本稿の目的は、戦国時代の関東地方において扇谷上杉氏の当主として活動した上杉朝興(うえすぎ ともおき)の生涯と事績を、関連史料に基づいて詳細に検討し、その歴史的意義を明らかにすることである。朝興が生きた時代は、関東管領上杉氏の権威が揺らぎ、旧勢力である上杉氏が新興勢力である後北条氏の挑戦を受け、関東の覇権構造が大きく変動する過渡期であった。この動乱期において、朝興がいかなる役割を果たし、扇谷上杉氏がどのような動向を辿ったのかを多角的に考察する。
年(西暦、和暦) |
出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠史料例 |
1488年(長享2年) |
上杉朝興、誕生 |
父:上杉朝寧、養父:上杉朝良 |
1 |
1505年(永正2年) |
養父・朝良の隠居により家督相続、扇谷上杉氏当主となる |
上杉朝良、山内上杉氏 |
2 |
1524年(大永4年)1月13日 |
高輪原の戦いで北条氏綱に敗北、江戸城を失い河越城へ退く |
北条氏綱、太田資高 |
1 |
1524年(大永4年)1月 |
江戸城代・太田資高が北条氏綱に内応 |
太田資高、北条氏綱 |
3 |
1525年(大永5年) |
北条氏綱が岩槻城を攻略 |
北条氏綱、太田資頼、渋江三郎 |
5 |
1530年(享禄3年) |
小沢原の戦いで北条氏綱・氏康に敗北 |
北条氏綱、北条氏康 |
6 |
1530年(享禄3年)頃 |
扇谷上杉氏、岩槻城を奪還 |
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8 |
1537年(天文6年)4月27日 |
河越城にて病没(享年50または52) |
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1 |
上杉朝興は、長享二年(1488年)に生まれ、天文六年(1537年)4月27日に没した戦国時代の武将である 1 。没年齢については50歳とする史料 1 と52歳とする史料 9 が存在する。実父は上杉朝寧(うえすぎ ともやす)とされ、叔父にあたる扇谷上杉氏の当時の当主・上杉朝良(うえすぎ ともよし)の養子となった 1 。幼名は五郎と伝えられている 1 。
朝興が属した扇谷上杉氏は、関東管領を世襲した山内上杉氏の分家であり、鎌倉の扇谷(おおぎがやつ)に居住したことがその名の由来である 10 。室町時代を通じて関東の有力武家として一定の勢力を保持してきたが、朝興が家督を継承する頃には、その勢力には陰りが見え始めていた。朝良が実子ではなく、甥である朝興を養子とした背景には、朝良に男子がいなかったか、あるいはいても家督を継承させるには不適格と判断された可能性が考えられる。戦国時代においては、家の存続と勢力の維持が最優先課題であり、血縁の近さや能力を考慮して養子を迎えることは一般的な慣行であった。朝興の養子入りは、扇谷上杉氏の家督継承を安定させ、一族の結束を維持しようとする朝良の意図の表れであったと推察される。
永正二年(1505年)、養父である上杉朝良が、本家筋にあたる山内上杉家との長年にわたる抗争(長享の乱)に敗れ、隠居を余儀なくされた 11 。これに伴い、朝興は18歳という若さで家督を継承し、扇谷上杉家の当主となった 2 。
しかしながら、家督を相続したとはいえ、実権は依然として養父の朝良が掌握していたとされている 2 。この事実は、扇谷上杉氏が置かれていた厳しい状況を反映していると言える。山内上杉氏との抗争に敗れた直後であり、朝良としては経験の浅い朝興に全権を委ねることに不安を感じたか、あるいは隠居後も一定の影響力を保持しようとした可能性が考えられる。このため、朝興が名実ともに当主として独自の指導力を発揮するまでには、一定の時間を要したと見られる。
