最終更新日 2025-06-08

伊藤盛正

「伊藤盛正」の画像

伊藤盛正に関する調査報告

はじめに

本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活動した武将、伊藤盛正(いとう もりまさ)の生涯と事績について、現存する資料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。伊藤盛正は、通称を半九郎、彦兵衛といい、諱は盛宗(もりむね)、盛政(もりまさ)、後には利吉(としよし)を名乗った 1 。官位としては図書頭(ずしょのかみ)、長門守(ながとのかみ)が伝えられている 1 。美濃国大垣城主として関ヶ原の戦いに西軍の一員として参陣し、戦後は改易の憂き目に遭うも、後に加賀藩に仕え家名を再興した人物である。

伊藤盛正の生涯は、歴史の教科書に名を残すような「英雄」的なものではないかもしれない。しかし、彼の人生の軌跡は、戦国末期から江戸初期という激動の時代において、大大名ではない武士たちが、いかにして時代の荒波を乗り越えようとしたのか、その一端を示す好例と言えるだろう。本報告では、まず伊藤盛正の主要な経歴を以下の年表で概観する。

伊藤盛正 主要年表

和暦

西暦

出来事

関連人物・場所

主要典拠

慶長4年

1599年

父・伊藤盛景の死去に伴い家督を相続。美濃国大垣城主となる(3万4千石)。

伊藤盛景、大垣城

1

慶長5年8月

1600年9月頃

石田三成の要請により大垣城を西軍本営として明け渡し、自身は美濃国今村城へ退去。

石田三成、大垣城、今村城

1

慶長5年8月17日

1600年9月23日

東軍方の市橋長勝と交戦し敗北。

市橋長勝

1

慶長5年9月14日

1600年10月20日

石田三成の命により布陣していた松尾山城から、小早川秀秋によって追放される。

石田三成、小早川秀秋、松尾山城

1

慶長5年9月15日

1600年10月21日

関ヶ原の戦い本戦に参加。西軍敗北後、改易され浪人となる。

関ヶ原

1

慶長年間

1600年代初頭

京都に潜伏中、徳川家康に発見され処刑されそうになるも、福島正則の懇願により助命される。その後、福島正則の領地・広島にて約15年間過ごす。

徳川家康、福島正則、京都、広島

1

元和6年頃

1620年頃

加賀藩主・前田利常に仕える。禄高2000石を与えられ、伊藤図書頭利吉と改名。

前田利常、前田利家(父の縁)、加賀藩(金沢)

1

元和9年3月

1623年4月頃

死去。

石川県金沢市 松月寺(墓所)

1

この年表からも見て取れるように、伊藤盛正の生涯は、関ヶ原の戦いを境として大きく変動する。有力者の意向や時代の大きな流れに翻弄される場面が目立つ一方で、最終的には加賀藩で2000石という厚遇を得ており、単に流されただけの人物ではない側面も示唆される。このような「翻弄されつつも生き残る」という軌跡は、当時の多くの中小武士に共通するテーマであり、盛正をその具体例として捉えることで、より広い歴史的文脈の中に位置づけることができると考えられる。

第一章:伊藤盛正の出自と家系

伊藤盛正の生涯を理解する上で、まず彼の出自と家系、特に父・盛景の経歴や前田家との関係性は重要な意味を持つ。

第一節:父・伊藤盛景とその経歴

伊藤盛正の父は伊藤盛景(いとう もりかげ)である 1 。盛景は美濃国舟岡城主であった伊藤祐重(いとう すけしげ)の子として生まれたとされ、初名を祐盛(すけもり)といった 2 。一部の資料では盛正の父を「伊藤佑盛」(いとうすけもり)と記しているものもあるが 3 、盛景の初名が「祐盛」であることから、これらは同一人物を指している可能性が極めて高い。実際に、ある資料では「祐盛 → 盛景」という名の変遷が示されている 2

