16世紀半ばの日本、戦国時代の動乱は列島の隅々にまで及んでいた。中でも、後の伊達政宗によって統一される以前の陸奥国、特に仙道(現在の福島県中通り地方)は、伊達、蘆名、佐竹、田村といった強大な戦国大名が勢力を張り、互いに熾烈な覇権争いを繰り広げる、まさに群雄割拠の地であった。これらの大国の狭間にあって、自家の存亡を賭けて巧みな外交と必死の抵抗を試みた中小の国人領主たちが数多く存在する。
本報告書が光を当てる須賀川城主、二階堂盛義(にかいどう もりよし)もまた、そうした中小大名の一人である。彼の生涯は、戦国という時代の非情さと複雑さを凝縮した、一つの典型例と言える。強大な伊達家との二重の血縁という強力なカードを持ちながら、隣国・蘆名氏の軍事力に屈し、嫡男を人質に出すという屈辱を味わう。しかし、その人質となった息子が予期せず敵方の家督を継ぐという万に一つの幸運に恵まれ、一転して権勢を回復。だが、その栄華も束の間、自身の死と後継者たちの相次ぐ悲劇によって、一族は滅亡への坂道を転がり落ちていく。
本稿は、この二階堂盛義という一人の武将の生涯を、「血縁」「屈従」「幸運」「内紛」「滅亡」という五つのキーワードを軸に、一次史料の断片や後世の記録を丹念に繋ぎ合わせ、その実像に迫るものである。彼の生き様は、華々しい勝者の歴史の陰に埋もれた、数多の滅び去った者たちの声なき声であり、戦国時代の奥州における力と権謀の力学を理解する上で、欠かすことのできない物語である。
二階堂盛義は、天文13年(1544年)頃、須賀川二階堂氏の当主・二階堂照行(輝行とも)の子として生を受けた 1 。彼の出自を特異なものとしているのは、その母方の血筋である。母は、当時奥州に絶大な影響力を誇った奥州探題・伊達稙宗の娘であった 2 。これにより、盛義は生まれながらにして、奥州随一の名門・伊達家の血を引く存在となった。
さらに、この伊達家との繋がりは、彼の代でより一層強固なものとなる。盛義は正室として、伊達稙宗とその子・晴宗の長年にわたる内乱「天文の乱」を制した伊達晴宗の娘、阿南姫(あなひめ)を迎えたのである 1 。この政略結婚により、盛義は伊達家と「祖父・稙宗」と「舅・晴宗」という二重の極めて強力な姻戚関係で結ばれることになった。これは、周辺勢力に対する大きな牽制となりうる、外交上の切り札であった。
盛義が幼少期を過ごした頃、彼が血縁を持つ伊達家は、当主・稙宗とその嫡男・晴宗が奥州の諸大名を巻き込んで争う、未曾有の内乱「天文の乱」の渦中にあった。この大乱において、二階堂家は当初、稙宗方として参戦していた。しかし、隣国である蘆名氏が稙宗方を裏切るなど、戦況が流動的になる中で、二階堂家もまた情勢を見極め、晴宗方へと鞍替えしている 2 。
この決断は、大国の争いが自家の存亡にいかに直接的に影響を及ぼすかという厳しい現実を、二階堂家に突きつけた。生き残るためには、血縁や旧来の恩義に固執するのではなく、冷徹に力関係を見極め、有利な側につく必要がある。この天文の乱における経験は、盛義の代における現実的で柔軟な外交姿勢の基盤を形成した可能性が高い。
伊達家との二重の血縁は、盛義にとって最大の資産であると同時に、潜在的なリスクをも内包する「両刃の剣」であった。名目上の権威や、有事の際の後ろ盾としての期待は大きかった。しかし、その価値は絶対的なものではなく、伊達家自身の内情や周辺勢力との力関係によって常に変動した。天文の乱が示したように、伊達家が常に一枚岩で、二階堂家を全面的に支援できるとは限らなかった。
事実、後に詳述する通り、盛義は伊達家という強力な縁戚を持ちながらも、蘆名氏の軍事的圧力の前に屈することになる。このことは、戦国時代の外交において、血縁関係が必ずしも安全保障には直結しなかった現実を物語っている。むしろ、大国の思惑に翻弄される要因ともなり得たのである。この複雑な血縁関係は、後に盛義の未亡人・阿南姫が、甥である伊達政宗と対峙するという、単なる敵対関係では割り切れない、極めて人間的なドラマを生み出す伏線となっていく。
表1:二階堂盛義 主要関連人物・系図
関係性 |
人物名 |
備考 |
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二階堂家 |
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父 |
