本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将、佃十成(つくだ かずなり)の生涯について、現存する史料、後世の編纂物、そして近年の考古学的知見を統合し、その実像を多角的に解明することを目的とする。佃十成は、賤ヶ岳の七本槍の一人として名高い加藤嘉明の筆頭家老として、特に主君の伊予松山藩時代に絶大な権勢を誇った人物である。
一般に彼は、関ヶ原の戦いの折、主君の留守を預かり、伊予に侵攻した毛利の大軍を寡兵で打ち破った「三津浜夜襲」の英雄として知られ、その功績によって松山城の要衝「佃郭」を与えられた猛将として記憶されている 1 。しかし、この勇猛果敢な武人という側面は、彼の生涯の一面に過ぎない。本報告書では、その輝かしい武功の裏に隠された、為政者としての苛烈な一面や、その栄華と失脚の背景にある人間関係の機微、さらには主家の盛衰と運命を共にした一族の軌跡までを徹底的に追跡する。
具体的には、清和源氏の名門・岩松氏としての出自から、故あって徳川家を離れ、加藤嘉明に仕えるまでの流転の青年期、文禄・慶長の役や三津浜夜襲で見せた武将としての頂点、そして松山藩筆頭家老としての栄華と、その権勢の源泉となった知行地・久万山における圧政と、それに続く失脚の全容を明らかにする。主要な典拠として、江戸時代に編纂された松山藩の史書『松山叢談』や、十成自身の武功を記したとされる『佃十成覚書』、さらには『愛媛県史』や『久万高原町史』といった公的史書、松山城跡の発掘調査報告書などを横断的に分析し、散逸した記録の断片を繋ぎ合わせることで、一人の武将が戦国乱世から泰平の世へと移行する時代をいかに生き、後世に何を残したのかを深く考察するものである。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
天文22年3月15日 |
1553年4月27日 |
1歳 |
三河国加茂郡猿投郷にて、岩松直成の子として誕生 1 。 |
天正13年 |
1585年 |
33歳 |
徳川家臣時代、同輩との諍いで相手を討ち、出奔。摂津国佃村に蟄居 2 。 |
天正14年 |
1586年 |
34歳 |
加藤嘉明に仕官する 2 。 |
慶長2年 |
1597年 |
45歳 |
文禄・慶長の役、「唐島の戦い」で武功を立てる 5 。 |
慶長5年9月18日 |
1600年10月24日 |
48歳 |
関ヶ原の戦いの裏で、「三津浜夜襲」を指揮し、毛利勢を撃退 6 。 |
慶長5年 |
1600年 |
48歳 |
戦功により、伊予国浮穴郡久万山に6千石の知行を与えられる 1 。 |
慶長8年 |
1603年 |
51歳 |
松山城の北郭(佃郭)を拝領。久万山の三島神社を再建 1 。 |
元和元年 |
1615年 |
63歳 |
大坂夏の陣に従軍。久万山の庄屋・土居、船草らに命を救われる 9 。 |
寛永3年2月 |
1626年3月 |
74歳 |
久万山の庄屋らによる直訴を受け、圧政を理由に隠居させられる 10 。 |
寛永4年 |
1627年 |
75歳 |
主君・加藤嘉明の会津転封に従い、会津へ移住。隠居料1万石を与えられる 4 。 |
寛永11年3月2日 |
1634年3月30日 |
82歳 |
会津にて死去 2 。墓所は松山市の不論院 4 。 |
佃十成は、天文22年(1553年)3月15日、三河国西加茂郡猿投郷(現在の愛媛県豊田市猿投町)に生まれた 1 。彼の本姓は岩松氏といい、その出自は清和源氏足利氏の嫡流に連なる名門であった 4 。『本朝武家高名記』によれば、その祖は足利左馬頭義兼の三男・蔵人佐時兼が上野国新田郡岩松郷に住んだことに始まり、代々岩松氏を称したとされる 12 。十成の父は岩松右衛門尉直成といい、上野国から摂津国を経て、三河国に移り住んだと伝えられている 4 。幼名を三十郎、通称を次郎兵衛と称した十成は、戦国の世に武士として生を受けるにあたり、血筋の上では申し分のない背景を持っていたといえる。
