16世紀初頭の東北地方、奥羽は静かなる変革の時代を迎えていた。京都における室町幕府の権威は応仁の乱以降、著しく衰退し、その影響は遠く奥羽の地にも及んでいた。幕府が奥州の統治機関として設置した奥州探題(大崎氏)や羽州探題(最上氏)は、もはや往時の権勢を失い、在地領主の一つへとその性格を変えつつあった 1 。この権力の空白は、伊達氏、蘆名氏、岩城氏、相馬氏といった有力な国人領主たちによる、熾烈な勢力拡大競争の時代の幕開けを意味していた 2 。
このような群雄割拠の状況下において、伊達稙宗(だて たねむね)の登場は、伊達家の歴史、ひいては奥羽の戦国史における一つの画期であった。稙宗以前の伊達氏は、多くの有力国人の一つに過ぎなかったが、父・尚宗の代から中央の室町将軍家との関係を深め、その地位を着実に向上させていた 2 。稙宗はこの流れを継承し、さらに加速させる。彼の治世は、伊達氏が南奥羽の一国人から、広域に影響を及ぼす戦国大名へと飛躍を遂げる重要な時代であった 4 。しかし、その急進的な拡大と中央集権化の政策は、同時に深刻な内部矛盾を生み出し、やがて自らの失脚を招くことになる。伊達稙宗の生涯は、戦国時代初期のダイナミズム、すなわち旧来の秩序が崩壊し新たな権力が形成される過程で、一人の傑出した武将が如何にして栄光を掴み、そしてその栄光ゆえに如何にして相克の渦に巻き込まれていったかを、鮮烈に物語っているのである。
伊達稙宗は、長享2年(1488年)、伊達家13代当主・伊達尚宗の嫡男として生を受けた 6 。幼名を次郎と称し、元服に際しては、当時の慣例に従い室町幕府11代将軍・足利義高(後の義澄)から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け、「高宗(たかむね)」と名乗った。これは、伊達氏が代々将軍家と密接な関係を築き、その権威を自らの家格向上に利用してきた伝統を示すものである 4 。永正11年(1514年)、父・尚宗の死去に伴い、高宗は27歳で伊達家14代当主の座を継いだ 6 。
稙宗の当主としての行動は、その初期から明確な戦略性に基づいていた。それは、単に父祖伝来の領地を維持するに留まらず、奥羽における既存の権威構造を実力で乗り越え、伊達氏をその頂点に立たせようとする野心的なものであった。家督相続と同年、彼は羽州探題であった最上義定を長谷堂城の戦いで軍事的に破るという大胆な行動に出る 6 。これは単なる領土紛争ではなく、幕府の権威を背景に持つ羽州探題への直接的な挑戦であり、伊達氏の武威を奥羽全域に誇示する狙いがあった。さらに、武力で屈服させた後、自らの妹を義定に嫁がせることで、最上氏を婚姻関係によって自らの影響下に組み込んだ 2 。武力と婚姻という二つの手段を巧みに組み合わせたこの手法は、彼の生涯を通じた拡大戦略の原型となるものであった。
加えて、稙宗は中央の権威を最大限に活用した。永正14年(1517年)、10代将軍・足利義稙の上洛祝賀を名目に多額の進物を献上し、管領・細川高国を介して将軍から再び偏諱を拝領する 6 。これにより、名を「高宗」から「稙宗」へと改めた。この一連の行動は、軍事行動で得た実利を、中央の権威によって追認させ、伊達氏の家格そのものを上昇させるという、計算され尽くした二段構えの戦略であった。稙宗は、武力、婚姻、そして中央権威の利用という三つの柱を、当主就任当初から巧みに連動させ、伊達家を新たなステージへと導くための布石を着実に打っていたのである。
伊達稙宗の覇権戦略は、武力による直接的な支配と、婚姻による間接的な影響力拡大という二つの車輪によって力強く推進された。
