最終更新日 2025-06-22

佐武義昌

紀州の驍将 佐武伊賀守義昌―鉄砲と信念に生きた生涯の軌跡―

序章:雑賀衆の「働書」に記されし武人

紀州雑賀衆。戦国時代、鉄砲という最新兵器を手に、時の天下人・織田信長を十年以上にわたり苦しめ続けた特異な武装集団である。その指導者として鈴木重秀(雑賀孫一)の名は広く知られているが、彼と並び立ち、数々の戦場でその武名を轟かせたもう一人の驍将がいた。その男の名は、佐武伊賀守義昌(さたけ いがのかみ よしまさ)。彼の名は、石山合戦で織田軍を翻弄し、雑賀の内紛では窮地の鈴木重秀を救った猛将として、一部の記録に刻まれている 1

しかし、その生涯の全貌を追うことは容易ではない。彼の活躍を最も詳細に伝える史料は、彼自身が後年にその軍功を書き連ねた『佐武伊賀働書』と呼ばれる一種の功名覚書である 3 。これは江戸時代初期に、新たな主君への奉公の証として、あるいは一族の由緒を後世に伝えるために作成された「働書(はたらきがき)」、すなわち自己申告の功績書としての性格を色濃く持つ 3 。そのため、記述には自己の功績を際立たせるための潤色や誇張が含まれる可能性は否定できず、その史料的価値を評価するには、他の客観的な記録との慎重な比較検討、すなわち史料批判が不可欠となる 3

したがって、佐武義昌という一人の武将の生涯を徹底的に調査することは、単なる個人の伝記を辿る作業に留まらない。それは、信頼性の異なる史料群をいかに読み解き、歴史の真実に迫るかという、歴史研究そのものの実践でもある。そして彼の人生は、戦国時代に独自の自治を誇った傭兵集団の実態、そして中央集権化という時代の大きな潮流の中で、地方の武士が「個」としていかに自らの価値を証明し、激動の時代を生き抜いたかを示す、極めて貴重な事例なのである。本報告書は、現存する史料を丹念に分析し、この知られざる紀州の武人、佐武義昌の実像に迫るものである。

表1:佐武義昌 関連年表

西暦(和暦)

義昌の年齢

出来事

関連人物・勢力

主要根拠史料

1538年(天文7年)

0歳

紀伊国雑賀荘鷺ノ森にて生誕。父は佐竹允昌。

佐竹允昌

4

1549年(天文18年)

12歳

湊衆と岡衆の戦いで初陣を飾る。弓矢で戦う。

雑賀衆

4

1555年(弘治元年)

18歳

根来寺に入山し、福宝院の行人となる。根来寺内の抗争に参加。

根来寺

4

1557年頃(弘治3年頃)

20歳頃

和佐荘と岩橋荘の争いに参戦。この時、鈴木重秀と共に鉄砲を使用。

鈴木重秀

4

1560年(永禄3年)

23歳

土佐へ渡航。長宗我部・本山両氏から勧誘され、本山氏に味方する。

本山茂辰、長宗我部国親

4

1570年(元亀元年)

33歳

三好三人衆に与し、織田信長方と交戦(野田・福島の戦い)。

三好三人衆、織田信長

6

-

-

本願寺方として大海砦を守備。中川清秀軍を撃退したと伝わる。

石山本願寺、中川清秀

6

1576年(天正4年)

39歳

天王寺の戦いで鈴木重秀らと共に織田軍の将・塙直政を討ち取る。

鈴木重秀、塙直政

6

1577年(天正5年)

40歳

織田信長の第一次紀州征伐。小雑賀城で籠城戦を指揮したとされる。

織田信長、的場昌長

6

1582年(天正10年)

45歳

雑賀の内紛。鈴木重秀による土橋守重暗殺事件。義昌は重秀を支持。

鈴木重秀、土橋守重

8

1585年(天正13年)

48歳

豊臣秀吉による紀州征伐。雑賀衆は壊滅。

豊臣秀吉

10

-

-

豊臣秀長に仕える。日高郡の一揆鎮圧などに参加。

豊臣秀長

6

1595年(文禄4年)

58歳

本願寺日高別院の再建奉行を務める。

桑山氏

6

1601年(慶長6年)

64歳

紀伊の新領主・浅野幸長に仕官し、500石を知行される。

浅野幸長

4

1619年(元和5年)