成長した十成は、はじめ織田信長に、次いで徳川家康に仕え、その武勇によって名を馳せた 2 。しかし、彼の青年期は順風満帆ではなかった。天正13年(1585年)、十成は同輩の武士と戦功を巡って激しく対立し、ついに相手を斬り殺してしまう事件を起こす 1 。この結果、彼は徳川家を出奔せざるを得なくなり、仕官の道を絶たれ流浪の身となった。
この後、彼は摂津国西成郡佃郷(現在の大阪市西淀川区佃)に蟄居する 1 。この地で彼は、自らの姓を名門「岩松」から、蟄居先の地名である「佃」へと改めた 1 。武士にとって家名や出自は自らの存在を規定する極めて重要な要素であり、それを捨て去るという行為は、過去との完全な決別を意味する。人生の逆境の地であった「佃」を新たな姓として名乗り、後に加藤家で大身となった後も岩松姓に戻らなかった事実からは、過去の栄光に頼らず、自らの力のみで再起するという十成の並々ならぬ決意と、新たな自己を確立しようとする強い意志がうかがえる。この「佃」という姓は、彼の生涯を貫くアイデンティティの象徴となり、後の栄華の頂点において、松山城の要衝にその名を冠した「佃郭」として結実することになる。
佃村での蟄居生活を送っていた十成に転機が訪れたのは、天正14年(1586年)のことである 2 。当時、羽柴秀吉の配下で頭角を現しつつあった武将・加藤嘉明が、十成の武勇の噂を聞きつけ、彼を家臣として招聘したのである 4 。嘉明に見出された十成は、その期待に応えるように、九州平定や小田原征伐といった豊臣政権の統一事業に従軍し、数々の武功を立てていった 4 。
十成の武勇が特に際立ったのは、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においてであった。慶長2年(1597年)の朝鮮再征における「唐島の戦い」での彼の奮戦ぶりは、『佃十成覚書』に壮絶な記録として残されている 5 。十成は諸将に先駆けて敵の番船に乗り込もうとした際、敵兵に槍で口中を突かれるという重傷を負う。しかし彼は全く怯むことなく、さらに敵兵が振り下ろした鉄棒で兜の真正面を強打され、海中へと転落した。万事休すかと思われたその時、従者の熊谷覚兵衛が差し出した長柄杓に掴まって泳ぎ上がり、再び二人で敵船に乗り込むと、船内の兵をことごとく討ち取ったという 5 。この逸話は、十成が尋常ならざる剛勇と不屈の精神を併せ持った武人であったことを雄弁に物語っている。
この朝鮮での戦役は、十成の私生活にも大きな転機をもたらした。伊予の地誌『松山叢談』によると、十成は朝鮮の役で敵の城を攻略した際に、その城将の娘である高氏(こうし)という女性を捕虜にした 4 。戦後、主君・嘉明の命令により、十成はこの高氏を妻として迎えることになったのである 4 。この国際結婚は、単なる戦利品としての意味合いだけでなく、敵国の情報を得ようとする嘉明の政略的な意図があった可能性も否定できない。しかし、『松山叢談』は十成が彼女を「非常に愛した」と記しており、政略を超えた夫婦としての情愛が存在したことを示唆している 4 。高氏は寛永10年(1670年)に91歳という長寿を全うし、彼女に付き従ってきた老女や小犬までもが佃家で家族同然に大切にされたという伝承は、後に冷酷な為政者としての一面を見せる十成の、情の深い人間性を垣間見せる貴重な記録といえる 4 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、主君・加藤嘉明は徳川家康率いる東軍の先鋒として会津の上杉景勝討伐に従軍し、その後、関ヶ原での本戦にも参加するため、本拠地である伊予国正木城(松前城)を留守にした 1 。この好機を捉えたのが、西軍の総大将・毛利輝元であった。輝元は、かつて伊予を支配していた河野氏の旧臣や、豊臣秀吉の海賊停止令によって活躍の場を失っていた村上水軍の当主・村上元吉(村上武吉の嫡男)らを支援し、伊予への大規模な侵攻作戦を開始した 1 。
毛利勢と伊予の在地勢力からなる連合軍は、同年9月17日、松前城の目と鼻の先である三津浜(現在の松山市古三津)に上陸し、刈屋口一帯に陣を敷いた 7 。その兵力は2万5千人ともいわれ、留守居の加藤勢とは比較にならない大軍であった 4 。伊予の命運は、風前の灯火であった。