二階堂照行 |
須賀川二階堂氏当主 |
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本人 |
二階堂盛義 |
本報告書の主題。須賀川二階堂氏18代当主 |
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正室 |
阿南姫(大乗院) |
伊達晴宗の娘。盛義死後、女城主となる |
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長男 |
蘆名盛隆 |
当初は二階堂氏嫡男。後に蘆名家を継ぐ |
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次男 |
二階堂行親 |
盛義の死後、家督を継ぐが早世 |
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娘 |
岩城御前 |
岩城常隆正室、後に伊達成実継室 |
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伊達家 |
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祖父(母方) |
伊達稙宗 |
奥州探題。盛義の母の父 |
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舅 |
伊達晴宗 |
伊達家15代当主。盛義の正室・阿南姫の父 |
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義兄 |
伊達輝宗 |
伊達家16代当主。阿南姫の兄 |
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甥 |
伊達政宗 |
伊達家17代当主。輝宗の子 |
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蘆名家 |
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敵対/従属先 |
蘆名盛氏 |
会津の戦国大名。盛義を降伏させる |
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盛氏の嫡男 |
蘆名盛興 |
盛氏の後継者。伊達輝宗の妹・彦姫を娶るが早世 |
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盛隆の養父 |
蘆名盛氏 |
人質であった盛隆を養子とし、家督を継がせる |
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佐竹家 |
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連携/敵対 |
佐竹義重 |
常陸の戦国大名。後の二階堂家・蘆名家と連携 |
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義重の次男 |
蘆名義広 |
盛隆の死後、蘆名家を継ぐが政宗に敗れる |
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出典: 1 |
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伊達家との血縁を誇る二階堂氏であったが、その領国である岩瀬郡は、西に隣接する会津の戦国大名・蘆名氏の勢力圏と直接境を接していた。16世紀半ば、蘆名家当主・蘆名盛氏は、その卓越した軍事・外交手腕で勢力を拡大し、二階堂氏にとって最大の脅威となっていた 7 。
盛氏は、北の伊達氏、南の佐竹氏といった大勢力と渡り合いながら、仙道地方への影響力拡大を画策。その矛先は、必然的に地政学的な要衝に位置する二階堂領に向けられた。永禄年間(1558年~1570年)に入ると、蘆名氏による岩瀬郡への侵攻は熾烈を極める。特に永禄8年(1565年)頃には、盛義の居城・須賀川城に迫る松山城や横田城などを巡って激しい攻防が繰り広げられた 7 。舅である伊達晴宗は盛義に援軍を送るも、蘆名軍の前に敗北を喫した 9 。