82歳

浅野家の安芸広島への転封に従い、長男・甚右衛門と共に広島へ移る。

浅野長晟

4

1620年(元和6年)

83歳

没年とする説があるが、広島移住後の正確な没年は不明。

-

1

第一章:出自と若き日の武勇―戦国乱世への登場

第一節:鷺ノ森の佐竹氏―そのルーツとアイデンティティ

佐武義昌の原点は、紀伊国北西部に位置する雑賀荘の鷺ノ森にあった 4 。『紀伊続風土記』によれば、父は佐竹允昌とされ、この佐竹(佐武)一族は、雑賀衆を構成する有力な土豪の一つであった 6 。彼が名乗った「佐竹」という姓は、常陸国(現在の茨城県)を本拠とした清和源氏の名門・佐竹氏を想起させる。しかし、両者の間に直接的な血縁関係や主従関係があったことを示す確たる史料は存在しない 13 。戦国時代、地方の武士が自らの権威を高めるために、中央の名門の姓を名乗ることは決して珍しいことではなかった 15 。紀州佐竹氏の活動は、完全に紀伊とその周辺地域に限定されており、常陸佐竹氏との連携が記録されていない点からも、この「佐竹」姓は、常陸佐竹氏の分家であることを示すものというより、紀州鷺ノ森に根差した独立した武士団としての矜持とアイデンティティを表明するものであったと解釈するのが自然であろう。

この姓をめぐっては、一つの興味深い伝承が残されている。元亀年間(1570年-1573年)、将軍・足利義昭のもとで功を立てた義昌が、その働きを賞されて義昭自らの声掛かりにより「佐竹」から武勇を尊ぶ「佐武」へと改姓した、というものである 4 。これは、自らの家格に権威を付与しようとする、戦国武将によく見られる「物語創造」の一環と見ることができる。しかし、この伝承の信憑性は低い。なぜなら、それから数十年後の慶長10年(1605年)に熊野那智大社へ奉納された文書の中で、義昌自身が明確に「佐竹」と署名しているからである 4 。この事実は、彼自身は生涯を通じて「佐竹」の姓に誇りを持ち続けていた可能性を示唆しており、「佐武」への改姓伝承は、おそらく江戸時代に入ってから、一族の由緒をより武門らしく飾るために後世に創作されたものと考えられる。これは、史実そのものというより、「歴史がどのように語り継がれていくか」という過程を示す好例と言える。

第二節:初陣と根来寺での修行―武人としての原点形成

義昌が歴史の舞台に登場するのは、天文18年(1549年)、わずか12歳の時である。この年、雑賀荘内の「湊の衆」と「岡の衆」の間で起こった争いが、彼の初陣となった。既に弓と鉄砲の訓練を受けていたとされ、この戦で矢を4、5射したと『佐武伊賀働書』は記している 4 。少年期から武芸に親しむ環境は、彼を早くから戦場の現実へと導いた。

彼の経歴で特筆すべきは、弘治元年(1555年)、18歳で根来寺の行人となったことである 4 。根来寺は、新義真言宗の総本山であると同時に、数千の僧兵を擁する巨大な武装勢力であった。義昌が身を寄せたのは、寺内でも有力な子院であった泉識坊傘下の福宝院であった 6 。ここでの生活は、単なる宗教修行ではなかった。当時の根来寺は内部で激しい派閥抗争を繰り返しており、義昌もまたその渦中に身を投じることになる。同年、蓮花谷と菩提谷の争いでは、所属する福宝院が蓮花谷に与したため、槍を手に参戦。この戦いでは、後に三好実休の首級を挙げることで名を馳せる往来左京と槍を交えたという記録が残る 4 。翌年には泉識坊と杉之坊が争い、義昌は自らの院に押し寄せた敵方を撃退するなど、実践を通じて戦闘技術と集団戦の指揮を学んでいった。

注目すべきは、彼が浄土真宗の信徒でありながら、真言宗の根来寺に所属していたという事実である 4 。これは、戦国期の寺社勢力が純粋な信仰団体である以上に、地縁や利害で結びついた複合的な社会・軍事共同体であったことを如実に物語っている。義昌にとって根来寺は、信仰の対象である以上に、自らの武勇を磨き、それを発揮するための重要なプラットフォームであった。この宗派に囚われない柔軟な所属意識は、後に彼が傭兵として各地を転戦する生き方の素地を形成したと言えるだろう。