この国家存亡の危機に際し、松前城の守りを託されていたのが佃十成であった。彼は当初、主君に従って関ヶ原で戦うことを熱望したが、嘉明は十成の武略を高く評価し、伊予の守りを固く命じていた 5 。十成は、圧倒的な兵力差を覆すため、正面からの衝突を避け、緻密な謀略を巡らせた。
まず、彼は自らが重病であるとの偽情報を流し、敵の警戒心を解いた 7 。さらに、近隣の百姓たちに酒や肴を持たせて毛利軍の陣営を訪れさせ、あたかも加藤家の支配に不満を持つ領民が毛利の来襲を歓迎しているかのように見せかけた 7 。この巧妙な偽装工作に、毛利方の将・宍戸景世らはすっかり油断したという 7 。
そして慶長5年9月18日の未明、十成は満を持して行動を開始する。油断しきって三津の民家に散宿していた毛利勢に対し、精鋭の寡兵を率いて夜襲を敢行。同時に周辺に火を放って大混乱を引き起こし、不意を突かれた大軍を一方的に蹂躙した 7 。この戦いは「三津浜夜襲」または「刈屋口の戦い」と呼ばれ、伊予における関ヶ原の戦いとも称される激戦となった 7 。
この夜襲により、毛利連合軍は壊滅的な打撃を受けた。総大将格であった村上元吉をはじめ、曽根景房といった有力武将が次々と討ち死にし、軍は統制を失って敗走した 7 。十成の知略と武勇は、伊予における西軍の勢力を一掃し、東軍の勝利を決定づけたのである。この戦功は、関ヶ原の本戦における嘉明の働きと並び称され、戦後、加藤家が伊予20万石の大名へと躍進する極めて重要な礎となった 6 。
陣営 |
所属/身分 |
氏名 |
役職/動向 |
東軍(加藤方) |
加藤家筆頭家老 |
佃 十成 |
松前城留守居役の総大将。謀略と夜襲を駆使し、寡兵で大軍を撃破する。 |
東軍(加藤方) |
加藤嘉明の弟 |
加藤 忠明 |
留守居役として十成と共に松前城を守備する 13 。 |
東軍(加藤方) |
加藤家家臣 |
足立 重信 |
留守居役として十成を補佐する 15 。 |
西軍(毛利方) |
毛利家臣 |
宍戸 景好 |
毛利侵攻軍の指揮官の一人。十成の謀略に陥り油断する 7 。 |
西軍(毛利方) |
村上水軍当主 |
村上 元吉 |
侵攻軍の主力部隊を率いるが、この戦いで十成に討ち取られる 1 。 |
西軍(毛利方) |
河野家旧臣 |
平岡 直房 |
毛利勢に呼応して蜂起するが、敗走する 7 。 |
三津浜夜襲における比類なき戦功により、佃十成の評価は加藤家中で不動のものとなった。関ヶ原の戦後、主君・加藤嘉明が伊予20万石の大名となると、十成はその功績を賞され、伊予国浮穴郡久万山(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町一帯)に6,000石という破格の知行を与えられた 1 。これは、他の家臣が蔵米取であったのに対し、加藤家臣団で唯一、土地そのものを支配する地方知行であり、十成が家中でいかに特別な存在であったかを物語っている 5 。
さらに、慶長7年(1602年)から嘉明が築城を開始した松山城が慶長8年(1603年)にある程度の完成を見ると、十成は城の北側に位置する最も重要かつ堅固な一郭を邸宅として与えられた 1 。この郭は彼の名を冠して「佃郭(つくだくるわ)」、あるいはその石垣の高さから俗に「高石垣」と呼ばれ、五つの高櫓を備えた要害であった 1 。近年の松山城跡の発掘調査では、この「松山城北郭遺跡」において近世の石垣の一部が検出されており、文献記録の信憑性を考古学的にも裏付けている 17 。これらの調査成果は、奈良文化財研究所が運営する「全国遺跡報告総覧」を通じて公開されており、誰でもその詳細を確認することができる 18 。
筆頭家老として絶大な権勢を握った十成の暮らしは、非常に豪奢なものであった。佃郭の本邸に加え、城下の清水に中屋敷、山越に下屋敷を構え、その壮麗さは当時の俗謡に「さても見事な次郎兵衛様の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と歌われるほどであった 4 。この歌の流布は、彼の存在が武家社会だけでなく、広く民衆の記憶にまで浸透していたことを示している。
