中島元行(なかしま もとゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて備中国(現在の岡山県西部)にその足跡を刻んだ武将である。彼の生涯は、毛利、織田(羽柴)、宇喜多といった巨大勢力が激しく衝突する中国地方の動乱の渦中で、一人の国人領主として、また一族の長として、いかにして生き抜いたかの軌跡を鮮やかに描き出している。備中賀陽郡の経山城を拠点とし、勇将・清水宗治の娘婿としてその片腕となり、後には自らが見聞した戦乱の世を『中国兵乱記』として書き残した。
彼の人生は、単なる一武将の物語に留まるものではない。それは、戦国時代における地方社会の動態、主従関係の複雑な変質、そして自らが懸命に生きた証を後世に伝えようとする人間の根源的な意志を映し出す鏡である。巨大な権力構造の狭間で翻弄されながらも、忠義を貫き、一族の存続に心を砕き、最後には筆を執って歴史の記録者となった元行の姿は、戦国という時代を生きた無数の国人領主たちの縮図とも言える。
本報告書は、この中島元行という人物の生涯を、「出自」「武功」「流転」「記録」という四つの側面から徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。彼の個人的な物語を追うと同時に、彼が生きた時代の備中地方の歴史的文脈を明らかにし、一人の国人領主の視点から戦国時代の多層的な様相を解き明かしていく。
年号(西暦) |
元行の年齢(数え年) |
出来事 |
関連人物・勢力 |
天文21年(1552) |
1歳 |
備中国賀陽郡にて、経山城主・中島輝行の子として誕生 1 。 |
中島輝行 |
永禄10年(1567) |
16歳 |
父・輝行が明禅寺合戦で戦死したとされ、家督を継ぐ。 |
中島輝行、三村元親、宇喜多直家 |
元亀2年(1571) |
20歳 |
経山城に籠城し、尼子残党軍を夜襲により撃退する 1 。 |
尼子勝久、山中幸盛、小早川隆景 |
時期不詳 |
不詳 |
清水宗治の娘を正室に迎える 1 。 |
清水宗治 |
天正10年(1582) |
31歳 |
備中高松城の戦い。副将として二の丸を守備し奮戦。宗治の切腹後、その子・景治の後見人となる 1 。 |
清水宗治、羽柴秀吉、毛利輝元 |
天正15年(1587) |
36歳 |
小早川隆景の筑前移封に伴い、清水景治らと共に筑前名島へ赴き、小早川家に仕官する 1 。 |
小早川隆景、清水景治 |
慶長2年(1597) |
46歳 |
小早川隆景が死去。家督を継いだ秀秋の家臣と不和になり、小早川家を退去。備中へ帰国する 1 。 |
小早川秀秋、豊臣秀吉 |
慶長5年(1600) |
49歳 |
関ヶ原の戦い後、嫡男・義行が結城秀康に仕官。元行は備中国賀屋郡小寺村にて帰農する 1 。 |
中島義行、結城秀康 |
元和元年(1615)頃 |
64歳 |
晩年に『中国兵乱記』(原題:中国一乱記)を著す。成立は元和元年とされる 5 。 |
- |
慶長19年(1614) |
63歳 |
1月、小寺村にて死去。享年63。墓所は総社市小寺の報恩寺 1 。 |
- |
中島元行の人物像を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、その拠点が置かれた備中という土地の政治的環境を把握する必要がある。彼の行動原理の根底には、鎌倉時代にまで遡る名門の出自と、戦国乱世の荒波の中で父の代に経験した勢力図の激変があった。
中島氏の本姓は藤原氏であり、その源流は藤原南家工藤氏に遡る 1 。その中でも、鎌倉幕府の創設期に政所令や別当といった要職を務め、源頼朝の死後には「十三人の合議制」の一員にも名を連ねた二階堂行政を直接の祖としている 1 。行政が鎌倉の永福寺の近くに邸宅を構え、その寺が二階建てに見える壮麗な仏堂であったことから「二階堂」と通称されていたため、一族も「二階堂」を苗字としたと伝えられる 7 。
