戦国時代の常陸国に覇を唱えた佐竹氏。その長きにわたる歴史の中で、一族の興隆を内政面から支えた重要人物として、佐竹義里(さたけ よしさと)の名が挙げられる。佐竹氏第15代当主・義舜の四男として生まれ、本拠である太田城の南に居を構えたことから「南殿」と称された義里は、一門の重鎮として宗家の「家政を司り」、北家の佐竹義廉、東家の佐竹義堅と共に、戦国大名としての佐竹氏の権力基盤を磐石なものにしたと伝えられている 1 。
しかしながら、その具体的な功績や人物像については、断片的な情報が伝わるのみであり、体系的な評価は未だ十分になされているとは言い難い。佐竹義里という存在は、佐竹氏が戦国大名として飛躍を遂げる上で、果たしてどのような役割を担ったのであろうか。本報告書は、この問いに答えるべく、現存する史料群を網羅的に調査・分析し、佐竹義里個人の生涯を追うとともに、彼がその一翼を担った佐竹氏独自の統治システム全体を解明することを目的とする。
本報告は三部構成を採る。第一部では、義里の出自と、彼が活躍する舞台となった佐竹氏の権力基盤の形成過程を、内乱の克服と経済的背景から概観する。第二部では、義里の具体的な政治活動を、彼が属した「佐竹三家」体制の分析を通じて詳述し、その歴史的役割を明らかにする。そして第三部では、義里が遺した功績と、彼が創設した佐竹南家のその後の歩みを追う。これらを通じて、これまで歴史の陰に隠れがちであった佐竹義里という人物の歴史的再評価を試みるものである。
佐竹義里が歴史の表舞台に登場する背景には、佐竹宗家が長年の内紛を克服し、戦国大名として強固な権力基盤を築き上げるまでの苦難の道程が存在した。
室町時代、佐竹氏はおよそ100年にも及ぶ深刻な内乱、いわゆる「山入の乱」に苛まれていた。これは、宗家と有力な庶家である山入氏との間で繰り広げられた家督争いであり、この内紛によって佐竹宗家の権威は著しく失墜し、一時は本拠である太田城を追われる事態にまで陥った 3 。この長く続いた混乱に終止符を打ち、宗家を再興したのが、佐竹義里の父である第15代当主・佐竹義舜であった。義舜は、妻の実家である岩城氏の強力な支援を得て、永正元年(1504年)に太田城を奪還し、山入氏を滅ぼすことに成功する 4 。この壮絶な内乱の経験は、佐竹氏にとって、一族の結束と宗家への権力集中がいかに重要であるかを痛感させる教訓となり、後の強固な一門結束体制を構築する大きな原動力となったのである。
義舜の子で、義里の兄にあたる第16代当主・佐竹義篤の時代にも、一族内の権力闘争は続いた。天文4年(1535年)、義篤の弟である部垂(へたれ)四郎義元が、宗家に対して反旗を翻したのである。この「部垂の乱」は、小場氏など一部の有力国人を巻き込む大規模な内乱に発展したが、義篤は伊達稙宗の斡旋なども利用しつつ、最終的には部垂城に籠る義元らを自刃に追い込み、これを鎮圧した 7 。
この内乱の克服は、単なる反乱鎮圧以上の意味を持っていた。これにより、佐竹宗家は、領国内の他の庶家や国人衆に対して絶対的な優位性を確立し、その権力は磐石なものとなった 8 。度重なる内乱を乗り越えたことで、佐竹氏はようやく内向きの争いに終止符を打ち、戦国大名として外部へと勢力を拡大していくための強固な基盤を固めることに成功したのである。
佐竹氏の権力を支えたのは、軍事力や政治力だけではなかった。その領国経営は、単なる稲作を中心とした農業経済に留まらず、領内に豊富に存在した金山の開発に大きく依存していた 10 。
『新編常陸国誌』などの史料によれば、佐竹氏の支配下には、大久保(現・日立市)、保内(現・久慈郡)、八溝(現・大子町)、木葉下(現・水戸市)など、数多くの金山が存在したことが確認されている 5 。佐竹氏はこの金山経営を積極的に行い、その産金量は、豊臣秀吉に納めた運上金(租税)が、全国の大名の中で上杉氏、伊達氏に次いで第3位に達するほど莫大なものであったという 15 。
