から覆されることとなる。天正15年(1587年)、島津氏の勢力拡大を脅威と見た関白・豊臣秀吉が、20万ともいわれる大軍を率いて九州に上陸した 15 。島津義久は抵抗むなしく降伏し、九州の戦国時代は事実上の終焉を迎える。
戦後、秀吉は博多に滞在し、九州の新たな領土配分、いわゆる「国割り」を行った。この時、日向国のうち、県(あがた、現在の延岡市)を中心とする地域は、筑前の戦国大名・秋月種実の次男であり、高橋鑑種の養子となっていた高橋元種(たかはし もとたね)に与えられることになった 15 。
この国割りにおいて、三田井氏の運命を決定づける一つの事態が発生する。高橋元種に与えられた朱印状の宛行地(領地目録)に、三田井氏が治める「高千穂」の地名が明記されていなかったのである 15 。これは、単なる行政上のミスであったのか、あるいは別の意図があったのか。秀吉ほどの人物が率いる政権の官僚機構が、一地域の帰属を「うっかり」失念するとは考えにくい。これは、九州の諸大名を完全に服従させるための、秀吉の高度な政治戦略であった可能性が指摘できる。すなわち、領地の境界を意図的に曖-昧にすることで大名間に紛争の種を蒔き、その裁定者として君臨することで、自らの権威を絶対的なものにするという狙いである。この「宛行状の不備」という一点が、神孫の末裔としての誇りを胸に独立を保ってきた三田井氏と、秀吉の権威を背景に領土拡大を目論む新領主・高橋元種との間に、避けられない対立を生み出し、一族を悲劇的な滅亡へと導く引き金となったのである。親武がこれまで培ってきた九州内の勢力バランスを前提とした外交術は、この新たな「中央集権」という時代の奔流の前には、もはや通用しなかった。
第三章:高橋元種との対立と滅亡への道
新領主・高橋元種の野心
三田井親武の前に立ちはだかった高橋元種は、単なる豊臣政権から派遣された領主ではなかった。彼の父は、筑前の戦国大名・秋月種実(あきづき たねざね) 27 。種実は、一時は毛利元就の庇護を受ける苦難の少年期を送りながらも、長じては島津氏と巧みに結び、宿敵・大友氏を脅かして筑前・筑後・豊前の三ヶ国にまたがる広大な領土を築き上げた、野心と謀略に長けた人物であった 29 。
その次男である元種もまた、父の血を色濃く受け継いでいた。九州平定後、彼に与えられた日向国縣(延岡)5万3千石という領地 27 は、決して小さなものではなかったが、彼の野心を満たすには十分ではなかった。彼の目は、朱印状に名のなかった隣接地の高千穂に向けられた。元種は、山深い高千穂が持つ潜在的な価値を見抜いていた可能性がある。表向きの石高はわずか6千石程度 1 であったが、古くから銀山が稼働していた記録もあり 32 、祖母傾山系が鉱物資源の宝庫であることは知られていた 33 。さらに、高千穂は日向・豊後・肥後を結ぶ交通の要衝でもあり、この地を支配することは経済的・戦略的に極めて重要であった。元種は、三田井氏が遠隔地への参勤を渋っていることに対し、「貴殿では参勤も大変でしょうから、私が太閤殿下にうまく言っておきますよ」などと懐柔的な言葉をかけつつ 34 、水面下では着々と高千穂併合の策を練っていたのである。
対立の構造:正統性と実力
両者の対立は、戦国時代の価値観の転換を象徴するものであった。三田井親武の主張は、神話の時代からこの地を治めてきた神孫の末裔であり、その支配は歴史的・伝統的に正統なものである、という「伝統的権威」に基づいていた。対する高橋元種の主張は、天下人・豊臣秀吉から日向国を与えられた公的な領主であり、その支配は中央政権の権威、すなわち「実力」に裏打ちされたものである、というものだった。これは、古くからの由緒や血筋が重んじられた中世的価値観と、天下人の任命こそが全てを決定するという近世的価値観の衝突であった。
以下の表は、両者の勢力差を客観的に示している。
項目 |
三田井親武 |
高橋元種 |
当主 |
三田井親武 |
高橋元種 |
石高 |
約6,000石 1 |
53,000石 27 |
本拠地 |
仲山城(高千穂) |
縣城(延岡) |
権力の源泉 |
神話的・伝統的正統性 |