盛景は豊臣秀吉に仕え、その下で従五位下長門守に叙任されるなど、武将としてのキャリアを築いた 2 。天正18年(1590年)の小田原の役においては、秀吉本陣の前備衆の一つとして320人の兵を率いて従軍し、戦功を挙げたとされる 2 。この功績により、3万石に加増され、美濃国大垣城を与えられた 2 。大垣城は、その後の伊藤家にとって重要な拠点となる。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では、盛景は1,000人の兵を率いて肥前名護屋城に在陣したが、朝鮮半島へ渡海することはなかった 2 。文禄3年(1594年)には伏見城の普請工事に参加し、この功により4千石を加増され、知行は合計3万4千石となった 2 。順調に豊臣政権下での地位を固めていた盛景であったが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次切腹事件が発生すると、これに連座して叱責処罰を受けた 2 。この事件は多くの大名に影響を与えたが、盛景の処分が「叱責」程度であったことから、比較的軽微であったか、あるいはその後に赦免された可能性が考えられる。事実、盛正が家督を相続した際には父の石高をそのまま継承しており 1 、この事件による伊藤家の勢力低下は限定的であったか、あるいは回復していたと推測される。

慶長元年(1596年)には、盛景が大垣城に初めて三層(あるいは四層 3 )の天守閣を造立したと伝えられている 2 。そして慶長4年(1599年)、盛景は致仕して隠居し 2 、同年に死去した 1

盛景の経歴は、秀吉政権下で着実に立身し、一定の信頼を得ていたことを示している。特に注目すべきは、後の盛正が加賀前田家に仕える際に、「父・盛景と前田利家が織田信長の家臣時代、同じ馬廻衆だったことの縁」が理由として挙げられている点である 1 。この父の代に築かれた人脈、とりわけ前田家との繋がりは、子の盛正が関ヶ原の戦いで敗れた後に危機を乗り越え、再起の道を開く上で極めて重要な伏線となった。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、「縁」がいかに重要な役割を果たしたかを示す一例と言えよう。

第二節:美濃伊藤氏について(日向伊東氏との区別)

伊藤盛正・盛景親子は美濃国を拠点とした伊藤氏であり、日向国(現在の宮崎県)を本拠とした名族である日向伊東氏とは系統を異にする点に注意が必要である。日向伊東氏は工藤氏の末裔とされ、鎌倉時代以来の長い歴史を持つ名家である 5 。戦国時代には伊東義祐(いとう よしすけ)などが登場し、島津氏との間で南九州の覇権を巡り激しい抗争を繰り広げたことで知られている 5

一方、伊藤盛正の系統(美濃伊藤氏)に関する直接的な祖先の情報は、提供された資料からは限定的である。父・盛景が織田信長の馬廻衆であったという記述 1 から、信長に仕える以前から美濃国に基盤を持つ土豪であった可能性も考えられるが、これを断定するだけの情報は現時点では不足している。

日向伊東氏と美濃伊藤氏を区別することは、単に姓が同じであることによる混同を避けるためだけではない。両者は戦国武将としての格や歴史的背景、一族の規模が大きく異なる。日向伊東氏は全国的にも名の知れた大名であり、多くの史料や研究が存在するのに対し、美濃伊藤氏については、現存する資料の多くが盛景・盛正父子の時代に焦点を当てており、それ以前の系譜や一族の広がりについては不明な点が多い。この情報量の差は、両者の歴史的重要性や規模の違いを反映していると考えられる。したがって、伊藤盛正を論じる際には、著名な日向伊東氏のイメージに引きずられることなく、美濃の一武将としての実像を的確に捉える必要がある。

第三節:前田家との縁戚関係

伊藤盛正の家系を語る上で特筆すべきは、加賀藩主前田家との縁戚関係である。盛正の正室は、前田利家の養女であったと記録されている 1 。この縁組が成立した背景には、前述の通り、盛正の父・盛景が織田信長の家臣であった時代に、前田利家と同じ馬廻衆として仕えていたという旧縁があったとされる 1

この縁組が成立した正確な時期については、資料によって解釈の余地がある。もし関ヶ原の戦い以前のことであれば、盛正が豊臣政権下で一定の地位を保持していたことを背景とした政略的な縁組であった可能性が考えられる。一方で、ある創作物では、盛正が関ヶ原の戦後に加賀藩に招かれた後、前田利家の養女を娶ったと描かれており 7 、これが事実であれば、浪人状態からの再起にあたり、父の代からの前田家との旧縁が極めて重要な意味を持ったことになる。

