本報告書は、織田信秀の時代から徳川家康の天下統一後まで、激動の時代を80年にわたり生き抜いた尾張の武将、下方貞清(しもかた さだきよ)の生涯を包括的に論じるものである。三河小豆坂の戦いにおける勇名は「小豆坂七本槍」の一人として後世に伝わるものの、信長の一代記として名高い『信長公記』にはその名がほとんど見られない 1 。このため、柴田勝家や羽柴秀吉のような著名な武将の影に隠れ、その実像は尾張地方の藩史や家伝といった史料の中に深く埋もれているのが現状である 2 。
本報告は、散逸した記録を丹念に拾い上げ、下方貞清という一人の武将の生涯を時系列に沿って再構築することを試みる。彼の出自と家系、織田信秀・信長・信雄に仕えた時代の武功、本能寺の変という巨大な悲劇との対峙、そして徳川の世における晩年までを詳述する。その過程で、彼の生涯を追うことが、織田家臣団の多様な人物像、戦国から近世へと移行する時代の武士の生き様、そして記録する者の立場によって歴史記述がいかに多層的な様相を呈するかを浮き彫りにする。
本報告書の構成は以下の通りである。第一章では彼の出自と家系を、第二章・第三章では織田信秀・信長時代の武功を、第四章では本能寺の変後の動向を、第五章では徳川の世における晩年を時系列で詳述する。そして第六章では、知行高の変遷や史料上の評価といったテーマに基づき、下方貞清という人物をより深く考察する。これにより、一人の忘れられた猛将の生涯を通して、戦国という時代の深層に光を当てることを目指す。
下方貞清の武士としての生涯は、尾張の地に深く根差したものであった。しかしその家系の淵源は、信濃国の名門に遡ると伝えられている。彼の家系、そして尾張における基盤の形成過程は、戦国期における武士の移動と定着の典型的な姿を示している。
尾張藩が江戸時代中期に編纂した公式の藩士系譜集『士林泝洄』によれば、下方氏は清和源氏義光流を汲む甲斐源氏小笠原氏の庶流であるとされている 2 。家紋は小笠原氏ゆかりの「丸に三階菱」を用いる 2 。
この伝承によれば、下方氏の始祖とされる小笠原氏一族の弥三郎貞利が、信濃国伊那郡飯山城主であったが、その子で貞清の父にあたる下方貞経の代に、尾張国春日井郡上野村(現在の名古屋市千種区上野)へ移住したという 2 。この移住の具体的な時期や背景は定かではないが、戦国時代の信濃における在地領主間の激しい抗争を避け、新興勢力が台頭しつつあった隣国尾張に新たな活路を求めた動きであったと推察される。
こうした出自の伝承は、史実である可能性と共に、江戸時代に尾張藩士として家の由緒を確立する過程で、名門である小笠原氏との繋がりが強調された側面も考慮に入れる必要がある。『士林泝洄』という藩の公式記録にそのように記されていること自体が、下方家が藩内で一定の家格を認められていた証左であり、同時にそれは、武士の家系意識と藩という新たな共同体における自己正当化のメカニズムを反映している。
尾張へ移住した父・貞経は、当初、尾張守護代の分家で、尾張北半国を支配していた岩倉織田氏(織田伊勢守家)の当主・織田信安に仕えたと伝えられる 4 。しかし、当時尾張では、守護代本家である清洲織田氏(織田大和守家)や岩倉織田氏を凌ぎ、織田信秀率いる弾正忠家の勢力が急速に拡大していた。貞経は時流を読み、天文7年(1538年)頃、信秀の麾下に転じた 4 。この主君の変更は、当時の尾張国内における権力構造の劇的な変動を直接的に反映しており、下方氏が生き残りをかけて現実的な政治判断を下したことを示している。
下方貞清は、大永7年(1527年)、この上野城で生まれた 2 。そして天文10年(1541年)、父・貞経が病死すると、貞清はわずか15歳で家督を相続し、上野城主となった 2 。若くして一城の主となった彼は、ここを拠点として、織田家譜代の将としてその武名を高めていくことになる。
武将としての活動と並行して、貞清は信仰心も篤かった。天文7年(1538年)、彼は自身の居城である上野城の北東に、菩提寺として臨済宗妙心寺派の寺院、上野山永弘院(ようこういん)を建立した 6 。
