本報告書は、戦国時代の陸奥国にその名を刻んだ武将、九戸信仲(くのへ のぶなか)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。信仲は、豊臣秀吉の天下統一事業の最終局面で起きた「九戸政実の乱」の首謀者、九戸政実の父として知られる。しかし、信仲個人の事績を直接伝える史料は極めて限定的であり、その人物像は長らく子・政実の影に隠れてきた。
本報告書では、信仲個人に焦点を当てつつも、彼を単独の人物としてではなく、彼が生きた時代の政治的文脈の中に位置づけることで、その実像に迫る。具体的には、第一に九戸氏そのものの出自と南部一族内における特異な立場、第二に南部宗家との間に繰り広げられた複雑な権力闘争、そして第三に豊臣政権による中央集権化という時代の潮流、という三つの視点から、信仲の生涯と彼が果たした歴史的役割を再構築する。
九戸信仲に関する従来の研究は、その大半が「九戸政実の乱」に至る前史として、断片的に触れるにとどまっていた。しかし、信仲が九戸氏の当主であった時代は、南部氏がその最大版図を築いた南部晴政の治世と重なり、また、その後の南部家を二分する家督争いが激化した時期でもある。信仲の動向は、この時期の北奥羽の政治情勢を理解する上で不可欠な鍵となる。
本報告書では、特に南部晴政との関係性、周辺豪族との婚姻政策、そして天正17年(1589年)とされる彼の死が、その後の南部家の動乱、ひいては九戸氏の滅亡に如何なる影響を与えたのかを重点的に考察する。これにより、信仲を単なる「政実の父」という受動的な存在から、自らの意思で時代を動かそうとした能動的な歴史主体として捉え直すことを試みる。
本報告書は三部構成を採る。第一部では、九戸氏の出自に関する諸説を検討し、南部一族の中での彼らの特異な地位と、信仲の時代に築かれた勢力基盤を明らかにする。第二部では、信仲個人の生涯に焦点を当て、南部宗家との協調と対立の変遷を詳述する。第三部では、信仲の死がもたらした権力構造の変化と、それが「九戸政実の乱」という悲劇へと至る過程を分析する。これらの分析を通じて、歴史の狭間に埋もれた一人の武将の生涯を、可能な限り詳細に描き出すことを目指すものである。
九戸信仲という人物を理解する上で、まず彼が率いた九戸氏が南部一族の中でどのような存在であったかを明らかにせねばならない。その出自には複数の説が存在し、その解釈は九戸氏の立場、ひいては後の「九戸政実の乱」の性格を規定する上で極めて重要である。
最も広く知られているのは、九戸氏を南部氏の庶流とする説である。これは、江戸時代に盛岡藩によって編纂された『系胤譜考』や『奥南落穂集』といった系図類に依拠するもので、南部氏の始祖である南部光行の六男・行連が九戸郡を領して九戸氏を称したのが始まりとされる 1 。この説に立てば、九戸氏は南部宗家の分家の一つであり、政実の蜂起は主家に対する「家臣の反乱」と位置づけられる。
しかし、近年の研究では、始祖・光行の奥州下向自体が史実ではない可能性が指摘されており、この系譜の信憑性には疑問が呈されている 2。また、『参考諸家系図』の編者である星川正甫は、九戸氏の系図が南部宗家のものに比べて代数が少なすぎることなどを理由に、この説を全面的に否定している 2。
通説に対して、九戸氏の独立性を強く示唆するのが、室町幕府の記録である。塙保己一が編纂した『群書類従』に収められた「永禄六年諸役人附」には、当時の全国の大名や有力者の名が列挙されている。この中で「関東衆」の項に、「南部大膳亮」(南部家24代当主・晴政)の名と並んで、「九戸五郎(奥州二階堂)」という記載が確認できる 4 。
この「九戸五郎」は、年代的に九戸政実、すなわち信仲の子であると郷土史家の工藤利悦氏らによって考証されている 4。この史料が持つ意味は大きい。第一に、九戸氏が南部氏当主と「並記」されていること。第二に、「奥州二階堂」という、南部氏とは異なる姓が付記されていることである。これは、中央の室町幕府が、九戸氏を南部氏の家臣ではなく、対等な独立領主(国衆)として公的に認識していたことを示すものと考えられる 4。
二階堂氏との関係については、元弘4年(1334年)の古文書に、二階堂行朝が九戸を含む久慈郡に代官を派遣した記録が存在し、両氏の間に何らかの歴史的な繋がりがあった可能性を示唆している 2。