こうした権勢の誇示は、単なる私的な贅沢に留まらなかった。彼は自らの権威を知行地に示すため、文化的・宗教的なパトロンとしても振る舞った。その代表例が、慶長8年(1603年)に行った久万山・三島神社の大規模な再建である 8 。この時再建された拝殿は、桃山時代の豪壮な建築様式を今に伝える貴重な遺構として、愛媛県の有形文化財に指定されている 23 。知行地の中心的な社寺を庇護下に置くことは、在地社会の心を掌握し、支配を円滑に進めるための常套手段であった。十成が築いた壮麗な屋敷群や、彼が再建した神社の存在は、松山藩初期における加藤家の権力構造と、その中で十成が占めていた卓越した地位を可視化する、まさに政治的なパフォーマンスであったといえる。
戦場での武功により栄華を極めた佃十成であったが、為政者としての彼は全く異なる顔を持っていた。知行地である久万山において、彼は過酷な支配者として君臨したのである。史料によれば、十成は年貢の取り立てを厳しくし、さらに松山に構えた自らの屋敷の建設や維持のために、久万山の農民たちに連日のように過酷な人夫役を課した 9 。戦国の猛将は、泰平の世における領民の暮らしを顧みることなく、自らの私腹を肥やすことに専心したのである。
久万山の農民たちの不満を決定的に爆発させたのは、十成の人間性を疑わせる一つの裏切り行為であった。元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、加藤軍の指揮官として出陣した十成は、長柄川の戦いで敵に追われ川に転落し、生命の危機に瀕した 9 。この時、決死の覚悟で彼を救い出したのが、彼の配下として従軍していた久万山の庄屋、土居三郎右衛門と船草次郎右衛門であった 9 。
命を救われた十成は、その場で二人に深く感謝し、「この恩は必ず報いる」と固く約束したという 9 。しかし、戦が終わり伊予に帰国すると、その約束は反故にされた。それどころか、十成は命の恩人である二人が住む久万山で、前述のような圧政を推し進めたのである 10 。この恩を仇で返すような仕打ちは、久万山の人々の心に、領主に対する深い不信と憤激の念を植え付けた。
寛永3年(1626年)2月、十成の圧政に耐えかねた久万山の庄屋たちは、ついに決起する。彼らは、かつて十成の命を救った土居三郎右衛門と船草次郎右衛門を代表者として、藩主・加藤嘉明に対し、支配者の更迭を求める前代未聞の直訴を行った 5 。
この訴えは、藩の支配体制を根幹から揺るがしかねない重大事であったが、嘉明はこれを聞き入れた。代表者が十成の命の恩人であるという劇的な背景に加え、年貢の安定徴収という藩財政の根幹に関わる問題であったため、無視することはできなかったのである。結果、十成は知行所を取り上げられ、隠居を命じられることとなった 4 。知行は形式的に息子・三郎兵衛に引き継がれたが、庄屋たちはそれにも納得せず、家老の堀主水や足立新助から「今後、二度と圧政は行わせない」という趣旨の証文を得て、ようやく引き下がったと伝えられている 26 。
この一連の事件は、十成の人物像の核心に迫るものである。彼は戦場での「武」の論理で頂点に立ったが、平時の「文」の統治においては、その能力を欠いていた。彼の失脚は、戦国時代の武功第一主義という価値観を引きずったままでは、泰平の世の統治者たり得ないことを示す象徴的な出来事であり、武士のあり方が大きく変容していく時代の過渡期を体現したものであった。
寛永3年(1626年)の失脚後、佃十成は隠居の身となった。その翌年の寛永4年(1627年)、主君・加藤嘉明は幕府より、伊予松山20万石から陸奥会津40万石への大幅な加増転封を命じられる 4 。十成は隠居の身でありながらも、長年仕えた主君への忠義を貫き、一族を率いてこの会津への移封に従った 4 。嘉明もまた、かつての筆頭家老の功績に報いるためか、十成に1万石もの潤沢な隠居料を与えたと記録されている 5 。
