本報告書は、江戸時代前期の豊後森藩二代藩主、久留島通春の生涯と治世を、史料に基づき多角的に分析するものである。彼の人生は、戦国の動乱期に瀬戸内海に覇を唱えた水軍の末裔が、徳川幕府という新たな支配体制下でいかにして近世大名へと自己を変革し、家の存続を図ったかという、時代の大きな転換を象徴する軌跡であった。本報告では、通春の出自から家督相続、藩主としての大役、そして彼が断行した藩政改革の実像を詳細に解明し、幕藩体制初期における外様小藩の生存戦略を浮き彫りにすることを目的とする。
久留島氏の祖先は、伊予国(現在の愛媛県)を拠点とし、瀬戸内海の制海権を握っていた村上水軍の一派、来島村上氏である 1 。祖父にあたる来島通総は、早くから豊臣秀吉に臣従し、その水軍力をもって活躍、伊予風早郡に1万4千石を領する大名となった 2 。しかし、通総は慶長の役において朝鮮半島の鳴梁海戦で壮絶な戦死を遂げる 2 。
その跡を継いだのが、通春の父である来島長親(後に康親と改名)であった。彼は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したため、戦後、徳川家康から所領を没収される危機に瀕した。しかし、妻の伯父にあたる福島正則らの取り成しにより改易は免れ、旧領伊予に替えて豊後国玖珠郡森に同じく1万4千石を与えられ、ここに豊後森藩が立藩された 4 。この内陸への転封は、来島氏が数百年にわたり培ってきた水軍としての能力とアイデンティティを根底から覆すものであり、一族の歴史における決定的な転換点であった 1 。海という活躍の場を失い、不慣れな山間の地で領主として再出発を余儀なくされたこの状況こそが、二代藩主・久留島通春がその生涯を通じて向き合うことになる根本的な課題の源流だったのである。彼の治世における一連の施策は、単なる藩政運営に留まらず、この「海の民から陸の領主へ」という宿命的な転換を成し遂げ、新たな時代に一族を適応させるための、苦闘と創造の記録であったと言えよう。
久留島通春の生没年については、複数の史料が存在するが、最も信頼性の高いとされる複数の人名辞典や百科事典の記述を総合すると、慶長12年(1607年)に生まれ、承応4年2月11日(1655年3月18日)に49歳でその生涯を閉じたとされる 7 。官位は従五位下、越後守、後に丹波守を称した 8 。法号は安祥院である 8 。
通春の血縁関係は、幕藩体制初期における外様小藩の脆弱性と、生き残りをかけた政治的ネットワーク構築の重要性を如実に示している。
父は豊後森藩の初代藩主である来島長親(康親)。母は玄興院といい、安芸広島49万石の大大名であった福島正則の養女(実父は正則の従兄弟・福島高晴)であった 8 。この福島家との縁戚関係は、関ヶ原の戦後処理において、西軍に与した来島家の改易を免れ、家名存続を可能にした最大の要因であった 4 。しかし、この強力な縁故は、後に福島正則が幕府によって改易されると、一転して久留島家に連座の危険をもたらす両刃の剣となった。
正室には、信濃松代藩主であった佐久間安政の娘を迎えている 8 。この婚姻は極めて戦略的な意味を持っていた。佐久間家は、豊後佐伯藩主毛利高成とも姻戚関係にあり、通春と毛利高成は佐久間家を介して義兄弟の間柄となった 10 。これにより、豊後の小藩同士が姻戚によるネットワークを形成し、政治的な連携を深めることが可能となったのである。
子女には、跡を継いだ長男・通清をはじめ、通貞、通迥、通方など複数の男子がおり、家の安定と継続に成功した 8 。
通春の人物像を形成する上で、彼の幼少期に伝えられる二つの逸話は欠かすことができない。これらは、彼の剛毅で決断力に富む性格を物語っている。