この視点に立つならば、「九戸政実の乱」は単なる家中の内紛ではなく、旧来の秩序の下で独立性を保っていた地域大名・九戸氏が、豊臣政権という新たな中央権力と結びつくことで優位に立とうとするライバル・南部信直に対して、その存亡をかけて抵抗した「独立戦争」であったと再解釈することが可能となる。
この他にも、九戸村の九戸神社に伝わっていたとされる「小笠原系図」では、南北朝期にこの地を支配した結城親朝の配下であった小笠原氏の末裔とする説も存在する 2 。これもまた、九戸氏が南部氏とは異なる独自のルーツを持つ可能性を示唆しており、その独立性の高さを裏付ける一助となる。
以上の諸説を総合すると、九戸氏はたとえ名目上は南部一族とされつつも、実態としては極めて高い独立性を有した「国衆」であったと結論づけられる。彼らは南部宗家と対等な大名として室町幕府に認識され、独自の勢力圏を形成していた。信仲の時代は、まさにこの独立性が最高潮に達した時期であった。しかし、この独立性こそが、後の豊臣政権による天下統一という新たな政治秩序の下では、宗家との決定的な対立を生む要因となったのである。
九戸信仲が当主であった時代、九戸氏はその勢力を大いに伸張させた。その背景には、確固たる本拠地の経営と、巧みな婚姻政策による同盟網の構築があった。
信仲の時代の九戸氏の本拠地は、現在の岩手県九戸郡九戸村にあった「大名館」であったと伝えられている 5 。この館は、九戸神社に隣接する丘陵地帯に位置し、その周辺には一族の城館が点在していた 5 。息子の政実が、より大規模で戦略的要衝である二戸の「九戸城」に本拠を移したのは、鹿角合戦などで武功を挙げた後の永禄12年(1569年)頃とされており、信仲の治世下で九戸氏が着実に勢力を拡大していった様子がうかがえる 9 。
また、信仲は九戸氏の菩提寺である曹洞宗・鳳朝山長興寺の開基(創建の後援者)としても名を残している 9。永正元年(1504年)、加賀国の宗徳寺から大陰恵善和尚を招いて開山したと伝えられ、この寺は地域の宗教・文化の中心地としての役割も担っていた 9。現在も長興寺には信仲の位牌が安置されており、彼が九戸氏の発展に果たした役割の大きさを物語っている 8。
信仲は、巧みな婚姻政策を通じて、南部領内の有力氏族と広範な同盟関係を築き上げた。これは、戦国時代の地域領主が勢力を拡大するための常套手段であったが、信仲の戦略は特に広範囲に及んでおり、九戸氏の権勢を象徴している 2 。
まず、信仲自身が南部一族の中でも屈指の実力者であった八戸氏の当主・八戸但馬守信長の娘を正室に迎えている 9。これは、九戸・八戸という二大勢力の強固な連携を意味した。
さらに、彼の子女の婚姻関係は、九戸氏の勢力圏を如実に示している。
このようにして築かれた同盟ネットワークは、九戸氏を三戸の南部宗家や根城の八戸氏に比肩する、あるいはそれを凌駕するほどの勢力へと押し上げた。しかし、この伝統的な権力構築の手法は、絶対的な中央権力である豊臣政権の登場によって、その限界を露呈することになる。特に、最も重要な同盟相手であったはずの八戸氏が、後の家督争いで政敵である南部信直を支持したことは、この同盟網の脆弱性を示しており、九戸氏の孤立、そして滅亡へと繋がる遠因となった。信仲が築き上げた権力基盤は、時代の大きな転換期の前には、脆くも崩れ去る運命にあったのである。
九戸信仲個人の生涯に関する記録は断片的であるが、残された系図や周辺史料から、その輪郭を追うことは可能である。
九戸信仲は、九戸信実の子として生まれた 9 。生年は不明であるが、長男の政実が天文5年(1536年)の生まれであることから 13 、信仲自身は16世紀初頭から前半にかけての人物と推定される。通称は右京と称した 9 。
彼の正室は、前述の通り、八戸南部氏の当主・八戸但馬守信長の娘であった 9。この婚姻は、九戸氏の政治的地位を大きく向上させたと考えられる。
信仲には少なくとも四男一女がいたことが確認されている。長男の政実と次男の実親は、後の「九戸政実の乱」で中心的な役割を担い、共に滅びた 13。三男の