いずれの時期であったにせよ、この前田家との縁戚関係は、伊藤盛正が関ヶ原の戦いで敗北し全てを失った後、最終的に加賀藩で2000石という厚遇を得て安定した地位を築く上で、決定的な要因の一つとなったことは間違いない。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武士の家が存続していく上で、有力大名との「縁」がいかに重要であったかを示す具体例と言えるだろう。

第二章:関ヶ原の戦い以前の伊藤盛正

父・盛景の築いた基盤を引き継いだ伊藤盛正は、関ヶ原の戦いという歴史の大きな転換点に、大垣城主として直面することになる。

第一節:家督相続と大垣城主就任

慶長4年(1599年)、父・伊藤盛景が死去(あるいは隠居)すると、盛正は家督を相続した 1 。これにより、美濃国大垣城主となり、父が有していた3万4千石の知行をそのまま継承した 1 。前述の通り、父・盛景は豊臣秀次事件に連座して叱責処分を受けていたが 2 、盛正が父の石高を減らされることなく継承できた点から、この事件が伊藤家の豊臣政権内での立場に与えた影響は限定的であったか、あるいは既に回復していたと見られる。しかし、一度「要注意」と見なされた可能性は否定できず、これが後の関ヶ原の戦いにおける盛正の微妙な立場、例えば石田三成からの大垣城明け渡し要求に対する初期の抵抗などに、何らかの影響を与えた可能性も考慮に入れる必要があるかもしれない。

第二節:当時の石高と立場

伊藤盛正が継承した3万4千石という石高は、当時の大名の中で突出して大きなものではないものの、国持大名ではないまでも、方面軍の一翼を担いうる一定の軍事力と発言力を有する規模であった。一部の資料では「弱小大名」と表現されているが 7 、これは10万石を超えるような大大名と比較した場合の相対的な評価であり、美濃国における有力な領主の一人であったことは間違いない。

さらに重要なのは、彼が城主であった大垣城の戦略的な位置である。大垣城は美濃路沿いの交通の要衝に位置し、名古屋と京阪方面を結ぶ結節点であった 8 。そのため、軍事戦略上も極めて重要な拠点と見なされており、関ヶ原の戦いが迫る中で、この城の存在が伊藤盛正の運命を大きく左右することになる 3 。すなわち、盛正個人の力量以上に、その所領の位置が彼を歴史の渦中へと引きずり込む直接的な原因となったと言えるだろう。

第三章:関ヶ原の戦いにおける伊藤盛正の動向

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、伊藤盛正の人生における最大の転換点となった。彼の動向は、西軍の戦略に大きく影響され、翻弄される様相を呈する。

第一節:西軍への参加経緯

関ヶ原の戦いにおいて、伊藤盛正は西軍に与したとされている 1 。しかし、一部の資料には「東軍と西軍とどちらに味方するか迷っていましたが」という記述が見られ 3 、当初は態度を明確にしていなかった可能性が示唆される。

盛正が最終的に西軍に与した具体的な理由については、資料からは断定できない。大垣城が西軍の勢力圏に近接していた地理的条件、石田三成ら西軍首脳からの直接的な圧力、あるいは父・盛景が豊臣秀吉に仕えていたことからくる豊臣家への旧恩などが複合的に作用した可能性が考えられる。しかし、前述の「迷っていた」という記述や、後述する大垣城明け渡し要求に対する「一旦は拒絶」といった行動 1 は、西軍への全面的なコミットメントにためらいがあったことをうかがわせる。この逡巡が、関ヶ原の戦いにおける彼の受動的な立場や、その後の運命に影響を与えた可能性は否定できない。

第二節:大垣城の明け渡しと石田三成の本営化

関ヶ原の戦端が開かれる直前、西軍を率いる石田三成は、伊藤盛正に対し、その居城である大垣城を西軍の本営として使用したいと要請した 1 。大垣城は関ヶ原に近く、濃尾平野における合戦の指揮所として最適の立地であったため、三成はこの城を戦略上の重要拠点と見なしていたのである 3