朝興が家督を継いだ当時の扇谷上杉氏は、その勢力が著しく衰退していた。その大きな要因として、文明九年(1477年)から永正二年(1505年)まで18年間に及んだ山内上杉氏との「長享の乱」における敗北 11 が挙げられる。さらに、それ以前の文明十八年(1486年)に、扇谷上杉氏の執事であり、江戸城を築城するなど数々の功績を挙げた太田道灌が、主君である上杉定正(朝興の養父・朝良の先代)によって謀殺されるという事件があった 10 。太田道灌という卓越した軍事・政治能力を持つ家臣を失ったことは、扇谷上杉氏の国力低下に直結し、その後の衰退を決定づけた要因の一つとされている 14 。道灌は死に際に「当方滅亡」と叫んだと伝えられるが 14 、この言葉は、その後の扇谷上杉氏の運命を暗示していたかのようである。この「負の遺産」は、朝興が家督を継いだ時点で、既に扇谷上杉氏にとって大きな重荷となっていた。
16世紀初頭の関東地方は、古河公方(足利氏)と関東管領(山内上杉氏)という二つの伝統的権威が存在しつつも、その実態は多数の地域勢力が複雑に絡み合う多極的な構造を呈していた 15 。扇谷上杉氏は、山内上杉氏の分家でありながらも、時にはこれと対立し、独自の勢力を保持しようと努めてきた 12 。しかし、前述の長享の乱における敗北により、山内上杉氏に対する劣勢は明らかであった。
周辺には、下野国の宇都宮氏や那須氏、常陸国の佐竹氏、甲斐国の武田氏など、多くの国人領主や戦国大名が割拠しており 17 、扇谷上杉氏はこれらの勢力との間で合従連衡を繰り返しながら、自家の存続を図らねばならない立場に置かれていた。このような複雑な勢力図の中で、扇谷上杉氏が確固たる地位を築き、維持することは極めて困難な戦略的課題であったと言える。特に宗家である山内上杉氏との関係は、協調と対立が繰り返され、安定した同盟関係を築くことが難しかった。この状況が、後に台頭する後北条氏のような新興勢力につけ入る隙を与える一因となったと考えられる。
伊勢宗瑞(後の北条早雲)に始まる後北条氏は、伊豆国、次いで相模国へと急速に勢力を拡大し、その二代目当主である北条氏綱の時代には、武蔵国への進出を本格化させた 3 。武蔵国は扇谷上杉氏の伝統的な勢力圏であり、北条氏のこの動きは、両者の直接的な衝突を不可避なものとした 3 。氏綱は、扇谷上杉家の家臣に対する調略を進めるなど、周到な準備をもって武蔵侵攻を開始したと記録されている 3 。
北条早雲・氏綱親子は、旧来の権威にとらわれない実力主義的な領国拡大戦略を展開した。これに対し、扇谷上杉氏を含む関東の伝統的な諸勢力は、内部の紛争や旧体制への固執から、この新興勢力の脅威に対する統一的かつ迅速な対応が遅れた可能性がある。北条氏による扇谷上杉氏家臣への調略 3 が成功した背景には、扇谷上杉氏側の内部的な結束の弱さや、家臣団の間に何らかの不満が存在したことも考えられる。新旧の対立構造において、北条氏の柔軟かつ攻撃的な戦略に対し、上杉氏の対応が後手に回った可能性は高い。
大永四年(1524年)正月、北条氏綱は武蔵侵攻を開始した。これに対し、上杉朝興は軍勢を率いて迎撃のため武蔵国高輪原(現在の東京都港区高輪)に進出したが、正月十三日に行われた戦闘(高輪原の戦い)で北条軍に敗北を喫した 1 。
この敗戦の結果、朝興は江戸城を支えきることができず放棄し、武蔵国河越城(現在の埼玉県川越市)へと退却した 1 。かつて太田道灌が築城し、扇谷上杉氏の拠点の一つであった江戸城は、この戦いを機に北条氏の手に落ちることとなった 5 。