第三節:鉄砲との邂逅と土佐への渡航―傭兵としての飛躍

根来寺での抗争において槍働きで武功を重ねた義昌であったが、彼の武将としての価値を決定的に高めたのは、新兵器・鉄砲との出会いであった。弘治3年(1557年)頃、雑賀荘内の和佐荘と岩橋荘の間で土地争いが起こり、雑賀の中之島が戦場となった。この時、義昌は雑賀衆の若き実力者、鈴木孫一(重秀)と共に参戦するが、ここで彼は初めて鉄砲を実戦で使用した 4 。これは、彼の戦術が個人の武勇から、集団による火力を重視する雑賀衆本来の戦い方へと移行したことを示す重要な転換点であった。

この鉄砲術という新たな専門技術を携え、義昌はさらなる活躍の場を求めて海を渡る。永禄3年(1560年)、隣国の四国・土佐では、長宗我部国親と本山茂辰が覇権を争っていた。義昌の武名は既に海を越えて届いており、長宗我部・本山両陣営から熱心な勧誘を受けたという 4 。この時、義昌は先に声をかけてきた本山氏に味方することを決断する。その条件は「田畑七十町歩」という具体的な恩賞であった 4 。これは、主君への忠誠ではなく、自らの武勇、特に鉄砲という最新技術を「商品」として、より良い条件を提示した「顧客」と契約を結ぶという、雑賀衆の傭兵的性格を明確に示している。彼らの経済基盤が、農業だけでなく海運や貿易、そしてこうした傭兵稼業に支えられていたことがうかがえる 5

同年5月の戸の本の戦いで本山方は敗北を喫するが、その中でも義昌は敵の首を三つ取る活躍を見せた。しかし、彼は主君と運命を共にする道を選ばなかった。本山方の劣勢が明らかになると、深追いすることなく土佐から引き揚げたのである 4 。この行動は、主君への殉死を美徳とする一般的な武士道とは一線を画す。契約の前提が崩れた以上、自らの命と部隊を保全して帰還するという合理的な判断であり、これこそが雑賀衆というプロフェッショナルな戦闘集団が戦国乱世を生き抜いた力の源泉であった。

第二章:石山合戦と織田信長との死闘―天下人に抗した十年

第一節:本願寺方としての参戦―反信長包囲網の尖兵

土佐から帰還した義昌と雑賀衆は、やがて畿内を席巻する巨大な戦乱の渦へと巻き込まれていく。元亀元年(1570年)、将軍・足利義昭を追放し、事実上の天下人となった織田信長に対し、三好三人衆が反旗を翻すと、義昌は三好方に与して河内古橋城攻めなどに参加した 6 。この時点では、特定の思想に基づく参戦というより、旧来の畿内勢力からの要請に応じた傭兵的活動の側面が強い。

しかし、この戦いに石山本願寺が三好方として参戦したことで、戦いの様相は一変する。信長の勢力拡大と中央集権化政策は、寺内町での自由な経済活動や「惣国」としての自治を脅かすものであり、雑賀衆にとって死活問題であった 19 。浄土真宗の門徒としての宗教的紐帯と、独立を脅かされることへの政治的・経済的な危機感が結びつき、雑賀衆は本願寺を支援し、反信長包囲網の最も先鋭的な軍事力として戦うことを決意する。義昌もまた、本願寺方の中核を担う武将として、信長との十年に及ぶ死闘に身を投じることとなった 7

第二節:鉄砲戦術の妙―大海砦と天王寺の戦い

石山合戦における佐武義昌の武功は、彼の卓越した鉄砲戦術によって支えられていた。その真価が遺憾なく発揮されたのが、大海砦と天王寺での戦いである。

『佐武伊賀働書』によれば、義昌は本願寺方として河内国の大海砦(おおみとりで)を守備した際、織田方の中川清秀が率いる1,400から1,500の軍勢に攻められた。これに対し、義昌はわずか24、5人の小勢でこれを撃退したと記されている 6 。この砦の正確な場所については、現在の大阪府守口市にあった大日砦とする説や、松原市三宅にあったとする説など諸説あるが 4 、その戦果の記述は文字通りには受け取り難い。兵力差は実に60倍にも及び、誇張が含まれていることは間違いないだろう。しかし、この逸話は雑賀衆が得意とした戦術の本質を象徴している。彼らは大軍と平地で決戦を挑むのではなく、地の利を活かせる砦や隘路に敵を誘い込み、射程と威力で勝る鉄砲の集中砲火を浴びせて敵の先鋒を粉砕し、組織的抵抗力を奪う「非対称戦」の専門家であった 24 。この戦いは、義昌がその戦術を体現する優れた指揮官であったことを示している。

