本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活動した武将、井戸良弘(いど よしひろ)に焦点を当て、その生涯と事績を詳細に明らかにすることを目的とする。井戸良弘は、天文2年(1533年)に生まれ、慶長17年1月5日(西暦1612年2月6日)に80歳で没したと記録されている。大和国の国人から身を興し、筒井順慶、織田信長、豊臣秀吉、細川忠興といった当代の権力者に仕え、激動の時代を生き抜いた人物である。本報告書では、現存する資料に基づき、良弘の生涯を多角的に検証する。特に、彼のキャリアにおいて重要な転換点となった山崎の戦いにおける動向や、歴史研究においてしばしば混同の原因となる同名の別人物との区別についても留意する。
井戸良弘に関する史料、とりわけ彼が地方の小領主であった初期の時期に関するものは限定的である可能性が指摘されている。そのため、本報告書を作成するにあたっては、複数の資料を比較検討し、可能な限り客観的な記述を心掛けた。また、歴史上「井戸良弘」を名乗った人物が複数存在することが確認されている。本報告書では、これらの人物と区別し、主に戦国時代に武将として活動した井戸良弘(天文2年生まれ、慶長17年没)に限定して記述を進める。
井戸氏は、大和国(現在の奈良県)を拠点とした国人であり、大和の有力な武士団であった筒井氏の一族とされている。その本貫(発祥の地)は、磯城郡川西町結崎の井戸村であったとされ、『筒井諸記』にその記述が見られる。この結崎井戸村は、濠(ほり)に囲まれた環濠集落であった可能性も示唆されている。井戸氏は室町時代には興福寺一乗院方の衆徒として活動し、大和国人を二分した「大和永享の乱」にも一方の当事者として関与したと伝えられている。
井戸良弘は、天文2年(1533年)に生まれたとされる。ただし、生年不詳とする資料も存在する。父については、大和国井戸城(現在の奈良県天理市)の城主であった井戸若狭守覚弘(いどわかさのかみあきひろ)の子であるとする記述がある。一方で、別の資料では良弘を父とし、その子である覚弘が井戸城に残ったとする記述も見られ、親子関係や名前に若干の混乱が認められる。これは、良弘自身やその兄も「良弘」を名乗ったとされること、また戦国時代の地方豪族に関する記録が断片的であること に起因する可能性がある。本報告書では、複数の事典で共通して見られる情報を基軸とし、良弘は井戸若狭守覚弘の子であり、兄の小殿之助良弘(この兄も良弘を名乗ったとされる)が早世したために家督を継いだと理解する。
この情報の錯綜は、戦国時代の地方小領主に関する記録の限界を示唆しており、正確な系譜の特定が困難な場合があることを物語っている。特に「良弘」という名を持つ人物が複数存在したことが、混乱を助長していると考えられる。
井戸良弘の妻は、筒井順昭(つつい じゅんしょう)の娘、すなわち筒井順慶(つつい じゅんけい)の姉であった。これにより、良弘は順慶の義弟という関係になり、筒井氏とは極めて緊密な姻戚関係にあった。良弘の子としては、覚弘(かくひろ)、治秀(はるひで)、直弘(なおひろ)といった男子、そして筒井家臣である辻子秀俊(ずし ひでとし)の室となった娘、さらに松永氏への人質として送られた娘二人がいたと記録されている。
井戸良弘は、当初、義弟にあたる大和国の有力武将、筒井順慶に仕えた。大和国添上郡(そえかみぐん)内に井戸城主として2万石の所領を有していたとされる。妻が順慶の姉であったことから、両者の関係は単なる主従を超えた強固なものであったと考えられる。
永禄2年(1559年)、三好長慶の重臣であった松永久秀(まつなが ひさひで)が大和国への侵攻を開始すると、井戸氏もその渦中に巻き込まれる。永禄3年(1560年)7月、久秀は井戸良弘が守る井戸城を攻撃した。この戦いでは、救援に駆けつけた筒井氏の軍勢も敗れ、良弘は交渉の末に井戸城を明け渡すこととなった。
その後、良弘の立場は複雑に変化する。永禄5年(1562年)5月には一時的に松永方に与し、人質を差し出したものの、永禄8年(1565年)12月には再び筒井方に転じた。この立場変更は大きな代償を伴い、松永氏に預けられていた良弘の娘一人が殺害されるという悲劇に見舞われた。さらに永禄13年(元亀元年、1570年)2月、良弘は松永久秀・久通父子が上洛している隙を突いて松永氏の多聞山城(たもんやまじょう)を攻撃したが、この行動により、人質としていた別の8歳の娘もまた殺害されてしまう。同年3月末には井戸城も松永方に攻め落とされ、翌4月5日には破却された。