まず、羽州(現在の山形県・秋田県)における権威の象徴であった羽州探題・最上氏に対しては、断固たる武力行使で臨んだ。永正11年(1514年)の長谷堂城の戦いで最上義定を破り、妹を嫁がせることで一度は実質的な支配下に置いた 2 。しかし、永正17年(1520年)に義定が跡継ぎなく死去すると、伊達氏による過度な干渉を嫌った最上家の家臣団が反旗を翻す。これに対し稙宗は即座に軍事介入を行い、破竹の勢いで上山城、山形城などを次々と攻略し、最上郡および村山郡南部を完全に伊達氏の勢力圏に組み込んだ 6 。この強引ともいえる介入は、最上氏との間に長期にわたる遺恨を残し、後の輝宗・政宗の代に至るまで両家の対立の火種となった 2 。
一方で、稙宗は武力のみに頼ることなく、自身の多くの子女を巧みに利用した婚姻政策を展開した。14男7女ともいわれる子女たちを、南奥羽の有力大名家である相馬氏、蘆名氏、二階堂氏、田村氏、さらには奥州探題である大崎氏や葛西氏、家臣筋の亘理氏などに次々と嫁がせ、あるいは養子として送り込んだのである 2 。この血縁を基盤として幾重にも張り巡らされた同盟ネットワークは、伊達氏を中心とする一つの巨大な政治的権力構造を形成し、後に「洞(うつろ)」と呼ばれることになる。この手法は、名門意識が強く、古くからの因縁が複雑に絡み合う東北地方の政治風土において、大規模な武力衝突を避けながら勢力を拡大するための、極めて有効な戦略であった 5 。
子女 |
続柄 |
縁組先(家名・当主名) |
政治的・軍事的狙い(考察) |
典拠 |
屋形御前 |
長女 |
相馬顕胤(相馬氏) |
太平洋岸の有力大名との同盟強化。後の領地割譲問題の伏線となる。 |
6 |
女子 |
次女 |
蘆名盛氏(蘆名氏) |
会津地方の覇者との連携。南の脅威を抑え、西への影響力を確保する。 |
6 |
女子 |
― |
二階堂照行(二階堂氏) |
須賀川地方の有力国人を掌握し、蘆名氏・田村氏との緩衝地帯を確保。 |
7 |
女子 |
― |
田村隆顕(田村氏) |
蘆名氏と佐竹氏の中間に位置する重要勢力との同盟。伊達包囲網の形成を阻止。 |
7 |
女子 |
― |
懸田俊宗(懸田氏) |
伊達郡内の有力一族を掌握し、本拠地周辺の安定化を図る。 |
7 |
越河御前 |
女子 |
相馬義胤(相馬氏) |
相馬氏との二重の婚姻関係により、同盟をさらに強固なものとする。 |
7 |
大崎義宣 |
次男 |
大崎義直(大崎氏・養子) |
奥州探題大崎氏の内乱に介入し、その代償として養子を送り込み、探題職を事実上掌握。 |
6 |
伊達実元 |
三男 |
上杉定実(越後守護上杉氏・養子) |
越後守護家を継承し、日本海側への進出拠点と広大な領国を獲得する(後に天文の乱の原因となる)。 |
7 |
桑折宗貞 |
六男 |
桑折景長(桑折氏・養子) |
譜代の重臣である桑折氏との関係を強化し、家臣団の統制を図る。 |
7 |
葛西晴清 |
七男 |
葛西晴重(葛西氏・養子) |
三陸沿岸の有力大名・葛西氏を支配下に置き、東方の安定を図る。 |
7 |
梁川宗清 |
八男 |
(梁川氏を創設) |
伊達郡内の要衝・梁川を庶子に与え、直轄支配体制を強化する。 |
7 |
亘理元宗 |
十二男 |
亘理宗隆(亘理氏・養子) |
沿岸部の重要拠点である亘理郡を支配する家臣を、実子に継承させることで完全に掌握する。 |
7 |
この表が示すように、稙宗の婚姻・養子政策は、単なる友好関係の構築に留まらない。それは、南奥羽の地政学的な要衝を抑え、有力大名を伊達氏の権力構造に組み込み、さらには太平洋から日本海に至る広大な領国を構想する 10 、壮大な戦略の一環であった。
稙宗の野心は、奥羽の地だけに留まらなかった。彼は、自らの実力を絶対的な権威へと昇華させるため、京都の室町幕府との関係構築に心血を注いだ。