そして、雑賀衆の戦闘力が単なるゲリラ戦に留まらないことを天下に知らしめたのが、天正4年(1576年)5月の天王寺の戦いである。本願寺への補給路を断つべく攻め寄せた織田軍の将・塙(原田)直政に対し、義昌は鈴木重秀、的場源四郎らと共にこれを迎撃。激戦の末、総大将である塙直政を討ち取るという大金星を挙げた 6 。この敗報は信長を激怒させ、自ら出馬する事態にまで発展した。この勝利は、雑賀衆の鉄砲隊が、統制の取れた一斉射撃によって敵の指揮系統を麻痺させ、会戦においても織田軍の中核部隊を破壊しうる戦略的な決定力を持っていたことを証明した。義昌は、この強力な戦闘集団を率いる中核的な将として、信長にとって最も厄介な敵の一人となったのである 25

第三節:第一次紀州征伐と小雑賀城の攻防

天王寺での敗北に激怒した信長は、天正5年(1577年)2月、ついに雑賀衆の息の根を止めるべく、10万とも言われる大軍を率いて自ら紀伊へ侵攻した(第一次紀州征伐)。この時、義昌は的場源四郎と共に小雑賀の城に籠もり、32日間にわたって織田軍の猛攻を防いだと『佐武伊賀働書』は伝えている 7

しかし、この小雑賀城での籠城戦が、本当に天正5年の出来事であったかについては、研究者の間で見解が分かれている 4

天正5年説を支持する根拠は、『働書』の記述にある。そこには、籠城戦後の和睦の際、義昌が羽柴秀吉と、当時まだ織田家臣であった荒木村重に対面したと記されている。村重が信長に謀反を起こすのは天正6年(1578年)10月であるため、この対面はそれ以前でなければならず、籠城戦も天正5年と考えるのが自然だというものである 4

一方で、これに異を唱える天正13年(1585年)の秀吉による紀州征伐時の出来事だとする説もある。その根拠として、第一次紀州征伐において織田軍は小雑賀を拠点としており、その場所に反織田方の城が残っていたとは考えにくいこと、また、天正5年の和睦直後に、信長と敵対していた鈴木孫一がやすやすと人質を差し出すという展開は不自然であることなどが挙げられる 4

この時期を巡る論争は、『佐武伊賀働書』という個人の記憶に基づく史料が持つ限界と、歴史研究において客観的な状況証拠がいかに重要であるかを示している。どちらの説を採るにせよ、確かなことは、佐武義昌が雑賀衆の防衛戦において、長期間にわたり一軍を率いて籠城戦を指揮するほどの重要な役割を担った指揮官であったという点である。鈴木重秀が雑賀衆の華々しい「顔」であったとすれば、義昌や的場昌長は、その驚異的な軍事力を現場で支える「背骨」のような存在であったと言えよう。

第三章:雑賀衆―「共和国」の実像と内紛

第一節:「惣国一揆」としての雑賀衆―自由と自立の共同体

佐武義昌の行動原理を深く理解するためには、彼が属した「雑賀衆」という組織の特異な性質を把握することが不可欠である。雑賀衆は、特定の戦国大名に仕える封建的な武士団ではなかった。彼らは、紀伊国北西部の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」という五つの地域(五組)の地侍や有力農民が連合し、大名の支配を受けずに自治を行う「惣国(そうごく)」または「惣国一揆」と呼ばれる共同体であった 11 。その自治的な性格は、16世紀に来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスをして「共和国」と評せしめたほどである 27

この「共和国」の運営は、各地域の代表者(年寄衆)による合議制によって行われ、単一の絶対的な指導者は存在しなかった 5 。鈴木孫一(重秀)でさえ、数いる有力な指導者の一人に過ぎず、雑賀衆全体を支配する君主ではなかったのである 5 。一見すると、強力なリーダーシップの不在は組織の弱点に見えるかもしれない。しかし、この柔軟な連合体としての構造こそが、彼らの強さの源泉であった。各グループが自律的に行動できるため、ある部隊が敗れても全体が即座に崩壊することはなく、状況に応じて三好氏、本願寺、時には織田方の一部とさえ連携するなど、極めて柔軟な外交戦略を可能にした。