松永久秀との戦いにおけるこれらの出来事は、良弘にとって単に領地を巡る攻防であっただけでなく、家族を犠牲にするという極めて過酷な経験であった。二度にわたり人質の娘を失ったことは、戦国時代の武将が国や家だけでなく、家族をも巻き込む非情な状況に置かれていたことを生々しく示している。特に、大勢力に挟まれた中小国人の苦悩と悲哀を象徴するものであり、この経験がその後の良弘の判断や行動に影響を与えた可能性は否定できない。
松永久秀が織田信長と対立し、やがて没落すると、大和国の情勢も変化する。信長によって塙直政(ばんなおまさ)が大和守護に任じられると、井戸良弘はこれに従った。しかし、直政が戦死すると、信長は大和の支配を筒井順慶に任せたため、良弘は再び筒井氏に属したとみられる。
その後、良弘は井戸城を子に譲り、自らは織田信長に直接仕える道を選んだとされる。天正6年(1578年)、塙直政が改易された後、その一族を捕縛した功績により、信長から山城国槇島城(まきしまじょう、現在の京都府宇治市)の城主に任じられ、2万石の所領を与えられた。この槇島城は、それまで塙直政の居城であった。天正9年(1581年)の伊賀攻め(天正伊賀の乱)にも、筒井氏の指揮下にあったと考えられるが、従軍している。
この信長への臣従と槇島城主就任は、井戸良弘のキャリアにおける重要な転換点であった。大和の一国人から、織田政権下で畿内に所領を持つ武将へと地位を高めたのである。塙直政一族の捕縛という具体的な功績が信長による直接的な登用のきっかけとなったことは、良弘の武将としての能力が評価されたことを示唆している。山城国槇島城という戦略的にも重要な地を与えられたことは、信長の良弘に対する一定の期待の表れとも解釈できる。これにより、良弘は筒井氏の麾下(きか)という立場から、より直接的に織田政権と関わる立場へと変化した。ただし、伊賀攻めでは依然として筒井氏の指揮下にあったと見られることから、完全に独立した織田直臣というよりは、大和の有力者である筒井氏との連携を前提とした上での処遇であった可能性も考えられる。
山城国久世郡(くせぐん)に位置する槇島城を拠点とした良弘は、この地で統治にあたった。ある記録によれば、良弘が槙島城主となってから7年で所領は2万5千石に達し、宇治に近いこの地は茶の産地でもあったため、茶所の税収が大きかったとされる。また、同記録では、良弘の父祖は代々能楽と茶道を好み、良弘自身も風雅を解したため、町民からの人気も高かったと伝えられている。ただし、この記録の史実性については慎重な検討が必要である。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都本能寺で明智光秀に討たれるという未曾有の大事件(本能寺の変)が発生する。これにより織田政権の統制は崩壊し、畿内は混乱状態に陥った。信長の死後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中国地方から驚異的な速さで軍を返し(中国大返し)、明智光秀との間で山崎の戦いが勃発した。
この山崎の戦いにおいて、井戸良弘の動向は「不鮮明な態度をとって羽柴軍に与せず」、あるいは「豊臣秀吉をたすけなかったため」 と記録されている。より具体的に、ある資料の列伝では「山崎合戦で明智光秀に属したため改易された」と、光秀方に与したと明記するものもある。
当時の状況を伝える『多聞院日記』の引用とされる記述には、「(天正十年)六月四日、筒井軍の南方衆・井戸氏の一手衆が光秀のもとへ出陣するが、翌日に引き返す」というものがあり、これが事実であれば、良弘は一時的に光秀方へ動いたものの、何らかの理由ですぐに兵を引き揚げた可能性が示唆される。この行動が、結果として「不鮮明な態度」あるいは「秀吉を助けなかった」と評価される原因となったのかもしれない。多くの武将が去就に迷う中、良弘もまた難しい判断を迫られたことがうかがえる。
山崎の戦いにおけるこの態度が原因で、良弘は羽柴秀吉の不興を買い、改易処分を受けたとされる。これにより槇島城主の地位と所領を失い、奈良に退隠した。一説には、義弟である筒井順慶に槇島城を明け渡し、吉野へ逃れたとも伝えられている。
この出来事は、良弘の武将としてのキャリアにおける最大の危機であり、その後の彼の立場を大きく変える転換点となった。当時、情報伝達の手段は限られ、情勢は極めて流動的であった。そのような中で下された判断が、その後の運命を大きく左右したことを示す事例と言える。特に、同じく去就が注目された筒井順慶が最終的に秀吉方につき大和一国を安堵されたのとは対照的な結果となり、当時の判断の難しさとその重要性を物語っている。