一つは、通春が11歳の時に起きたとされる「加藤伝右衛門の若党斬殺事件」である 12 。母・玄興院の叔母の婿にあたる加藤伝右衛門という人物が、主家の権威を笠に着て横暴を極めていた。これを不都合に思った通春は、家臣の横村今右衛門と、同じく少年であった杉本勘左衛門(当時13歳)を伴い、夜陰に乗じて伝右衛門の若党を斬った(あるいは斬らせた)という。幼くして既に主君としての自覚を持ち、不正を断固として許さない厳格な気質が窺える逸話である。
もう一つは、元和5年(1619年)、外戚である福島正則が改易された際の出来事である 12 。当時、通春は京都に滞在していたが、福島家との関係から連座して切腹を命じられるとの風聞が立った。この時、わずか13歳であった通春は全く動じることなく、行水をして身を清め、潔く死に臨む覚悟を示したと、叔父の島蔵之丞が後に語り伝えている 12 。結果的に切腹は免れたものの、この逸話は彼の並外れた胆力と、武士としての死生観が早くから確立されていたことを示している。
これらの逸話の背景には、久留島家が置かれた極めて不安定な政治的立場があった。関ヶ原の敗者側であり、最大の頼みであった福島家が取り潰されるという政界の非情さを目の当たりにした経験は、通春の精神形成に大きな影響を与えたに違いない。甘えや情実が家の存亡を脅かすことを肌で感じたこの経験こそが、後の旧弊を打破する藩政改革へと繋がる、彼の冷徹なまでの現実主義と決断力の源泉となったと考えられる。
慶長17年(1612年)、父・長親が31歳という若さでこの世を去ったため、通春はわずか6歳(一説には9歳)で家督を相続し、豊後森藩二代藩主となった 7 。幼少での家督相続であり、当初は重臣たちの補佐が不可欠であったと推測されるが、前述の逸話が示すように、彼は早くから藩主としての強い自覚を持ち、自らの意志で藩を率いる気概に満ちていたのである。
通春の治世は、徳川幕府による全国支配体制が盤石なものへと移行していく時期と完全に重なる。この時代、外様大名、とりわけ小藩にとっては、幕府への忠誠を具体的な形で示すことが、家の存続を保障されるための絶対条件であった。その最も重要な義務が、幕府が命じる大規模な土木工事である「御手伝普請」と、有事の際の軍役であった。
通春は藩主として、大坂城や江戸城の再建・修築工事に参加した記録が残っている 8 。これらの御手伝普請は、幕府が全国の大名に石高に応じて賦課した国家的事業であった。幕府は材木や鉄物といった主要資材を支給することもあったが、普請に動員される人足の費用や資材の運賃、現地での諸経費は全て大名の負担であった 15 。
この負担は、1万4千石の小藩に過ぎない森藩の財政にとって、極めて深刻な重圧となった 8 。江戸初期の幕府にとって、御手伝普請は単なるインフラ整備に留まらず、諸大名の財力を削ぎ、その力を中央に集中させることで、幕府の権威を誇示するという高度な統治政策の一環であった 17 。通春のような外様小藩の主にとって、この要求を拒むことは許されず、むしろ積極的に応じることで忠誠心を示し、家の安泰を図るほかなかった。しかし、その代償として藩の財政は破綻の危機に瀕し、これが後の通春による抜本的な財政改革の直接的な引き金となったのである。
寛永14年(1637年)、肥前島原と肥後天草で大規模なキリシタン一揆、いわゆる「島原の乱」が勃発すると、幕府は直ちに九州の諸大名に対して出陣を命じた 19 。これは、幕府の支配体制を揺るがしかねない重大事件であり、鎮圧は幕府の威信をかけた一大軍事作戦であった。
久留島通春もこの幕命に従い、兵を率いて出陣し、反乱軍が籠城する原城に対する包囲網の一角として、島原城の守備を担当したと記録されている 7 。乱の鎮圧には、最終的に12万人を超える幕府軍が動員された 19 。森藩のような小藩も、その石高に応じた軍役負担を強いられたのである。これは、平時においても常に軍事力を維持し、有事の際には速やかに動員できる体制を整えておくことが、近世大名に課せられた重要な責務であったことを示している。この軍役の遂行は、幕府の秩序維持に貢献することで、久留島家の存在価値を改めて示す貴重な機会でもあった。