彼らの独立を支えたもう一つの柱は、その経済基盤にあった。紀ノ川河口という地の利を活かし、農業だけでなく海運業や貿易にも積極的に従事し、莫大な富を蓄積した 19 。この経済力が、当時最も高価な兵器であった鉄砲を数千挺も揃え、強力な軍事力を維持することを可能にしたのである。雑賀衆は、信長が目指した中央集権的なピラミッド型社会とは全く異なる、水平的な連合と合議に基づく分権的な「もう一つの社会モデル」を体現していた。信長や秀吉が紀州の地に執拗に侵攻したのは、単なる軍事的な脅威の排除だけでなく、自らの政治思想と真っ向から対立するこの「共和国」の存在そのものを、決して許容できなかったからに他ならない 21

第二節:盟友・鈴木重秀との関係―共闘と競争

佐武義昌の生涯を語る上で、最も重要な人物が鈴木重秀(孫一)である。二人は、弘治年間(1555年-1558年)の雑賀荘内での地域紛争に始まり、石山合戦における天王寺の戦いなど、数々の修羅場を共に戦い抜いた盟友であった 4 。天正13年(1585年)の紀州征伐後、重秀が子を人質として秀吉に差し出す際には、義昌がその道中を見送るなど、両者の間には深い信頼関係があったことがうかがえる 6

しかし、彼らの関係は単なる主従や同僚といった言葉では言い表せない、より複雑なものであった。『佐武伊賀働書』には、和佐・岩橋荘の争いの一場面として、重秀が苦戦を強いられていた際に義昌が救援に駆けつけなければ、「乍去後ノ度ハ我等懸合セ候ハスハ孫一面目ヲウシナヒ可申候」(しかしながら、あの時は私が駆けつけなければ、孫一は面目を失っていたことであろう)と、自らの功績を強調する一節がある 3 。この記述は、義昌が自らを、天下に名の知れた重秀と同等、あるいは戦況によってはそれ以上の存在として強く自負していたことを示唆している。実力主義が支配する雑賀衆の社会では、有名な「孫一」に対してさえも「自分が助けてやったのだ」とアピールすることが、自らの発言力を高め、より多くの恩賞を得るために不可欠であった。二人は互いの武勇を認め合う戦友であると同時に、名声を競い合う好敵手でもあったのである。

一般に知られる「窮地に陥った重秀を救った」という伝承は 1 、こうした戦場での物理的な救援のみを指すとは限らない。それは、後に雑賀衆を二分する内紛において、義昌が政治的に重秀を支持し、その勝利に貢献したことを含意している可能性も考えられる。武力と政治力が不可分であった雑賀衆において、「救う」という言葉は、極めて多義的な意味を持っていたのである。

第三節:雑賀の内紛―鈴木・土橋の対立と義昌の選択

十年にも及んだ石山合戦が天正8年(1580年)に終結すると、雑賀衆を支えていた「反信長」という大義は失われ、内部に潜んでいた対立が一気に表面化する。その中心となったのが、親織田路線へと舵を切った鈴木重秀と、あくまで反信長を貫こうとする土橋守重であった 7

この対立の原因は、単一のものではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていた。第一に、『信長公記』などが伝える、天正9年(1581年)に守重が重秀の継父を殺害したとされる個人的な確執 9 。第二に、十ヶ郷の木本荘の領有をめぐる領地争い 9 。そして第三に、より根深い政治路線と宗教観の対立である。鈴木氏が本願寺の意向に従い信長との和睦を受け入れた浄土真宗門徒であったのに対し、土橋氏は浄土宗を信奉し、紀伊に亡命していた将軍・足利義昭に呼応して徹底抗戦を望んでいたとする説がある 9

この対立は、天正10年(1582年)1月23日、重秀による土橋守重の暗殺という最悪の結末を迎える 8 。この事件は、信長の後ろ盾を得た重秀が、雑賀衆の主導権を完全に掌握するためのクーデターであった。注目すべきは、この暗殺に際して土橋兵大夫など土橋一族の一部が重秀に与していたとされる点で、これは単純な鈴木対土橋の氏族間抗争ではなく、土橋氏内部の内紛という側面も持っていたことを示している 9