戦国時代の国人領主がその地位を維持するためには、単なる武力のみならず、その支配の正統性を示す「権威」が不可欠であった 9 。中島氏が保持し続けたこの「二階堂」という名門の系譜は、まさにこの点において、他の新興勢力にはない無形の政治的資本として機能したのである。彼らの支配の正統性は、単なる実力行使によるものではなく、鎌倉幕府以来の由緒ある家柄という「格」に裏打ちされていた。この事実は、後の時代に彼らが大大名の幕下に属する際や、近隣領主との関係を構築する上で、有利に働いたと考えられる。元行の死後、中島氏が浅尾藩主・蒔田氏から単なる帰農した土豪ではなく「客分」として遇された事実は 1 、彼らの家柄が江戸時代に至るまで敬意をもって認識されていたことの証左と言えよう。
二階堂氏が備中の地と関わりを持つのは室町時代、10代将軍・足利義稙の治世に遡る。義稙の近侍であった二階堂政行(大蔵少輔)が、主君の密命を帯びて備中国の地頭として下向し、当時、管領代として中国地方に権勢を誇っていた大内義興の幕下に属したのが始まりとされる 1 。この下向の経緯自体が、中島氏の備中における支配が中央権力たる幕府に由来するという、重要な正統性の根拠となった。
政行は当初、備中国浅口郡片島の中島(現在の岡山県倉敷市の一部)に在城したことから、苗字を本姓の「二階堂」から地名にちなんだ「中島」へと改めた 1 。その後、拠点を賀陽郡阿曽郷の経山城(現在の岡山県総社市)に移し、以降、政行、氏行、輝行、そして元行に至る四代にわたってこの城を本拠とし、備中における国人領主としての地位を固めていったのである 1 。
清水宗治
┃
二階堂行政(流祖)…(中略)… 二階堂政行(備中下向、中島氏へ改姓)… 二階堂氏行 ┳ 中島輝行 ━━┳ 中島元行 ━━━━┳ 中島義行 ━━━━ 中島昌行 …
┃(父) ┃(本人) ┃(嫡男)
┃ ┣━━━ 女(正室)┃
┃ ┃ ┣ 中島勘十郎
┃ ┣ 中島九右衛門宗行┃
┃ ┃(弟) ┗ 中島彦三郎
┗━ 女(母) ━━┫
(清水氏の娘?) ┗ 中島行高
注: 上記系図は 1 の情報を基に再構成したものです。輝行の妻(元行の母)が清水氏の娘である可能性は 1 で示唆されています。
中島元行が家督を継ぐことになる直接の契機は、彼の父・輝行が戦死した「明禅寺合戦」であった。この合戦は単なる一戦闘ではなく、備前・備中地域の勢力図を根底から覆し、中島氏のその後の運命を決定づける画期的な事件であった。
元行が少年期を過ごした永禄年間(1558-1570)、備中では三村家親が毛利元就の後ろ盾を得て勢力を拡大し、隣国である備前の制覇をも視野に入れていた 11 。これに対し、備前では主君であった浦上宗景を凌ぐ勢いで、宇喜多直家が急速に台頭していた。直家は謀略に長け、邪魔者を次々と排除して勢力を固め、三村氏の備前侵攻を阻んでいた 11 。両者の対立は避けられないものとなり、地域の緊張は極度に高まっていた。
永禄9年(1566年)、三村家親は美作国へ侵攻中、宇喜多直家が放った刺客の鉄砲によって暗殺されるという衝撃的な最期を遂げる 11 。家督を継いだ息子の三村元親は、父の弔い合戦として、永禄10年(1567年)7月、宇喜多直家に対して一大決戦を挑んだ。これが世に言う「明禅寺合戦」である 11 。
三村元親は2万とも言われる大軍を率いて備前に侵攻した 14 。対する宇喜多勢はわずか5千。兵力では圧倒的に三村方が有利であった。しかし、直家は謀略を巡らせ、三村軍の進路上にある明善寺城を囮として利用し、三村軍本隊を自領内深くに引き込む作戦を立てた 11 。
この戦いにおいて、中島元行の父・輝行は三村軍の一翼を担って参陣していた。一部の軍記物、例えば『備前軍記』などでは、宇喜多直家が事前に「中島城主」を調略して寝返らせたとの記述が見られる 11 。しかし、年代的に当時の城主は輝行であり、元行ではないため、これは後世の軍記物における誤記か、あるいは輝行を指すものと考えられる。いずれにせよ、合戦は宇喜多勢の巧みな戦術と伏兵によって三村軍の大混乱を招き、結果は宇喜多方の大勝利に終わった。「明善寺崩れ」とも呼ばれるこの大敗で、三村軍は数千から一万数千人もの将兵を失ったとされ 13 、中島輝行もこの乱戦の中で討ち死にしたと伝えられている。『備前軍記』の記述によれば、敗走する石川久智の軍勢の中で「中島加賀守」が討ち取られたとあり、これが輝行を指す可能性は高い 11 。