盛正は当初、この要請を一旦は拒絶したと伝えられている 1 。城主にとって居城を明け渡すことは、軍事指揮権の放棄に等しく、屈辱的な行為とも言える。この初期の抵抗は、盛正の城主としての矜持や、西軍への加担に対するためらいの現れであったかもしれない。しかし、石田三成率いる西軍主力の強い圧力を前に、3万4千石の盛正が単独で抵抗し続けることは現実的に困難であった。最終的に盛正は城を明け渡し、慶長5年8月10日(西暦1600年9月17日頃)、石田三成、小西行長らが大垣城に入城し、同城は西軍の本営となった 4 。この結果、盛正は自らの本拠地を失い、西軍の戦略の中に組み込まれる形で行動せざるを得なくなる。これが、後の松尾山への配置や、本戦での具体的な動向が不明瞭なことの一因となった可能性も考えられる。

第三節:今村城への退去と市橋長勝との戦闘

大垣城を西軍本営として明け渡した後、伊藤盛正は美濃国今村城(現在の岐阜県大垣市今村町周辺と推定されるが詳細は不明)に退去した 1 。この今村城への退去が、大垣城明け渡しの代償として新たな持ち場を与えられたものなのか、あるいは西軍の戦略の一環であったのかは、資料からは明らかではない。

その後、慶長5年8月17日(西暦1600年9月23日)、盛正は東軍に与した今尾城主・市橋長勝と交戦し、これに敗れたと記録されている 1 。市橋長勝は1万石程度の小大名であったが、この戦闘は関ヶ原の戦いの前哨戦の一つと位置づけられる。この敗戦が、盛正の軍事指揮官としての評価や兵力の消耗に繋がり、後の松尾山への配置転換や本戦での役割に影響を与えた可能性が考えられる。ある創作物では、この敗戦が彼の自信を大きく揺るがしたとユーモラスに描かれているが 7 、実際に彼の立場をさらに困難なものにしたことは想像に難くない。

第四節:松尾山城への布陣と小早川秀秋による追放

市橋長勝との戦闘に敗れた後、伊藤盛正は石田三成の命により、関ヶ原の戦場全体を見下ろすことができる戦略的要衝である松尾山城の改修と警備にあたった 4 。資料によれば、石田三成は当初、西軍の総大将として期待された毛利輝元をこの松尾山城に入れる構想を持っていたとされ、そのための準備を盛正に命じたと考えられている 10

しかし、関ヶ原合戦の前日である慶長5年9月14日(西暦1600年10月20日)、東軍への内応が噂されていた小早川秀秋が1万5千ともいわれる大軍を率いて松尾山に現れ、布陣していた伊藤盛正は城から追い出されてしまった 1 。この経緯は、『寛政重修諸家譜』の「稲葉家譜」に「伊藤長門守某(盛正のこと)を追い出した」と記されていると指摘されている 10

盛正が小早川秀秋の圧倒的な兵力を前にして抵抗することなく松尾山を明け渡した背景には、兵力差だけでなく、この時点では秀秋が名目上西軍に属しており、その行動の真意を測りかねたことや、西軍内部の指揮系統の混乱などが影響した可能性が考えられる。大垣城に続き、再び重要な持ち場を有力武将の都合で明け渡すことになった盛正は、戦局の主導権を完全に失い、その役割を脇役へと追いやられたと言えるだろう。この一連の出来事は、関ヶ原の戦いにおける彼の不運と、中小大名の悲哀を象徴している。

第五節:関ヶ原本戦への参加と敗走

松尾山を追われた伊藤盛正は、翌9月15日(西暦1600年10月21日)の関ヶ原の本戦に参加したとされている 1 。しかし、本戦における彼の具体的な布陣場所や戦闘の詳細は、多くの資料で不明瞭である。ある資料では「どこで何をしていたのかは分かっていない。資料に伊藤さんが出てこないからである」とまで記されている 7 。また、一部のブログ記事では「本戦では石田隊に入り」との記述も見られるが 4 、これが一次史料に基づくものかは定かではない。

本戦での具体的な行動が不明な理由としては、大垣城を明け渡し、市橋長勝に敗れ、さらに松尾山からも追われたことで、手勢が大幅に減少し、士気も低下していた可能性が考えられる。そのような状況では、西軍の主要な部隊に組み込まれることが難しかったか、あるいは寄せ集め的な部隊に属していたために詳細な記録が残らなかった可能性もある。この「記録のなさ」自体が、関ヶ原の戦いにおける彼の役割の限界を示唆しているのかもしれない。