会津に移った十成は、その地で静かな晩年を過ごした。そして寛永11年(1634年)3月2日、82年の波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。
不思議なことに、彼の墓所は終焉の地である会津ではなく、かつて栄華を極めた愛媛県松山市高砂町に現存する浄土宗の寺院・不論院(ふろんいん)にある 4 。会津で亡くなった人物の墓が、遠く離れた松山に建立された経緯は定かではない。しかし、彼の武勲が最も輝いた地であったこと、あるいは彼の一族の一部が何らかの形で伊予に残り、その菩提を弔った可能性などが考えられる。この墓の存在自体が、十成と伊予の地の深い結びつきを今に伝えている。
十成の死後、彼が築いた佃家の運命は、主家である加藤家の盛衰と軌を一にすることとなる。十成の隠居後、久万山の知行を継いだ息子・三郎兵衛であったが、わずか1年で会津転封に従ったため、佃氏による久万山の直接支配は終わりを告げた 5 。
その加藤家は、2代藩主・明成の代に「会津騒動」と称される深刻なお家騒動を引き起こす 32 。家臣団の統制に失敗した明成は、寛永20年(1643年)、幕府に40万石の領地を返上し、加藤家は事実上の改易処分となった 32 。
しかし幕府は、初代・嘉明の多大な功績に鑑み、家名の断絶は免じ、明成の子・明友に石見国吉永藩(現在の島根県大田市)において1万石を与えることで家名存続を許した 34 。40万石の大藩から1万石の小藩へと転落した加藤家に従った家臣団には、会津出身者が多く含まれていたとされ、その中には佃一族もいた可能性が高い 35 。当時の吉永藩の様子を記した『吉永記』には家臣の名簿が残されているといい、今後の調査によって、主家の没落と共に歴史の表舞台から姿を消した佃一族の足跡が明らかになることが期待される 39 。
佃一族の軌跡は、主家の浮沈が家臣の運命を決定づける、江戸時代の武家社会の厳格な封建秩序を如実に示している。十成個人の武功によって築かれた栄華も、結局は加藤家の権勢という土台の上にあった。主家が没落すれば、それに連なる家臣団もまた、その地位と富を失う。十成が一代で築いた栄光も、息子の代には大きく様変わりしたであろうことは想像に難くない。これは、個人の能力だけでは家の安泰は保証されない、武士の世の無常と主従関係の絶対性を物語るものである。
本報告書を通じて明らかになった佃十成の生涯は、光と影が交錯する、極めて多面的なものであった。
一方において、彼は戦場では比類なき武勇を誇り、主君・加藤嘉明に絶対の忠誠を誓う、戦国武将の理想像を体現した「猛将」であった。特に、寡兵を率いて大軍を打ち破った「三津浜夜襲」は、彼の知略と武勇が融合した頂点であり、その功績が加藤家の伊予松山藩成立に不可欠な役割を果たしたことは疑いようがない。
しかしその一方で、彼は平時の統治においては、私利私欲のために領民を搾取する「酷吏」としての一面を露呈した。知行地・久万山での圧政、そして自らの命の恩人に対する裏切りは、彼が領民を統治の対象ではなく、収奪の対象としか見ていなかった可能性を示唆する。この統治者としての破綻は、戦乱の世の価値観、すなわち武功こそが全てであるという論理を引きずったまま、泰平の世の民政に臨んだことの矛盾の現れであったといえる。
この二面性は、佃十成という一個人の資質に起因するだけでなく、戦国から江戸へと時代が大きく転換する中で、多くの武士が直面したであろう価値観の変容の困難さを象徴している。彼の生涯は、一個人の成功と失敗の物語であると同時に、武士という存在が、戦う者から治める者へとその役割を変えることをいかにして迫られたかを示す、貴重な歴史の証言である。
今日、松山城跡に残る「佃郭」の石垣、久万高原町の三島神社拝殿、そして松山市不論院の墓所といった物理的な遺構は、彼の存在を雄弁に物語る 1 。同時に、「三津浜夜襲」の英雄譚や「久万山直訴」の伝承は、彼の記憶が伊予の地に深く刻まれていることを示している。佃十成は、単なる一地方武将に留まらない。彼の人生を追跡することは、この時代の武家社会の構造と、そこに生きた人間の複雑な実像を理解する上で、極めて重要な意義を持つと結論付けられる。