久慈政則 は久慈氏へ、四男の 中野康実 は高田氏、後に中野氏へと、それぞれ他家を継いだ 9 。娘は七戸氏の当主・七戸家国に嫁ぎ、彼もまた「九戸政実の乱」に与して滅亡している 9 。信仲が築いた婚姻ネットワークは、結果として多くの一族を滅びの道へと巻き込むことになった。
関係 |
氏名 |
備考 |
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父 |
九戸信実 |
九戸氏当主 |
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本人 |
九戸信仲 |
通称は右京。天正17年(1589年)没。 |
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妻 |
八戸信長の娘 |
八戸南部氏との同盟を象徴する婚姻。 |
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長男 |
九戸政実 |
天正19年(1591年)の「九戸の乱」首謀者。妻は四戸政恒の娘。 |
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次男 |
九戸実親 |
南部晴政の次女を妻とし、家督相続候補となるも敗れる。乱で兄と共に死亡。 |
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三男 |
久慈政則 |
久慈直治の養子となる。乱で父や兄と共に死亡。 |
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四男 |
中野康実 |
初め高田吉兵衛。斯波氏の娘を娶る。兄の乱に与せず、南部信直に仕え存続。 |
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娘 |
(名不詳) |
七戸家国の室となる。夫・家国も乱に与して死亡。 |
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(出典: 7 ) |
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信仲個人の具体的な軍功や政治的活動を直接記した一次史料は、現在のところ発見されていない。彼の事績は、主に子の政実の活躍や、九戸氏全体の動向から推し量るほかない。しかし、彼が当主であった期間に、九戸氏が周辺豪族との婚姻を重ね、南部宗家を脅かすほどの一大勢力を築き上げたことは事実である 2 。
後世の編纂物である『奥南落穂集』などでは歴代当主として名が見えるものの、その具体的な活動内容は不明とされている 5。創作物の中では、南部晴政から重臣として厚い信頼を寄せられていた人物として描かれることもあるが 17、史実としての裏付けは乏しい。
信仲の没年は、天正17年(1589年)とされている 9 。この没年には、九戸氏の運命を決定づける極めて重要な意味が込められている。
信仲が世を去った翌年の天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、天下統一の総仕上げとして「奥州仕置」を断行する 1。これにより、奥羽地方の伝統的な勢力図は根底から覆された。信仲は、この中央政権による直接介入という未曾有の政治的激動を目前にして、この世を去ったのである。
長年にわたり南部宗家と緊張関係を保ちながらも、巧みな政治手腕で決定的な破局を回避してきた経験豊富な当主・信仲が生きていれば、絶対的な権威を持つ豊臣政権に対して、より慎重かつ現実的な対応を取った可能性は否定できない。しかし、彼の死によって、九戸氏の家督は武断派で気性の激しい息子・政実に引き継がれた。父の代からの宗家への不満と自らの武力への過信を背景に、政実は新時代の秩序への適応を拒絶し、武力抵抗という破滅的な道を選択することになる。
信仲の死というタイミングは、まさに九戸氏の運命の分水嶺であった。もし彼が数年長く生きていたならば、九戸一族は異なる歴史を歩んでいたかもしれない。彼の墓所に関する明確な記録は残されていないが、菩提寺である長興寺に「九戸家先祖代々の墓」が再建されており、そこに合祀されているものと考えられる 12。