江戸城が陥落した直接的な原因の一つは、当時江戸城代であった扇谷上杉氏の家臣・太田資高(おおた すけたか)が、北条氏綱に内応したことであった 3 。資高は、主君である朝興が山内上杉家との和睦交渉のために河越城へ赴いていた隙を突いて、氏綱に通じたとされている 4 。
太田資高の裏切りの背景については諸説あるが、父祖である太田道灌以来の太田氏の功績に対する扇谷上杉家中での処遇への不満や、急速に勢力を伸長する北条氏の将来性を見越しての判断などが考えられる。実際に、太田康資(資高の子)が後に北条氏に対して謀叛を企てた理由の一つとして、父資高の遺領に関する不満が挙げられていることから 20 、資高の代から何らかの確執があった可能性も否定できない。資高は内応の功により、北条氏綱から所領を安堵され、さらには氏綱の娘を娶るなど厚遇されたと伝えられている 4 。
太田資高の内応は、単なる一武将の離反というだけでなく、扇谷上杉氏の支配体制の脆弱性を露呈するものであった。太田氏は太田道灌以来、扇谷上杉氏にとって重要な家臣筋であり、その中心人物の一人であった資高の裏切りは、朝興にとって軍事的に大きな痛手となっただけでなく、精神的にも大きな打撃となったであろう。この事件は、戦国時代における主君と家臣の関係の流動性、そして調略の重要性を示す典型例と言える。
さらに注目すべきは、高輪原の戦いのわずか3日前、大永四年正月十日に、上杉朝興は長年の宿敵であった山内上杉憲房との和議に合意していたという事実である 3 。これは、北条氏という共通の敵に対抗するために、両上杉氏が連携を模索する動きであったと考えられる。しかし、この和睦が成立した矢先に氏綱の侵攻を受け、江戸城を失陥したことは、朝興の外交努力が実を結ぶ前に機先を制されたことを意味する。むしろ、この和睦交渉のために朝興が江戸を離れたことが、太田資高に内応の隙を与えた可能性すら指摘されている 4 。外交によって戦力増強を図ったつもりが、足元を掬われた形となったのである。
江戸城の失陥は、扇谷上杉氏にとって、武蔵国南部における最重要拠点を失ったことを意味し、その勢力後退を決定づけるものであった 1 。これにより、朝興は河越城を新たな本拠地とせざるを得なくなった。
この敗北は、関東における勢力図にも大きな影響を与え、北条氏のさらなる進出を促すとともに、周辺勢力の離合集散を加速させることになった 3 。例えば、古河公方足利高基は北条氏綱との関係を深める一方、下総国を拠点とする小弓公方足利義明は、上杉朝興や山内上杉憲房への支援に乗り出すなど、関東の情勢は一層複雑な様相を呈した 3 。
江戸城は、太田道灌が築いた扇谷上杉氏躍進の象徴であり、また東京湾を押さえる戦略的要衝でもあった。その喪失は、具体的な領土や軍事力の低下のみならず、扇谷上杉氏の権威失墜という心理的な影響も大きかったと考えられる。これにより、他の国人領主の離反を招きやすくなったり、同盟交渉において不利な立場に立たされたりするなど、負の連鎖が生じた可能性がある。朝興は守勢に立たされ、外交的にもより困難な舵取りを強いられたであろう。
人物名/勢力名 |
上杉朝興との関係 |
主な関わり(合戦、交渉など) |
典拠史料例 |
北条氏綱 |
敵対 |
高輪原の戦い、小沢原の戦い、江戸城・岩槻城争奪 |
3 |
北条氏康 |
敵対 |
小沢原の戦い(氏康初陣) |
6 |
太田資高 |
当初家臣、後に敵対(北条方へ内応) |
江戸城失陥 |
3 |
山内上杉憲房 |
同族(本家筋)、一時的協力・同盟 |
対北条氏での共闘、和睦 |
3 |
古河公方足利高基 |