戦乱の世に生きる武将として、貞清は一族の安寧と自らの武運長久を祈願するため、深く信仰していた「勝軍地蔵菩薩」を祀るための堂を永弘院に寄進したと伝えられている 6 。この勝軍地蔵信仰は、戦場での勝利を祈願するものであり、彼の信仰が単なる精神的な支柱に留まらず、武士としての実利的な祈りの対象であったことを示す好例である。この永弘院は、彼の生涯を通じて心の拠り所となり、最終的には彼の終焉の地ともなった。
下方貞清が歴史の表舞台にその名を現すのは、織田信秀の時代である。若くして家督を継いだ彼は、信秀が推し進める三河への勢力拡大の最前線で、その槍働きによって織田家中にその武勇を轟かせた。特に「小豆坂七本槍」の武名は、彼の生涯を象徴する最初の輝かしい勲功となった。
天文12年(1543年)、一説に天文11年(1542年)、西三河への進出を図る織田信秀軍と、それを阻まんとする今川義元・松平広忠の連合軍が、三河国小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で激突した 2 。この第一次小豆坂の戦いにおいて、当時16歳(または17歳)であった貞清は、目覚ましい働きを見せた。
この戦いで特に功名のあった織田方の武将7名は、後世「小豆坂七本槍」と顕彰されることになる 13 。貞清はその筆頭格として数えられ、他の六名は織田信光(信秀の弟)、織田信房、岡田重能(重善)、佐々政次、佐々孫介、そして中野一安であった 6 。この功績により、貞清は主君・信秀から「古今無双の高名なり」と賞賛され、感状を賜ったと伝えられる 2 。この感状自体は現存を確認できないが、この一戦が彼の武名を不動のものとしたことは間違いない。
「七本槍」という呼称は、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦後に自身の配下を顕彰した「賤ヶ岳の七本槍」の先駆けとも言えるものであり 16 、信秀が今川という大敵に対する勝利を象徴するシンボルとして、意図的に喧伝したプロパガンダ的側面があった可能性も考えられる。いずれにせよ、貞清がその一人に選ばれたことは、彼が若くして織田軍の中核を担う武将であったことを示している。
信秀が没し、信長が家督を継いだ直後の天文21年(1552年)8月、信長は尾張守護代家の織田信友(清洲織田氏)と萱津(現在の愛知県あま市)で雌雄を決した 17 。この戦いにも貞清は参陣し、再び大きな武功を挙げた。
清洲方が敗走する中、敵の家老であった川尻左馬介が、稲葉地川を隔てて奮戦していた。貞清はこれに駆けつけ、川を挟んでの一騎打ちに及んだ。互いに馬上で槍を突き合った末、ついに貞清が川尻を突き落とし、その首級を挙げたのである 2 。
この時、戦場に居合わせた柴田勝家が、川上から流れてきた川尻の指物(武将の目印となる旗の一種)を拾い上げ、「これは今日の敵の大将の指物である。首を挙げた貴殿が持つべきだ」と言って貞清に譲ったという逸話が残されている 2 。信長はこの「珍しき高名」を大いに喜び、貞清に感状を与えたという。この逸話は、貞清と勝家という織田家を代表する猛将の間に、互いの武功を尊重し合う気風があったことをうかがわせる。
信秀の時代から、貞清の槍働きは群を抜いていた。尾張国海津表(現在の愛知県海津市周辺)で行われた清洲方との戦いでは、柴田勝家に先んじて敵の首級を挙げたと記録されている 2 。
これらの数々の武功により、下方貞清は織田弾正忠家において、若くしてその武勇を知らぬ者のない、中核的武将として確固たる地位を築き上げた。彼の活躍は、信秀の勢力拡大を支える重要な力の一つであった。
父・信秀の跡を継いだ織田信長の天下布武事業においても、下方貞清は歴戦の将としてその力を遺憾なく発揮した。彼は信秀時代からの宿将として、信長の信頼も厚く、数々の重要な戦局で武功を重ねた。その働きは単なる一兵卒の勇猛さにとどまらず、後継者たる信忠の傅役(もりやく)を任されるなど、家臣団における重鎮としての役割を担うものであった。
永禄3年(1560年)5月、戦国史の転換点となった桶狭間の戦いにおいて、貞清は信長の本隊に加わり、今川義元軍と戦って首級一つを挙げる功を立てた 2 。