この一連の内紛において、佐武義昌は一貫して鈴木重秀を支持する立場にあったと見られる。彼のこの選択は、長年の盟友に対する個人的な信義もあっただろうが、それ以上に、時代の流れを読んだ現実的な政治判断であった可能性が高い。天正10年の時点で、信長の天下統一は目前に迫っており、反信長を貫く土橋氏の路線は、雑賀衆全体の破滅を招きかねない危険な賭けであった。義昌は、信長と手を結ぶことで雑賀衆の存続を図ろうとした重秀の現実路線を支持したのである。それは、かつて土佐で劣勢と見るや撤退した、彼の合理主義的な思考とも通底している。理想や意地よりも、共同体が生き残るための最善手を選択する、冷徹なプラグマティストとしての一面がここにも見て取れる。この内紛は、信長の巧みな分断工作と、雑賀衆が元来抱えていた連合体としての構造的脆弱性が結びついた悲劇であり、彼らの「共和国」が終焉に向かう序曲であった。

第四章:天下人の時代―仕官と晩年

第一節:豊臣政権下での活動―自立から従属へ

本能寺の変により織田信長が斃れると、雑賀衆の権力構造は再び流動化する。親信長派であった鈴木重秀は立場を失い、土橋派が一時的に主導権を握り返した。しかし、その混乱も長くは続かなかった。天正13年(1585年)、天下統一を目前にした羽柴秀吉が、10万の大軍を率いて紀州征伐を開始すると、内部分裂で弱体化していた雑賀衆はなすすべもなく壊滅。ここに「共和国」としての雑賀衆は終焉を迎えた 10

多くの雑賀衆の武士が帰農、あるいは離散していく中で、佐武義昌は新たな支配体制に巧みに適応し、生き残りの道を見出した。彼はまず、紀伊を治めることになった秀吉の弟・豊臣秀長、そしてその養子・秀保に仕えた 4 。秀長の配下として、日高郡で起きた一揆の鎮圧に参加するなど、武将としての働きを続けている。秀保が早世した後は、豊臣家の代官として紀伊を任された桑山重晴・一晴親子に従ったとみられる 4

彼の能力が武勇だけに留まらなかったことを示すのが、文禄4年(1595年)の活動である。この年、義昌は先の戦乱で焼失した本願寺日高別院の再建奉行に任じられている 6 。これは、彼が単なる武辺者ではなく、寺社の造営といった民政・実務にも通じた有能な吏僚であったことを示している。戦場で培われた交渉力や統率力は、平時の統治においても十分に価値を持つものであった。また、この奉行就任は、彼の変わらぬ浄土真宗への信仰心を示すと同時に、新たな支配者の権威を背景に、在地社会における自らの影響力を再確認し、維持しようとする政治的な計算があったとも解釈できる。彼は、武力のみが通用した戦国の世から、統治能力が求められる近世へと、その役割を見事に変化させていったのである。

第二節:安芸広島藩士として―近世武士への最終的転身

関ヶ原の戦いを経て世が徳川のものとなると、義昌の人生は最後の、そして最大の転機を迎える。慶長6年(1601年)、紀伊国の新たな領主として浅野幸長が入国すると、義昌はこれに仕官し、500石の知行を与えられた 4 。雑賀衆の有力武将としての名声が、新領主からも高く評価された結果であった。

そして元和5年(1619年)、浅野家が幕府の命により紀州和歌山から安芸広島42万石へと加増転封されることになった。この時、義昌は82歳という高齢に達していた。故郷を離れ、遠い異郷の地へ赴くことは、肉体的にも精神的にも大きな負担であったはずである。しかし、彼は長男の甚右衛門と共に主君に従い、広島へ移住する道を選んだ 4 。この決断は、彼がもはや紀州の地に根差した独立土豪「雑賀衆の佐武」ではなく、「広島藩浅野家家臣・佐武」として、その家を近世大名の家臣団という安定した組織の中に完全に組み込むことを選んだ、決定的な意思表示であった。それは、戦国的な「自立」から近世的な「奉公」へと移行する時代の大きな潮流を、一人の武将の人生が象徴する瞬間であった。広島藩の分限帳(家臣の名簿)には、確かに「佐武」の名が記録されており 32 、彼の家が安芸の地に根を下ろしたことが確認できる。

第三節:子孫たちのその後―武門の血脈

広島に移住した後の義昌の正確な没年は不明であるが、彼の血脈は途絶えることなく後世へと受け継がれた。

長男の甚右衛門が継いだ家系は、広島藩士として存続し、幕末の当主・佐武勝次郎は130石を知行していた記録が残る 6 。一方で、次男の源大夫と三男の左衛門(または五左衛門)は、父とは異なり故郷の紀州に戻り、新たに紀伊国主となった紀州徳川家に仕えた 4