永正14年(1517年)、稙宗は10代将軍・足利義稙に対し、上洛祝賀の名目で馬や砂金など多額の進物を献上し、時の実力者である管領・細川高国を介して、将軍からの偏諱と任官を願い出た 6 。この働きかけは成功し、名を「稙宗」と改めると共に、「左京大夫」の官位に任じられた。この左京大夫という官位は、本来、奥州探題である大崎氏が代々世襲してきたものであった。それを伊達氏の当主が獲得したという事実は、伊達氏の実力がもはや大崎氏に比肩、あるいは凌駕したと、中央政権に公的に認めさせたことを意味する、画期的な出来事であった 3 。
稙宗の権威確立における頂点が、大永2年(1522年)の「陸奥守護」職への補任である 6 。奥州では、幕府の出先機関である探題が置かれていたことを理由に、他の多くの国で設置されていた守護職は存在しなかった。その前例のない役職に稙宗が任命されたことは、伊達氏が従来の「国人」という格式を完全に超え、幕府から公認された「大名」の地位を得たことを意味していた 1 。
しかし、この「陸奥守護」職補任の裏には、稙宗の野心と幕府の苦しい立場が交錯する、複雑な政治的駆け引きが存在した。稙宗が真に望んでいたのは、名実ともに奥州の最高権力者たる「奥州探題」の地位であったと考えられている 1 。これは、伝統的な権威である大崎氏から、その地位を完全に奪取することを意味した。一方で、室町幕府にとって、足利一門でもない伊達氏を探題に任命することは、幕府が築き上げてきた伝統的な秩序を自ら破壊する行為であり、到底容認できるものではなかった 6 。しかし、現実問題として、奥羽で圧倒的な実力を有する伊達氏の存在を無視することもできない。このジレンマを解決するために幕府がひねり出したのが、「陸奥守護」という新たなポストを創設して稙宗に与えるという「妙手」であった。これにより幕府は、探題職の伝統的権威を守りつつ、稙宗には「大名」という新たなステータスを与え、その功績と実力に報いることで彼を満足させようとしたのである 1 。
だが、この措置は稙宗を完全には満足させなかった。記録によれば、彼はこの任官後、一時的に幕府との関係を悪化させている 6 。この事実は、稙宗が求めていたものが単なる名誉や家格ではなく、奥州全域における排他的な軍事指揮権、すなわち探題が有する実質的な権能であったことを強く示唆している。彼の視線は、もはや幕府の権威の枠組みに従属することなく、それを巧みに利用しつつも、最終的には自らの実力による奥州統一へと向かっていたのである。
南奥羽に広大な勢力圏を築いた稙宗は、次なる段階として、その支配を確固たるものにするための領国経営の革新に着手した。天文元年(1532年)、彼は本拠地を伊達郡梁川城から、奥州街道に近く、出羽方面へのアクセスも良い桑折西山城へと移転させ、統治体制の強化を本格化させる 6 。
稙宗はまず、領国の財政・軍事基盤の強化に取り組んだ。天文2年(1533年)には質屋に関する法令である『蔵方之掟』13条を制定 6 。続いて天文4年(1535年)には家屋税の台帳である『棟役日記』、天文7年(1538年)には田畑への課税台帳である『御段銭帳』を次々と作成した 6 。これらの一連の政策は、領内の経済状況を詳細に把握し、大名による直接的かつ安定的な徴税システムを確立しようとする、極めて先進的な試みであった。
そして、稙宗の領国経営における最大の成果が、天文5年(1536年)4月14日に制定された分国法『塵芥集(じんかいしゅう)』である 6 。全171条にも及ぶこの法典は、現存する戦国時代の分国法の中で最大規模を誇る 12 。その名は、日常の些細な事柄(塵や芥)に至るまで、あらゆる問題を網羅した法典であるという自負、あるいは謙譲から名付けられたとされる 12 。その体裁は、武家法の基本法典である『御成敗式目』に倣い、巻末に家臣の起請文を置く構成をとっている 16 。しかし、その内容は伊達領国の実情に即した独自性の強いもので、特に殺人や強盗といった刑事法規が全体の約3分の1を占め、他の分国法と比較して極めて詳細な規定を設けている点が大きな特徴である 18 。また、地頭(在地領主)の支配権を広く認める一方で、中世以来の慣習であった「喧嘩両成敗」とは異なる判断基準を示したり、自力救済(私的な実力行使)を一部認めつつも大名の許可制とするなど、領国内の紛争解決に大名が積極的に介入しようとする姿勢が随所に見られる 20 。