この明禅寺合戦の敗北は、備中の雄・三村氏にとって致命的な打撃となった。宇喜多氏との力関係は完全に逆転し、備前・美作における宇喜多氏の覇権が確立された 16 。勢いを失った三村氏は、中国地方の覇者である毛利氏への依存を一層強めざるを得なくなり、備中地域は毛利と宇喜多の二大勢力が直接対峙する最前線へと変貌した。
この混乱の最中、父を失った中島元行は、若くして経山城主として一族の命運を背負うことになった。彼が家督を継いだ時点で、中島氏の置かれた状況は極めて厳しいものであった。父の仇である宇喜多氏の脅威が間近に迫る中、自立を維持することはもはや不可能であり、生き残るためにはより大きな勢力の庇護下に入る必要があった。明禅寺合戦以前、備中の国人たちは三村氏を盟主としながらも一定の自律性を保っていたかもしれないが、この合戦の結果、その選択肢は失われた。輝行の戦死という個人的な怨恨も相まって、中島氏にとって宇喜多氏は不倶戴天の敵となった。その宇喜多氏に対抗しうる唯一の存在は、もはや毛利氏しかいなかったのである。したがって、元行が家督を継いだ瞬間から、中島氏の戦略的立ち位置は「毛利方」として固定化され、彼のその後の人生航路は、毛利家臣団の一員として生きる道へと決定づけられたのであった。
家督を継いだ中島元行は、父の死という悲劇を乗り越え、戦国武将としてその名を上げていく。彼の武功は、本拠地である経山城の防衛戦に始まり、主君であり義父ともなる清水宗治との宿命的な出会いを経て、天下の趨勢を左右した備中高松城の死闘において頂点を迎える。
中島氏四代の居城である経山城は、吉備高原の南端、標高372.7メートルの山頂に築かれた堅固な山城であった 1 。その名の由来は、平安時代にこの一帯が山岳仏教の霊場として栄え、多数の経塚が築かれたことにあるとされる 18 。城は三方を険しい谷に囲まれ、北からの一本道でしか攻め入ることができないという、まさに天然の要害であった 18 。天文年間(1532-1555)に守護大名の大内氏によって築城または改修され、石垣や石塁、堀切が巧みに配置されており、当時の山城として高い防御機能を備えていた 2 。
元行が城主としての器量を示した最初の戦いは、元亀2年(1571年)の尼子残党軍との攻防戦であった 1 。主家の再興を悲願とする山中幸盛(鹿介)らに率いられた尼子軍は、1万余の大軍をもって経山城を包囲した 2 。尼子方は元行に対し、毛利を裏切り味方になるよう降伏勧告を行ったが、元行はこれを断固として拒絶。主筋にあたる小早川隆景に援軍を要請すると同時に、徹底抗戦の構えを見せた 2 。
攻めあぐねた尼子軍が城を遠巻きにして兵糧攻めに戦術を転換したある夜、若き城主・元行は大胆な行動に出る。自ら手勢を率いて城から打って出て、油断していた寄せ手の陣に夜襲を敢行。火を放って大混乱に陥れ、尼子軍を総崩れにさせて撃退することに成功したのである 2 。
この経山城での勝利は、単なる局地的な防衛成功に留まらなかった。それは、若き中島元行が、毛利家中、特に方面軍の司令官であった小早川隆景に対して、信頼に足る武将としての評価を確立する上で決定的な役割を果たした。当時の毛利氏にとって、執拗に抵抗を続ける尼子残党軍は依然として厄介な存在であった。その大軍に対し、一介の国人領主である元行が、巨大勢力からの援軍をただ待つだけでなく、自らの知略と胆力で果敢な夜襲を仕掛け、これを撃退したという事実は、彼の軍事的能力と毛利方への忠誠心の高さを雄弁に物語るものであった。戦国時代において、主君の信頼を勝ち得る最大の手段は、戦場における具体的な「功」である。この時に築かれた隆景との信頼関係こそが、後の備中高松城における副将への抜擢、さらには小早川家への仕官へと繋がる重要な伏線となったことは想像に難くない。経山城の戦いは、元行が毛利家臣団の中で頭角を現し、その後のキャリアを切り拓くための重要な足掛かりだったのである。
中島元行の生涯を語る上で、備中高松城主・清水宗治との関係は決して切り離すことができない。二人の結びつきは、単なる主従や同盟者の関係を超えた、血と信頼に基づく宿命的なものであった。