度重なる蘆名軍の侵攻と、伊達からの支援が功を奏さなかった結果、二階堂盛義は万策尽き、ついに蘆名盛氏に降伏することを決断する。永禄9年(1566年)2月、盛義は盛氏との和睦を受け入れた 8 。
その和睦の条件は、二階堂氏にとって極めて過酷なものであった。盛義は、自らの嫡男であり、当時まだ平四郎と名乗っていた幼い蘆名盛隆を、人質として会津の黒川城へ差し出すことを余儀なくされたのである 4 。嫡子を人質として差し出すことは、相手方への完全な従属を意味し、一国の大名としては最大の屈辱であった。これは、当時の二階堂氏と蘆名氏の力関係を如実に物語る出来事であり、伊達家との血縁をもってしても抗うことのできない、厳しい現実を盛義に突きつけた。
この苦渋の決断により、二階堂家は滅亡を免れ、家名を存続させることには成功した。しかし、それは会津の雄・蘆名氏の従属国として、その顔色を窺いながら生きることを意味していた。盛義にとって、雌伏の時が始まったのである。
蘆名氏に従属し、苦汁をなめる日々を送っていた二階堂盛義に、戦国の世の奇妙な運命の歯車が、にわかに好転し始める。天正2年(1574年)、蘆名家の17代当主であった蘆名盛興が、嗣子を残さないまま25歳の若さで急死したのである 2 。
名門蘆名家の突然の断絶の危機に際し、家中で後継者問題が浮上する。ここで白羽の矢が立ったのが、かつて人質として会津に送られ、その地で成長していた盛義の息子・盛隆であった。盛隆は、盛興の未亡人であった彦姫(伊達輝宗の妹であり、血縁上は盛隆の叔母にあたる)と婚姻するという形で、先代当主・蘆名盛氏の養子となり、名門蘆名家の18代当主の座に就くことになった 4 。
人質として送られた先の家の家督を、その人質が継承するという展開は、数多の政略が渦巻く戦国時代においても極めて稀有な事例であった。後世の記録には、盛隆が敵将にも惚れられるほどの美貌の少年であり、蘆名家中でも非常に愛されていたという逸話が残っており 2 、こうした個人的な魅力が、この異例の家督継承を後押しした可能性も否定できない。いずれにせよ、この劇的な出来事は、二階堂家の運命を根底から覆す「天運」の到来であった。
息子の盛隆が会津蘆名氏という大国の主となったことで、二階堂盛義の立場は一変した。従属する側から、実質的な同盟者、あるいは後見役として、蘆名氏の強大な軍事力を背景に持つ存在へと変貌を遂げたのである。天正8年(1580年)に、盛隆の後見役であった蘆名盛氏が死去すると、盛隆は名実ともに蘆名家の実権を掌握し、父・盛義と共に、かつて衰退した二階堂家の勢力回復へと乗り出した 4 。
その象徴的な出来事が、天正8年(1580年)から翌年にかけて起こった「御代田合戦」である。これは、伊達氏の支援を受ける田村清顕の領地である御代田城を巡る戦いであった。盛義は、当主となった息子・盛隆、そして南方の雄・佐竹義重らと連合軍を形成し、田村軍と激しく衝突した 10 。この戦いで二階堂・蘆名連合軍は勝利を収め、田村氏から領地を割譲させることに成功する 12 。この合戦は、二階堂氏が単なる中小国人から脱却し、蘆名氏と連携して周辺勢力と互角以上に渡り合うまでに権勢を回復したことを明確に示した。
しかし、この戦いの中で盛義は負傷したと伝えられており、これが後の彼の死期を早める一因になったとも考えられている 10 。栄光の絶頂で、すでに悲劇の影が忍び寄っていたのである。
盛義の後半生における目覚ましい権勢回復は、彼自身の軍事・外交手腕の成果という側面もさることながら、その根幹は「息子・盛隆の蘆名家継承」という、極めて偶発的で個人的な幸運に支えられていた。彼の権力基盤は、自力で築き上げた堅固なものではなく、いわば「借り物」の栄光の上に成り立っていた。
この構造は、二階堂家の将来に大きな危うさを内包していた。すべての権力の源泉が盛隆一個人の存在に集約されているため、彼の身に万が一のことがあれば、二階堂家が手にした権勢は、砂上の楼閣の如く、たちまち崩壊する運命にあった。この天運がもたらした栄華は、皮肉にも、一族を待ち受ける次なる悲劇の序章に過ぎなかったのである。