当初中立的、後に北条氏と接近 |
関東の覇権を巡る間接的影響 |
3 |
小弓公方足利義明 |
一時的協力・同盟 |
対北条氏での連携、朝興支援 |
3 |
里見義堯 |
流動的(一時協力、一時敵対) |
北条氏との関係で立場変動(朝興攻撃に加担した記録あり) |
23 |
武田信虎 |
一時的同盟 |
対北条氏包囲網への参加 |
7 |
江戸城を失った後も、上杉朝興は江戸城奪還の機会を窺っていた。享禄三年(1530年)、朝興は北条氏綱とその嫡男・氏康の軍勢と小沢原(現在の神奈川県川崎市多摩区)で衝突した(小沢原の戦い) 6 。
この戦いは、後に後北条氏三代当主として名を馳せる北条氏康の初陣であったと伝えられている 6 。戦闘の経過については諸説あるが、緒戦では上杉軍が氏康の率いる部隊を破るなど奮戦したものの、最終的には北条軍の夜襲などもあり敗北したとされる 6 。
この小沢原の戦いでの敗北は、朝興にとって江戸城奪還が一層困難になったことを意味した。一部の記録によれば、この敗戦後、朝興は自ら大規模な軍事行動を起こすことを控えるようになったとも言われている 7 。この戦いは、単に江戸城奪還の試みが再度失敗したというだけでなく、扇谷上杉氏と北条氏の力関係のさらなる変化を示すものであった。北条氏にとっては、次代を担う氏康が初陣を飾り勝利したことで、世代交代と勢力拡大の弾みがついた。一方、朝興にとっては、この敗北が戦略的な転換点となり、大規模な攻勢から、同盟を通じた現状維持や反撃の機会を待つ戦略へと移行せざるを得なくなった可能性を示唆している。
江戸城と並ぶ武蔵国の要衝であった岩槻城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)もまた、扇谷上杉氏と北条氏による激しい争奪の的となった。
扇谷上杉氏の家臣であった太田資頼(おおた すけより、太田道灌の養子・資家の子)は、一時期北条方に寝返って岩槻城を支配したが、その後、扇谷上杉氏の攻撃を受けて降伏し、帰参するという複雑な動きを見せた 8 。大永五年(1525年)には、北条氏綱が岩槻城を攻略し、家臣の渋江三郎に与えたと記録されている 5 。しかし、享禄三年(1530年)頃には、扇谷上杉方がこの岩槻城を奪還したとされている 8 。
岩槻城を巡る一進一退の攻防は、この地域における両勢力の勢力圏が非常に不安定であり、太田氏のような在地領主の動向が戦局に大きな影響を与えていたことを示している。戦国初期の関東における支配の流動性を象徴する出来事と言えよう。太田資頼のような在地領主は、自らの家の存続と勢力拡大のため、状況に応じて所属を変えることがあり、彼らの動向が地域紛争の帰趨を左右した。朝興にとって、こうした在地領主をいかに自陣営に引きつけておくかが、対北条戦略において重要な課題であった。岩槻城の奪還成功 8 は、朝興が依然として局地的な反撃能力を保持していたことを示している。
扇谷上杉氏は、本家筋にあたる山内上杉氏としばしば対立してきた歴史を持つ(前述の長享の乱など 12 )。しかし、北条氏という共通の脅威が台頭する中で、両者は連携を模索することもあった。
上杉朝興は、山内上杉氏の当主であった上杉憲房と和睦し 3 、共に北条氏綱と戦った記録が残されている 22 。しかし、両上杉氏の連携は必ずしも強固なものではなく、内部の対立や利害の不一致から、効果的な共同戦線を張るには至らなかったケースも多かったと考えられる。山内・扇谷両上杉氏は、元は同族でありながら関東の覇権を巡って長年争ってきた経緯があり 12 、その根深い対立構造が、対北条氏という共通目標があっても、真の結束を妨げた。朝興と憲房の連携 3 は一時的なものであり、両家の間に存在するであろう猜疑心や主導権争いが、北条氏につけ入る隙を与え続けた可能性がある。この内部結束の欠如が、上杉氏全体の弱体化を招き、北条氏の勢力拡大を許した大きな要因の一つと考えられる。