九戸信仲の治世は、南部氏の最盛期を築いたとされる第24代当主・南部晴政の時代とほぼ重なる。この時期の九戸氏と南部宗家との関係は、単純な主従関係ではなく、協調と対立が複雑に絡み合うものであった。
南部晴政の時代、九戸氏は南部一族の中でも第一の実力を持つ大身であり、単なる家臣というよりは「盟友」に近い立場にあった 2 。この力関係を背景に、晴政は自らの政権運営において九戸氏の協力を不可欠としていた。
しかし、晴政の家督問題がこの関係に亀裂を入れる。晴政は当初、男子がいなかったため、一族の石川高信の子・信直を長女の婿養子として後継者とした 7。ところが、後に実子・晴継が誕生すると、晴政は信直を疎んじ、両者の関係は険悪化する 7。この南部家中の内紛において、九戸信仲・政実親子は晴政と連携し、信直と対立する側に立った 7。晴政が信直派の拠点である剣吉城などを攻撃する際には、九戸氏や八戸氏に出馬を要請した書状も残されており、九戸氏が晴政派の中核をなしていたことがわかる 7。
九戸氏は、南部宗家の軍事行動においても中心的な役割を担っていた。特に著名なのが、出羽の安東愛季との間で繰り広げられた鹿角郡の争奪戦である。
永禄12年(1569年)、南部晴政の要請に応じた九戸政実(信仲の指揮下にあったと考えられる)は、安東氏に奪われていた鹿角郡への出兵に参加し、これを奪還する上で大きな武功を挙げた 1。この戦功により、九戸氏は二戸郡を加増されたとも伝えられ、その勢力をさらに拡大させた 2。
また、南方の斯波氏が岩手郡に侵攻した際にも、九戸氏は石川高信を支援してこれを撃退し、和議の成立に貢献している 13。
これらの軍事的な活躍は、九戸氏の家中における発言力を一層高めるものであった。信仲は、南部宗家との緊張関係を孕みつつも、その軍事力を背景に、巧みに自家の地位を向上させていったのである。
九戸信仲が築き上げた権勢は、彼の死と南部宗家の家督争いを経て、急速に崩壊へと向かう。南部信直の台頭と、それに伴う九戸氏の政治的孤立がその過程を決定づけた。
天正10年(1582年)、南部晴政が没し、その後を継いだ実子の晴継もわずか13歳で急死(暗殺説が根強い)すると、南部宗家の家督は空位となる 8 。後継者候補には、晴政の娘婿という立場で二人が有力視された。一人は九戸信仲の次男・実親、もう一人はかつて養嗣子であった南部信直である 11 。
当初、家中では九戸氏の後ろ盾を持つ実親を推す空気が強かったとされる 13。しかし、ここで状況を一変させたのが、重臣・北信愛の画策であった。信愛は、九戸氏と並ぶ有力一族であり、信仲とは姻戚関係にあった八戸氏の当主・八戸政栄を事前に調略し、信直支持で固めた 13。
重臣会議の席上、北信愛が「田子九郎信直こそ家督に立つべき者なり」と強く主張し、これに八戸政栄が同調したことで、大勢は決した 29。信直は第26代当主として三戸城に入り、南部宗家を継承した。信仲にとって、最も頼みとしていたはずの姻戚・八戸氏が政敵の信直を支持したことは、致命的な政治的敗北であった。これにより、九戸氏は南部家中で孤立を深めていくことになる。
南部信直が家督を継いだ後も、領内の混乱は続いた。天正16年(1588年)、津軽郡で大浦為信が反乱を起こし、信直の弟で郡代であった政信を殺害して独立を果たすという事件が起こる 29 。
信直は為信討伐のための動員令を発したが、九戸信仲はこの命令を拒否し、出兵に応じなかった 29。これは、信直の惣領としての権威を公然と否定するものであり、両者の対立がもはや修復不可能な段階にあったことを示している。信直は代わりに八戸政栄を派遣するが、時機を逸し、津軽の失陥は決定的となった 29。九戸氏の非協力的な態度は、結果として為信の独立を助ける形となり、南部氏の領国は大きく揺らいだ。信仲のこの判断は、信直への対抗心を優先したものであったが、それは同時に、自らが南部一族の秩序を乱す存在であることを内外に示すことにもなった。
九戸信仲の死は、長らく続いた南部家中の緊張状態の均衡を破り、破局への引き金を引いた。家督を継いだ息子・政実は、父の代に蓄積された宗家への不満と、変化する時代認識の齟齬から、武力蜂起という最後の賭けに出る。