御代田合戦で田村氏を破り、二階堂家の権勢を頂点にまで引き上げた盛義であったが、その栄光は長くは続かなかった。天正9年(1581年)8月26日、二階堂盛義は須賀川城にてその生涯を閉じた。享年38歳という若さであった 1 。御代田合戦で受けた戦傷が直接の死因であったか、あるいは悪化したのかは定かではないが、一族の最盛期における当主の死は、二階堂家にとって大きな痛手であった 10 。
盛義の死は、二階堂家を襲う悲劇の連鎖の始まりに過ぎなかった。
まず、盛義の跡を継いで二階堂家の当主となった次男の行親が、家督相続のわずか1年後、天正10年(1582年)に14歳という若さで病死してしまう 2 。
そして、二階堂家にとって最大の悲劇であり、その運命を決定的に暗転させた事件が起こる。天正12年(1584年)10月6日、一族の最大の支柱であり、後ろ盾であった蘆名家当主・蘆名盛隆が、居城である黒川城内にて、寵愛していた近習の大庭三左衛門によって斬殺されたのである 4 。享年24。この暗殺の背景には、男色関係のもつれがあったとする説が有力視されている 7 。
わずか3年という短い期間に、当主・盛義、その後継者・行親、そして権力の源泉そのものであった蘆名盛隆までもが、相次いでこの世を去った。これにより、二階堂家は指導者を完全に喪失し、その権力の中枢には巨大な空白が生じた。かつての栄華は幻のように消え去り、一族は存亡の危機に直面することになる。
相次ぐ当主の死という未曾有の危機に際し、二階堂家を率いることになったのは、盛義の未亡人であり、伊達晴宗の娘である阿南姫であった。彼女は夫の菩提を弔うため出家して大乗院(だいじょういん)と号し、事実上の須賀川城主として、この難局に立ち向かうことになった 7 。
しかし、女性当主のもとでの領国経営は困難を極めた。実際の政務や軍事の指揮は、家老の須田盛秀が城代として取り仕切るという、不安定な集団指導体制へと移行せざるを得なかった 15 。強力なリーダーシップを失った二階堂家中では、やがて外交方針を巡る深刻な路線対立が表面化し、これが後の滅亡への直接的な引き金となっていくのである。
二階堂家が内部の混乱に喘ぐ中、北の奥州では新たな時代の覇者がその頭角を現していた。盛義の甥にあたる伊達政宗である。天正17年(1589年)6月、政宗は磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で、蘆名盛隆亡き後の蘆名家を継いだ蘆名義広(佐竹義重の子)の軍勢を壊滅させ、ついに会津の名門・蘆名氏を滅亡に追い込んだ 17 。
この摺上原の戦いは、南奥州の勢力図を一変させた。二階堂家は、長年にわたり頼みとしてきた蘆名氏という最大の後ろ盾を完全に失い、南奥州の覇権統一を目指す伊達政宗の、次なる標的として完全に孤立無援の状態に陥ったのである。
伊達政宗という外部からの強大な軍事的脅威に直面した二階堂家中は、一枚岩となって対抗するどころか、深刻な内部対立によって自壊作用を始めていた。この内部崩壊こそが、一族の滅亡を決定づけた最大の要因であった。
家中は、大きく二つの派閥に分裂していた。一つは、城代の須田盛秀を中心とする「親佐竹派」である。彼らは、亡き蘆名家との関係が深かった常陸の佐竹氏との連携を強化し、伊達政宗に対抗しようとする路線を主張した 16 。もう一つは、二階堂氏の庶流であり重臣の保土原行藤(ほどはら ゆきふじ)を中心とする「親伊達派」である。彼らは、もはや伊達氏の勢いには抗えないと判断し、早期に政宗に服属することで家名を存続させるべきだと考えていた 19 。
この対立は、単なる外交路線上の違いに留まらなかった。須田盛秀と他の重臣との間の個人的な対立や、女城主・大乗院(阿南姫)が権力掌握のために須田ら重臣を排除しようとした動きなども絡み合い、家中の亀裂は修復不可能なレベルにまで達していた 16 。政宗はこの内部の脆弱性を見逃さなかった。叔母である阿南姫に再三にわたり和睦を働きかける一方で、水面下では保土原行藤ら親伊達派に密書を送り、内応を促す調略を着々と進めていたのである 17 。
天正17年(1589年)10月、伊達政宗は満を持して須賀川城への侵攻を開始した。その先鋒を務めたのは、政宗に内応した保土原行藤ら、岩瀬郡西部の二階堂家臣たちであった 15 。城は、いわば内側から敵を招き入れる形で戦いの火蓋が切られた。
これに対し、城主・阿南姫は城内に残った家臣や領民を集め、徹底抗戦を宣言する 17 。彼女は政宗の叔母でありながら、夫・盛義の代からの因縁、そして息子・盛隆が継いだ蘆名家を滅ぼした甥への憎しみから、降伏という選択肢を断固として拒絶した。