最終的に西軍は敗北し、伊藤盛正もまた敗軍の将として改易され、大名としての地位と所領を全て失い、没落することとなった 1

第四章:関ヶ原の戦い以後の伊藤盛正

関ヶ原の戦いでの敗北は、伊藤盛正の人生を大きく変えた。大名の地位を失い、一時は死の淵をさまようも、旧縁や他者の助けによって再起の道を歩むことになる。

第一節:改易と浪人生活(京都潜伏)

関ヶ原の戦後処理において、西軍に与した伊藤盛正は改易され、大名の地位を失い浪人となった 1 。その後、彼は京都に潜伏して生活を送っていたと伝えられている 1 。敗軍の将が潜伏先として京都を選ぶのは、大都市の匿名性に紛れることができるため、当時としては一つの選択肢であった。

興味深いことに、一部の資料(主に創作物)では、大垣市の公式な市史には盛正が関ヶ原の笹尾山で戦死したと記されているものの、実際には生き延びて京都の空き家で潜伏生活を送っていた、という形でこの時期の状況が描かれている 7 。この記述は、史料間の情報の食い違いや、彼の生死に関する情報が錯綜していた可能性を示唆しており、彼の潜伏生活の困難さを物語っている。この潜伏期間は、彼にとって精神的にも経済的にも苦しい時期であったと想像される。

第二節:福島正則による助命と庇護(広島時代)

京都での潜伏生活を送っていた伊藤盛正であったが、ある時、徳川家康に発見され、処刑されそうになるという危機に直面する 1 。しかし、この窮地を救ったのが、豊臣恩顧の武断派大名であり、関ヶ原では東軍として活躍した福島正則であった。正則が家康に盛正の助命を懇願したことにより、盛正は一命を取り留めたのである 1

福島正則がなぜ敵方であった盛正の助命に動いたのか、その具体的な理由は明らかではない。盛正の父・盛景も豊臣家の家臣であったことから、その縁で面識があった可能性や、あるいは単に武士の情けとして行動した可能性などが考えられる。主要な史料には、両者の具体的な関係性を示す記述は見当たらない。

助命された盛正は、その後、福島正則の領地である安芸国広島(現在の広島県広島市)に移り、約15年間にわたり庇護のもとで滞在した 1 。この広島での15年間、彼がどのような立場で過ごしたのか、具体的な活動内容は不明であるが、おそらく客分のような形で遇されていたのであろう。ある創作物では「文官としてピッタリであった」と推測されているが 7 、確たる証拠はない。いずれにせよ、この期間は、彼にとって後の加賀藩仕官への雌伏の時となった。このエピソードは、戦国時代の武士の人間関係の複雑さ(敵味方に分かれても旧恩や個人的な繋がりが命運を左右することがあった)と、有力大名の庇護が失脚した武士の再起にとっていかに重要であったかを示している。

第三節:加賀藩への仕官(前田利常への臣従)

福島正則は元和5年(1619年)に幕府より改易を命じられ、その所領を失う。これにより、伊藤盛正は再び庇護者を失う危機に直面した。しかし、彼はこの危機を乗り越え、新たな道を見出す。元和6年(1620年)頃、盛正は加賀藩に移り、当時の藩主であった前田利常に仕えることになったのである 1

盛正が加賀藩を頼った背景には、彼の父・盛景と加賀藩祖・前田利家が、かつて織田信長の家臣時代に同じ馬廻衆であったという旧縁があった 1 。この父の代からの繋がりが、福島家改易という新たな困難に直面した盛正にとって、再起の鍵となった。この「縁」が具体的にどのように作用したのか、例えば旧臣を通じての嘆願があったのか等は不明であるが、当時の武家社会における人脈の重要性を改めて示す事例と言える。前田利常の時代、加賀藩は多くの浪人を召し抱えており、盛正もその一人として受け入れられた可能性が高い。

第四節:加賀藩での処遇と「利吉」への改名

加賀藩に仕官した伊藤盛正は、そこで厚遇された。禄高として2000石を与えられたと記録されている 1 。関ヶ原の戦い以前の3万4千石と比較すれば大幅な減知ではあるが、一度改易され浪人となった身からすれば、2000石という禄高は破格の待遇であり、加賀藩における上級家臣に匹敵するものであった。