山崎の戦いでの不手際により改易され、奈良に蟄居していたとされる井戸良弘であったが、天正12年(1584年)に義弟であり、これまで大きな影響力を持っていた筒井順慶が死去すると、状況に変化が生じる。この順慶の死を一つの契機としてか、良弘は豊臣秀吉から出仕を命じられ、その家臣となったと伝えられている。別の記述では「改易されるが間もなく許され、秀吉次いで細川家に仕える」とあり、比較的早い段階で赦免され、再起の機会を得た可能性も示唆される。
一度の失脚にも屈せず、時代の変化の中で新たな主君を見出し、武将としての道を歩み続けようとする姿は、戦国武将の処世術の一端を示している。順慶の死後、大和国内の勢力図にも変化が生じた可能性があり、秀吉が良弘を再登用する何らかの政治的判断があったのかもしれない。あるいは、良弘自身が赦免を願い出て許されたという経緯も考えられる。
豊臣秀吉の家臣となった後、井戸良弘は、時期は不明ながら細川忠興(ほそかわ ただおき)に仕えることになった。秀吉の家臣団内での配置転換であったのか、あるいは個人的な縁故を頼ったのか、その具体的な経緯については、現存する資料からは詳らかではない。しかし、この細川氏への仕官が、良弘にとって新たな働き場所を得ることを意味し、その後の関ヶ原の戦いでの活動へと繋がっていくことになる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発すると、井戸良弘は細川家に仕える武将として東軍に属した。具体的には、細川忠興の父である細川幽斎(藤孝)(ほそかわ ゆうさい(ふじたか))と共に、丹波国田辺城(現在の京都府舞鶴市)での籠城戦に参加したことが記録されている。この田辺城籠城戦では、西軍の小野木重勝(おのぎ しげかつ)が率いる大軍を相手に奮戦したと伝えられる。複数の資料で「関ケ原の戦いでは徳川方についた」と簡潔に記されているのも、この田辺城での働きを指すものと考えられる。
この戦いは、関ヶ原の本体戦とは別の戦線ではあったが、西軍の兵力を丹波に釘付けにする効果があり、東軍の勝利に間接的に貢献した重要な戦いであった。良弘が細川幽斎という当代きっての文化人でもあった武将と共に籠城戦を戦い抜いたことは、彼が細川家内で一定の信頼を得ていたことを示唆している。これは、彼の武士としての最後の大きな奉公であったと言えるだろう。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、徳川家康による新たな時代が幕を開けると、井戸良弘は戦乱の世から離れ、奈良に戻って余生を過ごしたという。そして、慶長17年1月5日(西暦1612年2月6日)、80歳でその生涯を閉じた。波乱に富んだ人生であったが、最終的には故郷に近い奈良で、当時としては長寿を全うし、比較的穏やかな晩年を迎えたと推察される。
以下に、井戸良弘の生涯における主要な出来事をまとめた略年表と、彼が仕えた主君の変遷を示す。
井戸良弘 略年表
年号(西暦) |
年齢(推定) |
主要な出来事 |
関連する主君・人物 |
役職・石高(判明分) |
天文2年(1533年) |
0歳 |
生誕 |
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(不明) |
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家督相続、井戸城主となる |
筒井順慶 |
大和国井戸城主 2万石 |
永禄3年(1560年) |
28歳 |
松永久秀により井戸城を攻められ落城 |
筒井順慶、松永久秀 |
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永禄8年(1565年) |
33歳 |
再び筒井方に転じる。人質の娘が殺害される。 |
筒井順慶、松永久秀 |
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元亀元年(1570年) |
38歳 |
多聞山城を攻撃。人質の娘が再び殺害される。井戸城落城、破却。 |
筒井順慶、松永久秀 |
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天正6年(1578年) |
46歳 |
織田信長より山城国槇島城主に任じられる。 |