通春の治世下における藩外との交流を示す興味深い史料として、元和8年(1622年)の記録がある。この年、隣国の豊前小倉藩主・細川氏は、自領から逃亡した者(走り者)の身柄返還を求める使者を、久留島通春をはじめとする豊後の諸大名に派遣している 23 。これは、国境を越えて領民が移動することが珍しくなかった江戸初期において、各藩が相互に連絡を取り合い、領民支配に関する協力体制を模索していたことを示す具体例である。通春もまた、こうした近隣大名との関係構築を通じて、藩の安定的な統治を目指していたことが窺える。
通春の治世前半は、このように幕府への奉公を通じて、久留島家の政治的地位を確立し、近世大名としての責務を果たす時期であった。しかし、その活動は藩の経済的基盤を根底から揺るがすという深刻な矛盾を内包していた。この矛盾をいかにして解決し、持続可能な藩経営を実現するか。ここに、藩主・久留島通春の真価が問われることとなるのである。
幕府への奉公によって疲弊した藩財政と、水軍から陸の領主へという根本的な転換を迫られた藩の体制。これらの課題に直面した久留島通春は、藩の存亡をかけて抜本的な改革を断行する。その改革は、政治的アイデンティティの再定義、統治機構の刷新、そして経済基盤の再構築という三つの柱からなる、極めて戦略的なものであった。
通春の改革の第一歩は、象徴的な行為から始まった。元和2年(1616年)、彼は一族の姓を「来島」から「久留島」へと改めたのである 5 。この改姓には、複数の意図が込められていたと考えられる。
第一に、 豊臣色の一掃と徳川への恭順の表明 である。祖父・通総が名乗った「来島」の姓は、豊臣秀吉に重用される中で定着したものであり、豊臣政権との強い結びつきを想起させるものであった 24 。大坂の陣で豊臣家が完全に滅亡した直後というこの時期の改姓は、過去の豊臣との縁を断ち切り、徳川の世に完全に順応するという明確な政治的意思表示であった 24 。
第二に、 新領地への定着の誓い である。新たな本拠地となった「玖珠(くす)」の地に「久しく留まる」という決意を込めたとする説も有力である 24 。これは、瀬戸内海を駆けた水軍としての過去と決別し、この内陸の地で領主として骨を埋めるという覚悟を示すものであった 6 。
第三に、 政治的リスクの回避 という側面も指摘される。元和5年(1619年)に外戚の福島正則が改易されており、その連座を恐れたためという説である 4 。改姓の時期は福島改易より3年早いが、幕府内の政情を敏感に察知し、危険な縁戚関係を薄めるための予防的措置であった可能性も否定できない。
この改姓は、単なる名称の変更ではなく、久留島家が近世大名として生き抜くための、周到な政治的決断であった。
通春は、藩政を自らの主導下に置くため、家臣団の大胆な刷新に着手した。彼は、父祖以来の旧臣、特に水軍時代からの系譜を引く村上氏一門らを藩政の中枢から意図的に遠ざけた 8 。これは、もはや内陸の藩経営には不要となった旧来の権威や価値観を排し、藩主の絶対的なリーダーシップを確立する狙いがあった。
その一方で、通春は家柄や出自にとらわれず、実務能力に長けた有能な人材を積極的に登用した 7 。この能力主義的な人材登用は、藩の行政機構を近代化し、効率的な統治システムを構築するための不可欠なプロセスであった。
具体的な登用例として、もとは別府鶴見権現社の祠官の家系であった加藤兼茂が、通春に初めて仕え御中小姓となった記録が残っている 27 。また、入部当初から在地土豪であった帆足氏や森氏といった勢力を家臣団に組み込んでおり、在地社会との融和を図りながら藩政の安定化を目指した 28 。通春の治世における家臣団の構成は、以下の表のように整理できる。