元行は、清水宗治の娘を正室として迎えている 1 。これは戦国時代において同盟関係を強化するための一般的な政略結婚であった。しかし、二人の関係はそれだけに留まらない。複数の資料が、元行自身の母親が清水宗治の叔母にあたる人物、すなわち清水一族の娘であった可能性を示唆しているのである 1 。これが事実であれば、元行と宗治は舅と婿であると同時に、従甥(いとこおい)と従伯父(いとこおじ)という関係にもなり、極めて濃い血縁で結ばれていたことになる。
この二重の姻戚関係は、二人の間に単なる政治的な利害を超えた、強固な「親族」としての意識を醸成した。戦国時代の政略結婚は、必ずしも良好な人間関係を保証するものではなく、裏切りや反目も日常茶飯事であった 24 。しかし、元行と宗治の場合は、この緊密な血の繋がりが、戦場における絶対的な信頼へと直結した。宗治は、自らの城の最重要区画である二の丸の守備を、娘婿であり血縁者でもある元行に託した 3 。そして元行は、その信頼に武勇をもって応えたのである。この関係は、戦国時代の政略結婚がもたらす同盟関係の理想的な結実形態であり、血縁と信頼が一体化することで、いかに強固な軍事共同体が形成され得たかを示す好例と言える。
二人の絆の深さを最も象徴するのが、備中高松城落城の際の逸話である。城主・清水宗治が自らの命と引き換えに城兵の助命を勝ち取り、切腹を決意した際、元行もまた主君であり義父である宗治に殉じようと、切腹を申し出た 3 。武士として、主君と運命を共にすることは最高の名誉とされた時代である。しかし宗治はこれを制し、「後の始末と、わが妻子の面倒を見てほしい」と元行に後事を託した 3 。これは、宗治が元行を、自らの死後、一族の運命を委ねることができる唯一無二の人物と見なしていたことの証左に他ならない。この逸話は、二人の関係が、もはや主従や姻戚という言葉では表しきれない、一族の未来を共に背負う「運命共同体」であったことを物語っている。元行の行動原理の根幹には、常にこの清水宗治との宿縁が存在したのである。
天正10年(1582年)、織田信長の天下統一事業は最終段階を迎え、その矛先は中国地方の雄・毛利氏に向けられた。総大将として派遣された羽柴秀吉は、備中路の要衝である備中高松城に狙いを定める。この城を巡る攻防戦は、中島元行の武将としてのキャリアの頂点であり、同時に彼の人生を大きく転換させる運命の戦いとなった。
備中高松城は、周囲を沼沢地に囲まれた難攻不落の沼城であった 4 。秀吉は力攻めを避け、城の周囲に長大な堤防を築き、足守川の水を引き込んで城を水没させるという、前代未聞の「水攻め」戦術を実行した。この未曾有の国難に際し、中島元行は城主・清水宗治を補佐する副将として籠城に参加 1 。城の南東に位置し、本丸に次ぐ重要区画である二の丸の守備を任された 4 。水に浮かぶ孤城という絶望的な状況の中にあっても元行の士気は高く、何度も小舟で城から討って出ては秀吉の本陣に夜襲を仕掛けるなど、その武勇は敵陣にも知れ渡るほどであったという 3 。
一ヶ月以上に及ぶ籠城戦の末、城内の兵糧は尽き、毛利本隊の援軍も秀吉の大軍に阻まれて近づけない状況となった。万策尽きた宗治は、秀吉からの「城主一人の首と引き換えに、城内の全ての将兵の命を助ける」という和議の条件を受け入れ、自らの切腹を決断する。
天正10年(1582年)6月4日、宗治は秀吉の使者が検分する湖上の舟の上で、従容として自刃を遂げた。この時、元行もまた、主君の後を追い殉死する覚悟であった。しかし、宗治は彼に生きることを命じる。「後の始末と、残される妻子を頼む」と 3 。この遺言は、元行のその後の人生を決定づけた。彼の使命は、武士として死に花を咲かせることではなく、亡き主君の血脈と家を守り抜く「後見人・守護者」として生きることへと変わったのである。
この高松城の開城は、元行にとって単なる敗戦ではなかった。それは、武人としてのキャリアに一つの区切りをつけ、その後の生涯をかけて果たすべき新たな、そして極めて重い使命を背負った瞬間であった。開城後、元行は宗治の遺言通り、その嫡男である源三郎(後の清水景治)の後見役となり、宗治の遺族と共に、もはや故郷ではなくなった備中の地を後にするのである 1 。