織田信長 |
山城国槇島城主 2万石 |
天正9年(1581年) |
49歳 |
伊賀攻めに従軍(筒井氏指揮下か) |
織田信長、筒井順慶 |
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天正10年(1582年) |
50歳 |
山崎の戦いで羽柴秀吉に与せず改易。奈良へ退隠。 |
明智光秀、羽柴秀吉、筒井順慶 |
改易 |
天正12年(1584年)頃 |
52歳 |
筒井順慶の死後、豊臣秀吉に出仕を命じられる。 |
豊臣秀吉 |
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(時期不明) |
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細川忠興に仕える。 |
細川忠興 |
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慶長5年(1600年) |
68歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、細川幽斎と共に丹波国田辺城に籠城。 |
徳川家康(東軍)、細川幽斎、細川忠興 |
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(戦後) |
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奈良に戻り余生を過ごす。 |
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慶長17年(1612年) |
80歳 |
1月5日 死去。 |
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井戸良弘 主君変遷と主要な関わり
主君 |
臣従期間(推定) |
主な役職・立場 |
関連する主要な出来事・戦役 |
石高(判明分) |
備考 |
筒井順慶 |
初期~天正6年頃 |
井戸城主、義弟、家臣 |
松永久秀との抗争(井戸城攻防戦など) |
大和国井戸城 2万石 |
妻は順慶の姉 |
織田信長 |
天正6年~10年 |
山城国槇島城主 |
塙直政一族捕縛の功、伊賀攻め従軍 |
山城国槇島城 2万石 |
信長より直接登用された |
(なし/浪人) |
天正10年~12年頃 |
改易され奈良に退隠 |
山崎の戦いでの不手際 |
なし |
一時吉野へ逃亡とも |
豊臣秀吉 |
天正12年頃~ |
家臣 |
筒井順慶死後に出仕 |
不明 |
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細川忠興 |
(時期不明)~慶長17年 |
家臣 |
関ヶ原の戦い(丹波国田辺城籠城戦) |
不明 |
幽斎(藤孝)と共に籠城 |
これらの表は、良弘の生涯における重要な出来事と、彼が仕えた主君の変遷を時系列で整理したものであり、彼の複雑なキャリアを理解する一助となる。
井戸良弘は、通称として才助(さいすけ)、あるいは若狭守(わかさのかみ)を名乗ったとされている。また、号として里夕斎(りゆうさい)を用いたという記録もある。ある物語風の記述では、この里夕斎という号で良弘が登場し、その晩年の様子が描かれている。
良弘が文化的な活動に関心を持っていた可能性を示唆する記述も散見される。彼が山城国槇島城主であった頃、その所領は宇治に近く、茶の産地でもあったため茶所の税収が大きかったと言われる。また、同資料によれば、良弘の父祖は代々能楽と茶道を嗜み、良弘自身もそうした風雅を解したため、領民からの人気も高かったと伝えられている。
前述の里夕斎(良弘)が登場する記述 では、彼が能や茶道について語る場面や、自身の家宝として「つゝ井筒の高麗茶碗」と呼ばれる井戸茶碗を大切にしていたという話が描かれている。しかしながら、これらの記述、特にS16やS24に見られるエピソードは、物語的な要素を含む可能性があり、史実としての裏付けについては慎重な検討が必要である。
井戸良弘の通称の一つである「若狭守」や、その姓である「井戸」という名称と、高麗茶碗の一種である「井戸茶碗」との関連を指摘する声がある。ある資料では、井戸茶碗とその使い手であった若狭守(良弘を指すと考えられる)の逸話に触れ、その若狭守が奈良の井戸氏の人物であったことへの驚きが記されている。これは、井戸氏の発祥の地が結崎井戸村であることと関連付けての考察である。