当時の関東には、下総国古河を拠点とする古河公方足利高基・晴氏親子と、同じく下総国小弓を拠点として自立した小弓公方足利義明という、二つの公方権力が並立し、関東の政治状況を一層複雑にしていた。
江戸城失陥後、小弓公方足利義明は、有力な家臣であった真里谷恕鑑(まりやつ じょかん)と共に北条氏綱と断交し、上杉朝興・山内上杉憲房への支援に乗り出した 3 。これは、北条氏の急速な勢力拡大を警戒したためと考えられる。
一方、古河公方足利高基は、北条氏綱との関係を深めていった 3 。上杉朝興の死後、その子である上杉朝定は、古河公方足利晴氏を擁して北条氏と戦うことになるが 28 、これは朝興の時代における勢力関係の延長線上にあったと言える。古河公方家の内紛と小弓公方の出現は、関東における伝統的権威の分裂と弱体化を象徴していた。上杉朝興や北条氏綱といった戦国武将たちは、この分裂状況を利用し、いずれかの公方を擁立・連携することで自らの正統性を高め、勢力拡大を図ろうとした。朝興が小弓公方と連携した 3 のは、対北条包囲網の一環であったが、これは同時に古河公方との対立を深めることにも繋がり、関東の政治状況を一層流動化させる要因となった。
上杉朝興は、強大な北条氏に対抗するため、房総半島を拠点とする里見氏や、甲斐国を支配する武田信虎といった他の戦国大名との連携も積極的に模索した 7 。
大永五年(1525年)頃には、武田信虎は扇谷上杉朝興や山内上杉憲房と和睦し、北条氏綱包囲網に加わったとされている 25 。また、朝興は小弓公方足利義明を通じて、里見氏の水軍力にも期待を寄せていたようである 7 。
しかし、これらの同盟関係は必ずしも安定したものではなかった。例えば、里見氏の当主であった里見義堯(さとみ よしたか)は、一族の内訌に際して北条氏の援助を受けたことがあり、その返礼として天文四年(1535年)に北条氏綱が上杉朝興を攻めた際に、北条方に加勢して軍勢を派遣したという記録も残っている 23 。これは、同盟関係の複雑さと流動性を示す好例であり、大局的な戦略よりも目先の利害や過去の恩讐が優先される戦国時代の外交の現実を浮き彫りにしている。朝興による武田氏や里見氏との連携 7 は、広域的な対北条包囲網を形成しようとする先進的な試みであったと言えるが、当時の交通・通信手段の限界、各勢力の個別事情、利害の不一致などから、これらの同盟は実効性に乏しく、しばしば破綻した。
小沢原の戦いでの敗北後、上杉朝興の軍事活動は以前ほどの積極性が見られなくなるが、依然として河越城を拠点に北条氏への抵抗を続けた。失地回復の困難さを認識しつつも、扇谷上杉氏の当主としての責任を全うしようとした時期と見ることができる。大規模な攻勢は控えたかもしれないが 7 、河越城を維持し続けたことは、北条氏の武蔵支配を完全なものにさせないための最後の抵抗であった。
しかし、江戸城奪還の夢は果たせぬまま、天文六年(1537年)4月27日、上杉朝興は河越城にて病没した 1 。享年は50歳 1 、あるいは52歳 9 と伝えられている。彼の死は、扇谷上杉氏にとってさらなる苦境の始まりを意味した。
上杉朝興の死後、家督は子の朝定(うえすぎ ともさだ)が継承した 2 。しかし、朝定の代になると扇谷上杉氏の劣勢はさらに決定的となり、朝興が没した天文六年(1537年)のうちに、北条氏綱によって本拠地である河越城を追われる事態となった 28 。