備中高松城の戦いは、中島元行の人生の大きな分水嶺となった。故郷を失い、主君を失った彼は、亡き宗治の遺志を胸に、新たな主君のもとで武士としての道を歩み続ける。しかし、時代の大きなうねりは、彼に安住の地を与えることなく、やがて彼は刀を置き、筆を執るという新たな道を選択することになる。
高松城開城後、城と周辺の領地は和議の条件通り織田方のものとなり、実質的には宇喜多氏の支配下に入った。これにより、中島元行は本拠地であった経山城をも失い、一族郎党を率いて流浪の身となる 3 。彼は清水宗治の遺言を守り、その嫡男・景治の後見人として行動を共にした。天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定後、毛利家の重鎮であり、かつて経山城の戦いで元行の武功を認めた小早川隆景が、恩賞として筑前国名島(現在の福岡市東区)に大名として移封されると、元行は清水景治や自身の嫡男・義行と共に隆景に召し出され、正式に小早川家の家臣となった 1 。
隆景は元行の武勇と経験を高く評価しており、その待遇は破格であった。時には名島城に元行を招き、家臣たちに自身の戦体験を「軍談」として語らせるなど、特別な信頼を寄せていたという 3 。元行にとって、隆景は旧主・毛利家の大黒柱であると同時に、自らの武功を認め、庇護してくれた恩人であり、その忠誠心は極めて篤いものであった。
しかし、この安穏な日々は長くは続かなかった。慶長2年(1597年)、恩人である小早川隆景がこの世を去る。家督は隆景の養子となっていた豊臣秀吉の甥、小早川秀秋が継いだが、元行の忠誠はあくまで「隆景」という個人に向けられたものであり、新たな主君・秀秋や、彼が率いてきた家臣団とは相容れないものがあった。やがて元行は、秀秋の側近である山口玄蕃頭と激しく対立し、ついに主君の許可を得ることなく、一族を率いて筑前を離れ、故郷である備中へと帰ってしまう 3 。この行動は、中央集権体制を確立しつつあった豊臣政権の秩序を乱すものとして、秀吉の逆鱗に触れた。元行は旧領であった賀屋郡小寺村での蟄居を命じられ、その地から出ることを禁じられるという、苦難の日々を送ることになった 3 。
元行の後半生は、戦国時代から江戸時代初期への移行期における、武士の価値観の変容を象徴している。彼の忠誠は、恩義を感じる特定の個人に向けられる戦国的な「人格的忠誠」であった。しかし、時代はすでに、主家の「家」という組織に対して奉公する、より近世的な「組織的忠誠」を求めていた。新しい主君・秀秋の家臣団という組織に馴染めず、旧来の価値観に基づいて出奔した元行の行動は、新たな時代の秩序からは逸脱したものであった。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、元行への束縛も解かれたものと思われる。彼はその後も故郷である小寺村に留まり、帰農して静かな晩年を送った 1 。かつての居館は、南北三丁(約330m)、東西四丁(約440m)にも及ぶ広大な敷地を持ち、四方に二重の堀を巡らせた城砦のような構えであったと伝えられ、その跡地は現在「小寺中島公園」としてその名を留めている 1 。また、敷地内には元行が建立したとされる「願主 中島元行」の銘が刻まれた廣峯神社も現存しており、彼の信仰心と地域における存在感の大きさを示している 1 。
一方で、嫡男の中島義行は、父とは異なる道を選んだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の次男である越前福井藩主・結城秀康に仕官し、武士としての家名を再興した 1 。父・元行は過去の価値観と共に土に還り、子・義行は新たな時代の支配者に仕えることで家を存続させる。これは、時代の転換期を生きた多くの武士たちが辿った二つの道のりを象徴している。
元行は慶長19年(1614年)1月、波乱に満ちた63年の生涯を閉じた。その墓は、総社市小寺にある報恩寺に、一族と共に静かに眠っている 1 。
中島元行の名を後世に不朽のものとしたのは、彼の武功だけではない。晩年、彼が著した一冊の軍記物こそが、彼を単なる一武将から、歴史の記録者へと昇華させたのである。