この『塵芥集』は、伊達氏を旧来の国人領主連合の盟主から、領国を一元的に支配する近代的な戦国大名へと脱皮させるための、革新的な統治ツールであった。稙宗は、この法典や各種台帳の整備を通じて、それまで家臣や在地領主たちが個別に有していた裁判権や徴税権といった権限を、大名である自身のもとへ集約しようと試みたのである 11 。しかし、この急進的な中央集権化政策は、同時に深刻な摩擦の源泉ともなった。独立性の高い領主としての側面も持つ譜代の家臣たちにとって、稙宗の政策は自らの伝統的な権益を根底から覆すものであった 5 。
一部の研究で指摘される『塵芥集』の「杜撰さ」や「中学校の校則以下の些末な規則」 12 、例えば「路地の家の垣根を壊して松明にしてはならない」 23 といった条文の存在は、法典としての未熟さを示すというよりは、むしろ稙宗が法律の専門家ではないながらも、領内で現実に起きている具体的な問題に直接介入し、慣習法に代わる「大名の法」を領国の隅々にまで浸透させようとした、彼の強烈な意志の表れと解釈すべきであろう。この「生々しさ」とトップダウンの姿勢こそが、旧来の秩序を重んじる家臣たちの反発を招いた。したがって、『塵芥集』の制定に代表される稙宗の革新的な統治政策は、皮肉にも家臣団との間に埋めがたい溝を生み、来るべき大乱の遠因となったのである。『塵芥集』は単なる法典ではなく、稙宗の政治思想そのものであり、彼の成功と失敗の両面を象徴する、極めて重要な史料と言える。
稙宗が築き上げた伊達家の栄華は、その拡大政策の歪みと、それによって引き起こされた家中の深刻な不満によって、脆くも崩れ去ることになる。その亀裂が表面化したのが、南奥羽全域を6年間にわたって戦乱に巻き込んだ「天文の乱」であった。
対立の直接的な引き金となったのは、二つの外交政策であった。一つは、稙宗の三男・時宗丸(後の実元)を、子のない越後守護・上杉定実の養子として送り込む計画である 9 。この計画自体は伊達家の勢力を日本海側にまで拡大する壮大なものであったが、問題はその付帯条件にあった。稙宗は、実元に伊達家中の精鋭家臣100騎を付けて越後へ送ろうとしたのである。これに対し、嫡男の晴宗や譜代の家臣たちは、伊達家の軍事力が骨抜きにされ、弱体化することを恐れて猛反発した 24 。この養子縁組は、既に越後国内でも推進派の中条藤資と、伊達氏の介入を警戒する本庄房長ら揚北衆の多くが対立する紛争の火種となっており、稙宗の計画はそれに油を注ぐ形となった 13 。
もう一つは、稙宗が婿である相馬顕胤に対し、かつて伊達領に組み込まれていた相馬氏の旧領の一部を還付しようとした計画である 9 。この案は、譜代家臣の犠牲の上に、婚姻によって新たに取り込んだ姻戚勢力を優遇する政策と見なされ、晴宗をはじめとする家臣団の強い反感を買った。
天文11年(1542年)6月、積もり積もった不満はついに爆発する。晴宗は、中野宗時や桑折景長といった譜代の重臣たちと共謀し、鷹狩りの帰途にあった父・稙宗を襲撃、その居城である桑折西山城に幽閉するというクーデターを敢行した 9 。しかし、稙宗はほどなくして忠臣の小梁川宗朝らによって救出され、娘婿の懸田俊宗が守る懸田城へと逃れた 9 。ここにきて父子の和解は不可能となり、稙宗は自らが築き上げた婚姻同盟ネットワークを駆使して奥羽諸侯を糾合し、晴宗との全面対決の構えを見せた。こうして、伊達家の内紛は、南奥羽全域を巻き込む6年間の大乱へと発展したのである 13 。