豊臣政権による公的な任命 |
軍事的特徴 |
高千穂四十八塁による山城防衛網 |
中央政権を背景にした動員力 |
この表が示すように、両者の間には約10倍もの圧倒的な国力差が存在した。三田井氏にとって、秀吉の国割りに従わないという選択は、極めて無謀な賭けであった。一方で高橋氏が、この圧倒的な兵力差にもかかわらず、即座に大軍を投入しなかったのは、高千穂四十八塁と峻険な地形に守られた三田井氏との山城での消耗戦が、多大な犠牲を強いることを理解していたからに他ならない。それは、父・秋月種実がそうであったように、より大きな権力(この場合は豊臣政権)の威を借りて、謀略によって相手を切り崩すという、秋月氏の家風ともいえる合理的な戦略の選択であった。
高橋元種の謀略:内部からの切り崩し
元種は、三田井氏の抵抗が、長年仕える家臣たちの忠誠心と、地の利に支えられていることを見抜いていた 27 。そこで彼は、最も効果的かつ損害の少ない方法として、三田井氏の内部から崩壊させる策を採る。彼の標的となったのが、三田井家の重臣であり、日之影の岩井川に中崎城を構える領主、甲斐宗摂(かい そうせつ)であった 27 。元種は宗摂に密使を送り、主君・親武への内応と裏切りを執拗に勧めたのである。この一人の家臣の決断が、数百年の歴史を誇った神孫の一族に、終焉をもたらすこととなる。
第四章:裏切りと暗殺 ― 親武の最期
悲劇の家臣・甲斐宗摂
甲斐宗摂は、三田井氏の家老格として重きをなした人物であった。日之影町の岩井川と諸塚村を領し、五ヶ瀬川の断崖上に築かれた中崎城を居城としていた 1 。その出自については、肥後の智将として知られる甲斐宗運(そううん)の次男であるという説が『高千穂治乱記』などに記されているが、確たる証拠はなく、謎に包まれている 37 。
彼が主君・親武を裏切った動機については、地元に二つの相反する伝承が残されている。一つは「利欲説」である。『高千穂治乱記』によれば、高橋元種から「そなたが協力してくれれば、私が太閤殿下(秀吉)へとりなし、良きに計らってやろう」と甘言をもって誘われ、自らの利益のためにその策に同意した、というものである 40 。これは、下剋上が常であった戦国武将の現実的な判断として、あり得た選択であろう。
しかし、もう一つの「脅迫説」は、宗摂を全く異なる人物像として描く。元種は宗摂を勧誘する際、「この重大な話を聞いたからには、もし同意せぬのなら、まずお前の領民を一人残らず皆殺しにした上で、三田井に進撃する」と脅迫したという 40 。宗摂は自らの領民の命を天秤にかけ、苦悩の末、主君を裏切るという非情の道を選んだ、とされる。この説は、宗摂が領内に「主井出(おもいで)」と呼ばれる用水路を開削して開田を奨励したり、高千穂神社の祭りで悪神・鬼八の霊を鎮めるために行われていた人身御供の儀式を廃止し、代わりに猪を捧げる「猪掛祭(ししかけまつり)」に変えさせたりした、という善政の伝説と結びついている 40 。これらの伝説は、単なる裏切り者という汚名を着せられた宗摂を、領民を深く愛した悲劇の名君として記憶しようとする、地元の人々の複雑な心情を反映しているのかもしれない。
親武暗殺の夜
文禄元年(1591年)9月27日の夜、甲斐宗摂はついに決行する。『高千穂治乱記』などの記述によれば、宗摂が率いる一隊は深夜、五ヶ瀬川の渓谷を挟んで仲山城の対岸にあった三田井親武の居館、「御内(みうち)の御所」に密かに忍び寄った 1 。防御施設である城ではなく、平時の住まいである館を狙うという戦術は、内部事情に精通した宗摂ならではの選択であった。
番兵たちが寝静まる中、宗摂は難なく親武の寝所に侵入。障子にもたれて休んでいた無防備な親武の姿を確認すると、手にした槍でためらうことなく一突きにし、その首級を挙げた 1 。主君をその手で殺めた宗摂は、続いて御所に火を放ち、夜の闇に響き渡る声で「三田井親武が首、高橋が軍兵、討ち取ったり」と叫び、高千穂の支配者の死を宣言したと伝えられる 1 。
家臣たちの奮戦と落城