武士としての道を終え、故郷で静かな余生を送っていた元行は、刀を置き、筆を執った。自らが見聞し、体験した戦国時代の動乱を、後世に伝えるために書き残したのである。これが『中国兵乱記』(原題は『中国一乱記』)と称される軍記物である 1 。
その執筆動機は、何よりもまず「父祖と自身の事跡を子孫のために書き残す」という、一族の歴史を伝えるための家伝としての性格が強かった 5 。領地も主君も失い、武力によって家の栄光を示すことが困難になった時代において、元行は一族のアイデンティティと名誉を「言葉」と「記憶」によって後世に伝え、存続させようとした。それは、物理的な遺産ではなく、誇りという無形の遺産を継承させるための、彼の最後の戦いであったと言えるだろう。
『中国兵乱記』は全六巻六冊からなり、明応年間(1492-1501)から天正末年(1592頃)に至るまでの、主として備中地方を中心とした約100年間の兵乱の歴史を記述している 5 。彼自身の鮮烈な体験である経山城の戦いや備中高松城の戦い、そして父・輝行が関わったとされる合戦などが、その中核をなしていたと考えられる。なお、第六巻の一部は、元行の死後、その遺志を継いだ孫の昌行が、朝鮮出兵から大坂夏の陣までの出来事を追補しており 5 、元行の試みが確かに子孫に継承されたことを示している。
『中国兵乱記』は、戦国時代の備中史を研究する上で極めて重要な史料と位置づけられている。特に、著者である元行自身が直接体験した出来事に関する記述は、当事者による貴重な証言として、一次史料に準ずる価値を持つ。
また、同じく備中の戦乱を扱った軍記物である『備中兵乱記』と比較検討することで、歴史事象をより立体的に理解することが可能となる。『備中兵乱記』が、天正2年(1574)から3年にかけての三村氏滅亡の過程を中心に、三村氏の旧臣の視点から書かれた可能性が高い 26 のに対し、『中国兵乱記』はより長い期間を扱い、毛利方、特に清水・中島氏の視点から描かれている。例えば、備中兵乱の末期に起きた常山城の戦いにおける、三村元親の妹・鶴姫の奮戦の様子は、両書でその描写にニュアンスの違いが見られ、比較することでより多角的な解釈が生まれる 28 。
もちろん、軍記物である以上、物語としての面白さを追求するための脚色や、自らの一族の行動を正当化するための偏った記述が含まれている可能性は常に念頭に置かねばならない 29 。しかし、地域の地理や複雑な人物関係に精通した当事者による記録として、その史料的価値が揺らぐことはない。『中国兵乱記』は、中島元行が武将として生きた証であると同時に、彼が後世に残した最大の功績なのである。
中島元行の生涯は、備中という一地域に根差した国人領主が、戦国時代の激しい勢力争いの奔流にいかに立ち向かい、生き抜いたかを物語る貴重な事例である。彼の人生は、主君への忠節、血縁者との固い絆、そして時代の大きな変化に対する一個人の適応と葛藤に満ちていた。
武将としての元行は、経山城での尼子軍撃退や、備中高松城での奮戦に見られるように、知勇兼備の有能な将であった。特に、義父であり盟友でもあった清水宗治に対して示した忠義と、その遺志を生涯にわたって守り抜いた姿勢は、戦国武士の美徳の一つを体現するものとして高く評価されるべきである。
しかし、彼の歴史的評価はそれだけに留まらない。晩年に著した『中国兵乱記』によって、彼は単なる武将から、自らが体験した歴史を後世に伝える「記録者」としての不朽の顔を持つことになった。この著作は、彼の個人的な記憶の記録であると同時に、備中地域の戦国史を研究する上で欠かすことのできない重要な史料群の一つとなっている。
中島元行は、歴史の表舞台で天下の趨勢を左右するほどの人物ではなかったかもしれない。しかし、彼の生涯は、巨大な歴史のうねりの中で、自らの一族と、武士としての誇りを守るために戦い、生き、そして書き残した一人の人間の、確かな足跡そのものである。彼は、戦国という時代に翻弄されながらも、自らの意志で運命を切り拓こうとした無数の国人領主たちの、代表的な肖像の一人として記憶されるべき人物である。