天文の乱における対立構造は、稙宗が築いた外部の姻戚ネットワークと、伊達家内部の伝統的な権力基盤である譜代家臣団との衝突という側面を色濃く持っていた。
陣営 |
主要武将・大名 |
分類 |
参戦動機(考察) |
典拠 |
稙宗方 |
相馬顕胤、田村隆顕、蘆名盛氏、二階堂照行、懸田俊宗 |
姻戚(婿) |
婚姻関係に基づく利害の一致。稙宗の拡大政策による恩恵を期待。 |
24 |
|
大崎義宣、葛西晴清、亘理元宗 |
姻戚(子) |
父である当主への忠誠。養子先での地位安定のため伊達本家の支援を必要とした。 |
6 |
|
最上義守、畠山義氏、石川晴光 |
その他大名 |
稙宗との既存の同盟関係や、伊達家の正統な当主である稙宗を支持。 |
13 |
|
小梁川宗朝 |
譜代家臣 |
稙宗個人への強い忠誠心。稙宗の集権化政策を支持。 |
13 |
晴宗方 |
中野宗時、桑折景長、牧野宗興 |
譜代家臣 |
稙宗の急進的な集権化政策への反発。家臣団の伝統的な権益の保持。 |
9 |
|
岩城重隆 |
姻戚(晴宗の岳父) |
娘婿である晴宗を支援。稙宗の拡大路線への警戒感。 |
13 |
|
留守景宗 |
姻戚(稙宗の弟) |
兄・稙宗の政策への個人的な不満や、晴宗方への同調。 |
9 |
|
大崎義直、白石宗綱、本宮宗頼 |
その他大名・国人 |
稙宗の支配からの自立、あるいは晴宗を支持することでの勢力拡大を企図。 |
9 |
この表が示すように、乱の構図は単純な父子喧嘩ではなく、稙宗の統治手法が生み出した「新興姻戚勢力 対 伝統的譜代家臣団」という構造的矛盾が噴出した、極めて政治的な内乱であったことがわかる。
乱の序盤は、広範な同盟網を持つ稙宗方が優勢に戦を進めた 9 。しかし、天文16年(1547年)、戦局を決定的に変える事件が起こる。稙宗方に与していた会津の蘆名盛氏が、同じく稙宗方であった三春の田村隆顕との間で領地を巡る対立を起こし、これをきっかけに晴宗方へと寝返ったのである 9 。南奥羽の有力大名である蘆名氏の離反はドミノ倒しのように他の勢力の寝返りを誘発し、戦況は一気に晴宗方優位へと傾いた 9 。
長期化する戦乱に終止符を打ったのは、京都の室町幕府であった。天文17年(1548年)、13代将軍・足利義輝(当時は義藤)が停戦命令を発し、これを受けて両者は和睦に至った 9 。
和睦の結果、稙宗は家督を晴宗に譲って隠居することとなり、乱は晴宗方の勝利で幕を閉じた。しかし、この6年間に及ぶ内乱が伊達家と南奥羽に残した傷跡は深かった。
第一に、伊達家の勢力は著しく衰退した 29 。国力を疲弊させただけでなく、乱に介入した相馬氏、蘆名氏、最上氏といった大名たちは伊達家に対する発言力を強め、事実上の従属関係から脱して自立を強めた 11 。稙宗が心血を注いで築き上げた広域支配体制「洞」は、ここに崩壊したのである。
第二に、伊達家内部の権力構造が大きく変化した。乱に勝利した晴宗は、論功行賞として中野宗時ら功績のあった家臣たちに、守護不入(大名の役人が立ち入れない)といった大きな特権を与えざるを得なかった 11 。これにより、大名当主の権力が相対的に弱まり、有力家臣が大きな力を持つという、稙宗が目指した方向とは逆行する状態が生まれた。このいびつな権力構造の是正は、次代の当主・輝宗の大きな課題として残された 11 。
第三に、伊達氏の権力の中心地が、発祥の地である伊達郡から離れる契機となった。乱後、晴宗は本拠地を桑折西山城から出羽国米沢城へと移し、ここが後の政宗の代まで伊達氏の拠点となった 9 。天文の乱は、伊達稙宗個人の悲劇に留まらず、その後の伊達家の進路を決定づける、重大な転換点だったのである。