突然の凶事に、居合わせた家臣たちも黙ってはいなかった。特に、石山城主であった有藤玄蕃頭信久(ありとう げんばのかみ のぶひさ)は、主君の仇を討つべく奮戦したが、周到に準備された宗摂の兵の前には衆寡敵せず、壮絶な討ち死を遂げた 1 。
主君を暗殺され、忠臣も倒れ、居館が炎に包まれる中、本城である仲山城も大混乱に陥り、抵抗らしい抵抗もできぬまま落城した。こうして、神話の時代から数百年続いた高千穂の支配者・三田井氏は、最も信頼していたはずの家臣の裏切りによって、一夜にしてその歴史に終止符を打たれたのである。
第五章:一族の悲劇 ― 残された者たちの運命
残党の抵抗と掃討
三田井親武の暗殺と本城・仲山城の陥落は、三田井氏にとって致命的な打撃であったが、一族の物語はそこで終わらなかった。高橋元種の支配に屈することを潔しとしない遺臣たちが、各地の城砦に拠って抵抗を続けたのである。その中でも特に強硬派として最後まで戦ったのが、岩戸に水之内城を構える城主・富高大膳(とみたか だいぜん)と、家老の甲斐朝昌(かい ともまさ)であった 15 。
高橋元種は、高千穂支配を完全なものにするため、残党勢力の一掃に乗り出す。まず三千の兵を派遣して甲斐朝昌を攻め、朝昌・重安父子を討ち取った 15 。次いで、抵抗の最後の拠点となった富高大膳の水之内城を包囲する。大膳は城兵を指揮して懸命に防戦したが、高橋軍の猛攻の前に城はついに陥落。大膳は城と運命を共にし、自刃して果てた 15 。慶長3年(1598年)、富高大膳の死をもって、三田井氏による組織的な抵抗は完全に終焉を迎えた。
親武の子らによる内紛と自滅
外部からの攻撃によって組織が崩壊する一方で、三田井氏の内部では、より悲劇的な自滅の連鎖が始まっていた。親武の死後、跡を継いだとされる三男(あるいは長男)・鎮信(しげのぶ)は、早々に高橋氏に降伏し、領主としての威光は完全に失墜していた 15 。
伝承によれば、鎮信は暗君であり、家臣からの人望が厚かった弟たちを妬み、猜疑心に苛まれていたという 15 。外部からの圧力によって結束を失った集団が内部崩壊へと向かう典型的な悲劇が、三田井家で繰り広げられた。鎮信は、悪臣の讒言を信じ、自らの手で一族の血を根絶やしにする凶行に及ぶ。まず、四男の鎮氏(しげうじ、長武とも)に謀反の疑いをかけ、水牢に閉じ込めた。一度は十社大明神の神前で潔白を誓わせることで許されたかに見えたが、鎮信は突如家臣の折原美濃守に殺害を命令。困惑する折原に代わり、飯干但馬守が斬りかかり、鎮氏は数合戦うも、ついに討ち取られた 41 。
さらに鎮信の狂気は、兄弟の中で最も器量に優れ、将来を嘱望されていたという末弟・鎮武(しげたけ)にも向けられた。鎮信は鎮武をも殺害してしまう 15 。鎮武は自害する際、兄と同じ菩提寺である義雲寺ではなく、別の長福寺に葬ってほしいと言い残したとされ、その無念さが伝わっている 41 。
自らの手で一族の未来を葬った鎮信自身も、その後は酒色に溺れる日々を送り、慶長3年(1598年)に病死した 15 。これにより、神孫の末裔と謳われた三田井氏の嫡流は、完全にその血脈を絶たれた。外部の力による「軍事的な滅亡」に続き、内部からの猜疑心と憎悪による「自滅」という二重の悲劇が、一族の最期を彩ったのである。
鎮氏とお亀の悲恋物語
この一族の悲劇の中で、今なお人々の心を打つ物語が語り継がれている。兄・鎮信に殺された鎮氏(当時28歳)には、お亀という名の18歳の美しい恋人がいた。鎮氏非業の死を知ったお亀は、悲しみのあまり高千穂峡に架かる御橋から身を投げ、愛する人の後を追ったという 41 。この二人の悲恋物語は、暴君・鎮信の非道さを際立たせ、殺された鎮氏を悲劇のヒーローとして人々の記憶に刻み込む役割を果たした。高千穂峡のほとりには、この哀れな二人を祀るための供養碑や御霊社が今もひっそりと佇み、訪れる者に一族の悲運を伝えている 41 。
氏名(通称) |
続柄(推定) |
末路 |
没年(諸説あり) |
関連する伝承・史跡 |
三田井 重武 |
長男 |
自刃 7 |
慶長2年 (1597年) |
三田井氏宗家滅亡の象徴とされる。 |
三田井 鎮信 |
三男(跡継) |
酒色に溺れ病死 15 |
慶長3年 (1598年) |
弟たちを殺害した暗君として伝わる。 |