この子孫の配置は、単なる偶然とは考えにくい。長男に本家を継がせて主君に従わせる一方で、次男以下を旧領に近い有力な藩に仕官させる。これは、一つの家に全てを賭けるのではなく、リスクを分散させるという、戦国乱世を生き抜いた義昌ならではの現実主義的な家名存続戦略であった可能性も考えられる。万が一、一方の藩が改易などの不運に見舞われても、もう一方の家系は存続できるという、老練な武将の知恵が反映されていたのかもしれない。

そして、義昌の武門の血は、時代を超えてその輝きを放つ。紀州徳川家に仕えた三男の家系からは、幕末から明治にかけて活躍した佐武広命(さたけ ひろのぶ、1839-1912)という人物が出た。彼は、1876年(明治9年)の神風連の乱や、翌年の西南戦争に陸軍中尉として従軍し、その奮闘を賞されて政府から褒章を受けている 4 。鉄砲と槍で戦場を駆けた戦国武将の子孫が、約300年の時を経て、近代的な陸軍将校として再び戦場で武功を立てたという事実は、佐武家に「武」を尊ぶ家風が、泰平の江戸時代を通じて脈々と受け継がれていたことを物語っている。佐武義昌の生き様は、遠い子孫の行動の中にまで、その確かな残響を留めていたのである。

表2:佐武義昌の仕官遍歴と知行高

時期

主君/所属

役職/立場

知行高/待遇

主要根拠史料

永禄3年(1560)

本山氏(土佐)

傭兵契約

田畑七十町歩

4

元亀元年(1570)以降

石山本願寺

与力(主力部隊指揮官)

-

6

天正13年(1585)以降

豊臣秀長・秀保

家臣

不明

4

文禄4年(1595)頃

桑山氏(豊臣家代官)

配下

日高別院再建奉行

4

慶長6年(1601)以降

浅野幸長・長晟

家臣

500石(大坂の陣時点)

4

結論:佐武義昌という武将の歴史的評価

佐武伊賀守義昌。その生涯を丹念に追うことで、単なる「鈴木重秀と共に戦った武将」という一面的な評価を遥かに超える、多角的で深みのある人物像が浮かび上がってくる。

第一に、彼は先進的な 戦術家 であった。鉄砲という新兵器の特性をいち早く理解し、地形と組み合わせたゲリラ戦や、役割分担による連続射撃など、高度な戦術を駆使して織田の大軍を何度も退けた。彼の武功は、雑賀衆が信長という巨大な権力に十年以上も抗い続けることができた、その原動力の一つであったことは疑いない。

第二に、彼はしたたかな 政治家 であった。特定の主君を持たない「共和国」雑賀衆という合議制の共同体の中で、同盟と対立の力学を冷静に読み解き、自らの立場を確立する政治的センスを備えていた。特に、雑賀衆の命運を左右した鈴木・土橋の内紛において、時代の流れを見据えて鈴木重秀を支持した決断は、彼の現実主義的な政治判断を物語っている。

そして何よりも、彼は驚異的な**生存者(サバイバー)**であった。戦国乱世の終焉と、それに続く中央集権体制の確立という時代の大きな転換点において、過去の栄光に固執することなく、新たな支配体制に巧みに適応してみせた。独立した土豪から、豊臣政権の吏僚、そして近世大名の家臣へという劇的な転身を遂げ、80歳を過ぎてなお故郷を離れ、主君と共に新天地へ赴くことで、自らの家名を確かに後世へと残した。

佐武義昌は、鈴木重秀のような華々しい伝説に彩られた英雄ではないかもしれない。しかし、彼の生涯は、戦国時代の地方武士が持つ強かさ、合理性、そして驚くべき適応力を凝縮した、稀有な実例である。『佐武伊賀働書』という自己主張の強い史料を批判的に読み解く作業を通じて、我々は、歴史の表舞台に立つことの少ない無数の「脇役」たちが、いかにして自らの物語を紡ぎ、時代の荒波を乗り越えていったかを知ることができる。彼は、戦国という時代の多様性と、そこに生きた人々の逞しさを見事に体現した、記憶されるべき一人の武将である。

引用文献

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