家臣名 |
出自・区分 |
確認される役職・役割 |
関連史料 |
考察 |
【旧来の家臣団】 |
|
|
|
|
村上氏一門 |
来島水軍以来の譜代 |
藩政中枢から遠ざけられる |
8 |
水軍時代の権威を清算し、藩主の直接統治を強化する意図があったと考えられる。 |
二神氏 |
来島水軍以来の譜代 |
豊後森藩へ随行 |
8 |
通春の子・二神種春を輩出しており、完全に排除されたわけではなく、一定の影響力を保持した可能性がある。 |
【通春に登用された家臣】 |
|
|
|
|
加藤兼茂 |
在地(別府鶴見権現社) |
御中小姓 |
27 |
在地勢力からの抜擢例。神職の家系であり、何らかの専門知識が評価された可能性もある。 |
浅川隼人 |
不明 |
側近(幼少期の逸話に登場) |
12 |
幼少期からの側近として、藩主の親衛隊的な役割を担ったと推測される。 |
【在地土豪】 |
|
|
|
|
帆足氏 |
在地土豪(玖珠郡) |
家臣団に編入 |
28 |
在地支配を円滑に進めるための懐柔策。後の世代では家老職を務めるなど藩政で重要な役割を担う。 |
通春が断行した財政改革の切り札が、大坂への蔵屋敷の設置であった 8 。蔵屋敷は、年貢米や藩の特産品を「天下の台所」と称された大坂の巨大市場で直接販売し、現金収入を確保するための経済拠点である 31 。
当時の大坂には、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島を中心に、諸藩の蔵屋敷が林立していた 31 。森藩もこの一角に拠点を構えたとみられ、藩の産物、特に後述する重要特産品である明礬をここで換金し、普請役などで必要となる莫大な現金支出に備えた。
蔵屋敷は単なる倉庫や取引所ではなかった。蔵物の取引や代金管理を担う蔵元・掛屋といった大坂の有力商人を通じて、藩の財政運営そのものに関与する金融拠点としての機能も有していた 34 。藩は蔵屋敷を担保に商人から資金を借り入れる「大名貸」を受けることも可能であり、蔵屋敷の存在は藩財政の生命線であった。
久留島通春は、家臣団の刷新による行政コストの削減と、大坂蔵屋敷の設置による収入の増大という二つの改革を両輪とすることで、御手伝普請によって破綻寸前であった藩財政を見事に立て直したと評価されている 8 。この改革は、政治的決断(改姓)、人的資源の再編(家臣団刷新)、そして経済システムの構築(蔵屋敷)が有機的に連動した、体系的なものであった。それは、通春が徳川の世における大名の役割と、小藩が生き残るための経済戦略を深く理解していたことの証左に他ならない。
久留島通春が確立した豊後森藩の経営は、領地の地理的特性を巧みに活用したものであった。特に、本領から離れた飛地で産出される高付加価値の特産品が、小藩の財政を支える上で決定的な役割を果たした。
豊後森藩の領地は、二元的な構造を持っていた。
本領 は、玖珠盆地を中心とする山間の地域であった 36 。この地には、かつて難攻不落を誇った山城・角牟礼城が存在したが、久留島氏は城持ち大名の格式を許されなかったため、これを廃して山麓に陣屋を構えた 4 。この内陸の立地は、元水軍であった来島氏の海上での活動能力を封じ込めるという、幕府の政治的意図があったと広く考えられている 40 。
一方で、森藩には二つの重要な 飛地 があった。一つは別府湾に面した速見郡鶴見村(現在の別府市明礬温泉一帯)、もう一つは同じく速見郡の頭成港(現在の速見郡日出町豊岡)である 5 。頭成港は、参勤交代の際に大坂へ向かう御座船が出航する、藩にとって唯一の海の玄関口であった 5 。そして鶴見村は、藩財政の根幹を成す特産品の生産拠点として、計り知れない価値を持っていた。