三田井 鎮氏(長武) |
四男 |
兄・鎮信の命により殺害 15 |
慶長元年 (1596年) 42 |
恋人お亀との悲恋物語が残る。御霊社に祀られる 41 。 |
三田井 鎮武 |
五男 |
兄・鎮信により殺害(自害) 15 |
不明 |
将来を嘱望された傑物。菩提寺を別に指定する遺言を残す 41 。 |
※親武の子らの名前、続柄、没年には諸説あり、史料によって混乱が見られるが、上の表は伝承を基に整理したものである。
第六章:死して神となる ― 親武大明神信仰と三田井氏の遺産
首塚伝説と宮水神社の創建
三田井親武の物語は、肉体の死をもって終わらなかった。彼は敗軍の将でありながら、死後に神として祀られるという、稀有な運命をたどる。その発端となったのが、彼の首にまつわる一つの不思議な伝説である。
甲斐宗摂によって討ち取られた親武の首は、高橋元種による首実検のため、舟の尾の代官所へ運ばれる途中であった。しかし、一行が宮水(みやみず、現在の宮崎県日之影町)の地に差し掛かったところで、それまで軽々と運んでいたはずの首がにわかに石のように重くなり、一歩も動かすことができなくなったという 18 。これは、親武の無念の魂がこの地を離れることを拒んだのだと人々は噂した。やむなく首実検はその場で行われ、その後、親武を深く慕っていた旧領民たちの手によって、その首は宮水の林の中に丁重に埋葬された。人々はこの場所を「御塚(おつか)」と呼び、密かに敬い続けた 18 。
この「御塚」が、後に「親武大明神」を祀る宮水神社へと発展していく。その神格化への道のりは、200年以上の歳月をかけた、民衆による記憶の継承の物語であった。
- 享和2年(1802年): 親武の死から約200年後、三田井氏の支族であった興梠権兵衛重綱(こおろぎ ごんべえ しげつな)らが中心となり、荒れ果てていた御塚に石碑を建立し、盛大な法要を営んだ 18 。これは、忘れ去られようとしていた旧領主の記憶を、公式な形で呼び覚ます最初の大きな動きであった。
- 天保15年(1844年): 高千穂郷十八ヶ村の庄屋たちが、領民の総意として、親武を正式な神として祀ることを時の神祇管領家である吉田家に願い出た。この願いは聞き入れられ、「親武大明神」の神号が許された 1 。時の延岡藩主・内藤氏もこれを黙認しており、藩の名代が廟所を訪れた記録も残っている 1 。
- 安政3年(1856年): 領民からの寄付により、ついに御塚の地に社殿が創建される 27 。この時、近くにあった北山大明神も合祀された。
- 明治初年: 神社は「宮水神社」と改称し、郷社に列せられた 27 。現在も、主祭神である大山祇命などと共に、三田井越前守親武公が祭神として名を連ね、篤い信仰を集めている 27 。
なぜ、敗軍の将がこれほどまでに長く記憶され、神として祀られるに至ったのか。それは、三田井氏滅亡後に高千穂を支配した延岡藩の統治が、領民にとって必ずしも幸福なものではなかったことを示唆している。延岡藩は、農業生産力の低い高千穂の山間部に対し、平野部と同等の重い税を課したという記録も残る 44 。民衆は、圧政に苦しむ中で、失われた「古き良き時代」の領主であった三田井親武を理想化し、彼を神として祀るという行為を通じて、現在の支配者に対する無言の抵抗と、かつての独立した郷土への誇りを表明したのである。親武大明神信仰は、歴史の敗者の側に立った、民衆の力強い歴史意識の現れであった。
文化的・物理的遺産
三田井氏がこの地に遺したものは、神となった親武の物語だけではない。彼らの統治の痕跡は、今も高千穂の文化と景観の中に深く刻み込まれている。
- 高千穂四十八塁: 親武が領国防御のために築いた城砦群は、現在も高千穂町や日之影町に「仲山城跡」「中崎城跡」「淡路城跡」などとして点在している 1 。これらの城跡は、宮崎県教育委員会などによって分布調査が進められており、三田井氏の勢力範囲と防衛戦略を今に伝えている 46 。