天正17年(1589年)に信仲が死去すると、九戸氏の家督は長男の政実が継承した。その翌年の天正18年(1590年)、南部信直は小田原に参陣し、豊臣秀吉から7万石余の本領を安堵される朱印状を得た 32 。これにより、信直は豊臣政権公認の近世大名となり、九戸氏を含む南部領内の全ての豪族は、法的に信直の「家中」、すなわち家臣として位置づけられることになった 8 。
独立領主としての自負を持つ九戸政実にとって、この決定は到底受け入れられるものではなかった。天正19年(1591年)正月、政実は三戸城で行われた年賀の挨拶を病と称して欠席し、公然と反意を表明 1。同年3月、ついに5千の兵をもって蜂起し、南部領内は戦乱に突入した 1。
政実の反乱は、豊臣政権に対する反逆と見なされた。秀吉は甥の豊臣秀次を総大将とし、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政らを含む6万ともいわれる大軍を「奥州再仕置軍」として派遣した 1 。
政実は九戸城に籠城し、圧倒的な兵力差にもかかわらず善戦したが、衆寡敵せず、降伏勧告を受け入れた 1。しかし、和議の約束は反故にされ、政実、実親らは三ノ迫(現在の宮城県栗原市)で斬首。城内に残った者も撫で斬りにされ、九戸宗家はここに滅亡した 1。
しかし、九戸信仲の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。信仲の四男であった中野康実(初め高田吉兵衛)は、兄・政実の計画に与せず、早くから南部信直に仕えていた 14。彼はかつて敵対した斯波氏の攻略に功を立てるなど、信直からの信頼を得ていた。このため、九戸氏滅亡後もその家名は存続を許され、中野氏として盛岡藩の家老職を世襲する「御三家」の一つに数えられるほどの重臣となった 2。信仲が築いた広範な姻戚関係と、その子らの多様な生き様が、結果として一族の一系統を近世まで存続させることに繋がったのである。
九戸信仲は、戦国時代の北奥羽において、南部氏の一族という枠組みの中でその勢力を最大限に伸張させた、有能かつしたたかな地域領主であった。彼は、南部氏の庶流という出自に甘んじることなく、巧みな婚姻政策と確かな軍事力を背景に、一時は宗家と比肩し、あるいはそれを凌駕するほどの権勢を築き上げた。その生涯は、中央の権威が及ばない辺境の地で、伝統的な実力主義と血縁の論理を駆使して勢力を拡大していく、戦国武将の典型的な姿を体現している。
信仲の歴史的役割は、二つの側面から評価されるべきである。第一に、彼は南部宗家との緊張関係を巧みに利用し、決裂という最悪の事態を回避しながら、九戸氏の独立性を保ち続けた最後の当主であった。彼の存在そのものが、南部一族内の微妙なパワーバランスを維持する重石となっていた。
第二に、彼の死が持つ歴史的な意味は極めて大きい。天正17年(1589年)という彼の死のタイミングは、九戸氏の運命を決定づけた。彼が世を去った直後、豊臣秀吉による「奥州仕置」という、北奥羽の政治秩序を根底から覆す巨大な波が到来した。経験豊富な信仲であれば、この新たな時代の潮流に対し、より現実的な外交判断を下した可能性も考えられる。しかし、家督を継いだ血気盛んな息子・政実は、父の代から続く宗家への不満と、自らの力を過信するあまり、中央集権化という時代の流れを読み違え、武力抵抗という破滅的な道を選んだ。信仲の死は、長年の対立のタガを外し、九戸氏を滅亡へと突き進ませる直接的な契機となったのである。
彼は、戦国時代の論理が終焉を迎え、近世的な大名領国制へと移行する過渡期にあって、北奥羽の複雑な政治状況を象徴する人物であったと言えよう。
九戸信仲の実像をさらに明らかにするためには、今後の研究にいくつかの課題が残されている。第一に、信仲個人の動向を直接示す一次史料のさらなる発掘が待たれる。特に、南部晴政や周辺豪族との間で交わされた書状などが発見されれば、彼の政治思想や外交戦略について、より深い理解が得られるであろう。
第二に、考古学的なアプローチの深化が期待される。信仲時代の本拠地とされる「大名館」跡や、彼が開基となった「長興寺」周辺の発掘調査を進めることにより、当時の九戸氏の領国経営の実態や、経済力、文化的側面を解明できる可能性がある 37。文献史学と考古学の成果を融合させることで、歴史の狭間に埋もれた武将・九戸信仲の姿を、より鮮明に浮かび上がらせることができるであろう。