その後、朝定は関東管領であった山内上杉憲政や古河公方足利晴氏と結び、河越城の奪回を図った。しかし、天文十五年(1546年)4月20日、世に名高い河越夜戦において北条氏康の奇襲を受けて大敗し、朝定自身も戦死した 10 。この敗北により、扇谷上杉氏は事実上滅亡の道を辿ることとなった。朝興の死からわずか9年後の出来事であり、この事実は、朝興の時代が扇谷上杉氏にとってまさに滅亡への最終段階であったことを示している。朝興の奮闘は、迫り来る運命を遅らせることはできても、覆すまでには至らなかった。彼の治世は、扇谷上杉氏が関東の主要勢力としての地位を失い、歴史の表舞台から退場する直前の、最後の抵抗期として位置づけられる。
上杉朝興は、北条氏綱と長年にわたり戦い続けた経験豊富な武将であったと評価することができる 26 。江戸城を失い、小沢原の戦いでも敗れるなど苦戦を強いられたが、その時々の状況に応じて周辺勢力との連携を模索し、抵抗を続けた粘り強さが見られる 7 。
しかし、結果として新興勢力である北条氏の勢いを止めることはできず、扇谷上杉氏の衰退を食い止めることはできなかった。領国経営に関する具体的な手腕を示す史料は乏しく 29 、その評価は主に軍事指揮官、および外交家としての側面に限られる。
歴史的には、関東における旧秩序の代表として、勃興する後北条氏に立ち向かった悲劇的な武将として記憶されることが多い。その奮闘は、戦国時代における勢力交代のダイナミズムを象徴していると言える。上杉朝興の評価は、どうしても「北条氏に敗れた武将」という側面が強くなる。しかし、彼の執拗な抵抗があったからこそ、北条氏の関東平定は時間を要し、その過程で関東の政治勢力図は複雑に再編された。朝興は、時代の転換期において旧勢力の代表として最後まで抵抗を試みた人物であり、その行動は、勝者である北条氏の歴史をより立体的に理解するためにも重要である。彼の苦闘は、戦国時代の過酷な現実と、個人の力では抗し難い大きな歴史のうねりを体現している。
上杉朝興は、長享二年(1488年)から天文六年(1537年)までを生きた、戦国時代初期の関東における扇谷上杉氏の当主である。彼は、叔父である上杉朝良の養子として家督を継承したが、その時点で扇谷上杉氏は長年の内紛や重臣太田道灌の謀殺といった事件の影響により、既に衰退の途上にあった。
朝興の治世は、伊豆・相模から急速に勢力を拡大してきた新興勢力である後北条氏の台頭と、それに対する絶え間ない抗争に終始した。特に大永四年(1524年)の江戸城失陥は、扇谷上杉氏にとって決定的打撃となり、以後、朝興は河越城を拠点としての苦しい戦いを強いられた。江戸城奪還を目指した享禄三年(1530年)の小沢原の戦いなど、失地回復の試みも北条氏の強大な力の前に阻まれた。
朝興は、本家筋の山内上杉氏、分裂状態にあった古河公方・小弓公方、さらには房総の里見氏や甲斐の武田氏など、関東内外の諸勢力との合従連衡を駆使して北条氏に対抗しようとした。しかし、これらの連携は各勢力の利害や戦局の変化によって流動的であり、必ずしも強固なものとはならず、北条氏の勢力拡大を止めることはできなかった。
朝興の死後、扇谷上杉氏は急速に力を失い、その子・朝定の代の天文十五年(1546年)、河越夜戦での壊滅的な敗北によって事実上滅亡に至る。上杉朝興の生涯は、旧勢力が新興勢力に取って代わられる戦国時代の過渡期を象徴するものであり、彼の奮闘は、関東における覇権構造の転換点における重要な一齣として評価されるべきである。彼の粘り強い抵抗は、結果として北条氏の関東支配の確立を遅らせ、その過程で関東の政治地図に複雑な影響を与えたと言えるだろう。