- 高千穂夜神楽: 国の重要無形民俗文化財である「高千穂の夜神楽」 2 は、その成立と伝承において、三田井氏の庇護が大きな役割を果たしたと考えられる。特に、三田井氏の本拠地であった三田井・浅ヶ部地区に伝わる神楽は、古式をよく留めているとされ、国の選択無形民俗文化財にも指定されている 47 。三田井氏による宗教的・経済的な支援がなければ、この比類なき伝統芸能が今日までこれほど豊かに受け継がれることはなかったかもしれない。
- 史跡と菩提寺: 三田井家の菩提寺であった徳源寺や義雲寺などは、江戸時代までに廃滅してしまったが 7 、仲山城址の周辺には、初代高千穂太郎政次や親武自身のものと伝えられる墓所が、里人によって今も大切に守られている 1 。
これらの城跡、神楽、墓所は、単なる歴史的遺物ではない。それらは、三田井一族の栄光と悲劇の物語を地域社会に語り継ぐための「記憶の場」として機能している。人々は城跡を歩き、夜神楽を舞い、親武の墓に手を合わせることで、自分たちの土地の歴史とアイデンティティを再確認する。三田井氏が遺した最大の遺産とは、物理的な城や寺ではなく、高千穂の人々の心の中に生き続ける物語そのものであると言えるだろう。
終章:歴史のなかの三田井親武
三田井親武の歴史的評価
三田井親武は、神話の権威をその身にまとい、九州山地の峻険な山々に守られた小国の領主として、戦国の世を生き抜こうとした人物であった。彼は、肥後の阿蘇氏や薩摩の島津氏といった周辺の有力者と巧みに関係を築き、独立を維持してきた。しかし、彼が生きた時代は、地方の独立した勢力がもはや存続を許されない、強力な中央集権体制へと向かう大きな転換期であった。豊臣秀吉という、彼の経験と理解をはるかに超えた絶対的な権力の登場は、その流れを決定的なものにした。
親武が秀吉の国割りに従わず、抵抗の道を選んだのは、単なる無謀や時勢の読めなさからではなかっただろう。それは、神話の時代からこの地を治めてきた神孫の末裔としての、そして数百年にわたり独立を保ってきた領主としての、最後の誇りをかけた抵抗であった。彼の悲劇は、旧来の価値観と伝統に殉じた、誇り高き地方領主の落日の物語として、歴史に位置づけられる。
彼は軍事的には紛れもない「敗者」であった。しかし、領民に深く慕われ、その死から200年以上もの時を経て神として祀られるという、勝者でさえ滅多に得ることのできない栄誉を手にした。この事実は、為政者の歴史的評価が、単なる戦の勝敗や権力の大きさ、領地の広さだけでは決まらないことを、我々に強く示している。
物語の総括:神話、歴史、伝承の織物
三田井一族の物語は、祖母嶽の大蛇伝説という神話に始まり、高橋元種の冷徹な謀略、最も信頼した家臣・甲斐宗摂の裏切り、そして残された息子たちの猜疑心による内紛と自滅、最後に親武大明神としての民衆の中での再生に至る、壮大な叙事詩である。
その物語は、鎌倉時代の古文書に残された「高知尾三郎政重」という名のような客観的な「史実」、軍記物である『高千穂治乱記』に見られる英雄譚や悲劇としての「脚色」、そして甲斐宗摂の善政伝説や親武の首塚伝説といった、民衆の願いや抵抗の心が込められた「伝承」が、複雑な織物のように絡み合って形成されている。本報告書で試みたのは、これらの絡み合った糸を一本一本丹念に解きほぐし、再構成することで、三田井親武という一人の武将と、彼が生きた時代、そして彼がこの地に遺したものの全体像を、可能な限り立体的に描き出すことであった。
高千穂の深い渓谷には、今も三田井一族の栄光と落日の物語がこだましている。それは、博物館のガラスケースに収められた過去の遺物ではなく、高千穂神社の夜神楽や、村々に残る城跡、そして人々の口伝えの中で、今も生き続けている。三田井親武という一地方豪族の生涯の探求は、歴史が勝者の記録だけで作られるのではなく、敗者の記憶によってもまた、深く豊かに紡がれていくものであることを、我々に改めて教えてくれるのである。
引用文献
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- 高千穂太郎の墓 | 高千穂観光ブログ - Photo Miyazaki 宮崎観光写真 https://www.pmiyazaki.com/takachiho/nw/log/eid1.html