その後も彼の武功は続く。永禄12年(1569年)、信長が伊勢国に侵攻した際には、北伊勢攻略の主将であった滝川一益の与力として参陣。伊勢国司・北畠氏が籠る大河内城攻めでは、味方が崩れる劣勢の中、城の門脇で踏みとどまって奮戦し、首級を挙げた。さらに、久須城や八田山城といった支城の攻略戦では、一番乗りを果たすなど、攻城戦においてもその勇猛さを際立たせた 2 。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参陣 6 。その後の近江国畑掛山における浅井勢との戦いでは、二百騎あまりの部隊を指揮して敵の追撃を食い止め、逆に反撃に転じて敵を敗走させるという戦術的な勝利に貢献した。この時、額に傷を負ったと伝えられているが、彼の指揮官としての能力の高さを示す逸話である 2 。天正元年(1573年)の朝倉義景追撃戦(刀根坂の戦い)にも参戦しており 18 、信長の主要な合戦のほとんどに参加していたことがわかる。彼のキャリアは、野戦、攻城戦、追撃戦といった多様な戦闘局面で安定した戦果を挙げられる、極めて有能な実戦指揮官であったことを示している。
貞清が信長から寄せられていた信頼の厚さは、軍事面だけにとどまらない。元亀3年(1572年)、信長の嫡男・織田信忠が16歳で初陣を飾った際(北近江の浅井氏攻め)、その着具の儀式で貞清は極めて名誉ある役目を担った。筆頭家老の柴田勝家が信忠に甲(よろい)を着せる役であったのに対し、貞清は冑(かぶと)を着せる大役を任されたのである 20 。
この役は、単なる武勇の士に任されるものではない。信秀の代から織田家に仕える宿将としての家格、そして武勇の鑑として、次代の当主たる信忠の後見役にふさわしいと信長自身が認めた人物にしか許されない大役であった。この事実は、貞清が織田家中で武勇だけでなく、人格や家柄においても高い評価を得ていたことを物語っている。
信長の天下統一事業の象徴である安土城の築城においても、貞清は重要な役割を果たした。天正4年(1576年)、総奉行であった丹羽長秀の下で、普請を担当する二十人の奉行衆が選ばれたが、貞清はその代表の一人に任じられている。城の完成後、信長から直々に御腰物を下賜されるという栄誉に浴した 2 。これは、彼が武人としてだけでなく、大規模な土木事業を差配できるだけの能力と信頼を兼ね備えた重臣であったことを示している。
彼の武勇は、織田家中に広く知れ渡っていた。永禄年間(1558-1570年)には、「一番鎗を貞清は六度、柴田勝家は五度、岡田助右衛門は四度」と謳われ、織田家随一の槍の名手としてその名を轟かせていた 2 。
その勇猛さは敵方からも畏怖されていた。かつて三河一向一揆の際に徳川方の武将・内藤正成を追撃したことがあったが、後に家康と信長が和睦した折、正成はその時の貞清の様子を「黒陣羽織りを着し、それがしを追う事烈しく雷の落ち懸かるごとし」と語ったと伝えられている 2 。敵将の記憶に鮮烈に残るほどの猛追であり、彼の戦場での凄まじさを物語る逸話である。
天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺で起きた明智光秀の謀反は、下方貞清の運命をも大きく揺るがした。彼は主君・信長と、その後継者と目された信忠、そして何よりもかけがえのない二人の息子を一度に失うという、筆舌に尽くしがたい悲劇に見舞われた。その後の彼の生き様は、戦国武将の忠義と節義がいかなるものであったかを雄弁に物語っている。
本能寺の変の際、貞清の長男・下方弥三郎貞弘は、織田信忠の小姓として、信忠と共に二条新御所に籠っていた。明智軍の猛攻に対し、弥三郎は奮戦。脇腹を斬られて腸がはみ出すほどの重傷を負いながらも、なお戦い続けた。その壮絶な姿を見た信忠は、「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と声をかけたとされる。主君の言葉に感激した弥三郎は、笑いながら敵中に駆け出し、討死を遂げたと、尾張藩の系譜集『士林泝洄』は劇的に伝えている 6 。
また、武田喜太郎と称していた次男の貞吉も、本能寺において主君・信長に殉じ、討ち死にした 2 。貞清は、この一日で主君と二人の息子という、人生の支柱のすべてを失ったのである。
主家が崩壊し、息子たちを失うという絶望的な状況にありながらも、貞清は故郷である尾張を離れることはなかった。信長の死後、尾張・伊勢などを領有し、織田家の後継者の一人となった信長の次男・織田信雄に仕え、旧主への忠義を貫いた 2 。