この事実は、佐竹氏が戦国大名の中でも屈指の経済力を有していたことを示している。そして、この強大な財政基盤をいかに効率的に管理し、軍事力や政治力に転化させていくかという課題が、佐竹氏にとって極めて重要な政治的テーマとなっていた。度重なる内乱の教訓から生まれた「宗家の絶対的安定」という政治的要請と、金山経営に代表される「複雑な財政の管理」という経済的要請。この二つの要請が交差する点に、佐竹氏独自の統治システム、そして佐竹義里が担うことになる「家政」の重要性が生まれる必然性があったのである。
こうした背景のもと、佐竹氏の権力構造を支える新たな統治システムが形成されていく。その中心的な役割を担うことになるのが、佐竹義里であった。
佐竹義里は、佐竹氏中興の祖と称えられる第15代当主・佐竹義舜の四男として生まれた 1 。母は、宗家の再興を助けた岩城氏の当主・岩城常隆の娘である 16 。通称は三郎、あるいは次郎左衛門と名乗り、後に義隣(よしちか)という別名も持っていたことが記録されている 16 。彼は、内乱を克服し、戦国大名として飛躍しようとする佐竹家の変革期に生を受けたのである。
長兄の義篤が宗家を継ぐ中、義里は一家を創設し、佐竹氏の家臣団の中で特別な地位を占めることになる。これが「佐竹南家」の始まりである 2 。その呼称は、佐竹氏の本拠である常陸太田城の南側に屋敷を構えたことに由来するとされ、彼は「南殿」と呼ばれた 1 。この「南殿」という呼称は、単なる地理的な位置を示すだけでなく、宗家の本拠地内部において、彼が中枢的な職務を担う拠点を持っていたことを強く示唆している。
義里による南家の創設とほぼ時を同じくして、宗家を支える体制が体系的に整備されていった。義里の兄である義篤の従兄弟にあたる佐竹義廉が、戦死した兄・義住の跡を継いで「北家」の当主となり 17 、同じく従兄弟の佐竹義堅が「東家」を率いることで 19 、宗家を中核とし、北・東・南の三家がこれを補佐するという、強力な一門統治体制が確立された。
この三家は、単なる有力な分家という位置づけではなかった。近年の研究によれば、彼らは佐竹氏の家臣団の中でも「一家・一門・家子」と称される最高の家格に位置づけられ、いわば「宗家当主の分身」ともいうべき存在であったとされる 20 。彼らは宗家の権威を代行し、領国統治の各方面を分担することで、佐竹氏の権力構造を盤石なものにしたのである。
確立された「佐竹三家」体制の中で、佐竹義里は具体的にどのような役割を果たしたのか。彼の活動は、佐竹氏の統治システムそのものの特質を解明する鍵となる。
佐竹三家による統治は、しばしば「合議制」と見なされることがあるが、その実態はより複雑なものであった。それは、権限を対等に分け合う合議制とは異なり、宗家当主の絶対的な権力を前提とした上で、各々が高度に専門化された分野を統括する「機能分担型の補佐体制」と理解するのがより正確である。内乱の教訓から権力の分散を極度に警戒した佐竹氏が、統治の効率性と安定性を両立させるために生み出した、巧妙な統治形態であった。このシステムの中で、義里は領国経営の根幹を担うこととなる。
史料において繰り返し言及される義里の役割は、「家政を司る」というものである [User Query]。戦国大名における「家政」とは、単に一家の家計を管理するという意味に留まらない。それは、藩の財政全般、家臣団への知行(給与地)の配分、領国内のインフラ整備、さらには戦時における兵糧や武具の調達・管理といった兵站業務までを含む、領国経営の根幹をなす統治機能そのものを指していた 21 。
特に、佐竹氏の財政を潤していた金山経営は、その富の源泉であると同時に、専門的な管理を要する複雑な事業であった。各地の金山には金山奉行が置かれていたが、その統括と、産出された金の管理・運用は、最終的には家政の最高責任者である義里の権限下にあったと考えるのが自然である 14 。彼は、いわば佐竹氏の「最高財務責任者(CFO)」であり、「最高執行責任者(COO)」として、領国の経済と行政を一身に担っていたのである。