天文の乱の和睦条件に基づき、伊達稙宗は家督を嫡男・晴宗に譲り、政治の表舞台から退いた。彼の隠居地となったのは、伊具郡(現在の宮城県丸森町)の丸森城(丸山城とも呼ばれる)であった 7 。乱では敵対したものの、娘婿である相馬氏の庇護を受けながら、稙宗はこの地で17年間にわたる穏やかな、あるいは屈辱の余生を送ったとされる 36 。そして永禄8年(1565年)6月19日、波乱に満ちた生涯を丸森城で閉じた。享年78 7 。その遺骸は、自らが開基となった福島市の陽林寺に葬られたと伝えられ、丸森城址にも墓碑が残されている 7 。
稙宗は、冷徹な戦略家、野心的な武将という側面だけでなく、和歌を嗜む文化人としての一面も持ち合わせていた 41 。彼の行った中央政権への積極的な働きかけや、洗練された外交戦略の背景には、京の文化に対する深い理解や憧憬があったと推測される 4 。
伊達稙宗という人物に対する歴史的評価は、その功績と罪過の両面から、二つに大別される。
一方では、「伊達家発展の礎を築いた名君」としての評価がある。巧みな婚姻政策と中央権威の利用によって伊達家の勢力を飛躍的に拡大させ 2 、分国法『塵芥集』の制定に代表されるように、戦国大名としての新たな統治体制の基礎を築いた 4 。これらの功績がなければ、曾孫である伊達政宗の後の活躍もなかったであろう、という見方である 4 。
しかし、もう一方では、「伊達家を分裂させ、衰退させた元凶」という厳しい評価も存在する。あまりに急進的であった中央集権化政策と、姻戚を優遇し譜代家臣を軽んじたと受け取られかねない外交政策は、家中に深刻な対立を生み、結果として伊達家の国力を大きく後退させる天文の乱を引き起こした張本人である、という評価である 5 。
総合的に見れば、伊達稙宗は、時代の変化を鋭敏に捉え、伊達氏を旧来の国人領主という枠組みから脱皮させようとした「早すぎた天才」であったと言えるかもしれない 5 。彼は、戦国大名として領国を一元的に支配するという、当時としては先進的なビジョンを持っていた。しかし、その手法の急進性が、伝統的な権力構造や家臣団の意識との間に埋めがたい溝を生み、自らが描いた壮大な構想を自らの手で頓挫させるという悲劇を招いた。彼の栄光と挫折に満ちた生涯は、まさに戦国という変革期における大名の野心と苦悩を凝縮している。
伊達稙宗の生涯は、栄華の頂点から内乱による失脚へと至る、劇的なものであった。彼が一代で築き上げた南奥羽の広域支配ネットワーク「洞」は、天文の乱によって一度は瓦解した。しかし、彼が伊達家にもたらした遺産は、決して失われたわけではなかった。
第一に、稙宗が確立した「伊達氏は南奥羽の覇者たるべし」という高い家格意識と、中央政権や周辺大名との間に築いた多様な外交チャンネルは、無形の財産として次代の輝宗、そして曾孫の政宗へと受け継がれた。伊達家が天文の乱後の混乱から立ち直り、再び勢力を拡大していく過程において、この稙宗が築いた基盤が大きな役割を果たしたことは間違いない。
第二に、天文の乱という痛恨の失敗そのものが、皮肉にも伊達家の権力構造をより強固なものへと発展させる教訓となった。乱に勝利した晴宗は、功臣たちの権力増大を認め、家臣団との融和を重視せざるを得なかった。その揺り戻しとして、次代の輝宗は、増長した重臣(中野宗時など)を排除し、強力な当主権の確立を目指すことになる 11 。この父(晴宗)と祖父(稙宗)の相克の歴史こそが、政宗の代における巧みで老練な家臣団統制術の背景を形成したのである。
最終的に、伊達稙宗は、伊達家を中世的な国人領主から近世的な戦国大名へと飛躍させた偉大な改革者であると同時に、その野心と急進性が自らの失脚を招いた悲劇の人物であった。彼の功績と罪過、その両面を深く理解することこそが、「独眼竜」伊達政宗へと至る伊達家の壮大な歴史を、より立体的に把握するための鍵となるであろう。