通春の治世下である正保元年(1644年)、幕府の命により作成された「豊後国玖珠郡森久留島丹波守屋敷絵図」の控えが現存しており、当時の陣屋や城下町の姿を今日に伝える貴重な史料となっている 9 。
表高1万数千石の森藩が、幕府の課役負担に耐え、財政を維持できた背景には、特産品による大きな収入があった。
その筆頭が、飛地の鶴見村で生産される**明礬(ミョウバン)**である 42 。明礬は、医薬品(止血剤)や織物の染色に用いる媒染剤として、江戸時代を通じて高い需要があった。森藩では、通春の死後である寛文4年(1664年)に渡辺五郎右衛門が本格的な製造に成功したと伝えられるが、その基盤は通春の時代から築かれていたと考えられる 5 。18世紀には、隣接する幕府領と合わせて全国生産量の7割を占める一大産地となり、森藩単独でも全国の3割強を生産するに至った 5 。この高収益商品「明礬」こそが、森藩の財政を支える生命線であった。
この他にも、森藩の領地やその周辺地域では、和紙の原料となる**楮(こうぞ)**や、 煙草 、 茶 といった商品作物の生産も行われていた記録がある 46 。これらの産物が、通春の設置した大坂蔵屋敷を通じて全国市場に流通し、藩の貴重な現金収入源となっていたことは想像に難くない。
森藩の財政再建の成功は、通春の優れた行政手腕のみならず、この明礬という地理的・産業的な幸運に支えられていた側面が極めて大きい。彼の真の功績は、この幸運を藩の利益に最大限転換するための経済システム、すなわち大坂蔵屋敷とそれを効率的に運営する人材を整備した点にあると評価すべきであろう。
久留島通春は、戦国時代の「海賊大名」という旧時代の遺産を継承しながらも、それに固執することなく、徳川幕藩体制という新たな秩序の中で、内陸の小藩領主として家の存続と発展の礎を築き上げた、卓越した経営者であった。彼の生涯と治世は、江戸初期における外様小藩の、典型的かつ成功した生存戦略のモデルケースとして高く評価することができる。
彼の功績は、大きく三点に集約される。第一に、 時代の変化への的確な対応力 である。「来島」から「久留島」への改姓は、豊臣の世から徳川の世への転換を象徴する政治的決断であった。また、水軍時代からの旧臣を整理し、実務能力本位で新たな人材を登用したことは、旧来の価値観を脱し、近世的な行政機構を構築しようとする明確な意志の表れであった。
第二に、 巧みな経済政策 である。度重なる幕府の普請役によって疲弊した財政を立て直すため、彼は「天下の台所」大坂に蔵屋敷を設置した。これにより、飛地で産出される明礬などの特産品を効率的に現金化するルートを確立し、小藩ながらも安定した財政基盤を築くことに成功した。これは、領地の地理的特性を最大限に活用した、見事な経済戦略であった。
第三に、 後世への遺産の継承 である。通春が確立した豊後森藩の統治基盤は強固なものであり、久留島家はその後、一度も改易されることなく幕末まで12代にわたって存続した 5 。そして、その血脈は時代を超え、明治から昭和にかけて「日本のアンデルセン」と称され、日本の児童文化の発展に計り知れない貢献をした童話作家・久留島武彦(1874-1960)を輩出するに至る 5 。一人の藩主が築いた安定した基盤が、数百年後に豊かな文化の花を咲かせる土壌となったことは、久留島通春の治世が持つ歴史的意義を象徴していると言えよう。
総じて、久留島通春は、激動の時代の転換期にあって、家の存続という至上命題を背負い、政治・経済の両面において卓越した手腕を発揮した名君であった。彼の生涯は、近世大名としての責務を果たし、未来への礎を築いた一人の人物の、力強い記録として歴史に刻まれている。