義里は「外交面で重要な役割を果たした」とも伝えられている [User Query]。しかし、現存する史料を検証すると、佐竹氏の外交交渉の主たる担い手は、北家当主の佐竹義廉であったことが示唆されている 17 。義廉は、宗家当主の代理として、周辺大名との折衝にその手腕を発揮した。
このことから、義里の外交的役割は、義廉が主導する交渉を財政面や後方支援で支える、あるいは特定の利害関係が絡む交渉に限定的に関与するといった、補佐的なものであった可能性が高い。残念ながら、義里自身が発給した外交文書などは現存が確認されておらず、彼が外交の表舞台で主導的な役割を果たしたことを直接的に証明する史料は乏しい。彼の貢献は、華やかな外交交渉の舞台裏で、その実現を可能にするための盤石な財政基盤と兵站体制を維持することにあったのかもしれない。
以上の分析から、佐竹三家はそれぞれが専門分野を担うことで、宗家を支えるという高度な機能分化を実現していたという仮説が浮かび上がる。
家 |
当主 |
拠点/呼称 |
主な役割(推定) |
関連史料・活動内容 |
北家 |
佐竹義廉 |
太田城北殿 |
外交・対外折衝 |
兄・義住の後を継ぎ北家当主となる。東家・義堅と共に宗家・義昭を補佐し、国政、特に外交面で活躍したことが記録されている 17 。豊臣政権下では、北家当主・義斯に秀吉からの朱印状が下されるなど、外交窓口としての役割を継続した 14 。 |
東家 |
佐竹義堅 |
太田城東殿 |
国内統制・国人衆掌握 |
北家・義廉と共に宗家・義昭を補佐。主に常陸国内の国人衆の統制などで活躍したとされる 19 。那須氏との戦闘で敗北した記録もあり 19 、国内の軍事・治安維持を担っていたことが示唆される。 |
南家 |
佐竹義里 |
太田城南殿 |
家政・財政・兵站 |
佐竹義舜の四男。宗家の家政全般を司る 16 。佐竹氏の経済基盤である金山経営の統括 14 や、家臣団の知行管理など、領国経営の根幹を担ったと推定される。その後の南家も財政に関与した記録がある 26 。 |
表1:佐竹三家体制における役割分担の推定(佐竹義篤・義昭期)
この表が示すように、北家の義廉が「外交」、東家の義堅が「国内の軍事・治安維持」、そして南家の義里が「家政・財政・兵站」をそれぞれ分担する体制は、当主(義篤、そしてその子の義昭)が領国全体の最終的な意思決定と対外的な軍事指揮に専念することを可能にした。これは、権力基盤を安定させつつ、効率的な領国経営を実現するための、極めて合理的かつ先進的な統治システムであったと評価できよう。
佐竹氏の権力は、義里の甥にあたる第17代当主・佐竹義昭、そしてその子である第18代当主・義重の時代に最盛期を迎える。この間も、義里は一門の長老として宗家を支え続けたと考えられる。
兄・義篤が天文14年(1545年)に没すると、その子である義昭が家督を継いだ 29 。義昭の治世においても、義里は北家の義廉、東家の義堅と共に国政を取り仕切り、若き当主を補佐した 17 。この時期、佐竹氏は常陸国内の小田氏を攻め、さらには関東の雄・後北条氏や奥州の覇者・伊達氏といった強大な敵と対峙しながら、その勢力を着実に拡大していった 29 。これらの大規模な対外軍事行動は、義里が統括する安定した家政と盤石な財政基盤、そして滞りのない兵站供給によって支えられていたことは想像に難くない。
佐竹義里自身の活動を直接示す一次史料、特に彼自身が発給した書状などは、極めて限定的である。「佐竹南家文書」の中に「佐竹義理書状」として1点の存在が確認されているが、その具体的な内容や歴史的意義については、今後の詳細な研究が待たれる。
義里には実子がおらず、甥にあたる佐竹義昭の次男・鶴寿丸を養子として迎えた。この鶴寿丸が、後の佐竹義尚である 31 。宗家からの養子を迎えることで、南家は宗家の血筋を直接受け継ぐこととなり、一門の中でも特に高い家格が保証されることになった。