しかしながら、井戸良弘と「井戸茶碗」の直接的な関連性、特に良弘が「井戸茶碗」の名称の由来となったか否かについては、確たる史料に乏しく、慎重な検討を要する。良弘の通称や名字の一致、そして彼が茶道に関心を持っていた可能性といった間接的な要素は存在するものの、「井戸茶碗」の名称の由来には諸説あり、特定の個人に帰せられるものではないとする見解が一般的である。例えば、「井戸」という地名(良弘の居城であった井戸城、あるいは朝鮮の特定の地名など)に由来するという説も存在する。したがって、提供された資料の中からは、井戸良弘が井戸茶碗の名称の由来である、あるいはその成立や名声に深く関与したと断定することは現時点では難しい。この点については、憶測を排し、あくまで可能性の指摘に留めるべきである。
歴史上、「井戸良弘」という名を持つ人物は複数存在する。その中でも特筆すべきは、江戸時代前期から中期にかけて活動した幕臣の井戸良弘である。この人物は寛永12年(1635年)に生まれ、享保2年(1717年)に没したと記録されている。書院番から身を起こし、先手弓頭(さきてゆみがしら)などを経て、元禄7年(1694年)から元禄15年(1702年)までの約8年間、勘定奉行という幕府の財政を司る重要な役職を務め、その後は留守居に昇進した。
さらに、本報告書で主に扱っている戦国武将・井戸良弘(天文2年生)の兄もまた、「良弘」を名乗り、通称を小殿之助(こどののすけ)といったとされている。
これらの同名の人物たちは、活躍した時代も分野も異なるため、その事績を混同しないよう細心の注意が必要である。特に、戦国武将の井戸良弘(1533年~1612年)と、江戸幕府の勘定奉行を務めた井戸良弘(1635年~1717年)は、親子や直接の系譜関係にある可能性も考えられるが(S26には「同名の子孫」との記述あり)、明確に別人として区別して理解することが歴史研究においては不可欠である。本報告書で対象としているのは、あくまで天文2年生まれ、慶長17年没の戦国武将であることを改めて強調しておく。このような同名異人の存在は、歴史上の人物を調査する際にしばしば見られる混同の要因であり、対象人物を正確に特定する上で常に留意すべき点である。
井戸良弘は、大和国の一国人から身を興し、筒井氏との姻戚関係を背景に頭角を現した。その後、織田信長、豊臣秀吉、そして細川忠興と、目まぐるしく変転する中央の権力者に仕えながら、戦国乱世から江戸時代初期に至る激動の時代を80年の長寿を全うして生き抜いた武将であった。
その生涯は、松永久秀との長年にわたる大和国での抗争、そこでの人質の娘を失うという悲劇、織田信長による山城国槇島城主への抜擢という栄誉、本能寺の変後の山崎の戦いにおける判断の難しさとそれに伴う一時的な失脚、そして関ヶ原の戦いにおける細川家への忠節と丹波国田辺城での最後の奉公など、浮き沈みの激しいものであった。
井戸良弘の生涯は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、中央の大きな権力変動の波に翻弄されつつも、それに巧みに適応し、あるいは時には抗いながら、自らの家と立場を維持し生き残りを図った中小規模の武士の典型的な姿を反映していると言える。特に、山崎の戦いにおける彼の動向は、当時の武将たちが直面した情報不足の中での選択の困難さと、その選択がもたらす結果の重大性を示す好例である。
また、井戸茶碗との直接的な関連については確証がないものの、能楽や茶道といった文化的な側面にも関心があった可能性が示唆される点は興味深く、武人としての側面だけでなく、当時の武将の教養の一端を垣間見せる。
井戸良弘に関しては、未だ不明な点も少なくない。特に、豊臣秀吉に再出仕した後、どのような経緯で細川忠興に仕えるに至ったのか、そしてその間どのような活動をしていたのかについては、具体的な史料が乏しく、今後の研究による解明が期待される。
また、井戸氏全体の系譜、特に良弘の子孫たちのその後の動向についても、より詳細な調査が望まれる。地方史の観点からは、井戸氏の本貫とされる結崎井戸村との具体的な関連性や、その地域における井戸氏の位置づけなどについて、文献史学だけでなく、考古学的調査なども含めた学際的なアプローチによる研究の進展が期待されるところである。これらの課題の解明は、井戸良弘という一人の武将の理解を深めるだけでなく、戦国時代から近世にかけての地方武士団の実像や、中央政権との関係性を明らかにする上で、重要な示唆を与えるものと考えられる。