天正13年(1585年)頃に作成されたとみられる『織田信雄分限帳』には、「下方左近」として、尾張国中島郡長野郷などで500貫文(史料によっては220貫、250貫とも)の知行を与えられていたことが記録されている 2 。これは、本能寺の変後の混乱期にあって、彼が信雄の家臣団の中で重きをなしていたことを示す確かな証拠である。信雄に仕えることは、貞清にとって、亡き息子たちが命を捧げた織田家への忠誠を継続する唯一の道であった。
貞清の武名は天下に広く知れ渡っており、信長の死後、多くの有力大名から高禄をもって招かれている。
戦国時代、主家が滅んだり弱体化したりした場合、有能な武将がより力のある大名に仕官し直すことは一般的であり、決して非難される行為ではなかった。しかし、貞清はこれらの破格の誘いをすべて断った。その理由として、『士林泝洄』は、彼が信長・信忠に殉じた二人の息子のことを「老後の思い出となし」て、他家に仕えることを潔しとしなかったと記している 2 。
この選択は、彼の武士としての美学と、父親としての深い悲しみが分かちがたく結びついたものであった。彼にとって、高禄で他の大名に仕えることは、息子たちの死の意味を損ない、自らの名誉を金で売る行為に他ならなかったのだろう。彼の行動は、単なる主君への忠義という言葉だけでは説明しきれない、個人的な悲嘆に根差した、極めて人間的な「節義」の表れであった。
織田信雄が豊臣秀吉によって改易された後も、下方貞清は尾張の地を離れなかった。関ヶ原の戦いを経て天下の趨勢が徳川家に定まると、彼の武名は新たな時代の支配者の耳にも届くことになる。彼の晩年は、戦国の世の終わりと徳川の治世の始まりという、時代の大きな転換点を象徴している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、尾張国には徳川家康の四男・松平忠吉が52万石をもって清洲城主として入封した 24 。忠吉は、尾張の地に隠棲する老将・下方貞清の武名を伝え聞き、ぜひとも自らの家臣として迎えたいと強く望んだ 2 。
この願いは、天下人となった家康の耳にも達した。慶長6年(1601年)、家康は側近の西尾吉次を使いとして貞清のもとへ派遣し、忠吉に付属(配属)するよう命じる直々の書状を示した 2 。これは、もはや仕えるべき主君を持たない老将に対する、天下人・家康からの最大限の敬意と配慮を示すものであった。
家康が貞清の処遇に自ら関与したのは、単なる老将への温情だけではなかったと考えられる。旧織田領である尾張を円滑に統治するにあたり、信秀・信長時代からの宿将である貞清を敬意をもって遇することは、在地武士たちの人心を掌握するための重要な政治的布石であった。貞清の忠吉への仕官は、一個人の選択であると同時に、尾張の武士たちが旧主・織田家から新領主・徳川家へと忠誠の対象を移行させる、象徴的な儀式としての意味合いをも担っていた。
家康直々の命を受け、貞清は松平忠吉に仕官した。この時、556石の知行を与えられたと記録されている 18 。その武勇は老いてなお衰えず、忠吉に仕えていたある時、清洲城内で騒動が起きた際には、老齢にもかかわらず二階から飛び降りて賊を斬り倒したという。その常人離れした早業は忠吉を驚かせ、伝え聞いた家康からも賞賛されたという逸話が残っている 2 。
長きにわたる戦乱の世を駆け抜けた老将は、慶長11年(1606年)、清洲城において80年の生涯を静かに閉じた 2 。戒名は、自らが建立した寺院の名を冠した「永弘院心源浄廣居士」という 2 。
その遺体は、故郷である尾張国春日井郡上野村の永弘院に葬られた 2 。彼の墓は、永らく上野の地にあったが、戦後に平和公園内の永弘院墓地に移転され、現在もその地で静かに眠っている 6 。彼はその生涯の最期をもって、織田の時代と徳川の時代の橋渡し役を果たしたのである。
下方貞清の生涯は、数々の武功や逸話だけでなく、彼が暮らした土地の記憶や、彼を記録した史料の中にもその痕跡を色濃く残している。これらの遺産を多角的に考察することは、一人の武将の実像に迫ると同時に、歴史がどのように記憶され、記述されるのかを理解する上で重要である。