義里の没年は史料上「不詳」とされており 16 、その最期を正確に特定することは困難である。しかし、甥の佐竹義重が家督を継承した永禄5年(1562年)以降、彼の活動を示す記録が見られなくなることから、この頃までには没したか、あるいは高齢を理由に政務の一線から退いていたと推測される。
佐竹義里の生涯は謎に包まれた部分が多いが、彼が創設した佐竹南家は、その後も佐竹氏の歴史において重要な役割を果たし続け、彼の遺産は形を変えて現代にまで伝えられている。
義里の死後、佐竹宗家は義重の子・義宣の代に、天下分け目の関ヶ原の戦いを迎える。石田三成と親交が深かった義宣は、徳川家康率いる東軍と三成の西軍との間で去就を明確にせず、結果としてこれが家康の怒りを買うことになった。戦後、佐竹氏は常陸水戸54万石という広大な領地を没収され、出羽秋田20万石へと大幅に減転封されるという厳しい処分を受けることとなった 32 。
この佐竹家にとって最大の危機に際しても、義里が創設した南家は宗家に従い、遠く秋田の地へと移った。義里の養子・義尚は早くに亡くなっていたが、その跡を継いだ南家当主(史料には「南義種」などの名が見える)は、秋田藩においても一門筆頭の家臣として重きをなした 35 。南家は、出羽国雄勝郡湯沢に拠点を構え、「湯沢佐竹」とも称される重臣として、秋田藩の藩政を支え続けたのである 1 。これは、初代・義里が築いた南家の功績と高い家格が、苦難の転封後も変わらずに評価されていたことの証左と言えよう。
佐竹義里が後世に遺した最大の遺産は、彼が創設した南家に伝来した膨大な古文書群「佐竹南家文書」であると言っても過言ではない 26 。国文学研究資料館や秋田県公文書館に所蔵されているこの文書群は、近年デジタルアーカイブ化も進められ、多くの研究者が閲覧可能となっている 40 。
特に、江戸時代の天和2年(1682年)から慶応4年(1868年)まで、187年間にわたって書き継がれた公的記録である『佐竹南家日記』は、総数271冊にも及ぶ 1 。この日記には、南家の動向はもとより、秋田藩の藩政、経済、社会、文化、さらには気象に至るまで、ありとあらゆる事象が詳細に記録されており、近世史研究における一級の史料として極めて高い価値を有している。
この南家に残された膨大な記録文書は、単なる偶然の産物ではないだろう。家政・財政という、日々の正確な記録と管理を何よりも必要とする職務を初代当主である義里が担ったこと。その職務の性質が、記録と文書を重視する「組織文化」として南家の家風を形作り、代々の当主へと継承されていった結果と考えることができる。そうであるならば、この貴重な史料群こそ、佐竹義里が南家に、そして後世に遺した、目に見えない最大の遺産であると言えるのかもしれない。
本報告書を通じて、戦国期の武将・佐竹義里の生涯と、彼が果たした歴史的役割について多角的に考察してきた。最後に、その歴史的評価について総括したい。
佐竹義里は、兄・義篤や甥・義昭、義重といった歴代当主が、合戦の指揮官として対外的な勢力拡大に邁進する間、一貫して領国の内政と財政を固めるという、極めて重要でありながらも地道な役割を担った「静かなる功労者」であった。彼の安定した家政運営なくして、佐竹氏が北条氏や伊達氏といった強敵と渡り合い、北関東に覇を唱える戦国大名へと飛躍することは困難であっただろう。
また、義里がその一翼を担った「佐竹三家体制」は、血縁者を活用して宗家の権威を保ちつつも、外交・国内統制・家政という機能別に専門職化を進めた、当時としては先進的な統治モデルであった。これは、戦国期の組織運営を考察する上で、極めて貴重な事例である。佐竹義里は、このシステムの中核をなす「家政」の最高責任者として、佐竹氏の権力構造そのものを設計・運用した人物として再評価されるべきである。
彼の具体的な活動の多くは、史料の制約から今なお謎に包まれている。しかし、彼が創設した佐竹南家に残された膨大な「佐竹南家文書」は、我々に多くのことを語りかけている。この貴重な史料群の更なる読解と分析を通じて、これまで歴史の陰に隠れていた佐竹義里の実像をより鮮明に浮かび上がらせることが、今後の研究に課せられた重要な課題である。