さらに、盛正は前田家から「利」の字を授かり、名を伊藤図書頭利吉(いとう ずしょのかみ としよし)と改めた 1 。主君から諱の一字を拝領することは、家臣にとって非常な名誉であり、主君からの信頼と期待の表れである。盛正が「利吉」と名乗ったことは、彼が前田家への帰属意識を強く持ち、忠勤に励んだことを示唆している。

また、彼の正室として前田利家の養女を迎えているという記述もある 1 。この縁組の正確な時期については前述の通り検討の余地があるが、加賀藩での厚遇を示す一環と考えることができるだろう。これらの厚遇は、単に父の旧縁だけでなく、盛正自身の何らかの能力(例えば、ある創作物で推測されているような「領国経営の経験がある文官としての適性」 7 )や人柄が評価された可能性も示唆している。

第五節:晩年と死没、墓所

加賀藩に仕えてからの伊藤盛正(利吉)の活動期間は、残念ながら長くはなかった。元和9年(1623年)3月に死去したと伝えられている 1 。加賀藩に仕官してからわずか3年ほどのことであった。この短い期間に彼が加賀藩でどのような具体的な役割を果たしたのか、詳細な記録は乏しい。

しかし、彼が築いた基盤は、その子孫に引き継がれた。盛正の墓所は、石川県金沢市の松月寺にあるとされている 1 。そして、彼の直系の子孫は、石川県金沢市、小松市、加賀市に在住していると伝えられている 1 。これは、関ヶ原の敗北と改易という最大の危機を乗り越え、最終的に伊藤家が加賀の地で家名を再興し、安定した地位を確保できたことを物語っている。

第五章:伊藤盛正の人物像と評価

伊藤盛正がどのような人物であったのか、その評価は史料や後世の創作物によって多角的に捉えることができる。

第一節:史料に見る人物像

『寛政重修諸家譜』のような幕府編纂の公式な系譜集においては、関ヶ原の戦いにおける松尾山城の記述に関連して「伊藤長門守某」としてその名が見える 10 。これは彼の行動の一端を示す客観的な記録であるが、人物そのものへの評価は含まれていない。

また、加賀藩の史料においては、「伊藤利吉」として、伊勢の出身(これは誤伝か、あるいは別の系統の伊藤氏との混同の可能性もあるが、本稿で扱う盛正は美濃出身である)、父・盛景の経歴、関ヶ原での敗北と改易、福島正則による庇護、そして元和6年(1620年)に金沢に移り2千石を受けたことなどが淡々と記されている 11 。ここでも、彼の性格や能力を直接的に評価する記述は乏しく、客観的な経歴の記録が中心となっている。

全体として、一次史料に近い記録においては、伊藤盛正の個性や能力を具体的に描写する記述は少ないと言える。これは、彼が歴史の表舞台で常に目覚ましい活躍をしたわけではないことや、当時の史料が個人の内面描写よりも家系の存続や公式な事績の記録を重視する傾向にあったことなどが理由として考えられる。彼の人生は、出来事の連鎖として記録されることが多く、その行動から人物像を推し量るほかない部分が大きい。

第二節:後世の創作物における描かれ方(歴史的事実との区別を明記)

伊藤盛正の人物像は、後世の創作物、特にインターネット上で公開されている歴史小説『弱小モブ大名の伊藤さんが、うっかり歴史を動かしてしまう話』において、特徴的に描かれている 7 。これらの作品群において、盛正は「平凡でモテない男」「武功とも無縁の凡庸な人」「弱小大名」といった、いわゆる「モブキャラ(脇役)」的な属性を付与され、関ヶ原の戦いでは歴史の大きな流れに翻弄される存在として描写されている。

例えば、大垣市の市史では笹尾山で戦死したとされているという情報に触れつつ、実は生き延びて京都に潜伏し、「空き家を見つける才能」を発揮するといったユーモラスな創作も交えられている 7 。また、福島正則に助けられた後、広島で15年間を過ごし、その後、父の旧縁を頼って加賀藩に仕官。加賀藩では前田利家の養女を娶り、子供たちに恵まれて穏やかに亡くなった、という波乱万丈ながらも最終的には幸福な結末を迎える人物として描かれている 7