下方貞清ゆかりの地は、現在の名古屋市千種区を中心に点在しており、彼の存在が地域史に与えた影響の大きさを示している。
貞清の生涯における知行・俸禄は、複数の史料に異なる数値や単位で記録されている。これは彼の地位の変遷と、戦国時代から江戸時代にかけての社会経済システムの転換を反映しており、非常に興味深い。
時代 |
主君 |
知行・俸禄 |
史料的典拠 |
考察 |
織田信長時代 |
織田信長 |
4,500石 |
『士林泝洄』等 2 |
後代の編纂物に見える石高表記。当時の知行形態であった貫高からの換算値か、あるいは下方家の家伝における誇張が含まれる可能性も否定できない。一次史料による裏付けはないが 2 、信長配下としての彼の高い地位を示唆する。 |
織田信雄時代 |
織田信雄 |
220~500貫文 |
『織田信雄分限帳』 2 |
銭の量で土地の価値を示す貫高制に基づく記録であり、信頼性は高い。本能寺の変後の混乱期にあって、信雄家中で重臣として遇されていたことを示す。貫高と石高の換算レートは時代や地域で変動するが、1貫文が概ね2石から5石程度に相当すると考えれば、信長時代に比べて知行が減少した可能性もある。 |
松平忠吉時代 |
松平忠吉 |
556石 |
諸記録 18 |
江戸時代初期に全国で統一された石高制に基づく具体的な俸禄。これは実戦部隊の将としての知行ではなく、徳川体制下で迎えられた老将に対する名誉職的な待遇であったと考えられる。 |
この変遷は、貞清個人のキャリアの浮沈だけでなく、日本の土地支配制度が、銭を基準とする中世的な貫高制から、米の生産量を基準とする近世的な石高制へと移行していく過渡期の様相を如実に示している。
下方貞清という人物像を捉える上で最も重要なのは、彼を記録した主要な史料である『信長公記』と『士林泝洄』の記述の間に見られる著しい温度差である。
この二つの史料における記述の著しい乖離は、どちらか一方が「正しく」、他方が「間違い」という単純な問題ではない。むしろ、歴史上の人物の評価が、誰が、いつ、何の目的で記録したかによって大きく変動することを示す典型例と言える。『信長公記』という「中央(信長)の物語」では周縁的な人物であった貞清が、『士林泝洄』という「地方(尾張)の物語」においては紛れもない英雄として描かれる。この事実は、中央集権的な歴史観では見落とされがちな、地域に根差した武士たちのリアルな姿と、彼らが後世に遺そうとした記憶の在り方を解明する鍵となる。貞清の実像は、これら性質の異なる史料を批判的に比較検討することによって初めて、立体的に浮かび上がってくるのである。
下方貞清の80年の生涯は、戦国乱世から徳川泰平の世へと至る、日本の歴史における最も劇的な転換期と重なる。彼の生き様は、その時代の武士の理想と現実を映し出す、一つの鑑であったと言えよう。
織田家の勃興期にあっては、若くして先陣を駆け、その槍働きによって「古今無双」とまで称賛される猛将として主家の勢力拡大に貢献した。信長の天下布武事業が本格化すると、数々の主要な合戦で武功を重ねる一方、嫡男・信忠の傅役を任されるなど、武勇と人格を兼ね備えた宿将として、信長の厚い信頼を得た。
彼の人生の最大の試練は、本能寺の変であった。主君と二人の息子を同時に失うという悲劇に見舞われながらも、彼は自暴自棄になることなく、また高禄での誘いに靡くこともなく、織田家の血統に仕え続けるという節義の道を選んだ。その選択の根底には、亡き息子たちへの深い愛情と、彼らの死を無駄にはしないという父親としての強い意志があった。
最終的に、時代の流れを冷静に見極め、天下人・徳川家康の命に従って新たな主君・松平忠吉に仕えたことは、彼の現実的な判断力と、故郷・尾張の安寧を願う心を示している。彼はその最期をもって、織田の世と徳川の世の橋渡し役を果たし、故郷の地に静かに眠りについた。
下方貞清の生涯は、歴史の教科書に太字で記されるような華々しいものではないかもしれない。しかし、その実直で揺るぎない生き方は、主君への忠義、戦場での武勇、そして家族への情愛という、武士が重んじた価値観を余すところなく体現している。彼の物語は、派手な英雄譚の陰で、黙々と自らの「分」を全うし、歴史を支えた無数の武士たちの姿を、現代の我々に力強く伝えているのである。