須賀川城は、釈迦堂川を天然の堀とし、本丸、二の丸、三の丸を水堀で囲み、その周囲に家臣屋敷や支城を配置した「惣構え」と呼ばれる堅固な平山城であった 15 。伊達軍は、雨呼口(あめよばりぐち)や大黒石口(だいこくいわぐち)などから総攻撃を仕掛けた。須賀川勢は、佐竹氏や岩城氏から送られた援軍を加えて必死の防戦を試み、特に八幡崎城などでは熾烈な戦闘が繰り広げられた 18 。しかし、圧倒的な兵力差に加え、保土原行藤ら内応者による内部からの切り崩し、さらには家臣の守谷俊重による放火なども重なり、奮戦も空しく、同日のうちに須賀川城は陥落。ここに、鎌倉時代から続いた名門・須賀川二階堂氏は、事実上の滅亡を迎えた 15 。
表2:須賀川城攻防戦 主要武将配置
軍勢 |
役職/配置 |
主要武将 |
備考 |
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伊達軍(攻城側) |
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総大将(本陣) |
伊達政宗 |
山王山、陣場山に布陣 18 |
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先手大将 |
大内定綱、片倉景綱、伊達成実 |
本陣右翼に配置 18 |
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内応・先導役 |
保土原行藤(江南斎)、浜尾行泰ら |
岩瀬西部衆。政宗本陣の側に布陣 20 |
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二階堂・連合軍(守城側) |
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城主 |
大乗院(阿南姫) |
城内にて指揮 |
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城代(総大将格) |
須田盛秀 |
大黒石口などを守備 21 |
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主要武将 |
遠藤勝重、矢田野義正、塩田右近 |
本丸、南ノ口原、八幡崎城などで奮戦 18 |
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援軍 |
佐竹衆、岩城衆、竹貫衆 |
雨呼口、方八丁館などを守備 21 |
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出典: 15 |
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二階堂盛義の生涯は、戦国時代という激動の時代を生き抜こうとした中小大名の苦悩と葛藤、そして栄枯盛衰の物語そのものであった。伊達家との血縁という恵まれた出自に生まれながら、より強大な蘆名氏の力に屈し、雌伏の時を過ごす。しかし、人質に出した息子が敵方の家を継ぐという奇跡的な幸運によって、一時は南奥州に覇を唱えるほどの権勢を手に入れた。
だが、彼が築いた栄光は、息子・盛隆という一個人の存在に依存する、極めて脆弱な権力基盤の上に成り立っていた。その結果、盛義自身の死後、指導者層の相次ぐ死去という不運が重なると、家中に生じた深刻な亀裂を抑えることができず、最終的に伊達政宗という時代の奔流に飲み込まれる形で、一族は滅亡の道を辿った。彼の生涯は、個人の能力や一時の幸運だけでは、巨大な時代のうねりを乗り切ることはできないという、戦国時代の非情な現実を我々に突きつける。
二階堂氏滅亡後の関係者たちの運命は、それぞれの生き様を象徴している。
二階堂盛義の物語は、伊達政宗という勝者の華々しい戦歴の陰に埋もれがちである。しかし、彼の波乱に満ちた生涯は、強国に囲まれた中小大名が駆使し、また翻弄された、血縁、外交、軍事、そして屈従と幸運という、あらゆる要素が凝縮された、戦国史の貴重な一断面を示している。彼の存在は、歴史の敗者たちの声なき声の一つとして、記憶されるべきであろう。