これらの描写は、あくまでフィクションであり、史実とは明確に区別して捉える必要がある。しかし、このような創作物が生まれる背景には、伊藤盛正の生涯に見られる「記録の隙間」や、大名からの転落と再起という「ドラマチックな浮沈」が、後世の人々の想像力を掻き立てる要素を含んでいるからかもしれない。特に、大垣城の明け渡しや松尾山からの追放といった史実上の出来事が、彼の主体性の欠如や不運を象徴するものとして解釈され、そこから「平凡な人物」というキャラクター造形がなされた可能性が考えられる。ただし、史実の盛正が本当に「平凡」であったかは断定できず、むしろ度重なる困難な状況を生き抜いた強かさや適応能力を持っていたと評価することも可能である。

第三節:総合的な評価と歴史的位置づけ

伊藤盛正は、戦国末期の動乱期において、大国の思惑や歴史の大きなうねりに翻弄された中小大名の一つの典型例と言えるだろう。美濃大垣城主として関ヶ原の戦いに巻き込まれ、一時は西軍の戦略上重要な役割を期待されながらも、結果的には戦局を左右するような主体的な行動を取ることはできなかった(あるいは、そのような状況に置かれなかった)。

しかしながら、関ヶ原での敗北、改易、そして浪人という危機的状況から、父祖の代からの「縁」や有力大名の庇護を巧みに頼りながら再起を果たし、最終的に加賀藩で2000石の知行を得て家名を存続させた点は、彼の処世術や生命力を示すものとして評価できる。彼の生涯は、個人の武勇や才覚だけが全てではなく、「家」の存続と人間関係における「縁」の重要性が際立っていた戦国時代から江戸時代初期への移行期を生きた武士の生き様を象徴していると言えよう。

歴史は著名な英雄や大事件だけで構成されるのではなく、伊藤盛正のような多くの「脇役」たちの存在によって成り立っている。彼の生涯は、華々しい成功物語ではないかもしれないが、困難な状況下での忍耐、人脈の活用、そして最終的な再起という点で、現代にも通じる普遍的な教訓を含んでいる可能性がある。一度全てを失ったかに見えても、過去の繋がりや僅かな可能性を手繰り寄せて道を切り開く姿は、逆境における人間の強靭さを示しているとも解釈できる。彼のような人物を詳細に研究することは、歴史の多層性・多様性を理解する上で不可欠である。

おわりに

伊藤盛正の生涯を概観すると、彼は関ヶ原の戦いという未曾有の動乱に翻弄されながらも、結果として巧みに生き延び、加賀藩士として家名を再興した武将であったと言える。その人生は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の過渡期を生きた一人の武士の姿を、等身大に映し出している。

彼の事績については、未だ不明な点も多く残されている。今後の研究においては、一次史料のさらなる発掘調査、特に『寛政重修諸家譜』における伊藤氏関連の記述の詳細な分析や、彼が過ごした京都潜伏期や広島時代の具体的な生活、そして加賀藩に仕えてからのわずかな期間における具体的な事績の調査などが進められることが望まれる。それにより、伊藤盛正という一人の武士の生涯が、より立体的に浮かび上がってくることが期待される。

引用文献

  1. 伊藤盛正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%9B%9B%E6%AD%A3
  2. 伊藤盛景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%9B%9B%E6%99%AF
  3. 大垣城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-castle/ogaki-castle/
  4. 大垣城主の明け渡し癖 | 人生の坂道へ再びGo! https://ameblo.jp/morichan55-41103/entry-12834190633.html
  5. 伊東祐兵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E5%85%B5
  6. 日向国 伊東義祐伝来の太刀 来国長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/48753/
  7. 弱小モブ大名の伊藤さんが、うっかり歴史を動かしてしまう話 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n6558kb/
  8. 大垣城 [1/2] 関ヶ原合戦直前まで西軍の拠点だった要衝の平城。 https://akiou.wordpress.com/2018/10/08/oogaki/
  9. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
  10. 散 策 マッ プ - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/download/file/20240826141552.pdf
  11. 第三章 家臣団の成立: 近世加賀藩と富山藩について http://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.html